おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

雑記(幻覚剤ルネサンス以後のフーリエ主義者の方針について)

 このアカウントを作ってから得難い出会いが多々あり、善き触発と欲望の変形を被ってきました。その過程を再構成するべく、今回は緊密に書いてしまうクセをなるべく排し、意識して冗長に日記をつけてみます。千葉雅也ほか『ライティングの哲学』を読んでそう決心するも、成功したかは微妙です。

§1 同人誌について

 宮﨑悠暢氏()の主催による同人誌『PROJEKT METAPHYSICA Vol.1』に、論考「模像の消尽のためのエスキス」を寄稿しました。

 きっかけは宮﨑氏にドゥンス・スコトゥスの動画を見つけていただいたことに遡ります。宮﨑氏は当時、VTuberを主題にした評論同人を企画されており、そこに寄稿依頼をもらって、2021年2月に書き上げました。しかし諸事情で企画が頓挫し、現在の「プロジェクト・メタフィジカ」が再企画され、ようやく掲載に至った形です。やきもきする一件でしたが、腐っても出版社にいる人間として編集業務でも手伝うべきところを丸投げしたので、さておき。

 文系の大学生の方をメインとする執筆陣に一回り老いた無産者として参加した立場から、各論考の詳細を措いて率直に感想を述べれば、広く取って筆者を含めた平成生の世代における「ゼロ年代」的と呼ばれてきた問題意識の昇華ぶりに、瞠目する一冊となりました。

 とくに倉井斎指氏の『カードキャプターさくら』論と宮﨑氏の『キルミーベイベー』論が心に沁み、両者は「オタク的なるものの(非)政治」というニヒリズムの問題を深く生き抜きながら、そのうえで世界を信じ直す方法(=愛)を語ろうとしています。

 やはり筆者の論考も同じく、当ブログの過去記事に書き尽くしたオタク的ニヒリズム(宮﨑氏の語彙を借りればルソー的な脱自然化の円環)を、クロソウスキー的な脱神秘化と再神秘化が反復される〈悪循環〉と捉え直し、VTuber文化まで一貫する〈余剰の人間達による陰謀〉として肯定することで、世界と我々の愚かさを信じ直す方法(=愛)を語ろうとしたものです。

 後続にバトンタッチしたい論点は註に回すとして*1、筆者自身はこの論考と前回の記事を書き上げることで、歴史的主体として証言すべき過去を消化し切ることができました。結果、東京に比した京都の環境の良さと相まって、二〇代までの気鬱が嘘のように晴れ、能天気な三十男の余生を迎えるに到っています。

 湿った実存が消えたので、今後は後続の助けになる活動でもしたいと思う一方、若い頃に上の世代のお節介をどう感じたかと言えば、端的にウザかった筈ですから、引き続き一人で好きに生きます。その上でなお、①後続から見て恥ずかしくない生存の仕方を示すこと、②最低限のコミュニティを維持することを、当アカウントの課題にしておきます。

 上掲したプロジェクト・メタフィジカの企図は、「生活的事実としての消費文化に対する愛憎を否認せずに、在野で哲学的論考を自由に書き継いでいく場所作り」だと理解しています。この宮﨑氏の理念あるいは切迫に、「在野研究」をするには関心も能力も狭い高卒のデラシネとして行き場のない筆者は共感しており、②の課題を満たしうる実践として、協力を惜しまないつもりです。かたや、①の課題は一人で詰めたいところです。

 つまり、実存的にも時代的にも「オタク文化」なる問題設定が機能不全を来して久しい現在、そのような我々特有の愚かさを文化批評では捌ききれない倫理的課題と捉え、全人的なアプローチを行うことで、消費文化への内在を「単なる生存」の一様態として批判的に肯定する作業を継続していきたいのです。次節以下、これについて説明します。

 当ブログが反復してきた「ゼロ年代嫌い」は、サブカル批評という方法(あるいはそれを相互補完してきた映像分析やカルチュラル・スタディーズなどの専門知)の狭苦しさに対する反発にすぎず、別の角度から同じ問題を分節することで、消費文化の当事者とはもちろん、それ以外の他者との共同性をも確保する書き物は続けたい所存です。

 

§2 フーリエ主義者同盟について

 それ以外の他者との共同、という話題に移ります。前回、青井硝子裁判を通じて知り合った人類学者・蛭川立氏()と筆者の二人で、シャルル・フーリエ主義者同盟を結成したことに触れました()。次いで2022年5月6日、青井硝子氏の結婚式に参加するために蛭川氏が関西に来た折、京都の筆者宅にて第二回の党会議(?)を行いました。

 謎の無産者、謎の人類学者、謎の社会思想家という組み合わせです。青井裁判という謎の事件を注視してきた筆者と蛭川氏が、なぜフーリエという周縁的な社会思想家の名のもとに意気投合するに到ったのか。筆者もまだよく分かっておらず、はたから見ても限界オタクと異常学者の野合にすぎないはずです。

 事情を説明する前にあらかじめ図式化しておくと、両者は在野とアカデミア、人文科学と神経科学、反現実性愛と現実性愛といった緊張関係にありながら、それらの対立項はフーリエにおいて調和しうる、という直観を共有しているようなのです。

 まずは蛭川氏のフーリエ受容を簡単に代弁します。蛭川氏は人類学研究のフィールドワークにおいて世界各地の文化状況を見て回った経験を踏まえたうえで、日本の高度な生活水準・医療環境・性愛文化を再評価しようとしています。そこにフーリエのビジョンを写し見て、「日本文化はすでにして恋愛と美食のユートピアの前衛である」と考えるに到ったそうです。

 筆者も同様に、キャラクター文化の究極的な快楽を肯定的に理論化するべくフーリエを読んできました()。一方で蛭川氏の場合、ポリネシアや日本など太平洋諸島に見られる色好みの文化をフーリエがすでに指摘していた、といった文化人類学上の判断も絡んでおり、平安貴族の多情な恋愛文化とも接続して理論化したいと語っています。

 蛭川氏の大まかなビジョンはこうなります。我々の現実にフーリエ『愛の新世界』を重ね見ることで、日本人はその生存の自明性をより深く肯定し、恋愛平民から恋愛貴族に進化するべきである。一夫一婦制の単婚愛に満足する恋愛平民ではなく、多婚愛と全婚愛を生きうる恋愛貴族であることを自覚するべきである。そのことによって、従来のルサンチマンに塗れた階級闘争ではない、悦びに満ちたオルタナティブな政治を生きるべきである。

 フーリエの錯綜したテクストの解釈も絡んで、この主張を支える論点は多岐に渡りますから、本人による諸論を待ちたいところです*2

 両者の接点について補足すると、蛭川氏がキャリア最初期に「セックス・サイケデリックス・サイバネティックス」との論考を書いたうえでフーリエに行き着いたことは示唆的です*3。というのも筆者もまた、主には『カスタムメイド3D2』シリーズにおいてバーチャルセックスの快楽を味わい尽くし、青井硝子事件において精神展開薬の快楽を味わい尽くし、バーチャルYouTuberにおいてテクノロジーの快楽を味わい尽くし、もって特異な社交の快すら享受してしまっている自己の現実を説明する必要に迫られ、否応なくフーリエに行き着いたためです。

 つまり筆者と蛭川氏は、セックス・サイケデリックス・サイバネティックスという三つの極限的な快に衝き動かされる存在として自己と他者を受け止め直し、市民道徳ではなく身体の力能の自覚に結びついた徳の倫理を共有しながら、21世紀に相応しい社会思想の実験を目論んでいるようなのです。

 本稿では準備が足りませんから、以下には両者の飛躍したフーリエ的直観(あるいはユートピアンの幻視)を開陳・記録するに留めます。さしあたり、二人のフーリエ主義者が引き寄せられた青井硝子事件の価値に即して補足します。

 

§3 怖るべき囚人の陶酔論

 諸外国における精神展開薬の医療制度化(=幻覚剤ルネサンス)が日本に波及するのを待たず、個人の信念によってアヤワスカ・アナログを広めてしまった青井氏の活動は、蛭川氏に言わせれば精神医療における「暴力革命」にほかなりません*4バロウズが南米へ探しに行ったヤーへの精巧な模造品が日本の若者に行き渡ってしまった、という言い方をすれば、文化的にも何らかの転換を見たくなる事態です。

 しかし、蛭川氏が知り合いの研究者に青井硝子裁判について話しても、ほとんど関心を得られないそうです。なぜか。おそらく学者に色々と余裕がないから、という共通見解に落ち着きました。そういう蛭川氏は、自身を「大学の終身雇用制度の恩恵に与ることができた最後の世代」だと言い、仕事量を減らして(あえて言えば)余裕をもって楽しみながら青井事件に関わっています*5。一方で筆者の関心にある人文学の状況を眺めれば、非常勤やポスドクの世知辛い話はよく見かけますし、あとで見るキャンセルカルチャー問題も非常勤講師の経済問題に還元できなくはありませんから、納得せざるを得ません。

 そもそも、なぜ学者の関心や助言を得たいのか。蛭川氏は「面白い事件があるよ」ぐらいのノリだったそうですが、筆者を含む事件に関わったユーザーにとっては、サイケデリクスの薬理作用で解鬱するだけでは詮無く、その経験をいかに解釈し、事後にどう生きるべきかを判断するための知識は、多いに越したことはないという事情があるためです。

 実際、青井氏に「ユーザーの体験後の生」を意味づける物語知=ナラティブの高度な構築まで期待するのは酷です。筆者は体験を青井氏のノリで軽々と意味づけることも、スピリチュアル文化に合流もできなかったため、既存の研究を承けたうえで最低限記述できる我々の置かれた歴史的条件を、少しく苦労して前回にまとめたことになります。

 幸い筆者は、もともと内向的でDMTと相性が良すぎるぐらいに良かったおかげで、青井氏に頼らず自前でナラティブを再構築できているわけですが、体験が良い方向に作用しなかったケースが存在している可能性も十分想定できますから、青井氏を承けた上でそれとは異なるナラティブを用意しておきたい、という余計な配慮が働く次第です*6

 青井氏の新著『獄中で酔う』は、留置所生活の楽しさを「酔い」の類型論によって説明しています。これは青井氏が精神変容物質の独自研究に基づきつつ、接見において蛭川氏と影響を与え合って形成したアイデアだそうです*7

「『酔い』には、ざっくり三種類あります。『オピオイド酔い』と『カテコール酔い 』と『インドール酔い』です。人間は生きているかぎり、何かに酔っていなければ生きられないというわけです。留置所は社会の外部ではありません。むしろ社会の縮図です。留置所という厳しい環境では、闘いの適応戦略が試されます。氷河期にネアンデルタール人は滅びましたが、ホモサピエンスは闘って生き延びました。ホモサピエンスは三種類の『酔い』を使い分けて生き延びる戦略を進化させました」*8

 

「酔い」 オピオイド酔い カテコール酔い インドール酔い
神経伝達物質 エンドルフィン ドーパミン セロトニン
    ノルアドレナリン DMT
向精神薬 オピオイド鎮痛薬 精神刺激薬 精神展開薬(psychedelics)
依存性 身体依存 精神依存  
耐性 耐性 耐性 逆耐性
宗教 [国家宗教としての]キリスト教 資本主義 仏教
欲望 禁欲 欲望 瞑想
支配 被支配 支配  
闘争 ルート1 ルート2 ルート3
愛の様相   恢(ハイ) 愛(アイ)
合言葉 (閉じていく) やってやり やっていき

 歴史と宗教と実存を神経伝達物質の作用に還元する、マッドサイエンティストの粗雑な図式化に見えるはずです。

 ところでフーリエは、歴史と宗教と実存を情念引力の作用に還元します。全ての差異に言われる唯一の同じもの、〈情念の一義性〉を信じることが、筆者のスピノザフーリエ主義の要諦でした()。これに類比して好意的に捉えれば、青井氏は〈神経伝達物質の一義性〉を信じる、独自の形而上学*9のプログラムを提示しようとしています。

 さておき、酔いの類型論の眼目は、インドール酔いが他のふたつの酔いの「耐性」をリセットする「逆耐性」作用を持つことを強調する点にあります。詳しくは『獄中』を参照いただくとして、筆者なりに説明すれば以下の通りです。

 オピオイド酔いとカテコール酔いはインフレーションすることで「脳汁」が出づらくなり、感情の強度を維持するための攻撃性や禁欲性をより多く求めさせます。そこにインドール酔いを挟むと、いずれにせよ本性的に過剰を求める受動感情の無際限性と、そのような感情によって自他を価値付けてきた心的過程が自覚されます。その出来事が、微細な酔い(知覚・刺激・情動)を都度キャッチする力能を形成し、その力能を行使しうること自体の幸福に気付くことで、かえってマイルドな快楽に充足できるようになる、という次第です。

 これを言い換えると、アヤワスカ(・アナログ)という外因性DMTによる超越経験のあと、それに促進された内因性DMTの分泌によって、あらゆる世俗経験を微細に知覚し直して肯定的に認識できるようになります。これが長期のDMT摂取経験を持つ筆者、蛭川氏、青井氏が共有した生の過程です。また、精神展開薬がそれ自体に対する依存性を形成しづらい所以でもあります。

 ところで筆者は以前、左派の規範的判断としての資本主義批判の正当性を、ストア派の諦念に基づいて監獄の内部の快楽に充足する、〈怖るべき囚人〉という概念的人物をモデルに留保しておきました()。そして『獄中で酔う』における青井氏は概念ではなく、実際に監獄の内部に囲い込まれてなお内因性DMTによってインドール的に酔い、いわば「生きること」そのものに宿っている微細な快楽を享受することで、「刑罰制度の本質的な部分を骨抜きにして、逆にそのことで牢獄の中の現状と牢獄の外の現実を批判する力を発揮」してしまっています*10

 すなわち、筆者と蛭川氏のサイケデリックフーリエオプティミズムから最大限に評価すれば、こうした一連の実践において青井氏は、過度な悲しみ(オピオイド酔い=受動的ニヒリズム)と過度な怒り(カテコール酔い=反動的ニヒリズム)に基づいて世界を価値付ける人間精神を批判、というより本能的に回避して、特異な愛あるいは喜びの感情(インドール酔い=否定的‐能動的ニヒリズム)だけに基づく政治闘争を実践しているように見えるのです*11

 筆者の体感で言い換えれば、DMTによって人間本性としてのニヒリズムは非物体的な変形を被り、さらに事後を善く生きられた場合にはルサンチマンが最小化する。おそらくは、ここに〈怖るべき囚人の陶酔論〉の要諦があります。

 そして、薬物依存症やサイケデリクス文化に対する大方の「不健康」なイメージに反して、あえて言ったこのような「大いなる健康」を結実させてしまうDMTと、それが垣間見せる精神のユートピアに基づいて言えば、もはや精神医療に期待すべきは精神展開薬の制度化=幻覚剤ルネサンスの加速だけである……と、言ってみたくもなるのですが。

 

§4 社会の精神病院化

 まさしく幻覚剤ルネサンスの先駆けと言われる、リック・ストラスマンによる1990年頃のDMT研究(原著2001年)を参照してみると、幻覚剤を体験済みの被験者からデータを取っていることもあり、報告される精神変容の諸結果にさほどの感興はなく、むしろそれを評価するスケールや実験方法を設定すること自体の困難、行政手続きのカフカ的迷宮、既存の仏教コミュニティとの軋轢といった論点から、この話題の楽観視できなさを教えられる一冊でした。

 大麻使用罪創設が今さら云々される本邦で言っても虚しくなりますが、DMTの基礎知識については一見胡散臭く見えるこの文献を広く勧めることにして、本節では精神医療制度との関連において、フーリエ主義者が取るべき態度を示唆してみます。

 蛭川氏と青井氏の予想を聞くに、日本において精神展開薬による治療実践が制度化して浸透するのは、今後よくて十数年はかかる見通しだそうです。それゆえ、その実現をより良く「待ち構える」方法を練るぐらいが、無産者に可能な態度となります。そうすると、例えばアディクション臨床専門医の松本俊彦氏などがプラグマティックに採っている「依存症患者の社会復帰」路線には、不十分さを感じざるを得ません。

 前回少し触れましたが()、その擁護論はハームリダクションなどの社会福祉・包摂モデルに留まる傾向があり、患者が復帰させられるところの「健常者の社会」そのものの積極的変形を含んでいないように見えるためです。よってそうした議論には、「病人」側から社会の変形を含んだ観念を挿入することで、現社会に蔓延しきった公衆衛生意識そのものを根こそぎにしうる、批判的かつ肯定的なビジョンを醸成していくのが理想と言えます。

 ところで、現在の蛭川氏は教職だけでなく、国立トップとされる精神科病院の研究員を兼任しているのですが*12、以前ここの病棟に患者として入院していた時期があったそうです。

 その入院の理由は、「「健常」とされる社会のほうが、病識を持つことができないほど管理され尽くした狂気の戦争機械であることに気づいた」ためであり、「その社会において「病識」に目覚め、主体的に精神科病院に入院することは、じつは後期資本主義における生権力の作用から「退院」することだと気づき、主体的な選択として任意入院を選んだ」とのことです。

 そして、その入院生活の心地良さや患者同士の特異な共同性にも感動したらしく、一般に「狂気」「幽閉」のイメージで忌避されている精神病院=監獄のユートピア性をこそ積極的に語るべきである、とよく仰っています。この点で蛭川氏もまた、筆者や青井氏と並ぶ〈怖るべき囚人〉の一人だといえます。

 その入院記録の出版企画を各所に持ち込んでは、出版社にも大学人にも理解を得られず断られているそうです。どうやら蛭川氏もまた、そのような「病人」が生きる監獄の快をモデルに、社会そのもの、あるいは社会認識の変形を夢見ているようなのです。言うまでもなく筆者もまた、真性童貞者のポルノ中毒という筆者自身が生きる監獄の快をモデルに、万人が病者であるような社会を肯定し切ることを夢見ています。

 もちろんこうしたビジョンは、例えば各種当事者コミュニティの実践や当事者研究の蓄積と並べれば、インテリとジャンキーの戯言ではと懐疑されても仕方ない段階に留まっていますから、このような留保なきユートピア精神を持つ学者が今でも存在している事実のみ、ひとまず紹介したまでです。

 

§5 性政治の不可能性

 ここまでで、筆者と蛭川氏と青井氏の欲望を〈監獄の快〉として括っておきました。こうした〈囚人〉あるいは〈病者〉は、現在の社会的混沌をいかに思考しているのでしょうか。一時は「印刷されたTwitter」と話題になっていた気がする、ポリフォニックな執筆陣が美しい左派論壇誌「情況」の感想でも述べてみます。

 詳細は伏せますが、蛭川氏はコロナ禍に際してウイルスに関する正しい知識の発表を求めたところ所属する大学の同僚と揉め、さんざんフーコーの生権力論や管理社会論について講釈を垂れてきたくせにマスク着用道徳を推し進めている左派の同僚に失望し、本人いわく転向して「頭の良い右派になりたい」そうです。

 こうした状況を十全に代弁した上で、「やるべきは左派を見捨てて反ワクチン派(頭の悪い右派)にイデオロギーを外部注入することである」とアジるのが外山恒一氏であり*13、若い世代に外山合宿の出身者が増えるのを見るにつけても、自称ファシストが最も良心的な政治活動をしているように見えてしまうのは確かです。

 それと比べればどうでもいいと言いたくもなるキャンセルカルチャー論争については、他者の共同性を「ホモソーシャルの幻想」に切り詰めて自己の所属する大学共同体のお上品さを言挙げするばかりの小心翼々たる嶋理人氏に比べれば*14、本誌の特集そのものが女性差別の再生産であると全力で憤る藤崎剛人氏のほうが、まだしも自己の正義を貫く姿勢に感心できます*15。それでもやはり、端的に議論の具体性において柴田英里氏*16や山内雁琳氏*17に説得力を感じてしまうわけですが。

 前段落で触れた前二者のような(「リベラル」はもう嫌なので)若い大学左派に対して、筆者が一時期本気で怒っていた論点を一応確認しておけば、「消費文化に生きた自らの欲望を分析し切らずに他者の性観念を批判する」身振りでした。しかし、その程度の不徹底は大衆も見抜いていますから、今ではネット右派に十分な攻撃を受けています*18

 こうした社会的諸力を総合して見れば、むしろ「精神分析的に突っつくと痛がりそうな他者の弱い部分」については互いに寛容になり、各人の正義を認めて放っておく態度が、倫理に適うと考えています。なにしろ、これらの空中戦で終わらず、完全に別世界で欲望を解放していると言うべき、肉体を毀損したメタバース生活を送るデジタル・グノーシス主義者である蘭茶みすみ氏の文章なんかも載っていることこそ、本誌の美点と言えるためです*19

 こうした文脈に筆者や蛭川氏のケースを付け加えてみると、今の時代は市民道徳を何らかの形で相対化した広義の「保守」が強すぎる気がしています。つまり、底が知れた大学左派の「批判」を何ほどとも思っていない、セックス・サイケデリクス・サイバネティクスを肯定する人民達による倒錯的貴族主義が、広がっているよう感じるのです。

 ここで飛躍しますが、こうした諸価値の混迷にあってこそ、アンシャン・レジームが崩れて諸階級のヒエラルキーが混乱したフランス革命期から復古王政期にかけて、社会的諸矛盾の渦中から女性の地位向上(今日のフェミニズム)と恋愛文化の多形倒錯的発展(今日のキャラクター文化)というコアを取り出して社会進化を思弁してみせたフーリエが、社会認識上の定点を設定すると思われます。おそらくフーリエに言わせれば、このような事態は文明紀から保証紀へ移行する過渡期に起こる当然の混乱であり、調和紀という未来の至福を見据えれば騒ぐにも値しない自然な出来事のはずです*20

 また、絓秀実氏がドウォーキンのポルノ批判の失効と第四派フェミニズムにおけるシスターフッドの相対化を承け、小泉義之氏が再評価するレズビアン分離主義*21の価値を検討しているのを見ても*22フーリエの女性同性愛嗜好にならって百合的欲望を笙野頼子作品のようなレズビアン分離主義に接続する正しさを、確信するばかりになります。

 以上を平易に言い換えれば、「闘わない大学知識人」や「フェミ」を笑うのではなく、限界まで退廃した「オタク」的なる(潜勢的な不在の)人民側から友愛を維持しつつ、不可能と化した性政治の問題系を変形する、独自の社会認識のモデルを提示しうる立場として、フーリエ主義を立ち上げたいのです。無関係な他者との連帯を信じ続ける思想として、マルクスフェミニズムが機能不全であるならば、フーリエで補うしかない気がしています。

 

§6 バタイユからクロソウスキー

 性政治の不可能性にサイケデリクスとかけまして、興味深い人物を紹介します。1960~70年代にドゥルーズ思想を用いて一夫一婦制と性器的快楽を批判・解体する肛門性交革命論を構築し、アルゼンチンの同性愛者解放運動を率いたものの、80~90年代にはエイズ問題によるコンドームの普及によって同性愛のラディカルさが失われたと考えて「性政治の終焉」を語り、晩年はサントダイミに入信してアヤワスカによる霊的実践とバタイユ思想による神秘神学に救いを求めたという、ネストル・ペルロンゲル(Néstor Osvaldo Perlongher - Wikipedia)なる詩人・人類学者です。

 若手のドゥルーズ研究者が編纂した論集にて廣瀬純氏が紹介しており*23、筆者には他人とは思えない人物でした。筆者もまた、キャラクター文化の快楽に基づく性政治的ラディカリズムが不可能であるかのような世間苦で塞ぎ込み(筆者の苦は結局のところ病苦ではなく世間苦でした)、バタイユ読書とアヤワスカ・アナログに救いを求めて二〇代後半を潰したためです。

 その時の切迫感も今では忘れかけていますが、例えば最近翻訳されたニック・ランド『絶滅への渇望』は、当時の憂鬱を想起させられる読み味でした。バタイユを無害化するデリダ以後の脱構築派に対する嫌というほど執拗な悪罵は、まさしく大学外で低次唯物論的リアリティを一人生きていた筆者が書きたかったものであり(そしてランドが書いてくれたおかげで書く必要がなくなったものであり)、我々は(少なくとも筆者は)加速主義を笑える地点には未だ達していなかったのだと痛感させられます。

 これはサイケユーザーに向けたお喋りですが、§3の青井陶酔論をここに適用すれば、アンフェタミンを友とするランドは「カテコール酔いのバタイユ主義者」であり、DMTを友としたペルロンゲルと筆者の場合は「インドール酔いのバタイユ主義者」だと言えます。この差異についてはいつか書くとして、死の否定性へ突き抜ける思考を十分満喫してこそ、バタイユからフーリエに鞍替えできた、と説明したくはなります。まずはランドと共に死を味わうこと、死は思考において構成しうること、よって肉体的に死ぬ以外の道もあると知り得ることが、本書の健全な価値かと思います。

 ドゥルーズからバタイユへ向かったペルロンゲルの屍を、性政治も神秘神学も不可能になった地点で弔うべく、ペルロンゲルとは逆にバタイユからドゥルーズへ向かった(ように見える)ランドの方向性を検討するにあたっては、上掲論集において「ドゥルーズを読むならクロソウスキーも読むべきである」とする山﨑雅広氏の研究に勇気付けられました*24

 山﨑氏の論考の要諦は、永劫回帰を外側から存在論化するドゥルーズの不十分さを、永劫回帰を内側から生きるクロソウスキーによって補うこと、言い換えれば「思想を語るに際して身体を供与すること」にあるようです。筆者にはこれこそが、「革命の狂気」を検討し続けるための前提条件だと思われています。

 また、『生きた貨幣』における「サドからフーリエへ」の跳躍というクロソウスキーの妄想を、真剣に検討している松本潤一郎氏の論考をも、筆者は真に受けています*25。§1で触れた同人誌の論考は、松本氏を始めとするクロソウスキー研究がひらく可能性をVTuberに適用しようとしたものです。

 筆者がVTuber的主体に対して/として幻視している〈生きた貨幣〉は、クロソウスキーによれば「生活水準の高度な保証によって可能となる一見不可能な退行」ですが、実際我々は福祉社会に死なない程度の生活は保証され、不死者のように生存しています。同時に消費文化においては、一見不可能と思われていた退行的な快楽を、なぜだか分からないまま、どこへ向かうともなく加速させ続けています*26

 これもお喋りですが、筆者は視聴者としてVTuber文化を追い続けるのが難しいゆえ、最近はニコニコ動画発のボイスロイド文化を観測するようになりました。筆者の見るところ、VTuber文化は生きた貨幣のクロソウスキー世界に突き抜けてしまった一方で、人工音声文化は天使結合というフーリエ的心情愛の圏域に留まっています。また、琴葉姉妹の耳かきASMR音声で幾度も射精しており、人工物との媾合を順調に加速させています。

 こうした電波もいずれ詳論しますが、今のところは、個人では果たし得ない(射精しきれない)社会的富の消尽を、落ち着いて他者に委ねるための全般経済学的な理論構築こそが、インドール酔いのバタイユ主義者の本懐であると放言させてください。

 

§7 生残者の倫理

家族主義・オイディプス主義の父・母・子の三角形は、「欲望の生産としてのあらゆる性愛を窒息させ、新しい様式において性愛を「汚らしいささやかな秘密」に、家庭の小さな秘密に作りかえ、〈自然〉と〈生産〉という目覚ましい工場のかわりに、内密な劇場を作ってしまう」。

[…]では、ドゥルーズガタリは、この歪みを正して、本源的自然に還ることを呼びかけているのだろうか。ドゥルーズガタリは、家族・市民社会・国家の劇場を解体し、幻想やイデオロギーを引きはがして、むき出しの欲望や快楽を露出させることを呼びかけているのだろうか。その通りである、と留保抜きに認められるべきだ。真っ直ぐに、自然に還れ、歴史や社会によって歪められることのない自然本性を取り戻せ、と言えない方がどうかしているのだ。もちろんドゥルーズガタリの議論にしても、かくも単純素朴なものではないし、多くの捻りや襞が含まれているわけだが、そこをあれこれと詮索することに終始して、そこに賭けられていることを見逃してはならない。ドゥルーズガタリは、精神の病人と身体の病人のことも考えているからだ。(68-69頁、強調引用者)

 バタイユやランドと共に死を味わい尽くしたあとは、人間がただ生きていること自体の凄まじさに魅了され、あらゆる怪物を歓待すること、万人が病者であるような社会を肯定すること以外、為すべきことはないよう思われています。

 ところで、ベンヤミン曰く「人にはワインを勧めて自分は水を飲む」ような、主体の質素と客体の豪奢を同居させる姿勢が、フーリエには見出されます。実際、むき出しの欲望や快楽を生きることに私的所有レベルでは疲れてしまった筆者と蛭川氏は、そのような生の美学を他者にひらくことで、フーリエを生残者の倫理思想として読み替えようとしている気がします。

 ここにアガンベンを承けた小泉氏の表現を借ります。

「ゾーエーにほかならないビオス、剥き出しの生の肉に全面的に移された生の形式が、構成されなければならない」*27

 

 「ゾーエーにほかならないビオス」とは、ただ生きることが何らかの生き方になるような生のことです。ただ病気になっているというそのことが、善い生き方になるとまではいかなくとも、何らかのライフスタイルになるような生のことです。ホモ・サケルが新たな仕方で生きるビオスのことです。ホモ・サケルの例として何を考えるかで話が違ってくるでしょうが、大筋では、ただ生きるとされるその状態がまさに善い生き方だと言える条件は何かと考え進めるのが基本的な方向です。

 

(「二つの生権力―ホモ・サケルと怪物」、244頁)

 1980年代の浅田彰氏らによる現代思想ブームには辟易したという蛭川氏と話す際には、「人文科学と自然科学をいかに接続するか」という困難を感じます。この課題を真正面から受け止め、精神医療や生殖といった実践的な問題とも切り結んでいるのは、やはり管見では第一にデカルトドゥルーズ研究者の小泉義之氏ですから、このあたりの文献紹介は地道に続けるつもりです。

 

 まとめると、必ずしも薬物経験は前提としない神経伝達物質としてのDMTをモデルとした、インドール酔いという感情に導かれる革命的楽天主義フーリエに象徴させたうえで、その理論的裏付けはフーリエのみならずドゥルーズ、その友人のフーリエ研究者ルネ・シェレールなども勉強して固めていくのが、〈フーリエ主義者同盟〉の方針です。

 貴重なフーリエ読者が出会った好機に乗じ、これを「党」と名付けようかとも思いましたが、今のところは差し控えておきます。

 筆者は結局のところ、人間はキャラクター文化によって真に救われることができるのか、という不可能な問いを生き抜くために、自己と他者の奴隷意志を信じ続けるために、フーリエを読んでいるだけです。コミュニティは作るにせよ、小規模な勉強会に留めるつもりです。

 

(※2022/06/06/20:00 蛭川氏の発言引用部など細部を修正)

*1:大塚英志を使わないことが新鮮な読み味になっている、同じく同人所収のくこ氏による天皇ジュブナイルポルノ論について、特にジュブナイルポルノというジャンルに絞って言うと、筆者の論考が「ゼロ年代批評の残余」として強調した更科修一郎の別名義(と公言するのも憚られる)ゆずはらとしゆきの諸作、特に『ひまわりスタンダード』(2000)『ぼくには孤独に死ぬ権利がある――世界の果ての咎人の星』(2020)(とりわけあとがき部分の著者の回想録)を薦めたいと思われました。先日タイムラインで氏を中心に「若手におけるゼロ年代的コンテンツ批評の再興」が話題になったのを眺めた際、基本的には若い人の好きに書いてほしいと思った一方で、ぎりぎり筆者を含む当時のプレイヤーのほとんどがなぜ作品論をやめたのか、という歴史性と方法論上の反省をいかに伝達すべきかが、今後の課題であると受け止めました

*2:最低限に触れておくと、例えば1810年代に着想された草稿群である『愛の新世界』と、1819年以後に着想されたものの縮約版である『産業の新世界』とを比較すると、情念の多様性を恋愛によって全面展開することで人類を調和させる「複合アソシアシオン」の計画が、後者では断念されています。それでも理論の大枠は変わらないようですし、本音を言えば筆者のビジョンも蛭川氏のものとほぼ同断ですが、筆者としては『産業』もじっくり読み込んでから見通しを立てたい現状です。『産業の新世界』福島知己訳、作品社、2022年、674-675頁参照

*3:蛭川立「セックス・サイケデリックス・サイバネティックス エクスタシー体験の人類学試論」『ユリイカ1995年12月号 特集=サイケデリア』所収

*4:蛭川氏の言う「暴力革命」路線には、青井氏のほかにも(蛭川氏の教え子である)シャーマンriyo氏()の活動も位置づけられるそうです

*5:つまり、政党政治もアクティビズムも嫌いな無産者である筆者と裕福な知識層の蛭川氏という組み合せになりますから、今のところフーリエ主義者同盟は政治組織としては機能せず、福祉国家の魔術化を目論む保守革命的結社に留まると予想されます

*6:前回は説明すべきことが多すぎて突っ込む余裕もありませんでしたが、そもそも筆者と蛭川氏がフーリエ特有のモチーフである多婚愛・全婚愛に賭けている以上、ポリアモリー実践のあと何故か普通に結婚してしまった青井氏に対しては、今後のその活動に期待する動機が弱まっています。つまり本稿は、一部の人間にインパクトを与えている青井事件=ローカルな幻覚剤ルネサンスが終わったあとに備え、青井氏に頼らない物語知を整備しておく(いささか以上に先走った)実践と言えます

*7:すでに前掲の蛭川初期論文において、アッパー・ダウナー・サイケデリクスという「三つのグループはそれぞれ脳内神経伝達物質であるドーパミンノルアドレナリン(共にカテコールアミン)、エンドルフィン、セロトニンの三群に構造的にほぼ対応しており、上記の分類に生化学的根拠があることを示している」(p.277)との記述があります

*8:蛭川立酔生夢死 ー第二回接見ー - DMTea Ceremony Case」より

*9:実践的には「新たなる唯物論」の一つとして機能している、とか言ってしまってもいいのですが、限定的な科学知に基づいて世界全体に対する信を引き出そうとしている点で、正しくも個性的な形而上学として筆者は受け止めています

*10:小泉義之『兵士デカルト勁草書房、1995年、38頁

*11:ドゥルーズは、人間の歴史の原動力としてのニヒリズムを三段階あるいは四段階に区別して神、人間、死の諸問題を考察した[『ニーチェと哲学』「第五章 超人 ――弁証法に抗って」]。それは、否定的ニヒリズム(無限性)、反動的ニヒリズム(無際限性)、受動的ニヒリズム(有限性)、そして能動的ニヒリズム(これらすべての特性の破棄)である。[…]世界のうちに存在しない超越的価値――この実体化が神である――を設定することで、この世界に実存するすべての物の価値を低下させることができるという否定の全能性が〈否定的ニヒリズム〉である。しかし、次第に超越的価値が機能する神の場を占拠して、自らが地上の神になるために、神を破壊する精神が人間のうちに生まれる。それが〈反動的ニヒリズム〉である。[…]こうしてニヒリズムは、無への意志から意志それ自体の無へと移行する。[…]これが〈受動的ニヒリズム〉である。それは、静かに死ぬこと、受動的に消滅することを教えるのである。[…]われわれは、さらにニヒリズムを徹底化させなければならない。[…]今度は受動的に消滅することではなく、滅びることを意志する人間における能動的な自己破壊によって、つまり世界に死を与えることによってその完成に至るであろう。[…]この〈能動的ニヒリズム〉は、たしかに歴史的系列においては〈反動的‐受動的ニヒリズム〉を引き継ぐが、しかし系譜学的にはむしろ否定的ニヒリズムにより近いと言える。つまり、能動的ニヒリズムは、否定の自己完成であり、ニヒリズムそのものの完成である。[…]しかし、この否定は、弁証法の否定とはまったく異なる。能動的ニヒリズムにおける否定は、相補的に対立するもの(=内部性の形式)に反対するもの(=外部性の形式)を定立することだからである。言い換えると、相補的な、しかし両極端をなす〈反動/受動〉に反対する〈否定〉が新たな武器となるのだ。つまり、〈反動的‐受動的〉な多様体とは反対の〈否定的‐能動的〉な多様体を発生させること、これはまさにニヒリズムのなかの一つの設計である」。江川隆男「破壊目的あるいは減算中継――能動的ニヒリズム宣言について」、『すべてはつねに別のものである 〈身体-戦争機械〉論』河出書房新社、2019年、204-206頁。

*12:国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部

*13:外山恒一「云ってることは新左翼だが、やってることがイジメ」、『情況2022年4月号』、92頁

*14:嶋理人「「妄想の共同体」としてのネット空間」、同上

*15:藤崎剛人「キャンセルカルチャーは存在しない」、同上

*16:柴田英里「加速するジェンダー系炎上とポリティカル・コレクトネスの現在」、同上

*17:山内雁琳「キャンセルカルチャーとは何か――その現象と本質」、同上

*18:https://twitter.com/shoukootaden/status/1512617280181800960

*19:蘭茶みすみ「メタバース生活二〇〇〇時間からの提案」、同上

*20:フーリエとは異なる文脈ですが、そもそも1990年代生以後の世代は「失われた未来」というペシミスティックな観念を持ってなどいない、との指摘があるVaporwave論には襟を正される感がありました。a氏「遺棄されたものと悲しみのaesthetic|プロジェクト・メタフィジカ

*21:小泉義之異性愛批判の行方 支配服従問題の消失と再興」、『災厄と性愛 小泉義之政治論集成I』所収、月曜社、2021年。これに遡る小泉氏のレズビアニズム評価については、小泉義之「性・生殖・次世代育成力」、『生と病の哲学 生存のポリティカルエコノミー』所収、青土社、2012年

*22:絓秀実「第四派を犬掻きする」、同上掲

*23:廣瀬純「「同性愛者こそが最も革命的であり得る」―― ドゥルーズ=ガタリ/FLH/ペルロンゲル」、鹿野祐嗣編『ドゥルーズと革命の思想』所収、以文社、2022年

*24:山﨑雅広「《永劫回帰》の体験と体現――ニーチェからドゥルーズへ、あるいはニーチェからクロソウスキーへ――」、上掲鹿野編所収

*25:松本潤一郎「労賃とは別の仕方で 『経済学批判要綱』から『生きた貨幣』へ」、『ドゥルーズマルクス――近傍のコミュニズム』所収、みすず書房、2019年

*26:江永泉氏「なぜだかわからないけど加速する Webで私的完訳までされ待望された究極の無神論 ニック・ランド『絶滅への渇望』

*27:ジョルジョ・アガンベンホモ・サケル』高桑和巳訳、以文社、2007年、255頁