8月雑記

ネット右翼とサブカル民主主義

ネット右翼とサブカル民主主義

 

 もとよりクリエイターの人間性に幻想は持たない人間で、天野喜孝氏や湖川友謙氏はスルーできたものの、貞本義行氏の失言の件には結構なショックを受け、意外と無邪気に貞本エヴァを好きだった自分の足元に気付かされて辛かったので、「なんか2ちゃんのいやなやつ」と長年ぼんやりスルーしてきた、ネット右翼サブカルチャーの関連性にまつわる研究を嫌々読んでいました。

 先駆的な論考っぽい本書は、ネトウヨ中心層を若年世代と見誤るなどの雑駁さを差っ引けば示唆的で、「サブカル右翼なりそこね男による昭和平成サブカルの旅路」と題し、ヤマト世代のオタ当事者感覚が述べられた第2章では、大阪芸大ガイナックス人脈がやっていた『愛國戰隊大日本』の危うさ、かの世代のSFオタクノリが結晶化した初代『マクロス』の軽薄さ、樋口真嗣福井晴敏による『ローレライ』のトンデモぶりなどが整理されており、忘れるべきでない嫌な歴史だなと思います。

 自分が先行世代と距離を感じる一番の要点は「兵器フェティッシュの有無」で、『ガルパン』で回春しているおっさん連中が黙殺してきた『陸上防衛隊まおちゃん』のいたたまれなさに固執し続け、こやまきみこ声で「これじゃ防衛できないよ…」とぼやき続けるオタ自意識はずっとありましたから(?)、「オタクが好きなメカと美少女」の前者に対する違和感が、明確な政治的反感に変容してきた世代感覚は、簡単に割り切れる問題系ではありませんが、一応表明しておきます。

 

歴史修正主義とサブカルチャー (青弓社ライブラリー)

歴史修正主義とサブカルチャー (青弓社ライブラリー)

 

  「市場原理に流されるサブカルチャー化した論壇」を90年代の論壇誌で自己言及的に問題化した大塚英志氏の仕事に言及があり、読者参加企画というマンガ編集者時代に培ったアイデアをも中央公論誌に持ち込んで、「商業的淘汰の適応外になる「特権」の根拠を、商業的手法(読者の参加)によって求めようと」(p.143)した、氏の実践の両義性に関して、再考させられるところがありました。

 本書は右寄り論壇誌の分析なので対象から外れますが、同時期の文芸誌での仕事が笙野頼子氏から「売上げ文学論」と突っ込まれ、大塚氏がのらりくらりと振る舞った一件*1こそ、自分が「批評」の格好悪さと文学の誠実性を印象付けられた読書だったとも振り返られます。

 ITビジネス系の山師に対してはもちろん、オタク業界の構造自体に対しても有効な嫌味を当事者的に発言しうる、という政治的・実践的価値において大塚氏は観測せざるを得ませんが、こと消費文化に圧殺される内面や信仰の問題、作品論にアカデミックな概念を適用することの慎重さ、女性文学ばかり読んでしまう男性性の危機*2などは笙野氏に示唆を受けた人間なので、「日本はもう全部サブカル」という益体のない現実と、それを裏側から照射する原理的思考という、政治と文学の対立を大塚/笙野で捉えてしまう自分の思考の歪さを確認しました。

 

アニメ制作者たちの方法 21世紀のアニメ表現論入門 (Next Creator Book)

アニメ制作者たちの方法 21世紀のアニメ表現論入門 (Next Creator Book)

 

 京都アニメーションとその消費様態に関する苦手意識は、高瀬司氏のけいおん記事*3にも醸成された人間なのですが、今となっては水に流すとして、本書は作画・撮影観点込みの風通しが意識された構成で、最近のアニメ関連の言説配置がすっきり見通しなおせる好著であるがゆえに、こうした雑誌的構成や個別具体レベルの作業に割り込む余地を見出せず、「アニメーションという実在に対して非十全な観念しか所有しえない主体の無力」を凝視して、神秘主義か原理論か、両極端のつまみ食いに嗜癖せざるを得なかった自分の性格の悪さにあらためてへこみました。

 アニメルカに関しても多少は身近で色々聞いてきており、嫌味ったらしくはなりますが、今さら仲良くするのは不可能であるという当事者感覚だけは表明し、明瞭な良き分断を構築できれば十分という考えでして、ポップカルチャー研究がアカデミズムに収斂していく流れ*4に回収されない、非弁証法的な思考や主体の困難にこそ内在しておきたい現状です。

 

あたかも壊れた世界 ―批評的、リアリズム的―

あたかも壊れた世界 ―批評的、リアリズム的―

 

 警官のコード、少女愛のコード、サイボーグのコード、これらとは区別される人形愛のコードを、魔女でも悪魔憑きでもない仕方で体現する主体、これを描き出さない限り、アニメーションにおいても現実においても、人形使いと自由な人形たちのコントロール社会はそのイノセンスを誇り続けるであろう。

(p.74 「人形使いに対する態度――公安九課バトーと中山正巡査」

 人形愛と管理社会論を妖艶に接続する『イノセンス』論と、20世紀的なサイボーグ表象文化の外部を開く作品として『鋼の錬金術師』を位置づける論に続いて、「寄生生物と生殖細胞の関連」という既存理論に回収できない問題系において『寄生獣』を考察する論考を据えた構成が極めて刺激的で、結局は細胞レベルで侵蝕されたような人工身体に対する性的固着を、性と身体にまつわる理論的な非決定性で贖うことで、辛うじて本を読めている自分の足元を確認させられました。

 …以上のような空気の中で、多くの人は秘かに、こう思いたがっている。すなわち、いまや異性愛有性生殖も反-自然化しクィア化してきたからには、過去の批判はすべて免れているのだ、とである。いまや異性愛有性生殖は、政治的にも倫理的にも、恥じることのない、恥じてはならない、光と影に彩られる先端的な営みなのだ、とである。かつては、それが有性生殖に向かわず不毛であるということで同性愛は反自然的と評されてきたとするなら、いまや、同性愛をはじめ異例な性こそが自然なのであり、異性愛こそがバイオ化・テクノ化することでクィア化しているのであって、かつてクィアに向けられた肯定論は、そっくりそのまま、すべて異性愛に使い回せるのである、とである。いまや、異性愛者は臆するところがない。

(p.109 「No Sex, No Future ――異性愛のバイオ化・クィア化を夢みることについて」)

 

批評について: 芸術批評の哲学

批評について: 芸術批評の哲学

 

 分析哲学系の文章に色気を感じない(あるいは思考と欲望を整然と分割するような厳格さに馴染めない)、という単純極まる感性的傾向があり、大陸哲学に食傷してから読むべき領域なのでしょうが、本書は批判対象を藁人形的に単純化した論の粗さに引っ掛かりも多く、全体的には真っ当でも説得されるに十分ではない批評観でした。

 それでも、本書で主に説明される狭義の芸術批評からは終章で区別された、異なる芸術カテゴリーを横断し、(例えば新聞マンガ作品と文学作品とを)社会的・文化的重要性の次元で比較衡量するような「文化批評」的思考に要求される、文化全般に関する「市民」的な良識は(それこそ漫画文化の当事者として市場原理への適応に倫理を見る大塚氏と、文学至上主義を作品内外貫いて苛烈に擁護する笙野氏との対立とも関連して)、個人的に肝に銘じておきたい論点でした。

 

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

 

  「オタク」的な来歴を元手にしたアイデンティティ・ポリティクスは、少なくとも今のSNSで行うのは危険極まりなく、その情念を作品や表現の次元で、批評ではなく文学的な実践として貫徹しなければ、日本語圏インターネットで何かを発信する気にはなれなかった、というのが本音です。

 ざっくり本書を貫いている、アイデンティティ(民主主義)とシティズンシップ(自由主義)という対立項が、シュミットに倣って克服不可能とするならば、「市民」概念の空虚さを受け容れた上で、恥に満ちた実存の表現を良き分断にのみ奉仕させ、顔の無い社会のゴミとして非決定性の煉獄を享楽していく以外に、取りうる立場が見出せない現状になります。

 

〈自閉症学〉のすすめ:オーティズム・スタディーズの時代

〈自閉症学〉のすすめ:オーティズム・スタディーズの時代

 

 神経症的な過剰接続にも、分裂症的な思考の混乱にも疲れた後は、あえて言えば自閉症的な主体として生きざるを得ませんが、厳密な当事者性は無く、発達障害概念に回収されるのも癪で、DSMや投薬精神医療自体に疑念が強い立場としては、そろそろ中井久夫とかをちゃんと読もうと思いました。

 

終りの日々

終りの日々

 

 現代日本に対する愚痴とフランスへの憧憬が、同語反復的に延々と繰り返される晩年の日記で、ファンとしては「おいたわしや」の一語ながら、せめて真面目な信仰のある国に生まれたかったのは事実ですから、苦笑すらできない嫌な切迫感を覚えました。

*1:徹底抗戦!文士の森

*2:文藝 2007年 11月号 [雑誌]

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*3:https://web.archive.org/web/20100804023555/d.hatena.ne.jp/ill_critiqueなど

すみません、久々に読んだら単に反アニさん時代の文章が嫌いなだけでした。今更何、感じ悪、という話ですが、氏が代表していたような、オタクの悪ふざけと下ネタを軽薄かつ権威主義的な人文ノリで垂れ流す「ゼロ年代批評」的なアニメブログに対する嘔吐感こそ、今の我々が率先して抑圧している記憶かと思います。界隈とは距離があったとはいえ、私も当事者の一人ですから、ここらの最悪なネット言説潮流をもぼんやり批判・相対化してくれただけでも「日本は多少マシになった」と、ポリティカル・コレクトネス概念の輸入も根本では感謝しています。当時の書き手が表舞台に移行して、こうした歴史が忘れ去られるような昨今、かの時代の気色悪さが青春のトラウマになっている自分としては、遅ればせながら自らの身を持って、当時アニメを見過ぎていた人間精神の錯乱を消化しておかなければ、批評という概念もアニメ研究という領域すらも、信ずるに値する世界とは思えないわけです。

*4:宮本大人+ヤマダトモコ対談 マンガ批評とマンガ研究の結節点(前編) ――伝説の「漫画史研究会」とは何だったのか | マンガ・アニメ3.0」参照