10月雑記(寺山、ラカン、天使主義)

 若いころ寺山が好きで、東京から恐山まで青春18きっぷで鈍行したのが、初めての一人旅でした。

 きっかけは偶然ネットで見た横尾忠則のポスターで、土方巽の舞踏公演のやつだったかもしれませんが、何にせよ寺山・土方・澁澤らの言語感覚と「前衛」の響きに浮かれ、先に触れた『ウテナ』への愛着を忘れるほど、もはや不在な演劇のイメージに憧憬を抱いた20代初期でした。

 

ラカンで読む寺山修司の世界

ラカンで読む寺山修司の世界

 

 そうした曖昧な思い入れを整理するべく読んだところ、初期句集において真っ当な神経症者として人格を形成した上で、後年の演劇活動では倒錯的・精神病的モチーフを理念的に選択した寺山の創作活動全体を、『アンコール』解釈を絡めてざっくり「ファルス享楽の囲い込みを経た女性の享楽への移行」として総括した読解は、寺山ファンとしてもラカンファンとしても納得度が高いまとめ方でした。

 

 ところで、本書に触れたアブラブログの記事を久々に読んだところ、本書とは対照的に手付きが危うい「キャラクターに無意識の主体を見出すエロゲー精神分析批評」に対する批判がなされており、その「欲望する主体の次元や、身体的・エロス的なものを忌避した潔癖なラカンの使い方」が、端的に「天使」と形容されています。

 この表現から想起するのは、ジジェク『信じるということ』などのデジタル・グノーシス論で、中でも今年新版が出た山内志郎『天使の記号学』は、情報社会論と中世思想をアクロバティックに接続する文体に脳が痺れ、中世哲学に実存的主題を誤読してしまう契機の一つでしたが、『存在の一義性』は7000円ぐらいしたので*1、主に経済的理由から中世ファンをやる難易度が高いです。

 

信じるということ (Thinking in action)

信じるということ (Thinking in action)

 

……流布している認識では、「電脳空間はハードコア・ポルノだ」という。すなわち、ハードコア・ポルノが電脳空間の主たる用途だと認識されているのである。電脳空間(あるいはさらに仮想現実)を自由に漂うときに感じる文字どおりの「啓蒙〔=照明〕」、存在の「軽さ」、息抜き/軽減の感覚は、身体がないことの体験ではなく、別の――エーテル的、仮想の、無重量の――身体、惰性的な物質性と有限性にとどめない身体、天使のような亡霊的身体、人工的に再生し操作できる身体を、所有する体験である……グノシス信仰の簡潔な定義は、まさに一種の精神化された物質主義である。

(p.56-57  「反デジタル異端」)

 仔細に見ていくと、この非生物学的で亡霊を思わせる身体は、いわゆる肛門対象に近づいていく。……直接に見える外見は、無定形のうんこなのだ。自分のうんちを贈り物にする小さな子は、ある意味で、自分の〈内面の自己〉に直接に相当するものを与えている。……ここにはペニスと同じ思弁的両義性がある。泌尿器であると同時に生殖器でもある。われわれの奥底の自己が直接に外在化されると、気持ち悪くなる。

(p.59-63  「うんここそあげなきゃ」)

 

天使の記号学 (双書・現代の哲学)

天使の記号学 (双書・現代の哲学)

 

 肉体が欲望の源泉で、しかもそれゆえに罪の源泉であるというのではない。欲望はそれ自体では罪も穢れもないものであって、罪や穢れに転じてしまうのは、欲望が肉体から浮遊し、人間的尺度を逸脱すること、限度を受け付けないことによる。肉体の存在こそ、欲望に正しい路を歩ませる保障なのである。

(p.58  「欲望と快楽の文法」)

……「肉体」を普通の生身の肉体と考えようと、高度に抽象的な「肉」の意味で捉えようと、肉体とは、身近で、自明で、具体的で、直接的であるため、不思議さを喚起しないが、そういった気づかれないものこそ、気づかれないために、何ものかを守ることができるのだ。私がここで知りたいのは、「肉体」という不可解なものが、どのようにして身をやつし、姿をくらまし、人目を避け、おのれを語らずにいられるかということだ。

(p.110  「肉体の現象学」)

 

  「現実の肉体から遊離したバーチャルな身体感覚」に基づいた、「キャラクターに無意識の主体を見出してしまう性向」は、山内氏の議論にあやかって「天使主義」という名で、オタ特有の欲望の条件として自覚されていましたが、こと個人的な場面に限ると、近年は年を取った無意識の厚みのせいか実存を託しうる対象を見失い、バーチャルセックスの錯乱のうちに主体自身を壊乱させる体験が、キャラクターに超越を託す唯一の回路になって久しいです。

 こうして自分が「肉としてのオタク」を強調して物を書くのは、上記のようなエロゲ文章に特徴的だった、抜きの評価をレビューサイトなどに委託し、射精の反省に最適な精神分析の知を解離的に活用できる「天使性」への両義的な感情ゆえで、断片的な当時のオタ文章をふとサルベージするたび、せめてその信仰を体系的に遺してほしかった、という愛おしさと哀しさが湧きます。

 

表象11:ポスト精神分析的主体の表象

表象11:ポスト精神分析的主体の表象

 

  例えばですが、こう言ってよければ、性の抑圧の模範であるヴィクトリア女王の庇護の下で、フロイト精神分析を発明したとするなら、一方において、二一世紀はいわゆるポルノ、見世物となり、誰もがインターネット上においてマウスのワンクリックでアクセスできるショーとなってしまった露出された性行為にほかならないものの大規模な拡散の時代であるわけですが、この[二つの時代の]裂け目について私たちはどのように思考すればよいのでしょうか。ヴィクトリア女王の時代からポルノの時代への移行のなかで、私たちは禁止から許可へ移行しただけではなく、扇動、闖入、挑発と駆り立てへと移行したのです。身体の想像的な過剰が与えられ続け、使用され続けていることよりもうまく、現実界における性関係の不在を示してくれるものはありません。

(p.83  ジャック=アラン・ミレール「無意識と語る身体」訳=山崎雅広+松山航平)

 

 後期ラカンのサントーム理論に依拠して、無意識ではなく「語る身体の享楽」を重視する、アラン・ミレール流「享楽の独我論」に慰めを得る気持ちは多い一方、巻頭の共同討議では「精神分析の死」と「自閉症的主体の脚立的超越性」に関する相当参った状況分析が纏まっており、倒錯者が趣味でつまみ食いすることの申し訳なさを感じました。

 

リアルの倫理―カントとラカン

リアルの倫理―カントとラカン

 

……ここにおいて、無限はまた異なったかたちで――ヒロインを崇高な輝きで包む不在としてではなく、気味の悪い、「場違い」な存在として、すなわち享楽の無限性に耐えうるようには造られていない肉体の歪み、捻れとして――現れる。

……シーニュは――問いかけをもってこの倫理についての論文を結ぶことを許していただきたいのだが――劇最後、第三幕を通して、欲望の〈真実〉、ペニスの〈真実〉を具現しているとは言えないだろうか? 形象の次元に属するψではなく、(『クライング・ゲーム』から言葉を借りるなら)「ひとかけらの肉の塊」に――シニフィアンによる去勢の後に残る〈真実〉、欲望の〈原因〉の〈真実〉である「ピクピク震える」小さな肉体に――なっているとは言えないだろうか?

(p.291-292  「それゆえ」)

 

 最近読んだジュパンチッチはとても楽しかったですが、道徳律や超自我とは区別されるところの現代的倫理を成立させる、「行為」あるいは「出来事」を肉体の次元で目指せそうにはなく、「電脳空間における天使的なコミュニケーション」のグロテスクさと限界に、もう少しマシな使い途を見出していく方向で引きこもり続けたい現状です。

 

 

 

もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて  続・情報共有の未来
 
 

 

 この文脈で言えば、大塚英志氏の『感情化する社会』を始めとする一連の「工学的感性に対する嫌味」シリーズにも溜飲を下げてきた関係上、『感情天皇論』も一応読みましたが、そろそろこっちも卒業かなと思いました。

感情天皇論 (ちくま新書)

感情天皇論 (ちくま新書)

 

 

  『少女民俗学』『『りぼん』のふろくと乙女ちっくの時代』などで、「少女文化を語る男性性のキモさ」を身をもって思考した大塚氏への共感は、自分のオタとしての実存に深く染み込んでおり、本書における『少女たちの「かわいい」天皇』に対する自己批判にも、しんみりくるところがありました。

 更に言って、「セクシュアリティ自己批判的なオタク評論」を先駆的に手掛けた更科修一郎氏が排斥された後に業界入りし、氏が不在になったオトナアニメで燻っていた身としては、こうした大塚-更科文脈にアイデンティティを支えられてはきましたが、哀惜は十分に書き尽くせたので、今年を区切りに思考を入れ替えるつもりです。

 

 それは結局のところ、『「妹」の運命―萌える近代文学者たち』などで焦点化された「近代文学者による女性の内面の規定」という論点に本書でなおも拘泥しながら、この問題系を飛び越えた笙野頼子のような現代文学のハードコアは語ることができない大塚氏の枠組みに、決定的な物足りなさを覚えるためです。

 それこそ、本書のアプローチを借りて「天皇制を殺した次の社会設計を文学作品に見出す」ならば、笙野流の「にっほん/ウラミズモ」の分断こそ、「国家レベルで射精を監理された男性」の形象*2も手伝って、最もリアルな肌触りを常々感じるイメージです。

 

 

 この件、献血ポスターの騒ぎに乗じる戦略を邪推してうんざりした数秒後、昔好きだったシリーズの新作であることに気が付いて天使のしっぽが驚くほど屹立し、サンプルで五回ほど射精しながら人類に対する憎悪と羞恥と哄笑で全身が痙攣してしまい、ものの見事に「ピクピク震える」小さな肉体、ペニスの〈真実〉、「ひとかけらの肉の塊」になりました。

 結局、「揺籃より身体に刻まれし母親の痕跡を殺すことはできない」という凡庸なセックスへの諦念ゆえ、寺山演劇における「母殺し」の強迫観念に対しても、憧憬が消えないのかもしれません。

 

 上のは直球でグロい幼児性が極まった事例ゆえ、かえってカマトトの方々すら真っ青かもしれませんが、真っ青であってほしいですが、「表現の自由」という言葉を聞くたび、『レイプレイ』騒動に関する佐藤亜紀氏の一連の文章*3を思い出してしまうので、いつか地下文化に戻れる日までは、能天気なオタクポルノに呪われた生の表現にだけ、せめてもの自由を見出しておきます。

 

 凄絶なポルノ環境によって人類が根本的に変わってしまった、という恐ろしい実感の主な理論化をラカン派に、この飽食以上に求めるものは既に無い、という絶望を掬い上げる表現は笙野文学に見出すことで、なんとか生き延びている立場は表明できたかと思うので、政治的な話題への直截的な言及は以降控えるつもりです。