おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

覚え書 - ポップカルチャーの唯物論的無神論に向けて

 ジャン・メリエ司祭の『遺言書』あるいは『覚え書』にあやかって*1、長めのメモを残します。

§1 戦いから祈りへ

 戦争に参加した哲学者が、生還して何を為したかが重要である。ソクラテスは、いかに善く生きるかを、デカルトは、いかに魂を鍛えるかを、ウィトゲンシュタインは、いかに祈るかを考えたのである。とくにデカルトは、戦争について声高に論ずることはなかったが、哲学だけが戦争や宗派(党派)闘争を終焉させることができると宣言していた。もちろん、哲学が何か巧妙な処方箋を提示するわけではない。しかし、哲学が一切の処方箋に背を向けるその仕方が、戦争や革命の悲劇を防いできたし、現に今も防いでいるのである。 かかる哲学の力を学び直す時である。

 

 同様にして、〈老人〉や〈若者〉に学ぶことができよう。人間として知るべきことは、生き残ることと殺さないこと以外にはありえない。人間は、そのことさえ知っていれば足りる。ところで、〈老人〉は、生き残ることの善さと殺すことの罪をすでに知っている。そして〈若者〉もおぼろげにそれを弁えている。だから〈老人〉や〈若者〉にとって、それ以上知るに値すること、それ以上に為すべきことは何もないのである。実際、戦争について証言する責務や、戦争について学識を積む責務などあるはずがない。戦争や革命について考える義務も、それに反対する義務も賛成する義務もないのである。むしろ、そのような責務や義務を前提とする思想や制度こそが、悲劇や惨劇を引き起こしてきたのである。よって、〈老人〉の沈黙と〈若者〉の無関心は、無条件に善である。

 

(はしがき ii-iii 強調引用者)

 前回の補足を。すでに小泉義之氏は初単著『兵士デカルト』において、世俗的公共体から背を向けることの意味と価値を強調しています。

 私は三〇歳になって〈若者〉ではなくなりましたが、一向に〈大人〉の責務を果たす気は起きません。世は市民という名の〈大人〉で満ち、公共性概念を非歴史的かつ無批判に使用する学者で満ち、傍観者たる〈大人〉の疚しさに発する統治の指嗾で満ちているためです。

 戦争や革命に実践的に関与することのない傍観者が、戦争や革命に対する共感や反感を通して、その帰趨を決し、さらにはその歴史的意義をも決するという思想は、カントの歴史哲学に由来している。そしてこの思想は、近代民主制国家が遂行する戦争にきわめて適合的である。ところで、戦争や革命が世界の演劇であるとすれば、傍観者はそれを眺めて喜ぶであろう。傍観者は、悲劇を眺めて悲しむことはあるが、それを眺めて認識して評論することを喜ぶであろう。だから傍観者は、常に惨劇を待ち望み、常に活動家の死を期待するであろう。カントに始まる近代とは、そんな卑しい傍観者に溢れた時代なのである。(p.2)

 そのような傍観者が味わっている〈悲劇の快〉から距離を置き、つまり相対的・世俗的な価値判断を留保して、「政治」範疇を分泌する思考の水準そのものを、当ブログは問い続けることにします。

 いやらしく言った「メタ政治」的なこの立場に、大して読まれない限りで開き直らせてください。流通しづらい個人ブログですが、noteへの移行も注の入れづらさで諦めました。

 

§2 〈統計学超自我〉再見

 当アカウントは、私の思春期の大切だった何か(昔書いたラノベとか)を垂れ流し、インターネットに傍観者ではなく生活者として参加することで、21世紀文化への適応を目指しています。

 特に適応が遅れた領域はYouTube、遡ってニコニコ動画ほかの動画サイトです。その理由は、深夜アニメと読書に関心を絞ってなお余暇が足りなかったこと以上に、自他の欲望を精神分析の知で解釈することの困難と、それゆえに現代ラカン派が言う〈統計学超自我〉に恐怖していたことが挙げられます()。

  松本卓也『享楽社会論』は、同書のパースペクティヴ全体を方向づけたふたつの先行研究として、00年代初頭の東浩紀氏・斎藤環氏による「象徴界の衰退」にまつわる議論と、立木康介氏が現代人のセクシュアリティの変容を「露出」の観点から論じた議論とを重視しています(p.15)。

 後者が紹介した概念である、フロイト大義派マリー=エレーヌ・ブルース曰くの〈統計学超自我〉とは、神経症的な症状と象徴的同一化の対象を失った現代の彷徨える主体が、ガウス分布の中央値=一般的な平均値に過剰な同一化を行うことで、排除された〈父の名〉が諸々の数値に支えられた社会的規範として回帰するという「鉄の秩序」であり、それは数の専制によって「破滅的退廃」をもたらすものと表現されます。それに翻弄される「彷徨える主体」の具体的な記述は、例えば以下のようなものです。

 メルマンによれば、私たちはアドレサンどころか、そしてもはや子どもですらなく、乳児化している(!)のである。私はこの指摘にいささかも驚かないし、これがたんなるメタファーであるとも思わない。なぜなら私は思い出すからだ――数年前の九月、いまやすっかり恒例となったパリのテクノ・パレードの日に、一台のシャール(DJやダンサーを乗せて大音響を発しながら進むトラック)に連なってサン・ミッシェル大通りを練り歩くアドレサンの群れのなかに、ジーンズにサングラスといういでたちで、口に「おしゃぶり」をくわえた少年を見つけ、ファッションという名の文化的退行もついにここまできたのかと独りごちたことを! あれが、あれこそが、おそらく今日のセクシュアリティの実像なのだ。メルマンの語る「乳児化」を、私たちはだから文字どおり・・・・・受けとらねばならない。

 

立木康介『露出せよ、と現代文明は言う: 「心の闇」の喪失と精神分析』p.90)

 いささか滑稽なまでに情動的、かつ傍観者の驚嘆にすぎない箇所を恣意的に引きましたが、まさしく松本氏は立木氏の議論を整理して、「幼児期の性欲がインセスト(近親相姦)のタブーによって断念された結果として生み出される欠如[…]によって規定されるセクシュアリティの代わりに現代に登場したのは、享楽の「露出」である。たとえば、いまや誰もが、手軽なSNSサービスのなかで自らの心情を吐露し、隠しておくべき内密な事柄をいとも簡単に外部に露出させている。それと並行して、耳にはイヤホンを、目にはVRゴーグルを、口にはおしゃぶりをつけて、お気に入りの対象をつねに享受しつづけるような、「何が何でも享楽する」主体のあり方が目立つようになってきた」と、幼児的な他者を現状認識のモデルに据えています(p.18)。 

 こうして、「不可能な享楽」は「エンジョイ」になり、〈父〉はデータの番人へと置き換えられた。現代の私たちは、後者による徹底的な制御のもとで、前者の「エンジョイ」としての享楽の過剰な強制――「享楽せよ! Jouis!」という超自我の命令――によって、そして、その結果として消費されるさまざまなガジェットがもたらす依存症的な享楽によって慰められながら、徐々に窒息させられつつあるのではないだろうか。

 

 だとすれば、そこから抜け出すことはいかにして可能なのだろうか?

 

松本卓也『享楽社会論』p.20)

 あたかも幼稚な快楽で大衆を平板化する情報社会とは抜け出すべき「牢獄」であり、その「外部」を我が専門知が切り開くのである、と喧伝したくてたまらない〈大学人の言説〉自体を、批判する気は起きません。

 そのサンプルとして批判するには下品すぎて気が引けますし、なによりも、引用箇所は下品さを貫徹する以外には意味を持たないアジテーションだと判断されるためです。

 今読み返すと、臨床から離れた政治的ラカン解釈を是とするにせよ、それが幼児的な他者への嘲笑を前提とするならば、ラカンを(自己)臨床的につまみ食いした私のような大衆は乗り切れない、というだけの話です。それゆえに、アジテーションとしての有効性にすら疑問符は付きますが*2

 

§3 怖るべき囚人

 私は精神分析のセッションを受ける金も気概もないわりに、母子家庭育ちで継父に継子いじめを受けた過去のためか、半端な〈父〉を気取る言説*3を徹底して軽蔑しなければ気が済まない倒錯者です。これが過剰な反発である可能性が高いことは強調します。

 それでも、統計学的にのみ制御される「欠如なき享楽の主体」で一体何が悪いのか、と反問する契機は残しておきたいのです*4

プラトンの描いたソクラテスは、牢獄から脱獄するにせよ脱獄しないにせよ、牢獄の中にいるのに法廷内で弁論するかのように思考して、自分の選択の理由を案出していた。このような囚人は模範的な囚人である。これに対して牢獄でも安楽に振る舞う囚人は、怖るべき囚人である。もとより具体例を念頭に置くなら、それは悲しむべき事態であるかもしれないから、そのような囚人を肯定することはためらわれるかもしれない。実際、フーコーは次のように書いていた。

 

「監禁制度の形成が完了する時期をもしも決定しなければならない場合、[…]メトレーの少年施設の正式な開設の日付である、一八四〇年一月二十二日だ。いや多分もっと適切なのは、メトレー施設の或る少年が臨終の苦しみの中で「こんなにも早々とこのコロニーに別れなければならないとは何と悲しい」と言ったという、日付のない栄光の日だ」。*5


 ここでフーコーは、少年は偽りの快楽に欺かれていたと評価している。そして監視と処罰の権力が完成するのは、監禁制度が偽りの快楽を生産する力を獲得した時であると考えている。[…]しかしフーコーは一面的であったと思う。施設の外にいる者は、少なくとも一度は、少年の安楽を真の快楽と捉えるべきではないのか。囲い込まれても快楽を享受できる少年の力を、人間の真の栄光として讃えるべきではないのか。ソクラテス的囚人ではなくストア的囚人を讃える思想こそが、刑罰制度の本質的な部分を骨抜きにして、逆にそのことで牢獄の中の現状と牢獄の外の現実を批判する力を発揮するのではないか。

 

小泉義之『兵士デカルト』p.37-38 強調引用者)

 この引用は、デカルト方法序説』第三部第三格率「世界の秩序よりは自己の欲望を変えるよう努めること」というストア的断念に基づく道徳論を、発展的に注釈したものです*6

 当ブログは、概ね「模範的な囚人」を演じてきました。資本主義という「牢獄」に囚われている自覚を、他者に要求する囚人であったとすら言えます。この囚人の不愉快な傲慢さに、私自身が耐えきれなくなりました。

 以上を吟味すれば、今後の私は平面磁界駆動の高級Bluetoothヘッドホンを耳に被せ、VRエロゲを起動させたPCとAir Linkで無線接続されたOculus Quest 2で両目を覆い、(バーチャル授乳用のおしゃぶりを買う覚悟が無いので)〈父〉に対する薄ら笑いを口の端に浮かべた〈怖るべき囚人〉として、語るべきだと思われます。

 

§4 力学的崇高の主体

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 他のラカン概念以上に〈統計学超自我〉が脳裏から離れなかったのは、YouTubeなどの動画サイトにおけるコンテンツの質的比較がほとんど意味をなさない「再生数」「登録者数」の単なる膨大さ、供給され続ける美少女コンテンツにおける「キャラクター数」の単なる膨大さ、検査方法の是非も分からず日々報道される「感染者数」の単なる膨大さ、などに参っていたためです。 

 これは概念の濫用であり、他者の集塊を集団心理学の構えで忌避する傍観者の愚鈍、あるいは統治者における人口論の眼差しと変わるところがありません。それゆえ、あらゆる数値が日に日にバグっていく感覚に立ち往生した「囚人」が、どういう構えを取るべきか、再考を迫られています。

 この点で、リオタールのポストモダン論の再検討が基調をなす現代思想の特集号を眺めた際、またもや小泉氏の論考に示唆を受けました(小泉義之「崇高な環境の大きな物語」)。

 小泉氏は、リオタールが科学(学知)を正当化する物語(ナラティヴ)への不信感が蔓延した状況をポストモダンと表現し、なお大衆の信頼に足る物語知と大学機関の必要を訴えた次第を確認したうえで、ここから巷間言われるマスターナラティヴ=「大きな物語」の不在とは虚偽意識であり、まさしく1980年代に始まった環境ナラティヴこそ、圧倒的多数の人間が宗教的なまでに信憑するマスターナラティヴとして君臨し続けていることを指摘しています。

 そしてこの経緯は、リオタールが手がけた物語知の一つであるカント崇高論の再版であり、その所以は、自然の猛威に対して文明人が安全な場所から抱く畏怖の感情、すなわち力学的崇高が、「私たち」=人類の類的人間としての尊厳を回復する次第にあるとします。

自然が直感的判断にあって、私たちに対してどのような威力をも有さない勢力と見られるとき、その自然は力学的に崇高・・・・・・なのである。[…]

 

 絶壁をなして張りでている、いわば威嚇するような岸壁、天空に聳え立つ雷雲が、閃光と雷鳴とともに近づいてくるさま、[…]私たちはこれらの対象をすすんで崇高なものと名づけるとはいえ、それは、くだんの対象がたましいの強さをその尋常な尺度を超えて高め、私たちのうちにある、まったく別種の抵抗する能力を発見させるからである。この能力が私たちに勇気を与え、自然の見かけ上の全能と肩をならべうるようにさせるのである。

 

(「第二章 崇高なものの分析論/§28 勢力としての自然について」カント『判断力批判熊野純彦訳、作品社、p.204-206)

自然における崇高なものの感情は、じぶん自身の使命に対する尊敬であり、この尊敬を私たちは自然のなんらかの客体について、ある種のすり替えをつうじて(じぶんの主観のうちにある人間性の理念への尊敬を、客体への尊敬と取りちがえることで)証示することになる。

 

(「第二章 崇高なものの分析論/§27 崇高なものの判定にさいしての適意の質について」同上、p.199)

 崇高の感情は、神に対する畏怖の感情の世俗版である。言いかえるなら、神即自然に対するそれである。「私たち」が、神即自然を前に恐れるのではなく、それを恐るべきものとして畏怖するのは、「私たち」が安全を保証されていると感じ、しかも「私たち」が、神即自然による裁きを前に無垢であり有徳であると確信しているからである。そして、あたかもフォイエルバッハを先取りするかのように、カントは、その神即自然に対する畏怖は、実は、類的人間の使命と能力に対する崇高の感情であると言ってみせる。こうして、「私たち」は、神即自然と類的人間の大きな物語を深く信憑し、大学の学知だけではなく知=権力の大半を正当化し、まさにポスト・近代=モダンに願をかけているのである。

 

小泉義之「崇高な環境の大きな物語」『現代思想 2021年6月号』p.48)

 これが§1で触れた「傍観者」における〈悲劇の快〉の内実であり、生殖未来主義批判(「類としての人間の生殖」)と同型に、端的な「時代精神」の在り処を指摘した議論と言えます。

 石川義正氏もまた、力学的崇高にもとづく思考そのものが潜勢力を消尽させ、文学において役割を終えたという蓋然性への予期を語っています*7。「ただ人間だけが・・・・・・・崇高なる感情を懐くことができる」*8、「力学的崇高において人間の「判断力」は動物(自然)から分かたれる」*9、と。

 ところで、私が先に列挙した「統計学的」に「崇高な感情」の具体例は、(1)映像文化の生態系に対する畏怖、(2)キャラクター文化に対する畏怖、(3)ウイルスという自然に対する畏怖でした。

 (3)は力学的崇高の図式が十全に当てはまるゆえ、沈黙するべき事柄です。以下は(1)と(2)について、何が言えるかを探ってみます。

 

§5 超越論的吐き気🤮そのものを嘔吐すること

 立木氏による〈統計学超自我〉の議論がリアリティを失わない理由は、20世紀の主体とは区別される21世紀のネオ主体の享楽を図式化した「表象芸術から提示芸術へ」「隠喩・置き換え(メタファー) から換喩・羅列(メトニミー)へ」という図式が非常に便利でもっともらしく、ポップカルチャーにおいて「その向こうに何もないイマージュ」に耽溺する私の作品経験とも符合するためです。

 ただ、立木氏の議論は現代文明の「破滅的退廃」という(精神分析=科学知を正当化する)物語知に魅了された節が強く、返す刀で「精神分析の死」という物語知が流通するのも宜なるかな、と思わせます。もとより詳細な検討は無理ですから、この「破滅的退廃」を肯定的に物語る構えを、代わって崇高論の展開に確認したいのです。

 カントの力学的崇高が「力にあって限定を超越する」のに対して、数学的崇高は「大きさにおいて境界が存在」しないことをいう。カントは数学的崇高における構想力のはたらきを「捕捉」と「総括」の二つの作用に分類している。無限に進行しうる捕捉に対して、総括は「捕捉が先きへ進むにつれてますます困難になり、間もなくその最大限度に――換言すれば、量的判定に対する美学的に最大の基本的尺度に達してしまう」。たとえば「地球の直径を捕捉することは可能であるが、しかしこれを構想力の直感において総括することは不可能である」。ここでの総括は論理的な統一ではなく、概念なしの主観的な統一を意味する。この「美的総括」の不可能性によってわたしたちは数学的崇高を体感するのである。

 

( 石川義正『政治的動物』p.41-42)

 さしあたっては換喩的と言うしかない文化的存在者の生成を、例えば190人のアイドルを、1万3000人のVTuberを、あるいはがうる・ぐら氏の登録者数を見るに320万人程度と思しきVTuberの観客の実践を、美的に総括することは不可能であり、その呈示不可能な無際限性において、(1)(2)は数学的崇高として感受されていることになります。

 石川氏の場合、「平等ならざる者同士の基盤的な平等が存在するという感性的確信」を裏付けるべく、「すべての事物を共約的にするような、すべての事物に共有される唯一の性質」として、ヘーゲルの〈悪無限〉をこの数学的崇高に重ねることで、ハイデガーの〈世界窮乏〉ともアガンベンの〈剥き出しの生〉とも袂を分かち、実定的で肯定的な未知の実在として、隠喩を超過する「形象」としての〈動物〉を語ったのでした。

 立木氏の「隠喩/換喩」という対立項を斥けるには、石川氏の議論しか無いという直感はあるものの、到底要約できない難解さです。よって、石川氏の引く宮崎裕助氏が、数学的崇高の呈示不可能性の彼方にある吐き気・・・という「パラサブライム(parasublime)」の感情を、崇高(sublime)論の臨界点に位置づけた議論のみ紹介させてください。

 宮崎裕助によれば、数学的崇高の延長線上にある「呈示不可能性の限界的呈示としての「崇高なもの」の向こう側に「途方もないもの」というたんなる・・・・呈示不可能性の契機」が存在している。「たんなる」というのは「すべてではない」のような否定的なかたちですら・・・もはや定義されることがない呈示不可能性の謂である。そうした数学的崇高における「途方もないもの」の形象が『判断力批判』のべつの箇所にみられる「吐き気をもよおさせるような醜さ」*10なのである。

 

(石川義正『政治的動物』p.44)

[バタイユクリステヴァ、メニングハウスらの先行研究における]「吐き気」にまつわる感情や表象の分類や転用は、権利上際限のない企てとなるほかはない。この企ては、醜いもののインフレーションを、相対的なアブジェクションの氾濫をもたらし、つまるところ、絶対的な「吐き気」の排除――吐き気そのものの吐き出し――に行きつくよう思われる。

 

 それゆえ、最後のアポリア。この「吐き気」が最終的に吐き出すもの、それは、当の吐き気が吐き出すところのもの、吐き気をもよおすものそれ自身を絶対的に表象不可能なものとして維持する可能性である。[…]

 

  吐き気は、いわば「超越論的な吐き気」としてその絶対的な否定的感情の極によって定義されながら、他方ではつねにひとつの享受として、特定の感情として現れざるをえない。吐き気の究極的な対象は、まさにそのような絶対的な否定性の極そのものなのである。かくして「吐き気」はつねにあらためて、相対的で個別的で特定の否定的な感情として、吐き気とは別のものが入り混じった不純な感情の数々として回帰する――不快である。不安である。気持ちが悪い。気色が悪い。気味が悪い。うっとうしい。おぞましい。厭悪する。忌み嫌う。嫌忌する。忌避する。嫌気がさす。反感を覚える。疎んじる。うんざりする。気に入らない。気に食わない。鼻持ちがならない。胸糞が悪い。悪心がする。むかむかする。むかつく。キモい。ウザい。キショい。唾棄する。反吐が出る。虫酸が走る――等々。

 

(宮崎裕助『判断と崇高』p.146-147)

 不定形の不快を形式の快へと内化する表象の弁証法的作用たる「崇高」の論理を拒絶する、絶対的に形式化不可能な〈怪物的なもの〉としての「超越論的吐き気」とは、主観的には「吐き気とは別のものが入り混じった不純な感情」として享受されることで、「崇高」が「差別」に変貌する機制を示唆するものです。

 例えば320万人の観客が一斉に「てぇてぇ」と絶叫する時、崇高は否応なく「不純な感情」に転ずるでしょうが、言いながら私はVTuberの配信を全然見ていないし、そんなことが起こるはずもないので、こういう例示自体が悪しき大衆差別ですね……。

 言い換えれば、イーロン・マスク輿水幸子氏を享楽した際、「Anime🤮」と嘔吐した女性に「White women🤮」と嘔吐したインセルを哄笑する主体🤮()すらも嘔吐すること🤮は、「不純な感情」に満ちたアブジェクション(おぞましいもの)の氾濫が行き着く、絶対的で無情動な「吐き気そのもの」に近似すると思われます。

 🤮(Internet🤮(White women🤮( Anime🤮(イーロン×幸子))))です(?)。

 また、この「超越論的吐き気」そのものを吐き出す、言語の自己免疫疾患として笙野頼子作品を捉える観点があります*11。私は「笙野頼子を読んだあとでいかにオタであるべきか」という問いに長年憑かれており、そのように物を書ければと願っていますが、他日を期すべき論点です。

 補足すれば、宮崎氏は「すべての社会からの離脱もなにか崇高なものとみなされる」*12から続く一節に、「あらゆる感覚に開かれることでむしろ最も研ぎ澄まされた無感覚として現れてくる冷醒さ、静謐にして晴朗でさえあるような「吐き気」」*13を見ています。

通常それに向かう素質が齢を重ねるにつれて多くの善良な人間の心になじんでくる一種の(きわめて非本来的にそう呼ばれているが)離人症[人間嫌い]があるが、これは好意・・にかんしては十分に博愛的であるものの、長年にわたる哀しい経験によって、人間にたいする適意・・からはるかに遠ざかっているのであり、隠遁への性癖、人里離れた所領地で暮らそうという空想的願望、あるいはまた(若い人々の場合に)ロビンソン・クルーソー風の小説家や詩人がうまく利用することを知っているような、他の人々に知られていない島で少数の家族とともに自分の生涯を送ることができたらという夢見られた幸福は、こうした種類の離人症を証拠立てるのである。虚偽や、忘恩や、不正や、われわれ自身が重要で重大とみなしている諸目的でありながら、それらを追求するさいに人間自身がおよそ考えられるあらゆる禍いを互いに加えあうといった、子供じみた事柄は、人間が意欲しさえすればそうなることができるものの理念とまったく矛盾し、人間をより善いものとみたい生き生きした願望にまったく対立しているから、人間を愛することができないのでせめて人間を憎まないために、一切の社会的な喜びを断念することが小さな犠牲にすぎないようにみえるのである。この哀しみを[…]人間は人間自身に対して加える[…]。「そこには一種の味気ない哀しみが支配している」。

 

「第二章 崇高なものの分析論/直感的な反省的判断の究明に対する一般的註解」カント『判断力批判』(作品社版 p.228-9、訳文は宮崎裕助『判断と崇高』p.150より)

 「味気のないもの=無趣味なものという美的なもののゼロ度にあってもなお、かろうじて漂っているミニマルな感情としての哀しみ」*14。これが〈無情動な吐き気〉であり、「崇高の主体」という傍観者(§1)の徳と言うべきものかもしれません。

 

§6 「日本のポストモダニティ」の生政治的解釈?

 本稿の身振りは、侮蔑的に「ポストモダン右派」と表現可能でしょうか。ロシアのポストモダン右翼として最近よく紹介を見かけるアレクサンドル・ドゥーギンは、近代と超近代の移行期を生きる〈根源的主体〉を準備する主体性を、「シミュラークルに呑み込まれたスキゾ的大衆」のように「虚無を記号で覆い隠そうとするのではなく、虚無それ自体を貪り尽くし蕩尽する革命家」と位置付けているそうです*15

 アンドリュー・カルプ『ダーク・ドゥルーズ』()に先駆けて、革命の夢を留め置くために「虚無」と「蕩尽」を強調する路線と見えます。本稿は革命の問いを脇に置き(§1)、それを「囚人」の現実に踏みとどまって語ってみたいのです。

 つまり「虚無」の「蕩尽」とは、傍観者たる崇高の主体の〈無情動な吐き気〉において生きられる側面と(§5)、そのような「模範的な囚人」である以前に〈怖るべき囚人〉(§3)として生きてしまう側面を相含み込んでいる、と主張させてください。

 後者の次元を検討する取っ掛かりとして、石岡良治氏の論考を少し見ます*16。不勉強で全体の含意は汲めませんでしたが、大枠、「一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもの」というボードレール以来のモデルニテ概念の水準から、マンガ・アニメにおける比喩形象(フィギュール)を問うものです。

 この問題設定は、柄谷行人氏が『批評空間』時代にカルスタ・ポスコロ揶揄の流れで同時代性を切断して発生した間隙を、大塚英志氏・東浩紀氏らのサブカル批評が縫った歴史を確認した上で、そもそも柄谷氏にはフーコー『言葉と物』と対照して「生命」の問いが脱落している、という指摘に、支えられているよう見えます。末尾の注において、「「日本のポストモダニティ」における生命の問いはアガンベン『開かれ』「第3章 スノッブ」から再び始められるべきだろう」と示唆しているためです。

 指示された箇所では「コジェーヴによる〈アメリカ流の生活様式〉と日本的スノビズムが生政治の観点から考察」されています。これは『動物化するポストモダン』の欠落を埋める指摘として読めるでしょうか。私は動ポモにおけるコジェーヴ引用の雑駁さに対する疑問からフレンチセオリーを読み始め、この論点を深化させた議論を常々求めているので、歓迎すべき記述です。

 しかし、であれば拾うべきは、アガンベンが「第19章 無為」でティツィアーノ『ニンフと牧童』に込めたバタイユ的な含意であると思われます。

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ローナ・ゴフェンがバタイユのマネ論を引用しつつ指摘するとおり、[…]「絵はそのテクストを抹消しているのであり、絵の意味は、絵の背後にあるテクストのなかではなく、むしろテクストの抹消そのもの」(Goffen 1997)にこそ求められるべきなのだろう。つまり、作品たることを否定する作品、作品を解体する作品=無為の作品(œuvre désœuvré)として、このタブローを眺めてみる必要があるのだ。

 

[…]すでに笛(男根ファルスのメタファー)を吹き終わった彼らは、気怠いまどろみのなかで性の享楽の余韻にひたるばかりで、たがいのコミュニケーションは実を結ぶことがないように見える。[…]アガンベンは、この恋人たちに、ありうべき無為の共同体の痕跡を見てとるのである。二人はたがいに寄り添っているようにも、あるいは、(とりわけニュンフは)相手のことにまったく無関心であるようにも見える。二人のあいだのこの微妙な距離感、この「接近不可能性」にこそ、アガンベンは、彼らの贖われることのない無為と無知の「開かれ」を見るのである。「あたかも彼らのうちに、彼ら二人のあいだに、死が横たわっているかのように、彼らは永遠に隔てられているというのだろうか。いや、隔てられてもいなければ引き裂かれてもいない。ただ、たがいに近づきえないものとして、近づきえないもののうちで、無限の関係を保っているのだ。」

 

[…]アガンベンの興味はむしろ、ニュンフと牧童の愛と至福の生をめぐるテーマ、[…]「恋人たちの共同体」というバタイユ的着想へと収斂していくことになる。「恋人たち」は、バタイユのいう「用途なき否定性=無職の否定性(negativité sans emploi)」として、つまり、無為にして無活動な「残余」として、歴史を締めくくる「エピローグ」に臨むのである。

 

(多賀健太郎「解題 救われざる生の残余」アガンベン『開かれ』p184-185)

 私はこの絵画に形象化された〈恋人たちの共同体〉を、キャラクター文化に生きることの形而上学的条件として読み替えることで、「歴史の終焉」という物語をも肯っています。

 しかし――吐き気が、「不純な感情」が回帰します。柿本昭人『アウシュビッツの〈回教徒〉』などのアガンベン批判を想起するだけではありません。かねてよりアガンベンの思弁性は、まさしく「崇高」の美学と接する身振りであると指摘されてきたそうです(アガンベン p.222)。アガンベンにせよナンシーにせよ、「生の崇高化」という論点に限って言えば、バタイユを中性的に洗練させるその身振りに、違和感が拭えないのです。

 生政治論へのバトンタッチに立ち止まる石岡氏は、どこか及び腰に見えます。生政治論の〈剥き出しの生〉という形象で、私達の動物的な諸部分を崇高化したいように見えます。なぜ生政治論に潜勢力として「囲い込まれた」バタイユ唯物論へと、潔く退行しないのでしょうか *17

 理論家は、こう言いたがっているように見えます。現代日本ポップカルチャーの諸領域は、いずれも美的に総括不可能である。それは第二の自然のように崇高である。そこに生きる「オタク」的な他者とは、無為を生きる「動物」である。それらは現代のマスターナラティヴである環境ナラティヴと生殖ナラティヴの枠内で、「生命」として肯定する以外に道はないのである、と。

 なべて理論家が「動物(自然)から分かたれる」力学的崇高の判断力に留まるならば、その学知を正当化する究極の物語知が「環境と生殖」以外に求められることはないでしょう。サブカル批評がそれでよいなら、別に構いませんが。

 この趨勢の欺瞞性に対する怒りを忘れる気はありませんが、今はその激情も〈無情動な吐き気〉のように凪いでいます。

 

§7 実存者から実存へ 

 以上の作業で、(1)YouTubeに代表される映像文化、(2)供給され続ける美少女コンテンツ、あるいは美的にも政治的にもナンセンスさを増すばかりに見える時代の感性を*18、崇高論/生政治論の構えや自然/生命の原理で無条件に肯定したい気持ちを抑え、それらの理論が囲い込んで飼い馴らしているバタイユ唯物論を積極的に採用してこそ、〈怖るべき囚人〉が生きている「虚無」や「蕩尽」を肯定的に語りうることの根拠を、説得的に示せたでしょうか……?

 最近、中年男性の自我の喪失、という冗談が染みます。目的のない生存が訪れることに、若い頃は想像が及びませんでした。この「虚無」の構造を価値的に表現するために、「実存主義から経済学の優位へ」というバタイユのテキストを参照させてください*19

 石川学氏によると*20、そこでバタイユサルトル「新しい神秘家」の『内的経験』批判の核心である「無の実体化」に対して、なお「個別的な実体の消滅が無の普遍性を際立たせる」ことを強調する反批判を行っています。レヴィナスとは逆向きに「実存者から実存へ」、個別的存在が普遍的存在に溶解していくことの意味と価値を語っています。

[...]深遠な主体性の経験には、つねにひとつの条件がある。その経験を担い取る者を破壊する、という条件である。[...]だが、消滅することを条件に、実存を強烈さのうちに表現する者たちは、彼らが自覚している必然性によって破壊されるわけではない。彼らは、おのれ自身では、何ら普遍的なものに到達してはいないのである。ただ注釈と、彼らの作品が―そして彼らの生が―他者に対して及ぼす影響が、彼らの個別性を、ひとつの普遍になすのである。[...]感情の強烈さが作品を魅惑的なものにするのであり、それが約束しているところの作者の破壊を通じて、ひとつの普遍を基礎づけてもいるのだ。*21

 ここでバタイユは、ジャン・ヴァール『「 実存主義」小史』(Petite histoire de « l’Existentialisme »)(1947年)のなかの、ランボーゴッホといった、「あまりの緊迫ゆえに、生き存えることのできない精神」たちについての記述を拠り所としながら、彼らの作品や現実の生が彼らの実存を破滅へと導き、個別性のそうした激烈な消滅がスペクタクルとなることによって、彼ら自身においてではなく、彼らの破滅を眼差す他者たちのうちに、彼らの普遍性が感得可能なものになることを主張している。個別的な主体は、みずからの個別性を類い稀な強度とともに喪失することで、不在となった個別的実存を、普遍的価値として他者たちに伝達する道筋を開くのである。

 

(石川学「無とその力 : ジャン=ポール・サルトル「新しい神秘家」(1943年)以後のジョルジュ・バタイユ」)

 ところで、私が「実存から実存者へ」と生成した契機は、1クール3ヶ月で「嫁」を蕩尽する、という深夜アニメ体験におけるキャラクター存在とオタ生活との裂開に、思考らしき思考が初めて発生したことに遡られます。道を誤って本の虫になりましたが、そもそも私は「絵が描けないオタク」にすぎません。

 私はネット上に日々展開されるスペクタクルを小馬鹿にして、コロナ以前から物理的にも精神的にも籠城を決め込んでいましたが、この歳になると、そのような愚かに見える無数の他者によって、自己と人生の地盤を支えられている事実を、認めざるを得ません。

 つまり、公共的な言葉を尽くさない〈怖るべき囚人〉を、畏怖し、崇高に語る構えは、何かを忘却しているのです。であれば、彼らの戦争に祈りを捧げながら(§1)、それを崇高化せず(§6)、特定の学知と物語知をあわせた真理の体制=神話に回収しないよう(§4)、淡々と「蕩尽」を語るべきだと思われるのです。

 この時代が生み出している精神は、必然的に枯渇する。そして、全身を張り詰めながら、精神はこの枯渇を欲しているのである。神話と神話の可能性は解体する。残るのはただ、巨大な、愛された、悲惨な空虚だけである。神話の不在はおそらくこの地表であり、私の足下で確固としているが、おそらくは、じきにこの地表も崩れ去る。


 神の不在はもはや、閉幕ではない。それは、無限なるものの開幕である。神の不在は神よりも偉大であり、それは神以上に神的である(だから私はもう自己ではなく、自己の不在である。私はこのごまかし(esca-motage)を待ち望んでいたのであり、そして今、限りなく私は陽気だ)。[...]

 

 「夜もまたひとつの太陽である」、そして、 神話の不在もまたひとつの神話である。最も冷徹で、最も純粋で、唯一真なる神話である。

 

バタイユ「神話の不在」『ランスの大聖堂』p.147-149 訳文は石川、同上より)

 

§8 にじさんじ以後の〈恋人たちの共同体〉

 VRエロゲの新作をDLSiteで探した際、前川みく氏とセックスする同人作品()を作った人の新作()をレビューしている萌々嫁もか氏()を把握したところから、エロVTuber切り抜き動画という文化圏を発見したのち、「ウー〇初体験!絶〇までの間、わずか”50”秒!?【vtuber/ますかれーど./切り抜き】」で射精しました。

 Live2Dを被せた電マイキですが、分析系VTuber論の道具立てを借りれば、何か言えるのでしょうか。言ったところで、何なのでしょうか。これが「たすかる」なのでしょうか。電音部で体を揺すり、ナイトシティの街角でポンポンSHITに足を止め、ポスト金田朋子的な周防パトラ氏の「かにぷのうた」を口ずさみながら、あまつさえ名前も覚えていないエロVTuberで助かっている三十路になった、ということですが。

 深夜アニメをモデルとした作品の時間的持続と表象の無垢を信じて、それを支える生身の女性を私は否認してきたと言えます。例えば女性声優の固有名を用いる時、私は声優の肉体ではなく、その固有名と結び付けられた空気の振動、それに喚起されるファンタズムの総体、視聴体験の歴史的な厚みを、圧縮して指示しています。そうした否認を引き裂かれたためか、凹んでいます。

 根を奪われ続ける不安ゆえ、AUGUST謹製『あいりすミスティリア』を始めましたが、DMMゲーで言えば『千年戦争アイギス』を思い出させる骨太なシステムとエロゲオタ感性を安堵させるテキストの手堅さに増した、べっかんこう絵の笑顔の強度が、中華資本美少女ソシャゲの洪水に疲れたところに染みてしまい、クルチャ氏で二度射精しました。

 世代間倫理を気取るつもりはありませんが、思春期にVTuberブームを通過した世代は、私とは全く異なる絶望を生きているに違いないと、常々感嘆しています。

 例えば、受動的ニヒリズムに基づくお寒いオタク啓蒙が「リアリティーショーを批判しているオタクもVTuber見てんじゃん」だったとすれば、VTuber文化に対する能動的ニヒリズムの表現は、夢月ロア騒動*22を受けた「【悲報】夢○ロアさん、方言被りに激怒して大阪府民を虐○してしまうwwwww【みれロアを返して】」に見られます。

 これは兎田ぺこら氏が習近平の肛門を舐め精液を飲み下し、大阪・西成におけるにじさんじオタクの暴動を巡って白井聡氏とジャック・ランシエール氏が対立する渦中にアラン・バディウ氏と数理神学者・落合仁司氏が介入し、佐々木中氏のラップバトルで幕を閉じる何かであり、腹がよじれたことは白状します。

 左派メディア的な紋切り政府批判と人文読書の短絡が、大衆においてジャンク化/ファルス化することの証左でしょうか。『夜戦と永遠』が示唆した神秘主義的/女性的享楽=「神に宛てた恋文」が、このような質料を伴って実践されている重さを、受け止めるべきでしょうか。なんにせよ、「オタク」概念を享楽するスタイルの形成においてはネット文化を相対化するべきであり、人文ホモソーシャル*23だけは作らずに一人で生き続けたいものです。

 執筆時にはBANされていますが、うごくちゃん氏の斉藤さん動画を愛好していました。 死去の後に知ったのと、動画サムネに『プリパラ』などの二次創作ロリエロ画像を多用する若い女性が自分とは全く別の存在であるのとで、言及しづらい対象ではあります。

 それでも、匿名的な男根に還元された諸主体と、挑発とまなざしに還元された主体との「二人のあいだのこの微妙な距離感」、この「接近不可能性」がひらく「無限の関係」にこそ、決して贖われることのない無為を生きる〈恋人たちの共同体〉を、見て取るべきだと思われるのです(§6)。

 もちろん、自己の射精ではなく他者の射精を崇高化したがる私のこの身振りは、まさしく傍観者=理論家が生きている無趣味=〈無情動な吐き気〉にもとづいて、中年に至ったことの「味気ない哀しみ」を、表現したものにすぎません(§5)。

 

§9 無神学のエチカ

 戦後バタイユ思想の良心的な性格は、 バタイユ研究の動画を作った際に印象付けられました。そこで見た研究動向を一息に圧縮すれば、〈父〉の世界から除名されたカフカ的主体の落伍した〈至高性〉を、〈無力への意志〉において〈幼年期〉の様相で追求する〈女性的思考〉であり、それは「現代の倫理」として表現可能なものです。

 私のバタイユ理解は、成年後の人間存在になお残存する幼児性に対する理論的肯定に動機付けられています。それは「オタク」理解に限らず、人形に対する老女の信仰すらも、学知は決して捕捉しえないことを弁えるための倫理的な要請です*24

 はっきりさせておけば、私にとっての学知に還元されえないもの、バタイユ論で言った「絶えざる過剰、永遠の残余、余白」*25にあたる経験領域とは、上に例示したような消費文化のポップネス、それに触発される人間の動物性、それらと骨絡みになった諸個体の怪物性です。

 それは破滅に至らず腐蝕だけを「加速」させる資本の論理とも言い換えられますし、その限りでボヤン・マンチェフが言う「セクシーなガジェット」*26バタイユが堕するのは当然です。しかし、むしろそうであるのが正しい、と肯定する勇気を、どうやら理論家は持たないようなのです。

 そして、良い書物の数々に恵まれたおかげでようやく、「それをするのは私の役割だ」と開き直るべきであると判断可能になった事情を、本稿は物語ったものです。

 どうしても書き言葉だと積分的に物を考えてしまうので、テキストを触発的にひらく表現は動画でやっているわけですが、やはり文章においてもバタイユ的に、言説のエコノミーから零れ落ちる「物質的なもの」を凝視したい。そうせざるを得ない衝迫だけは表現できたと思うので、くどくどしい文章は本稿で終わりにしたい、のですが。

 最後に本稿の心残りを。小泉氏が「最初の傍観者」と形容したカント的な主体性の価値と限界は最低限指摘できた気はしますが、カントに対置される「最後の貴族デカルト*27のような主体性は、不勉強ゆえ描けませんでした。崇高論/生政治論の内部に潜勢化されたバタイユ的主体性を、ストア的囚人へ横滑りさせるに留まっています。

 横田祐美子氏が示唆したバタイユを哲学的連関に折り込む思考には、「瞑想=省察«méditation»の方法」*28という表現もあり、デカルトバタイユを重ね合わせる可能性は探りたかったものの、デカルトにおける「現実的無限」概念が神学のエチカに支えられている以上*29、その差異を見定める作業から始めたいところです。が……

「我々が公共体に対してどの程度の配慮を理性が命ずるかを正確に測ることが難しいことは認めます。しかしそれは、非常に正確であることが必要な事柄ではないのです。自己の良心を満足させることで充分であり、そして自己の傾向性に多くを委ねることができるのです。というのは、神は以下のように事物の秩序を確立して人間全体を緊密な社会に結合したからです。すなわち、各人がすべてを自己に関連付けて、他人にいかなる慈愛を持たないとしても、各人が慎慮を用いるように、また特に、習俗の腐敗していない時代ならば、各人が自己の力の限り他人のために努力するように、そのように神はしたからです」。[/]

 

ここでデカルトは公共体を当てにしていない。デカルトは神を認識して神を愛する人間の絆だけを当てにしているのである。だから哲学者は公人に対して言うべきことを持ってはいないことになる。ただ公共体や公人が人間の絆を信頼できないようになっていることに唖然とするだけである。

 

小泉義之『兵士デカルト』p.174 強調引用者)

 贅言すれば、私は糞便としての神=キャラクターを認識して愛する人間の絆だけを当てにして、この歳まで生きてきました。その「統計学的」な規模には畏怖を覚えます(§2)。しかし、真に畏怖するべきはむしろ、〈怖るべき囚人〉としての私達が、すでに〈無神学のエチカ〉を生きてしまっている、という厳然たる事実ではないでしょうか。

 「公共体」への「危険な影響」といった口舌で、この信仰を裏切る愚は犯しません。ひとつの立場を貫徹することの困難を、思い知らされた十年間でした。「環境」や「生殖」において類的人間の絆があるかのように・・・・・振る舞うよりも、神の絆を自覚したほうが遥かに潔いと言うべきでしょう。

 独り言が過ぎたようですが、コギトの端緒は「独りで戦うこと」にあり*30バタイユは「私自身が戦争である」と述べていました。

 

私自身が戦争である。

 

私は人間の運動と興奮を思い描くのだが、その可能性はとどまるところを知らない。すなわち、この運動とこの興奮は戦争によってしか鎮めることはできない。

 

私は、果てしない苦悶という贈り物、切開された肉体と血という贈り物を、射精のイメージで思い描く。それに震える人間を打ちのめし、吐き気で満たされた疲労困憊に彼をゆだねる、射精のイメージで。

 

(「死を前にした歓喜の実践」『無頭人』p.231)

 

 

 

 

 

 

*1:

*2:理論面の詳細には触れることができなかったので、立木氏の議論を整理して一定の懐疑を示した上山和樹氏「自分の現実をやり直すために――立木康介の症候論 - Freezing Point」などをご参照ください。

*3:補足すれば、〈統計学超自我〉概念は〈父の名〉=大文字の〈法〉が零落した官僚主義的禁止・エヴィデンス・政治的正しさといった小文字の〈法〉に結び付けられるものです。松本卓也「〈父の名〉の後に誰が来るのか?」『Nyx 1号』p.208など。私はいずれの〈法〉も懐疑する傾向にある、ということにすぎません。

*4:私自身は統計的に不人気と見える作品を選好したり、統計的な価値を無視したりする生き方を送ってきたため、この反問をする主体としてはふさわしくない気はしますが、上のような貧しい語りを垣間見せる専門知への不信感を留保したくはありません。

*5:ミシェル・フーコー『監獄の誕生』p.294

*6:ルネ・デカルト方法序説ちくま学芸文庫版 p.47

*7:石川義正『政治的動物』p.40

*8:同上、p.24

*9:同上、p.25

*10:「しかし或る種の醜悪さにかぎっては、自然のままに表現されることができないのであって、もしもそうすればすべての直感的適意を、かくてまた芸術美を破壊するものとならざるをえない。それはすなわち、嘔吐・・を催させる醜悪さにほかならない。」カント『判断力批判』作品社版 p.286

*11:石川、同上、p.214

*12:カント、同上、p.228

*13:宮崎裕助『判断と崇高』 p.149

*14:宮崎、同上、p.253

*15:乗松享平「ポストモダン右翼は哲学の夢をみるか? アレクサンドル・ドゥーギンの理論と実践」『現代思想 2021年6月号』p.89

*16:石岡良治「「日本のポストモダニティ」およびその比喩形象としての『AKIRA』」同上 p.143-154

*17:崇高化によって当事者の語りをかえって平板化する限りで、生中な生政治論にも生命倫理にも関心を失っており、なおさら大衆が読む価値は見出せないことを付言しておきます。余談ながら立木氏は、ラカンと並んでアガンベンに魅了されています。

*18:ナンセンスの美的政治効果の分析は、江永泉氏「On Co-me Da U?(この7月にコウメ太夫のツイートを見なおして改めて驚いたのでしたためた長文。色々脱線を含む)」に感銘を受けました。

*19:バタイユ実存主義から経済の優位性へ」『著作集 第14巻 戦争/政治/実存 社会科学論集1』

*20:石川学「無とその力 : ジャン=ポール・サルトル「新しい神秘家」(1943年)以後のジョルジュ・バタイユ」2015-10

*21:バタイユ、同上、p.270

*22:全然追っていないので、ans_combe氏「★「VTuberという演劇のために(仮)」:夢月ロアの表現方法について」などが参考になりました。

*23:リンク先の方が主宰されている「人民を宮崎勤にしないために宮崎勤的な主体を志向する」つとむ会の実践に関して、その理念には賛意を表します。しかし、宇野常寛氏がオタク批判の舌の根も乾かぬうちにアイドル礼賛に転んだことで、セクシュアリティの次元においてゼロ年代サブカル批評が「オタク」の信頼を根本的に失った歴史すら、すでに共有できなくなっていることには驚きます。2010年代を席巻したアイドル論の「推し」的イデオロギー効果を整理したうえで、宇野的-精神分析的なオタク解釈/オタク憎悪を潔く放棄し、ニーチェと共にポルノグラフィという黄金を飲み下し続ける勇気を表明した宮﨑悠暢氏「復讐、永遠回帰:「アイドルでシコる」ことについてのベルサーニ/ニーチェ解釈」は、遥か彼方まで歩みを進めています。

*24:「魂や心や生命をフルに有するのは人間、それも成年の人間であるとする観念、その人間中心主義を信じることができない。というのも、成年自身の生に「退行」や「移行対象」は形を変えて必ず伴っていると見ることが真の人間学的洞察であるからというだけではなく、少なくとも、あの老女にとって、ぬいぐるみ人形はそれ自体として魂を宿し心を有し生きているものであることは、私には疑いようがないからである。実際、「魂」や「心」や「生命」なる言葉を使うとき、そのように使用せずにどう使用するというのであろうか。」小泉義之「老女と人形」『闘争と統治 小泉義之政治論集成II』p.112

*25:横田祐美子『脱ぎ去りの思考』p.110

*26:ボヤン・マンチェフ『世界の他化』p.21

*27:小泉義之『兵士デカルト』p.10

*28:横田、同上、p.29

*29:小泉、同上、p.235-236

*30:小泉、同上、p.1