おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

『小泉義之政治論集成』メモ

 小泉義之氏の論集を読んだので、大きく分けて五つの論点を引きながら、素朴にして反動的な感想を記します。

§1 性差別論について

 

 膨大な論点が凝縮された小泉氏の諸論考を迂闊に要約する愚は避けたいものの、「性差別についての考え方」(初出:『人権を考える』随想舎、1997年)に関しては、ネット人民として同胞にぜひ紹介したく思われます。

 性差別について男性が論ずる際には、守るべき責務があると思う。第一に、自己批判や自己吟味抜きでは論じないということであり、第二に、議論は性差別の実践的解決を目的とするということである。(p.174  以下、強調はすべて引用者。)

  この簡潔な当為を私が必要とする理由を、極めて粗雑な情勢認識として言い換えます。

 第一に、自己批判や自己吟味が足りていない男性の論者の性差別論が大いに懐疑されていること。第二に、性差別の実践的解決を目的としない議論が大いに空回りしているということです。

 ところで、この情勢認識の立脚点としての私自身を省みるに、当ブログは、具体的な性差別事象の実践的解決を目的としない趣味の自己批判と自己吟味を行ってきました。

 その過程をあくまでも性差別論のバリエーションとして見た場合、良心の疚しさに重心を置く自己批判の半端さにおいて第一の情勢に内在しており、議論の観念性において第二の情勢にも内在している、と言えます。

 つまり、当ブログは趣味としての自己省察の領分を確保するべく、巷間に広がった性差別論の構えを否認するあまり、かえって社会的な論争の観念的で空回りした性格を、そっくり割れた鏡として受け継いでしまった、と思われるのです。

 以上を踏まえて、私の立場を再整理します。当ブログは、性差別を論じていないこと、今後も論じるつもりはないこと、しかし、性差別問題の思想的核心(後述)を引き継いだ記述を企図している、ということです。
 

 以下に続く引用は長いので、以上の論点を補足しかつ展開し、なぜ大多数の人間があえて性差別問題を論じる必要がないのか、を整理した議論と私が読んだことのみ、先回りでまとめておきます。

 かりに男性の総体が女性の総体を不当に差別しているのだとしよう。 そのとき、男性の一員が為しうること為すべきことは二つしかない。一つは、差別する側に属している自己の思想や行動についての自己批判である。一つは、自己が男性総体から区別される存在者であることを、自らの思想と行動によって示すことである[…]。


[…]そこにおいて女性を救済・保護・援助するなどということは、およそ男性である限りでの男性の為すべきことではない。それは女性たちの闘争の課題であるし、その支援者たちの課題であるからだ。


[…]一般に、差別事象が具体的な被害や不幸をもたらしているとすれば、あるいはむしろ、具体的な被害や不幸をもたらしていることだけが差別事象なのであるからには、差別する側がそのことを中性的中立的に論じようとすること自体が不当である。


[…]こんな自明なことが、性差別事象をめぐっては実にたやすく忘れられてしまう。(p.184-5)


 これに続けて小泉氏は、しかし自己批判的な男性論である小浜逸郎『男はどこにいるのか』が、男性の性衝動の発動を「朝シャンと枝毛のケアを入念に施した長い美しい黒髪をなびかせてボディコン・スーツに身を包んだセクシーな若い女が前を歩いていくのが目につく……」云々と語り出す一節を引いて、「彼自身の性的体験やエロス的関係にしてもおそらくそのようなことではなかったはずなのに、性差を論ずる文脈でそれを記述しようとすると途端にポルノ的で俗物的になってしまう」ことを指摘します。

 それは「フロイトのようにであれ、金塚貞文のようにであれ、解釈次第でどうにでも記述できるのである。[…]書き言葉が体験を描写しきるには限度があるという問題ではなく、書き言葉が体験を捏造しているという問題である。[…]そしてそもそも、男性一般について論ずる一般論が、どうして差別や暴力の顕現を批判する上で有効な言説たりうるのかがまったく不明であ」ることを、問題点に挙げています。

問題の思想的核心は、男性が自分の性的欲望をよく知りよく記述するにはどうすべきかというところに置かれるべきである。問題は、男性のいかがわしさを容認するか否かなどというところにはない。いかがわしさは、男性を堕落させることもあるし、男性を救済することもある。そのような細々とした現実に問題があるのではない。そうではなくて、いかがわしさについて語るときのいかがわしい妄想に問題があるのだ。(p.189)

 私もまた自らの思想的核心と心得ている、(男性一般ではない)男性各人の欲動の解釈と記述*1が、あまりにも不徹底であると認められる限りで、「ポルノ批判の言説を言論において批判する資格は、まだ男性にはないのだと思う」とする小泉氏の判断は、今なお妥当です。

 しかし、そうした情勢認識に小泉氏とは異なって、倫理的な疚しさを持ち込む(私を含めた)論者の多きゆえ、例えば「ポルノに堕落したり救済されたりしている細々とした現実」そのものが無益にも問題化され続けた結果、議論は混乱の一途を辿って道徳的分断を帰結させたことも、社会的に自明と言わせてください。

 

§2 行為タイプと行為トークンについて

 それでは、「差別の問題にかぎらず、社会問題や政治問題はいつも一般論として語られる」ために「一体誰のことについて語っているのか、一体誰が誰を傷つけたことを問題にしているのかが見当がつかなくなり、そのうちには、問題を論ずること自体が自己目的化しているように見えてくる」(p.191-2)この苛立たしい事態に、どう対処すればよいのでしょうか。

 小泉氏は「実体を最高類において[…]最低種に個体をお」く、アリストテレス以来の「類種の分類体系の中で個体についての的確な語り方を成立させることは不可能である」(p.194-6)という理論的根拠を確認したうえで、一般論の蓄積にも個人の語りにも還元できない「単独者」の場所を確保するための語り方として、通常の行為理論が取り上げる一般的抽象的な行為の型としての「行為タイプ」とは区別される、単独的具体的な出来事としての「行為トークン」の概念を提示しています。

「ミルクを子どもに与える」とだけ書くのであれば、それは行為タイプを表示するが、たとえば「(一九八五年一月六日に宇都宮市某所でaがbに)ミルクを与える」と書けば、それは行為トークンを指し示している。[…]aは何千回となくbにミルクを与えてきた。[…]ミルクを与えるという幾千回もの出来事たちは、さまざまな様相の違いによって彩られている。[…]その都度、よいと思ったり、わるいと思ったり、疑念を感じたり、何も考えなかったりしたわけだが、そんな思考や感情のさまざまな様相の違いによって出来事たちは彩られている。そしてそのとき、aやbという個体も、さまざまな様相の違いによって彩られた単独者へと変成する。(p.198)


 では、男性が女性をまなざす行為は姦淫に等しいという判断は、このような出来事たちと、どのように関連しているのであろうか。その判断は、男性が女性をまなざすという行為タイプが、姦淫するという行為タイプの一種であるとしている判断であるから、それは、微視的微分的出来事たちを総括的に積分してくだされている判断なのではない。そうであるかのように判断は装われるものだが、実はそうではなくて、行為タイプをめぐる判断を、出来事たちに適用しようとしている判断なのである。姦淫が何千回何万回と生じていると判断しているのではなく、姦淫という行為タイプを何千回何万回と適用することが可能だと判断しているのである。だから、男性が女性をまなざすことは姦淫であるという告発は、微視的で微分的な出来事たちを告発しているのではなく、それらの中にはタイプに適合するサンプルがあると告発しているのである。[…]微視的で微分的な権力が積分されて粗視的権力が成立するのではない。[…]粗視的権力を解体しようとする志に発して、粗視的権力の一例を微視的で微分的な権力の内からピックアップしているのである。別の形で言い直す。男性が女性をまなざすことによって生ずると語られている〈被害〉は、不満がたまると語られるような被害の考察は別にして、何千回何万回とaが女性たちをまなざすことで生じた被害の総計なのではない。そんな総計としての被害をこうむる者は、どこにも存在しないからである。(p.200)


 だから、先の〈被害〉とは、aがまなざすことによって引き起こす情動に制約をかけるための統制的理念であると考えるべきである。要するに、男性が女性をまなざすことは姦淫であると語られる際の行為概念は、まさに刑法的な概念であるし、それでかまわないし、そうであるのが正しいのである。性差別的行為批判は、本質的に刑法的であって、その意味では、行為トークンの批判ではないし、その批判を目指してもいないし目指す必要もない。これに対して、aが制約を越えた不快な情動をbに引き起こすとしたら、その場で反撃の行為トークンを繰り出せば済むし、済むようにならなければならない。かくて、フーコー流の微視的権力論は思想的にも実践的にも過っていると結論しておきたい。[…]書き言葉による批判は、いつでも刑法的だと割り切ったほうがよい。(p.201)


 以上を踏まえて、私の性差別論に対する態度を明確にします。

 第一に、書物やSNSで刑法的に(行為タイプの次元で)なされるポルノ批判/反批判は、実のところ現実に生きられている性的体験の出来事性を問題とはしていない(し、すべきではないし、管見ではできていない)以上、その実践は運動家に任せ、生身の生の情動を差別談義に持ち込まないことです*2

 第二に、そもそも異性愛の快楽は差別的でしかありえない以上*3、差別論という構えを潔く放棄して、現代のポルノ体験に生きられる凡庸な幸福の意味と価値を、その出来事性において(行為トークンの次元で)すくい上げることです。

もちろん、現実の出来事たちは豊かどころではなく、ひどく貧しいかもしれない。しかし、いかに貧しくとも、いかにかすかでも、欲望は欲望であり、快楽は快楽であり、出会いは出会いなのである。このような世界を信じないで、一体何を信仰せよと言うのか。(p.202)

 それを通じて、いかがわしい妄想で記述しがちな欲動の解釈を消尽すること。そしてあわよくば、どこまでも自明に良きものと感受されてしまう異性愛の恐ろしさに対する、批判と臨床を一致させることを、当ブログは夢想しています。

 とはいえ、このような私の言語使用が、「個人-政治」の対立項(=同一項)から区別されるべき「単独者」の言説になるとは思っていません。「異質なのは、単独的な出来事たちだけであ」り、「ある時ある場所で実現した出来事を、一女性[一男性]の体験として把握することが、すでに政治的」(p.201)だからです。頽落した形になるでしょう。ただ、他にやる向きが少ない以上、どうでもよくポルノに救済されている細々とした現実について、落ち着いて読み書きしうる寛容の土壌だけは、耕しておきたいのです。

 ついでに、「現実の性的体験をポルノ的に解釈・記述してしまう」という性差別論における男性の桎梏が、私においては記述されるべき性的体験が実際にポルノだけであるという問題に横滑りしていることも、強調しておきます。この点で、私は最初から性に関する様々な議論からのズレ、いわば包摂的排除を食らっている不安が拭えず、出来事ではなく発話主体としての記述を優先し続けてしまっています。

 

 以上のおしゃべりは、括弧付きの「政治」的言語とは区別されるべき、共通善としての政治を準備しうるような、相対的に言われる「文学」的言語を酷使していく方針を、前回に続いて確認したものにすぎません*4

 ただ、異性愛者として存在すること自体の罪悪に苦しんだ過去がなければ、加えて、異性愛批判が多数派の内的抗争に頽落した現在時に躓くことがなければ、小泉氏の言説をこうまで必要とはしませんでしたし、それに出会うことなく自死を選んでいた可能性もあるゆえ、次の世代に伝えるべき議論と判断されました。

 そして、小泉氏を読んだ上でなお、アセクシュアルにも価値創造的な変態にも振り切れないまま、おめおめと年を重ねている人間としての疚しさについても、一応付言させてください。

 少数派が声を上げるとき、多数派は告発されていると受け止めるのが常であった。[…]


 性的少数派についても、同じようなことが起こっていた。異性愛者は告発され糾弾されていると受け止めるのが常であったし、異性愛者は、差別者や抑圧者であることを自己批判するだけでは足りず、そもそも異性愛者として存在すること、まさに異性愛者であることそのことに何らかの罪があると思われていた。[…]


 もとより、このように考え詰めた者は、ごく僅かであった。僅かではあったが、その否定性は強烈であり、その強度によってそれなりの影響を及ぼしていた。ところが、いつの間にか、詰まって疲れたのだろうが、多数派の罪科の意識は、抑圧者意識や加害者意識が亢進して疚しき良心が過剰になった状態にすぎないと見なされるようになった。しかも、再分配や承認でもって正しい社会に向かって歩んでいる限り、病理的な意識のことなど顧みなくてもよいと見なされるようになった。いつの間にか、多数派は、良心的であるにしても決して疚しくはならずに済ませられるようになり、臆することなく共生を語れるようになった。そのうち、異性愛を否定する声も小さくなり、異性愛者は自信を取り戻したのである。(p.141-142 「類としての人間の生殖」)

 

§3 文化政治について

 

 以上の議論を紹介した動機を、前回までに挙げた具体的な状況から補足すれば、大略、そもそも異性愛者としての自己を問う姿勢すらなく、オタク=萌えミリ=ネトウヨ図式をもって粗雑なオタクヘイト/大衆批判を垂れ流す「批判的知識人」気取り共が格別に不愉快で、もはや連中には手の施しようもなく、最末端のイデオローグが視界の端をチョロチョロしてウザいので縁を切り、東浩紀氏いわくの「Jリベラル」概念でも拝借して軽蔑する以外にない、という私の根深いルサンチマンがあります*5

 さすがにこの論点も片付けておきたいので、論考「競技場に闘技が入場するとき」(初出:『反東京オリンピック宣言』航思社、2016年)から、文化政治と民衆の非政治性に関する議論を紹介させてください。

 

 小泉氏は、東京五輪と瀬戸内国際芸術祭を具体例に、スポーツイベントとアートイベントを文化産業として等価と見なし、さらに各種アートプロジェクトと大学の各種学術集会も文化経済的に等しくなった状況を見て、「東京オリンピックの中止を求めるなら、同じ訳合いでもって、大学の国際学術交流の中止を求めるべき」(p.91)とします。

[…]メガイベントに関しては注意すべき点がある。すなわち、アートであれスポーツであれ学術であれ、イベントは特定の場所で行われているということである。それは、廃鉱、離れ島、過疎地、博物館、美術館、湾岸地区、競技場、大学キャンパス、企業研究施設など、「特区」で行われている。したがって、アート・スポーツ・学術のイベントに対する態度は、特区に対していかなる態度をとるのかという問いに置き換えてみることができる。[…]そのとき、国民・市民は二つの部分に分かたれる。すなわち、特区に入ることのできる(入りたがる)人間と、特区に入ることのできない(入りたがらない)人間の二つにである。そのとき問われるのは、どちらの人間の立場に立つのかということである。(p.92)

 ここでいう前者、つまりリチャード・フロリダ言うところの創造階級やエリート層が自由・平等・友愛を謳歌する「特区」へと参入するべく、「展覧会入場のために数時間もおとなしく整列する文化系の中流市民と、競技場入場のために数時間も応援で騒ぎ立てる体育会系の中流市民は、その立ち居振る舞いに文化的な違いはあるにはあるが、いまや瓜二つになっていると見るべきではないであろうか」(p.94)。

 つまり、私のような後者の人間にとっては、体育会系であれ学術系であれ、メガイベントにまつわる文化政治的議論など一切無関係なので、放っておいてよろしい。この基本を確認したうえでなお、「パンとサーカス」がもたらすと想像されている「民衆の非政治性」の意義を捉え直すべく、小泉氏はポール・ヴェーヌ『パンと競技場』を引いています。

 

§4 民衆の非政治性について

  「ローマ人は昔、 高官や執政官や軍団の配分をしていて、もっと質素だったが、いまではただ二つのこと、パンと《競技場》のことしか熱望しなくなった」。ユウェナリスはこの有名な詩句において、ローマがかつてその市民によって統治されたはずの都市国家だったが、いまでは君主国の首都にすぎないことを嘆いている。この詩は別の意味で、いや二つの意味で諺のように言いはやされた――ローマでは、支配階級の権力と引替えに、または所有者階級の特権と引替えにパンと競技場が提供された、それは漠然とした非政治化意識である、と。

 

 ユウェナリスのような右派的見解においては、物質的満足によって民衆は自由を忘れた卑しい唯物論に陥る。左派の見解では、適度な満足や虚妄の満足によって大衆は不平等に対する闘いから逸らされる。いずれの場合も、権力や所有者階級はマキャヴェッリ的策略によって民衆に満足を提供すると想像されているのである。(ヴェーヌ p.90)

[…]このような見解に従うなら、「パンと競技場」に反対するとき、右派としては「自由」のために、左派としては「平等」のために、[…]それぞれの「規範的判断」に従って、俗衆の脱政治化、イベントの脱政治化に抗して、政治化・啓発を目指すということになろう。そして、[…]そのような右派と左派からの批判も取り込む形で、イベントは興行されている。

 

 しかし、[…]ヴェーヌによるなら、その類の文化政治は、人間は誰しも情熱的に自由に政治に関与するとか、人間は誰しも平等を原則として不平等を認めないと想定しているが、そもそも、それらの想定は「不幸にして間違っている」のである。文化までも政治化したがる欲望がどうかしているのである。もっと言うなら、文化によって民衆が脱政治化されると政治的に解釈してみせるそのエリート的な小賢しさこそが、民衆を馬鹿にしているのである。[…]競技場があろうがなかろうが、民衆は自由と平等のために闘うときは闘うし、闘わないときは闘わないのである。競技場は、民衆の潜在的な闘争を妨害するわけでも促進するわけでもない。(小泉 p.96−97)

プロレタリアは、恋愛雑誌を読ませられるからといって脱政治化されるわけではない。そのような雑誌が存在しないからといって、女性読者が退屈のあまり闘うようになるわけではない。女性読者は、雑誌を読み、かつ闘うであろう。(ヴェーヌ p.91)

[…]もちろん民衆は大抵の場合に非政治的であるが、その非政治的な受動性は、政権が分配するものと交換に差し出されているものではない。もちろん民衆は大抵の場合に体制に服従しているが、その服従は何らかの恩恵や統治と交換に差し出されているものではない。要するに、政府と民衆のあいだには、いかなる取引関係も交換関係も契約関係も存在していない。「国家と市民の相互性はない。民衆のために大砲を選ぶかバターを選ぶのは、政府である。被統治者はそれに順応する。広い範囲で順応する」。そして、服従」できなければ、「反抗」するだけのことである。それこそが、民衆の「非政治性(apolitisme)」である。

 

 パンか競技場かという選択問題、バターか大砲かという選択問題、どちらか一つを選ぶか、双方を両立させる道を探して選ぶか、その類の問題はすべて、民衆が行うことではなく、政府が行うべきことである。民衆は、その類の問題の設定と解答の提出をすべて、政府に委ねている。政府とエリート層に委ねている。それが民衆の非政治性であるが、それは「政治経済的」にはまったく正しい態度なのである。そもそもパンか競技場か、バターか大砲かという二択が問題となるということ自体が、政治経済の現状から不可避的に起こってくることであり、そのような問題化に対して責任を負うべきなのは、どう考えても体制側である。現体制がそうであるがために発生する類の選択問題に対して解答の責任を負うべきなのは、どう考えても体制側である。それらは民衆が引き受けるべき事柄ではない。したがって、メガイベントに絞って言うなら、民衆が関心を抱くのは、それが娯楽になるかどうかということだけである。民衆にとっては、面白いかどうかということだけが大事である。それだけを判断の基準としてよいし、むしろそうするべきである。(p.98−99)

 

 現在の東京五輪に関しては、別の膨大な(主には公衆衛生上の)問題点の噴出によって、正しく非政治的である単なる「反抗」の兆しが多々見受けられる、と言ってよいでしょうか。私はスポーツを面白いと思ったことがない民衆ですから、一切言及しませんが、上述の限りで黙して情況を支持します。

 また、メガイベントではなく侘しい消費文化にかまける「特区に入ることのできない(入りたがらない)人間」の文化政治については、もちろん別の考察が必要です。それでも、その立場に一貫して立ってきた人間として、基本的な構図は同断であると言わせていただきます*6

 私自身は、アニメやマンガやアイドルを題材に「政治」を語られても、それ自体で不快にはなりません。ただ、今回だけは言ってしまうと、あまりにも理論水準が低すぎるために、何らの「批判」も「啓蒙」も成立しておらず、民衆を馬鹿にしていると見るしかない、統治的な論者(後述)が九割です。

 よって、その方向にはほとんど期待していませんし、見切りを付けた民衆が多いゆえに、政治の話をしない「Twittter2」などの冗談が、切実に流通してきたのではないでしょうか*7

 

§5 統治の言説について

 私は、こう考えてきた。罪の意識を感ずるべきなのは、誰よりも政府や企業に勤める人間たちである。ところが、知識人がその罪の意識をも商品として売りに出すのは、精神労働が肉体労働よりも高級であるかのようにして、おのれを特権化している所作にすぎない。もちろん、三島の指摘するように、とくに左翼知識人に見られる「良心」の慰め方は唾棄すべきものである。そうであればこそ、文学と政治は別物であると見切って文学を「純粋」に追求するか、政治行為には非-文学者たる一人として参画すればよいだけのことである。(p.157 「死骸さえあれば、蛆虫には事欠かない」)

 この引用は、「そう思うことで私は「安心」してきたが、しかし、いまになって振り返れば、当時[1970年前後]の時代精神があったにせよ、知識人が大なり小なりおのれの職に罪責感を抱いていたことにはやはり心動かされるものがある」と続きます。私が老いた時、このような感慨を果たして抱くことができるのか……というのは、無駄口ですが。

 ここで想起されるような左派言説の批判的検討がまとまった、論集2巻の後半部「II-2 統治/福祉」こそ、最も目を瞠るパートでしたが、下手な脈絡を塗ったクソ要約は、ここで打ち止めにします。

 よって、私のような主体が抵抗するべき統治の趨勢だけを、乱暴にまとめさせてください。つまり、「格差社会における非正規雇用者、福祉社会において生活保護や年金給付の主要な対象である重度精神障害者とは区別される有能でも無能でもない者、制度の狭間に陥りがちで特段の再分配にもセーフティネットにも与ることを期待できない低所得者層が、軽度の発達障害、軽度の精神障害という新規の医療的・教育的・心理的・労働的・行政的・福祉的カテゴリーでもって表象され代表され把捉されるようになってきた」(p.194)近年の動向について、です。

 今後詳述していくつもりですが、私自身は、フィリップ・ピネルの精神医学を踏まえて言った「狂気における自発的な内的革命」という、現代の病者には免除/封印されたクリティカルな経験(p.239)を通過することで、精神科にも福祉事務所にも一度も世話になることなく、つまり統治の言説に捕捉されることなく、この歳まで他者に名指されず自己解釈のみで生きることができた、極めて幸運な人間です。

 それでもあえて名指すならば、ロベール・カステル『社会問題の変容』が指摘する「近年になって問題化されている「排除された人びと」」であり、「二〇〇万人から三〇〇万人の身体的精神的な障碍者、一〇〇万人以上の高齢廃疾者、三〇〇万人から四〇〇万人の「社会不適合者」といったところ」の二級市民に当たります(p.203-4)。

 この相当数の二級市民に対して、フランスでも日本でも先進諸国では、「参入支援」や「社会援助」が企画され実行されている。ところが、カステルも冷徹に指摘するように、参入を支援され社会的自立を援助されたところで「雇用が保証されるわけではない」。通例の自立も保証されるわけではない。リソースが足りないから、というだけではなく、そもそもそんな保証をすることなど出来ない相談なのに、再分配やセーフティネットといった掛け声でもって保証できるかのように一級市民を動員しているだけであるからである。(p.204 「包摂による統治」)

 これに関連して、非大卒者でありながら人文・社会系の書物に縋って生きている者として、肝に銘じたい論考があります。それは、デモや暴動が起こらない日本の政治文化を嘆いてみせる「批判的」大学人に対して、国家の統治と治安を担っている主要機関とは大学であり、それは大学に人文・社会系の部門があるからに他ならないことを強調する、「統治と治安の完成」です(初出:『批評研究』論創社、1号、2013年)。

例示しよう。仮に路上生活者が集団的に占拠や暴動に立ち上がるのが良いことであるなら、悪いのは、それを予防し抑止するものである。では、その主要な機関は何か。路上生活者に対して授業の一環として支援ツァーを行ない、卒業生の一部を低賃金労働者として支援者に仕立て上げながら、路上生活者を夜回りして監視し、そのニーズに基づきケアを行なっては畳に上げて孤立化させ、その個別化され心理化されたニーズに応じて福祉事務所や医療施設や臨床心理施設に送致して専門家の手に委ねてしまうようなそのような人材を供給しながら、そうした統治と治安を学問的に肯定し修辞的に粉飾し続ける大学の人文・社会系である。(p.221)

 

まさか誤解はないと思うが、路上生活者支援、障害者自立支援、被災者支援は、悪いことではないし、立派なことですらある。その上で、まさにそのことが潜在的暴力性を治めているという事実を、その最大の機関が大学であるという事実を指摘しているのだ。そして、おのれがその一翼を担っている統治と治安の機能も自覚せずして、「批判的」であることなどできるはずがないと指摘しているのだ。(p.222)

 

いまでは、当事者研究やアクションリサーチの普及にともない、[都市部の中産市民階級]「以外の人々」自身が大学の言説を駆使し出している。そして、さしたる被害を持たない「以外の人々」は、[…]その苦悩を社会的に承認してもらえない「以外の人々」は、その語りを大学人によって「抗い」とか「抵抗」とか呼んでもらうことでその差異要求や承認欲求を満たされながら、同時に、国家からの再分配を得るために平等主義的リベラリズムのビジョンに従うままに、何としてでも障害者年金受給資格者として国家によって承認されたがるまでになっている。こんな仕方で、九〇年代から〇〇年代にかけて「以外の人々」の統治と治安は完成したのであり、それを行ってきたのは大学の人文・社会系に他ならない。(p.225)

 

あえて露骨に言うが、「メンタルヘルス」を問題化されてクライアントとなるような人々に潜在的暴力性があると私は必ずしも思ってはいない。[…]そのような人々に対して、福祉や介護や教育や相談やケアの与え手となっていくような人々こそが、決してそうは見えないだろうが、[…]実は潜在的暴力性を抱えており、潜在的に危険な階級なのであると私は捉えている。大学の人文・社会系が「日本型システム」*8の担い手たる中産市民階級として送り出している教養中間層のうち、アンダークラス化した層、ないしその予備軍にあたる層[…]をしておのれを統治する主体に仕立て上げ、さらに「以外の人々」を統治させる主体に仕立て上げることによって、[大学は]その統治と治安の機能を果たしているのである。(p.229-230)

 

 かくも統治と治安は完成している。これ以上それを拡大したところで、これ以上それを深化させたところで、大して得るものはないほどに完成している。そして、これからは腐朽が始まる。(p.231)

 

 私は統治の手先になるつもりはありません。また、賢しらな政治思想や軽度障害カテゴリーでアンダークラスをガス抜き/訓育/包摂する手法も「早晩、それがどのような形で実現するかはわからないが、その戦術は底が割れるはずである」(p.203)。

 そして、すでに私達は底が割れた現実を生きてしまっており、その汚辱に塗れた人間のリアリティに内在することでしか、国家の統治に対する「抵抗」も「批判」も成立しません。前回触れた「反リベラル」的な諸動向も、このような分析から慎重に捉え直したうえで、やっていきたく思われます。

状況がこうであるので、こう言っておきたい。書物や映像で陰気に報告される暗い話を、そのまま明るい話として読み替えてしまうことだ。絶望の只中にこそ希望があるなどといったことを言いたいのではない。暗いと見なされている事情こそが、現状を変える力を含んでいるということなのである。「シジフォス」の労働など「軽度」に笑い飛ばしてしまう者たちこそ、革命的楽観主義を培ってくれたプロレタリアートであったし、これからもきっとそうであるに違いないのだから。(p.207)

 

 

 私のような頭の悪さゆえ大学人の言説に統治されきらなかった人間は、福祉社会の諸制度の隙間に散乱した、二級市民ならぬ名付け得ない「隙間の不埒な人間」(p.270)に含まれるゆえ、その生を肯定しうる実践に集中したい次第です。

 そして、前半部で性差別論を受けた思想的核心と見ておいた「欲動の解釈」と接続すれば、私はこの「隙間の人間」をクロソウスキーニーチェと悪循環』と、そこに語られる「余剰の人間」と重ね見るところがあり、もって「オタク」的な存在者を含む存在論的な肯定の表現としてみたく思われますが、これは単なる思いつきです*9

 

 どれだけ状況が悪かろうが、他者を侮った言辞を弄する必要も、民衆が人を舐めた「政治性」に巻き込まれる必要も一切ないこと。一見して「批判的」な人文・社会系エリートの一級市民言説こそが、内面まで統治され尽くしている現実をせめて自覚してほしい、ということ。小泉氏に託けて私の主張したいことはこれだけで、まったく反動的ではあります。

 現体制に服従するも反抗するも関係なく、どれだけ勉強しても統治しきれないものだけが真に重要であって、私が本当に書くべきはこのような誰にでもない説教ではなく、アニメとオナニーの話であることは自明です。アニメとオナニーに統治の思考を持ち込むな、と念を押しただけです。手間取りましたが、今後はそちらに集中します。

*1:前々回から言及した原稿の要諦に当たります。掲載媒体に目処は立ったものの、発表は先になることをご報告いたします。重ね重ね申し訳ありません。

*2:もちろん、他の論考も踏まえれば、取るべき態度を検討する余地はいくらでもあります。生殖未来主義を取り扱った論考の他でいえば、異性愛批判の言説布置が1970年代のアルチュセールをはじめとする再生産論とイデオロギー装置論から、1990年代に至ってフーコー流の規律訓練権力論-主体論へと移行する過程に捩れを見て、「その変化が進歩であったのか退歩であったのか、私にはいまだに判断がついていない」とする論考「異性愛批判の行方 支配服従問題の消失と再興」(p.228~)も不穏でした。さしあたり、家族という再生産装置を無謬化する現在の異性愛批判に対し、ポルノに殉じて孤独死するつもりの私のような「オタク」的大衆は、堂々と自己の孤独と死の欲動クィア性として誇りに転じた上で、闘争するか無視するかを選べばよいと考えています。

*3:「これは『生殖の哲学』でも書いたことですが、多くの場合、軋轢や差別は根本的には美的意識、つまりは感性による部分が大きいと僕は考えています。[…]人間の好き嫌いの感情や美醜の判定自体が、すでに優生的なんです。[…]僕からすれば「いや、そもそも恋愛したり結婚したりした時点で優生的な営みに乗っかってるでしょ」と思うわけです。[…]「道徳的・政治的にヘイトや差別はいけません」と繰り返すくらいなら、もっと外国人や障害者と接する機会を増やすべきだし、目に見える形で物事を進めていった方がよっぽどいいですね。」『アレ Vol.4』「小泉義之インタビュー 「生命」と「生殖」の現在」より

*4:先に引用した小泉氏のインタビューに照らして、逆に私の立場の危うさも明確にしておけば、生殖技術や高度化したポルノグラフィによって宙に浮いたセクシュアリティを、ある種のエロス化によって守ろうとする側面が、私の身振りには多分に含まれています。これは精神分析の知に分節されることでプチブル化した主体性とも自覚されており(「フーコー精神分析批判 『性の歴史 I』に即して」p.272~)、この点はマジョリティの倒錯の一例として、分析の素材に供しておきます。

*5:すでにその界隈を一切観測していないので、ここは私の偏見を垂れ流したものに過ぎません。怨恨を抑えて明確にすれば、そもそも人民を信頼しないで左翼ができるわけねえだろ、という原理原則を私は争点にしています。近代的知識人が認識主体として信を置かれない現在時、ドゥルーズの「霊性」、フーコーの「政治的霊性」という主題を取り出した小泉氏の作業は、この点でも切実に私が必要としたものです。小泉義之「戦いから祈りへ、観想から霊性へ」など参照

*6:コミックマーケットなどの即売会の存在をもって、「オタク」という実体的カテゴリーを特区側に位置づける下らない立論も可能でしょうが、この概念が何らかの階級を表現しうる内実をほとんど失っている以上、単に議論を混乱させた挙げ句、小泉氏の整理の妥当性を確認する結果に終わると思われます。

*7:そうしたネットコミュニティの脱/非政治的な実践の評価は、今後の課題としか言えない筈です。少なくとも、小泉氏の鷹揚さを借りるのであれば、さしあたっては「マイノリティの救いになっているならば放っておくべき」と判断するべきです。その程度の寛容すら民衆に残さない「政治性」を、本稿は(自己)批判しています。

*8:「[高原基彰の言う]「日本型システム」とは、「自民党型分配システム」(私なら、平等主義的リベラリズムの再分配システム、社会民主主義的な承認と再分配の政治と言いかえる)、「日本的経営」(私なら、国家独占資本主義、あるいはむしろ、中産市民階級の家族を主体とする国家資本主義、あるいは単に先進国資本主義と言いかえる)、「日本型福祉社会」(私なら、日本型という限定は無用であって、福祉国家、福祉社会とあくまで連言して言いかえる)、これら三つのものが噛み合わさったシステムのことである。」(p.222-223)

*9:念のため、小泉氏は先のインタビューによると「バタイユはクソ真面目だからあまり好きじゃない」とのことで、そのへんもごった煮に生煮えなことを書いた部分は、私の駄弁にすぎません。