まほらば~Heartful days

 木村真一郎監督作品といえば『ちっちゃな雪使いシュガー』(2001)を真っ先に挙げねばとは思いつ、『HAND MAID メイ』(00)、『G-onらいだーす』(02)、『かりん』(05)、『つよきす Cool×Sweet』(06)、『Venus Versus Virus』(07)、『ファイト一発! 充電ちゃん!!』(09)のラインで感性を滋養された人間としては、『まぶらほ』(03)とタイトルの似た『まほらば』(05)をこそ拾っておきたかった次第です。

 混同しがちな『まぶらほ』の飛び具合とは反対に、『めぞん一刻』ベースの仕立てに解離性同一性障害を盛った難病大家さん下宿ラブコメを、当時ひときわ粒立ったラインナップのJ.C.STAFFが丁寧に拾い上げ、原作者の方が病気がちなせいもあるのか、否定しがたいぺたーっとした平板さの中に、馬鹿にできない強靭なピュアネスをも感じさせる一作でした。

  『まぶらほ』に続いて若き日の長井龍雪氏が監督補佐と各話演出で整理しきっているのはもちろん、初キャラデザの藤井昌宏氏はじめ、OP原画では竹内哲也氏、新井淳氏、橘秀樹氏が程よく尖り、ウィスパーで聴き心地が良すぎるbiceの劇伴も乗っかれば、地味な旨味のあふれる人材がピュアな素材を綺麗に統御しまくって、牧歌的な中にも今に繋がる技巧がほの見え古臭すぎず、といって新味もないがゆえ、2019年時点では異様にのっぺりした平凡さと見えてしまう按配が難しく思われました。

 とはいえ、京アニやシャフトがデザイン・演出面での基本要求ラインを変化させてゆく深夜アニメのメインストリームが形成され始める直前だった2005年頃*1、保守ライン美少女アニメ爛熟期の豊穣なる一果実と位置付けたい気持ちは強く、なによりスターチャイルド大月座組のカタい声優陣の中で一人五役と立ち回る新井里美氏こそ生唾もので、変身時のキワい演技と綱渡りで距離を取った大家さんの危うい柔和さが色気たっぷり、巧緻な助演よかベタなメインヒロインをたらふく聴きたく思われます。

  『とある科学の超電磁砲』(09)の黒子でやられた知人が新井里美出演作を全部観たらしいのですが、個人的には『二十面相の娘』(08)と『ネットゴーストPIPOPA』(08)が最高で、ルギアでオナニーする方のセクシュアリティが政治化される時代ですから、後者の豊崎愛生*2でオナニーしていた過去もよくあるヌルい案件として語ってよい気がしています。

 

 まほらばの話に戻ると、弛緩した糸目のわりに口強い情念レズという作劇上じわじわとノイジーな役柄をノイジーに演じきる堀江由衣氏は、古今変わらぬ女神感の中では比較的やや尖った配役と思われ、白石涼子新井里美の柔和すぎる夫婦感にベタな半畳があまりに手堅い浅野真澄と来れば声優アニメ的には役満、その円満ぶりを掻き回すのに必要とは判断されつ、もっと素直に新井里美の快楽に耽溺したかったというのが本音ですが、他のキムシン作品のせいで舌が痺れているかもしれません。

  それこそ堀江由衣の原体験は小学生当時になぜかはまった『魔探偵ロキRAGNAROK』(03)で、わたなべひろし監督率いるスタジオディーンのへちょい耽美テイストへの偏愛も身体に染み付いているらしく、『王ドロボウJING』(02)や『D・N・ANGEL』(03)あたりも好んで観ていた憶えがあります。

 ジャンプほかのメジャー少年誌・青年誌を素通りし、ドラクエ4コマ経由でガンガンとコミックブレイドでぼんやり過ごしてしまった幼年期は苦く振り返られ、まほらばもその圏域の核心にあると思われる、エニックス-マッグガーデン系列月刊誌作品に特有の「少年/少女マンガと容易に同定できない中性的かつ微温的な幼児性」に対しては、一度真面目に向き合わないといけない気がしています。

  『テヅカ・イズ・デッド』の枕に「批評言説におけるガンガン作品の黙殺ぶり」が語られていたのは印象的で、最新のマンガ研究を追えてないので分かりませんが、今も昔もダサすぎて尤もらしい言説化がしづらい領域のひとつとは判断され、それこそ連載初期に使用して未だに続いているらしい『ながされて藍蘭島』が今どうなっているのか想像するだに恐ろしく、「恋する天気図」のほっちゃんに法悦の涙を流さないではいられません。

 未だ00年代を消化しきれていない顔面蒼白オタクゾンビ、と自嘲しすぎるのも良し悪しで、長すぎる人生をやり過ごすには、恥の歴史の微細な記憶を辿り直すのが一番ではないかと考えています。

 

「日が落ちる。休暇は終わる。私は一秒の歴史を語るのに一日かかる。一分の歴史を語るのに一年かかる。一時間の歴史を語るのに一生かかる。一日の歴史を語るとなれば永遠に続く時間が必要になる。何でもできる。自分がしていることの歴史を語れと言われたら話は別だけど。私は起承転結が整った物語として歴史を語るようなことはしたくない。私が語る歴史はどれも始まり以外は絶対に見えないけど、それはまず第一に、あらゆる歴史が範囲を定められているとはかぎらず、あらゆる歴史は無限に続く歴史の中に織り込まれているからであり、第二に、私が語る歴史の体制では、あらゆる歴史がそれ自体として無限だから。とりあげる時間がどれほど短くても、その歴史を語るとなれば私には永遠に続く時間が必要になる。とりあげる出来事がどれほど小さくても、その歴史を語るとなれば私には無限が必要になる。…」(P287)

クリオ: 歴史と異教的魂の対話 (須賀敦子の本棚 池澤夏樹=監修)

クリオ: 歴史と異教的魂の対話 (須賀敦子の本棚 池澤夏樹=監修)

 

*1:ぱにぽにだっしゅ!』の前番組

*2:

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歌う時は高垣彩陽氏になる、ぽてまよに次ぐ完璧な生物

人形とキャラクターについて

 数年前まで狂っていたドールユーザー体感は上の記事にまとめたことがあり、カスタムドール文化の全体像を概観できる情報が不足していた不満を雑にぶつけたのですが、特にSDが絡むと当事者性を欠いた言語化は避けるべき領域という意識が強く、ジェンダー負荷を含めて疲労困憊しながら書いた記憶があります。

 そもそもなぜ球体関節人形に行ったかといえば、60年代アングラやベルメールへの凡庸な憧憬以上に、美少女文化に浸かる中で醸成された「これ以上他者と性的対象を共有したくない」という我儘なちんこの要請があり、フーリエユートピアもかくやの複雑すぎる二次元ポルノ文化の在り方に疲れた人間の避難先と言いますか、 私有不可能なキャラクターに個人の魂を賭けきれなかった弱さや、他者との欲望の交換に自らを開けなかった偏屈さを贖う意味があったよう振り返られます。

 よりにも『ガリレイドンナ』のキャラクタードールを人に買わせておきながら、自分では版権系の人形やフィギュアを所持しなかったのもそういうことで、カスタム系3Dエロゲと並行して、能う限り山奥で自らの分身以外の何物でもない何かと交合していたい一心での消費行動でしたから、VRエロゲの衝撃でドール熱がずいぶん冷めた現状には忸怩たる思いがあり、鬱で仕事を減らしてランニングコストのより低いポルノに移行しただけではないかと、増やすだけ増やしたアゾンドール*1の曖昧な微笑に囲まれながら呆然としています。

 熱狂が落ち着いた後は、40cm級が10体を超えるだけでも存在感が重く、髪の乱れに手櫛すら億劫な日々、撮影小物と服の量も不器量には手に余り、引っ越しするたび減らそうか、潔くドール趣味ごと引退するかと悩んでいます。

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 ドールとVRエロゲの両方にどっぷり浸かった人間は自分以外に現状あまり観測できていないので、両者を支える欲望の通底と連続性という、今更ながらに難解な話について書くのですが、それこそカスタム系3Dエロゲには立体的な美少女表象をジオラマティックに配置する撮影モードが搭載され、有志あるいは自作による背景・衣装・小物Modも導入すると、造形上の差異や触覚の有無やテクスチャの安さなど諸々の細部を切り捨てれば、自在な少女人形を愛玩し撮影するというエッセンスに関しては、ほとんど工学的に代替できてしまう可能性があるわけです。

 とはいえ、欲望の核心が全て情報に還元される、欲望の対象があまりにも手軽に変更/操作可能であるエロゲ享楽には、安楽と表裏の居心地の悪さを根底で拭いがたく、翻ってドール趣味には主体の技術と生活が粘着質に付きまとい、主体の在り方が不可避的に泥臭く対象の様態にも反映されることが肝要で、たまに手ずから人形の手足を折り曲げて洋服の袖を通したのちウィッグを一旦外して襟に頭部を無理くり通し、危うく力を入れすぎてジョイントが折れ四肢が捥げたりもするといったお着替え作業ひとつ取っても、少女の死体を嬲る手応えによって自らの卑小さへと立ち返りうること、肉体に根付いた罪悪感と確固な触覚性を避け得ないところに、この趣味の継続性の本質を見ています。

 昔から深夜以上に朝方やってる女児向けアニメのヒロインにこそ欲情しがちなことに関しては、 乙女ちっく系少女漫画の呪いという大塚宮台ラインの嫌味だけでも一応消化可能でしたが、少女文化とポルノグラフィの近接混淆に対するフェティッシュ範囲と自己解釈の融通にアイデンティティが規定されてしまうような文化状況が、煮詰まり過ぎてもはやどうでもよくなってきた現状には暗澹たる思いがあり、忘れぬうちの開陳ついで、最近読んだ人形関連の本の感想もまとめておきます。

人形メディア学講義

人形メディア学講義

 

 ゴードン・クレイグの超人形概念が激萌えなのはもちろん、『Kawaii! Jenny』に言及しているのも好感度大で、『ラースと、その彼女』の良さを語ってくれたのも嬉しいのですが、今さら移行対象に持っていかれても、という手緩さは正直あり、煮詰まった当事者的には全体に微温的なアプローチとは感じる一方、一人で勝手に読んで考えるための領域として、エロティシズムの問題系は切断しておいたほうがよいのかもと最近は思います。

 こういう講義が取っ掛かりにあれば自分も大学辞める羽目には陥らなかったかもしれず、年取ってから牛歩でハードコアを読まざるを得なかった人間の思考の連続性を雑にでも提示したほうがよいかと、更新の出汁に使わせていただいております。

人形と情念 (現代美学双書 4)

人形と情念 (現代美学双書 4)

 

 ざっくり視覚の平面性と触覚の立体性というヘルダー-ロック-バークリー的な文脈が大好きなのはもちろん、彫像の裸身的形成に対比しての人形の衣装的形成、皮膚としての衣装という美学的観点には、色々すっ飛ばしてペルニオーラにキュン死してしまった際の感覚が思い出され、積んでるリチャード・コールダーもそろそろ沁みる季節かもしれません。

 キャラクターの内面や図像の象徴性に超越を託せなくなって久しく、であれば徹底して表層に留まるための一手段として、裁縫や服飾も老後の趣味に検討していますが、ドールの服代や生地代も馬鹿にならない手前、結局はアイマスに課金するのが一番手軽で物も増えない、という経緯で享楽の形式が劣化し続けている近年です。 

人形論

人形論

 

 認識論・科学思想史を専門とする著者の遺作となる本で、人形という概念が孕む曖昧さと裾野の広さを慎重に弁別する視座が頼もしく、「呪術/愛玩/鑑賞/物質性」という最低限の概念的基底に沿うた各分野の誠実な素描に、思考を整理してもらえました。

 天野可淡氏の影響が根強いゴシック系創作人形に日本特有の達成を見ると同時に、伝統から切断された(ように見える、あえていえばサブカル的な)反近代的表現への引っかかりも表明されているのが印象的で、自分もそうした日本ゴス文脈への興味を含めて人形趣味に入りましたが、それと共通する死体人形という表象に萌えて手に取った笙野頼子氏『硝子生命論』の衝撃こそ、耽美的な人形愛好が概念的思考に解けていく契機だったかなと、個人的な読書史も振り返られました。

 『金毘羅』の宗教的自我を経てフォイエルバッハまで咀嚼していく笙野氏の以降の展開はもちろん、理想の「少女」という妄想の現実化に倫理を求め、神への祈祷に至高の愛の表現を見た二階堂奥歯氏や、遡って『人形愛』の高橋たか子氏なども含めて消化せんと、女性文学やカトリシズム、神秘主義にまで食指を伸ばしていった次第です。

 あとは芋づる式にわりあいなんでも読める気になり、そう感じるだけで冊数はクソですが、人形という言葉は大体そんな経緯で、自分の観念連合の基盤となる特権的な悪い概念として、欲望と学知を主体のうちでぼんやり統合する働きを今なお担っているよう感じます。

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 初めて行ったドール系の即売会で衝撃を受けたのは、古式ゆかしいお針子文化とディープな欲望ガン回しのガレキ文化が同居した光景で、要はこってりフリフリなオカンセンスの自作ドレスとドルフィードリーム素体に換装するシリコン成形の柔らか爆乳パーツが一堂に会しており、その両方を平然と同時に欲望可能だった自分にこそ時代の狂気を確認した次第です。

 オナホ妖精よろしくのアダルトグッズやシームレス素体も当然通過し、無洗浄板などの暗部まで観測してきた手前、業田良家作品のペーソスが沁みないはずもありません。

  最後に残った等身大は人のブログを楽しむに留め、バーチャルセックスの触覚用にぬいドール*2だけ導入しましたが、結局は抱き枕と同様に脳髄に染み付いたキャラクターの残像を温もりに宿す添い寝用途に落ち着いており、これに関しても無限に拡散するキャラクターの幽霊性を私秘的な触覚の次元に落とし込み、キャラクターを人形のアナロジーで私有したいという欲望の根強さを感じています。

 好みの造形が見当たらず購入資金もない、という理由で等身大を回避するのもそろそろ無理な気がしており、折を見てLevel-Dかと考えていますが、最近兵頭喜貴氏が紹介しているcatdollを見るに、半端な耽美で終わるのも欺瞞か、獣人か幼女を買って腹を括ったほうが潔いかと、自分のヌルさを再確認しているところです。

 活人形、秘宝館、プラスティネーションなど、徹底した写実性がむしろ見世物に終止する事例を見れば、生理学的身体の滑稽さとエロティシズムの観念性は両立しない、という体感にもとづいて、人形愛と二次元愛好を混合しがちな自らの思考の癖にも、あらためて気付かされます。 

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 凡庸な肉体嫌悪からキャラクター文化に沈み、そこに「人形的なもの」という概念の多義性を重ねて認識を遊ばせているうち、決定的に人間自体の底が抜けてしまった時代に気付くと、人間と人形よりは、混線しがちな人形とキャラクターの相違をこそ、腑分けしたいと考え始めた気がします。

 肉体の関与、物質としての重み、私秘性と公共性。等身大なのに存在が軽すぎるVRエロゲの美少女表象は、キャラクターではなく人形としての存在論的位格のうちに重苦しく受け止めるほかなく、「人工身体の背後には声も言葉も名前も精神も物語も一切必要なく、単なる肉質と視線だけが今ここにのみあればよい」という頑迷さを新たな倫理となし、即物的な快楽と徹底的な表層性を凝視していた次第ですから、そうしたアダルトVRにまつわる情念をスルーしてVtuberが流行った直後は享楽の在り方が世間とすれ違いすぎて行き場のない憎悪と希死念慮が芽生え、結局自分で何かやるしかないのかと、もうひとまわり自己愛を突き詰めることで対処しました。

 言語を拒絶して「在るように在る」堅固な自己指示性という人形の神性と、無限のイマージュというキャラクターの神性をアマルガムさせることに、曖昧模糊なフェティシズムたる自らの「オタク的感性」の根があったように思われ、そのような人形性を、意味へと還元する言語操作に脆弱なキャラクターへと無理に見出す倒錯に疲れたのであれば、今さら低級唯物論なども頼りに、ジャンクな視覚表象はジャンクなままに擁護する手立てを探しています。

 乗り越えられたクリシェと言うは易くも、澁澤に端を発する古典的な男性の人形愛を引き受け、スタイルを持って言説化しえない主体の困難は癒えたと思えず、ひとまずはバタイユ的に陰惨と陽気を併せ持ち、短小なりに書斎と女中を享楽し続けることで、情報環境とテクノロジーに対する呪詛となしたい気持ちです。

 全一者でありたいと奢る主体の闇を、ジャンクでポルノで継ぎ接ぎな最低の美少女表象に託して中折れさせる快楽で生きており、グロい享楽を見せびらかしてひたすらにキモがられることにおいてのみ、気儘なネット主体間で倫理を伝達する可能性を見ています。

*1:アゾンオリジナルは比較的キャラクター文化に近似した領域ですが、市場規模の限定された安楽さでつい買いすぎた

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フリクリ オルタナ / プログレ 感想

 戦々恐々再生したところ、嫌味抜きで理想的な続編なのでびっくりし、十数年越しのモヤモヤが払拭される稀有な快楽がありました。
  「退屈で平凡な日常」とカッコを付けずには表記できない手垢まみれの閉塞感をひたすら野暮く、女子高生のリアリティだけアップデートしてベタに再話し、月がきれい』のようなガチ取材感で無難な範囲のファンタジーへと架橋するクレバーな青少年向けチューニングすら回避して、「ネオリベ格差社会当然の帰結としてある日唐突に国民が全員遺棄されて死ぬ」という即物的なカタストロフに猛ダッシュハルハラハル子のエキセントリックすら凡庸に地べたを這う浪花節に回収され、よく『フリクリ』という思い出タイトルで意味も脈絡も欠くチープな現実に囲繞された現代的な終末の予感をあっけらかんと素で描けたなと、謎に嬉しくなりました。
 京アニ辺りのえぐいチューニングしたオタ幻想リアリズムはもちろん、神山健治ノイタミナ辺りの空回った状況意識や金満サブカルにも距離を取り、吉田有里氏を自然体に演技指導してボンクラ歓喜ポイントをも脱臼させたまま、前作の背伸び感とオタ快楽を削ぎ取ったごく普通の青春ドラマを死ぬほど平凡な絵面でまとめたフィルムに、異様な居心地の良さと溜飲が下がる気分を覚えます。
 基本的に低予算の凡作が愛らしいというのはありますが、とくに前作が嫌いなわけでもなく、むしろ凡庸なオタ原体験として普通に憧れ普通に忘れ、「格好良いアニメーションとは大体こういうもののことなのであろう」と雑な理念型として記憶に沈殿していたのですが、実は最初からこの程度のどうでもよい質感で突き放されて描かれるべき主題だったのだなと憑き物が落ちる感覚があり、ダサい映像だからこそpillowsのしみったれ感も素直に沁みるものがあります。
 このシリーズが鮮やかな手付きで純粋抽出してきた「耽美的な思春期のモヤモヤ」というもはや恥じらわしい動員主義的なモチーフと正面から向き合うこと自体、主体の自意識を自覚的に投影する巧緻を競うチキンレースに巻き込まれるのでしんどいという気持ちは重々、しかしであればなおのこと、徹底的に進行しきった大衆個人主義鬱病的快楽主義に行き詰まった状況下の近視眼的な主体の地獄こそ、作品の荒んだ誠実さに敬意を表して記述しておきたい気持ちを新たにし、あらためて時代の退屈さやバッドテイストと見做されているものに付き合い続けていくための元気をもらえました。

 

 そのぶんプログレを再生するのが怖かったのですが、猫耳ヘッドホンを装着した黒髪ロングぱっつんの水瀬いのりが開幕エモい思春期リリックをかました直後、『紅殻のパンドラ』の簡単クラりんみたいに溶けて井上喜久子のファンタジック母親と絡み始めたおかげで、「俺みたいなゴミ向けにめっちゃチューニングされてる!!」と生理的欲動の充足のみをシコシコ満喫、ノスタルジーの捏造と新興宗教あしたのジョー、教室の暗い片隅で世界大火を夢想するオーケン的やさぐれ感の水瀬いのりを前にして、思わずハイレゾ音源で購入した『ご注文はうさぎですか?』チノちゃんキャラクターソングアルバム「cup of chino」*1を爆音再生し「老人が意図的に古いメンヘラ女を再生産してるぞ殺せ!!!」と最新の民族トーテム片手に絶叫しかけたところ、死体イメージで脳味噌が勃起するバタイユ的な水瀬いのりだったのかじゃあ許すよ!!俺と一緒に死と糞便を凝視しよう!!!!!!!!

 記号化された憂鬱と精一杯の空騒ぎをどんどこ投げやりにインフレーションさせ、「もういいのでは?」と途中で辟易してくる半笑いな気分まで含めて、前作のスカムなエッセンスを凝縮させたこれ以外にないような最高の続編と思われ、ちゃんと映画館で罵声と退席が相次ぐ最中にニコニコ顔で観たかったなあと後悔し、これは軽口ではなくわりと本気なのですが、昔『pupa』の先行上映会で黙々と観客が席を離れてゆく様に立ち会って「おれも木戸ちゃん声の妹に人肉食されてえよ??」とボヤいた思い出が我ながらショボすぎて忘れがたく、最近ミリシタやってると木戸ちゃんの馬鹿キャラ演技の厚みと声の圧がヤバくて再度天才を確認しています。

 エヴァやガイナに超越的な意味を託さざるをえない人情に唾吐くつもりはありませんが、尤もらしい言説をほとんど与えられないまま*2美少女アニメの洪水を貪り尽くす青春に賭けた結果、SF・ロボットアニメの伝統と蓄積を当事者的に継承しうる感性を失ったがため、『革命機ヴァルヴレイヴ』の哄笑から『Gレコ』の彼岸的な煮詰まりまでを一貫して軽薄に面白がってきた次第で、何度思い返してもイマドキ10代フリクリ的ポジションに鎮座ましますEGOISTのかっこいい曲をなんか歌ってることになってるやつでおなじみ『ギルティクラウン楪いのりさんのぼんやり美人局ぶりはめちゃくちゃ愛らしく、ところでなんでギルクラを思い出したかというと、この水瀬いのりと同じような猫耳黒髪ロングぱっつんでぴっちりエロスーツを着込んだ竹達彩奈がテカったプリケツでグラフィックインターフェイスをタップしてるシーンあった!!!!!!!!

 今期はバーチャルなんとかを観たせいで下の世代と情報系の方々に対する政治的配慮が消え失せ、『デート・ア・ライブIII』という魂の故郷と『W'z《ウィズ》』の好き勝手ぶりに惚れ直し、『ぱすてるメモリーズ』が「アニメ界のVaporwave」とかひどい悪口を言われてそうで心配ですが、ひどい美少女アニメに対する哀惜と追憶とリフレインの荒野を猛毒ポルノEDで締める流れが崇高すぎます。
 プログレの話に戻ると、オルタナでは意図的に切断した主題であろう、アトムスクとの合一という幼児的全能感への回帰をのみ希求するみっともないピンク髪婆の話、という軸を再度提出し直したのは素晴らしく、自分も遠く過ぎ去ったもはや不可能なエクスタシーの影を追って日々の倦怠を一人騒ぎ立て、思春期の切実な幻想を生きる他者に対して身勝手な欲望のままに嫌味を吐き散らす、クソで嘘つきな中年の側にすでに回ってしまった後悔があり、アニメの感想は本当に書きたくない

 

 最近読んだ本 

BIRLSTONE GAMBIT

BIRLSTONE GAMBIT

  • 作者: 宇佐見崇之,黄金虫,辰巳寿々人,さいとうななめ,H・T
  • 出版社/メーカー: 密林社
  • 発売日: 2017/01/22
  • メディア: ムック
  • この商品を含むブログを見る
 

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 おれも矢部嵩氏と京都でダンスを踊りたかった

*1:本気で参っていた時期があった

*2:与えられたら逆ギレしながら

新年 / ゼノグラシア同人誌

 「アイドルマスターに対する固着をフランス現代思想で糊塗するオタ」という10代の頃の自分なら殺意を抱いたであろう最悪の中年男性になってしまった理由は色々あるのですが、ポップカルチャーの細部に着眼した作品論や感想を書くには体力と愛が足りず、表象から反射される個人的な思考をのみ表明するのも書く読む双方の負荷が高い、というのが主なところで、せめて細々読者として応援したいとゼノグラシアの同人誌だけ通販で購入しました。

 新年は久々に迷い猫オーバーランのOPを観たり、高槻やよい氏の踊る動画をひたすらニコニコで漁ってフニャフニャしたりしていたので、気高いゼノ版やよい氏の記憶を留めておくためによい本だと思いました。

 放送当時のバッシングは未だ引きずるものがあるのかなとちょくちょく遠い目になり、批判よりは黙殺を払拭せんと『桃華月憚』の同人誌を人に誘われて書いたのは4,5年ぐらい前のことで、最近はコミケにも行けず、 結局一度も買えてないので谷部の声ヲタのやつは通販しないのかなと思います。

 Twitterの言葉の軽さに耐えられない病で何も書けず、観測してくださる方を観測するだけに留めているのが現状で、とはいえ評論同人全般の梨の礫感に体感がある人間としては、地べたを這えないなら言及だけは義務のように感じています。

 専門知と同時代性と共同性のいずれをも担わない言語で映像文化を分節することの限界のようなものを、ここ1,2年ほどYouTubeほかの情報量に触れて痛感しており、詮無いおしゃべりはブログで済ませ、勉強したことをまとめるなら動画コンテンツでどう詰められるかを牛歩で練習している状況で、今後は拗ね者なりに異なる世代や文化圏の方々とどう関係を結び直せるかなと考えています。