7月雑記(政治と恥辱)
主体性は恥ずべきものである――「主体化をうながす要因として嘆きは高揚感と同じくらい重要なのです」。主体性は、時代と妥協することで醸成された「混成的な感情」の種から成長してきた。生き残って今もおめおめと生きているという恥、それが他者の身の上に降りかかってしまったという恥、他者がそんなことをなしてしまったという恥、そしてそれを防ぐことができなかったという恥…。[…]しかし、実際のところ、恥辱としての主体は派生物でしかない。[…]それは「〈可視的なもの〉の塵のなかを舞う微粒子であり、匿名性のつぶやきのなかに置かれた可動性の場」のようなものである。もちろん、事態がこうであっても、自らの恥辱に固執するのを抑えることができない者もいるだろう。だから、ドゥルーズはアイデンティティ・ポリティックスに対してはただ嘲笑するだけなのだ――「いまだに「私はかくかくしかじかの者だ」と思い込んでいる人たちに対抗しなければならない…。とっておきの体験とかいう論旨は劣悪な反動の論旨なんだよ」。
(p.54-55 「存在の絶滅」)
[…]欧米でのポストモダン論議が60年代末の学生反乱をポジティヴに受け継ぐものとしておこなわれたのに対し、日本でのそれはむしろ正反対の性質を帯びていた。欧米では”68年”を肯定的に評価する文脈を持ったポストモダン思想は、日本では”68年”(全共闘運動)を否定し排撃するための道具として利用されたのである。
(「序章 ”68年”という前史 1.通史の不在)
アニメをはじめ日本のサブカルチャーを偏愛する諸外国の少数派の若者には、ポストフォーディズムとコントロール権力の例外社会や新自由主義国家に不全感を覚えているタイプが多い。この点からすればハルヒなどはグローバリズムへの文化的抵抗として、欧米や旧社会主義国や発展途上国の若者に受容されている。日本のサブカルチャーが68年のカウンターカルチャーの記憶を、意識的無意識的あるいは直接的間接的に継承しているからだろう。(p.457)
[…]「少女」は新木の一貫して特権的なフェティッシュであり、「少女論」とは少女が無であることを知るがゆえに、それを「敗北」として享楽しようという態度を指す。
[…]「少女」は唐においても特権的な――おそらく澁澤龍彦あたりを介した――フェティッシュの一つであるが、それは当時にあっては、「土着」や「情念」といったものと同様に、実体的な本質として捉えられる傾向にあった。しかし新木は、おそらく三島がアンダーグラウンド演劇に惹かれたのと同じく、その空虚さゆえにそれをフェティッシュとしたのである。(p.83 第3章「実存的ロマンティシズム」とニューレフトの創生)
[…]青春という幻想から旅立つことのできない、幼児性をもったダメ中年は、どんなにみっともなく、どんなに醜くとも、その幻想を生き抜かなければならないのだ。生きるとは筋を通すことだ。人は処世訓のみでは生きられない。人は誰でものっぴきならない筋目を背負って生きている。そしてその筋目が人を食ってしまうことがある。私は、私の背負った、たかがしれた筋目に、自分が食い殺されてもかまわないと思っている。青春の幻想から旅立つことができないのなら、幻想としての青春に食い殺されてもかまわないと思っている。(p.223)
しかし、「少女」を「革命」の同伴者として措定するということは、それ自体として、「革命」をイノセントなもの(デミウルゴス的な営為)と見なすことであり、ある種の保守的革命主義と親和的であることをまぬがれない。昭和初期の青年将校運動から三島由紀夫にいたるまで、天皇への「恋闕」として表現されたものは、革命が無垢の「享楽」であるという幻想であるが、吉本隆明の「少女」フェティシズムと、ほとんど同型ではあるまいか。
[…]吉本隆明の「少女」は、吉本隆明にとっても一九四五年の敗戦が、思想において何ら切断をもたらさなかったことを告げている。あるいは、吉本における一九四五年の切断とは、天皇が「少女」と呼びかえられたことだったと言えようか。(p.144,146 「少女」とは誰か?――吉本隆明小論」)
[…]少女機械、それは――高度資本主義の資本運動のなかで、波動・連鎖してくる少女性の形象を、もう少女たち個々の単体として捉えない感覚上の設定だった。少女はそれ自体が複数体を内包している。ところが少女は、自らまとうもの、自らの周囲にあるものを、少女化してしまう脅威でもある。その際に少女は自らの生に離反する死をも取り込んでいて、それが「死の衝動」とつうじあう資本の自己回転衝動と精確にリンクしているのだった。だから少女機械の時代は、資本主義の終焉まで続くだろう。(p.288-289)
*1:「mAteRiAmaTRiX.com: マーク・フィッシャー「ヴァンパイア城からの脱出」(1)」、「mAteRiAmaTRiX.com: マーク・フィッシャー「ヴァンパイア城からの脱出」(2)」
*2:二次元ポルノにしか実存を賭けられない存在の悲惨は当然共有しており、繋がりさえあれば友情も感じた筈ですが、その問題を内面で負い続けるのに疲れた人間としては、曖昧な同族意識に発する「恥辱」以外の感情で、時代精神に応接したい季節にあります
*4:『ダーク・ドゥルーズ』p.211 [応答3]江川隆男「破壊目的あるいは減算中継――能動的ニヒリズム宣言について」
*5:「リベラルからラジカルへ――コロナ時代に政治的自由は可能なのか(1)|外山恒一+東浩紀 | ゲンロンα」「革命はリアルから生まれる――コロナ時代に政治的自由は可能なのか(2)|外山恒一+東浩紀 | ゲンロンα」
*6:メタミステリとしての結構はさておき、細部に「クラインの壺」「パフォーマティブ/コンスタティブ」「安全に痛い」などのゼロ年代批評用語を散りばめながら「キャラクターの被造物性/実在性に対する倫理的衝迫」をポリコレ的地平に留まって問題化した挙げ句、「主人公のキャラクター設定シートにヒロインが少女変体文字で注釈を書き込む」という極めて大塚英志的な形象をブチ込んでくるヤバい作品で、我々はいつまでこの閉塞感に耐えなければならないのか、なろう小説を批評的に繰り込んだ上で素朴な先祖返りをするのは反動では……とメフィスト賞嫌悪が復活した一作でした
*7:
*9:『現代思想2019年6月号 特集=加速主義』水嶋一憲「転形期の未来 新反動主義かアシッド共産主義か」など
*10:「オタクがいなくなる日 | 山本寛オフィシャルブログ Powered by Ameba」など
*11:曖昧にリベラルな罪悪感に流された結果、大状況に参与しえない無力感と些末な同族嫌悪に耽溺してしまう大衆の神経症的傾向が、特に自分の過去を踏まえて気になってしまう人間です。だらしない我々ネット大衆では解決不可能な「政治性」を互いに糾弾し合うぐらいなら、Twitterは大衆の阿片と弁えて詩か冗談か更新告知だけを書くべきと考えています。SkypeやDiscordなどもROM専に回るタイプなので、月に一、二回人と会う以外は黙々本とコンテンツを摂取する生き方で最近は落ち着いています