7月雑記

ライト・ノベル

ライト・ノベル

 

 久々にラノベでも読もうかと手に取りましたが、本田透氏で言う「ライトヘビーノベル」みたいな錯綜したオタ概念でした*1

 グノーシス主義とかを思い出す垂直的に階層化された宇宙論的世界観の下、危うく迸りかねないスピリチュアリティを淡白な文体で抑制したような情趣がアツく、息子にセックスを迫る母親がイデア世界の数学的概念でオナニーしていた過去を語り始めるあたりからやばいことになりそうと期待しましたが、後半で恐ろしく自己治療的なピュアネスに着地した印象があり、佐藤友哉氏の新作なども読むのが怖く、過ぎ去った季節を愛おしむことにすら飽きているのが自覚されました。

 

  「元長柾木氏のセカ 系論が載っている」と聞き、再び古傷が疼いて読んでしまいました。最近のお仕事は追っておらず、もとより「イチャラブが本業」的なことを仰っている方でもあり、特に変な思い入れはないのですが、こういう文章を2019年に読むのはつらいです。

 特集的に仕方ないのでしょうが、他の文章でもちょくちょく「セ イ系」「ゼ 年代」「 熟」あまつさえ「決 主義」などの概念が使用され、単純に風通しが悪すぎて息が詰まりそうになり、関係ないですが「テン年代」という言葉を使った人たちは来たる20年代のこともトゥエンティー年代と言い続けてほしいです。

 この中で見れば、元長氏は直截的な記述でまだしも脱構築的なアプローチを取っているがゆえに、なおさらこの文脈に接続された「Vtuber=バ美肉における、成熟=啓蒙を不要にしながら他者尊重を可能にする相互美少女性の原理」という論点は、なんとも安穏な現状追認と隔靴掻痒の感があり、それは前提としたうえで「手軽に美少女の皮を纏えるテクノロジー的な条件に対して常に距離を保ち、各人の個体化の契機となるような思考の場を確保すべき」という立場に至らざるを得ません。

 

アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-

アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-

 

 上記のような東-大塚-斎藤ラインの「 ロ年 」的 タク論を、包括的に受け止めた上でハードコアな理論的作業を突き進めているラマールも読み、何だかあまりに執拗で、この文脈はもう本書で終わりにしてよいのではと、暗澹たる気分と一緒に憑き物が落ちる快楽も覚える良い本でした。

 私が「オタク」という概念を実体的に使用する文章を嫌悪するのは、消費文化を享受する主体の成立には教育・貧困・文化資本・共同性・情報環境・セクシュアリティといった諸問題が密接に絡んでおり、その理論的・経験的な複雑性を曖昧な大衆概念の下に抑圧し、当事者の思考と言説すらも平板化させる傾向が著しいためです。

 SNSの狂騒に回収されない反時代的な思考以外には興味が無いので、小言だけ吐いてこうした言説圏とは再度距離を置き、キモくてウザい単なる中年男性として普通に野垂れ死ぬ予定です。

 

外の思考―ブランショ・バタイユ・クロソウスキー (1978年) (エピステーメー叢書)

外の思考―ブランショ・バタイユ・クロソウスキー (1978年) (エピステーメー叢書)

 

  いい加減にジャンル内部における歴史的構築物としてのオタク文芸コンテンツ幻想やノベルゲームの形式性ではなく、個人の身体と認識とにもとづいたエロゲ話を読みたいので、当ブログの書いていることをあらためて要約しますと、長年にわたって自らの欲望と超越性を無意識に支えてきた「本田透的な二次元美少女プラトニズム」が、バーチャルセックスによって内在的で唯物論的な性の問題へと変質してしまった体験を、ひとまずバタイユやサドを主軸にフレンチセオリーを読むことで*2言説化している次第です。

  たぶん、われわれの文化におけるセクシュアリテの重要性、サド以来それがあんなにもたびたびわれわれの言語の最も深い決断の数々に結びつけられてきたことは、まさしく、それを神の死に結びつけるあのつなぎ目にかかっているのである。この死とは、神の歴史的支配の終末としても、神の非存在のついに発された確認としても理解されるべきものではなくて、われわれの体験の今や恒常的なものとなった空間として理解されるべきものなのだ。(p.73 「侵犯行為への序文」)

 

服従

服従

 

  『素粒子』と『ある島の可能性』だけ読み、異性への信仰に欠ける卑俗で唯物論的なセクシュアリティに全然関心できなかった人なのですが、今振り返れば、「中年以降の絶望的なセックスの荒野」に対する否認が働いていたと思います。

 ユイスマンスの「デカダンから信仰への回帰」は好きなモチーフである一方、本作も西洋文明のイスラム回帰が一夫多妻万歳みたいな感じに収束し、ええんかそれで、というがっくり感にこそ意図を汲めはするものの、「身も蓋もない性的感性の突きつけ方」には、理解可能なゆえの距離感を確認しました。

 万一自分が人間と関係を持つ羽目に至った場合、自分が消費文化の中で生きてきたフーリエ-クロソウスキー的なリアリティを敷衍すべく、ポリアモリーを選択したい心境にあります。人間の重苦しさとキャラクターの軽薄さを釣り合わせることにのみ、倫理を見出したいところです。

 

最後の祝宴

最後の祝宴

 

 江藤淳との論争文が踊るようで頼もしいのと、個人的に好きな『霊魂』が作者の楽しく書けた一作とされており、高踏的なスタイルから遊戯的に分泌された観念のエロスに、異様にしっくりくる手触りを感じます。

…霊魂という言葉から作者が想像するところによれば、それは死後に身体を離れてどこかへ行ってしまう半ば物質でもあるような何かである。KのところにやってきたMの霊魂はまず猫のように膝にあがるが、「それは半透明の塊で、さだまった形はないようで、二、三歳の子どもほどの大きさ」で、「重さはあるともないともわからな」い。「撫でてみると、やわらかなままに玉のようになめらかで人肌のあたたかさ」である。霊魂があるとすればそういうものでなければならないというのが作者の勝手な仮説で、あとはこの霊魂の属性を分析して、その行動やKと結ぶ関係がいかなるものになるかを想像すると言うより推論することによってこの小説ができあがった。この論理的想像が作者には一番楽で楽しい方法である。想像力がそれだけ非力だということであろう。…(p.137 「作品ノート7 霊魂」)

 

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 キャラクター抱き枕と寝るのに疲れてきたので、最近はダイソーのくまのぬいぐるみを抱いています。

 

政治的省察 ―政治の根底にあるもの―

政治的省察 ―政治の根底にあるもの―

 

 ここまで「政治の季節に対する距離感」自体に反省的にならざるを得ない状況に立ち至るとは思わず、かたや「ベタな政治的表象ではなく、日常の隅々にこそ政治性は浸透している」という議論から果てなく広がる「政治の砂漠」に対しても、どこで見切りをつけたものかと手に取りました。

 後半、主にアレントフーコーに依拠した思索が刺激的で、『肉の告白』読みたいなと思いました。

アレントキリスト教神学者による「意志」の思考を、ポリス的「自由」とむしろ対立させて、そこに政治から引きこもる内面的自由を見たが、その内面的自由は、「主権」として拡大されて、もう一度政治的次元において大きな意味をもつようになったと考えた。そのような「主権」の政治こそは、ポリス的な政治と公共性と自由に対する危険な脅威となる、というふうにかなり飛躍的な発想を展開してもいる。

  「自己への配慮」としての意志の葛藤を、「政治的公共性」とどのように共存させ、強制させていくかが、アレントの思想の最後の難題であったかもしれない。(p.246)

「…自己に戻る、自己を解放する、自分自身であること、本物であること等々の表現のことですが、今日用いられるこういった表現のうちに見つかる意味や思考の欠如に目を向けるならば、いま自己の倫理学を再構成するためにわざわざ払う努力を誇りに思う余地などないと思います。…ところが自己の倫理学を構成するということは、おそらく緊急な、根本的な、政治的に不可欠な課題なのです。自己の自己に対する関係においてのみ、政治的権力に対する最初のそして最終的な抵抗の点があるということが結局真実であるならば」(Michel Foucault, Herméneutique du sujet, p.241)

「私たちは自分が時代の外にいると感じてはいない。反対に、私たちはこの時代と恥ずべき妥協をし続けているのだ。この恥辱の感情は哲学の最も強力な動機のひとつである」(ドゥルーズガタリ『哲学とは何か』)

 

執念深い貧乏性

執念深い貧乏性

 

 全部振り切ってアナーキズムに生きたい気分はたまに湧き、HAPAX誌とか外山恒一氏とかも興味深く思うのですが、まだしも政治の砂漠よりは性の荒野に生きていたい季節になります。

 

僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って (DOBOOKS)

僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って (DOBOOKS)

 

 VRエロゲもアイマスもドールも抱き枕も全部処分し、小屋暮らしか車上生活を送りたい衝動が不定期に湧くので、本で済ませています。

 他者の抱えた死の観念に触れると異様に元気が出る人間で、読後なぜか久々にアニメを再生することができました。

 自分にとって、「アニメを観ること」と「非人称的な死の観念」とは密接に結びついており、映像文化の絶対的な情報量が観る側・作る側を問わず人間を圧死させうる、という時代的な生の条件に、責任を取る主体や法が存在しない不条理に対する恐怖が身に染み付いています。

 

 不謹慎な連想を誘うようですが、かのスタジオの作品を一貫して拒絶し続けてきた立場としては、「悲しめないこと自体の悲しさ」すら自己欺瞞と判断され、単に意味付けの及ばぬ、呑み込めない異物としての現実が増えたことだけを受け止めました。

 一点、容疑者の動機と思しい「作品をパクられた」との言明に関して、通底するかもしれない当事者感覚を述べますと、2011年頃はラノベワナビだったのでKAエスマ文庫の『中二恋』原作を読んで『R-15』並に文章がすごいなと当時衝撃を受け、この業界で書く側に回るのはどうなのかなと、その時点でコンテンツビジネス周りやオタ活字作品の創造性にまつわるニヒリズムは、確実に醸成されていました。

 それでもサブカルチャーの洪水の中で生きざるを得なかった青春を顧みれば、その絶望は外部の知に自らをひらく以外に解決しようもなかったと判断されるがゆえ、オタから遠く離れてなお、オタという概念に最低限の政治性を賭け続けざるを得ない現状になります。

*1:

ファントム

ファントム

 

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*2:
エリック・マルティ『サドと二十世紀』