おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

青井硝子事件についての個人的総括

 本稿は、2020年3月の麻薬及び向精神薬取締法違反による逮捕から始まる、青井硝子氏(@garassan)のアヤワスカ茶裁判に関する個人的総括です。

 筆者は2016年10月に青井氏が主催する薬草研究会に参加したのち、アヤワスカアナログを複数回摂取した経験がある、活動初期に関わったユーザーです。加えて、DMTによる変性意識体験によって年来の希死念慮が和らいだ結果、思想・哲学系の読書に邁進することになった、事件の発端である大学生の方に似た経過を辿った人間です。つまり、事件にまつわる諸論点を内在的に、かつ時間が経って冷静に振り返ることができる立場にあります。

 一般に幻覚剤と呼ばれる精神展開薬(psychedelics)に関する議論は、アメリカ・日本における排除型政策の影響に加えて、体験を意味づける学問領域の決定しづらさのため、常に混乱を伴います。また、青井氏のケースは法的・文化的・政治的に異例な論点が多く含まれ、それらを総合した観点からの検討を要します。よって、公益にかなう慎重な記述を前提に、私個人のパースペクティブから、今回の事件の意味と価値を証言することにしました。

 前置きすると、筆者はDMTには救われましたが、青井氏周辺のコミュニティとは深い関わりを持っていません。法的問題を軽視した初期の青井氏の活動によって、痛い目を見たケースとすら言えます。この立場からの発言は少ないように見受けられるため、なされるべき批判をも踏まえながら当事件を整理します。

 ここ六年ほどの青井氏の活動を検討するため、長大な論述になります。また、法知識のない人間が係争中の裁判に言及するため、正確さと中立性を保証できません。諸賢の検証を待って、随時に加筆・修正を行うつもりです。

 §1にて裁判を時系列上の起点に基本的な諸論点を確認し、§2ではそれに遡る青井氏の活動を筆者が関わった限りで主観的に証言します。§3にて青井氏の活動初期に遡る資料まで検討した上で、§4では「ドラッグ」にまつわる文化倫理上の批判と創造の問題を示唆して、結論の代わりとします。

§1 序論

 本稿は、事件の経過を取材している人類学者の蛭川立氏からの勧めで執筆を決意しました。素人目には日本だと希少に思える、人類学と心理学の境界領域において精神展開薬を研究されている方です*1。2020年6月の初公判を端緒にして、当事件の時系列・公判の様子・裁判の争点などを整理されており、日本語版・英語版・ポルトガル語版の各インデックスが上掲リンクから参照できます。

 しかし、蛭川氏が関わる以前、青井氏の活動はネット掲示板サブカルチャーとして出発しており、その時点からの検討が求められています。よって本稿は、蛭川氏の仕事を整理・補足するかたちで、筆者の証言を付け加えることになります。

 まず本節では、当記事単体で何が問題になっているのかを把握できるよう、事件にまつわる基本的な論点と、そこから派生しうる問いについて確認します。最低限の予備知識は「京都アヤワスカ茶会裁判を読み解く基礎知識」にまとまっていますし、各リンク先を参照いただければ斜め読みでも構いません。

裁判の概要と争点について

 当事件についての報道は、2020年3月21日付の「麻薬かお茶か?逮捕に波紋 原料に幻覚成分、京都府警: 日本経済新聞」が筆頭に挙げられます。蛭川氏による「「お茶」は「麻薬」なのか ー京都アヤワスカ茶会裁判ー」などの整理を踏まえて要約すれば、2019年7月、京都在住の男子大学生とその友人がネット経由で樹木アカシアコンフサ(和名ソウシジュ)の粉末を購入。これを茶にして飲んだ大学生が、意識を失うなどして救急搬送されます。調査の結果、アカシアコンフサは麻薬取締法で規制されている成分、ジメチルトリプタミン(DMT)を含んでいることが発覚。その粉末を販売していたサイト「薬草協会」を運営する青井硝子氏(筆名。本名は藤田拓朗氏)が、麻薬取締法違反(製造、施用幇助)の疑いで逮捕されたのが2020年3月3日のこと。4月から8月にかけては、拘束と保釈、さらに再拘束を重ねながら、京都地方裁判所において製造・幇助に加え所持・提供といった数々の要件で青井氏に対する起訴・追起訴がなされています*2

 青井氏は容疑を否認し、弁護人の喜久山大貴弁護士とともに「1.茶にすることはDMTという成分を結晶として抽出することではない。2.それゆえ、当逮捕は自生する植物の所持や利用を禁止することに等しい。3.また、DMTは人間の血液や尿中にも含まれる神経伝達物質である。4.よって、茶を麻薬と見なすことはおかしい」という、大まかに四つの争点を一貫して提示しています。

 上の1~4に対応する、当裁判の核となる論点を単純化して整理します。第一に、「抽出 extraction」という科学的操作の理解について*3。第二に、既存の法文に則る限りで帰結する、DMT含有植物の規制がもたらす社会的影響について*4。第三に、内因性の機序を持つ神経伝達物質としてのDMTの概念上の身分について*5。第四に、お茶としての飲用を法的以上に文化的に擁護する正当性について*6、です。

 そして、合計七件にもわたる起訴手続き、検察側における法科学上の不手際*7、異例なほど回数を重ねる公判(結審までに一六回)といった要素に現れている司法の危うさを突くことで、この裁判をめぐる言説は今のところ、特に法的次元に的を絞って弁護側を擁護する意見が目立ちます。そもそも個人を麻薬取締法で刑事告訴することからして珍しく、ネット上で不特定多数に売ったことが問題なら通常は薬機法で起訴されるため、事の起こりからして検察側の混乱が疑われているほどです。

 その混乱の理由は、青井氏が法文読解によってグレーゾーンを突く「知的スポーツ」として活動し、堂々と「犯行」に及んでいる確信犯であることに求められます*8。その信念は「第一回拘留理由開示裁判」に述べられた通り、端的に言えば鬱の蔓延と社会紊乱を根治する草の根の危険ドラッグ撲滅運動であり、この理念が初期から一貫していることは一読者として証言できます。

 それゆえ、主体の自由意志や責任能力を追及する法的視座で眺めていては、当事件の眼目を捉え損ないます。また、京都地裁での判決が無罪にせよ有罪にせよ、控訴して争い続ける姿勢が弁護側・検察側の双方に見受けられ*9、しばらく「アヤワスカ茶」の合法性は宙吊りに留まるようです。

 であれば、合法性の判断を司法に委ねて、仮に違法であるにせよ、それを真摯な公共精神や宗教性に基づく正当行為と言えるかどうかを、シビアに掘り下げたいところです。しかし、公判ではこの論点が斥けられ、「鬱が治る、自己実現し、自己超越するなどの有用性、正当性、宗教性に関する証人は、すべて却下。それは俎上に乗せないことが決定」*10しており、裁判自体を追っても有益な話題は引き出せません。

 よって、本稿は原則としては弁護側の擁護に立った上で、議論が継続している法的次元には深く立ち入らず、せめてDMTに関する今後の世論を寛容の体制へと移行させるべく、四つ目の論点、すなわち「法的以上に文化的に擁護する正当性」について集中するつもりです*11

 さておき、なぜ素人の立場からこうも堅苦しい文章をわざわざ書く必要があるのか。特に当事件の弁護側に含まれる、青井氏の読者の方向けに補足します。それは、旧来の政治闘争を組織してきた左派知識層にしてみれば、あえて言うと青井氏がひどく馬鹿っぽく見えるため、アカデミアの関心を惹きづらい事件であるためです*12。例えば外山恒一氏の史観()で言えば、日本の運動史にも様々に重要な「変人」が存在したわけですが、ネット文化のノリで「ヤクの売人」をやってしまう青井氏のような人物はおそらく前例がありません。つまり、本件を政治的に意味がある出来事として認識するべきかどうかは、当事者にも外部にも開かれた問題であるため、その判断を助ける資料だけは整理しておきたいのです。

アヤワスカアナログと搬送された大学生について

 アヤワスカとその体験の文化的・宗教的意味については、例えば蛭川氏の『彼岸の時間』にまとまっています。一言でいえば、アマゾン川流域の少数民族が精霊と交感する目的で、お茶にして飲む習慣がある植物(またはその組み合わせ)のことであり()、「南米の先住民族やブラジル由来の宗教運動において、アヤワスカ茶は、もっぱら宗教儀礼の中で用いられてきた。[…]とくにブラジルでは、アヤワスカ茶は認可された宗教団体の施設内で使用する場合のみ合法化されている。ただし、日本にはそのような法律も判例もない。アヤワスカ茶が精神疾患を改善するとしても、青井被告は医師等ではないので、治療行為は正当行為ではない。ただし、その治療行為の背景に宗教的な思想があれば、宗教行為だといえる*13。ここが焦点なのですが、事態をややこしくしているのは次の論点です。

 DMTは経口摂取すると酵素に分解されてしまうため、チャクルーナやアカシアコンフサといったDMT含有植物に加えて、可逆性モノアミン酸化酵素A阻害薬(RIMA)として作用するハルミンを含んだ、バニステリオプシス・カーピという別の植物を組み合わせる必要があります。そして青井氏の活動の核心は、後者の植物をケミカルで代替したこと、つまり日本にも自生するDMT含有植物にオーロリクス(モクロベミド)というモノアミン酸化酵素阻害薬(MAOI)を組み合わせる、「アヤワスカアナログ」の技術を日本語圏で広めたことにあります*14

 それゆえ、当事件で争われているのは「南米のアヤワスカそのものではなく、[…]いわばアヤワスカの精巧な模造品である。[…]典型的には心を病んだ引きこもり(hikikomori)の若者たちが自己治癒のために使用している。これは、ブラジルの宗教運動が西洋圏で広まっているのとはまったく異なる文脈であり、日本を中心とする東アジアのオタク(otaku)的な文化として注目すべき特異性がある」*15

 つまり、青井氏の信念が宗教的かどうかの問いは、本人においては宗教的営為だと確信されている以上、ユーザー側の意味づけや価値評価の問題になります。すると、青井氏が広めたアヤワスカアナログの技術そのものに伴った、それぞれの文化実践の個人的な「宗教性」、すなわち「自己治癒」の過程をあらかじめて問うておく必要があります*16。よって本稿は、典型的には私の経験を通じて、引きこもり/オタク的なる文化上の特異性とDMTとの交錯によって生じた「宗教性」を証言することが、眼目とならざるを得ません。

 とするとそれは、事件の発端である大学生の方においても考えたい問題です。しかし、この方の情報は家庭裁判所で保護されているため、多くは詳らかにされていません。以下は蛭川氏による整理と、同氏からの伝聞のみ引用します。また、人文死生学研究会にてこの話題に関する発表が予定されています*17

2019年7月。不安障害とうつ病を悪化させ自殺念慮に苦しんでいた大学生が、京都府内の自宅に引きこもり、コデインを含む咳止め薬で精神的な苦痛を和らげていた。[…]独学による研究を重ね、オピオイドには一時的な鎮痛作用があるだけだが、サイケデリックス(精神展開薬)を使えば悟りの境地を得て人生観が変わるという結論に達した。[…]ソウシジュ(相思樹:沖縄に自生するアカシアの一種 Acacia confusa)の樹皮をインターネット経由で購入し、京都府内の自宅で茶にして服用し、抑うつ希死念慮を自己治癒した。
[…]アカシア茶の服用後、まず、曼荼羅のような図形が回転しているのを見た。彼は、その回転する視覚像が、自分の思考の投影だということに気づいた。その投影像を観察し続けている間に、自己の思考と思考の対象との分節が消滅し、そして自己と他者との境界が消滅し、あらゆる存在に深い慈愛を感じたという。
やがて自己と外界との境界も消滅し、それを観察している自己も消滅するという再帰的なループに陥り、その無限に深い畏れを抱いた。その様子を見守っていた友人が驚いて救急車を呼んだ。搬送された本人は、救急車の中で無限ループに対する抵抗を諦め、その再帰性に身をゆだねたところ、たちまち白い光に包まれた。この光の中で、救済という「はからい」を体感した。
病院に到着したときには、すでに、生きていても死んでいても同じだ、という悟りを得ていた。希死念慮が消えてポジティブ思考になったわけではない。生きていても死んでいても同じであり、昨日も明日も存在しない、いま現在を誠実に生きる、という境地に達した後、ずっとその感覚のまま暮らしているという。*18

 その後はニーチェショーペンハウアーなどのドイツ哲学に向かったあと、最近はインド哲学ドゥルーズを読んでいるらしく、興味がないので公判には訪れていないようです。そうした経過を含め、体感的にはほぼ私自身の体験として読めます。要らぬ世話で救急車を呼んでしまったことと、青井氏の活動が司法に伝わったこと以外には事件性が無いという意味で、本人による何かしらの意見発信がない限り、薬物事案に特有の「被害者なき犯罪」として本件を捉えざるを得ない所以です。

 私の場合、ブロンやDXMを一、二度オーバードーズした程度、独学と言っても中島らも青山正明などの九〇年代悪趣味系を介した憧憬混じりの理解にすぎなかったものの、一人で行ったため体験に圧倒される姿を誰にも見られなかった、これと類似のケースに位置づけられます。

薬物倫理と文化倫理について

 筆者の主観性を取り扱う前に、社会的な諸文脈を確認します。Wikipediaにも「21世紀のサイケデリック・ルネサンス」という表現が浸透している通り、1950-60年代に模索されるも一旦は中断され、1990年代から再燃した精神展開薬の医療研究が、近年の諸国における医療大麻解禁を促進しています。治療抵抗性うつ病の急増によってアメリカ精神医療がブッ壊れた2015年頃より特に注目が集まって、日本も無関係ではないトピックです*19

 こうした動向にも煽られる形で、青井氏は無手勝流の「サイケデリック療法」に踏み切ったという事情があり、精神科医からも「もしこれで無罪が勝ち取れたなら、アヤワスカを利用した治療研究を一気に進めることができる」*20との声援があるそうです。さらに視界を広げれば、Netflixでは『サイケな世界 ~スターが語る幻覚体験~ 』『マリファナ・クッキングバトル』『ミッドナイト・ゴスペル』などの作品が取り揃えられ、サイケデリクス文化が医療化に伴って「時代の空気」の一部とすら感じられる昨今です。念のため、こうした肌感覚に基づいた「向精神物質に取るべき態度」を先に共有させてください。

 私は青井氏の言語使用と諸実践に距離を取り、他の文献に当たりながら自己の置かれた状況を理解してきました。例えば、上の話題を一般向けに解説したノンフィクションとして、マイケル・ポーランの近著『幻覚剤は役に立つのか』が良くまとまっています。しかし、LSDやシロシビンをメインに据えた書物です。DMTに関して内在的に記述された邦語文献は少ない印象で、蛭川氏の諸論、石川勇一『修行の心理学*21、武井秀夫他編『サイケデリックスと文化』などが(中古高騰も散見されますが)参照しやすい文献でしょうか。また、裁判の争点と対応した薬理作用は「裁判所に提出した論文リスト」から参照可能です。

 最低限、次の三点を確認します。第一に、「ドラッグ」「麻薬 narcotics」という概念自体が薬理作用ではなく(20世紀初頭のアメリカを主とする)行政的・政治的事由によって強く規定されたカテゴリーであること*22。第二に、そのような歴史的経緯を閑却して「ドラッグ」概念を用いながら事態を語ることは、健常者である「我々」の社会から黒人や嗜癖者や「狂人」を「他者(彼ら)」として排除する視座の日常的反復であり、それ自体が「凡庸なナショナリズム」()として批判されるべきであること*23。第三に、これらを踏まえれば「ダメ、ゼッタイ」の薬毒教育や刑事学的発想に基づくアメリカ・日本型の排除モデルではなく、ハームリダクションに代表される社会福祉的発想に基づくオランダ・イギリス型の包摂モデルをひとまず念頭に置きながら、精神展開薬にまつわる社会的な語りを構成していくべきであること、です。

 一市民として同時代人に想定しうる良識あるいは薬物倫理は、この程度のものに尽きます。アディクション臨床専門医である松本俊彦氏の仕事も踏まえれば*24、精神展開薬に限らずアルコール依存や市販薬乱用も同様に、犯罪化による社会からの孤立が向精神物質というモノへの依存の循環を形成してしまう薬物問題について、世人が取りうる原則は社会的包摂以外に残っていそうにありません*25

 その上で私自身は、付け焼き刃で上述した国際的な医療化の恩恵に与るどころか、精神科に通院したことすら一度もない、愚鈍な二級市民にすぎません。貧困サブカル系ライター、または単なる抑うつ傾向の若者といった属性を持つ個体として青井氏に接触し、向精神物質の薬理作用と、それを解釈しうる諸学知に触発されて、体験を様々に意味付け直しながら引きこもってきただけです。

 精神医学から見れば、このような筆者の生存の仕方は、精神展開薬による統合失調症リスクを示すサンプルにすぎないかもしれません*26。しかし筆者は、「精神の狂気」について新たに語るべきことなど何も残っていない、という歴史的かつ状況的な認識を信じているため、臨床概念を用いて自他の経験を説明する気は起きません*27

 むしろ、発達障害自閉症スペクトラム、普通精神病といった「軽症化」の諸概念に代表される、「精神の狂気」にまつわる混乱しきった諸学知や文化表象を利用して、狂気の真理をめぐる言語ゲームを宙吊りにして生きている21世紀の人間の底知れなさを、青井氏という人物の「行動の狂気」において部分的に肯定することで、前述の薬物倫理を前提としたひとつの文化倫理を、以下に素描するつもりです。

 

§2 筆者の事件との関わり

 本節では、筆者と青井氏のつながりを時系列に沿って証言します。

小説作品での出会い

 2016年の夏頃、当時所属していた編集プロダクションの上司の編集者(Kとします)が「小説家になろう」のハードユーザー、いわゆるスコッパーをしており、青井氏が連載していた小説『異自然世界の非常食』を「なろう界のラテンアメリカ文学」と評して推していたことから、初めて青井氏を認知しました*28

 ライトノベル作家宇野朴人氏から学んだという異世界転生物の筋書きに、弘前大学農学生命科学部出身()の知識と当時の軽トラ放浪生活とに由来するであろう、雑草喫煙や薬学・農業・DIY実践のリアリティを組み合わせた作品です。一般のなろう系諸作にも通底する、異世界ファンタジーの知覚を生活感覚で裏打ちする技法と言えます*29

 手元に無いので記憶に頼りますが、今なお特異と思われるのは、それを徹底した結果、「動物/他者を食らうこと」という狩猟生活の主題に妖精愛のフェティッシュを重ね合わせて、性と食が一体化した小動物との共生を描いている点でしょうか。『原神』パイモンの非常食ミームがどこまで遡るものか分かりませんが、この作品をよく想起します。

 事件との関わりで世俗的に言い換えれば、2ちゃんねるをモデルとするネット掲示板との繋がりに精神の糧を求める「引きこもり」的主体のリアリティと、サバイバル物の物理的な生存逼迫が直結した舞台設定から、当時の青井氏が置かれた「貧困」のあり方と、それを野生から価値転換することの野心を読み取るべき作品です。

おーぷん2ちゃんねる・薬草研究会にて

 当時の筆者は(現在も大差ないものの)月収10万程度で狭小賃貸に籠もり、青井氏の軽トラ暮らしブログ()とあわせて高村友也氏の小屋暮らしブログなどを眺め、憂鬱をやり過ごしていました。青井氏のブログから派生した情報も参考に、蓮の茶葉やマテ茶を手巻き煙草にして吸っていた記憶もあります*30

 2016年8月頃、青井氏が匿名掲示板おーぷん2ちゃんねるのオカルト板にてスレッド「こっそりオーラ視できるようになる方法教える」を立て、初めてアヤワスカアナログについての独自研究を開陳。植物栽培法、酩酊や瞑想の技術、セッションの一人称的記述を匿名者と共有する動きを見せます()。スレッド開設場所などから分かる通り、最初期はオカルト・アングラ文化への関心で人が集まっていた側面が強く窺えます。

 この動きと連動して、アヤワスカアナログについての情報整理と発明品販売を兼ねたサイト「薬草協会」*31が公開されます。2017年頃より販売されて後に問題となった「Medi-Tea」ではなく、最初期にはDMT含有植物の鉢植えセットが販売されており、筆者はこれを取り寄せて多少育てていたものの、根気が続かず破棄してしまいました。

 このあたり記憶が曖昧ながら、青井氏は『異自然世界』を出版した繋がりで他のライトノベル作家の方と秋葉原のイベントスペース・とらのも(現在は閉館)で小説講座を開催し、その第二弾のような形で同スペースにて「薬草研究会」と銘打ったイベントを予告。その開催が2016年10月20日のことで、私とKは事務所から近かったので二人でイベントに連れ立っています。

 Kは90年代のブームを通過した70年代生の世代のため、薬物実践に興味はなく作家としての青井氏を見に行った一方で、私はマジックマッシュルーム規制後に物心ついた世代ですから、アングラ文化への憧憬混じりで参加したことを憶えています。

 当日は青井氏がクリプトファン栽培法などの発明について喋りながら、イベントの模様をスレッドに生配信し、現場での参加者は私たち含め10名程度。軽く飲食して様子見していたところ、一人の男性に話しかけられました。法学部在籍とのお話だったのでおそらく大学生で、カントの入門書を持ち歩いており、知的な話し方をする人でしたが『閃乱カグラ』が大好きで体毛が濃かったのを憶えています。それがスレッドの967から次スレ冒頭まで書き込んでいる「ゆっくり厨独」氏です()。

 この方と自分が当日、「ハゼさん」「毒草吸ってみたの人」とスレで呼称されている古参と思しき人の良い中年ユーザーの方に話しかけられ、アカシア根皮とオーロリクスの破砕粉末を混ぜた手製の錠剤(つまり単体の経口摂取で作用するアヤワスカアナログ)をその場の流れで手渡されています。他の方にも行き渡っていたかは分かりませんが、ゆっくり厨独氏も私も未体験の若者だったので、善意で入門用に分ける感覚だったのだろうと想像されます。

 後日、私とゆっくり厨独氏がそれぞれ自宅で飲用し、当時青井氏がスレッドを「トリップレポート」で盛り上げようとしていた流れに誘われる形で、薬機法(薬品譲渡・授受禁止)を知らずに体験を書き込んで荒れたことで、ようやく青井氏が法的問題についてシビアに議論する姿勢に移ったという流れが、次スレ冒頭に残っています()。次スレの63が自分の書き込みで、以降は書き込まず、追って開催される「お茶会」にも行かずに、現在に至るまでネット経由で活動を見守ってきました*32

 私たち二名が書き込んでしまったすぐ後に、危険を感じてか「ハゼさん」はブログを全削除しています。青井氏の活動の発想元の一つであろう、雑草を巻煙草などで吸う遊びを公開しているブログでした。申し訳ないことをしたと後悔していますが、初期はそうした前世代のブームを出自とするであろうユーザーも入り混じっており、その後は徐々に青井氏から離れていくか、オフラインに留まって参加している印象があります。

 現在の裁判では薬機法上の問題は取り扱われていないため、こうした現場実践の是非は留保されています。その上で私は、使用者に「トリップレポート」を開陳させてムーブメント(言うところのサードウェーブ)を演出しようとした青井氏の戦略そのものは、批判されるべきだと考えています(§4にて詳論します)。仏教的視座からの自我肥大が云々以前に、青井氏の野心によって最初期のユーザーが体験を「語らされた」側面があることは、強調させてください。

 そもそも素人が「行きて帰りし」のトリップイメージで体験を語って面白いはずもなく、恥ずかしいことをしたと振り返られます*33。今さら言っても虚しいものの、きっかけが異なれば内面に秘めていたはずです。ただ、そのような「深い内面」が錯覚できることすら特権的な時代であり、そんな屈託からは解き放たれた場所で青井氏は動いていますから、こだわりはしません。

 要するに筆者は、青井氏がセットした最初期のイベントにて、青井氏が主催者として管理できていなかった違法性のある実践に立ち会っただけの、通りすがりのような立場にすぎません。筆者の主観には、思わぬ契機で救われてしまった側面と、厄介なことに巻き込まれてしまった側面が相混じっており、総合的には前者に基づく感謝の念が大きいです。ただ、「お茶会」以前にも間違いなく、青井氏の現場実践は「楽しさ」を重視する放任主義の危うさを伴っていたことのみ、証言せざるを得ません。

 付言して、薬機法に限れば公訴時効なのでしょうが、もし本稿の記述のせいで筆者が勾留されようと、青井氏の次著の題を借りれば「獄中で酔う」つもりですし、事が起これば穏便に済むよう動きます。また、本稿は違法行為を推奨するものではありません。

体験について

 スレッドに書き込んだ際にPastebinで別添した「トリップレポート」は、青井氏の造語で言うと「ありがとうの国」に入った意識状態で、万物に感謝しながら書いていたため、野狐禅まみれで目も当てられず、自分では読み返せていません。そして今確認したら消えていたので、安堵しています。

 私の場合、閉眼幻視も思考の変化もDMTやLSDのトリップレポートで散見されるモチーフが大半で、語るに値するほどの特異性はなかったはずです。万物の原理が愛であるという「真理」にも、もちろん「気付いて」しまいました*34。二元論的な意味分節の崩壊を、当時読んでいた井筒俊彦ニコラウス・クザーヌスから肯定していた記憶があります。

 逢仏殺仏、体験を表象言語で意味づける愚かさについて京都学派風に云々しても詮無い一方で、希死念慮の消失過程を物語化するのもナンセンスです(本稿で触れた諸文献を読めば十分)。それでも一応、体験直後の出来事を整理すると、異性愛者のセックスが嫌でキャラクターでの自慰を続けていた、年来の性行為に関する拒絶感と罪悪感が解釈し直され、結局自分は女性になりたかったのだということに「気が付き」、LGBT関連の入門書や性適合手術に関する情報を集めていました*35性自認の議論が大方は先天的障害として問題化されていた当時の世情と、手術費用の支払えなさに気が付くと、むしろ肉体と男性性を引き受け直すことこそ倫理的であると判断され、神なき神秘経験を異性愛男性の身体から世俗的に肯定しうる思想として、ジョルジュ・バタイユに没頭するようになりました。

 その後は自前でアカシア根皮とオーロリクスを輸入し、裁判が始まってからは止めましたが、合計すると40回以上、その都度に自我意識が消失する程度の分量で、一貫して一人でセッションを行ってきました。とはいえ、青井氏のように霊が見えたり、チャクラが開いたりクンダリニーが上昇したりもせず、主に思考を整理する目的で使用していたので、仮にスピリチュアルな「深度」を想定するなら、浅瀬で遊ぶレベルにすぎません。

 セッションに慣れて呑まれず、世俗的な言語使用にも再適応できてから、当ブログとYouTubeTwitterのアカウントを作っており、ネットでは青井氏にもDMTにも言及せず、リアルでもあまり話さずにきました。裁判が始まってからは特に、自分が発言すれば「快楽目的の使用」と判断され、他者のDMT経験にも誤解が広まる恐れがあるためです*36

 というのも、次の事情があります。青井氏と蛭川氏がいわば「理系の神秘主義者」として薬理学と神経科学に信を置くのとは反対に、筆者はベタに「文系の神秘主義者」として体験以前からキリスト教神学などに触発されていた人間であり、パウルティリッヒが言う究極的関心、生全体を支える根本感情としての信仰について「思索」しながら、DMTとも付き合ってきました。

 しかし筆者は、そのような精神活動の一方で、物質的には消費文化の特にポルノグラフィという、薬物問題と同じく「被害者なき犯罪」としての有罪性を構成しうる、もうひとつの嗜癖をより深く生きています。いわば、DMTとポルノという二重の有罪性、二重の意味作用の不安定性によって、筆者の体験は特徴づけられます。

 ボードレールが言う通り、精神展開薬そのものに神秘はなく、使用者の内面にすでにあったものが拡大・展開されるだけの話です。要は、それ以前から抱えていた、性的快楽に含まれる(場合によっては女装などに派生したであろう)ポルノグラフィへの超越願望、造語すれば「オタク的ニヒリズム」が自覚され、心的装置による否認が解除されて自己分析可能となり、スピノザ風に言い換えれば受動感情としての快楽が理性としての能動感情へと内包的に反転して、そうした超越感情を内在論の哲学において語り直すことができるようになった過程として、筆者の経過を総括できます。

 いったん社会学的に図式化して補足すると、これはオウムによって不可能になったサブカル的超越の内面化という時代の流れにおいて、可能となった経験です。他に例を挙げると、蛭川氏が青井氏の存在を初めて知った経緯も、『わたてん』アイコンをTwitterにて使用していた、ゼミ生の方の報告に遡られます*37

 蛭川氏の世代(67年生)だと、こうしたキャラクター図像は不活性かつ無差異に感受されますが、オタク的なる経験にどっぷり浸かった平成生からすると、すべての図像が無名の人民たちが紡いだ微細な情念の歴史を宿すものであり、一夫一婦制の単婚愛に囚われた「非モテ」「インセル」談義を超過した全婚愛の快楽が、極めて活発な差異として直観される側面があります*38

 この意味で、内面的でありながら社会的なキャラクターの「聖性」を、私はほとんど一人で理論化し続けているつもりです。しかし、この信仰を「霊性」として肯定しきることはできず、その思考の一部を動画やブログにまとめるに留めています。

 そうこうするうち、「超越」や「狂気」への憧憬を失い、「聖なるもの」「宗教的なもの」*39というカテゴリーを使用する条件そのものが変形され、今は一人の文化的存在者としての倹しい倫理を語りたい、という欲望だけが残っています。ドラッグ言説に散見される、加齢によって枯渇する「脳汁」の再活性化という話題がありますが、私の場合は再活性化しまくったあと、さらに枯渇し乾き果て、音楽にも映像にも触れる機会が激減しました。

 最近は、人をうんざりさせる文章を書くわりに、根が楽天的になってしまい、ただ生きているだけで幸福になっています。読書さえできればよく、本の話をして人に楽しんでもらえれば十分です。Twitterの表象的かつアイロニカルな言語使用をなおさら無価値と感じるようになり、人と実地で話すことに強い喜びを覚えます。主要なSNSが動画プラットフォームに移ったことも、今は健全としか思えません。当ブログの過去記事は、かつて生きたニヒリズムの標本として読んでいただければ幸いです。

 以上が筆者の「自己治癒」になります。すなわち、サイケデリクスによる超越を実体化せず、(今回のような社会問題とならない限りは)殊更に主題化せず、体験自体、青井氏自体、DMT自体にこだわらず、いかに善く生きるかだけを考えられるようになったこと自体を、わざわざ言うのは正直嫌ですが、引きこもり/オタク的なる文化上の特異性とDMTとの交錯によって生じた「宗教性」としてピン留めしておきます。

 もちろん先に触れた通り、同じようにDMTを継続的に摂取した主体として、青井氏の霊性を信憑できる事情を説明する限りにおいての、括弧付きの「宗教性」です。実際のところは、どれだけキメても狂えなかった正常者の愚かさ、あるいは人間精神の無底を開陳したものにすぎません。

 最後に、悟り澄ましてはいるが「薬物による超越体験は瞑想や禅の境地よりも劣るのではないか」、あるいは「体内でDMTを合成できるなら、わざわざ茶を点てて体外から摂取する必要はないのでは」という真っ当な疑念を取り上げます。私も悩んだ問題ですが、前者の問いは比較そのものが差異の実在性の捨象を含むため、自力と他力を質的に比較しうる認識論上の立場を想定すること自体が難しく、凡夫における愚鈍な価値的区別に留まる問いだと思われるため、判断を留保しています。後者の問いについては、確かに外因性の感覚に慣れた今は内因性DMTで充足可能になったため、アヤワスカアナログへの執着は残っておらず、事後の社会生活も主観的には大過ないことを付言します。

 そして、青井氏はこの二つの問いを同型のものと捉えて、第四回公判「茶禅一味 ー第二回公判・第四回公判ー」で意見を述べており、蛭川氏のまとめによれば、ここで青井氏は自己の活動を大乗仏教の菩薩行と心得て発言しているようです。

 私はこうした青井氏の言動を、ドゥルーズマゾッホ論に倣って、法を脱臼するユーモアの戦略として編成されたものと解釈しています。そして、そのような(求道者には軽薄と見える)ユーモアでしか人民を救うことができない、という時代の条件を共有する限りで(そして以下に述べる多くの留保を別にして)、私は青井氏をオタク的なる文化を出自に含む人物の内では、良くも悪くも卓越した神秘家にして運動家である、と評価せざるを得ません。

結審にて

 長く時間が経ち、世俗のリアリティに適応する過程で体験の切迫感が薄れ、まだ裁判が続いていること自体を忘れかけていました。去年末、東京では気が塞ぐので京都に転居して調子良く過ごしていたところ、京都地裁が徒歩圏であることに気付き、結審に至って初めて裁判を傍聴しました。

 検察側はボソボソ声かつ異常に原稿が長かったので眠くなりましたが、弁護側は活き活きした弁舌に聞き入ることができました。そのあと開催された青井氏と弁護陣による説明会に潜り込み、蛭川氏にお声がけし、青井氏に関してというよりは、シャルル・フーリエ)について五時間ぐらい話し込んだのち、二人でフーリエ主義者同盟を結成しました。活動内容は未定です。

 実際の青井氏の言動から受ける印象は、2016年10月と結審の二度だけですが、ほとんど変わりませんでした。蛭川氏の表現で言えば「理系男子」「高機能自閉症的」な、空気を読まない発明好きとその場のノリ重視といった基本特徴も変わらず、鬱病を増加させる社会を改善する正義に適った活動だと確信し、そこに文化的な楽しさを両立させてムーブメントを起こそう、という理念からくる楽天性が、一貫して感じられました。

 五年経っても変わらなさすぎて驚くぐらいで、少し変わった点は、海外で舞踏を学んだという方と一緒にダンスを踊っていたのが印象的でした。その方と土方巽とかの話ができて嬉しかったです。私はアイマスオタクなので、人の踊りに伴う筋肉の撓りや身振りの動線の瞬間性をひたすら眺めるのが好きで、眺めていました。以前の青井氏は集まった人間全員に気をかけて話しかけており、私も軽く会話しましたが、今回はタイミングを逃してほぼ話せませんでした。

 

§3 青井氏の活動の変遷

 筆者の事情が済んだところで、本件を総合的に評価するための準備として、裁判ではあまり問題となっていない青井氏の活動の諸相について、簡単に整理します。本人に聞けば済むものの、動き回るタイプの人物で常に忙しく見えますし、外部からまとめる作業も無駄ではない、という判断です。ただし、筆者は青井氏の現場実践には疎いため、基本的には後続の参考になりうる情報の列挙に留めます。

薬草協会以前から2017年頃まで

 上の時系列表は2019年以後、裁判をメインに記述されており、それ以前が抜けているので、ここを補足してみます。

 活動以前の青井氏については、2019年11月29日付のTOCANAのインタビュー()や、2019年11月13日発売『シックスサマナ 第35号』所収のインタビューに比較的詳しいです。要約すると、弘前大学に在学中、趣味のアクアリウムが高じて水質浄化に関する国際特許を取得して起業。ところが東日本大震災(2011年)によって東北にあるパートナーの養殖場が壊滅し、会社を失い多額の借金を背負ってビジネスから足を洗います。

 その後、インドネシア・バリ島に傷心旅行してマジックマッシュルームを体験し、人と話すと頭痛がする症状が快癒したとのこと。研修生として農家に入るも、人間関係のトラブルで馘首になり、軽トラハウスを自作して放浪生活に突入したのがおそらく2012年頃。暇潰しで読んでいた2ちゃんのスレに感化されて雑草喫煙が趣味となり、様々な植物で試行錯誤して後にアヤワスカアナログへ繋がる研究実践を開始。これと日雇いバイトや小説執筆を並行して暮らし、2016年に薬草協会の活動へ結実した、という流れが窺えます。

 2016年当時、活動最初期の雰囲気は§2に記した通り。2017年7月頃までは匿名掲示板での書き込みと配信が盛んで、初期の活動は掲示板、独自研究発表の趣が強い小規模イベント、同人誌『煙遊びと薬草』シリーズの執筆がメインと言えます。一つの転機は2017年6月頭でしょうか。初めてメディア取材がなされ、日刊SPA・ニコニコニュースのWeb記事「完全合法の植物で作る「幻覚茶」とは?」が出ています。

 表沙汰になることに意見が分かれ、ユーザー同士の実践上の差異も議論を呼んで荒れやすくなり、同時期に現場実践でのトラブルが発生して薬草協会のサイトが一時消滅()。諸々の混乱の結果、青井氏はスレッドの管理を断念して書き込みを止め、クローズドのフォーラムやTwitterで情報発信をする姿勢に移ったと記憶しています。

 並行して2017年初頭より、集団セッションである「お茶会」が随時開催されています。回を重ねるにつれて参加者が増え、20名に激増した回で管理不能になったらしく、以後は6~8人程度で回すことになったようです。

 この頃からお茶会の参加者と非参加者との情報差が激しくなったせいもあるのか、スレッドでは五輪選手の住吉都氏の死因にDMTが関わっている、という噂がまことしやかに囁かれたりもしました。この話題も表に出せない事情があるようで()、ROM専の筆者もコミュニティが徐々に崩壊していくような錯綜した事態に、困惑したことは憶えています。

 お茶会の内実については、例えば先のシックスサマナの記事がクーロン黒沢氏(つまり古参のアングラサイド)による体験記を兼ねており、青井氏がセッション時に行う手厚いシャーマン的実践について、旧来のサイケデリクス文化との違いが驚きをもって証言されています。ネットに散見される新しい世代の(私を含む)個人主義的なトリップレポートよりも距離のある記述なので、参考になるかもしれません。

2018年頃から裁判に至るまで

 ALISON氏などのクリエイターとの連携についても事情は定かならず、ここで言う「新しい世代」を誰に代表させるかは微妙ながら、おそらく2018年頃より「お茶会」に参加していた、インフルエンサーのにゃるら氏が影響力の面で筆頭に挙げられます。ブログなどでDMTによるトリップレポートを公開していたはずですが、青井氏の逮捕に伴って削除されたようで、執筆現在は有料記事が一本()見つかる程度です。

 筆者は元サブカル系ライターとして同氏にルサンチマンを抱いていた時期があったので、ブログを確認しに行くのも億劫ですし、褒められた動きではない、と道徳的な顔をして非難してもよいのですが、普通は裁判なんて面倒事に関わるのは御免ですから、常識的な保身にすぎないと言うべきでしょう。単に、これらのクリエイター陣を通じて、より広い意味でのサブカルチャー層に青井氏の活動が普及したはず、という点のみ確認します。

 2019年7月、楽天にてアカシア茶を出品()、数ヶ月で出品停止。次いで2019年10月25日、『雑草で酔う』発売。これによる知名度の向上が決定的と思われます。同人誌のまとめ本の趣が強く、個人的に感興はありませんでした。2020年以後、裁判と連動した諸々に関しては蛭川氏の諸論に委ね、丸山ゴンザレス氏の番組で取り上げられてより広く知られた様子だけ確認しておきます()。

 正直な話、筆者はこうして衆目を集めるに至った青井氏の運動自体には、大して興味がありません。複数人でのセッション経験もなく、いずれにせよ一人で静かに生きたいタイプなので、近頃は青井氏の節操の無さに辟易してきたとすら言えます。それでも一つ興味深く思うのは、下世話ながら青井氏の恋愛事情です。

 青井氏は薬草協会設立の頃からだったか、三重県の山奥に自作した小屋を建てて拠点としており、蛭川氏からの伝聞によると、一時期その小屋生活で男女四人のポリアモリーを実践していたそうです。詮索する気はないものの、2017年頃にその一人である恋人との生活記録を残しながら()、裁判時には別の相手と婚約していることは確認できます。

 筆者がDMTの不可逆的な効果として実感したことに、インドール酔い()による愛の過剰があります。シャルル・フーリエやオナイダ・コミュニティを引き合いに出しながら蛭川氏が示唆するところに曰く、人間は宗教的理念などの制約がない限り排他的なペアを作りたがる動物であり、性規範の解放は乱婚よりもむしろ単婚を回帰させる以上、現代に残る最大の「未開」とは近代家族に他なりません*40。放言すると、おそらくDMTは、(精神分析を読めば分かる通り完全に呪いと言うべき)性愛と思考のモデルとしての「家族」から、人間を解放しうる効果があります。

 体験以前より、筆者は負け組=非モテ=弱者男性といった概念で無駄話を繰り返す世人を、政治的立場を問わず見下げてきました。そして体験以後、オタク的なる文化にフーリエ全婚愛の快楽を理性によって断固として認め、天皇制=一夫一婦制を欲望において変容しうる「性的人間」を必然化するべきである、という確信が形成されました。筆者が青井氏と共有しうる「革命」の可能性はこれに尽き、情けなくも、異性愛男性がなしうる「反抗」などその程度と言うべき状況のようです*41

 

§4 事件の評価

 最後に、いかに青井氏の活動を社会的に評価すべきかを検討します。

事件を生んだ背景について

 当事件の混乱の理由のひとつに、青井氏という主体の怪物性が挙げられます。それは資本の論理に適合したマジョリティのマッチョさを批判して、DMTのインドール酔いを女性性と結びつける言動や、父との良好な関係から推測されるエディプスの希薄さ()、女装した青井氏を自画像にする妻のアカウントの存在()、検察官との「姉み」の戯れ()といった性的倒錯が窺われる要素を中心に、精神分析的に解釈困難なものを含んでおり、蛭川氏は「当裁判を物語化することが途中で不可能になった」と率直に困惑を語っています*42

 前述した通り、筆者は当事件をスキャンダラスな「ドラッグ問題」として語るのは無論のこと、精神病理学精神分析に基づく「正常と狂気」の理論的表象にも頼らず説明したい立場です*43。なぜか。

 小泉義之氏の著作から大雑把に状況論を借りれば、ガタリらの反精神医学運動の遠い反響として精神医療の実質的な脱施設化・脱病院化が推し進み、「スペクトラム化」「軽症化」の諸概念やモラルトリートメント(道徳療法)によって、世に棲む病者/二級市民の包摂的排除が完成した現代日本の精神病理事情は、あえて言えば精神病院以前に戻った一九世紀的な状況下にあるためです。つまり、今や我々人民の「狂気」は、確かに一切の物語化を受け付けない野晒しの状態にあるのです*44

 この野晒しの「自由としての狂気」を生きる無意味や不安に耐えきれず、すすんで当事者が氾濫する臨床概念に頼ることで、自己の特性を「症状」として説明せざるを得なくなってしまうような、医学の言説空間と薬物療法*45そのものに批判的であるべきだと筆者は考えます*46。今やDMTの「排除か包摂か」を左右する特異点に変容している青井氏であっても、元々は「発達障害」概念によって自己を解釈していた事実を、忘れるべきではありません。

 この状況を受けて考えるべきは、DMTの薬理作用の問題から遡って、そうした精神展開薬を必要とせざるを得ないような現実を認識する方法、「治療抵抗性うつの蔓延」といった語りの裏で我々の身体に一体何が起きているのかを知覚しうる、精神病理学神経科学とは別の方法であると言えます。

筆者の理論上の立場

 その方法を考えるために、まずは小泉氏が示唆した通り、つまるところ社会防衛や相互統治に終始するような、特権的な「精神の狂気」をきめ細やかに語る旧来の人間論的な規範を断念し、TwitterYouTubeや監視カメラに現れている凡庸な日常人の「行動の狂気」の一つとして、青井氏の例外性を一般化して受け止めたいのです*47

 さしあたり筆者は、医療の外部で孤立した自由を生きる人間の一人として、「狂気」の言語と表裏である理性的な言語使用*48を脱臼する(要はネタともベタとも定かではない言動をする)青井氏のような(または筆者自身のような)主体を分析するにあたっては、前言語的な直観において生きられる社会的な快楽を通じて、まさしく行動する身体の狂気として、単に外面的に把握する方法がむしろ有効だと考えています。

 ならば、精神の複雑性や「内面」を問題にせず、行動する身体の直観知として外面的に措定されてもよいと断言できる、筆者と青井氏が共有する最大の「狂気」とは何か。それは、万物の原理は愛である、という確信です。この「愛」をヒッピー的、あるいは戦後民主主義的に活用する道は、国際情勢に照らして斥けておきます。

 ところで、ドゥルーズ研究において身体のドラマ=出来事性を肯定することで「大いなる物語=ストーリーなき生」を理論化してきた哲学者と言える江川隆男氏は、スピノザのコナトゥスについて「個物の本質、人間の現働的本質は、つねに自己の現実的存在と一致するよう努力する力能である。言い換えると、人間の本質は、人間の存在に対する無際限な愛を含んでいる」と論じています*49

 注に前掲した拙稿()は、このような言明に導かれてスピノザフーリエを重ね合わせ、常に無際限な愛に突き動かされている人間身体の、相互の触発による人間の本質の絶えざる変形という「現実」を想定することで、人間本性=自然が生成し続ける行動の狂気を、道徳的判断以前にそのまま肯定的に受け止める、一つの実践哲学として執筆したものです。

 そのようにして筆者は、青井氏が代表している時代の「狂気」を、「分裂症的」とすら形容できない人間精神を、精神分析が「破滅的退廃」として表象するような21世紀の主体の生を()、納得するに至っています。本稿を書くにあたっては、青井氏の享楽を分析してみるよう蛭川氏に依頼されたものの、その仕事は専門家が担うべきであり、むしろ「物語なき生」を生きる人々の群れをただ直視し、可能なら実地に交流して触発を受けることだけが、筆者にとっては真に学問的かつ倫理的な態度である、というつまらない結論を表明することで、お茶を濁させてください。

文化上の意味づけについて

 しかし、青井氏は自身が起こしたムーブメントはサイケデリクス文化の「サードウェーブ」であると嘯き、にゃるら氏が企画・脚本を担当した(精神展開薬の摂取による変性意識の演出を含む)ビデオゲームも好調のようです。むしろ人民は、ドラッグカルチャーの過剰性を深く必要とし、それを「物語」に包んで擁護したいようにも見えます。

 筆者が眺める景色を無批判に適用すれば、本稿が記述したような(精神展開薬の規制史上ほぼ最後に残った物質である)DMTの経験を、人民の知覚は自明性として肯定しているとすら言えます。筆者もまた、『NEEDY GIRL OVERDOSE』は全実績解除までプレイし、ネット文化の乾いた貧しさを反映した「狂気」の諸表象が肌身に染みたり面白いと感じたりはしなかったものの、破滅的なチップチューンサウンドや強迫的なダンスミュージックに絆されて、愛しうる無意味として受け止めたのは確かです。

 さておき、青井氏の「物語」を簡単に批判します。その問題は、ティモシー・リアリーに代表される対抗文化のイメージを素朴に保存している部分がある、という一点に尽きます。というのも、§1で触れた現代の「サイケデリックルネサンス」とは、リアリーの奇抜な実践によるLSD神話=カウンターカルチャーが当局を煽ったために、精神展開薬の医療研究そのものが禁忌になり、抹消された過去の研究が九〇年代に発掘された経緯を踏まえて、「ルネサンス」と呼称されているためです。自由な文化実践と医療化=制度化を両立させたいなら、歴史は慎重に参照するべきと思われます。

 さらに青井氏は、「ブラック企業をホワイトに変えるためにスピリチュアル技術を生かせたら」()といった「世直し」をも視野に入れています。ここまで来ると西海岸的と言いますか、ITエリートとも親和性が高い(革命とは似て非なる)改良主義にすぎませんから、白ける気分は否めません。

 この方面は不勉強なのでピントを外しているかもしれませんが、ポーランの著書によると、大衆からのLSD普及を重視したリアリーの「超越の民主化」に対して、エリート層にLSDを渡してトップダウン方式で社会に定着させたアル・ハバードという人物が存在し、西海岸文化を醸成してジョブズらに影響を与えた功績もハバードに遡られる傾向があるようです。

 リアリーとハバードの二項図式を投射すれば、ひとまず前者に当たる青井氏は、後者の末裔たるテクノクラートが支配する現代に内在し損なった、(筆者を含む)主には二級市民/貧困層の救済にあたってきたと評価できます。しかし、後者への振り幅を強めるならば、見通しは微妙です。

 見落としてはならない厳然たる事実として、現代世界では一級市民は大麻合法の国や南米に旅行して粛々と体験を済ませており、あまつさえ瞑想やマインドフルネスすら富裕層の趣味の一つにすぎません。本件を階級問題として捉えた場合、青井氏とその周辺のコミュニティを非難することは、現状では貧者同士のいがみ合いにすぎないと言うべきです。しかし、今後の趨勢次第では、そうも擁護してはいられない、ということです。

 例えば木澤佐登志氏は、渡邊拓哉氏による脱魔術化(必ずしも脱宗教を意味しない救済の徹底的合理化)/再魔術化(消費文化とニューエイジスピリチュアリティに分枝する個人的な宗教性)/反脱魔術化(脱魔術化に対抗し、かつ再魔術化とも区別される実践)という三つの区分を提示した上で*50ティモシー・リアリーの実践をアメリカの信仰復興運動=反知性主義の伝統に位置づけ、再魔術化の一つとして批判的に捉えています*51。こうした議論を踏まえると、当然にも大衆的だから良いとは言い切れず、筆者も当事者性が薄れた中途半端な位置にいるため、判断しかねるところです。

 青井氏という人物自体は少なからず「革命的」です。しかし、アヤワスカ茶をめぐる実践は治療という理念が強い以上、おそらく「改良的」に留まります。そして、活動の諸相を運動として束ねる物語の紡ぎ方は「場当たり」の一語です。今のところは「革命的楽天主義」と言ってみてもいいものの、結論は差し控えざるを得ません。

まとめ

 最低限に総括してみます。筆者のような「黙って勝手に救われてしまった」ケースが、暗黙裡に広く人民に行き渡っているとすれば、当事件はポスト世俗化の時代に行き場を失った貧困者の霊性に対する、ある種のイニシエーションの価値を見出すことができます。その体験が、なおさら幻想の宗教的価値をつり上げるのか、それとも内面を壊して「社会的なもの」へと向かわせるのか。断言できないものの、二者択一ではなく、その両方が可能になった現在時を証言できていれば幸いです。

 最大限に物語化してみます。半ば蛭川氏の意見でもありますが、青井氏と筆者がDMTを通じて獲得した、インドール酔いポリアモリーとオタク的フーリエ主義という全婚愛に着目すれば、当事件からは政治闘争を組織しない、身体と知覚に埋め込まれた潜在的な革命のイメージを抽出できます。それは青井氏が演出するムーブメントの裏側で、筆者のような暇人が理論化できればと考えています。

 ある出来事を特権的に個人化せず、「絶対的無分節」などの超越概念にも置き換えず、退屈で凡庸な狂いの一つとして「体験」を他者に譲り渡すことは、遅筆の筆者にとり「深遠な主体性」の幻想を破壊するための治療行為であり、ジャンキーの戯言という無を普遍化する営為でもあったことのみ()、最後に言い訳させてください。

*1:もちろん各方面に研究者は多数存在するものの()、今回の裁判については他の研究者に呼びかけても反応は薄かったようです。専門家が蛭川氏しか参加しなかった結果、弁護側が証拠用に提出した英語論文の監訳を担当したり、青井氏の裁判所結婚の証人になったりした事情が「第五回以降の公判」から窺えます

*2:参考資料-起訴状一覧

*3:青井氏は2022年1月11日の結審にて、「検事さんが「分離」や「抽出」という言葉を間違って使っていたとしても、あるいは分岐分類学の概念なども、用語の使用法が間違っていても、まあ、いたしかたのないことです」と、根本的には科学知の水準で本件を争っていることを強調しています。例えば阿片(芥子)とそのアルカロイドであるモルヒネには、抽出による科学的な区別と同時に、後者の医療活用による社会的な区別が成立しているものの、アヤワスカ茶とDMTにはそのような区別が未だ浸透していないことが、ここで問題になっています

*4:DMTを含有する植物は数多く、染料用に販売されるものからミカンなどの食品にまで影響が及びます。「DMT含有植物と薬草としての使用」など参照

*5:精神展開薬(サイケデリックス)」「神経伝達物質と向精神薬」「DMT ー ありふれた構造の特異な物質 ー」など参照。狭義の精神展開薬の中でも半合成のLSDとは異なって、哺乳類の脳内に発生する「自然の幻覚剤」である、というDMTの特異な性質こそが、司法の法解釈と薬理学・神経科学といった科学知の対立という当事件の図式を規定しています。議論は現在、純粋に刑法的な罪刑法定主義の問いへと移行しているようですが、法にも科学にも疎い私個人は、あえて言えば科学哲学の観点から当事件をどう解釈するべきかに関心を持っています

*6:後述する青井氏の「お茶会」が開催され、表層ウェブ上にも「トリップレポート」が散見される現在ですが、それに先駆けて2004年から2007年頃、蛭川氏は南米でのアヤワスカ茶体験を踏まえてカヴァ茶を点てる茶会「南華会」を催し、アルコール・カフェインに代わる薬用飲料の文化を模索しています。「南華会(旧サイト)」「南島の茶道 ーカヴァの伝統と現在ー」など参照。事件の背後には、宗教、瞑想、医療、あるいは娯楽、はたまた現代茶道といった、DMTにおける(筆者を含めた)相異なる文化実践間の緊張関係があり、これらの諸差異は法的闘争に際して留保されている状況と言えます。念のため付言すると、酒、お茶、コーヒーと幻覚剤を薬理作用において平等に思考する構えは、精神世界探求者(サイコノート)に特有の思い入れに因るものではなく、例えば薬理心理学の父モロー・ド・トゥールなどに遡ることができるものです。渡邊拓也『ドラッグの誕生 一九世紀フランスの〈犯罪・狂気・病〉』、法政大学出版局、2019年、206頁など参照。以下、渡邊2019

*7:なぜか鑑定員が青井氏の尿検査の試料を破棄しており、この問題が第一三回公判あたりから指摘されています。長澤靖浩氏「青井硝子裁判 残った争点と傍聴の意義の振り返り」など参照

*8:「初接見のとき、被告人は開口一番「麻薬及び向精神薬取締法の別表第一の七十六項のロです」と、法律の条文を正確に暗唱したという。つまり「DMTという物質は法律で規制されているが、DMTを含有する植物およびその一部分は規制の対象外だと明文化されているのに、これを所持していた自分が逮捕されたのは不当だ」と主張したのだ。弁護士は、これこそが本来の意味での確信犯だと確信したという」。「本来無一物 ー第一回接見ー」より

*9:普化振鈴

*10:上掲、長澤より

*11:本稿が留保する法的規制の議論に関して、詳しくは「「麻薬」を規制する国内法と国際条約におけるDMTの扱い」などをご参照ください

*12:鷹揚な蛭川氏から見ても奇矯な青井氏の言動の印象については、「第一回接見(改訂版)」に要約されています。また、日本における精神展開薬の非罰化・非犯罪化を目指す運動が、いわゆる左派層や政党政治との連携が手薄のまま、周縁的なものに留まってきた事情は、山本奈生『大麻社会学』「第7章 紫煙と社会運動 戦後日本の大麻自由化運動」などから伺えます

*13:京都アヤワスカ茶会裁判の争点」より、強調引用者

*14:憶測ですが、軽く眺めた限りではジョナサン・オットの著書「Ayahuasca Analogues: Pangaean Entheogens (1994)」から普及した概念のようです。青井氏は2ちゃんねるの雑草喫煙文化から出発し、海外フォーラムの情報などを参考にしながら、「代替アヤワスカ」の独自研究を進めてきたという経緯があります(

*15:京都アヤワスカ茶会裁判 ー アマゾンの薬草が日本で宗教裁判に? ー」より、強調引用者

*16:「お茶会」のケースであれば、青井氏のシャーマン的実践とユーザーとの直接的な相互作用が想定されますが、筆者や大学生の方のケースは、青井氏とは離れた場所で「体験」が生じています。本稿が焦点化するのは後者であり、前者の評価には触れられないことをご承知おきください

*17:https://twitter.com/ininsui/status/1485175089662664707

*18:京都アヤワスカ茶会裁判 ー アマゾンの薬草が日本で宗教裁判に? ー」より

*19:例えば「ピーター・ティール出資のサイケデリック企業、FDA承認で臨床試験へ | Forbes JAPAN」「治療抵抗性うつ治療薬「アールケタミン」の日本国内におけるライセンス契約締結について|ニュースリリース|大塚製薬

*20:裁判の行方 – 薬草協会」参照。現在リンク切れ。薬草協会は削除・改稿が多く、当時の記事の正確な引用が難しい場合があります

*21:DMTがもたらす心的変容の一人称的記述については、石川氏による「アマゾン・ネオ・シャーマニズムの心理過程の現象学的・仏教的研究」が最も典型的かつまとまりが良いと判断されます

*22:1912年のハーグ阿片条約()、続く1925年のジュネーヴ阿片条約で拡張された「危険薬物」の規定が、現在ドラッグと呼ばれるもののプロトタイプと考えられます。渡邊2019、150-151頁

*23:佐藤哲彦『ドラッグの社会学 向精神物質をめぐる作法と社会秩序』、世界思想社、2008年、174-175頁

*24:薬物依存症 【シリーズ】ケアを考える』『誰がために医師はいる――クスリとヒトの現代論』など

*25:包摂モデル自体の是非は検討できません。ただ、実際に(文化的に)包摂して、(医療的に)包摂されてしまっている現在の諸条件を整理しておくことは、対抗文化としての意味付けを慎重に検討し直すためにも、無駄ではないと考えます

*26:例えば斎藤環氏は、鈴木大拙の「即非の論理」が統合失調症様の意識経験を伴う論理形式だと指摘し、大拙が讃える妙好人の浅原才市をアガンベンが言う「アウシュビッツの回教徒」の絶対的受動性と重ね合わせた上で、自身はこれを超克する新たな「人間の条件」を構想中であると語っています。斎藤環鈴木大拙――「即非の論理」の残りのもの」、『現代思想2020年11月臨時増刊号 総特集◎鈴木大拙』所収。悟り=見性=変性意識体験そのものに執着する「禅病」「魔境」に対する批判としては有益ですが、精神病理学のノルムが可能とする論理の飛躍に異様さを覚える論考でもあります

*27:小泉義之『あたらしい狂気の歴史 精神病理の哲学』、青土社、2018年。精神分裂病統合失調症概念の実質的な解体については70-74頁。「精神「分裂」病と呼ぶにせよ、「統合失調」症と呼ぶにせよ、正常者における精神諸能力の統一・統合(快調?)なるものが引き裂かれる(調子外れになる?)ところに基礎障害を見て取る命名法になっており、その類の命名に依存した精神病論は分野を問わず膨大に書かれてきたが、私は、それらの書き物に納得したことは一度もない。もっと強く言えば、過去の分裂病論や統合失調症論のうちで残すに値するものはほとんどないと思っている。いわゆるポスト構造主義において、主体性・主観性を脱中心化し、それを根源的に切り裂かれた存在者と見なす議論構成は、正常者の主体形成も分裂者のそれと変わらないと見なす議論であり、精神病理学精神分析疎外論の影響下に形成されてきたものであるが、それにしても私は、何の発見的価値もない議論であると思っている。人間の精神は、裂けるか否かで片づくようなものではなく、もっと手強いものであろう。」279頁より。以下、小泉2018

*28:この話題を人に話した際、筆者の「薬物嗜癖」の遠因をKに帰責させるような反応を返されたので強調しますが、本稿に記す筆者の愚行はKにも青井氏にも由来せず、全て筆者自身に責があります

*29:純化しています。具体的な制作過程については、作家としてのインタビュー記事「青井硝子さんに聞いてみた」を参照

*30:道ばたに生えている草を何でも吸ってみるヤシの集うスレまとめページ」など

*31:当時は「青井堂」との名称だった気もしますが、「薬草協会」で統一します

*32:この事態について、青井氏は『雑草で酔う』78頁にて「プチ炎上」として軽く言及しています

*33:含有植物から摂取される外因性DMTと、瞑想・臨死体験・睡眠時等に分泌される内因性DMTとは、判明に識別しがたい微妙さを含むものの、裁判に要請されて強調されている区別です。そして青井氏の怪物性は、「外因性でブーストした結果として常に内因性が出まくっている」ような、いわば超越経験を内在化した生の様式を発明したことにあると表現できます。しかし、であれば内在化を徹底して、トリップという「旅」のイメージで外因性の意識経験を特権的な「外部」として表象すること自体の是非が、今後は問われてよいはずです。本稿もまた、日常とは異なる「変性」意識を便宜的に指示した「体験」概念を多用してしまっているため、これは向精神物質と共に生きることの別の語り方を模索していく上での課題として、提起するに留めます。ひとつ参考例を確認すると、椹木野衣氏は「もうひとつの世界」に「行って帰ってきた」ことに基づく「みやげ話」的な観念論的サイケデリック芸術に対置される、今ここにある世界を見ることの強度において再発見する唯物論サイケデリック芸術について論じています。椹木野衣唯物論サイケデリック芸術の方へ」、『ユリイカ1995年12月号』所収。筆者の体験の質について贅言すれば、繰り返すにつれて「幻覚」を見ることは徐々に減り、「現実」を構成する諸々の認識を変形させることに関心が移っていきました

*34:体験者の認知的確信については、ウィリアム・ジェイムズが言う「認識的性質」として説明される傾向があります

*35:女性身体に対する同一化の問題は、笙野頼子氏が「魂の性別」を法的に認可する性自認法案に反対し、生物(学)的身体を強調する他称TERF問題にコミットしている件を見ても、男性側から見解を整理したい論点ですが、機会を改めるしかありません

*36:もっとも、青井氏自身も内因性DMTを快楽に活用しうることは否定していません(

*37:井上民基(id:nito5517)氏「国立病院で教授と対談「幻覚剤」 - 某研究室研究員」など。蛭川氏によると、薬草協会の存在は理系の大学生の方をメインに、そこそこ認知されている印象があるそうです

*38:このナショナルな「ネオ主体」の認識論的機序については、拙稿「情念の一義性―フーリエ情念論とスピノザ並行論の偶然的結合、あるいは愛の新世界を生きるためのエチカについて」をご参照ください。補足すると、「情念 passion」は心身二元論の中間にあって身体と精神を繋ぐニュアンスを持つ概念であり、古代ギリシアから初期精神医学に受け継がれた際は「中毒者の薬物に対する欲望」との関わりで多用された概念でもあります。渡邉2019、76-79頁など。フーリエ情念論がピネルやエスキロールといった同時代のフランス精神医における「情念」の語法から影響を受けたかどうかは分かりませんが、こうした文脈において拙稿もまた、「21世紀のサイケデリックルネサンス」が書かせたものと言わざるを得ません

*39:宗教学では「聖なるもの」を無用なゴミ箱概念と捉える見方が強いようです。『nyx 第5号 聖なるもの/革命』

*40:蛭川立『性・死・快楽の起源―進化心理学からみた「私」』、福村出版、1999年、187-206頁

*41:中島一夫氏「革命の狂気を生き延びる道を教えよ その2

*42:著者の見解」など

*43:立木康介氏が論じる「普通精神病」概念に対する批判は小泉2018、84-87頁。また、松本卓也氏が現代ラカン派の理論展開を特集したニュクス第一号については、「特集執筆者たちが「軽症化」を殊更に強調したがるのはある種の防衛機制でもあることが見えてくる。仮にラカン派が、自閉症を精神病圏に位置づけるというなら[…]、近年のスキゾフレニーと精神病の「軽症化」や自閉症スペクトラム化を批判するという厄介な課題を引き受けなければならないはずであるのに、そこを避けているように見えてくるからである。しかも、レオ・カナーによる幼児自閉症概念の提唱以降、自閉症分裂病の関係や自閉症と精神病の関係が一大争点となっていた二〇世紀半ばからの歴史を「時代遅れ」の一言で片づけられるはずもないのに、そこを避けているように見えるからである」との疑義があります。小泉2018、155-157頁

*44:「狂人」の社会的疎外の解決が労働者や被抑圧者の解放と連携して類的人間の真理を明るみに出す、といった物語を作り出すような狂気論の「人間論的な円環」(フーコー)はすでに破綻して久しく、例えばガタリのような精神-心理系の専門家としての「余計者がやって来て、回収不能者[狂人]に起爆されて変革や革命に赴いていく」ことは「戦術的に認めてもよいのだが」、そのような「当面の戦術として結合すべき専門家も反-専門家もいなくなっているとしたら、人間論的な円環の内部でおのれを反省する余計者など一人もいなくなっているとしたらどうであろうか。そして、いまや留保抜きに、回収不能者が「原始」に還っているとしたらどうであろうか」と、小泉氏は「吉田おさみが夢みていたユートピア」が実現したとの現状認識を述べています。小泉2018、214-224頁、強調引用者。青井氏という「狂人」自身が革命の物語を演じるしかなかったこと、青井裁判に専門家が蛭川氏一人しか参加しなかったことには、こうした背景が想定できます

*45:将来的に日本が精神展開薬の医療活用を進めることになった場合にも、当然ながら運用上の課題が噴出すると思われますが、さしあたりここではSSRI等の処方薬を指示しています。ただ、DMTで無手勝流の「自己治癒」ができてしまった筆者の立場から、精神科に通院している当事者を薬物療法ごと批判する資格など無い、とも自覚されます。一点だけ補足すると、現今の精神医療制度の外部を必要としている人間においては、青井氏をめぐる喧々諤々も、本稿の社会的な問題意識も、気に食わなければ一切無視して構わないし、理想的には自身の判断にのみ依拠して自己を統治するべきであるのは、言うまでもないことです

*46:「自由あるいは狂気そのものとしての超越論的愚劣」の主題の下、筆者の体験をオタク論やセクシュアリティとの関連で論じたものに、プロジェクト・メタフィジカ紙版収録予定「模像の消尽のためのエスキス」があります。刊行されたら告知いたします

*47:「偽薬ではない狂気、毒することも癒やすこともない狂気、毒されることも癒やされることもない狂気、見世物になることのない狂気、芸術へ昇華することもなく生き方として作品化することもない狂気、それが「もっとも手ごわい問題」である。それは、「レストランで、トマト・ケチャップをがぶ飲み」するような「日常人」の狂気のことである。解放の夢とすでに無縁になっている人間の狂気、およそ芸術化も作品化もできない狂気、知覚され認知されるだけの狂気、その「コレクション」を作ったところで「取るに足らぬ年代記」にしかならない狂気、いま「われわれ」はそのような狂気に出会っていると、東野芳明は言い始めていたのである」。「精神の狂気について、新たに考えるべきことは何もない。いま問題とされるべきは、行動である。それが一回であれ反復であれ、行動の狂気こそが問題である。いたるところで、大小強弱濃淡さまざまな形で立ち現れつつあるところの、狂った行動、奇怪な行動、奇矯な行動、逸脱した行動、奴隷的な行動、非合理的な行動、不自然な行動、非慣習的な行動、反道徳的な行動、背徳的な行動、ルールに反する行動、公序良俗に反する行動、正義に反する行動、民主主義に反する行動である」。小泉2018、230・245頁

*48:「人は、狂った言語を駆使することによって、おのれが狂人であるとの真理を語ることができる。それはちょうど、人が理性的言語を駆使することによっておのれが理性的主体であるとの真理を自己確信し相互承認されるのと同じことである。言語の狂気のゲームは、超越論的で相互主観的な自由を基礎とする言語の理性のゲームの双対になっているのである」。小泉2018、249頁

*49:江川隆男スピノザ『エチカ』講義』、法政大学出版局、2019年、204頁

*50:渡邊拓哉「再魔術化の文化研究 : 20世紀後半期における自己変容の技術と欲望

*51:木澤佐登志『失われた未来を求めて』、大和書房、2022年、156-174頁