7月雑記(政治と恥辱)

 
 最近、加速主義周りの文章を少し読む機会がありました。日本で話題になった18年当時は金が無く鬱だったので、気分には合致したものの、今落ち着くと「Exit」というフレーズ以外に乗れる論点は見当たらず、情報摂取も作品受容も減速著しい傾向にあります。
 
 それでも、マーク・フィッシャーの「ヴァンパイア城からの脱出」*1が端的に示した「Twitterのリベラル左派だめっぽい」問題の重さはコロナ騒動のあれこれで改めて実感されており、都知事選の虚無にも言葉なき近頃ゆえ、全く勉強してこなかった政治思想を表層だけでも撫でる動機にはなりました。
 
 
 でかい話をする前に、自分が置かれた具体的なしょぼい政治的情況を簡単にまとめておきます。
 
 人生の要所要所で不思議と高遠るいファンに救われてきた人間なので、周囲に残った数少ないオタ知人は基本的にアングラ性を保持しながらの穏健な庶民良識派、ネット政治では炎上シーンに介入するよか静かに愚痴り、Twitterでは啓蒙不可能な後続と議会政治の腐敗を睨むのに忙しく、その結果として「政治的生の理論的洗練」も「ドメスティックなオタ文脈の思想的深化」も長らく停滞したような、趣味の共同性を生きています。
 
 退屈を覚えたところでむやみに人間関係を広げる歳でもなく、まして運動にも論争にも批評にも能がないため、せめて原理的な資本主義批判、戦後民主主義批判を勉強しながら、「SNSからExitした場所で政治的思考を再構築する」ことの価値だけ書き留めておきたい立場です。
 
 
 
ダーク・ドゥルーズ

ダーク・ドゥルーズ

 

  主体性は恥ずべきものである――「主体化をうながす要因として嘆きは高揚感と同じくらい重要なのです」。主体性は、時代と妥協することで醸成された「混成的な感情」の種から成長してきた。生き残って今もおめおめと生きているという恥、それが他者の身の上に降りかかってしまったという恥、他者がそんなことをなしてしまったという恥、そしてそれを防ぐことができなかったという恥…。[…]しかし、実際のところ、恥辱としての主体は派生物でしかない。[…]それは「〈可視的なもの〉の塵のなかを舞う微粒子であり、匿名性のつぶやきのなかに置かれた可動性の場」のようなものである。もちろん、事態がこうであっても、自らの恥辱に固執するのを抑えることができない者もいるだろう。だから、ドゥルーズアイデンティティ・ポリティックスに対してはただ嘲笑するだけなのだ――「いまだに「私はかくかくしかじかの者だ」と思い込んでいる人たちに対抗しなければならない…。とっておきの体験とかいう論旨は劣悪な反動の論旨なんだよ」。

(p.54-55 「存在の絶滅」)

 
 近視眼的にオタの立場から「反リベラル」を口にすれば、表現の自由戦士に取り込まれるだけですから*2、それとは異なる抵抗の仕方を考えたかったところに、ニック・ランド『暗黒の啓蒙書』解説(p.268-9)で訳者の方が「せめてこれぐらい尖れよ」的に触れていた、米国のリベラルな反戦運動の挫折と不可視委員会の影響を背負ったアンドリュー・カルプの書は刺激的でした。
 
 自閉と疲労に凝り固まった身体ゆえ、街路に繰り出すタイプの反抗は今後もできそうにない一方で、一時的自律ゾーンのようなインターネットラディカリズムにも希望が持てない状況下、「繋がり至上主義」を睥睨しながら逃走、切断、共謀、野蛮人、不透明性、非対称性を対置する、抑制的かつ非身体的に革命の夢を留め置く本書は、その乾ききった陰鬱さに染みるところがありました。
 
 人間本性を変形させる残酷の情動*3の構成はネットではむずそうですが、せめて抱えた「破壊と死を多方向に減算中継する」*4ように物を書きたくは思われます。
 
 
 
改訂版 全共闘以後

改訂版 全共闘以後

  • 作者:外山恒一
  • 発売日: 2018/12/16
  • メディア: 単行本
 

  […]欧米でのポストモダン論議が60年代末の学生反乱をポジティヴに受け継ぐものとしておこなわれたのに対し、日本でのそれはむしろ正反対の性質を帯びていた。欧米では”68年”を肯定的に評価する文脈を持ったポストモダン思想は、日本では”68年”(全共闘運動)を否定し排撃するための道具として利用されたのである。

(「序章  ”68年”という前史 1.通史の不在)

 
 2010年代は政治の時代、と巷間雑駁に言われる際、「オタク的主体性と政治・思想的言説の関係が捻れまくった特殊日本的な土壌」があまり問題化されないどころか、もはや解決不可能な所与であるかのように、暗黙裡に議論から切断される傾向に引っかかりを覚えてきました。
 この背景にはやはり、「政治の忌避と全共闘世代への敵意を新人類世代と共有するポスト新人類世代の例えば文化体験は、オタク的なるもので一色に染め上げられており、したがってオタク文化の変遷を軸に80年代史や90年代史を記述し、80年代半ば以降のマンガやアニメやゲームに関する瑣末なあれこれについて、何か自らの”世代”にとって重大な問題であるかのように語り散ら」した00年代批評の功罪があり、自分も依然その圏域に魂を縛られたままです。
 家の近所に前進社があったこと以外、全共闘的なものとの接触が一切なかった高卒なので、外山氏周辺の仕事も憧憬混じりに眺めているに過ぎませんが、「オタ大衆やリベラル派やクリエイタークラスの声ばかりでかいSNS政治は現実の矛盾を覆うだけ」という現状認識において、東浩紀氏と外山恒一氏という一見正反対な思想家の意見が合致した対談は印象深く、我が意を得たりの感すらありました*5
 オタクというアイデンティティを保持したまま政治的表象を振りかざす同時代のネット論争に、ほとんど存在論的なまでの「恥辱」を感じて引き篭もってきた人間ゆえ、同一性を殺す読書は続けたい一方で、最近は、わが思春期の揺籃たる「00年代的なもの」「オタク的なるもの」を如何に変形しうるのか、また、自分のようなロートルオタクの「主体性」を広く規定しているであろうこの「恥辱」を、捨てるとは言わずとも如何に宙吊りにできるのか、という問題意識も明確になっています。
 
 
 
新版 テロルの現象学――観念批判論序説

新版 テロルの現象学――観念批判論序説

  • 作者:笠井 潔
  • 発売日: 2013/01/31
  • メディア: 単行本
 
 アニメをはじめ日本のサブカルチャーを偏愛する諸外国の少数派の若者には、ポストフォーディズムとコントロール権力の例外社会や新自由主義国家に不全感を覚えているタイプが多い。この点からすればハルヒなどはグローバリズムへの文化的抵抗として、欧米や旧社会主義国発展途上国の若者に受容されている。日本のサブカルチャーが68年のカウンターカルチャーの記憶を、意識的無意識的あるいは直接的間接的に継承しているからだろう。(p.457)
[…]世界史の中間的過渡期に規定され動物のユートピアを無自覚にも礼賛したゼロ年代批評とは異なる観点から、68年の文化的闘争の持続としてアニメやゲームを検証する作業は依然として残されている。(p.459)
 
 なにしろ、切迫感あふれる内在的テロリズム批判を重厚長大積み重ねた果てに、68年ラディカリズムの帰結と継続を涼宮ハルヒに見出してしまったマルクス葬送派のこの大著こそ、山形浩生氏の書評が示すとおりの壮絶なガッカリ感において、「我々大衆のだらしなさを無媒介に肯定することには何か破滅的な問題がある」と直感させるに十分すぎました。
 いたって真面目に現今の世界システムの隘路を見極めた結論として、すげえ大雑把に(富野から押井、安彦良和あたりは安保から全共闘の世代だよねという常識の確認だけして)やっぱアニメしかねえなと短絡する本書にこそ、我々が抱えた根本的な分裂と困難がド迫力で展開されています。
 特に両義的な気分になったのは、テロリズムを生起させる「共同観念-自己観念-党派観念」に対置される「集合観念」の概念において、中世以来の千年王国運動からブランキの秘教的革命結社、そしてフーリエやサン=シモンなどのユートピア社会主義を再評価しようとする記述です。
 というのも、LGBTなどの文脈における「68年テーゼの国家/資本主義による包括=受動的革命」と同様に、まさしく自分が当事者としてオタク文化に誤認している歴史的状況とは、シャルル・フーリエ的な性愛のユートピア反革命的実現」にほかならないためです。
 失われた未来のビジョンを探るためにも、空想的社会主義は重要だと思う一方で、キャラクターとのバーチャルセックスに満たされた自分にとっては、想像的な性愛の平等社会は完璧に実現されきっており、むしろ「動物のユートピア」という00年代の時代精神が半端に語り残した思想的主題を、どこまで引き受け直し変形できるかが課題である気がしています。
 
 
 

[…]「少女」は新木の一貫して特権的なフェティッシュであり、「少女論」とは少女が無であることを知るがゆえに、それを「敗北」として享楽しようという態度を指す。

[…]「少女」は唐においても特権的な――おそらく澁澤龍彦あたりを介した――フェティッシュの一つであるが、それは当時にあっては、「土着」や「情念」といったものと同様に、実体的な本質として捉えられる傾向にあった。しかし新木は、おそらく三島がアンダーグラウンド演劇に惹かれたのと同じく、その空虚さゆえにそれをフェティッシュとしたのである。
(p.83 第3章「実存的ロマンティシズム」とニューレフトの創生)
天使の誘惑

天使の誘惑

 
[…]青春という幻想から旅立つことのできない、幼児性をもったダメ中年は、どんなにみっともなく、どんなに醜くとも、その幻想を生き抜かなければならないのだ。生きるとは筋を通すことだ。人は処世訓のみでは生きられない。人は誰でものっぴきならない筋目を背負って生きている。そしてその筋目が人を食ってしまうことがある。私は、私の背負った、たかがしれた筋目に、自分が食い殺されてもかまわないと思っている。青春の幻想から旅立つことができないのなら、幻想としての青春に食い殺されてもかまわないと思っている。(p.223)
JUNKの逆襲

JUNKの逆襲

  • 作者:スガ 秀実
  • 発売日: 2003/12/01
  • メディア: 単行本
 

 しかし、「少女」を「革命」の同伴者として措定するということは、それ自体として、「革命」をイノセントなもの(デミウルゴス的な営為)と見なすことであり、ある種の保守的革命主義と親和的であることをまぬがれない。昭和初期の青年将校運動から三島由紀夫にいたるまで、天皇への「恋闕」として表現されたものは、革命が無垢の「享楽」であるという幻想であるが、吉本隆明の「少女」フェティシズムと、ほとんど同型ではあるまいか。

[…]吉本隆明の「少女」は、吉本隆明にとっても一九四五年の敗戦が、思想において何ら切断をもたらさなかったことを告げている。あるいは、吉本における一九四五年の切断とは、天皇が「少女」と呼びかえられたことだったと言えようか。
(p.144,146 「少女」とは誰か?――吉本隆明小論」)

 

 なぜというに、名倉編『異セカイ系』などの極めて「ゼロ年代」的な小説*6が今なお再生産されている現状が悲しく、その疚しさや「恥辱」のゆえに正当化(義認)への欲望*7を強く刺激する少女文化に対しては、「ゼロ年代」ターム以外での倫理的応答がいくらでもありうること、声を大にして主張したいためです。

 ただ、少女文化の発生を歴史的に捉え直せば、三島的な任意の超越性としての天皇崇拝と重なり合う論点が多く、 ここに真面目な左翼の人に任せるしかない、天皇制や戦後民主主義に保護されたオタには問いきれないリミットがあるとも感じています。
  プロレタリア独裁」に甘えないようにはしたいですが*8王寺賢太氏いわくの「戦後民主主義フェティシズムに対するフェティシスト的闘争」(革あ革p.532)、フェティッシュの糞尿性=ジャンク性を顕にする絓秀実氏の批評にこそ信頼を覚えてしまうのは、いよいよ自分もわがフェティッシュの空虚さに耐えかねて、空虚ゆえに信じる構えにも飽き始めているためです。
 
 それでも、異様な文体をもって「少女」の形象にいち早く政治的敗北に基づくロマン的イロニーを託した新木正人のように、我々は自らの幼児性に一生を賭けて責任を果たしうること、「ゼロ年代」言説の息苦しさを超えて何でも読めば読めることだけは、信じて生きたいところです。
 
 
 
少女機械考

少女機械考

  • 作者:阿部 嘉昭
  • 発売日: 2005/09/29
  • メディア: 単行本
 
[…]少女機械、それは――高度資本主義の資本運動のなかで、波動・連鎖してくる少女性の形象を、もう少女たち個々の単体として捉えない感覚上の設定だった。
 少女はそれ自体が複数体を内包している。ところが少女は、自らまとうもの、自らの周囲にあるものを、少女化してしまう脅威でもある。その際に少女は自らの生に離反する死をも取り込んでいて、それが「死の衝動」とつうじあう資本の自己回転衝動と精確にリンクしているのだった。だから少女機械の時代は、資本主義の終焉まで続くだろう。(p.288-289)
 
 フーリエ的な突き抜けた変人(加速主義においてはリオタール『リビドー経済』など)の奇書的ビジョンにアナロジーするほか表現できない資本主義リアリズムのバッドトリップの中で、それでも信じざるを得ない神聖な汚物=ジャンクとしての少女文化は、その自動性、無前提性、脱論理性にこそ本質があるよう思われ、ドゥルーズ的に書かれた資本主義批判の少女論として、腑に落ちる一冊でした。
 
 Vtuberにおいて徹底的に大衆化した、消費専一体として少女的に生きるオタが少女そのものと化す現象は資本主義の必然であり、資本=少女に屈服しながらフレンチセオリーを現状追認的に読んでいる自分の立場など、あえて言えば「形而上学的オタク保守」に過ぎないと思われています。
 
 ゼロ年代批評にまして「オタク文化のリアリティを形而上学的に語りたい」というグロテスクな神学的欲望が激しい一方で、(積んでる大著『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究』から目を逸らして放言すれば)キャロル的な表層の意味の戯れが裂けてアルトー的な深層に落ち込んだ体感も久しく、既存のコンテンツ評論に棹さして「政治の美学化」に与するくらいなら、ネット言説では露悪的にでも「芸術の政治化」を志向したいところです。
 
 
 
 百合概念の乱用に矜持を示した序文と映画パートに迫力があるだけに、個人百合ファンの怪電波(劇場版ラブライブ)と定評ある駄作を駄作と罵るだけ(ハーモニー、フリクリオルタナ)の文章が入り混じったアニメパートには、百合(ファン)フォビアを逆撫でしてしまう隙があって惜しい一冊でした。
 自分は具体的に言うとたまごまご氏などのオタクイデアリズムが長年苦手で、気楽な美少女コンテンツ語りが高じて「政治の美学化」を機能させている広汎な状況こそが問題であり、そこのところまで視野に入れて「百合」概念を変形させる理論的なガチ言説を期待してしまいます。お会いした印象でも、著者の方ならできる気がするので。
 構造憎んで人を憎まず、の基本姿勢で一応言い続けるべきことは、素直な美学的言説が政治的緊張を保った人間の言説を不可視化する、コミュニケーション資本主義下の暗黙の(リンク数やフォロワー数などの)格差構造*9こそ、オタク文化内部の個体に歪んだ「自己観念」を発生させている当のものである、という解消不可能な不幸かと思われます。
 
 
 

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 以上、「オタクと政治」という気が滅入る主題を長々と書きましたが、最近人に借りて「季報唯物論研究」のアニメ批評特集も読み、「消費環境整備としての大衆文化批評」の不可能性を生きた更科修一郎氏の文章に加えて、今なお判断が難しい問題である「アニメ批評の不在」を語る山本寛氏のインタビューもまた、最も気が滅入るがゆえに忘却できない文章かと思いました。
 
 京アニ事件を受けた近頃の山本寛氏は、我々の曖昧な共同性を担保するクソ概念であるがゆえに、「オタク」という言葉を使ってはいけない、つまり「オタクは存在しない」と言い続けることを政治的課題とされています*10
 
 突き詰めれば自分もこの戦術には賛同せざるを得ず、「部落は存在しない」「在日は存在しない」「女性というものは存在しない」といった非全体の論理を、マイノリティではなくなってしまったがゆえにオタク論においても貫くこと、宮崎事件以来の被迫害者パラダイムを引きずった自己疎外としての「オタク」概念を享楽しないようにすることは、社会倫理的に要請される論点かと思われます。
 ただ、そこから導出される「オタとしてすら表象できない生」、「どのような理論でも贖えない生」に誰もが耐えられるはずもなく、「限界中年男性」などでユーモアに昇華できるならさておき、リベラル市民社会の理論的陥穽として反動に繋がる契機は残りますから、そのうえでやはり自分は、自らの歪みきったファルスに局限することで「オタク」概念を享楽し続けざるを得ません。
 こうした保守的な立場にとどまる以上、どうしても自分はSNSをやめるしかなく、地に足のついたコミュニティを地道に生きるべく、もし野垂れ死にしなければ、将来は手狭でない家を買って読書会や鑑賞会でも開きながら老いていきたい、などと愚考しています*11

*1:mAteRiAmaTRiX.com: マーク・フィッシャー「ヴァンパイア城からの脱出」(1)」、「mAteRiAmaTRiX.com: マーク・フィッシャー「ヴァンパイア城からの脱出」(2)

*2:二次元ポルノにしか実存を賭けられない存在の悲惨は当然共有しており、繋がりさえあれば友情も感じた筈ですが、その問題を内面で負い続けるのに疲れた人間としては、曖昧な同族意識に発する「恥辱」以外の感情で、時代精神に応接したい季節にあります

*3:江川隆男『死の哲学』

*4:『ダーク・ドゥルーズ』p.211 [応答3]江川隆男「破壊目的あるいは減算中継――能動的ニヒリズム宣言について」

*5:リベラルからラジカルへ――コロナ時代に政治的自由は可能なのか(1)|外山恒一+東浩紀 | ゲンロンα革命はリアルから生まれる――コロナ時代に政治的自由は可能なのか(2)|外山恒一+東浩紀 | ゲンロンα

*6:メタミステリとしての結構はさておき、細部に「クラインの壺」「パフォーマティブ/コンスタティブ」「安全に痛い」などのゼロ年代批評用語を散りばめながら「キャラクターの被造物性/実在性に対する倫理的衝迫」をポリコレ的地平に留まって問題化した挙げ句、「主人公のキャラクター設定シートにヒロインが少女変体文字で注釈を書き込む」という極めて大塚英志的な形象をブチ込んでくるヤバい作品で、我々はいつまでこの閉塞感に耐えなければならないのか、なろう小説を批評的に繰り込んだ上で素朴な先祖返りをするのは反動では……とメフィスト賞嫌悪が復活した一作でした

*7:

*8:『大失敗』2号 巻頭言

*9:現代思想2019年6月号 特集=加速主義』水嶋一憲「転形期の未来 新反動主義かアシッド共産主義か」など

*10:オタクがいなくなる日 | 山本寛オフィシャルブログ Powered by Ameba」など

*11:曖昧にリベラルな罪悪感に流された結果、大状況に参与しえない無力感と些末な同族嫌悪に耽溺してしまう大衆の神経症的傾向が、特に自分の過去を踏まえて気になってしまう人間です。だらしない我々ネット大衆では解決不可能な「政治性」を互いに糾弾し合うぐらいなら、Twitterは大衆の阿片と弁えて詩か冗談か更新告知だけを書くべきと考えています。SkypeやDiscordなどもROM専に回るタイプなので、月に一、二回人と会う以外は黙々本とコンテンツを摂取する生き方で最近は落ち着いています