おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

雑記(幻覚剤ルネサンス以後のフーリエ主義者の方針について)

 このアカウントを作ってから得難い出会いが多々あり、善き触発と欲望の変形を被ってきました。その過程を再構成するべく、今回は緊密に書いてしまうクセをなるべく排し、意識して冗長に日記をつけてみます。千葉雅也ほか『ライティングの哲学』を読んでそう決心するも、成功したかは微妙です。

§1 同人誌について

 宮﨑悠暢氏()の主催による同人誌『PROJEKT METAPHYSICA Vol.1』に、論考「模像の消尽のためのエスキス」を寄稿しました。

 きっかけは宮﨑氏にドゥンス・スコトゥスの動画を見つけていただいたことに遡ります。宮﨑氏は当時、VTuberを主題にした評論同人を企画されており、そこに寄稿依頼をもらって、2021年2月に書き上げました。しかし諸事情で企画が頓挫し、現在の「プロジェクト・メタフィジカ」が再企画され、ようやく掲載に至った形です。やきもきする一件でしたが、腐っても出版社にいる人間として編集業務でも手伝うべきところを丸投げしたので、さておき。

 文系の大学生の方をメインとする執筆陣に一回り老いた無産者として参加した立場から、各論考の詳細を措いて率直に感想を述べれば、広く取って筆者を含めた平成生の世代における「ゼロ年代」的と呼ばれてきた問題意識の昇華ぶりに、瞠目する一冊となりました。

 とくに倉井斎指氏の『カードキャプターさくら』論と宮﨑氏の『キルミーベイベー』論が心に沁み、両者は「オタク的なるものの(非)政治」というニヒリズムの問題を深く生き抜きながら、そのうえで世界を信じ直す方法(=愛)を語ろうとしています。

 やはり筆者の論考も同じく、当ブログの過去記事に書き尽くしたオタク的ニヒリズム(宮﨑氏の語彙を借りればルソー的な脱自然化の円環)を、クロソウスキー的な脱神秘化と再神秘化が反復される〈悪循環〉と捉え直し、VTuber文化まで一貫する〈余剰の人間達による陰謀〉として肯定することで、世界と我々の愚かさを信じ直す方法(=愛)を語ろうとしたものです。

 後続にバトンタッチしたい論点は註に回すとして*1、筆者自身はこの論考と前回の記事を書き上げることで、歴史的主体として証言すべき過去を消化し切ることができました。結果、東京に比した京都の環境の良さと相まって、二〇代までの気鬱が嘘のように晴れ、能天気な三十男の余生を迎えるに到っています。

 湿った実存が消えたので、今後は後続の助けになる活動でもしたいと思う一方、若い頃に上の世代のお節介をどう感じたかと言えば、端的にウザかった筈ですから、引き続き一人で好きに生きます。その上でなお、①後続から見て恥ずかしくない生存の仕方を示すこと、②最低限のコミュニティを維持することを、当アカウントの課題にしておきます。

 上掲したプロジェクト・メタフィジカの企図は、「生活的事実としての消費文化に対する愛憎を否認せずに、在野で哲学的論考を自由に書き継いでいく場所作り」だと理解しています。この宮﨑氏の理念あるいは切迫に、「在野研究」をするには関心も能力も狭い高卒のデラシネとして行き場のない筆者は共感しており、②の課題を満たしうる実践として、協力を惜しまないつもりです。かたや、①の課題は一人で詰めたいところです。

 つまり、実存的にも時代的にも「オタク文化」なる問題設定が機能不全を来して久しい現在、そのような我々特有の愚かさを文化批評では捌ききれない倫理的課題と捉え、全人的なアプローチを行うことで、消費文化への内在を「単なる生存」の一様態として批判的に肯定する作業を継続していきたいのです。次節以下、これについて説明します。

 当ブログが反復してきた「ゼロ年代嫌い」は、サブカル批評という方法(あるいはそれを相互補完してきた映像分析やカルチュラル・スタディーズなどの専門知)の狭苦しさに対する反発にすぎず、別の角度から同じ問題を分節することで、消費文化の当事者とはもちろん、それ以外の他者との共同性をも確保する書き物は続けたい所存です。

 

§2 フーリエ主義者同盟について

 それ以外の他者との共同、という話題に移ります。前回、青井硝子裁判を通じて知り合った人類学者・蛭川立氏()と筆者の二人で、シャルル・フーリエ主義者同盟を結成したことに触れました()。次いで2022年5月6日、青井硝子氏の結婚式に参加するために蛭川氏が関西に来た折、京都の筆者宅にて第二回の党会議(?)を行いました。

 謎の無産者、謎の人類学者、謎の社会思想家という組み合わせです。青井裁判という謎の事件を注視してきた筆者と蛭川氏が、なぜフーリエという周縁的な社会思想家の名のもとに意気投合するに到ったのか。筆者もまだよく分かっておらず、はたから見ても限界オタクと異常学者の野合にすぎないはずです。

 事情を説明する前にあらかじめ図式化しておくと、両者は在野とアカデミア、人文科学と神経科学、反現実性愛と現実性愛といった緊張関係にありながら、それらの対立項はフーリエにおいて調和しうる、という直観を共有しているようなのです。

 まずは蛭川氏のフーリエ受容を簡単に代弁します。蛭川氏は人類学研究のフィールドワークにおいて世界各地の文化状況を見て回った経験を踏まえたうえで、日本の高度な生活水準・医療環境・性愛文化を再評価しようとしています。そこにフーリエのビジョンを写し見て、「日本文化はすでにして恋愛と美食のユートピアの前衛である」と考えるに到ったそうです。

 筆者も同様に、キャラクター文化の究極的な快楽を肯定的に理論化するべくフーリエを読んできました()。一方で蛭川氏の場合、ポリネシアや日本など太平洋諸島に見られる色好みの文化をフーリエがすでに指摘していた、といった文化人類学上の判断も絡んでおり、平安貴族の多情な恋愛文化とも接続して理論化したいと語っています。

 蛭川氏の大まかなビジョンはこうなります。我々の現実にフーリエ『愛の新世界』を重ね見ることで、日本人はその生存の自明性をより深く肯定し、恋愛平民から恋愛貴族に進化するべきである。一夫一婦制の単婚愛に満足する恋愛平民ではなく、多婚愛と全婚愛を生きうる恋愛貴族であることを自覚するべきである。そのことによって、従来のルサンチマンに塗れた階級闘争ではない、悦びに満ちたオルタナティブな政治を生きるべきである。

 フーリエの錯綜したテクストの解釈も絡んで、この主張を支える論点は多岐に渡りますから、本人による諸論を待ちたいところです*2

 両者の接点について補足すると、蛭川氏がキャリア最初期に「セックス・サイケデリックス・サイバネティックス」との論考を書いたうえでフーリエに行き着いたことは示唆的です*3。というのも筆者もまた、主には『カスタムメイド3D2』シリーズにおいてバーチャルセックスの快楽を味わい尽くし、青井硝子事件において精神展開薬の快楽を味わい尽くし、バーチャルYouTuberにおいてテクノロジーの快楽を味わい尽くし、もって特異な社交の快すら享受してしまっている自己の現実を説明する必要に迫られ、否応なくフーリエに行き着いたためです。

 つまり筆者と蛭川氏は、セックス・サイケデリックス・サイバネティックスという三つの極限的な快に衝き動かされる存在として自己と他者を受け止め直し、市民道徳ではなく身体の力能の自覚に結びついた徳の倫理を共有しながら、21世紀に相応しい社会思想の実験を目論んでいるようなのです。

 本稿では準備が足りませんから、以下には両者の飛躍したフーリエ的直観(あるいはユートピアンの幻視)を開陳・記録するに留めます。さしあたり、二人のフーリエ主義者が引き寄せられた青井硝子事件の価値に即して補足します。

 

§3 怖るべき囚人の陶酔論

 諸外国における精神展開薬の医療制度化(=幻覚剤ルネサンス)が日本に波及するのを待たず、個人の信念によってアヤワスカ・アナログを広めてしまった青井氏の活動は、蛭川氏に言わせれば精神医療における「暴力革命」にほかなりません*4バロウズが南米へ探しに行ったヤーへの精巧な模造品が日本の若者に行き渡ってしまった、という言い方をすれば、文化的にも何らかの転換を見たくなる事態です。

 しかし、蛭川氏が知り合いの研究者に青井硝子裁判について話しても、ほとんど関心を得られないそうです。なぜか。おそらく学者に色々と余裕がないから、という共通見解に落ち着きました。そういう蛭川氏は、自身を「大学の終身雇用制度の恩恵に与ることができた最後の世代」だと言い、仕事量を減らして(あえて言えば)余裕をもって楽しみながら青井事件に関わっています*5。一方で筆者の関心にある人文学の状況を眺めれば、非常勤やポスドクの世知辛い話はよく見かけますし、あとで見るキャンセルカルチャー問題も非常勤講師の経済問題に還元できなくはありませんから、納得せざるを得ません。

 そもそも、なぜ学者の関心や助言を得たいのか。蛭川氏は「面白い事件があるよ」ぐらいのノリだったそうですが、筆者を含む事件に関わったユーザーにとっては、サイケデリクスの薬理作用で解鬱するだけでは詮無く、その経験をいかに解釈し、事後にどう生きるべきかを判断するための知識は、多いに越したことはないという事情があるためです。

 実際、青井氏に「ユーザーの体験後の生」を意味づける物語知=ナラティブの高度な構築まで期待するのは酷です。筆者は体験を青井氏のノリで軽々と意味づけることも、スピリチュアル文化に合流もできなかったため、既存の研究を承けたうえで最低限記述できる我々の置かれた歴史的条件を、少しく苦労して前回にまとめたことになります。

 幸い筆者は、もともと内向的でDMTと相性が良すぎるぐらいに良かったおかげで、青井氏に頼らず自前でナラティブを再構築できているわけですが、体験が良い方向に作用しなかったケースが存在している可能性も十分想定できますから、青井氏を承けた上でそれとは異なるナラティブを用意しておきたい、という余計な配慮が働く次第です*6

 青井氏の新著『獄中で酔う』は、留置所生活の楽しさを「酔い」の類型論によって説明しています。これは青井氏が精神変容物質の独自研究に基づきつつ、接見において蛭川氏と影響を与え合って形成したアイデアだそうです*7

「『酔い』には、ざっくり三種類あります。『オピオイド酔い』と『カテコール酔い 』と『インドール酔い』です。人間は生きているかぎり、何かに酔っていなければ生きられないというわけです。留置所は社会の外部ではありません。むしろ社会の縮図です。留置所という厳しい環境では、闘いの適応戦略が試されます。氷河期にネアンデルタール人は滅びましたが、ホモサピエンスは闘って生き延びました。ホモサピエンスは三種類の『酔い』を使い分けて生き延びる戦略を進化させました」*8

 

「酔い」 オピオイド酔い カテコール酔い インドール酔い
神経伝達物質 エンドルフィン ドーパミン セロトニン
    ノルアドレナリン DMT
向精神薬 オピオイド鎮痛薬 精神刺激薬 精神展開薬(psychedelics)
依存性 身体依存 精神依存  
耐性 耐性 耐性 逆耐性
宗教 [国家宗教としての]キリスト教 資本主義 仏教
欲望 禁欲 欲望 瞑想
支配 被支配 支配  
闘争 ルート1 ルート2 ルート3
愛の様相   恢(ハイ) 愛(アイ)
合言葉 (閉じていく) やってやり やっていき

 歴史と宗教と実存を神経伝達物質の作用に還元する、マッドサイエンティストの粗雑な図式化に見えるはずです。

 ところでフーリエは、歴史と宗教と実存を情念引力の作用に還元します。全ての差異に言われる唯一の同じもの、〈情念の一義性〉を信じることが、筆者のスピノザフーリエ主義の要諦でした()。これに類比して好意的に捉えれば、青井氏は〈神経伝達物質の一義性〉を信じる、独自の形而上学*9のプログラムを提示しようとしています。

 さておき、酔いの類型論の眼目は、インドール酔いが他のふたつの酔いの「耐性」をリセットする「逆耐性」作用を持つことを強調する点にあります。詳しくは『獄中』を参照いただくとして、筆者なりに説明すれば以下の通りです。

 オピオイド酔いとカテコール酔いはインフレーションすることで「脳汁」が出づらくなり、感情の強度を維持するための攻撃性や禁欲性をより多く求めさせます。そこにインドール酔いを挟むと、いずれにせよ本性的に過剰を求める受動感情の無際限性と、そのような感情によって自他を価値付けてきた心的過程が自覚されます。その出来事が、微細な酔い(知覚・刺激・情動)を都度キャッチする力能を形成し、その力能を行使しうること自体の幸福に気付くことで、かえってマイルドな快楽に充足できるようになる、という次第です。

 これを言い換えると、アヤワスカ(・アナログ)という外因性DMTによる超越経験のあと、それに促進された内因性DMTの分泌によって、あらゆる世俗経験を微細に知覚し直して肯定的に認識できるようになります。これが長期のDMT摂取経験を持つ筆者、蛭川氏、青井氏が共有した生の過程です。また、精神展開薬がそれ自体に対する依存性を形成しづらい所以でもあります。

 ところで筆者は以前、左派の規範的判断としての資本主義批判の正当性を、ストア派の諦念に基づいて監獄の内部の快楽に充足する、〈怖るべき囚人〉という概念的人物をモデルに留保しておきました()。そして『獄中で酔う』における青井氏は概念ではなく、実際に監獄の内部に囲い込まれてなお内因性DMTによってインドール的に酔い、いわば「生きること」そのものに宿っている微細な快楽を享受することで、「刑罰制度の本質的な部分を骨抜きにして、逆にそのことで牢獄の中の現状と牢獄の外の現実を批判する力を発揮」してしまっています*10

 すなわち、筆者と蛭川氏のサイケデリックフーリエオプティミズムから最大限に評価すれば、こうした一連の実践において青井氏は、過度な悲しみ(オピオイド酔い=受動的ニヒリズム)と過度な怒り(カテコール酔い=反動的ニヒリズム)に基づいて世界を価値付ける人間精神を批判、というより本能的に回避して、特異な愛あるいは喜びの感情(インドール酔い=否定的‐能動的ニヒリズム)だけに基づく政治闘争を実践しているように見えるのです*11

 筆者の体感で言い換えれば、DMTによって人間本性としてのニヒリズムは非物体的な変形を被り、さらに事後を善く生きられた場合にはルサンチマンが最小化する。おそらくは、ここに〈怖るべき囚人の陶酔論〉の要諦があります。

 そして、薬物依存症やサイケデリクス文化に対する大方の「不健康」なイメージに反して、あえて言ったこのような「大いなる健康」を結実させてしまうDMTと、それが垣間見せる精神のユートピアに基づいて言えば、もはや精神医療に期待すべきは精神展開薬の制度化=幻覚剤ルネサンスの加速だけである……と、言ってみたくもなるのですが。

 

§4 社会の精神病院化

 まさしく幻覚剤ルネサンスの先駆けと言われる、リック・ストラスマンによる1990年頃のDMT研究(原著2001年)を参照してみると、幻覚剤を体験済みの被験者からデータを取っていることもあり、報告される精神変容の諸結果にさほどの感興はなく、むしろそれを評価するスケールや実験方法を設定すること自体の困難、行政手続きのカフカ的迷宮、既存の仏教コミュニティとの軋轢といった論点から、この話題の楽観視できなさを教えられる一冊でした。

 大麻使用罪創設が今さら云々される本邦で言っても虚しくなりますが、DMTの基礎知識については一見胡散臭く見えるこの文献を広く勧めることにして、本節では精神医療制度との関連において、フーリエ主義者が取るべき態度を示唆してみます。

 蛭川氏と青井氏の予想を聞くに、日本において精神展開薬による治療実践が制度化して浸透するのは、今後よくて十数年はかかる見通しだそうです。それゆえ、その実現をより良く「待ち構える」方法を練るぐらいが、無産者に可能な態度となります。そうすると、例えばアディクション臨床専門医の松本俊彦氏などがプラグマティックに採っている「依存症患者の社会復帰」路線には、不十分さを感じざるを得ません。

 前回少し触れましたが()、その擁護論はハームリダクションなどの社会福祉・包摂モデルに留まる傾向があり、患者が復帰させられるところの「健常者の社会」そのものの積極的変形を含んでいないように見えるためです。よってそうした議論には、「病人」側から社会の変形を含んだ観念を挿入することで、現社会に蔓延しきった公衆衛生意識そのものを根こそぎにしうる、批判的かつ肯定的なビジョンを醸成していくのが理想と言えます。

 ところで、現在の蛭川氏は教職だけでなく、国立トップとされる精神科病院の研究員を兼任しているのですが*12、以前ここの病棟に患者として入院していた時期があったそうです。

 その入院の理由は、「「健常」とされる社会のほうが、病識を持つことができないほど管理され尽くした狂気の戦争機械であることに気づいた」ためであり、「その社会において「病識」に目覚め、主体的に精神科病院に入院することは、じつは後期資本主義における生権力の作用から「退院」することだと気づき、主体的な選択として任意入院を選んだ」とのことです。

 そして、その入院生活の心地良さや患者同士の特異な共同性にも感動したらしく、一般に「狂気」「幽閉」のイメージで忌避されている精神病院=監獄のユートピア性をこそ積極的に語るべきである、とよく仰っています。この点で蛭川氏もまた、筆者や青井氏と並ぶ〈怖るべき囚人〉の一人だといえます。

 その入院記録の出版企画を各所に持ち込んでは、出版社にも大学人にも理解を得られず断られているそうです。どうやら蛭川氏もまた、そのような「病人」が生きる監獄の快をモデルに、社会そのもの、あるいは社会認識の変形を夢見ているようなのです。言うまでもなく筆者もまた、真性童貞者のポルノ中毒という筆者自身が生きる監獄の快をモデルに、万人が病者であるような社会を肯定し切ることを夢見ています。

 もちろんこうしたビジョンは、例えば各種当事者コミュニティの実践や当事者研究の蓄積と並べれば、インテリとジャンキーの戯言ではと懐疑されても仕方ない段階に留まっていますから、このような留保なきユートピア精神を持つ学者が今でも存在している事実のみ、ひとまず紹介したまでです。

 

§5 性政治の不可能性

 ここまでで、筆者と蛭川氏と青井氏の欲望を〈監獄の快〉として括っておきました。こうした〈囚人〉あるいは〈病者〉は、現在の社会的混沌をいかに思考しているのでしょうか。一時は「印刷されたTwitter」と話題になっていた気がする、ポリフォニックな執筆陣が美しい左派論壇誌「情況」の感想でも述べてみます。

 詳細は伏せますが、蛭川氏はコロナ禍に際してウイルスに関する正しい知識の発表を求めたところ所属する大学の同僚と揉め、さんざんフーコーの生権力論や管理社会論について講釈を垂れてきたくせにマスク着用道徳を推し進めている左派の同僚に失望し、本人いわく転向して「頭の良い右派になりたい」そうです。

 こうした状況を十全に代弁した上で、「やるべきは左派を見捨てて反ワクチン派(頭の悪い右派)にイデオロギーを外部注入することである」とアジるのが外山恒一氏であり*13、若い世代に外山合宿の出身者が増えるのを見るにつけても、自称ファシストが最も良心的な政治活動をしているように見えてしまうのは確かです。

 それと比べればどうでもいいと言いたくもなるキャンセルカルチャー論争については、他者の共同性を「ホモソーシャルの幻想」に切り詰めて自己の所属する大学共同体のお上品さを言挙げするばかりの小心翼々たる嶋理人氏に比べれば*14、本誌の特集そのものが女性差別の再生産であると全力で憤る藤崎剛人氏のほうが、まだしも自己の正義を貫く姿勢に感心できます*15。それでもやはり、端的に議論の具体性において柴田英里氏*16や山内雁琳氏*17に説得力を感じてしまうわけですが。

 前段落で触れた前二者のような(「リベラル」はもう嫌なので)若い大学左派に対して、筆者が一時期本気で怒っていた論点を一応確認しておけば、「消費文化に生きた自らの欲望を分析し切らずに他者の性観念を批判する」身振りでした。しかし、その程度の不徹底は大衆も見抜いていますから、今ではネット右派に十分な攻撃を受けています*18

 こうした社会的諸力を総合して見れば、むしろ「精神分析的に突っつくと痛がりそうな他者の弱い部分」については互いに寛容になり、各人の正義を認めて放っておく態度が、倫理に適うと考えています。なにしろ、これらの空中戦で終わらず、完全に別世界で欲望を解放していると言うべき、肉体を毀損したメタバース生活を送るデジタル・グノーシス主義者である蘭茶みすみ氏の文章なんかも載っていることこそ、本誌の美点と言えるためです*19

 こうした文脈に筆者や蛭川氏のケースを付け加えてみると、今の時代は市民道徳を何らかの形で相対化した広義の「保守」が強すぎる気がしています。つまり、底が知れた大学左派の「批判」を何ほどとも思っていない、セックス・サイケデリクス・サイバネティクスを肯定する人民達による倒錯的貴族主義が、広がっているよう感じるのです。

 ここで飛躍しますが、こうした諸価値の混迷にあってこそ、アンシャン・レジームが崩れて諸階級のヒエラルキーが混乱したフランス革命期から復古王政期にかけて、社会的諸矛盾の渦中から女性の地位向上(今日のフェミニズム)と恋愛文化の多形倒錯的発展(今日のキャラクター文化)というコアを取り出して社会進化を思弁してみせたフーリエが、社会認識上の定点を設定すると思われます。おそらくフーリエに言わせれば、このような事態は文明紀から保証紀へ移行する過渡期に起こる当然の混乱であり、調和紀という未来の至福を見据えれば騒ぐにも値しない自然な出来事のはずです*20

 また、絓秀実氏がドウォーキンのポルノ批判の失効と第四派フェミニズムにおけるシスターフッドの相対化を承け、小泉義之氏が再評価するレズビアン分離主義*21の価値を検討しているのを見ても*22フーリエの女性同性愛嗜好にならって百合的欲望を笙野頼子作品のようなレズビアン分離主義に接続する正しさを、確信するばかりになります。

 以上を平易に言い換えれば、「闘わない大学知識人」や「フェミ」を笑うのではなく、限界まで退廃した「オタク」的なる(潜勢的な不在の)人民側から友愛を維持しつつ、不可能と化した性政治の問題系を変形する、独自の社会認識のモデルを提示しうる立場として、フーリエ主義を立ち上げたいのです。無関係な他者との連帯を信じ続ける思想として、マルクスフェミニズムが機能不全であるならば、フーリエで補うしかない気がしています。

 

§6 バタイユからクロソウスキー

 性政治の不可能性にサイケデリクスとかけまして、興味深い人物を紹介します。1960~70年代にドゥルーズ思想を用いて一夫一婦制と性器的快楽を批判・解体する肛門性交革命論を構築し、アルゼンチンの同性愛者解放運動を率いたものの、80~90年代にはエイズ問題によるコンドームの普及によって同性愛のラディカルさが失われたと考えて「性政治の終焉」を語り、晩年はサントダイミに入信してアヤワスカによる霊的実践とバタイユ思想による神秘神学に救いを求めたという、ネストル・ペルロンゲル(Néstor Osvaldo Perlongher - Wikipedia)なる詩人・人類学者です。

 若手のドゥルーズ研究者が編纂した論集にて廣瀬純氏が紹介しており*23、筆者には他人とは思えない人物でした。筆者もまた、キャラクター文化の快楽に基づく性政治的ラディカリズムが不可能であるかのような世間苦で塞ぎ込み(筆者の苦は結局のところ病苦ではなく世間苦でした)、バタイユ読書とアヤワスカ・アナログに救いを求めて二〇代後半を潰したためです。

 その時の切迫感も今では忘れかけていますが、例えば最近翻訳されたニック・ランド『絶滅への渇望』は、当時の憂鬱を想起させられる読み味でした。バタイユを無害化するデリダ以後の脱構築派に対する嫌というほど執拗な悪罵は、まさしく大学外で低次唯物論的リアリティを一人生きていた筆者が書きたかったものであり(そしてランドが書いてくれたおかげで書く必要がなくなったものであり)、我々は(少なくとも筆者は)加速主義を笑える地点には未だ達していなかったのだと痛感させられます。

 これはサイケユーザーに向けたお喋りですが、§3の青井陶酔論をここに適用すれば、アンフェタミンを友とするランドは「カテコール酔いのバタイユ主義者」であり、DMTを友としたペルロンゲルと筆者の場合は「インドール酔いのバタイユ主義者」だと言えます。この差異についてはいつか書くとして、死の否定性へ突き抜ける思考を十分満喫してこそ、バタイユからフーリエに鞍替えできた、と説明したくはなります。まずはランドと共に死を味わうこと、死は思考において構成しうること、よって肉体的に死ぬ以外の道もあると知り得ることが、本書の健全な価値かと思います。

 ドゥルーズからバタイユへ向かったペルロンゲルの屍を、性政治も神秘神学も不可能になった地点で弔うべく、ペルロンゲルとは逆にバタイユからドゥルーズへ向かった(ように見える)ランドの方向性を検討するにあたっては、上掲論集において「ドゥルーズを読むならクロソウスキーも読むべきである」とする山﨑雅広氏の研究に勇気付けられました*24

 山﨑氏の論考の要諦は、永劫回帰を外側から存在論化するドゥルーズの不十分さを、永劫回帰を内側から生きるクロソウスキーによって補うこと、言い換えれば「思想を語るに際して身体を供与すること」にあるようです。筆者にはこれこそが、「革命の狂気」を検討し続けるための前提条件だと思われています。

 また、『生きた貨幣』における「サドからフーリエへ」の跳躍というクロソウスキーの妄想を、真剣に検討している松本潤一郎氏の論考をも、筆者は真に受けています*25。§1で触れた同人誌の論考は、松本氏を始めとするクロソウスキー研究がひらく可能性をVTuberに適用しようとしたものです。

 筆者がVTuber的主体に対して/として幻視している〈生きた貨幣〉は、クロソウスキーによれば「生活水準の高度な保証によって可能となる一見不可能な退行」ですが、実際我々は福祉社会に死なない程度の生活は保証され、不死者のように生存しています。同時に消費文化においては、一見不可能と思われていた退行的な快楽を、なぜだか分からないまま、どこへ向かうともなく加速させ続けています*26

 これもお喋りですが、筆者は視聴者としてVTuber文化を追い続けるのが難しいゆえ、最近はニコニコ動画発のボイスロイド文化を観測するようになりました。筆者の見るところ、VTuber文化は生きた貨幣のクロソウスキー世界に突き抜けてしまった一方で、人工音声文化は天使結合というフーリエ的心情愛の圏域に留まっています。また、琴葉姉妹の耳かきASMR音声で幾度も射精しており、人工物との媾合を順調に加速させています。

 こうした電波もいずれ詳論しますが、今のところは、個人では果たし得ない(射精しきれない)社会的富の消尽を、落ち着いて他者に委ねるための全般経済学的な理論構築こそが、インドール酔いのバタイユ主義者の本懐であると放言させてください。

 

§7 生残者の倫理

家族主義・オイディプス主義の父・母・子の三角形は、「欲望の生産としてのあらゆる性愛を窒息させ、新しい様式において性愛を「汚らしいささやかな秘密」に、家庭の小さな秘密に作りかえ、〈自然〉と〈生産〉という目覚ましい工場のかわりに、内密な劇場を作ってしまう」。

[…]では、ドゥルーズガタリは、この歪みを正して、本源的自然に還ることを呼びかけているのだろうか。ドゥルーズガタリは、家族・市民社会・国家の劇場を解体し、幻想やイデオロギーを引きはがして、むき出しの欲望や快楽を露出させることを呼びかけているのだろうか。その通りである、と留保抜きに認められるべきだ。真っ直ぐに、自然に還れ、歴史や社会によって歪められることのない自然本性を取り戻せ、と言えない方がどうかしているのだ。もちろんドゥルーズガタリの議論にしても、かくも単純素朴なものではないし、多くの捻りや襞が含まれているわけだが、そこをあれこれと詮索することに終始して、そこに賭けられていることを見逃してはならない。ドゥルーズガタリは、精神の病人と身体の病人のことも考えているからだ。(68-69頁、強調引用者)

 バタイユやランドと共に死を味わい尽くしたあとは、人間がただ生きていること自体の凄まじさに魅了され、あらゆる怪物を歓待すること、万人が病者であるような社会を肯定すること以外、為すべきことはないよう思われています。

 ところで、ベンヤミン曰く「人にはワインを勧めて自分は水を飲む」ような、主体の質素と客体の豪奢を同居させる姿勢が、フーリエには見出されます。実際、むき出しの欲望や快楽を生きることに私的所有レベルでは疲れてしまった筆者と蛭川氏は、そのような生の美学を他者にひらくことで、フーリエを生残者の倫理思想として読み替えようとしている気がします。

 ここにアガンベンを承けた小泉氏の表現を借ります。

「ゾーエーにほかならないビオス、剥き出しの生の肉に全面的に移された生の形式が、構成されなければならない」*27

 

 「ゾーエーにほかならないビオス」とは、ただ生きることが何らかの生き方になるような生のことです。ただ病気になっているというそのことが、善い生き方になるとまではいかなくとも、何らかのライフスタイルになるような生のことです。ホモ・サケルが新たな仕方で生きるビオスのことです。ホモ・サケルの例として何を考えるかで話が違ってくるでしょうが、大筋では、ただ生きるとされるその状態がまさに善い生き方だと言える条件は何かと考え進めるのが基本的な方向です。

 

(「二つの生権力―ホモ・サケルと怪物」、244頁)

 1980年代の浅田彰氏らによる現代思想ブームには辟易したという蛭川氏と話す際には、「人文科学と自然科学をいかに接続するか」という困難を感じます。この課題を真正面から受け止め、精神医療や生殖といった実践的な問題とも切り結んでいるのは、やはり管見では第一にデカルトドゥルーズ研究者の小泉義之氏ですから、このあたりの文献紹介は地道に続けるつもりです。

 

 まとめると、必ずしも薬物経験は前提としない神経伝達物質としてのDMTをモデルとした、インドール酔いという感情に導かれる革命的楽天主義フーリエに象徴させたうえで、その理論的裏付けはフーリエのみならずドゥルーズ、その友人のフーリエ研究者ルネ・シェレールなども勉強して固めていくのが、〈フーリエ主義者同盟〉の方針です。

 貴重なフーリエ読者が出会った好機に乗じ、これを「党」と名付けようかとも思いましたが、今のところは差し控えておきます。

 筆者は結局のところ、人間はキャラクター文化によって真に救われることができるのか、という不可能な問いを生き抜くために、自己と他者の奴隷意志を信じ続けるために、フーリエを読んでいるだけです。コミュニティは作るにせよ、小規模な勉強会に留めるつもりです。

 

(※2022/06/06/20:00 蛭川氏の発言引用部など細部を修正)

*1:大塚英志を使わないことが新鮮な読み味になっている、同じく同人所収のくこ氏による天皇ジュブナイルポルノ論について、特にジュブナイルポルノというジャンルに絞って言うと、筆者の論考が「ゼロ年代批評の残余」として強調した更科修一郎の別名義(と公言するのも憚られる)ゆずはらとしゆきの諸作、特に『ひまわりスタンダード』(2000)『ぼくには孤独に死ぬ権利がある――世界の果ての咎人の星』(2020)(とりわけあとがき部分の著者の回想録)を薦めたいと思われました。先日タイムラインで氏を中心に「若手におけるゼロ年代的コンテンツ批評の再興」が話題になったのを眺めた際、基本的には若い人の好きに書いてほしいと思った一方で、ぎりぎり筆者を含む当時のプレイヤーのほとんどがなぜ作品論をやめたのか、という歴史性と方法論上の反省をいかに伝達すべきかが、今後の課題であると受け止めました

*2:最低限に触れておくと、例えば1810年代に着想された草稿群である『愛の新世界』と、1819年以後に着想されたものの縮約版である『産業の新世界』とを比較すると、情念の多様性を恋愛によって全面展開することで人類を調和させる「複合アソシアシオン」の計画が、後者では断念されています。それでも理論の大枠は変わらないようですし、本音を言えば筆者のビジョンも蛭川氏のものとほぼ同断ですが、筆者としては『産業』もじっくり読み込んでから見通しを立てたい現状です。『産業の新世界』福島知己訳、作品社、2022年、674-675頁参照

*3:蛭川立「セックス・サイケデリックス・サイバネティックス エクスタシー体験の人類学試論」『ユリイカ1995年12月号 特集=サイケデリア』所収

*4:蛭川氏の言う「暴力革命」路線には、青井氏のほかにも(蛭川氏の教え子である)シャーマンriyo氏()の活動も位置づけられるそうです

*5:つまり、政党政治もアクティビズムも嫌いな無産者である筆者と裕福な知識層の蛭川氏という組み合せになりますから、今のところフーリエ主義者同盟は政治組織としては機能せず、福祉国家の魔術化を目論む保守革命的結社に留まると予想されます

*6:前回は説明すべきことが多すぎて突っ込む余裕もありませんでしたが、そもそも筆者と蛭川氏がフーリエ特有のモチーフである多婚愛・全婚愛に賭けている以上、ポリアモリー実践のあと何故か普通に結婚してしまった青井氏に対しては、今後のその活動に期待する動機が弱まっています。つまり本稿は、一部の人間にインパクトを与えている青井事件=ローカルな幻覚剤ルネサンスが終わったあとに備え、青井氏に頼らない物語知を整備しておく(いささか以上に先走った)実践と言えます

*7:すでに前掲の蛭川初期論文において、アッパー・ダウナー・サイケデリクスという「三つのグループはそれぞれ脳内神経伝達物質であるドーパミンノルアドレナリン(共にカテコールアミン)、エンドルフィン、セロトニンの三群に構造的にほぼ対応しており、上記の分類に生化学的根拠があることを示している」(p.277)との記述があります

*8:蛭川立酔生夢死 ー第二回接見ー - DMTea Ceremony Case」より

*9:実践的には「新たなる唯物論」の一つとして機能している、とか言ってしまってもいいのですが、限定的な科学知に基づいて世界全体に対する信を引き出そうとしている点で、正しくも個性的な形而上学として筆者は受け止めています

*10:小泉義之『兵士デカルト勁草書房、1995年、38頁

*11:ドゥルーズは、人間の歴史の原動力としてのニヒリズムを三段階あるいは四段階に区別して神、人間、死の諸問題を考察した[『ニーチェと哲学』「第五章 超人 ――弁証法に抗って」]。それは、否定的ニヒリズム(無限性)、反動的ニヒリズム(無際限性)、受動的ニヒリズム(有限性)、そして能動的ニヒリズム(これらすべての特性の破棄)である。[…]世界のうちに存在しない超越的価値――この実体化が神である――を設定することで、この世界に実存するすべての物の価値を低下させることができるという否定の全能性が〈否定的ニヒリズム〉である。しかし、次第に超越的価値が機能する神の場を占拠して、自らが地上の神になるために、神を破壊する精神が人間のうちに生まれる。それが〈反動的ニヒリズム〉である。[…]こうしてニヒリズムは、無への意志から意志それ自体の無へと移行する。[…]これが〈受動的ニヒリズム〉である。それは、静かに死ぬこと、受動的に消滅することを教えるのである。[…]われわれは、さらにニヒリズムを徹底化させなければならない。[…]今度は受動的に消滅することではなく、滅びることを意志する人間における能動的な自己破壊によって、つまり世界に死を与えることによってその完成に至るであろう。[…]この〈能動的ニヒリズム〉は、たしかに歴史的系列においては〈反動的‐受動的ニヒリズム〉を引き継ぐが、しかし系譜学的にはむしろ否定的ニヒリズムにより近いと言える。つまり、能動的ニヒリズムは、否定の自己完成であり、ニヒリズムそのものの完成である。[…]しかし、この否定は、弁証法の否定とはまったく異なる。能動的ニヒリズムにおける否定は、相補的に対立するもの(=内部性の形式)に反対するもの(=外部性の形式)を定立することだからである。言い換えると、相補的な、しかし両極端をなす〈反動/受動〉に反対する〈否定〉が新たな武器となるのだ。つまり、〈反動的‐受動的〉な多様体とは反対の〈否定的‐能動的〉な多様体を発生させること、これはまさにニヒリズムのなかの一つの設計である」。江川隆男「破壊目的あるいは減算中継――能動的ニヒリズム宣言について」、『すべてはつねに別のものである 〈身体-戦争機械〉論』河出書房新社、2019年、204-206頁。

*12:国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部

*13:外山恒一「云ってることは新左翼だが、やってることがイジメ」、『情況2022年4月号』、92頁

*14:嶋理人「「妄想の共同体」としてのネット空間」、同上

*15:藤崎剛人「キャンセルカルチャーは存在しない」、同上

*16:柴田英里「加速するジェンダー系炎上とポリティカル・コレクトネスの現在」、同上

*17:山内雁琳「キャンセルカルチャーとは何か――その現象と本質」、同上

*18:https://twitter.com/shoukootaden/status/1512617280181800960

*19:蘭茶みすみ「メタバース生活二〇〇〇時間からの提案」、同上

*20:フーリエとは異なる文脈ですが、そもそも1990年代生以後の世代は「失われた未来」というペシミスティックな観念を持ってなどいない、との指摘があるVaporwave論には襟を正される感がありました。a氏「遺棄されたものと悲しみのaesthetic|プロジェクト・メタフィジカ

*21:小泉義之異性愛批判の行方 支配服従問題の消失と再興」、『災厄と性愛 小泉義之政治論集成I』所収、月曜社、2021年。これに遡る小泉氏のレズビアニズム評価については、小泉義之「性・生殖・次世代育成力」、『生と病の哲学 生存のポリティカルエコノミー』所収、青土社、2012年

*22:絓秀実「第四派を犬掻きする」、同上掲

*23:廣瀬純「「同性愛者こそが最も革命的であり得る」―― ドゥルーズ=ガタリ/FLH/ペルロンゲル」、鹿野祐嗣編『ドゥルーズと革命の思想』所収、以文社、2022年

*24:山﨑雅広「《永劫回帰》の体験と体現――ニーチェからドゥルーズへ、あるいはニーチェからクロソウスキーへ――」、上掲鹿野編所収

*25:松本潤一郎「労賃とは別の仕方で 『経済学批判要綱』から『生きた貨幣』へ」、『ドゥルーズマルクス――近傍のコミュニズム』所収、みすず書房、2019年

*26:江永泉氏「なぜだかわからないけど加速する Webで私的完訳までされ待望された究極の無神論 ニック・ランド『絶滅への渇望』

*27:ジョルジョ・アガンベンホモ・サケル』高桑和巳訳、以文社、2007年、255頁

青井硝子事件についての個人的総括

 本稿は、2020年3月の麻薬及び向精神薬取締法違反による逮捕から始まる、青井硝子氏(@garassan)のアヤワスカ茶裁判に関する個人的総括です。

 筆者は2016年10月に青井氏が主催する薬草研究会に参加したのち、アヤワスカアナログを複数回摂取した経験がある、活動初期に関わったユーザーです。加えて、DMTによる変性意識体験によって年来の希死念慮が和らいだ結果、思想・哲学系の読書に邁進することになった、事件の発端である大学生の方に似た経過を辿った人間です。つまり、事件にまつわる諸論点を内在的に、かつ時間が経って冷静に振り返ることができる立場にあります。

 一般に幻覚剤と呼ばれる精神展開薬(psychedelics)に関する議論は、アメリカ・日本における排除型政策の影響に加えて、体験を意味づける学問領域の決定しづらさのため、常に混乱を伴います。また、青井氏のケースは法的・文化的・政治的に異例な論点が多く含まれ、それらを総合した観点からの検討を要します。よって、公益にかなう慎重な記述を前提に、私個人のパースペクティブから、今回の事件の意味と価値を証言することにしました。

 前置きすると、筆者はDMTには救われましたが、青井氏周辺のコミュニティとは深い関わりを持っていません。法的問題を軽視した初期の青井氏の活動によって、痛い目を見たケースとすら言えます。この立場からの発言は少ないように見受けられるため、なされるべき批判をも踏まえながら当事件を整理します。

 ここ六年ほどの青井氏の活動を検討するため、長大な論述になります。また、法知識のない人間が係争中の裁判に言及するため、正確さと中立性を保証できません。諸賢の検証を待って、随時に加筆・修正を行うつもりです。

 §1にて裁判を時系列上の起点に基本的な諸論点を確認し、§2ではそれに遡る青井氏の活動を筆者が関わった限りで主観的に証言します。§3にて青井氏の活動初期に遡る資料まで検討した上で、§4では「ドラッグ」にまつわる文化倫理上の批判と創造の問題を示唆して、結論の代わりとします。

§1 序論

 本稿は、事件の経過を取材している人類学者の蛭川立氏からの勧めで執筆を決意しました。素人目には日本だと希少に思える、人類学と心理学の境界領域において精神展開薬を研究されている方です*1。2020年6月の初公判を端緒にして、当事件の時系列・公判の様子・裁判の争点などを整理されており、日本語版・英語版・ポルトガル語版の各インデックスが上掲リンクから参照できます。

 しかし、蛭川氏が関わる以前、青井氏の活動はネット掲示板サブカルチャーとして出発しており、その時点からの検討が求められています。よって本稿は、蛭川氏の仕事を整理・補足するかたちで、筆者の証言を付け加えることになります。

 まず本節では、当記事単体で何が問題になっているのかを把握できるよう、事件にまつわる基本的な論点と、そこから派生しうる問いについて確認します。最低限の予備知識は「京都アヤワスカ茶会裁判を読み解く基礎知識」にまとまっていますし、各リンク先を参照いただければ斜め読みでも構いません。

裁判の概要と争点について

 当事件についての報道は、2020年3月21日付の「麻薬かお茶か?逮捕に波紋 原料に幻覚成分、京都府警: 日本経済新聞」が筆頭に挙げられます。蛭川氏による「「お茶」は「麻薬」なのか ー京都アヤワスカ茶会裁判ー」などの整理を踏まえて要約すれば、2019年7月、京都在住の男子大学生とその友人がネット経由で樹木アカシアコンフサ(和名ソウシジュ)の粉末を購入。これを茶にして飲んだ大学生が、意識を失うなどして救急搬送されます。調査の結果、アカシアコンフサは麻薬取締法で規制されている成分、ジメチルトリプタミン(DMT)を含んでいることが発覚。その粉末を販売していたサイト「薬草協会」を運営する青井硝子氏(筆名。本名は藤田拓朗氏)が、麻薬取締法違反(製造、施用幇助)の疑いで逮捕されたのが2020年3月3日のこと。4月から8月にかけては、拘束と保釈、さらに再拘束を重ねながら、京都地方裁判所において製造・幇助に加え所持・提供といった数々の要件で青井氏に対する起訴・追起訴がなされています*2

 青井氏は容疑を否認し、弁護人の喜久山大貴弁護士とともに「1.茶にすることはDMTという成分を結晶として抽出することではない。2.それゆえ、当逮捕は自生する植物の所持や利用を禁止することに等しい。3.また、DMTは人間の血液や尿中にも含まれる神経伝達物質である。4.よって、茶を麻薬と見なすことはおかしい」という、大まかに四つの争点を一貫して提示しています。

 上の1~4に対応する、当裁判の核となる論点を単純化して整理します。第一に、「抽出 extraction」という科学的操作の理解について*3。第二に、既存の法文に則る限りで帰結する、DMT含有植物の規制がもたらす社会的影響について*4。第三に、内因性の機序を持つ神経伝達物質としてのDMTの概念上の身分について*5。第四に、お茶としての飲用を法的以上に文化的に擁護する正当性について*6、です。

 そして、合計七件にもわたる起訴手続き、検察側における法科学上の不手際*7、異例なほど回数を重ねる公判(結審までに一六回)といった要素に現れている司法の危うさを突くことで、この裁判をめぐる言説は今のところ、特に法的次元に的を絞って弁護側を擁護する意見が目立ちます。そもそも個人を麻薬取締法で刑事告訴することからして珍しく、ネット上で不特定多数に売ったことが問題なら通常は薬機法で起訴されるため、事の起こりからして検察側の混乱が疑われているほどです。

 その混乱の理由は、青井氏が法文読解によってグレーゾーンを突く「知的スポーツ」として活動し、堂々と「犯行」に及んでいる確信犯であることに求められます*8。その信念は「第一回拘留理由開示裁判」に述べられた通り、端的に言えば鬱の蔓延と社会紊乱を根治する草の根の危険ドラッグ撲滅運動であり、この理念が初期から一貫していることは一読者として証言できます。

 それゆえ、主体の自由意志や責任能力を追及する法的視座で眺めていては、当事件の眼目を捉え損ないます。また、京都地裁での判決が無罪にせよ有罪にせよ、控訴して争い続ける姿勢が弁護側・検察側の双方に見受けられ*9、しばらく「アヤワスカ茶」の合法性は宙吊りに留まるようです。

 であれば、合法性の判断を司法に委ねて、仮に違法であるにせよ、それを真摯な公共精神や宗教性に基づく正当行為と言えるかどうかを、シビアに掘り下げたいところです。しかし、公判ではこの論点が斥けられ、「鬱が治る、自己実現し、自己超越するなどの有用性、正当性、宗教性に関する証人は、すべて却下。それは俎上に乗せないことが決定」*10しており、裁判自体を追っても有益な話題は引き出せません。

 よって、本稿は原則としては弁護側の擁護に立った上で、議論が継続している法的次元には深く立ち入らず、せめてDMTに関する今後の世論を寛容の体制へと移行させるべく、四つ目の論点、すなわち「法的以上に文化的に擁護する正当性」について集中するつもりです*11

 さておき、なぜ素人の立場からこうも堅苦しい文章をわざわざ書く必要があるのか。特に当事件の弁護側に含まれる、青井氏の読者の方向けに補足します。それは、旧来の政治闘争を組織してきた左派知識層にしてみれば、あえて言うと青井氏がひどく馬鹿っぽく見えるため、アカデミアの関心を惹きづらい事件であるためです*12。例えば外山恒一氏の史観()で言えば、日本の運動史にも様々に重要な「変人」が存在したわけですが、ネット文化のノリで「ヤクの売人」をやってしまう青井氏のような人物はおそらく前例がありません。つまり、本件を政治的に意味がある出来事として認識するべきかどうかは、当事者にも外部にも開かれた問題であるため、その判断を助ける資料だけは整理しておきたいのです。

アヤワスカアナログと搬送された大学生について

 アヤワスカとその体験の文化的・宗教的意味については、例えば蛭川氏の『彼岸の時間』にまとまっています。一言でいえば、アマゾン川流域の少数民族が精霊と交感する目的で、お茶にして飲む習慣がある植物(またはその組み合わせ)のことであり()、「南米の先住民族やブラジル由来の宗教運動において、アヤワスカ茶は、もっぱら宗教儀礼の中で用いられてきた。[…]とくにブラジルでは、アヤワスカ茶は認可された宗教団体の施設内で使用する場合のみ合法化されている。ただし、日本にはそのような法律も判例もない。アヤワスカ茶が精神疾患を改善するとしても、青井被告は医師等ではないので、治療行為は正当行為ではない。ただし、その治療行為の背景に宗教的な思想があれば、宗教行為だといえる*13。ここが焦点なのですが、事態をややこしくしているのは次の論点です。

 DMTは経口摂取すると酵素に分解されてしまうため、チャクルーナやアカシアコンフサといったDMT含有植物に加えて、可逆性モノアミン酸化酵素A阻害薬(RIMA)として作用するハルミンを含んだ、バニステリオプシス・カーピという別の植物を組み合わせる必要があります。そして青井氏の活動の核心は、後者の植物をケミカルで代替したこと、つまり日本にも自生するDMT含有植物にオーロリクス(モクロベミド)というモノアミン酸化酵素阻害薬(MAOI)を組み合わせる、「アヤワスカアナログ」の技術を日本語圏で広めたことにあります*14

 それゆえ、当事件で争われているのは「南米のアヤワスカそのものではなく、[…]いわばアヤワスカの精巧な模造品である。[…]典型的には心を病んだ引きこもり(hikikomori)の若者たちが自己治癒のために使用している。これは、ブラジルの宗教運動が西洋圏で広まっているのとはまったく異なる文脈であり、日本を中心とする東アジアのオタク(otaku)的な文化として注目すべき特異性がある」*15

 つまり、青井氏の信念が宗教的かどうかの問いは、本人においては宗教的営為だと確信されている以上、ユーザー側の意味づけや価値評価の問題になります。すると、青井氏が広めたアヤワスカアナログの技術そのものに伴った、それぞれの文化実践の個人的な「宗教性」、すなわち「自己治癒」の過程をあらかじめて問うておく必要があります*16。よって本稿は、典型的には私の経験を通じて、引きこもり/オタク的なる文化上の特異性とDMTとの交錯によって生じた「宗教性」を証言することが、眼目とならざるを得ません。

 とするとそれは、事件の発端である大学生の方においても考えたい問題です。しかし、この方の情報は家庭裁判所で保護されているため、多くは詳らかにされていません。以下は蛭川氏による整理と、同氏からの伝聞のみ引用します。また、人文死生学研究会にてこの話題に関する発表が予定されています*17

2019年7月。不安障害とうつ病を悪化させ自殺念慮に苦しんでいた大学生が、京都府内の自宅に引きこもり、コデインを含む咳止め薬で精神的な苦痛を和らげていた。[…]独学による研究を重ね、オピオイドには一時的な鎮痛作用があるだけだが、サイケデリックス(精神展開薬)を使えば悟りの境地を得て人生観が変わるという結論に達した。[…]ソウシジュ(相思樹:沖縄に自生するアカシアの一種 Acacia confusa)の樹皮をインターネット経由で購入し、京都府内の自宅で茶にして服用し、抑うつ希死念慮を自己治癒した。
[…]アカシア茶の服用後、まず、曼荼羅のような図形が回転しているのを見た。彼は、その回転する視覚像が、自分の思考の投影だということに気づいた。その投影像を観察し続けている間に、自己の思考と思考の対象との分節が消滅し、そして自己と他者との境界が消滅し、あらゆる存在に深い慈愛を感じたという。
やがて自己と外界との境界も消滅し、それを観察している自己も消滅するという再帰的なループに陥り、その無限に深い畏れを抱いた。その様子を見守っていた友人が驚いて救急車を呼んだ。搬送された本人は、救急車の中で無限ループに対する抵抗を諦め、その再帰性に身をゆだねたところ、たちまち白い光に包まれた。この光の中で、救済という「はからい」を体感した。
病院に到着したときには、すでに、生きていても死んでいても同じだ、という悟りを得ていた。希死念慮が消えてポジティブ思考になったわけではない。生きていても死んでいても同じであり、昨日も明日も存在しない、いま現在を誠実に生きる、という境地に達した後、ずっとその感覚のまま暮らしているという。*18

 その後はニーチェショーペンハウアーなどのドイツ哲学に向かったあと、最近はインド哲学ドゥルーズを読んでいるらしく、興味がないので公判には訪れていないようです。そうした経過を含め、体感的にはほぼ私自身の体験として読めます。要らぬ世話で救急車を呼んでしまったことと、青井氏の活動が司法に伝わったこと以外には事件性が無いという意味で、本人による何かしらの意見発信がない限り、薬物事案に特有の「被害者なき犯罪」として本件を捉えざるを得ない所以です。

 私の場合、ブロンやDXMを一、二度オーバードーズした程度、独学と言っても中島らも青山正明などの九〇年代悪趣味系を介した憧憬混じりの理解にすぎなかったものの、一人で行ったため体験に圧倒される姿を誰にも見られなかった、これと類似のケースに位置づけられます。

薬物倫理と文化倫理について

 筆者の主観性を取り扱う前に、社会的な諸文脈を確認します。Wikipediaにも「21世紀のサイケデリック・ルネサンス」という表現が浸透している通り、1950-60年代に模索されるも一旦は中断され、1990年代から再燃した精神展開薬の医療研究が、近年の諸国における医療大麻解禁を促進しています。治療抵抗性うつ病の急増によってアメリカ精神医療がブッ壊れた2015年頃より特に注目が集まって、日本も無関係ではないトピックです*19

 こうした動向にも煽られる形で、青井氏は無手勝流の「サイケデリック療法」に踏み切ったという事情があり、精神科医からも「もしこれで無罪が勝ち取れたなら、アヤワスカを利用した治療研究を一気に進めることができる」*20との声援があるそうです。さらに視界を広げれば、Netflixでは『サイケな世界 ~スターが語る幻覚体験~ 』『マリファナ・クッキングバトル』『ミッドナイト・ゴスペル』などの作品が取り揃えられ、サイケデリクス文化が医療化に伴って「時代の空気」の一部とすら感じられる昨今です。念のため、こうした肌感覚に基づいた「向精神物質に取るべき態度」を先に共有させてください。

 私は青井氏の言語使用と諸実践に距離を取り、他の文献に当たりながら自己の置かれた状況を理解してきました。例えば、上の話題を一般向けに解説したノンフィクションとして、マイケル・ポーランの近著『幻覚剤は役に立つのか』が良くまとまっています。しかし、LSDやシロシビンをメインに据えた書物です。DMTに関して内在的に記述された邦語文献は少ない印象で、蛭川氏の諸論、石川勇一『修行の心理学*21、武井秀夫他編『サイケデリックスと文化』などが(中古高騰も散見されますが)参照しやすい文献でしょうか。また、裁判の争点と対応した薬理作用は「裁判所に提出した論文リスト」から参照可能です。

 最低限、次の三点を確認します。第一に、「ドラッグ」「麻薬 narcotics」という概念自体が薬理作用ではなく(20世紀初頭のアメリカを主とする)行政的・政治的事由によって強く規定されたカテゴリーであること*22。第二に、そのような歴史的経緯を閑却して「ドラッグ」概念を用いながら事態を語ることは、健常者である「我々」の社会から黒人や嗜癖者や「狂人」を「他者(彼ら)」として排除する視座の日常的反復であり、それ自体が「凡庸なナショナリズム」()として批判されるべきであること*23。第三に、これらを踏まえれば「ダメ、ゼッタイ」の薬毒教育や刑事学的発想に基づくアメリカ・日本型の排除モデルではなく、ハームリダクションに代表される社会福祉的発想に基づくオランダ・イギリス型の包摂モデルをひとまず念頭に置きながら、精神展開薬にまつわる社会的な語りを構成していくべきであること、です。

 一市民として同時代人に想定しうる良識あるいは薬物倫理は、この程度のものに尽きます。アディクション臨床専門医である松本俊彦氏の仕事も踏まえれば*24、精神展開薬に限らずアルコール依存や市販薬乱用も同様に、犯罪化による社会からの孤立が向精神物質というモノへの依存の循環を形成してしまう薬物問題について、世人が取りうる原則は社会的包摂以外に残っていそうにありません*25

 その上で私自身は、付け焼き刃で上述した国際的な医療化の恩恵に与るどころか、精神科に通院したことすら一度もない、愚鈍な二級市民にすぎません。貧困サブカル系ライター、または単なる抑うつ傾向の若者といった属性を持つ個体として青井氏に接触し、向精神物質の薬理作用と、それを解釈しうる諸学知に触発されて、体験を様々に意味付け直しながら引きこもってきただけです。

 精神医学から見れば、このような筆者の生存の仕方は、精神展開薬による統合失調症リスクを示すサンプルにすぎないかもしれません*26。しかし筆者は、「精神の狂気」について新たに語るべきことなど何も残っていない、という歴史的かつ状況的な認識を信じているため、臨床概念を用いて自他の経験を説明する気は起きません*27

 むしろ、発達障害自閉症スペクトラム、普通精神病といった「軽症化」の諸概念に代表される、「精神の狂気」にまつわる混乱しきった諸学知や文化表象を利用して、狂気の真理をめぐる言語ゲームを宙吊りにして生きている21世紀の人間の底知れなさを、青井氏という人物の「行動の狂気」において部分的に肯定することで、前述の薬物倫理を前提としたひとつの文化倫理を、以下に素描するつもりです。

 

§2 筆者の事件との関わり

 本節では、筆者と青井氏のつながりを時系列に沿って証言します。

小説作品での出会い

 2016年の夏頃、当時所属していた編集プロダクションの上司の編集者(Kとします)が「小説家になろう」のハードユーザー、いわゆるスコッパーをしており、青井氏が連載していた小説『異自然世界の非常食』を「なろう界のラテンアメリカ文学」と評して推していたことから、初めて青井氏を認知しました*28

 ライトノベル作家宇野朴人氏から学んだという異世界転生物の筋書きに、弘前大学農学生命科学部出身()の知識と当時の軽トラ放浪生活とに由来するであろう、雑草喫煙や薬学・農業・DIY実践のリアリティを組み合わせた作品です。一般のなろう系諸作にも通底する、異世界ファンタジーの知覚を生活感覚で裏打ちする技法と言えます*29

 手元に無いので記憶に頼りますが、今なお特異と思われるのは、それを徹底した結果、「動物/他者を食らうこと」という狩猟生活の主題に妖精愛のフェティッシュを重ね合わせて、性と食が一体化した小動物との共生を描いている点でしょうか。『原神』パイモンの非常食ミームがどこまで遡るものか分かりませんが、この作品をよく想起します。

 事件との関わりで世俗的に言い換えれば、2ちゃんねるをモデルとするネット掲示板との繋がりに精神の糧を求める「引きこもり」的主体のリアリティと、サバイバル物の物理的な生存逼迫が直結した舞台設定から、当時の青井氏が置かれた「貧困」のあり方と、それを野生から価値転換することの野心を読み取るべき作品です。

おーぷん2ちゃんねる・薬草研究会にて

 当時の筆者は(現在も大差ないものの)月収10万程度で狭小賃貸に籠もり、青井氏の軽トラ暮らしブログ()とあわせて高村友也氏の小屋暮らしブログなどを眺め、憂鬱をやり過ごしていました。青井氏のブログから派生した情報も参考に、蓮の茶葉やマテ茶を手巻き煙草にして吸っていた記憶もあります*30

 2016年8月頃、青井氏が匿名掲示板おーぷん2ちゃんねるのオカルト板にてスレッド「こっそりオーラ視できるようになる方法教える」を立て、初めてアヤワスカアナログについての独自研究を開陳。植物栽培法、酩酊や瞑想の技術、セッションの一人称的記述を匿名者と共有する動きを見せます()。スレッド開設場所などから分かる通り、最初期はオカルト・アングラ文化への関心で人が集まっていた側面が強く窺えます。

 この動きと連動して、アヤワスカアナログについての情報整理と発明品販売を兼ねたサイト「薬草協会」*31が公開されます。2017年頃より販売されて後に問題となった「Medi-Tea」ではなく、最初期にはDMT含有植物の鉢植えセットが販売されており、筆者はこれを取り寄せて多少育てていたものの、根気が続かず破棄してしまいました。

 このあたり記憶が曖昧ながら、青井氏は『異自然世界』を出版した繋がりで他のライトノベル作家の方と秋葉原のイベントスペース・とらのも(現在は閉館)で小説講座を開催し、その第二弾のような形で同スペースにて「薬草研究会」と銘打ったイベントを予告。その開催が2016年10月20日のことで、私とKは事務所から近かったので二人でイベントに連れ立っています。

 Kは90年代のブームを通過した70年代生の世代のため、薬物実践に興味はなく作家としての青井氏を見に行った一方で、私はマジックマッシュルーム規制後に物心ついた世代ですから、アングラ文化への憧憬混じりで参加したことを憶えています。

 当日は青井氏がクリプトファン栽培法などの発明について喋りながら、イベントの模様をスレッドに生配信し、現場での参加者は私たち含め10名程度。軽く飲食して様子見していたところ、一人の男性に話しかけられました。法学部在籍とのお話だったのでおそらく大学生で、カントの入門書を持ち歩いており、知的な話し方をする人でしたが『閃乱カグラ』が大好きで体毛が濃かったのを憶えています。それがスレッドの967から次スレ冒頭まで書き込んでいる「ゆっくり厨独」氏です()。

 この方と自分が当日、「ハゼさん」「毒草吸ってみたの人」とスレで呼称されている古参と思しき人の良い中年ユーザーの方に話しかけられ、アカシア根皮とオーロリクスの破砕粉末を混ぜた手製の錠剤(つまり単体の経口摂取で作用するアヤワスカアナログ)をその場の流れで手渡されています。他の方にも行き渡っていたかは分かりませんが、ゆっくり厨独氏も私も未体験の若者だったので、善意で入門用に分ける感覚だったのだろうと想像されます。

 後日、私とゆっくり厨独氏がそれぞれ自宅で飲用し、当時青井氏がスレッドを「トリップレポート」で盛り上げようとしていた流れに誘われる形で、薬機法(薬品譲渡・授受禁止)を知らずに体験を書き込んで荒れたことで、ようやく青井氏が法的問題についてシビアに議論する姿勢に移ったという流れが、次スレ冒頭に残っています()。次スレの63が自分の書き込みで、以降は書き込まず、追って開催される「お茶会」にも行かずに、現在に至るまでネット経由で活動を見守ってきました*32

 私たち二名が書き込んでしまったすぐ後に、危険を感じてか「ハゼさん」はブログを全削除しています。青井氏の活動の発想元の一つであろう、雑草を巻煙草などで吸う遊びを公開しているブログでした。申し訳ないことをしたと後悔していますが、初期はそうした前世代のブームを出自とするであろうユーザーも入り混じっており、その後は徐々に青井氏から離れていくか、オフラインに留まって参加している印象があります。

 現在の裁判では薬機法上の問題は取り扱われていないため、こうした現場実践の是非は留保されています。その上で私は、使用者に「トリップレポート」を開陳させてムーブメント(言うところのサードウェーブ)を演出しようとした青井氏の戦略そのものは、批判されるべきだと考えています(§4にて詳論します)。仏教的視座からの自我肥大が云々以前に、青井氏の野心によって最初期のユーザーが体験を「語らされた」側面があることは、強調させてください。

 そもそも素人が「行きて帰りし」のトリップイメージで体験を語って面白いはずもなく、恥ずかしいことをしたと振り返られます*33。今さら言っても虚しいものの、きっかけが異なれば内面に秘めていたはずです。ただ、そのような「深い内面」が錯覚できることすら特権的な時代であり、そんな屈託からは解き放たれた場所で青井氏は動いていますから、こだわりはしません。

 要するに筆者は、青井氏がセットした最初期のイベントにて、青井氏が主催者として管理できていなかった違法性のある実践に立ち会っただけの、通りすがりのような立場にすぎません。筆者の主観には、思わぬ契機で救われてしまった側面と、厄介なことに巻き込まれてしまった側面が相混じっており、総合的には前者に基づく感謝の念が大きいです。ただ、「お茶会」以前にも間違いなく、青井氏の現場実践は「楽しさ」を重視する放任主義の危うさを伴っていたことのみ、証言せざるを得ません。

 付言して、薬機法に限れば公訴時効なのでしょうが、もし本稿の記述のせいで筆者が勾留されようと、青井氏の次著の題を借りれば「獄中で酔う」つもりですし、事が起これば穏便に済むよう動きます。また、本稿は違法行為を推奨するものではありません。

体験について

 スレッドに書き込んだ際にPastebinで別添した「トリップレポート」は、青井氏の造語で言うと「ありがとうの国」に入った意識状態で、万物に感謝しながら書いていたため、野狐禅まみれで目も当てられず、自分では読み返せていません。そして今確認したら消えていたので、安堵しています。

 私の場合、閉眼幻視も思考の変化もDMTやLSDのトリップレポートで散見されるモチーフが大半で、語るに値するほどの特異性はなかったはずです。万物の原理が愛であるという「真理」にも、もちろん「気付いて」しまいました*34。二元論的な意味分節の崩壊を、当時読んでいた井筒俊彦ニコラウス・クザーヌスから肯定していた記憶があります。

 逢仏殺仏、体験を表象言語で意味づける愚かさについて京都学派風に云々しても詮無い一方で、希死念慮の消失過程を物語化するのもナンセンスです(本稿で触れた諸文献を読めば十分)。それでも一応、体験直後の出来事を整理すると、異性愛者のセックスが嫌でキャラクターでの自慰を続けていた、年来の性行為に関する拒絶感と罪悪感が解釈し直され、結局自分は女性になりたかったのだということに「気が付き」、LGBT関連の入門書や性適合手術に関する情報を集めていました*35性自認の議論が大方は先天的障害として問題化されていた当時の世情と、手術費用の支払えなさに気が付くと、むしろ肉体と男性性を引き受け直すことこそ倫理的であると判断され、神なき神秘経験を異性愛男性の身体から世俗的に肯定しうる思想として、ジョルジュ・バタイユに没頭するようになりました。

 その後は自前でアカシア根皮とオーロリクスを輸入し、裁判が始まってからは止めましたが、合計すると40回以上、その都度に自我意識が消失する程度の分量で、一貫して一人でセッションを行ってきました。とはいえ、青井氏のように霊が見えたり、チャクラが開いたりクンダリニーが上昇したりもせず、主に思考を整理する目的で使用していたので、仮にスピリチュアルな「深度」を想定するなら、浅瀬で遊ぶレベルにすぎません。

 セッションに慣れて呑まれず、世俗的な言語使用にも再適応できてから、当ブログとYouTubeTwitterのアカウントを作っており、ネットでは青井氏にもDMTにも言及せず、リアルでもあまり話さずにきました。裁判が始まってからは特に、自分が発言すれば「快楽目的の使用」と判断され、他者のDMT経験にも誤解が広まる恐れがあるためです*36

 というのも、次の事情があります。青井氏と蛭川氏がいわば「理系の神秘主義者」として薬理学と神経科学に信を置くのとは反対に、筆者はベタに「文系の神秘主義者」として体験以前からキリスト教神学などに触発されていた人間であり、パウルティリッヒが言う究極的関心、生全体を支える根本感情としての信仰について「思索」しながら、DMTとも付き合ってきました。

 しかし筆者は、そのような精神活動の一方で、物質的には消費文化の特にポルノグラフィという、薬物問題と同じく「被害者なき犯罪」としての有罪性を構成しうる、もうひとつの嗜癖をより深く生きています。いわば、DMTとポルノという二重の有罪性、二重の意味作用の不安定性によって、筆者の体験は特徴づけられます。

 ボードレールが言う通り、精神展開薬そのものに神秘はなく、使用者の内面にすでにあったものが拡大・展開されるだけの話です。要は、それ以前から抱えていた、性的快楽に含まれる(場合によっては女装などに派生したであろう)ポルノグラフィへの超越願望、造語すれば「オタク的ニヒリズム」が自覚され、心的装置による否認が解除されて自己分析可能となり、スピノザ風に言い換えれば受動感情としての快楽が理性としての能動感情へと内包的に反転して、そうした超越感情を内在論の哲学において語り直すことができるようになった過程として、筆者の経過を総括できます。

 いったん社会学的に図式化して補足すると、これはオウムによって不可能になったサブカル的超越の内面化という時代の流れにおいて、可能となった経験です。他に例を挙げると、蛭川氏が青井氏の存在を初めて知った経緯も、『わたてん』アイコンをTwitterにて使用していた、ゼミ生の方の報告に遡られます*37

 蛭川氏の世代(67年生)だと、こうしたキャラクター図像は不活性かつ無差異に感受されますが、オタク的なる経験にどっぷり浸かった平成生からすると、すべての図像が無名の人民たちが紡いだ微細な情念の歴史を宿すものであり、一夫一婦制の単婚愛に囚われた「非モテ」「インセル」談義を超過した全婚愛の快楽が、極めて活発な差異として直観される側面があります*38

 この意味で、内面的でありながら社会的なキャラクターの「聖性」を、私はほとんど一人で理論化し続けているつもりです。しかし、この信仰を「霊性」として肯定しきることはできず、その思考の一部を動画やブログにまとめるに留めています。

 そうこうするうち、「超越」や「狂気」への憧憬を失い、「聖なるもの」「宗教的なもの」*39というカテゴリーを使用する条件そのものが変形され、今は一人の文化的存在者としての倹しい倫理を語りたい、という欲望だけが残っています。ドラッグ言説に散見される、加齢によって枯渇する「脳汁」の再活性化という話題がありますが、私の場合は再活性化しまくったあと、さらに枯渇し乾き果て、音楽にも映像にも触れる機会が激減しました。

 最近は、人をうんざりさせる文章を書くわりに、根が楽天的になってしまい、ただ生きているだけで幸福になっています。読書さえできればよく、本の話をして人に楽しんでもらえれば十分です。Twitterの表象的かつアイロニカルな言語使用をなおさら無価値と感じるようになり、人と実地で話すことに強い喜びを覚えます。主要なSNSが動画プラットフォームに移ったことも、今は健全としか思えません。当ブログの過去記事は、かつて生きたニヒリズムの標本として読んでいただければ幸いです。

 以上が筆者の「自己治癒」になります。すなわち、サイケデリクスによる超越を実体化せず、(今回のような社会問題とならない限りは)殊更に主題化せず、体験自体、青井氏自体、DMT自体にこだわらず、いかに善く生きるかだけを考えられるようになったこと自体を、わざわざ言うのは正直嫌ですが、引きこもり/オタク的なる文化上の特異性とDMTとの交錯によって生じた「宗教性」としてピン留めしておきます。

 もちろん先に触れた通り、同じようにDMTを継続的に摂取した主体として、青井氏の霊性を信憑できる事情を説明する限りにおいての、括弧付きの「宗教性」です。実際のところは、どれだけキメても狂えなかった正常者の愚かさ、あるいは人間精神の無底を開陳したものにすぎません。

 最後に、悟り澄ましてはいるが「薬物による超越体験は瞑想や禅の境地よりも劣るのではないか」、あるいは「体内でDMTを合成できるなら、わざわざ茶を点てて体外から摂取する必要はないのでは」という真っ当な疑念を取り上げます。私も悩んだ問題ですが、前者の問いは比較そのものが差異の実在性の捨象を含むため、自力と他力を質的に比較しうる認識論上の立場を想定すること自体が難しく、凡夫における愚鈍な価値的区別に留まる問いだと思われるため、判断を留保しています。後者の問いについては、確かに外因性の感覚に慣れた今は内因性DMTで充足可能になったため、アヤワスカアナログへの執着は残っておらず、事後の社会生活も主観的には大過ないことを付言します。

 そして、青井氏はこの二つの問いを同型のものと捉えて、第四回公判「茶禅一味 ー第二回公判・第四回公判ー」で意見を述べており、蛭川氏のまとめによれば、ここで青井氏は自己の活動を大乗仏教の菩薩行と心得て発言しているようです。

 私はこうした青井氏の言動を、ドゥルーズマゾッホ論に倣って、法を脱臼するユーモアの戦略として編成されたものと解釈しています。そして、そのような(求道者には軽薄と見える)ユーモアでしか人民を救うことができない、という時代の条件を共有する限りで(そして以下に述べる多くの留保を別にして)、私は青井氏をオタク的なる文化を出自に含む人物の内では、良くも悪くも卓越した神秘家にして運動家である、と評価せざるを得ません。

結審にて

 長く時間が経ち、世俗のリアリティに適応する過程で体験の切迫感が薄れ、まだ裁判が続いていること自体を忘れかけていました。去年末、東京では気が塞ぐので京都に転居して調子良く過ごしていたところ、京都地裁が徒歩圏であることに気付き、結審に至って初めて裁判を傍聴しました。

 検察側はボソボソ声かつ異常に原稿が長かったので眠くなりましたが、弁護側は活き活きした弁舌に聞き入ることができました。そのあと開催された青井氏と弁護陣による説明会に潜り込み、蛭川氏にお声がけし、青井氏に関してというよりは、シャルル・フーリエ)について五時間ぐらい話し込んだのち、二人でフーリエ主義者同盟を結成しました。活動内容は未定です。

 実際の青井氏の言動から受ける印象は、2016年10月と結審の二度だけですが、ほとんど変わりませんでした。蛭川氏の表現で言えば「理系男子」「高機能自閉症的」な、空気を読まない発明好きとその場のノリ重視といった基本特徴も変わらず、鬱病を増加させる社会を改善する正義に適った活動だと確信し、そこに文化的な楽しさを両立させてムーブメントを起こそう、という理念からくる楽天性が、一貫して感じられました。

 五年経っても変わらなさすぎて驚くぐらいで、少し変わった点は、海外で舞踏を学んだという方と一緒にダンスを踊っていたのが印象的でした。その方と土方巽とかの話ができて嬉しかったです。私はアイマスオタクなので、人の踊りに伴う筋肉の撓りや身振りの動線の瞬間性をひたすら眺めるのが好きで、眺めていました。以前の青井氏は集まった人間全員に気をかけて話しかけており、私も軽く会話しましたが、今回はタイミングを逃してほぼ話せませんでした。

 

§3 青井氏の活動の変遷

 筆者の事情が済んだところで、本件を総合的に評価するための準備として、裁判ではあまり問題となっていない青井氏の活動の諸相について、簡単に整理します。本人に聞けば済むものの、動き回るタイプの人物で常に忙しく見えますし、外部からまとめる作業も無駄ではない、という判断です。ただし、筆者は青井氏の現場実践には疎いため、基本的には後続の参考になりうる情報の列挙に留めます。

薬草協会以前から2017年頃まで

 上の時系列表は2019年以後、裁判をメインに記述されており、それ以前が抜けているので、ここを補足してみます。

 活動以前の青井氏については、2019年11月29日付のTOCANAのインタビュー()や、2019年11月13日発売『シックスサマナ 第35号』所収のインタビューに比較的詳しいです。要約すると、弘前大学に在学中、趣味のアクアリウムが高じて水質浄化に関する国際特許を取得して起業。ところが東日本大震災(2011年)によって東北にあるパートナーの養殖場が壊滅し、会社を失い多額の借金を背負ってビジネスから足を洗います。

 その後、インドネシア・バリ島に傷心旅行してマジックマッシュルームを体験し、人と話すと頭痛がする症状が快癒したとのこと。研修生として農家に入るも、人間関係のトラブルで馘首になり、軽トラハウスを自作して放浪生活に突入したのがおそらく2012年頃。暇潰しで読んでいた2ちゃんのスレに感化されて雑草喫煙が趣味となり、様々な植物で試行錯誤して後にアヤワスカアナログへ繋がる研究実践を開始。これと日雇いバイトや小説執筆を並行して暮らし、2016年に薬草協会の活動へ結実した、という流れが窺えます。

 2016年当時、活動最初期の雰囲気は§2に記した通り。2017年7月頃までは匿名掲示板での書き込みと配信が盛んで、初期の活動は掲示板、独自研究発表の趣が強い小規模イベント、同人誌『煙遊びと薬草』シリーズの執筆がメインと言えます。一つの転機は2017年6月頭でしょうか。初めてメディア取材がなされ、日刊SPA・ニコニコニュースのWeb記事「完全合法の植物で作る「幻覚茶」とは?」が出ています。

 表沙汰になることに意見が分かれ、ユーザー同士の実践上の差異も議論を呼んで荒れやすくなり、同時期に現場実践でのトラブルが発生して薬草協会のサイトが一時消滅()。諸々の混乱の結果、青井氏はスレッドの管理を断念して書き込みを止め、クローズドのフォーラムやTwitterで情報発信をする姿勢に移ったと記憶しています。

 並行して2017年初頭より、集団セッションである「お茶会」が随時開催されています。回を重ねるにつれて参加者が増え、20名に激増した回で管理不能になったらしく、以後は6~8人程度で回すことになったようです。

 この頃からお茶会の参加者と非参加者との情報差が激しくなったせいもあるのか、スレッドでは五輪選手の住吉都氏の死因にDMTが関わっている、という噂がまことしやかに囁かれたりもしました。この話題も表に出せない事情があるようで()、ROM専の筆者もコミュニティが徐々に崩壊していくような錯綜した事態に、困惑したことは憶えています。

 お茶会の内実については、例えば先のシックスサマナの記事がクーロン黒沢氏(つまり古参のアングラサイド)による体験記を兼ねており、青井氏がセッション時に行う手厚いシャーマン的実践について、旧来のサイケデリクス文化との違いが驚きをもって証言されています。ネットに散見される新しい世代の(私を含む)個人主義的なトリップレポートよりも距離のある記述なので、参考になるかもしれません。

2018年頃から裁判に至るまで

 ALISON氏などのクリエイターとの連携についても事情は定かならず、ここで言う「新しい世代」を誰に代表させるかは微妙ながら、おそらく2018年頃より「お茶会」に参加していた、インフルエンサーのにゃるら氏が影響力の面で筆頭に挙げられます。ブログなどでDMTによるトリップレポートを公開していたはずですが、青井氏の逮捕に伴って削除されたようで、執筆現在は有料記事が一本()見つかる程度です。

 筆者は元サブカル系ライターとして同氏にルサンチマンを抱いていた時期があったので、ブログを確認しに行くのも億劫ですし、褒められた動きではない、と道徳的な顔をして非難してもよいのですが、普通は裁判なんて面倒事に関わるのは御免ですから、常識的な保身にすぎないと言うべきでしょう。単に、これらのクリエイター陣を通じて、より広い意味でのサブカルチャー層に青井氏の活動が普及したはず、という点のみ確認します。

 2019年7月、楽天にてアカシア茶を出品()、数ヶ月で出品停止。次いで2019年10月25日、『雑草で酔う』発売。これによる知名度の向上が決定的と思われます。同人誌のまとめ本の趣が強く、個人的に感興はありませんでした。2020年以後、裁判と連動した諸々に関しては蛭川氏の諸論に委ね、丸山ゴンザレス氏の番組で取り上げられてより広く知られた様子だけ確認しておきます()。

 正直な話、筆者はこうして衆目を集めるに至った青井氏の運動自体には、大して興味がありません。複数人でのセッション経験もなく、いずれにせよ一人で静かに生きたいタイプなので、近頃は青井氏の節操の無さに辟易してきたとすら言えます。それでも一つ興味深く思うのは、下世話ながら青井氏の恋愛事情です。

 青井氏は薬草協会設立の頃からだったか、三重県の山奥に自作した小屋を建てて拠点としており、蛭川氏からの伝聞によると、一時期その小屋生活で男女四人のポリアモリーを実践していたそうです。詮索する気はないものの、2017年頃にその一人である恋人との生活記録を残しながら()、裁判時には別の相手と婚約していることは確認できます。

 筆者がDMTの不可逆的な効果として実感したことに、インドール酔い()による愛の過剰があります。シャルル・フーリエやオナイダ・コミュニティを引き合いに出しながら蛭川氏が示唆するところに曰く、人間は宗教的理念などの制約がない限り排他的なペアを作りたがる動物であり、性規範の解放は乱婚よりもむしろ単婚を回帰させる以上、現代に残る最大の「未開」とは近代家族に他なりません*40。放言すると、おそらくDMTは、(精神分析を読めば分かる通り完全に呪いと言うべき)性愛と思考のモデルとしての「家族」から、人間を解放しうる効果があります。

 体験以前より、筆者は負け組=非モテ=弱者男性といった概念で無駄話を繰り返す世人を、政治的立場を問わず見下げてきました。そして体験以後、オタク的なる文化にフーリエ全婚愛の快楽を理性によって断固として認め、天皇制=一夫一婦制を欲望において変容しうる「性的人間」を必然化するべきである、という確信が形成されました。筆者が青井氏と共有しうる「革命」の可能性はこれに尽き、情けなくも、異性愛男性がなしうる「反抗」などその程度と言うべき状況のようです*41

 

§4 事件の評価

 最後に、いかに青井氏の活動を社会的に評価すべきかを検討します。

事件を生んだ背景について

 当事件の混乱の理由のひとつに、青井氏という主体の怪物性が挙げられます。それは資本の論理に適合したマジョリティのマッチョさを批判して、DMTのインドール酔いを女性性と結びつける言動や、父との良好な関係から推測されるエディプスの希薄さ()、女装した青井氏を自画像にする妻のアカウントの存在()、検察官との「姉み」の戯れ()といった性的倒錯が窺われる要素を中心に、精神分析的に解釈困難なものを含んでおり、蛭川氏は「当裁判を物語化することが途中で不可能になった」と率直に困惑を語っています*42

 前述した通り、筆者は当事件をスキャンダラスな「ドラッグ問題」として語るのは無論のこと、精神病理学精神分析に基づく「正常と狂気」の理論的表象にも頼らず説明したい立場です*43。なぜか。

 小泉義之氏の著作から大雑把に状況論を借りれば、ガタリらの反精神医学運動の遠い反響として精神医療の実質的な脱施設化・脱病院化が推し進み、「スペクトラム化」「軽症化」の諸概念やモラルトリートメント(道徳療法)によって、世に棲む病者/二級市民の包摂的排除が完成した現代日本の精神病理事情は、あえて言えば精神病院以前に戻った一九世紀的な状況下にあるためです。つまり、今や我々人民の「狂気」は、確かに一切の物語化を受け付けない野晒しの状態にあるのです*44

 この野晒しの「自由としての狂気」を生きる無意味や不安に耐えきれず、すすんで当事者が氾濫する臨床概念に頼ることで、自己の特性を「症状」として説明せざるを得なくなってしまうような、医学の言説空間と薬物療法*45そのものに批判的であるべきだと筆者は考えます*46。今やDMTの「排除か包摂か」を左右する特異点に変容している青井氏であっても、元々は「発達障害」概念によって自己を解釈していた事実を、忘れるべきではありません。

 この状況を受けて考えるべきは、DMTの薬理作用の問題から遡って、そうした精神展開薬を必要とせざるを得ないような現実を認識する方法、「治療抵抗性うつの蔓延」といった語りの裏で我々の身体に一体何が起きているのかを知覚しうる、精神病理学神経科学とは別の方法であると言えます。

筆者の理論上の立場

 その方法を考えるために、まずは小泉氏が示唆した通り、つまるところ社会防衛や相互統治に終始するような、特権的な「精神の狂気」をきめ細やかに語る旧来の人間論的な規範を断念し、TwitterYouTubeや監視カメラに現れている凡庸な日常人の「行動の狂気」の一つとして、青井氏の例外性を一般化して受け止めたいのです*47

 さしあたり筆者は、医療の外部で孤立した自由を生きる人間の一人として、「狂気」の言語と表裏である理性的な言語使用*48を脱臼する(要はネタともベタとも定かではない言動をする)青井氏のような(または筆者自身のような)主体を分析するにあたっては、前言語的な直観において生きられる社会的な快楽を通じて、まさしく行動する身体の狂気として、単に外面的に把握する方法がむしろ有効だと考えています。

 ならば、精神の複雑性や「内面」を問題にせず、行動する身体の直観知として外面的に措定されてもよいと断言できる、筆者と青井氏が共有する最大の「狂気」とは何か。それは、万物の原理は愛である、という確信です。この「愛」をヒッピー的、あるいは戦後民主主義的に活用する道は、国際情勢に照らして斥けておきます。

 ところで、ドゥルーズ研究において身体のドラマ=出来事性を肯定することで「大いなる物語=ストーリーなき生」を理論化してきた哲学者と言える江川隆男氏は、スピノザのコナトゥスについて「個物の本質、人間の現働的本質は、つねに自己の現実的存在と一致するよう努力する力能である。言い換えると、人間の本質は、人間の存在に対する無際限な愛を含んでいる」と論じています*49

 注に前掲した拙稿()は、このような言明に導かれてスピノザフーリエを重ね合わせ、常に無際限な愛に突き動かされている人間身体の、相互の触発による人間の本質の絶えざる変形という「現実」を想定することで、人間本性=自然が生成し続ける行動の狂気を、道徳的判断以前にそのまま肯定的に受け止める、一つの実践哲学として執筆したものです。

 そのようにして筆者は、青井氏が代表している時代の「狂気」を、「分裂症的」とすら形容できない人間精神を、精神分析が「破滅的退廃」として表象するような21世紀の主体の生を()、納得するに至っています。本稿を書くにあたっては、青井氏の享楽を分析してみるよう蛭川氏に依頼されたものの、その仕事は専門家が担うべきであり、むしろ「物語なき生」を生きる人々の群れをただ直視し、可能なら実地に交流して触発を受けることだけが、筆者にとっては真に学問的かつ倫理的な態度である、というつまらない結論を表明することで、お茶を濁させてください。

文化上の意味づけについて

 しかし、青井氏は自身が起こしたムーブメントはサイケデリクス文化の「サードウェーブ」であると嘯き、にゃるら氏が企画・脚本を担当した(精神展開薬の摂取による変性意識の演出を含む)ビデオゲームも好調のようです。むしろ人民は、ドラッグカルチャーの過剰性を深く必要とし、それを「物語」に包んで擁護したいようにも見えます。

 筆者が眺める景色を無批判に適用すれば、本稿が記述したような(精神展開薬の規制史上ほぼ最後に残った物質である)DMTの経験を、人民の知覚は自明性として肯定しているとすら言えます。筆者もまた、『NEEDY GIRL OVERDOSE』は全実績解除までプレイし、ネット文化の乾いた貧しさを反映した「狂気」の諸表象が肌身に染みたり面白いと感じたりはしなかったものの、破滅的なチップチューンサウンドや強迫的なダンスミュージックに絆されて、愛しうる無意味として受け止めたのは確かです。

 さておき、青井氏の「物語」を簡単に批判します。その問題は、ティモシー・リアリーに代表される対抗文化のイメージを素朴に保存している部分がある、という一点に尽きます。というのも、§1で触れた現代の「サイケデリックルネサンス」とは、リアリーの奇抜な実践によるLSD神話=カウンターカルチャーが当局を煽ったために、精神展開薬の医療研究そのものが禁忌になり、抹消された過去の研究が九〇年代に発掘された経緯を踏まえて、「ルネサンス」と呼称されているためです。自由な文化実践と医療化=制度化を両立させたいなら、歴史は慎重に参照するべきと思われます。

 さらに青井氏は、「ブラック企業をホワイトに変えるためにスピリチュアル技術を生かせたら」()といった「世直し」をも視野に入れています。ここまで来ると西海岸的と言いますか、ITエリートとも親和性が高い(革命とは似て非なる)改良主義にすぎませんから、白ける気分は否めません。

 この方面は不勉強なのでピントを外しているかもしれませんが、ポーランの著書によると、大衆からのLSD普及を重視したリアリーの「超越の民主化」に対して、エリート層にLSDを渡してトップダウン方式で社会に定着させたアル・ハバードという人物が存在し、西海岸文化を醸成してジョブズらに影響を与えた功績もハバードに遡られる傾向があるようです。

 リアリーとハバードの二項図式を投射すれば、ひとまず前者に当たる青井氏は、後者の末裔たるテクノクラートが支配する現代に内在し損なった、(筆者を含む)主には二級市民/貧困層の救済にあたってきたと評価できます。しかし、後者への振り幅を強めるならば、見通しは微妙です。

 見落としてはならない厳然たる事実として、現代世界では一級市民は大麻合法の国や南米に旅行して粛々と体験を済ませており、あまつさえ瞑想やマインドフルネスすら富裕層の趣味の一つにすぎません。本件を階級問題として捉えた場合、青井氏とその周辺のコミュニティを非難することは、現状では貧者同士のいがみ合いにすぎないと言うべきです。しかし、今後の趨勢次第では、そうも擁護してはいられない、ということです。

 例えば木澤佐登志氏は、渡邊拓哉氏による脱魔術化(必ずしも脱宗教を意味しない救済の徹底的合理化)/再魔術化(消費文化とニューエイジスピリチュアリティに分枝する個人的な宗教性)/反脱魔術化(脱魔術化に対抗し、かつ再魔術化とも区別される実践)という三つの区分を提示した上で*50ティモシー・リアリーの実践をアメリカの信仰復興運動=反知性主義の伝統に位置づけ、再魔術化の一つとして批判的に捉えています*51。こうした議論を踏まえると、当然にも大衆的だから良いとは言い切れず、筆者も当事者性が薄れた中途半端な位置にいるため、判断しかねるところです。

 青井氏という人物自体は少なからず「革命的」です。しかし、アヤワスカ茶をめぐる実践は治療という理念が強い以上、おそらく「改良的」に留まります。そして、活動の諸相を運動として束ねる物語の紡ぎ方は「場当たり」の一語です。今のところは「革命的楽天主義」と言ってみてもいいものの、結論は差し控えざるを得ません。

まとめ

 最低限に総括してみます。筆者のような「黙って勝手に救われてしまった」ケースが、暗黙裡に広く人民に行き渡っているとすれば、当事件はポスト世俗化の時代に行き場を失った貧困者の霊性に対する、ある種のイニシエーションの価値を見出すことができます。その体験が、なおさら幻想の宗教的価値をつり上げるのか、それとも内面を壊して「社会的なもの」へと向かわせるのか。断言できないものの、二者択一ではなく、その両方が可能になった現在時を証言できていれば幸いです。

 最大限に物語化してみます。半ば蛭川氏の意見でもありますが、青井氏と筆者がDMTを通じて獲得した、インドール酔いポリアモリーとオタク的フーリエ主義という全婚愛に着目すれば、当事件からは政治闘争を組織しない、身体と知覚に埋め込まれた潜在的な革命のイメージを抽出できます。それは青井氏が演出するムーブメントの裏側で、筆者のような暇人が理論化できればと考えています。

 ある出来事を特権的に個人化せず、「絶対的無分節」などの超越概念にも置き換えず、退屈で凡庸な狂いの一つとして「体験」を他者に譲り渡すことは、遅筆の筆者にとり「深遠な主体性」の幻想を破壊するための治療行為であり、ジャンキーの戯言という無を普遍化する営為でもあったことのみ()、最後に言い訳させてください。

*1:もちろん各方面に研究者は多数存在するものの()、今回の裁判については他の研究者に呼びかけても反応は薄かったようです。専門家が蛭川氏しか参加しなかった結果、弁護側が証拠用に提出した英語論文の監訳を担当したり、青井氏の裁判所結婚の証人になったりした事情が「第五回以降の公判」から窺えます

*2:参考資料-起訴状一覧

*3:青井氏は2022年1月11日の結審にて、「検事さんが「分離」や「抽出」という言葉を間違って使っていたとしても、あるいは分岐分類学の概念なども、用語の使用法が間違っていても、まあ、いたしかたのないことです」と、根本的には科学知の水準で本件を争っていることを強調しています。例えば阿片(芥子)とそのアルカロイドであるモルヒネには、抽出による科学的な区別と同時に、後者の医療活用による社会的な区別が成立しているものの、アヤワスカ茶とDMTにはそのような区別が未だ浸透していないことが、ここで問題になっています

*4:DMTを含有する植物は数多く、染料用に販売されるものからミカンなどの食品にまで影響が及びます。「DMT含有植物と薬草としての使用」など参照

*5:精神展開薬(サイケデリックス)」「神経伝達物質と向精神薬」「DMT ー ありふれた構造の特異な物質 ー」など参照。狭義の精神展開薬の中でも半合成のLSDとは異なって、哺乳類の脳内に発生する「自然の幻覚剤」である、というDMTの特異な性質こそが、司法の法解釈と薬理学・神経科学といった科学知の対立という当事件の図式を規定しています。議論は現在、純粋に刑法的な罪刑法定主義の問いへと移行しているようですが、法にも科学にも疎い私個人は、あえて言えば科学哲学の観点から当事件をどう解釈するべきかに関心を持っています

*6:後述する青井氏の「お茶会」が開催され、表層ウェブ上にも「トリップレポート」が散見される現在ですが、それに先駆けて2004年から2007年頃、蛭川氏は南米でのアヤワスカ茶体験を踏まえてカヴァ茶を点てる茶会「南華会」を催し、アルコール・カフェインに代わる薬用飲料の文化を模索しています。「南華会(旧サイト)」「南島の茶道 ーカヴァの伝統と現在ー」など参照。事件の背後には、宗教、瞑想、医療、あるいは娯楽、はたまた現代茶道といった、DMTにおける(筆者を含めた)相異なる文化実践間の緊張関係があり、これらの諸差異は法的闘争に際して留保されている状況と言えます。念のため付言すると、酒、お茶、コーヒーと幻覚剤を薬理作用において平等に思考する構えは、精神世界探求者(サイコノート)に特有の思い入れに因るものではなく、例えば薬理心理学の父モロー・ド・トゥールなどに遡ることができるものです。渡邊拓也『ドラッグの誕生 一九世紀フランスの〈犯罪・狂気・病〉』、法政大学出版局、2019年、206頁など参照。以下、渡邊2019

*7:なぜか鑑定員が青井氏の尿検査の試料を破棄しており、この問題が第一三回公判あたりから指摘されています。長澤靖浩氏「青井硝子裁判 残った争点と傍聴の意義の振り返り」など参照

*8:「初接見のとき、被告人は開口一番「麻薬及び向精神薬取締法の別表第一の七十六項のロです」と、法律の条文を正確に暗唱したという。つまり「DMTという物質は法律で規制されているが、DMTを含有する植物およびその一部分は規制の対象外だと明文化されているのに、これを所持していた自分が逮捕されたのは不当だ」と主張したのだ。弁護士は、これこそが本来の意味での確信犯だと確信したという」。「本来無一物 ー第一回接見ー」より

*9:普化振鈴

*10:上掲、長澤より

*11:本稿が留保する法的規制の議論に関して、詳しくは「「麻薬」を規制する国内法と国際条約におけるDMTの扱い」などをご参照ください

*12:鷹揚な蛭川氏から見ても奇矯な青井氏の言動の印象については、「第一回接見(改訂版)」に要約されています。また、日本における精神展開薬の非罰化・非犯罪化を目指す運動が、いわゆる左派層や政党政治との連携が手薄のまま、周縁的なものに留まってきた事情は、山本奈生『大麻社会学』「第7章 紫煙と社会運動 戦後日本の大麻自由化運動」などから伺えます

*13:京都アヤワスカ茶会裁判の争点」より、強調引用者

*14:憶測ですが、軽く眺めた限りではジョナサン・オットの著書「Ayahuasca Analogues: Pangaean Entheogens (1994)」から普及した概念のようです。青井氏は2ちゃんねるの雑草喫煙文化から出発し、海外フォーラムの情報などを参考にしながら、「代替アヤワスカ」の独自研究を進めてきたという経緯があります(

*15:京都アヤワスカ茶会裁判 ー アマゾンの薬草が日本で宗教裁判に? ー」より、強調引用者

*16:「お茶会」のケースであれば、青井氏のシャーマン的実践とユーザーとの直接的な相互作用が想定されますが、筆者や大学生の方のケースは、青井氏とは離れた場所で「体験」が生じています。本稿が焦点化するのは後者であり、前者の評価には触れられないことをご承知おきください

*17:https://twitter.com/ininsui/status/1485175089662664707

*18:京都アヤワスカ茶会裁判 ー アマゾンの薬草が日本で宗教裁判に? ー」より

*19:例えば「ピーター・ティール出資のサイケデリック企業、FDA承認で臨床試験へ | Forbes JAPAN」「治療抵抗性うつ治療薬「アールケタミン」の日本国内におけるライセンス契約締結について|ニュースリリース|大塚製薬

*20:裁判の行方 – 薬草協会」参照。現在リンク切れ。薬草協会は削除・改稿が多く、当時の記事の正確な引用が難しい場合があります

*21:DMTがもたらす心的変容の一人称的記述については、石川氏による「アマゾン・ネオ・シャーマニズムの心理過程の現象学的・仏教的研究」が最も典型的かつまとまりが良いと判断されます

*22:1912年のハーグ阿片条約()、続く1925年のジュネーヴ阿片条約で拡張された「危険薬物」の規定が、現在ドラッグと呼ばれるもののプロトタイプと考えられます。渡邊2019、150-151頁

*23:佐藤哲彦『ドラッグの社会学 向精神物質をめぐる作法と社会秩序』、世界思想社、2008年、174-175頁

*24:薬物依存症 【シリーズ】ケアを考える』『誰がために医師はいる――クスリとヒトの現代論』など

*25:包摂モデル自体の是非は検討できません。ただ、実際に(文化的に)包摂して、(医療的に)包摂されてしまっている現在の諸条件を整理しておくことは、対抗文化としての意味付けを慎重に検討し直すためにも、無駄ではないと考えます

*26:例えば斎藤環氏は、鈴木大拙の「即非の論理」が統合失調症様の意識経験を伴う論理形式だと指摘し、大拙が讃える妙好人の浅原才市をアガンベンが言う「アウシュビッツの回教徒」の絶対的受動性と重ね合わせた上で、自身はこれを超克する新たな「人間の条件」を構想中であると語っています。斎藤環鈴木大拙――「即非の論理」の残りのもの」、『現代思想2020年11月臨時増刊号 総特集◎鈴木大拙』所収。悟り=見性=変性意識体験そのものに執着する「禅病」「魔境」に対する批判としては有益ですが、精神病理学のノルムが可能とする論理の飛躍に異様さを覚える論考でもあります

*27:小泉義之『あたらしい狂気の歴史 精神病理の哲学』、青土社、2018年。精神分裂病統合失調症概念の実質的な解体については70-74頁。「精神「分裂」病と呼ぶにせよ、「統合失調」症と呼ぶにせよ、正常者における精神諸能力の統一・統合(快調?)なるものが引き裂かれる(調子外れになる?)ところに基礎障害を見て取る命名法になっており、その類の命名に依存した精神病論は分野を問わず膨大に書かれてきたが、私は、それらの書き物に納得したことは一度もない。もっと強く言えば、過去の分裂病論や統合失調症論のうちで残すに値するものはほとんどないと思っている。いわゆるポスト構造主義において、主体性・主観性を脱中心化し、それを根源的に切り裂かれた存在者と見なす議論構成は、正常者の主体形成も分裂者のそれと変わらないと見なす議論であり、精神病理学精神分析疎外論の影響下に形成されてきたものであるが、それにしても私は、何の発見的価値もない議論であると思っている。人間の精神は、裂けるか否かで片づくようなものではなく、もっと手強いものであろう。」279頁より。以下、小泉2018

*28:この話題を人に話した際、筆者の「薬物嗜癖」の遠因をKに帰責させるような反応を返されたので強調しますが、本稿に記す筆者の愚行はKにも青井氏にも由来せず、全て筆者自身に責があります

*29:純化しています。具体的な制作過程については、作家としてのインタビュー記事「青井硝子さんに聞いてみた」を参照

*30:道ばたに生えている草を何でも吸ってみるヤシの集うスレまとめページ」など

*31:当時は「青井堂」との名称だった気もしますが、「薬草協会」で統一します

*32:この事態について、青井氏は『雑草で酔う』78頁にて「プチ炎上」として軽く言及しています

*33:含有植物から摂取される外因性DMTと、瞑想・臨死体験・睡眠時等に分泌される内因性DMTとは、判明に識別しがたい微妙さを含むものの、裁判に要請されて強調されている区別です。そして青井氏の怪物性は、「外因性でブーストした結果として常に内因性が出まくっている」ような、いわば超越経験を内在化した生の様式を発明したことにあると表現できます。しかし、であれば内在化を徹底して、トリップという「旅」のイメージで外因性の意識経験を特権的な「外部」として表象すること自体の是非が、今後は問われてよいはずです。本稿もまた、日常とは異なる「変性」意識を便宜的に指示した「体験」概念を多用してしまっているため、これは向精神物質と共に生きることの別の語り方を模索していく上での課題として、提起するに留めます。ひとつ参考例を確認すると、椹木野衣氏は「もうひとつの世界」に「行って帰ってきた」ことに基づく「みやげ話」的な観念論的サイケデリック芸術に対置される、今ここにある世界を見ることの強度において再発見する唯物論サイケデリック芸術について論じています。椹木野衣唯物論サイケデリック芸術の方へ」、『ユリイカ1995年12月号』所収。筆者の体験の質について贅言すれば、繰り返すにつれて「幻覚」を見ることは徐々に減り、「現実」を構成する諸々の認識を変形させることに関心が移っていきました

*34:体験者の認知的確信については、ウィリアム・ジェイムズが言う「認識的性質」として説明される傾向があります

*35:女性身体に対する同一化の問題は、笙野頼子氏が「魂の性別」を法的に認可する性自認法案に反対し、生物(学)的身体を強調する他称TERF問題にコミットしている件を見ても、男性側から見解を整理したい論点ですが、機会を改めるしかありません

*36:もっとも、青井氏自身も内因性DMTを快楽に活用しうることは否定していません(

*37:井上民基(id:nito5517)氏「国立病院で教授と対談「幻覚剤」 - 某研究室研究員」など。蛭川氏によると、薬草協会の存在は理系の大学生の方をメインに、そこそこ認知されている印象があるそうです

*38:このナショナルな「ネオ主体」の認識論的機序については、拙稿「情念の一義性―フーリエ情念論とスピノザ並行論の偶然的結合、あるいは愛の新世界を生きるためのエチカについて」をご参照ください。補足すると、「情念 passion」は心身二元論の中間にあって身体と精神を繋ぐニュアンスを持つ概念であり、古代ギリシアから初期精神医学に受け継がれた際は「中毒者の薬物に対する欲望」との関わりで多用された概念でもあります。渡邉2019、76-79頁など。フーリエ情念論がピネルやエスキロールといった同時代のフランス精神医における「情念」の語法から影響を受けたかどうかは分かりませんが、こうした文脈において拙稿もまた、「21世紀のサイケデリックルネサンス」が書かせたものと言わざるを得ません

*39:宗教学では「聖なるもの」を無用なゴミ箱概念と捉える見方が強いようです。『nyx 第5号 聖なるもの/革命』

*40:蛭川立『性・死・快楽の起源―進化心理学からみた「私」』、福村出版、1999年、187-206頁

*41:中島一夫氏「革命の狂気を生き延びる道を教えよ その2

*42:著者の見解」など

*43:立木康介氏が論じる「普通精神病」概念に対する批判は小泉2018、84-87頁。また、松本卓也氏が現代ラカン派の理論展開を特集したニュクス第一号については、「特集執筆者たちが「軽症化」を殊更に強調したがるのはある種の防衛機制でもあることが見えてくる。仮にラカン派が、自閉症を精神病圏に位置づけるというなら[…]、近年のスキゾフレニーと精神病の「軽症化」や自閉症スペクトラム化を批判するという厄介な課題を引き受けなければならないはずであるのに、そこを避けているように見えてくるからである。しかも、レオ・カナーによる幼児自閉症概念の提唱以降、自閉症分裂病の関係や自閉症と精神病の関係が一大争点となっていた二〇世紀半ばからの歴史を「時代遅れ」の一言で片づけられるはずもないのに、そこを避けているように見えるからである」との疑義があります。小泉2018、155-157頁

*44:「狂人」の社会的疎外の解決が労働者や被抑圧者の解放と連携して類的人間の真理を明るみに出す、といった物語を作り出すような狂気論の「人間論的な円環」(フーコー)はすでに破綻して久しく、例えばガタリのような精神-心理系の専門家としての「余計者がやって来て、回収不能者[狂人]に起爆されて変革や革命に赴いていく」ことは「戦術的に認めてもよいのだが」、そのような「当面の戦術として結合すべき専門家も反-専門家もいなくなっているとしたら、人間論的な円環の内部でおのれを反省する余計者など一人もいなくなっているとしたらどうであろうか。そして、いまや留保抜きに、回収不能者が「原始」に還っているとしたらどうであろうか」と、小泉氏は「吉田おさみが夢みていたユートピア」が実現したとの現状認識を述べています。小泉2018、214-224頁、強調引用者。青井氏という「狂人」自身が革命の物語を演じるしかなかったこと、青井裁判に専門家が蛭川氏一人しか参加しなかったことには、こうした背景が想定できます

*45:将来的に日本が精神展開薬の医療活用を進めることになった場合にも、当然ながら運用上の課題が噴出すると思われますが、さしあたりここではSSRI等の処方薬を指示しています。ただ、DMTで無手勝流の「自己治癒」ができてしまった筆者の立場から、精神科に通院している当事者を薬物療法ごと批判する資格など無い、とも自覚されます。一点だけ補足すると、現今の精神医療制度の外部を必要としている人間においては、青井氏をめぐる喧々諤々も、本稿の社会的な問題意識も、気に食わなければ一切無視して構わないし、理想的には自身の判断にのみ依拠して自己を統治するべきであるのは、言うまでもないことです

*46:「自由あるいは狂気そのものとしての超越論的愚劣」の主題の下、筆者の体験をオタク論やセクシュアリティとの関連で論じたものに、プロジェクト・メタフィジカ紙版収録予定「模像の消尽のためのエスキス」があります。刊行されたら告知いたします

*47:「偽薬ではない狂気、毒することも癒やすこともない狂気、毒されることも癒やされることもない狂気、見世物になることのない狂気、芸術へ昇華することもなく生き方として作品化することもない狂気、それが「もっとも手ごわい問題」である。それは、「レストランで、トマト・ケチャップをがぶ飲み」するような「日常人」の狂気のことである。解放の夢とすでに無縁になっている人間の狂気、およそ芸術化も作品化もできない狂気、知覚され認知されるだけの狂気、その「コレクション」を作ったところで「取るに足らぬ年代記」にしかならない狂気、いま「われわれ」はそのような狂気に出会っていると、東野芳明は言い始めていたのである」。「精神の狂気について、新たに考えるべきことは何もない。いま問題とされるべきは、行動である。それが一回であれ反復であれ、行動の狂気こそが問題である。いたるところで、大小強弱濃淡さまざまな形で立ち現れつつあるところの、狂った行動、奇怪な行動、奇矯な行動、逸脱した行動、奴隷的な行動、非合理的な行動、不自然な行動、非慣習的な行動、反道徳的な行動、背徳的な行動、ルールに反する行動、公序良俗に反する行動、正義に反する行動、民主主義に反する行動である」。小泉2018、230・245頁

*48:「人は、狂った言語を駆使することによって、おのれが狂人であるとの真理を語ることができる。それはちょうど、人が理性的言語を駆使することによっておのれが理性的主体であるとの真理を自己確信し相互承認されるのと同じことである。言語の狂気のゲームは、超越論的で相互主観的な自由を基礎とする言語の理性のゲームの双対になっているのである」。小泉2018、249頁

*49:江川隆男スピノザ『エチカ』講義』、法政大学出版局、2019年、204頁

*50:渡邊拓哉「再魔術化の文化研究 : 20世紀後半期における自己変容の技術と欲望

*51:木澤佐登志『失われた未来を求めて』、大和書房、2022年、156-174頁

覚え書 - ポップカルチャーの唯物論的無神論に向けて

 ジャン・メリエ司祭の『遺言書』あるいは『覚え書』にあやかって*1、長めのメモを残します。

§1 戦いから祈りへ

 戦争に参加した哲学者が、生還して何を為したかが重要である。ソクラテスは、いかに善く生きるかを、デカルトは、いかに魂を鍛えるかを、ウィトゲンシュタインは、いかに祈るかを考えたのである。とくにデカルトは、戦争について声高に論ずることはなかったが、哲学だけが戦争や宗派(党派)闘争を終焉させることができると宣言していた。もちろん、哲学が何か巧妙な処方箋を提示するわけではない。しかし、哲学が一切の処方箋に背を向けるその仕方が、戦争や革命の悲劇を防いできたし、現に今も防いでいるのである。 かかる哲学の力を学び直す時である。

 

 同様にして、〈老人〉や〈若者〉に学ぶことができよう。人間として知るべきことは、生き残ることと殺さないこと以外にはありえない。人間は、そのことさえ知っていれば足りる。ところで、〈老人〉は、生き残ることの善さと殺すことの罪をすでに知っている。そして〈若者〉もおぼろげにそれを弁えている。だから〈老人〉や〈若者〉にとって、それ以上知るに値すること、それ以上に為すべきことは何もないのである。実際、戦争について証言する責務や、戦争について学識を積む責務などあるはずがない。戦争や革命について考える義務も、それに反対する義務も賛成する義務もないのである。むしろ、そのような責務や義務を前提とする思想や制度こそが、悲劇や惨劇を引き起こしてきたのである。よって、〈老人〉の沈黙と〈若者〉の無関心は、無条件に善である。

 

(はしがき ii-iii 強調引用者)

 前回の補足を。すでに小泉義之氏は初単著『兵士デカルト』において、世俗的公共体から背を向けることの意味と価値を強調しています。

 私は三〇歳になって〈若者〉ではなくなりましたが、一向に〈大人〉の責務を果たす気は起きません。世は市民という名の〈大人〉で満ち、公共性概念を非歴史的かつ無批判に使用する学者で満ち、傍観者たる〈大人〉の疚しさに発する統治の指嗾で満ちているためです。

 戦争や革命に実践的に関与することのない傍観者が、戦争や革命に対する共感や反感を通して、その帰趨を決し、さらにはその歴史的意義をも決するという思想は、カントの歴史哲学に由来している。そしてこの思想は、近代民主制国家が遂行する戦争にきわめて適合的である。ところで、戦争や革命が世界の演劇であるとすれば、傍観者はそれを眺めて喜ぶであろう。傍観者は、悲劇を眺めて悲しむことはあるが、それを眺めて認識して評論することを喜ぶであろう。だから傍観者は、常に惨劇を待ち望み、常に活動家の死を期待するであろう。カントに始まる近代とは、そんな卑しい傍観者に溢れた時代なのである。(p.2)

 そのような傍観者が味わっている〈悲劇の快〉から距離を置き、つまり相対的・世俗的な価値判断を留保して、「政治」範疇を分泌する思考の水準そのものを、当ブログは問い続けることにします。

 いやらしく言った「メタ政治」的なこの立場に、大して読まれない限りで開き直らせてください。流通しづらい個人ブログですが、noteへの移行も注の入れづらさで諦めました。

 

§2 〈統計学超自我〉再見

 当アカウントは、私の思春期の大切だった何か(昔書いたラノベとか)を垂れ流し、インターネットに傍観者ではなく生活者として参加することで、21世紀文化への適応を目指しています。

 特に適応が遅れた領域はYouTube、遡ってニコニコ動画ほかの動画サイトです。その理由は、深夜アニメと読書に関心を絞ってなお余暇が足りなかったこと以上に、自他の欲望を精神分析の知で解釈することの困難と、それゆえに現代ラカン派が言う〈統計学超自我〉に恐怖していたことが挙げられます()。

  松本卓也『享楽社会論』は、同書のパースペクティヴ全体を方向づけたふたつの先行研究として、00年代初頭の東浩紀氏・斎藤環氏による「象徴界の衰退」にまつわる議論と、立木康介氏が現代人のセクシュアリティの変容を「露出」の観点から論じた議論とを重視しています(p.15)。

 後者が紹介した概念である、フロイト大義派マリー=エレーヌ・ブルース曰くの〈統計学超自我〉とは、神経症的な症状と象徴的同一化の対象を失った現代の彷徨える主体が、ガウス分布の中央値=一般的な平均値に過剰な同一化を行うことで、排除された〈父の名〉が諸々の数値に支えられた社会的規範として回帰するという「鉄の秩序」であり、それは数の専制によって「破滅的退廃」をもたらすものと表現されます。それに翻弄される「彷徨える主体」の具体的な記述は、例えば以下のようなものです。

 メルマンによれば、私たちはアドレサンどころか、そしてもはや子どもですらなく、乳児化している(!)のである。私はこの指摘にいささかも驚かないし、これがたんなるメタファーであるとも思わない。なぜなら私は思い出すからだ――数年前の九月、いまやすっかり恒例となったパリのテクノ・パレードの日に、一台のシャール(DJやダンサーを乗せて大音響を発しながら進むトラック)に連なってサン・ミッシェル大通りを練り歩くアドレサンの群れのなかに、ジーンズにサングラスといういでたちで、口に「おしゃぶり」をくわえた少年を見つけ、ファッションという名の文化的退行もついにここまできたのかと独りごちたことを! あれが、あれこそが、おそらく今日のセクシュアリティの実像なのだ。メルマンの語る「乳児化」を、私たちはだから文字どおり・・・・・受けとらねばならない。

 

立木康介『露出せよ、と現代文明は言う: 「心の闇」の喪失と精神分析』p.90)

 いささか滑稽なまでに情動的、かつ傍観者の驚嘆にすぎない箇所を恣意的に引きましたが、まさしく松本氏は立木氏の議論を整理して、「幼児期の性欲がインセスト(近親相姦)のタブーによって断念された結果として生み出される欠如[…]によって規定されるセクシュアリティの代わりに現代に登場したのは、享楽の「露出」である。たとえば、いまや誰もが、手軽なSNSサービスのなかで自らの心情を吐露し、隠しておくべき内密な事柄をいとも簡単に外部に露出させている。それと並行して、耳にはイヤホンを、目にはVRゴーグルを、口にはおしゃぶりをつけて、お気に入りの対象をつねに享受しつづけるような、「何が何でも享楽する」主体のあり方が目立つようになってきた」と、幼児的な他者を現状認識のモデルに据えています(p.18)。 

 こうして、「不可能な享楽」は「エンジョイ」になり、〈父〉はデータの番人へと置き換えられた。現代の私たちは、後者による徹底的な制御のもとで、前者の「エンジョイ」としての享楽の過剰な強制――「享楽せよ! Jouis!」という超自我の命令――によって、そして、その結果として消費されるさまざまなガジェットがもたらす依存症的な享楽によって慰められながら、徐々に窒息させられつつあるのではないだろうか。

 

 だとすれば、そこから抜け出すことはいかにして可能なのだろうか?

 

松本卓也『享楽社会論』p.20)

 あたかも幼稚な快楽で大衆を平板化する情報社会とは抜け出すべき「牢獄」であり、その「外部」を我が専門知が切り開くのである、と喧伝したくてたまらない〈大学人の言説〉自体を、批判する気は起きません。

 そのサンプルとして批判するには下品すぎて気が引けますし、なによりも、引用箇所は下品さを貫徹する以外には意味を持たないアジテーションだと判断されるためです。

 今読み返すと、臨床から離れた政治的ラカン解釈を是とするにせよ、それが幼児的な他者への嘲笑を前提とするならば、ラカンを(自己)臨床的につまみ食いした私のような大衆は乗り切れない、というだけの話です。それゆえに、アジテーションとしての有効性にすら疑問符は付きますが*2

 

§3 怖るべき囚人

 私は精神分析のセッションを受ける金も気概もないわりに、母子家庭育ちで継父に継子いじめを受けた過去のためか、半端な〈父〉を気取る言説*3を徹底して軽蔑しなければ気が済まない倒錯者です。これが過剰な反発である可能性が高いことは強調します。

 それでも、統計学的にのみ制御される「欠如なき享楽の主体」で一体何が悪いのか、と反問する契機は残しておきたいのです*4

プラトンの描いたソクラテスは、牢獄から脱獄するにせよ脱獄しないにせよ、牢獄の中にいるのに法廷内で弁論するかのように思考して、自分の選択の理由を案出していた。このような囚人は模範的な囚人である。これに対して牢獄でも安楽に振る舞う囚人は、怖るべき囚人である。もとより具体例を念頭に置くなら、それは悲しむべき事態であるかもしれないから、そのような囚人を肯定することはためらわれるかもしれない。実際、フーコーは次のように書いていた。

 

「監禁制度の形成が完了する時期をもしも決定しなければならない場合、[…]メトレーの少年施設の正式な開設の日付である、一八四〇年一月二十二日だ。いや多分もっと適切なのは、メトレー施設の或る少年が臨終の苦しみの中で「こんなにも早々とこのコロニーに別れなければならないとは何と悲しい」と言ったという、日付のない栄光の日だ」。*5


 ここでフーコーは、少年は偽りの快楽に欺かれていたと評価している。そして監視と処罰の権力が完成するのは、監禁制度が偽りの快楽を生産する力を獲得した時であると考えている。[…]しかしフーコーは一面的であったと思う。施設の外にいる者は、少なくとも一度は、少年の安楽を真の快楽と捉えるべきではないのか。囲い込まれても快楽を享受できる少年の力を、人間の真の栄光として讃えるべきではないのか。ソクラテス的囚人ではなくストア的囚人を讃える思想こそが、刑罰制度の本質的な部分を骨抜きにして、逆にそのことで牢獄の中の現状と牢獄の外の現実を批判する力を発揮するのではないか。

 

小泉義之『兵士デカルト』p.37-38 強調引用者)

 この引用は、デカルト方法序説』第三部第三格率「世界の秩序よりは自己の欲望を変えるよう努めること」というストア的断念に基づく道徳論を、発展的に注釈したものです*6

 当ブログは、概ね「模範的な囚人」を演じてきました。資本主義という「牢獄」に囚われている自覚を、他者に要求する囚人であったとすら言えます。この囚人の不愉快な傲慢さに、私自身が耐えきれなくなりました。

 以上を吟味すれば、今後の私は平面磁界駆動の高級Bluetoothヘッドホンを耳に被せ、VRエロゲを起動させたPCとAir Linkで無線接続されたOculus Quest 2で両目を覆い、(バーチャル授乳用のおしゃぶりを買う覚悟が無いので)〈父〉に対する薄ら笑いを口の端に浮かべた〈怖るべき囚人〉として、語るべきだと思われます。

 

§4 力学的崇高の主体

f:id:turnX:20210820072220j:plain

 他のラカン概念以上に〈統計学超自我〉が脳裏から離れなかったのは、YouTubeなどの動画サイトにおけるコンテンツの質的比較がほとんど意味をなさない「再生数」「登録者数」の単なる膨大さ、供給され続ける美少女コンテンツにおける「キャラクター数」の単なる膨大さ、検査方法の是非も分からず日々報道される「感染者数」の単なる膨大さ、などに参っていたためです。 

 これは概念の濫用であり、他者の集塊を集団心理学の構えで忌避する傍観者の愚鈍、あるいは統治者における人口論の眼差しと変わるところがありません。それゆえ、あらゆる数値が日に日にバグっていく感覚に立ち往生した「囚人」が、どういう構えを取るべきか、再考を迫られています。

 この点で、リオタールのポストモダン論の再検討が基調をなす現代思想の特集号を眺めた際、またもや小泉氏の論考に示唆を受けました(小泉義之「崇高な環境の大きな物語」)。

 小泉氏は、リオタールが科学(学知)を正当化する物語(ナラティヴ)への不信感が蔓延した状況をポストモダンと表現し、なお大衆の信頼に足る物語知と大学機関の必要を訴えた次第を確認したうえで、ここから巷間言われるマスターナラティヴ=「大きな物語」の不在とは虚偽意識であり、まさしく1980年代に始まった環境ナラティヴこそ、圧倒的多数の人間が宗教的なまでに信憑するマスターナラティヴとして君臨し続けていることを指摘しています。

 そしてこの経緯は、リオタールが手がけた物語知の一つであるカント崇高論の再版であり、その所以は、自然の猛威に対して文明人が安全な場所から抱く畏怖の感情、すなわち力学的崇高が、「私たち」=人類の類的人間としての尊厳を回復する次第にあるとします。

自然が直感的判断にあって、私たちに対してどのような威力をも有さない勢力と見られるとき、その自然は力学的に崇高・・・・・・なのである。[…]

 

 絶壁をなして張りでている、いわば威嚇するような岸壁、天空に聳え立つ雷雲が、閃光と雷鳴とともに近づいてくるさま、[…]私たちはこれらの対象をすすんで崇高なものと名づけるとはいえ、それは、くだんの対象がたましいの強さをその尋常な尺度を超えて高め、私たちのうちにある、まったく別種の抵抗する能力を発見させるからである。この能力が私たちに勇気を与え、自然の見かけ上の全能と肩をならべうるようにさせるのである。

 

(「第二章 崇高なものの分析論/§28 勢力としての自然について」カント『判断力批判熊野純彦訳、作品社、p.204-206)

自然における崇高なものの感情は、じぶん自身の使命に対する尊敬であり、この尊敬を私たちは自然のなんらかの客体について、ある種のすり替えをつうじて(じぶんの主観のうちにある人間性の理念への尊敬を、客体への尊敬と取りちがえることで)証示することになる。

 

(「第二章 崇高なものの分析論/§27 崇高なものの判定にさいしての適意の質について」同上、p.199)

 崇高の感情は、神に対する畏怖の感情の世俗版である。言いかえるなら、神即自然に対するそれである。「私たち」が、神即自然を前に恐れるのではなく、それを恐るべきものとして畏怖するのは、「私たち」が安全を保証されていると感じ、しかも「私たち」が、神即自然による裁きを前に無垢であり有徳であると確信しているからである。そして、あたかもフォイエルバッハを先取りするかのように、カントは、その神即自然に対する畏怖は、実は、類的人間の使命と能力に対する崇高の感情であると言ってみせる。こうして、「私たち」は、神即自然と類的人間の大きな物語を深く信憑し、大学の学知だけではなく知=権力の大半を正当化し、まさにポスト・近代=モダンに願をかけているのである。

 

小泉義之「崇高な環境の大きな物語」『現代思想 2021年6月号』p.48)

 これが§1で触れた「傍観者」における〈悲劇の快〉の内実であり、生殖未来主義批判(「類としての人間の生殖」)と同型に、端的な「時代精神」の在り処を指摘した議論と言えます。

 石川義正氏もまた、力学的崇高にもとづく思考そのものが潜勢力を消尽させ、文学において役割を終えたという蓋然性への予期を語っています*7。「ただ人間だけが・・・・・・・崇高なる感情を懐くことができる」*8、「力学的崇高において人間の「判断力」は動物(自然)から分かたれる」*9、と。

 ところで、私が先に列挙した「統計学的」に「崇高な感情」の具体例は、(1)映像文化の生態系に対する畏怖、(2)キャラクター文化に対する畏怖、(3)ウイルスという自然に対する畏怖でした。

 (3)は力学的崇高の図式が十全に当てはまるゆえ、沈黙するべき事柄です。以下は(1)と(2)について、何が言えるかを探ってみます。

 

§5 超越論的吐き気🤮そのものを嘔吐すること

 立木氏による〈統計学超自我〉の議論がリアリティを失わない理由は、20世紀の主体とは区別される21世紀のネオ主体の享楽を図式化した「表象芸術から提示芸術へ」「隠喩・置き換え(メタファー) から換喩・羅列(メトニミー)へ」という図式が非常に便利でもっともらしく、ポップカルチャーにおいて「その向こうに何もないイマージュ」に耽溺する私の作品経験とも符合するためです。

 ただ、立木氏の議論は現代文明の「破滅的退廃」という(精神分析=科学知を正当化する)物語知に魅了された節が強く、返す刀で「精神分析の死」という物語知が流通するのも宜なるかな、と思わせます。もとより詳細な検討は無理ですから、この「破滅的退廃」を肯定的に物語る構えを、代わって崇高論の展開に確認したいのです。

 カントの力学的崇高が「力にあって限定を超越する」のに対して、数学的崇高は「大きさにおいて境界が存在」しないことをいう。カントは数学的崇高における構想力のはたらきを「捕捉」と「総括」の二つの作用に分類している。無限に進行しうる捕捉に対して、総括は「捕捉が先きへ進むにつれてますます困難になり、間もなくその最大限度に――換言すれば、量的判定に対する美学的に最大の基本的尺度に達してしまう」。たとえば「地球の直径を捕捉することは可能であるが、しかしこれを構想力の直感において総括することは不可能である」。ここでの総括は論理的な統一ではなく、概念なしの主観的な統一を意味する。この「美的総括」の不可能性によってわたしたちは数学的崇高を体感するのである。

 

( 石川義正『政治的動物』p.41-42)

 さしあたっては換喩的と言うしかない文化的存在者の生成を、例えば190人のアイドルを、1万3000人のVTuberを、あるいはがうる・ぐら氏の登録者数を見るに320万人程度と思しきVTuberの観客の実践を、美的に総括することは不可能であり、その呈示不可能な無際限性において、(1)(2)は数学的崇高として感受されていることになります。

 石川氏の場合、「平等ならざる者同士の基盤的な平等が存在するという感性的確信」を裏付けるべく、「すべての事物を共約的にするような、すべての事物に共有される唯一の性質」として、ヘーゲルの〈悪無限〉をこの数学的崇高に重ねることで、ハイデガーの〈世界窮乏〉ともアガンベンの〈剥き出しの生〉とも袂を分かち、実定的で肯定的な未知の実在として、隠喩を超過する「形象」としての〈動物〉を語ったのでした。

 立木氏の「隠喩/換喩」という対立項を斥けるには、石川氏の議論しか無いという直感はあるものの、到底要約できない難解さです。よって、石川氏の引く宮崎裕助氏が、数学的崇高の呈示不可能性の彼方にある吐き気・・・という「パラサブライム(parasublime)」の感情を、崇高(sublime)論の臨界点に位置づけた議論のみ紹介させてください。

 宮崎裕助によれば、数学的崇高の延長線上にある「呈示不可能性の限界的呈示としての「崇高なもの」の向こう側に「途方もないもの」というたんなる・・・・呈示不可能性の契機」が存在している。「たんなる」というのは「すべてではない」のような否定的なかたちですら・・・もはや定義されることがない呈示不可能性の謂である。そうした数学的崇高における「途方もないもの」の形象が『判断力批判』のべつの箇所にみられる「吐き気をもよおさせるような醜さ」*10なのである。

 

(石川義正『政治的動物』p.44)

[バタイユクリステヴァ、メニングハウスらの先行研究における]「吐き気」にまつわる感情や表象の分類や転用は、権利上際限のない企てとなるほかはない。この企ては、醜いもののインフレーションを、相対的なアブジェクションの氾濫をもたらし、つまるところ、絶対的な「吐き気」の排除――吐き気そのものの吐き出し――に行きつくよう思われる。

 

 それゆえ、最後のアポリア。この「吐き気」が最終的に吐き出すもの、それは、当の吐き気が吐き出すところのもの、吐き気をもよおすものそれ自身を絶対的に表象不可能なものとして維持する可能性である。[…]

 

  吐き気は、いわば「超越論的な吐き気」としてその絶対的な否定的感情の極によって定義されながら、他方ではつねにひとつの享受として、特定の感情として現れざるをえない。吐き気の究極的な対象は、まさにそのような絶対的な否定性の極そのものなのである。かくして「吐き気」はつねにあらためて、相対的で個別的で特定の否定的な感情として、吐き気とは別のものが入り混じった不純な感情の数々として回帰する――不快である。不安である。気持ちが悪い。気色が悪い。気味が悪い。うっとうしい。おぞましい。厭悪する。忌み嫌う。嫌忌する。忌避する。嫌気がさす。反感を覚える。疎んじる。うんざりする。気に入らない。気に食わない。鼻持ちがならない。胸糞が悪い。悪心がする。むかむかする。むかつく。キモい。ウザい。キショい。唾棄する。反吐が出る。虫酸が走る――等々。

 

(宮崎裕助『判断と崇高』p.146-147)

 不定形の不快を形式の快へと内化する表象の弁証法的作用たる「崇高」の論理を拒絶する、絶対的に形式化不可能な〈怪物的なもの〉としての「超越論的吐き気」とは、主観的には「吐き気とは別のものが入り混じった不純な感情」として享受されることで、「崇高」が「差別」に変貌する機制を示唆するものです。

 例えば320万人の観客が一斉に「てぇてぇ」と絶叫する時、崇高は否応なく「不純な感情」に転ずるでしょうが、言いながら私はVTuberの配信を全然見ていないし、そんなことが起こるはずもないので、こういう例示自体が悪しき大衆差別ですね……。

 言い換えれば、イーロン・マスク輿水幸子氏を享楽した際、「Anime🤮」と嘔吐した女性に「White women🤮」と嘔吐したインセルを哄笑する主体🤮()すらも嘔吐すること🤮は、「不純な感情」に満ちたアブジェクション(おぞましいもの)の氾濫が行き着く、絶対的で無情動な「吐き気そのもの」に近似すると思われます。

 🤮(Internet🤮(White women🤮( Anime🤮(イーロン×幸子))))です(?)。

 また、この「超越論的吐き気」そのものを吐き出す、言語の自己免疫疾患として笙野頼子作品を捉える観点があります*11。私は「笙野頼子を読んだあとでいかにオタであるべきか」という問いに長年憑かれており、そのように物を書ければと願っていますが、他日を期すべき論点です。

 補足すれば、宮崎氏は「すべての社会からの離脱もなにか崇高なものとみなされる」*12から続く一節に、「あらゆる感覚に開かれることでむしろ最も研ぎ澄まされた無感覚として現れてくる冷醒さ、静謐にして晴朗でさえあるような「吐き気」」*13を見ています。

通常それに向かう素質が齢を重ねるにつれて多くの善良な人間の心になじんでくる一種の(きわめて非本来的にそう呼ばれているが)離人症[人間嫌い]があるが、これは好意・・にかんしては十分に博愛的であるものの、長年にわたる哀しい経験によって、人間にたいする適意・・からはるかに遠ざかっているのであり、隠遁への性癖、人里離れた所領地で暮らそうという空想的願望、あるいはまた(若い人々の場合に)ロビンソン・クルーソー風の小説家や詩人がうまく利用することを知っているような、他の人々に知られていない島で少数の家族とともに自分の生涯を送ることができたらという夢見られた幸福は、こうした種類の離人症を証拠立てるのである。虚偽や、忘恩や、不正や、われわれ自身が重要で重大とみなしている諸目的でありながら、それらを追求するさいに人間自身がおよそ考えられるあらゆる禍いを互いに加えあうといった、子供じみた事柄は、人間が意欲しさえすればそうなることができるものの理念とまったく矛盾し、人間をより善いものとみたい生き生きした願望にまったく対立しているから、人間を愛することができないのでせめて人間を憎まないために、一切の社会的な喜びを断念することが小さな犠牲にすぎないようにみえるのである。この哀しみを[…]人間は人間自身に対して加える[…]。「そこには一種の味気ない哀しみが支配している」。

 

「第二章 崇高なものの分析論/直感的な反省的判断の究明に対する一般的註解」カント『判断力批判』(作品社版 p.228-9、訳文は宮崎裕助『判断と崇高』p.150より)

 「味気のないもの=無趣味なものという美的なもののゼロ度にあってもなお、かろうじて漂っているミニマルな感情としての哀しみ」*14。これが〈無情動な吐き気〉であり、「崇高の主体」という傍観者(§1)の徳と言うべきものかもしれません。

 

§6 「日本のポストモダニティ」の生政治的解釈?

 本稿の身振りは、侮蔑的に「ポストモダン右派」と表現可能でしょうか。ロシアのポストモダン右翼として最近よく紹介を見かけるアレクサンドル・ドゥーギンは、近代と超近代の移行期を生きる〈根源的主体〉を準備する主体性を、「シミュラークルに呑み込まれたスキゾ的大衆」のように「虚無を記号で覆い隠そうとするのではなく、虚無それ自体を貪り尽くし蕩尽する革命家」と位置付けているそうです*15

 アンドリュー・カルプ『ダーク・ドゥルーズ』()に先駆けて、革命の夢を留め置くために「虚無」と「蕩尽」を強調する路線と見えます。本稿は革命の問いを脇に置き(§1)、それを「囚人」の現実に踏みとどまって語ってみたいのです。

 つまり「虚無」の「蕩尽」とは、傍観者たる崇高の主体の〈無情動な吐き気〉において生きられる側面と(§5)、そのような「模範的な囚人」である以前に〈怖るべき囚人〉(§3)として生きてしまう側面を相含み込んでいる、と主張させてください。

 後者の次元を検討する取っ掛かりとして、石岡良治氏の論考を少し見ます*16。不勉強で全体の含意は汲めませんでしたが、大枠、「一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもの」というボードレール以来のモデルニテ概念の水準から、マンガ・アニメにおける比喩形象(フィギュール)を問うものです。

 この問題設定は、柄谷行人氏が『批評空間』時代にカルスタ・ポスコロ揶揄の流れで同時代性を切断して発生した間隙を、大塚英志氏・東浩紀氏らのサブカル批評が縫った歴史を確認した上で、そもそも柄谷氏にはフーコー『言葉と物』と対照して「生命」の問いが脱落している、という指摘に、支えられているよう見えます。末尾の注において、「「日本のポストモダニティ」における生命の問いはアガンベン『開かれ』「第3章 スノッブ」から再び始められるべきだろう」と示唆しているためです。

 指示された箇所では「コジェーヴによる〈アメリカ流の生活様式〉と日本的スノビズムが生政治の観点から考察」されています。これは『動物化するポストモダン』の欠落を埋める指摘として読めるでしょうか。私は動ポモにおけるコジェーヴ引用の雑駁さに対する疑問からフレンチセオリーを読み始め、この論点を深化させた議論を常々求めているので、歓迎すべき記述です。

 しかし、であれば拾うべきは、アガンベンが「第19章 無為」でティツィアーノ『ニンフと牧童』に込めたバタイユ的な含意であると思われます。

f:id:turnX:20210822221154j:plain

ローナ・ゴフェンがバタイユのマネ論を引用しつつ指摘するとおり、[…]「絵はそのテクストを抹消しているのであり、絵の意味は、絵の背後にあるテクストのなかではなく、むしろテクストの抹消そのもの」(Goffen 1997)にこそ求められるべきなのだろう。つまり、作品たることを否定する作品、作品を解体する作品=無為の作品(œuvre désœuvré)として、このタブローを眺めてみる必要があるのだ。

 

[…]すでに笛(男根ファルスのメタファー)を吹き終わった彼らは、気怠いまどろみのなかで性の享楽の余韻にひたるばかりで、たがいのコミュニケーションは実を結ぶことがないように見える。[…]アガンベンは、この恋人たちに、ありうべき無為の共同体の痕跡を見てとるのである。二人はたがいに寄り添っているようにも、あるいは、(とりわけニュンフは)相手のことにまったく無関心であるようにも見える。二人のあいだのこの微妙な距離感、この「接近不可能性」にこそ、アガンベンは、彼らの贖われることのない無為と無知の「開かれ」を見るのである。「あたかも彼らのうちに、彼ら二人のあいだに、死が横たわっているかのように、彼らは永遠に隔てられているというのだろうか。いや、隔てられてもいなければ引き裂かれてもいない。ただ、たがいに近づきえないものとして、近づきえないもののうちで、無限の関係を保っているのだ。」

 

[…]アガンベンの興味はむしろ、ニュンフと牧童の愛と至福の生をめぐるテーマ、[…]「恋人たちの共同体」というバタイユ的着想へと収斂していくことになる。「恋人たち」は、バタイユのいう「用途なき否定性=無職の否定性(negativité sans emploi)」として、つまり、無為にして無活動な「残余」として、歴史を締めくくる「エピローグ」に臨むのである。

 

(多賀健太郎「解題 救われざる生の残余」アガンベン『開かれ』p184-185)

 私はこの絵画に形象化された〈恋人たちの共同体〉を、キャラクター文化に生きることの形而上学的条件として読み替えることで、「歴史の終焉」という物語をも肯っています。

 しかし――吐き気が、「不純な感情」が回帰します。柿本昭人『アウシュビッツの〈回教徒〉』などのアガンベン批判を想起するだけではありません。かねてよりアガンベンの思弁性は、まさしく「崇高」の美学と接する身振りであると指摘されてきたそうです(アガンベン p.222)。アガンベンにせよナンシーにせよ、「生の崇高化」という論点に限って言えば、バタイユを中性的に洗練させるその身振りに、違和感が拭えないのです。

 生政治論へのバトンタッチに立ち止まる石岡氏は、どこか及び腰に見えます。生政治論の〈剥き出しの生〉という形象で、私達の動物的な諸部分を崇高化したいように見えます。なぜ生政治論に潜勢力として「囲い込まれた」バタイユ唯物論へと、潔く退行しないのでしょうか *17

 理論家は、こう言いたがっているように見えます。現代日本ポップカルチャーの諸領域は、いずれも美的に総括不可能である。それは第二の自然のように崇高である。そこに生きる「オタク」的な他者とは、無為を生きる「動物」である。それらは現代のマスターナラティヴである環境ナラティヴと生殖ナラティヴの枠内で、「生命」として肯定する以外に道はないのである、と。

 なべて理論家が「動物(自然)から分かたれる」力学的崇高の判断力に留まるならば、その学知を正当化する究極の物語知が「環境と生殖」以外に求められることはないでしょう。サブカル批評がそれでよいなら、別に構いませんが。

 この趨勢の欺瞞性に対する怒りを忘れる気はありませんが、今はその激情も〈無情動な吐き気〉のように凪いでいます。

 

§7 実存者から実存へ 

 以上の作業で、(1)YouTubeに代表される映像文化、(2)供給され続ける美少女コンテンツ、あるいは美的にも政治的にもナンセンスさを増すばかりに見える時代の感性を*18、崇高論/生政治論の構えや自然/生命の原理で無条件に肯定したい気持ちを抑え、それらの理論が囲い込んで飼い馴らしているバタイユ唯物論を積極的に採用してこそ、〈怖るべき囚人〉が生きている「虚無」や「蕩尽」を肯定的に語りうることの根拠を、説得的に示せたでしょうか……?

 最近、中年男性の自我の喪失、という冗談が染みます。目的のない生存が訪れることに、若い頃は想像が及びませんでした。この「虚無」の構造を価値的に表現するために、「実存主義から経済学の優位へ」というバタイユのテキストを参照させてください*19

 石川学氏によると*20、そこでバタイユサルトル「新しい神秘家」の『内的経験』批判の核心である「無の実体化」に対して、なお「個別的な実体の消滅が無の普遍性を際立たせる」ことを強調する反批判を行っています。レヴィナスとは逆向きに「実存者から実存へ」、個別的存在が普遍的存在に溶解していくことの意味と価値を語っています。

[...]深遠な主体性の経験には、つねにひとつの条件がある。その経験を担い取る者を破壊する、という条件である。[...]だが、消滅することを条件に、実存を強烈さのうちに表現する者たちは、彼らが自覚している必然性によって破壊されるわけではない。彼らは、おのれ自身では、何ら普遍的なものに到達してはいないのである。ただ注釈と、彼らの作品が―そして彼らの生が―他者に対して及ぼす影響が、彼らの個別性を、ひとつの普遍になすのである。[...]感情の強烈さが作品を魅惑的なものにするのであり、それが約束しているところの作者の破壊を通じて、ひとつの普遍を基礎づけてもいるのだ。*21

 ここでバタイユは、ジャン・ヴァール『「 実存主義」小史』(Petite histoire de « l’Existentialisme »)(1947年)のなかの、ランボーゴッホといった、「あまりの緊迫ゆえに、生き存えることのできない精神」たちについての記述を拠り所としながら、彼らの作品や現実の生が彼らの実存を破滅へと導き、個別性のそうした激烈な消滅がスペクタクルとなることによって、彼ら自身においてではなく、彼らの破滅を眼差す他者たちのうちに、彼らの普遍性が感得可能なものになることを主張している。個別的な主体は、みずからの個別性を類い稀な強度とともに喪失することで、不在となった個別的実存を、普遍的価値として他者たちに伝達する道筋を開くのである。

 

(石川学「無とその力 : ジャン=ポール・サルトル「新しい神秘家」(1943年)以後のジョルジュ・バタイユ」)

 ところで、私が「実存から実存者へ」と生成した契機は、1クール3ヶ月で「嫁」を蕩尽する、という深夜アニメ体験におけるキャラクター存在とオタ生活との裂開に、思考らしき思考が初めて発生したことに遡られます。道を誤って本の虫になりましたが、そもそも私は「絵が描けないオタク」にすぎません。

 私はネット上に日々展開されるスペクタクルを小馬鹿にして、コロナ以前から物理的にも精神的にも籠城を決め込んでいましたが、この歳になると、そのような愚かに見える無数の他者によって、自己と人生の地盤を支えられている事実を、認めざるを得ません。

 つまり、公共的な言葉を尽くさない〈怖るべき囚人〉を、畏怖し、崇高に語る構えは、何かを忘却しているのです。であれば、彼らの戦争に祈りを捧げながら(§1)、それを崇高化せず(§6)、特定の学知と物語知をあわせた真理の体制=神話に回収しないよう(§4)、淡々と「蕩尽」を語るべきだと思われるのです。

 この時代が生み出している精神は、必然的に枯渇する。そして、全身を張り詰めながら、精神はこの枯渇を欲しているのである。神話と神話の可能性は解体する。残るのはただ、巨大な、愛された、悲惨な空虚だけである。神話の不在はおそらくこの地表であり、私の足下で確固としているが、おそらくは、じきにこの地表も崩れ去る。


 神の不在はもはや、閉幕ではない。それは、無限なるものの開幕である。神の不在は神よりも偉大であり、それは神以上に神的である(だから私はもう自己ではなく、自己の不在である。私はこのごまかし(esca-motage)を待ち望んでいたのであり、そして今、限りなく私は陽気だ)。[...]

 

 「夜もまたひとつの太陽である」、そして、 神話の不在もまたひとつの神話である。最も冷徹で、最も純粋で、唯一真なる神話である。

 

バタイユ「神話の不在」『ランスの大聖堂』p.147-149 訳文は石川、同上より)

 

§8 にじさんじ以後の〈恋人たちの共同体〉

 VRエロゲの新作をDLSiteで探した際、前川みく氏とセックスする同人作品()を作った人の新作()をレビューしている萌々嫁もか氏()を把握したところから、エロVTuber切り抜き動画という文化圏を発見したのち、「ウー〇初体験!絶〇までの間、わずか”50”秒!?【vtuber/ますかれーど./切り抜き】」で射精しました。

 Live2Dを被せた電マイキですが、分析系VTuber論の道具立てを借りれば、何か言えるのでしょうか。言ったところで、何なのでしょうか。これが「たすかる」なのでしょうか。電音部で体を揺すり、ナイトシティの街角でポンポンSHITに足を止め、ポスト金田朋子的な周防パトラ氏の「かにぷのうた」を口ずさみながら、あまつさえ名前も覚えていないエロVTuberで助かっている三十路になった、ということですが。

 深夜アニメをモデルとした作品の時間的持続と表象の無垢を信じて、それを支える生身の女性を私は否認してきたと言えます。例えば女性声優の固有名を用いる時、私は声優の肉体ではなく、その固有名と結び付けられた空気の振動、それに喚起されるファンタズムの総体、視聴体験の歴史的な厚みを、圧縮して指示しています。そうした否認を引き裂かれたためか、凹んでいます。

 根を奪われ続ける不安ゆえ、AUGUST謹製『あいりすミスティリア』を始めましたが、DMMゲーで言えば『千年戦争アイギス』を思い出させる骨太なシステムとエロゲオタ感性を安堵させるテキストの手堅さに増した、べっかんこう絵の笑顔の強度が、中華資本美少女ソシャゲの洪水に疲れたところに染みてしまい、クルチャ氏で二度射精しました。

 世代間倫理を気取るつもりはありませんが、思春期にVTuberブームを通過した世代は、私とは全く異なる絶望を生きているに違いないと、常々感嘆しています。

 例えば、受動的ニヒリズムに基づくお寒いオタク啓蒙が「リアリティーショーを批判しているオタクもVTuber見てんじゃん」だったとすれば、VTuber文化に対する能動的ニヒリズムの表現は、夢月ロア騒動*22を受けた「【悲報】夢○ロアさん、方言被りに激怒して大阪府民を虐○してしまうwwwww【みれロアを返して】」に見られます。

 これは兎田ぺこら氏が習近平の肛門を舐め精液を飲み下し、大阪・西成におけるにじさんじオタクの暴動を巡って白井聡氏とジャック・ランシエール氏が対立する渦中にアラン・バディウ氏と数理神学者・落合仁司氏が介入し、佐々木中氏のラップバトルで幕を閉じる何かであり、腹がよじれたことは白状します。

 左派メディア的な紋切り政府批判と人文読書の短絡が、大衆においてジャンク化/ファルス化することの証左でしょうか。『夜戦と永遠』が示唆した神秘主義的/女性的享楽=「神に宛てた恋文」が、このような質料を伴って実践されている重さを、受け止めるべきでしょうか。なんにせよ、「オタク」概念を享楽するスタイルの形成においてはネット文化を相対化するべきであり、人文ホモソーシャル*23だけは作らずに一人で生き続けたいものです。

 執筆時にはBANされていますが、うごくちゃん氏の斉藤さん動画を愛好していました。 死去の後に知ったのと、動画サムネに『プリパラ』などの二次創作ロリエロ画像を多用する若い女性が自分とは全く別の存在であるのとで、言及しづらい対象ではあります。

 それでも、匿名的な男根に還元された諸主体と、挑発とまなざしに還元された主体との「二人のあいだのこの微妙な距離感」、この「接近不可能性」がひらく「無限の関係」にこそ、決して贖われることのない無為を生きる〈恋人たちの共同体〉を、見て取るべきだと思われるのです(§6)。

 もちろん、自己の射精ではなく他者の射精を崇高化したがる私のこの身振りは、まさしく傍観者=理論家が生きている無趣味=〈無情動な吐き気〉にもとづいて、中年に至ったことの「味気ない哀しみ」を、表現したものにすぎません(§5)。

 

§9 無神学のエチカ

 戦後バタイユ思想の良心的な性格は、 バタイユ研究の動画を作った際に印象付けられました。そこで見た研究動向を一息に圧縮すれば、〈父〉の世界から除名されたカフカ的主体の落伍した〈至高性〉を、〈無力への意志〉において〈幼年期〉の様相で追求する〈女性的思考〉であり、それは「現代の倫理」として表現可能なものです。

 私のバタイユ理解は、成年後の人間存在になお残存する幼児性に対する理論的肯定に動機付けられています。それは「オタク」理解に限らず、人形に対する老女の信仰すらも、学知は決して捕捉しえないことを弁えるための倫理的な要請です*24

 はっきりさせておけば、私にとっての学知に還元されえないもの、バタイユ論で言った「絶えざる過剰、永遠の残余、余白」*25にあたる経験領域とは、上に例示したような消費文化のポップネス、それに触発される人間の動物性、それらと骨絡みになった諸個体の怪物性です。

 それは破滅に至らず腐蝕だけを「加速」させる資本の論理とも言い換えられますし、その限りでボヤン・マンチェフが言う「セクシーなガジェット」*26バタイユが堕するのは当然です。しかし、むしろそうであるのが正しい、と肯定する勇気を、どうやら理論家は持たないようなのです。

 そして、良い書物の数々に恵まれたおかげでようやく、「それをするのは私の役割だ」と開き直るべきであると判断可能になった事情を、本稿は物語ったものです。

 どうしても書き言葉だと積分的に物を考えてしまうので、テキストを触発的にひらく表現は動画でやっているわけですが、やはり文章においてもバタイユ的に、言説のエコノミーから零れ落ちる「物質的なもの」を凝視したい。そうせざるを得ない衝迫だけは表現できたと思うので、くどくどしい文章は本稿で終わりにしたい、のですが。

 最後に本稿の心残りを。小泉氏が「最初の傍観者」と形容したカント的な主体性の価値と限界は最低限指摘できた気はしますが、カントに対置される「最後の貴族デカルト*27のような主体性は、不勉強ゆえ描けませんでした。崇高論/生政治論の内部に潜勢化されたバタイユ的主体性を、ストア的囚人へ横滑りさせるに留まっています。

 横田祐美子氏が示唆したバタイユを哲学的連関に折り込む思考には、「瞑想=省察«méditation»の方法」*28という表現もあり、デカルトバタイユを重ね合わせる可能性は探りたかったものの、デカルトにおける「現実的無限」概念が神学のエチカに支えられている以上*29、その差異を見定める作業から始めたいところです。が……

「我々が公共体に対してどの程度の配慮を理性が命ずるかを正確に測ることが難しいことは認めます。しかしそれは、非常に正確であることが必要な事柄ではないのです。自己の良心を満足させることで充分であり、そして自己の傾向性に多くを委ねることができるのです。というのは、神は以下のように事物の秩序を確立して人間全体を緊密な社会に結合したからです。すなわち、各人がすべてを自己に関連付けて、他人にいかなる慈愛を持たないとしても、各人が慎慮を用いるように、また特に、習俗の腐敗していない時代ならば、各人が自己の力の限り他人のために努力するように、そのように神はしたからです」。[/]

 

ここでデカルトは公共体を当てにしていない。デカルトは神を認識して神を愛する人間の絆だけを当てにしているのである。だから哲学者は公人に対して言うべきことを持ってはいないことになる。ただ公共体や公人が人間の絆を信頼できないようになっていることに唖然とするだけである。

 

小泉義之『兵士デカルト』p.174 強調引用者)

 贅言すれば、私は糞便としての神=キャラクターを認識して愛する人間の絆だけを当てにして、この歳まで生きてきました。その「統計学的」な規模には畏怖を覚えます(§2)。しかし、真に畏怖するべきはむしろ、〈怖るべき囚人〉としての私達が、すでに〈無神学のエチカ〉を生きてしまっている、という厳然たる事実ではないでしょうか。

 「公共体」への「危険な影響」といった口舌で、この信仰を裏切る愚は犯しません。ひとつの立場を貫徹することの困難を、思い知らされた十年間でした。「環境」や「生殖」において類的人間の絆があるかのように・・・・・振る舞うよりも、神の絆を自覚したほうが遥かに潔いと言うべきでしょう。

 独り言が過ぎたようですが、コギトの端緒は「独りで戦うこと」にあり*30バタイユは「私自身が戦争である」と述べていました。

 

私自身が戦争である。

 

私は人間の運動と興奮を思い描くのだが、その可能性はとどまるところを知らない。すなわち、この運動とこの興奮は戦争によってしか鎮めることはできない。

 

私は、果てしない苦悶という贈り物、切開された肉体と血という贈り物を、射精のイメージで思い描く。それに震える人間を打ちのめし、吐き気で満たされた疲労困憊に彼をゆだねる、射精のイメージで。

 

(「死を前にした歓喜の実践」『無頭人』p.231)

 

 

 

 

 

 

*1:

*2:理論面の詳細には触れることができなかったので、立木氏の議論を整理して一定の懐疑を示した上山和樹氏「自分の現実をやり直すために――立木康介の症候論 - Freezing Point」などをご参照ください。

*3:補足すれば、〈統計学超自我〉概念は〈父の名〉=大文字の〈法〉が零落した官僚主義的禁止・エヴィデンス・政治的正しさといった小文字の〈法〉に結び付けられるものです。松本卓也「〈父の名〉の後に誰が来るのか?」『Nyx 1号』p.208など。私はいずれの〈法〉も懐疑する傾向にある、ということにすぎません。

*4:私自身は統計的に不人気と見える作品を選好したり、統計的な価値を無視したりする生き方を送ってきたため、この反問をする主体としてはふさわしくない気はしますが、上のような貧しい語りを垣間見せる専門知への不信感を留保したくはありません。

*5:ミシェル・フーコー『監獄の誕生』p.294

*6:ルネ・デカルト方法序説ちくま学芸文庫版 p.47

*7:石川義正『政治的動物』p.40

*8:同上、p.24

*9:同上、p.25

*10:「しかし或る種の醜悪さにかぎっては、自然のままに表現されることができないのであって、もしもそうすればすべての直感的適意を、かくてまた芸術美を破壊するものとならざるをえない。それはすなわち、嘔吐・・を催させる醜悪さにほかならない。」カント『判断力批判』作品社版 p.286

*11:石川、同上、p.214

*12:カント、同上、p.228

*13:宮崎裕助『判断と崇高』 p.149

*14:宮崎、同上、p.253

*15:乗松享平「ポストモダン右翼は哲学の夢をみるか? アレクサンドル・ドゥーギンの理論と実践」『現代思想 2021年6月号』p.89

*16:石岡良治「「日本のポストモダニティ」およびその比喩形象としての『AKIRA』」同上 p.143-154

*17:崇高化によって当事者の語りをかえって平板化する限りで、生中な生政治論にも生命倫理にも関心を失っており、なおさら大衆が読む価値は見出せないことを付言しておきます。余談ながら立木氏は、ラカンと並んでアガンベンに魅了されています。

*18:ナンセンスの美的政治効果の分析は、江永泉氏「On Co-me Da U?(この7月にコウメ太夫のツイートを見なおして改めて驚いたのでしたためた長文。色々脱線を含む)」に感銘を受けました。

*19:バタイユ実存主義から経済の優位性へ」『著作集 第14巻 戦争/政治/実存 社会科学論集1』

*20:石川学「無とその力 : ジャン=ポール・サルトル「新しい神秘家」(1943年)以後のジョルジュ・バタイユ」2015-10

*21:バタイユ、同上、p.270

*22:全然追っていないので、ans_combe氏「★「VTuberという演劇のために(仮)」:夢月ロアの表現方法について」などが参考になりました。

*23:リンク先の方が主宰されている「人民を宮崎勤にしないために宮崎勤的な主体を志向する」つとむ会の実践に関して、その理念には賛意を表します。しかし、宇野常寛氏がオタク批判の舌の根も乾かぬうちにアイドル礼賛に転んだことで、セクシュアリティの次元においてゼロ年代サブカル批評が「オタク」の信頼を根本的に失った歴史すら、すでに共有できなくなっていることには驚きます。2010年代を席巻したアイドル論の「推し」的イデオロギー効果を整理したうえで、宇野的-精神分析的なオタク解釈/オタク憎悪を潔く放棄し、ニーチェと共にポルノグラフィという黄金を飲み下し続ける勇気を表明した宮﨑悠暢氏「復讐、永遠回帰:「アイドルでシコる」ことについてのベルサーニ/ニーチェ解釈」は、遥か彼方まで歩みを進めています。

*24:「魂や心や生命をフルに有するのは人間、それも成年の人間であるとする観念、その人間中心主義を信じることができない。というのも、成年自身の生に「退行」や「移行対象」は形を変えて必ず伴っていると見ることが真の人間学的洞察であるからというだけではなく、少なくとも、あの老女にとって、ぬいぐるみ人形はそれ自体として魂を宿し心を有し生きているものであることは、私には疑いようがないからである。実際、「魂」や「心」や「生命」なる言葉を使うとき、そのように使用せずにどう使用するというのであろうか。」小泉義之「老女と人形」『闘争と統治 小泉義之政治論集成II』p.112

*25:横田祐美子『脱ぎ去りの思考』p.110

*26:ボヤン・マンチェフ『世界の他化』p.21

*27:小泉義之『兵士デカルト』p.10

*28:横田、同上、p.29

*29:小泉、同上、p.235-236

*30:小泉、同上、p.1

『小泉義之政治論集成』メモ

 小泉義之氏の論集を読んだので、大きく分けて五つの論点を引きながら、素朴にして反動的な感想を記します。

§1 性差別論について

 

 膨大な論点が凝縮された小泉氏の諸論考を迂闊に要約する愚は避けたいものの、「性差別についての考え方」(初出:『人権を考える』随想舎、1997年)に関しては、ネット人民として同胞にぜひ紹介したく思われます。

 性差別について男性が論ずる際には、守るべき責務があると思う。第一に、自己批判や自己吟味抜きでは論じないということであり、第二に、議論は性差別の実践的解決を目的とするということである。(p.174  以下、強調はすべて引用者。)

  この簡潔な当為を私が必要とする理由を、極めて粗雑な情勢認識として言い換えます。

 第一に、自己批判や自己吟味が足りていない男性の論者の性差別論が大いに懐疑されていること。第二に、性差別の実践的解決を目的としない議論が大いに空回りしているということです。

 ところで、この情勢認識の立脚点としての私自身を省みるに、当ブログは、具体的な性差別事象の実践的解決を目的としない趣味の自己批判と自己吟味を行ってきました。

 その過程をあくまでも性差別論のバリエーションとして見た場合、良心の疚しさに重心を置く自己批判の半端さにおいて第一の情勢に内在しており、議論の観念性において第二の情勢にも内在している、と言えます。

 つまり、当ブログは趣味としての自己省察の領分を確保するべく、巷間に広がった性差別論の構えを否認するあまり、かえって社会的な論争の観念的で空回りした性格を、そっくり割れた鏡として受け継いでしまった、と思われるのです。

 以上を踏まえて、私の立場を再整理します。当ブログは、性差別を論じていないこと、今後も論じるつもりはないこと、しかし、性差別問題の思想的核心(後述)を引き継いだ記述を企図している、ということです。
 

 以下に続く引用は長いので、以上の論点を補足しかつ展開し、なぜ大多数の人間があえて性差別問題を論じる必要がないのか、を整理した議論と私が読んだことのみ、先回りでまとめておきます。

 かりに男性の総体が女性の総体を不当に差別しているのだとしよう。 そのとき、男性の一員が為しうること為すべきことは二つしかない。一つは、差別する側に属している自己の思想や行動についての自己批判である。一つは、自己が男性総体から区別される存在者であることを、自らの思想と行動によって示すことである[…]。


[…]そこにおいて女性を救済・保護・援助するなどということは、およそ男性である限りでの男性の為すべきことではない。それは女性たちの闘争の課題であるし、その支援者たちの課題であるからだ。


[…]一般に、差別事象が具体的な被害や不幸をもたらしているとすれば、あるいはむしろ、具体的な被害や不幸をもたらしていることだけが差別事象なのであるからには、差別する側がそのことを中性的中立的に論じようとすること自体が不当である。


[…]こんな自明なことが、性差別事象をめぐっては実にたやすく忘れられてしまう。(p.184-5)


 これに続けて小泉氏は、しかし自己批判的な男性論である小浜逸郎『男はどこにいるのか』が、男性の性衝動の発動を「朝シャンと枝毛のケアを入念に施した長い美しい黒髪をなびかせてボディコン・スーツに身を包んだセクシーな若い女が前を歩いていくのが目につく……」云々と語り出す一節を引いて、「彼自身の性的体験やエロス的関係にしてもおそらくそのようなことではなかったはずなのに、性差を論ずる文脈でそれを記述しようとすると途端にポルノ的で俗物的になってしまう」ことを指摘します。

 それは「フロイトのようにであれ、金塚貞文のようにであれ、解釈次第でどうにでも記述できるのである。[…]書き言葉が体験を描写しきるには限度があるという問題ではなく、書き言葉が体験を捏造しているという問題である。[…]そしてそもそも、男性一般について論ずる一般論が、どうして差別や暴力の顕現を批判する上で有効な言説たりうるのかがまったく不明であ」ることを、問題点に挙げています。

問題の思想的核心は、男性が自分の性的欲望をよく知りよく記述するにはどうすべきかというところに置かれるべきである。問題は、男性のいかがわしさを容認するか否かなどというところにはない。いかがわしさは、男性を堕落させることもあるし、男性を救済することもある。そのような細々とした現実に問題があるのではない。そうではなくて、いかがわしさについて語るときのいかがわしい妄想に問題があるのだ。(p.189)

 私もまた自らの思想的核心と心得ている、(男性一般ではない)男性各人の欲動の解釈と記述*1が、あまりにも不徹底であると認められる限りで、「ポルノ批判の言説を言論において批判する資格は、まだ男性にはないのだと思う」とする小泉氏の判断は、今なお妥当です。

 しかし、そうした情勢認識に小泉氏とは異なって、倫理的な疚しさを持ち込む(私を含めた)論者の多きゆえ、例えば「ポルノに堕落したり救済されたりしている細々とした現実」そのものが無益にも問題化され続けた結果、議論は混乱の一途を辿って道徳的分断を帰結させたことも、社会的に自明と言わせてください。

 

§2 行為タイプと行為トークンについて

 それでは、「差別の問題にかぎらず、社会問題や政治問題はいつも一般論として語られる」ために「一体誰のことについて語っているのか、一体誰が誰を傷つけたことを問題にしているのかが見当がつかなくなり、そのうちには、問題を論ずること自体が自己目的化しているように見えてくる」(p.191-2)この苛立たしい事態に、どう対処すればよいのでしょうか。

 小泉氏は「実体を最高類において[…]最低種に個体をお」く、アリストテレス以来の「類種の分類体系の中で個体についての的確な語り方を成立させることは不可能である」(p.194-6)という理論的根拠を確認したうえで、一般論の蓄積にも個人の語りにも還元できない「単独者」の場所を確保するための語り方として、通常の行為理論が取り上げる一般的抽象的な行為の型としての「行為タイプ」とは区別される、単独的具体的な出来事としての「行為トークン」の概念を提示しています。

「ミルクを子どもに与える」とだけ書くのであれば、それは行為タイプを表示するが、たとえば「(一九八五年一月六日に宇都宮市某所でaがbに)ミルクを与える」と書けば、それは行為トークンを指し示している。[…]aは何千回となくbにミルクを与えてきた。[…]ミルクを与えるという幾千回もの出来事たちは、さまざまな様相の違いによって彩られている。[…]その都度、よいと思ったり、わるいと思ったり、疑念を感じたり、何も考えなかったりしたわけだが、そんな思考や感情のさまざまな様相の違いによって出来事たちは彩られている。そしてそのとき、aやbという個体も、さまざまな様相の違いによって彩られた単独者へと変成する。(p.198)


 では、男性が女性をまなざす行為は姦淫に等しいという判断は、このような出来事たちと、どのように関連しているのであろうか。その判断は、男性が女性をまなざすという行為タイプが、姦淫するという行為タイプの一種であるとしている判断であるから、それは、微視的微分的出来事たちを総括的に積分してくだされている判断なのではない。そうであるかのように判断は装われるものだが、実はそうではなくて、行為タイプをめぐる判断を、出来事たちに適用しようとしている判断なのである。姦淫が何千回何万回と生じていると判断しているのではなく、姦淫という行為タイプを何千回何万回と適用することが可能だと判断しているのである。だから、男性が女性をまなざすことは姦淫であるという告発は、微視的で微分的な出来事たちを告発しているのではなく、それらの中にはタイプに適合するサンプルがあると告発しているのである。[…]微視的で微分的な権力が積分されて粗視的権力が成立するのではない。[…]粗視的権力を解体しようとする志に発して、粗視的権力の一例を微視的で微分的な権力の内からピックアップしているのである。別の形で言い直す。男性が女性をまなざすことによって生ずると語られている〈被害〉は、不満がたまると語られるような被害の考察は別にして、何千回何万回とaが女性たちをまなざすことで生じた被害の総計なのではない。そんな総計としての被害をこうむる者は、どこにも存在しないからである。(p.200)


 だから、先の〈被害〉とは、aがまなざすことによって引き起こす情動に制約をかけるための統制的理念であると考えるべきである。要するに、男性が女性をまなざすことは姦淫であると語られる際の行為概念は、まさに刑法的な概念であるし、それでかまわないし、そうであるのが正しいのである。性差別的行為批判は、本質的に刑法的であって、その意味では、行為トークンの批判ではないし、その批判を目指してもいないし目指す必要もない。これに対して、aが制約を越えた不快な情動をbに引き起こすとしたら、その場で反撃の行為トークンを繰り出せば済むし、済むようにならなければならない。かくて、フーコー流の微視的権力論は思想的にも実践的にも過っていると結論しておきたい。[…]書き言葉による批判は、いつでも刑法的だと割り切ったほうがよい。(p.201)


 以上を踏まえて、私の性差別論に対する態度を明確にします。

 第一に、書物やSNSで刑法的に(行為タイプの次元で)なされるポルノ批判/反批判は、実のところ現実に生きられている性的体験の出来事性を問題とはしていない(し、すべきではないし、管見ではできていない)以上、その実践は運動家に任せ、生身の生の情動を差別談義に持ち込まないことです*2

 第二に、そもそも異性愛の快楽は差別的でしかありえない以上*3、差別論という構えを潔く放棄して、現代のポルノ体験に生きられる凡庸な幸福の意味と価値を、その出来事性において(行為トークンの次元で)すくい上げることです。

もちろん、現実の出来事たちは豊かどころではなく、ひどく貧しいかもしれない。しかし、いかに貧しくとも、いかにかすかでも、欲望は欲望であり、快楽は快楽であり、出会いは出会いなのである。このような世界を信じないで、一体何を信仰せよと言うのか。(p.202)

 それを通じて、いかがわしい妄想で記述しがちな欲動の解釈を消尽すること。そしてあわよくば、どこまでも自明に良きものと感受されてしまう異性愛の恐ろしさに対する、批判と臨床を一致させることを、当ブログは夢想しています。

 とはいえ、このような私の言語使用が、「個人-政治」の対立項(=同一項)から区別されるべき「単独者」の言説になるとは思っていません。「異質なのは、単独的な出来事たちだけであ」り、「ある時ある場所で実現した出来事を、一女性[一男性]の体験として把握することが、すでに政治的」(p.201)だからです。頽落した形になるでしょう。ただ、他にやる向きが少ない以上、どうでもよくポルノに救済されている細々とした現実について、落ち着いて読み書きしうる寛容の土壌だけは、耕しておきたいのです。

 ついでに、「現実の性的体験をポルノ的に解釈・記述してしまう」という性差別論における男性の桎梏が、私においては記述されるべき性的体験が実際にポルノだけであるという問題に横滑りしていることも、強調しておきます。この点で、私は最初から性に関する様々な議論からのズレ、いわば包摂的排除を食らっている不安が拭えず、出来事ではなく発話主体としての記述を優先し続けてしまっています。

 

 以上のおしゃべりは、括弧付きの「政治」的言語とは区別されるべき、共通善としての政治を準備しうるような、相対的に言われる「文学」的言語を酷使していく方針を、前回に続いて確認したものにすぎません*4

 ただ、異性愛者として存在すること自体の罪悪に苦しんだ過去がなければ、加えて、異性愛批判が多数派の内的抗争に頽落した現在時に躓くことがなければ、小泉氏の言説をこうまで必要とはしませんでしたし、それに出会うことなく自死を選んでいた可能性もあるゆえ、次の世代に伝えるべき議論と判断されました。

 そして、小泉氏を読んだ上でなお、アセクシュアルにも価値創造的な変態にも振り切れないまま、おめおめと年を重ねている人間としての疚しさについても、一応付言させてください。

 少数派が声を上げるとき、多数派は告発されていると受け止めるのが常であった。[…]


 性的少数派についても、同じようなことが起こっていた。異性愛者は告発され糾弾されていると受け止めるのが常であったし、異性愛者は、差別者や抑圧者であることを自己批判するだけでは足りず、そもそも異性愛者として存在すること、まさに異性愛者であることそのことに何らかの罪があると思われていた。[…]


 もとより、このように考え詰めた者は、ごく僅かであった。僅かではあったが、その否定性は強烈であり、その強度によってそれなりの影響を及ぼしていた。ところが、いつの間にか、詰まって疲れたのだろうが、多数派の罪科の意識は、抑圧者意識や加害者意識が亢進して疚しき良心が過剰になった状態にすぎないと見なされるようになった。しかも、再分配や承認でもって正しい社会に向かって歩んでいる限り、病理的な意識のことなど顧みなくてもよいと見なされるようになった。いつの間にか、多数派は、良心的であるにしても決して疚しくはならずに済ませられるようになり、臆することなく共生を語れるようになった。そのうち、異性愛を否定する声も小さくなり、異性愛者は自信を取り戻したのである。(p.141-142 「類としての人間の生殖」)

 

§3 文化政治について

 

 以上の議論を紹介した動機を、前回までに挙げた具体的な状況から補足すれば、大略、そもそも異性愛者としての自己を問う姿勢すらなく、オタク=萌えミリ=ネトウヨ図式をもって粗雑なオタクヘイト/大衆批判を垂れ流す「批判的知識人」気取り共が格別に不愉快で、もはや連中には手の施しようもなく、最末端のイデオローグが視界の端をチョロチョロしてウザいので縁を切り、東浩紀氏いわくの「Jリベラル」概念でも拝借して軽蔑する以外にない、という私の根深いルサンチマンがあります*5

 さすがにこの論点も片付けておきたいので、論考「競技場に闘技が入場するとき」(初出:『反東京オリンピック宣言』航思社、2016年)から、文化政治と民衆の非政治性に関する議論を紹介させてください。

 

 小泉氏は、東京五輪と瀬戸内国際芸術祭を具体例に、スポーツイベントとアートイベントを文化産業として等価と見なし、さらに各種アートプロジェクトと大学の各種学術集会も文化経済的に等しくなった状況を見て、「東京オリンピックの中止を求めるなら、同じ訳合いでもって、大学の国際学術交流の中止を求めるべき」(p.91)とします。

[…]メガイベントに関しては注意すべき点がある。すなわち、アートであれスポーツであれ学術であれ、イベントは特定の場所で行われているということである。それは、廃鉱、離れ島、過疎地、博物館、美術館、湾岸地区、競技場、大学キャンパス、企業研究施設など、「特区」で行われている。したがって、アート・スポーツ・学術のイベントに対する態度は、特区に対していかなる態度をとるのかという問いに置き換えてみることができる。[…]そのとき、国民・市民は二つの部分に分かたれる。すなわち、特区に入ることのできる(入りたがる)人間と、特区に入ることのできない(入りたがらない)人間の二つにである。そのとき問われるのは、どちらの人間の立場に立つのかということである。(p.92)

 ここでいう前者、つまりリチャード・フロリダ言うところの創造階級やエリート層が自由・平等・友愛を謳歌する「特区」へと参入するべく、「展覧会入場のために数時間もおとなしく整列する文化系の中流市民と、競技場入場のために数時間も応援で騒ぎ立てる体育会系の中流市民は、その立ち居振る舞いに文化的な違いはあるにはあるが、いまや瓜二つになっていると見るべきではないであろうか」(p.94)。

 つまり、私のような後者の人間にとっては、体育会系であれ学術系であれ、メガイベントにまつわる文化政治的議論など一切無関係なので、放っておいてよろしい。この基本を確認したうえでなお、「パンとサーカス」がもたらすと想像されている「民衆の非政治性」の意義を捉え直すべく、小泉氏はポール・ヴェーヌ『パンと競技場』を引いています。

 

§4 民衆の非政治性について

  「ローマ人は昔、 高官や執政官や軍団の配分をしていて、もっと質素だったが、いまではただ二つのこと、パンと《競技場》のことしか熱望しなくなった」。ユウェナリスはこの有名な詩句において、ローマがかつてその市民によって統治されたはずの都市国家だったが、いまでは君主国の首都にすぎないことを嘆いている。この詩は別の意味で、いや二つの意味で諺のように言いはやされた――ローマでは、支配階級の権力と引替えに、または所有者階級の特権と引替えにパンと競技場が提供された、それは漠然とした非政治化意識である、と。

 

 ユウェナリスのような右派的見解においては、物質的満足によって民衆は自由を忘れた卑しい唯物論に陥る。左派の見解では、適度な満足や虚妄の満足によって大衆は不平等に対する闘いから逸らされる。いずれの場合も、権力や所有者階級はマキャヴェッリ的策略によって民衆に満足を提供すると想像されているのである。(ヴェーヌ p.90)

[…]このような見解に従うなら、「パンと競技場」に反対するとき、右派としては「自由」のために、左派としては「平等」のために、[…]それぞれの「規範的判断」に従って、俗衆の脱政治化、イベントの脱政治化に抗して、政治化・啓発を目指すということになろう。そして、[…]そのような右派と左派からの批判も取り込む形で、イベントは興行されている。

 

 しかし、[…]ヴェーヌによるなら、その類の文化政治は、人間は誰しも情熱的に自由に政治に関与するとか、人間は誰しも平等を原則として不平等を認めないと想定しているが、そもそも、それらの想定は「不幸にして間違っている」のである。文化までも政治化したがる欲望がどうかしているのである。もっと言うなら、文化によって民衆が脱政治化されると政治的に解釈してみせるそのエリート的な小賢しさこそが、民衆を馬鹿にしているのである。[…]競技場があろうがなかろうが、民衆は自由と平等のために闘うときは闘うし、闘わないときは闘わないのである。競技場は、民衆の潜在的な闘争を妨害するわけでも促進するわけでもない。(小泉 p.96−97)

プロレタリアは、恋愛雑誌を読ませられるからといって脱政治化されるわけではない。そのような雑誌が存在しないからといって、女性読者が退屈のあまり闘うようになるわけではない。女性読者は、雑誌を読み、かつ闘うであろう。(ヴェーヌ p.91)

[…]もちろん民衆は大抵の場合に非政治的であるが、その非政治的な受動性は、政権が分配するものと交換に差し出されているものではない。もちろん民衆は大抵の場合に体制に服従しているが、その服従は何らかの恩恵や統治と交換に差し出されているものではない。要するに、政府と民衆のあいだには、いかなる取引関係も交換関係も契約関係も存在していない。「国家と市民の相互性はない。民衆のために大砲を選ぶかバターを選ぶのは、政府である。被統治者はそれに順応する。広い範囲で順応する」。そして、服従」できなければ、「反抗」するだけのことである。それこそが、民衆の「非政治性(apolitisme)」である。

 

 パンか競技場かという選択問題、バターか大砲かという選択問題、どちらか一つを選ぶか、双方を両立させる道を探して選ぶか、その類の問題はすべて、民衆が行うことではなく、政府が行うべきことである。民衆は、その類の問題の設定と解答の提出をすべて、政府に委ねている。政府とエリート層に委ねている。それが民衆の非政治性であるが、それは「政治経済的」にはまったく正しい態度なのである。そもそもパンか競技場か、バターか大砲かという二択が問題となるということ自体が、政治経済の現状から不可避的に起こってくることであり、そのような問題化に対して責任を負うべきなのは、どう考えても体制側である。現体制がそうであるがために発生する類の選択問題に対して解答の責任を負うべきなのは、どう考えても体制側である。それらは民衆が引き受けるべき事柄ではない。したがって、メガイベントに絞って言うなら、民衆が関心を抱くのは、それが娯楽になるかどうかということだけである。民衆にとっては、面白いかどうかということだけが大事である。それだけを判断の基準としてよいし、むしろそうするべきである。(p.98−99)

 

 現在の東京五輪に関しては、別の膨大な(主には公衆衛生上の)問題点の噴出によって、正しく非政治的である単なる「反抗」の兆しが多々見受けられる、と言ってよいでしょうか。私はスポーツを面白いと思ったことがない民衆ですから、一切言及しませんが、上述の限りで黙して情況を支持します。

 また、メガイベントではなく侘しい消費文化にかまける「特区に入ることのできない(入りたがらない)人間」の文化政治については、もちろん別の考察が必要です。それでも、その立場に一貫して立ってきた人間として、基本的な構図は同断であると言わせていただきます*6

 私自身は、アニメやマンガやアイドルを題材に「政治」を語られても、それ自体で不快にはなりません。ただ、今回だけは言ってしまうと、あまりにも理論水準が低すぎるために、何らの「批判」も「啓蒙」も成立しておらず、民衆を馬鹿にしていると見るしかない、統治的な論者(後述)が九割です。

 よって、その方向にはほとんど期待していませんし、見切りを付けた民衆が多いゆえに、政治の話をしない「Twittter2」などの冗談が、切実に流通してきたのではないでしょうか*7

 

§5 統治の言説について

 私は、こう考えてきた。罪の意識を感ずるべきなのは、誰よりも政府や企業に勤める人間たちである。ところが、知識人がその罪の意識をも商品として売りに出すのは、精神労働が肉体労働よりも高級であるかのようにして、おのれを特権化している所作にすぎない。もちろん、三島の指摘するように、とくに左翼知識人に見られる「良心」の慰め方は唾棄すべきものである。そうであればこそ、文学と政治は別物であると見切って文学を「純粋」に追求するか、政治行為には非-文学者たる一人として参画すればよいだけのことである。(p.157 「死骸さえあれば、蛆虫には事欠かない」)

 この引用は、「そう思うことで私は「安心」してきたが、しかし、いまになって振り返れば、当時[1970年前後]の時代精神があったにせよ、知識人が大なり小なりおのれの職に罪責感を抱いていたことにはやはり心動かされるものがある」と続きます。私が老いた時、このような感慨を果たして抱くことができるのか……というのは、無駄口ですが。

 ここで想起されるような左派言説の批判的検討がまとまった、論集2巻の後半部「II-2 統治/福祉」こそ、最も目を瞠るパートでしたが、下手な脈絡を塗ったクソ要約は、ここで打ち止めにします。

 よって、私のような主体が抵抗するべき統治の趨勢だけを、乱暴にまとめさせてください。つまり、「格差社会における非正規雇用者、福祉社会において生活保護や年金給付の主要な対象である重度精神障害者とは区別される有能でも無能でもない者、制度の狭間に陥りがちで特段の再分配にもセーフティネットにも与ることを期待できない低所得者層が、軽度の発達障害、軽度の精神障害という新規の医療的・教育的・心理的・労働的・行政的・福祉的カテゴリーでもって表象され代表され把捉されるようになってきた」(p.194)近年の動向について、です。

 今後詳述していくつもりですが、私自身は、フィリップ・ピネルの精神医学を踏まえて言った「狂気における自発的な内的革命」という、現代の病者には免除/封印されたクリティカルな経験(p.239)を通過することで、精神科にも福祉事務所にも一度も世話になることなく、つまり統治の言説に捕捉されることなく、この歳まで他者に名指されず自己解釈のみで生きることができた、極めて幸運な人間です。

 それでもあえて名指すならば、ロベール・カステル『社会問題の変容』が指摘する「近年になって問題化されている「排除された人びと」」であり、「二〇〇万人から三〇〇万人の身体的精神的な障碍者、一〇〇万人以上の高齢廃疾者、三〇〇万人から四〇〇万人の「社会不適合者」といったところ」の二級市民に当たります(p.203-4)。

 この相当数の二級市民に対して、フランスでも日本でも先進諸国では、「参入支援」や「社会援助」が企画され実行されている。ところが、カステルも冷徹に指摘するように、参入を支援され社会的自立を援助されたところで「雇用が保証されるわけではない」。通例の自立も保証されるわけではない。リソースが足りないから、というだけではなく、そもそもそんな保証をすることなど出来ない相談なのに、再分配やセーフティネットといった掛け声でもって保証できるかのように一級市民を動員しているだけであるからである。(p.204 「包摂による統治」)

 これに関連して、非大卒者でありながら人文・社会系の書物に縋って生きている者として、肝に銘じたい論考があります。それは、デモや暴動が起こらない日本の政治文化を嘆いてみせる「批判的」大学人に対して、国家の統治と治安を担っている主要機関とは大学であり、それは大学に人文・社会系の部門があるからに他ならないことを強調する、「統治と治安の完成」です(初出:『批評研究』論創社、1号、2013年)。

例示しよう。仮に路上生活者が集団的に占拠や暴動に立ち上がるのが良いことであるなら、悪いのは、それを予防し抑止するものである。では、その主要な機関は何か。路上生活者に対して授業の一環として支援ツァーを行ない、卒業生の一部を低賃金労働者として支援者に仕立て上げながら、路上生活者を夜回りして監視し、そのニーズに基づきケアを行なっては畳に上げて孤立化させ、その個別化され心理化されたニーズに応じて福祉事務所や医療施設や臨床心理施設に送致して専門家の手に委ねてしまうようなそのような人材を供給しながら、そうした統治と治安を学問的に肯定し修辞的に粉飾し続ける大学の人文・社会系である。(p.221)

 

まさか誤解はないと思うが、路上生活者支援、障害者自立支援、被災者支援は、悪いことではないし、立派なことですらある。その上で、まさにそのことが潜在的暴力性を治めているという事実を、その最大の機関が大学であるという事実を指摘しているのだ。そして、おのれがその一翼を担っている統治と治安の機能も自覚せずして、「批判的」であることなどできるはずがないと指摘しているのだ。(p.222)

 

いまでは、当事者研究やアクションリサーチの普及にともない、[都市部の中産市民階級]「以外の人々」自身が大学の言説を駆使し出している。そして、さしたる被害を持たない「以外の人々」は、[…]その苦悩を社会的に承認してもらえない「以外の人々」は、その語りを大学人によって「抗い」とか「抵抗」とか呼んでもらうことでその差異要求や承認欲求を満たされながら、同時に、国家からの再分配を得るために平等主義的リベラリズムのビジョンに従うままに、何としてでも障害者年金受給資格者として国家によって承認されたがるまでになっている。こんな仕方で、九〇年代から〇〇年代にかけて「以外の人々」の統治と治安は完成したのであり、それを行ってきたのは大学の人文・社会系に他ならない。(p.225)

 

あえて露骨に言うが、「メンタルヘルス」を問題化されてクライアントとなるような人々に潜在的暴力性があると私は必ずしも思ってはいない。[…]そのような人々に対して、福祉や介護や教育や相談やケアの与え手となっていくような人々こそが、決してそうは見えないだろうが、[…]実は潜在的暴力性を抱えており、潜在的に危険な階級なのであると私は捉えている。大学の人文・社会系が「日本型システム」*8の担い手たる中産市民階級として送り出している教養中間層のうち、アンダークラス化した層、ないしその予備軍にあたる層[…]をしておのれを統治する主体に仕立て上げ、さらに「以外の人々」を統治させる主体に仕立て上げることによって、[大学は]その統治と治安の機能を果たしているのである。(p.229-230)

 

 かくも統治と治安は完成している。これ以上それを拡大したところで、これ以上それを深化させたところで、大して得るものはないほどに完成している。そして、これからは腐朽が始まる。(p.231)

 

 私は統治の手先になるつもりはありません。また、賢しらな政治思想や軽度障害カテゴリーでアンダークラスをガス抜き/訓育/包摂する手法も「早晩、それがどのような形で実現するかはわからないが、その戦術は底が割れるはずである」(p.203)。

 そして、すでに私達は底が割れた現実を生きてしまっており、その汚辱に塗れた人間のリアリティに内在することでしか、国家の統治に対する「抵抗」も「批判」も成立しません。前回触れた「反リベラル」的な諸動向も、このような分析から慎重に捉え直したうえで、やっていきたく思われます。

状況がこうであるので、こう言っておきたい。書物や映像で陰気に報告される暗い話を、そのまま明るい話として読み替えてしまうことだ。絶望の只中にこそ希望があるなどといったことを言いたいのではない。暗いと見なされている事情こそが、現状を変える力を含んでいるということなのである。「シジフォス」の労働など「軽度」に笑い飛ばしてしまう者たちこそ、革命的楽観主義を培ってくれたプロレタリアートであったし、これからもきっとそうであるに違いないのだから。(p.207)

 

 

 私のような頭の悪さゆえ大学人の言説に統治されきらなかった人間は、福祉社会の諸制度の隙間に散乱した、二級市民ならぬ名付け得ない「隙間の不埒な人間」(p.270)に含まれるゆえ、その生を肯定しうる実践に集中したい次第です。

 そして、前半部で性差別論を受けた思想的核心と見ておいた「欲動の解釈」と接続すれば、私はこの「隙間の人間」をクロソウスキーニーチェと悪循環』と、そこに語られる「余剰の人間」と重ね見るところがあり、もって「オタク」的な存在者を含む存在論的な肯定の表現としてみたく思われますが、これは単なる思いつきです*9

 

 どれだけ状況が悪かろうが、他者を侮った言辞を弄する必要も、民衆が人を舐めた「政治性」に巻き込まれる必要も一切ないこと。一見して「批判的」な人文・社会系エリートの一級市民言説こそが、内面まで統治され尽くしている現実をせめて自覚してほしい、ということ。小泉氏に託けて私の主張したいことはこれだけで、まったく反動的ではあります。

 現体制に服従するも反抗するも関係なく、どれだけ勉強しても統治しきれないものだけが真に重要であって、私が本当に書くべきはこのような誰にでもない説教ではなく、アニメとオナニーの話であることは自明です。アニメとオナニーに統治の思考を持ち込むな、と念を押しただけです。手間取りましたが、今後はそちらに集中します。

*1:前々回から言及した原稿の要諦に当たります。掲載媒体に目処は立ったものの、発表は先になることをご報告いたします。重ね重ね申し訳ありません。

*2:もちろん、他の論考も踏まえれば、取るべき態度を検討する余地はいくらでもあります。生殖未来主義を取り扱った論考の他でいえば、異性愛批判の言説布置が1970年代のアルチュセールをはじめとする再生産論とイデオロギー装置論から、1990年代に至ってフーコー流の規律訓練権力論-主体論へと移行する過程に捩れを見て、「その変化が進歩であったのか退歩であったのか、私にはいまだに判断がついていない」とする論考「異性愛批判の行方 支配服従問題の消失と再興」(p.228~)も不穏でした。さしあたり、家族という再生産装置を無謬化する現在の異性愛批判に対し、ポルノに殉じて孤独死するつもりの私のような「オタク」的大衆は、堂々と自己の孤独と死の欲動クィア性として誇りに転じた上で、闘争するか無視するかを選べばよいと考えています。

*3:「これは『生殖の哲学』でも書いたことですが、多くの場合、軋轢や差別は根本的には美的意識、つまりは感性による部分が大きいと僕は考えています。[…]人間の好き嫌いの感情や美醜の判定自体が、すでに優生的なんです。[…]僕からすれば「いや、そもそも恋愛したり結婚したりした時点で優生的な営みに乗っかってるでしょ」と思うわけです。[…]「道徳的・政治的にヘイトや差別はいけません」と繰り返すくらいなら、もっと外国人や障害者と接する機会を増やすべきだし、目に見える形で物事を進めていった方がよっぽどいいですね。」『アレ Vol.4』「小泉義之インタビュー 「生命」と「生殖」の現在」より

*4:先に引用した小泉氏のインタビューに照らして、逆に私の立場の危うさも明確にしておけば、生殖技術や高度化したポルノグラフィによって宙に浮いたセクシュアリティを、ある種のエロス化によって守ろうとする側面が、私の身振りには多分に含まれています。これは精神分析の知に分節されることでプチブル化した主体性とも自覚されており(「フーコー精神分析批判 『性の歴史 I』に即して」p.272~)、この点はマジョリティの倒錯の一例として、分析の素材に供しておきます。

*5:すでにその界隈を一切観測していないので、ここは私の偏見を垂れ流したものに過ぎません。怨恨を抑えて明確にすれば、そもそも人民を信頼しないで左翼ができるわけねえだろ、という原理原則を私は争点にしています。近代的知識人が認識主体として信を置かれない現在時、ドゥルーズの「霊性」、フーコーの「政治的霊性」という主題を取り出した小泉氏の作業は、この点でも切実に私が必要としたものです。小泉義之「戦いから祈りへ、観想から霊性へ」など参照

*6:コミックマーケットなどの即売会の存在をもって、「オタク」という実体的カテゴリーを特区側に位置づける下らない立論も可能でしょうが、この概念が何らかの階級を表現しうる内実をほとんど失っている以上、単に議論を混乱させた挙げ句、小泉氏の整理の妥当性を確認する結果に終わると思われます。

*7:そうしたネットコミュニティの脱/非政治的な実践の評価は、今後の課題としか言えない筈です。少なくとも、小泉氏の鷹揚さを借りるのであれば、さしあたっては「マイノリティの救いになっているならば放っておくべき」と判断するべきです。その程度の寛容すら民衆に残さない「政治性」を、本稿は(自己)批判しています。

*8:「[高原基彰の言う]「日本型システム」とは、「自民党型分配システム」(私なら、平等主義的リベラリズムの再分配システム、社会民主主義的な承認と再分配の政治と言いかえる)、「日本的経営」(私なら、国家独占資本主義、あるいはむしろ、中産市民階級の家族を主体とする国家資本主義、あるいは単に先進国資本主義と言いかえる)、「日本型福祉社会」(私なら、日本型という限定は無用であって、福祉国家、福祉社会とあくまで連言して言いかえる)、これら三つのものが噛み合わさったシステムのことである。」(p.222-223)

*9:念のため、小泉氏は先のインタビューによると「バタイユはクソ真面目だからあまり好きじゃない」とのことで、そのへんもごった煮に生煮えなことを書いた部分は、私の駄弁にすぎません。

雑記:政治と文学の峻別について

 前回の記事を書いてから神経症的な苛立ちが続いて生活が辛く、新しい記事も二度三度書き直して反故にしたゆえ、今回は雑記のかたちで、弛緩した態度表明のみ済ませます。ご寛恕を請います。

 前回の記事は、かつて趣味の共同性において友情を感じていた知人が、「リベラル」と他称されるタイプの高圧的なTwitter人格を選択したことに関する、悲しみと怒りの情動を表明したものと要約できます。

 この実践は、知人の「リベラル」っぽい居丈高な他罰性を、「オタク」的な来歴に遡って解釈することで、「リベラル対オタク」という政治的(とされている)対立項を、「リベラルでもオタクでもある人間存在」という、いわば実存論的な問いへ横滑りさせるところに、第一の企図がありました。

 それはひとえに、人間存在の諸部分に過ぎない社会的属性や、醜悪に見える特定の様態のみをあげつらい、「リベラル」「オタク」「いじめ被害者」等々の概念を当てはめて、敵対性を構築するSNS政治と付き合うのに疲れ果てているためです。

 しかし、私のこの構えは、床屋政談のノリでネット上の他者を気軽に叩く知人を軽蔑するあまり、かえって既存の対立軸をなぞるアイデンティティ・ポリティクスに後退してしまったよう、我ながら思われます。

 それを証明するかのように、私の記事に対する知人からの反応は無く、某オタク叩きアニメアイコン学者をリツイートするのに忙しいようです。

 心底恥ずかしい連中だな、自分のペニスにすら向き合えない馬鹿が不特定多数の他者の性的欲望を批判できるとか勘違いしてんじゃねえよ、という本音をごまかすつもりは、すでにありません。

 ただ、Twitter上の身振りで他者の人格を評価できてしまえるかのような、我々ネット生活者の幻想自体が愚かしいわけで、これ以上は口を慎みます。

 というのも、生身の個人の生を無視した理性偏重の議論で鬱陶しがられる一部アカデミアの隠れ差別主義、といった論難が、例えば倉持麟太郎『リベラルの敵はリベラルにあり』などの近刊において、内在的批判として洗練されている状況を踏まえれば、私のような雑魚が適当ぶっこいても詮無いためです。

 よって本稿では、「リベラル的でもオタク的でもある人間存在」という、前回は知人に差し向けた問いを私自身に向け直すことで、政治という範疇の領分を弁える思考について、乱雑なまま開陳しておきます。

 

 §1

 当ブログは一貫して、現在の日本人には極めて一般化したものである、幼年期から青年期にかけての濃密なサブカルチャー経験を、学知によって隠喩化せざるを得ない主体の心的過程を、拙くも問題化してきました。

 これは、日常的な言語使用では掬いきれない問題設定であるがゆえに、政治とは異なる文学の領域として指示される傾向にあります。

 実際、前回の記事でいささか唐突に「政治ではなく文学として見なされているのであれば」という書き方をしたのは、知人が対面で私の文章を評した際、「それは政治ではなく文学の問題だから」と漏らした事実を受けています。

 知人の言質をもって前回の記事を書かせた私の「政治的」な苛立ちは、リベラルな公共意識を踏まえて内面に退却したオナニー日記から政治性を組み立て直そうとしたら、当のリベラル的な主体における解釈枠の不在のためにその企図が読み取られず、もっぱら趣味の共同性に基づく「政治から断絶した文学的なオタク批判」という狭隘な読み方によって黙殺/褒め殺しを食らったことである、と要約できます。

 これはいささか滑稽であり、過剰に自罰的でいると人に舐められる典型例を演じたことになります。そして、こうした態度で暗々裡に性の語りを他者に要求する腹積もりも、まったく無意味で下世話な期待であったと、卒業する気にさせられました。

 なによりも、かつての私自身が金塚貞文氏の動画で「政治的なストレスとは無関係に」自慰を問題化する立場を明確にしています。政治理論の本など読むと、この初心を忘れがちになるのが困りものです。

 つまり、前回の「政治的」な自己認識は、被害者意識を優先させた観念の暴走にすぎなかった。むしろ、文学として評価されるのは素朴に光栄であると、胸を張るのが正解であったと考え直しています。

 

 するとここでは、時代精神による「政治と文学」の恣意的な線引きに対する、私の疑念だけが自覚されます。この線引きの基準を求めるべく、私が手早く参照したのは、福田恆存の書物です。

 以下にだらだらと書き連ねた読書感想文は、中島一夫氏による「福田恆存の「政治と文学」 - KAZUO NAKAJIMA 間奏」などを参照すれば読む必要はありません。それでも、「政治と文学」論争が現代人にも当然リアリティを失わないことの例証として、あえてずぶずぶべったりの読み方を開陳しておきます。

 マイナー・ポリティクスを「自分の言葉」で語る蛮勇が尽き果てたのち、無学にも三十の齢で初めて読んだ福田の言葉に泣きたくなった事情を、以下に汲んでいただければ幸いです。

 

 §2

保守とは何か (文春学藝ライブラリー)

保守とは何か (文春学藝ライブラリー)

  • 作者:福田 恆存
  • 発売日: 2013/10/18
  • メディア: 文庫
 

 論争に参与するのは知性である。思想は論争しない。ひとりの人間の肉体がさうであるやうに、思想もまた弱点は弱点としておのれを完成する。ところが論争はつねにいづれかの側に正邪、適不適の判定を予想するものである。[…]ひとびとは論争において二つの思想の接触面しかみることができない。[…]この接触面において出あつた二つの思想は、論争が深いりすればするほど、おのれの思想たる性格を脱落してゆく。かれらは自分がどこからやつてきたかその発生の地盤をわすれてしまふのである。[…]このさいかれのなすべきもつとも賢明な方法は、まづ論争からしりぞき、自己の深奥にかへつてそこから出なほすことをおいてほかにない。が、ひとびとはそれをしない。あくまで接触面に拘泥し、論理に固執して、なんとか相手をうちまかさうとこころみる。それがおほくのひとびとをゆがめられた権力慾にかりたて、たがひにおのれをたて、他を否定してはばからしめぬのである。(p.11)

 

 ぼくたちはながい混乱の季節のなかにあつて政治のことばで文学を語る習慣をすつかり身につけてしまつてゐる。ひとびとはいまだにこの混乱に気づかうとしない。のみならずぼくたちの文学の宿命的な薄弱さが政治意識の貧困からきてゐるといふ常識は、ひとびとをしてこの混乱から脱卻させるよりも、むしろ混乱のうへに混乱をかさねる結果を招来せしめてゐる。(p.13 「一匹と九十九匹と」)

 これは一九四六年のテクストですが、Twitterの喧騒を眺めて十年以上経つ身にも、耳に甘いところがあります。

 ただし、ここに類比できる私なりの「思想」や「文学」など、もとを正せば大量消費を前提とする現代の文化産業に創造性を見出しえず、創作にも批評にも殉じることができなかった、凡庸な消費者のニヒリズムにすぎません。

 つまり、私のような性格の悪い大衆は、二十代半ばあたりでオタクとしての矜持を忘れ、もっぱら知性に偏って思想を失い、自己疎外と生活世界の否定に行き着く傾向があるらしいのです。

 前回では知人と私をともに形容し、本稿では私自身に限るところの、同族を非難することでリベラルっぽく見える「オタクエリート」の足元には、こうしただらしなさが潜んでいる事実を、取り急ぎ自己批判させてください。

 

 が、ぼくたちはあらゆる文化価値を享受しうるとしても、その創造のいとなみを、その由つてきたるところをかならずしも理解しえぬのみならず、またそれを理解する必要はない。その理解する必要のないことをはつきりさうといひきらぬために――知らぬ世界を知らぬままに放置する寛容さのないために、ひとびとは知らなければならぬ自己を知りえず、自己のいとなみを完全にはたすことができないのである。のみならず、たがひに相手のいとなみを理解しようとし、また理解したとおもひこむ習慣が、相手をおのれの理解のうちに閉ぢこめてしまひ、その完全ないとなみを妨げる。政治は政治のことばで文学を理解しようとして文学を殺し、文学は文学のことばで政治を理解しようとして政治を殺してしまふ。ぼくたちがぼくたちの近代をかへりみるばあひ今日のあひことばになつてゐる政治と文学との乖離といふことも、この意味においてふたたび考へなほされねばならない。(p.14-15)

 この段落は、「文化産業」と一口に言ったところで、消費文化の猥雑な文脈混淆性を理解し尽くせるとは到底思えず、半端な床屋談義をする暇があったら作品に集中していたい、という我々消費者の忙しない無力さを託して読むことができます。

 さておき、その前に整理しておけば、ここは故郷喪失の不安によって客体の全体を把握せんと急く近代的主体が、全体主義(政治)とロマン的イロニー(文学)に引き裂かれた歴史を踏まえて、なにかを理解するとは自意識の無限後退をある一点で止めること、すなわち自己と対象のパースペクティブを定め、私が世界を納得する仕方(生き方=型)を設定することであると弁える福田の、「誠実が死ではなく、生を志向しうる文学概念」が彫琢される過程として読まれる一節です(p.385-388 「編者解説」)。

 

 結論はかういふことになる。われわれは全体のなかに埋没してゐても自由はない。さりとて全体から遊離し、それを眺めわたす位置に立つても自由はない。前者においては、われわれはただ動物のやうに生きてゐるだけであり、後者においては、われわれは神のやうに認識してゐるだけであります。人間としての自由は、認識しながら同時に生きることに、すなはち全体感に浸る喜びにある。そしてそのためには、判断と生活とを停止させて時空を一定限度に区切る型が必要なのであります。(p.133「民衆の生きかた」)

 当ブログが体現してきたのは、出版業界の世話になって身につけた小利口から、かえってオタク概念に隠喩化される民衆相応の精神の型を喪失したがために、大衆文化という全体のうちに生き方を保つ他者に対する嫉妬に駆られ、戻り得ぬ過去を嘆き続ける人間精神の愚かさにほかなりません。

 私は批評家でも作家でもなく、単なる消費者の立場を貫きます。よって、ある理論によって全体を仮構するのではなく、そもそもは所与の生活世界という全体に対する信頼に形成されていた個人の生き方を取り戻すために、「批判者としての個人の真実は、一度、民衆の生活のために死ななければならない。それは妥協ではありません。さうしなければ、それは生きられないのです。(p.141)」(強調引用者)という福田の言葉を信じて、政治と文学の峻別を改めて強調したいのです。

 

§3

 ぼくはひとつの前提から出発する――政治と文学とは本来相反する方向にむかふべきものであり、たがひにその混同を排しなければならない。そこに共通の目的があるかどうか、またあるとすればそれはなんであるか、そのやうなことを規定する努力はおよそくだらぬことである――ぼくたちがおなじ社会のうちに棲息し、ひとつかまのめしを食つてゐるかぎりは。ぼくはこの連帯感を信ずるがゆゑに、安んじて文学と政治とを反撥せしめてはばからぬのである。[…]政治がきらひだからでもなく、政治を軽蔑するからでもない。[…]それは政治の十全な自己発揮を前提としてゐる。(p.14-15)

 しかし、同じ社会に生きる人間同士の連帯感を支えることで、政治と文学の峻別を保証するべき「善き政治」ほど、我々から失われて久しいものはありません。

 

 ぼくはぼく自身の内部において政治と文学とを截然と区別するやうにつとめてきた。その十年あまりのあひだ、かうしたぼくの心をつねに領してゐたひとつのことばがある。「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや。」(ルカ伝第十五章)[…]天の存在を信じることのできぬぼくはこの比喩をぼくなりに現代ふうに解釈してゐたのである。このことばこそ政治と文学との差異をおそらく人類最初に感取した精神のそれであると、ぼくはさうおもひこんでしまつたのだ。かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのにさうゐない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てゐた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれてゐたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか――イエスはさう反問してゐる。[…]

 

 善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかへしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する。しかもこの犠牲は大多数と進歩との名分のもとにおこなはれるのである。[…]善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなければならない。(p.16-18)

 啓蒙的理念を傲然と人民の内面に押し付ける「悪しき政治」を、気軽にポリコレと類比するのは憚られます。最低限、政党政治の腐敗が派生させた自警団的道徳意識の蔓延とは、無関係でありたいと願うだけです。

 それは例えば、「セカイ系決断主義」という袋小路に陥ったゼロ年代実存論を、ネットのサブカル浮動層=フロートという政治単位に横滑りさせた書物である村上裕一『ネトウヨ化する日本』が、サブカル評論では無論のこと、現在のネット右翼研究ですらほとんど参照されていないように見える状況を踏まえれば、政党政治根腐れを凝視しない文化批評によって「政治と文学」を混同する構えは、明らかに無意味と確信されるためです。

 

 なるほど政治の頽廃期においては、その悪しき政治によつて救はれるのは十匹か二十匹の少数にすぎない。それゆゑに迷へる最後の一匹もまた残余の八十匹か九十匹のうちにまぎれている。ひとびとは悪しき政治に見すてられた九十匹に目くらみ、真に迷へる一匹の所在を見うしなふ。 

 

 […]ぼくたちの文学の薄弱さは、失せたる一匹を自己のうちの最後のぎりぎりのところで見てゐなかつた――いや、そこまで純粋におひこまれることを知らなかつた国民の悲しさであつた。[…]政治が十匹の責任しか負いえぬとすれば、文学は残りの九十匹を背負いこまねばならず、しかもぼくたちの先達はこれを最後の一匹としてあつかはざるをえなかつた。(p.18-19) 

 ここまで引用した九十九匹(政治)と一匹(文学)の区別は、しかし愚民(政治)とエリート(文学)といった、社会階層や人格類型の次元に単純化されてはなりません。福田の政治論は、相対的解決を図る政治=事実の論理から、絶対を問う心情=価値の論理を区別することに貫かれているためです(p.390)。

 よって、この議論はあくまでも、ひとつの全体性=一〇〇匹としての人間精神が抱えた、九十九匹の部分(世俗的な生)と一匹の部分(絶対的な生)を切り分ける精神の政治学として理解される必要があります。

 このような分別の思考が、限りなく同時代人に忘却されている。というより、私自身がまったく直感的に掴み損ねてきた生活者の良識の問題を、見事に言い当てられた気がしたために、読書メモは残したかった次第です。

 

[…]現代の風潮は、その左翼と右翼とのいづれを問はず、社会の名において個人を抹殺しようともくろんでゐる。[…]ぼくは相手を否定せんと企ててゐるのではなく、ただおのれの扼殺される危険を感じてゐるのにすぎない。(p.22-23)

 

政治と文化との一致、社会と個人との融合といふことがぼくたちの理想であること[…]すでに懐疑の余地のない厳然たる事実である。問題はその方法である。[…]ぼくは両者の完全な一致を夢見るがゆゑに、その截然たる区別を主張する。乖離でもなく、相互否定でもない。両者がそれぞれ他の存在と方法とを是認し尊重してのうへで、それぞれの場にゐることをねがふのである。(p.29)

 

 文学とは阿片である――この二十世紀において、それは宗教以上に阿片である。阿片であることに文学はなんで自卑を感ずることがあらうか。[…]阿片といふことがたとへ文学の謙遜であるにしても、その阿片たる役割すらはたしえぬもののいかにおほきことか。[…]文学は――すくなくともその理想は、ぼくたちのうちの個人に対して、百匹のうちの失はれたる一匹に対して、一服の阿片たる役割をはたすことにある。(p.29-30)

 

 本来の指示対象である近代日本文学と比較するまでもなく、現今の大衆文化の大方が「一服の阿片」にも満たぬものと感じられるのであれば、阿片を阿片として正しく先鋭化し、それを肯定しうる覚悟と内的論理を保守する活動は、「文学」的な思考しかできない人間として、積極的に引き受けていきたいと考えています。

 以上の文脈に関して、続く論考を紹介する余裕はありません。ただ、政治の自律性を信じたいがためにこそ文化の自律性に踏みとどまる、あえて言った「オタク」的な大衆が生きている筈の暗黙の了解を、こうした文献から捉え返して信頼を置き直せば、「オタクエリート」的な他者憎悪など何程のものでもないことだけは、主張させてください。

 というのも、編者の浜崎氏の表現をなぞれば、「私たちが欲してゐるのは、自己の自由ではない。自己の宿命である」(『人間・この劇的なるもの』)がゆえに、「自己が居るべきところに居るといふ実感」、その「宿命感」だけが人生を支えている事実を、私も受け入れられる齢に達したためです。私の宿命感を託すべき生活世界とは、若年期から親しんだネット文化であること、些末な自尊心が邪魔したところで、覆しようがありません。

 青春の蹉跌と無能な中年の恥辱だけ、教訓として後続に伝えることができれば十分であり、今後は観念的ラディカリズムを抑制した、オタク文化保守のつまらない文章を書くブログになると思われます。

 

§4

 私は極めて受動的にネットの観測範囲を定めることで過剰接続を戒めており、Twitterはフォローしていただいた方と、その周辺を眺めるに留めて、関係のない人間の喧々諤々はなるべく読まないようにしています。

 しかし、前回の記事がまさしく高圧的なTwitter論者を批判する内容だったのもあり、反リベラルの政治態度を取る方の言葉を読む機会が、最近増えています。代表的なものだけでも、歴史学者の吊し上げ批判から小山晃弘氏の闇落ちに至るまで、とてもついていけない目まぐるしさです。

 おそらく小山氏が予見するごとく、「リベラルに失望したリベラル」がひそかに糾合しているらしい新右派の隆盛、つまり反リベラル・反フェミニズムの潮流は今後いよいよ大衆化し、福田の時点で問題化されていた知識人と大衆の反目、あるいは両者の明確な線引きが溶解したために到来した「キリストがいないまま「裁きたい」と言うユダの群れの時代」は、さらに酸鼻を極めると予想されます。

 よって、私ごときがいくら「大衆性と学知の乖離」を生き、それを滑稽と恥辱の表現に置き換えて、既存の政治的対立項をずらすユーモアを意識したところで、政治的な効果など無きに等しく思われています。本稿で政治と文学の峻別を、再確認した所以です。

 

 もちろん、本田透非モテ論が回帰したような「自由恋愛と再生産の両立不可能性」を重視するラディカルな平等主義によって、反自由=反リベラリズムに邁進している小山晃弘氏を見ていると、複雑な思いも去来します。

 大衆の生活実感を理論に組み入れることを拒絶し続けるリベラルの言説は単純に退屈であり、反感以上に諦めが強くあります。むしろ、それを超えて同情すら覚えるかもしれません。徹底した男性論の政治化、いわば「射精の全体主義」をもってリベラルの終焉を宣告する小山氏に対しては、私ですらその苛烈さにたじろぐというのが本音だからです。

 最近の記事では「反フェミニズムを超えた反女性思想によるテロルの急増」が予見されており、ここまで状況が切迫しているとは思いませんでした。こうした動向が市民権を獲得した先には、笙野頼子氏が幻視した「にっほん」と「ウラミズモ」の分断だけが待ち構えているのではないでしょうか。

 事ここに至っては、性的差異を政治化した果ての殺し合いを回避する、寛容の論理を詳らかにすることだけが、一市民にできることだと考えています。

 そのあたり、小山氏が予見している再生産的宗教保守コミュニティの回帰に対して、「倒錯としてのオタク論」を構築する必要があるのでは、という着想があります。同人誌の原稿で、クロソウスキー『生きた貨幣』における倒錯/再生産の対立項から、オタク文化に生きられる自由と放蕩を理論化したところだったので。

 その同人誌が出ないことになってしまい、さしあたりぼんやり生きているため、近況報告に留めた次第です。