理論への抵抗

モロイ

モロイ

 

 […]要するに私はたいてい闇のなかにいて、世紀のあいだに貯えてきた私の観察も、礼儀作法の土台にいたるまで私を疑わせたので、限られた空間にあってさえ、その闇はなおさら深かったのだ。しかしこんなことやその他もろもろを考えるようになったのは、もう生きるのをやめてからなのだ。崩壊の静けさのなかで、あの長きにわたる混乱した感情を思い出しているが、わが人生とはこの混乱した感情そのもので、それを私は無礼にも、神がわれわれを審判すると言われるように審判するのだ。崩壊とは人生そのものでもある、その通り、その通り、うんざりするよ、しかしなかなか全壊というところまでいくものじゃない。 (p.37)

 

 最近は津堅信之『京アニ事件』に目を通し、開口一番「意外と世間に京アニが知られてなくて驚いた」みたいな文言、どういう寝言かとページを捲れば、言うもやむない愚劣なマスコミとの応対が記録されており、こんな次元で「研究者」の「社会的責任」を取らされてスッカラカンな新書を出すことになった筆者に同情するよか、あらためて「世間様」という実在しないクソ観念と縁を切りたくなりました。

 底辺アニメファンとしての我が身を振り返れば、ブランディング戦略の露骨なジブリ京都アニメーションのようなスタジオとは最初から縁がなく、それ以上に20世紀このかた大量死という悪の問題は個人の責任(ましてある文化集団のアイデンティティ)において思考可能な範疇を超えており、自分には一切の施す処置も動機もないはずが、日常言語にこびりついた「オタク」という特権的シニフィアンが思考を掠めた瞬間から、「同族」と自分に対する曖昧な怒りと無力感が蘇り、今なお目の前が真っ暗になります。

 具体的には何も言いませんが、上の世代の某オタク系ライターによる馬鹿な発言がTwitterで目に入ってしまった時にはなおさら、こんな業界と関係を持ちたくなかったという後悔、こういう人々に代理-表象されるアニメファンとして生きたくないという怒りが湧き、アニメ視聴を個人的に趣味として続けること自体、やめるべきかと悩んでいます。
 
 
 そもそも「オタク」「アニメファン」として自己表象可能な私のアイデンティティは、文化的・金銭的貧困にあった十代後半から、政治的文脈を捨象すれば幾分以上にプチブル的な岡田斗司夫以来のおたく教養主義を(『げんしけん』あたりのクリシェを経由して)無自覚に内面化し、放送中のテレビアニメ作品を可能な限り全て観る営為に没入していたところ、遅まき『らきすた』などの京アニ作品が騒がれ(他の多くの作品が黙殺され)始めた時期に「旧来のおたく的理念-理論と歴史的状況の齟齬」が強く自覚され、狭い文化領域で自分がその矛盾に極度に引き裂かれた偶然に、ある歴史的主体としての使命感(!)が滑稽にも芽生えてしまった事情に原体験を持ちます。
 
 おおよそエヴァ以降の制作委員会方式による本数の増加と動画サイトの普及を背景に、(少なくとも2010年代までのコンテンツ産業では)コミュニケーションツールとして最も先鋭化した文化領域において、よりにも考えるべきではなかった「個人の思考の孤塁を守ること」、「周縁的なものの擁護」、「語られないものをいかに意味付けるか」といった問題系に(大衆文化に限らない人間的事象全般に関して)固執する人格を形成してしまい、ジャンク極まる倒錯した「文化的マイノリティ」として生きてきたことになります。
 
 振り返れば逆張り一辺倒の人間で、アニメというメディア以上に「一人で生きること」そのものが私にとって重要であったことは整理がついていますから、以上の厄介なアイデンティティをいかに祓えるかが今後の課題なのですが、味のしなくなったガムを潔く吐き捨てるべきか*1、あるいはモロイの小石のようにしゃぶり続ける無為を肯うべきか、依然踏ん切りがついていないのはご覧の通りです。

 

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

  • 作者:松永 伸司
  • 発売日: 2018/10/20
  • メディア: 単行本
 
 
 ところで、自分のアイデンティティと大きくは関連しなかった、もうひとつの大衆文化のコアであるビデオゲーム全般は、アニメと違ってその消費行動を問い返す必然性を持たないこと、白状しなければなりません。

 小中学時代のPS2を青春としてコンシューマに徐々に飽き、時折フリーゲームを漁る以外はSteamの積みを崩すのがメインで、ソーシャルゲームの終わりなき荒野とも適度に付き合っている凡庸な宙吊りの現状をあえて記述しないのは、いずれもテレビアニメと比較すれば 1.レビューを含めた批評的営為が十分成立していること*2、2.動物的な言説が奇妙な権威を持ちづらいこと*3、3.作品がもたらす快楽の意味と文脈をジャンル区分などによって整理しやすいこと*4、などのもっともらしい「書かない理由」がぱっと思い浮かびます。

 もちろん、これは「書かざるを得ない理由」が無かった凡庸な消費者の無駄口に過ぎず、自分もある特定の文脈(VRエロゲやアイマス)ではゲームの快楽に存在の深淵を蝕まれているものの、それらは「アニメ」「ゲーム」概念では汲み尽くせない実存に関わることは、再確認させてください。
 
 そうした不真面目さを前提に、数多いゲームスタディーズ的な出版物をスルーしながら、クリアカットな概念整理が目指された『ビデオゲームの美学』にだけ目を通してみた感想としては、「表象の一種としてのフィクションの固有性は、その表象の対象が表象と同時に作り出されているという点にある」(p.125)といった表現が興味深く、また「ビデオゲームのゲームメカニクスの現実化は、非規範性」(p.197)と「自動化されているという特徴を持つ」(p.198)など、ゲームの「語る必要のなさ」を支えている融通無碍な快楽の構造を明確化してくれる記述も楽しめました。
 
 ただ、本書の理論的性格に実践的な含みを持たせるために、モーガン・ラック以来の「ゲーマーのジレンマ」を紹介したパート(p.284-286)では、バーチャル殺人とバーチャル・ペドフィリアが安易に(具体的な概念規定もなく)併置され、後者は(無前提に)ゲーマーの直観において道徳的に許容不可能である、と論じられているのが引っかかりました。
 機械翻訳で雑に見た感じ、本書ではなく引用元*5の問題ですが、「原則的に作品や文化のあり方に関する規範的な言明を避け」た(p.315)本書において、明らかに外在的な道徳規範を「ゲーマーの直観」に綯い交ぜたこの議論には、「〈標準的なプレイヤー〉という概念や、それが持つとされる直観、あるいはそのコミュニケーションの実践についての検証が不十分」なまま「それらを明白な社会的事実として前提したうえで議論を進めている」(p.108-109)本書の欠点が、強く露呈した印象があります。
 
  『プレイヤーはどこへ行くのか』などの書物が「批評」を僭称する以上*6分析哲学の伝統から概念整理を行うこと自体は有益と思われますが、例えばナンバユウキ氏のVtuber論などを含め、分析美学による大衆文化へのアプローチ全般に対しては、「潔癖な方法論的一貫性の裏に無神経な規範的価値付けを隠蔽している」ような居心地悪さが拭えていません。
 
「赤」の誘惑―フィクション論序説

「赤」の誘惑―フィクション論序説

  • 作者:蓮實 重彦
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本
 
[…]実際、この二人[ドリット・コーンとジョン・R・サール]は「混沌として退嬰的な言語使用」を回避するという意図の実現のために、思考すべき対象にまつわる雑多なものをことごとく排除するという方法論的な潔癖さを共有している。その潔癖さは、しかし、それぞれの専攻領域にその思考を限定することで、その内部で保証されているにすぎない文脈の論理的な一貫性を、あたかも知的な誠実さであるかのように錯覚させることにしか貢献することがない。
 その方法論的な潔癖さの限界は、ことによると、分析の対象としてのフィクションそのものが、その本質において「混沌として退嬰的な」現実なのかも知れないという疑念を二人が一瞬たりともいだいてはいないところに露呈されている。(p.54)

 

 一文に詰め込む文体のせいか、たまに蓮實氏の影響を勘繰られるのですが、言いたいことの多さを常識的な文字数に収めるせめてもの配慮に過ぎず、そういえば全然読んだことがない疚しさに駆られて急ぎ手に取ったところ、まさしく英米系の分析哲学者によるフィクション論のはしたなさを睨んだ書物だったので、今さら胸がすく思いをしました。

 無邪気に読むと危険なのは承知ながら、「フィクションをめぐる理論的な言説は、その寡黙さが誘発する饒舌からいっこうに撤退する気配を示さないばかりか、それぞれに専攻領域にふさわしいその語彙の定義を無限に併置してゆくことにいささかの屈辱感もおぼえてはいない。[…]ここで問題となるのは、おそらく、理論的な言説をになおうとする主体における語彙論的な羞恥心の有無である。実際、知的なはにかみとともにある種の語彙を自粛しないかぎり、フィクションはいつになろうと視界に浮上してくれまいし、思考に有意義な刺激をもたらすこともまずないだろう。」(p.56)といった指摘は、フィクションと同じほどに無数の学知と出版物も「混沌として退嬰的」である現実を再確認させてくれます*7

 もちろん、現代人に失われた正しくブルジョワ的な精神の余裕に基づいて語られる「語彙論的な羞恥」など自分も持ち合わせてはおらず、理論的把握に駆られる人間はフィクションの曖昧さに見捨てられかねないという指摘の痛快さすら、「年を取ってもアニメを観続けられるかどうか」という私自身の不安を、理論家に投射しているに過ぎません。 

 

オックスフォード哲学のなかで鍛えられたとはいえ、私はこの学派に与したことは一度もない。 […]この学派に哲学という概念があてはまるとは、どうしても思えなかった[…]この哲学のかなりの部分が面と向かっての議論で占められていたという事情もあって、頭の回転の速さや公開討論の訓練にはなったのだが、思慮深くてもすぐには行動に出ない者には向かないという欠点もつきまとった。[…]オックスフォード哲学について私が何よりも批判したいと思うのは、この学派の実践者は頭の回転の速さや如才なさこそ鍛えられるものの、深く掘り下げることは妨げられるという点である。[…]哲学の主題を言語的なものだとする見解を本気で信じる者がいることを私はまったく理解できなかった。しかも、この見解は、さまざまな形態をとるオックスフォード哲学のいずれにも共通していたのである。(p.62-63)

 

 ざっくり、論理実証主義-分析哲学と続く40年代以降の流れが、ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』の倫理的領域に関する沈黙=逆説的積極性を継承せず、存在論的問題を命題の解釈にまつわる意味論的次元に還元してしまった*8、という東浩紀氏の整理がどこまで厳密なのかを判断する能力はありませんが、実感には強く合致します。

 49~55年までオースティン存命のオックスフォード大学に在籍し、自らの哲学的関心を満たさない日常言語学派の流行を執拗に批判したブライアン・マギーの書物にも、高卒なりに色々と納得いくところがありました。

 議論を重視する(らしい)分析哲学の意味論的な明晰さが引きこもりの陰湿な思考に合わないのは当然かもしれませんが、加えて、昔どこかで東浩紀氏が漏らしていた表現をうろ覚えで借りると、「オタク論はオタク文化の過剰性に比肩していない」(オタクコンテンツよりも面白いオタク理論が無い)という決定的な困難の歴史を、特に分析系の大衆文化理論は閑却する傾向にある気がします*9

  ちなみに自分はウィトゲンシュタインも、哲学的草稿の横に戦時下オナニー日記を綴った否定神学者として読むほうが性に合います*10

 

ルソーと方法

ルソーと方法

  • 作者:淵田 仁
  • 発売日: 2019/09/26
  • メディア: 単行本
 

私は決して議論をいたしません。と申しますのも、各々の人間は何においてもその人なりの推論する方法[sa manière de raisonner]を持っており、その方法は各人以外の何者にもまったく良いものではない、ということを私は確信しているからです。

(Rousseau à M. I'Abbé de Cardondelet, le 4 mars 1764)

 
 18世紀フランスの認識論を基礎づけたコンディヤックの「分析的方法 méthode analytique」とは、経験から得た観念を分解/再構成する推論の循環的連鎖を辿るものであり、実質的には「〈言語は分析的方法それ自体である〉」(p.62)とすら主張しながらも、あらゆる知識を経験に依存する経験論が少なくとも一つの原理をアプリオリに承認しなければならないジレンマゆえに、ひとつのシニフィエ(観念)の上で複数のシニフィアン(表現)が横滑りしていく運動=(観念の)自同性原理に新たな明証性が求められた傍ら、感覚と抽象観念のあいだに「無限の深淵」を見るルソーの全面的懐疑は、自らが批判する「分析的方法」をあえて読者に要求するという最大の皮肉とも言える仕方で(能動的な再構成の素材として)自らの生を全て語った『告白』に結実し、啓蒙の知の理論的破綻を身をもって示してみせたという読解には、めちゃくちゃ刺激を受けました。
 実際のところ、自分の脳味噌に「推論」「分析」「方法」(ましてや「理論」…)と呼べるシナプスなど備わっているのだろうか、という疑念を拭えない自分のような人間には広く薦めたい一冊で、ルソーにあやかりたいものだと思いましたが、「全てを語ることの不可能性」を理論でなしに実践するのは大変きつく、実際赤裸のつもりでも人間書きたいことしか書けず、本当に書きあぐねることは虚構の本質的な曖昧さに託すしかない、という事情すら、いよいよ誤魔化せなくなっています。

 

有限責任会社〈新装版〉(叢書・ウニベルシタス)

有限責任会社〈新装版〉(叢書・ウニベルシタス)

  • 作者:J.デリダ
  • 発売日: 2020/08/26
  • メディア: 単行本
 

[…]私は、スピーチ・アクトの理論家が、単純かつ直接に道徳的教訓をわれわれに述べ立てているだけではないか、真面目になりなさい、隠喩や省略を避けなさいとわれわれに言いつけているだけではないか、などと彼らを疑ったことは決してありません。しかし、言語に書き込まれたある種の倫理性――そしてこの倫理性は一つの形而上学です(といっても私のこうした定義にはいかなる侮蔑も含まれてはいません)――を分析するなかで、しばしば彼らは、それをイデア的な純粋性において記述することに自足してしまい、所与の倫理によって与えられた倫理的諸条件を再生産しているのです。彼らは、こうした所与の倫理であれ、もう一つの他なる倫理であれ、あるいは倫理、法=権利、政治の西洋的概念に応じないような法であれ、倫理一般の、同じように還元不可能な他の諸条件を排除し、無視し、周縁=余白に追いやっています。(p.264)

 私がここでサールの例の後にハーバーマスの例について強調するのは、[…]私が躊躇なしに世界的および歴史的と形容する情勢において不幸にも典型的な――かつ政治的にも非常に重大な――ある一つの状況を強調するためです。この情勢は、その射程の拡がりをいくら強調してもしすぎることはないし、いくつもの真面目な分析に値すると言ってよいものです。至るところで、とりわけ合衆国とヨーロッパにおいて、コミュニケーションの、対話の、合意の、一義性や透明性の哲学者、理論家、イデオローグを自称する者たちが、証拠、討議、交換についての古典的倫理を絶えず喚起すると主張していながら、彼らこそきわめて頻繁に、注意深く他者を読み他者に耳を傾けることなく済ませるのであり、また性急さや独断主義を発揮しながら、文献学や解釈の基本的な規則をもはや尊重することもなく、科学とおしゃべりを混同するのであり、それはあたかも彼らがコミュニケーションを嗜好してはいない、あるいはむしろ結局のところコミュニケーションを恐れているかのようなのです。(p.338)

 

 大陸系と分析系の対話のムズさ、といえば本書で、なんとなく苦手でデリダは初めて通読しましたが、自分ごときが抱く分析系(本書ではオースティン-サールの言語行為論)への不満など全部言い尽くされており、食わず嫌いはよくないと思った一冊でした。

 上の引用を現在の卑近な文脈に、例えば「フロイトラカンも読まないでポルノ批判やポリコレ談義に熱中する社会派連中」に当てはめたくなる誘惑もありますが、PC派と反PC派のパワーバランスを精確に認識できるはずもないので措くとして、 少なくとも、「言説のあらゆる戦略的方策、[…]あらゆる方法論的秩序は、形而上学に関する多かれ少なかれ明白な決定を含んでいる。[…]形而上学的決定が確立され、潜在化し、隠蔽されればされるほど、ますます秩序が、そして静寂が、方法論の技術的性格を支配する」(p.199)という指摘には、我が意を得たりの感がありました。

 言語行為の意図/志向性を十全に飽和させない、自己現前を不可能にする本質的なエクリチュールの残余/不在をひたすら強調するデリダの身振りが、むしろ素朴に凄まじい自己現前として衆目に映ってしまうのが本書の萌えポイントと判断され、二値的論理を脱臼するのも生半可な生き方ではない、と他人事ならぬ重さでした。

 

理論への抵抗

理論への抵抗

 

修辞的読みは、理論においてはつねに、すべてのモデルを終焉させる柔軟な理論的、弁証法的モデルであり、それ自身の欠陥のなかに、対象指示的、記号論的、文法的、遂行的、論理的その他すべての読むことを回避する欠陥のあるモデルを内包しているのである。それは理論であると同時に理論ではない、言わば理論の不可能性を示す普遍理論なのである。しかし、それが理論であるかぎりは、すなわち教授可能であり、一般化可能であり、非常に体系化されやすい分だけ、他の種類の読みと同様に、それ自身が唱導する読みを回避し、それに抵抗しているのである。何ものも理論に対する抵抗を克服することはできない。なぜならば、理論自体がこの抵抗なのだからである。(p.54-55)

 
 ヴラド・ゴズィッチの序文に、古代ギリシャの語源に遡る理論(θεωρια テオーリア)と知覚(Αίσθηση エステーシス)の対立項に関する話があり、テオーロイ θεωροίという使節に結び付いた前者の「語のさす見る行為、通覧する行為が[…]重要な社会的帰結をともなうきわめて公的な行為」を意味したのに対し、後者は「女子供や奴隷にも[…]可能であるが、そうした知覚は社会的な地位をもっていなかった」(p.12-13)とされています。
 
 自分が主にサブカル評論に感じてきた、社会を担う知識人に軟な理論で整理されると、私秘的な知覚そのものが踏みにじられるような抵抗感とは、こうした構造に遡ると思われ、それでも理論から逃れられないのは、「言語そのものに理論が内在する」という呪いのせいであるらしい、と整理がついた初ド・マンでした。
 専業ライターとしての反動もあって、「個人的な文章を分かりやすく書くつもりは一切無い」と腹を括った人間なので、「社会派」「理論家」に対するルサンチマンを処理するためには、すべての本を新刊書のように読むこと*11、はしたなくも「読みの根源性」を生きるしかない、という事情があります。
 

 […]少なからぬリベラル派が言うように、ポルノグラフィーにまつわる道徳的問題は、ポルノグラフィーが私秘性の最後の砦を侵すということである。俳優の観点からは滑稽なことだ。[…]観客の観点からは脅威的である。ポルノグラフィーは私秘性の最後の証である度合いが[俳優にとってよりも]より大きい。ポルノ映画の観客たちは互いの必要性をより尊重している。そして、ひとりひとりの観客が他の観客が考えているはずのことを知悉しているのにもかかわらず、それが自分の私秘性を損なうとは誰も考えない。[…]そのような経験がそこではどれほど正確で適切であっても、多くの人がまじめな芸術とも現実の性愛とも共通するものを取り去ったポルノ映画を見る機会しかもたないという事実は、社会による私秘性の侵犯と強制[という事実]を暴き出している。(p.82)

 

 英米哲学嫌いを標榜するだけでは詮無いので、オックスフォード学派の第二世代に分類されるらしいカヴェルの映画論は印象深かったことも記しておきます。

 自分が産湯を浸かった深夜アニメの「ソフトポルノ性」の(形相的な)ご先祖様を、あえて映画に見出すとすればスクリューボール・コメディに行き着くので、最近は普通にハワード・ホークスなどが楽しく、まったくアニメを観れずにいます。まるで、ハリウッド黄金期とその終焉を通過するうちに、自分と映画との自然な関係が損なわれ、「映画=世界との繋がりが失われてしまった」カヴェルの哀惜を、倒錯的に追体験しているかのようです。

 もちろんそれは、「いま、快楽の能力を自慢することは、かつて神妙ぶったまじめさが人を罠にかけた以上に、信心家ぶることであり、[…]現代の偽善である」(p.182)ような快楽主義の時代にあってなお、ジャンクポルノの快楽やテクノロジーと合一する目暈ばかりを特権的に記述せざるを得ない、自己に対する嫌悪に発しています。

 これと関連して、私が「百合」概念のイデオロギー性を嫌いながらも批判できないのは、「映画がわれわれを世界から不在化することによって世界を現前化させることは、われわれの生存の段階についてすでに真実であることを確認しているにすぎ」ず、「映画が世界を変位させることは、世界からのわれわれのまえもっての疎外の確認であり、[…]映画において獲得された「現実感」は、その現実、それに対してわれわれがすでに距離を感じているような現実の感触」(p.320-321)であること、つまりは世界=映像と観客の関係に前もって孕まれた断絶は、すでにカヴェルの時点で明白に感受されていた存在論的な悲惨であるためです。

 

 

 映画、音楽、漫画などは、自分が強調するまでもなく記述困難な崇高さがドシドシ見出されるからこそ、アイデンティティの次元で語る必然性があった(語りやすかった)アニメに執着していたに過ぎませんから、別の生き方が作れるまでは、YouTubeにクソ動画だけ上げながら生きるつもりです。

 書かれないことをやめないもの=不可能なものにしか関心がない人間でも、詮無いお喋りを続けて現存在の宙吊りに留まることでしか「私」を保持しえない以上は*12、自らの生の凡庸な糞尿性に垣間見える、何か時代精神破局としか言えないもの、ある潜在性に対する感性的確信を譲歩せずに留め置くために、本の話だけは伸び伸びとしていきたい気持ちがあります。

*1:オタクコンテンツのポップネスに対する特殊な転移にまつわる id:lesamantsdutokyo氏の表現が好きなので拝借しました

*2:自分はアニメに関する公的な象徴秩序のほとんど全てが気に食わないキチガイなので、これは隣の芝生が青く見えるということに過ぎないかもしれません

*3:Steamのレビュー欄はわりと普通に機能しているけど、Google Play Storeのソシャゲのレビュー欄はなんかすごい、人類は「運営」に気持ち良く飼い慣らされることをここまで渇望しているのか、みたいな話で、消費者至上主義が各プラットフォームで平和裏に分散処理されているような感覚を指しています

*4:もちろん「日常系」「セカイ系」などのジャンル概念に自らの生を蹂躙されたという根源的なルサンチマンを抱いている自分からは隣の芝生が

*5:Luck,Morgan. 2009. "The gamer’s dilemma: An analysis of the arguments for the moral distinction between virtual murder and virtual paedophilia"

*6:『神、さもなくば残念』の頃から相も変わらず、何の内的必然性も示さず艦娘を上っ面なハイデガー概念で語る小森健太朗氏の無邪気さや、現実の虚しさとゲームの虚しさをいとも容易く重ね合わせるラブライブSF作家の浅薄なニヒリズムには、耐え難いものを感じました。『ゼロ年代の想像力』に対する解毒剤として『社会は存在しない』は面白い本でしたが、限界研の文章はもう読まないと思います

*7:サブカルチャーに関する「最新」の「理論」や「学知」の氾濫に対して、二流大学人による大衆搾取、という嫌味は言いたくないので、本稿を書いています。正直言えば、20世紀までの書物だけでも暇は潰れるので、理論の氾濫には付き合いかねています

*8:東浩紀存在論的、郵便的』p.229参照

*9:関係ありませんが、社会学の方面から「オタク論の不可能性」を改めて跡付けるような力技の博士論文、王 屶瀟「オタク的なアイデンティティと欲望」は、ガチャガチャしていて面白かったです

*10:星川啓慈『増補 宗教者ウィトゲンシュタイン』

*11:「相手は大物だ、などと考えては駄目。絶対に、そんなことは考えないように。何も考えてはならない。本文を手に取る。余計なことは考えない。これはホメロスだ。史上最大の文豪だ。最古の文豪だ。守護聖人だ。父で万能の巨匠だ。そして何よりも、かつて世界に生まれたなかで最も偉大なもの、すなわち親しみやすい表現を極めた真の巨匠だ。そんなことは考えないように。本文を手に取る。そして、あなたと本文のあいだに何も介在させないようにしなさい。何がどうあろうと記憶だけは介在させないようにしなさい。これだけは言わせてもらいたいし、ムーサ全員のなかでも私だからこそ、あなたにこの話をする権利があるはずだから言っておくけど、あなたと本文のあいだに、一切の「歴史」を介在させないようにしなさい。それからもう一つ、これも言わせてもらいたいから言っておくけど、本文とあなたのあいだに、ある意味で生まれがちな賞賛と、敬意とを一切介在させないようにしなさい。本文を手に取りなさい。エミール=ポール社から先週出たばかりの一冊を手に取ったつもりで読みなさい。一切の干渉を、一切の準備を排し、一切の儀礼と、一切の追加を排除しなさい。そういう余計な配慮は正真正銘の改竄につながるから。一つひとつの「歌」は、一つひとつの「歌章」は、半月に一度、週に一度あなたが出す「手帖」になぞらえるなら、出たばかりの号のつもりで読みなさい。最新刊のつもりで読みなさい。この、書籍商の業界用語はわざと使ってみた。慎重にならなくていいと言うために。期待するなと言うために。鈍感になるなと言うために。こうして曇りのとれた目を見開くだけで、すぐに見えてくるものがある。」 シャルル・ペギー『クリオ 歴史と異教的魂の対話』p.310

*12:ベルクソンの逆円錐モデルと2つの縮約から出発し、脳科学精神病理学臨床哲学の知見を絡めながら、物質/実在から記憶/表象が立ち上がる際に影絵のように成立する私性/同一性について考察された兼本浩祐『なぜ私は一続きの私であるのか ベルクソン・ドゥルーズ・精神病理』は、物来たりて我を照らす=カント的実体の成立から反照されるように「私」が立ち現れて持続するという主体理解から、面前他者との同期的了解=世間のお喋りと曖昧さへの宙吊り=ハイデガー的現存在への頽落そのものに「私」成立の重大な契機を見出す議論に、染み入るものがありました

7月雑記(政治と恥辱)

 
 最近、加速主義周りの文章を少し読む機会がありました。日本で話題になった18年当時は金が無く鬱だったので、気分には合致したものの、今落ち着くと「Exit」というフレーズ以外に乗れる論点は見当たらず、情報摂取も作品受容も減速著しい傾向にあります。
 
 それでも、マーク・フィッシャーの「ヴァンパイア城からの脱出」*1が端的に示した「Twitterのリベラル左派だめっぽい」問題の重さはコロナ騒動のあれこれで改めて実感されており、都知事選の虚無にも言葉なき近頃ゆえ、全く勉強してこなかった政治思想を表層だけでも撫でる動機にはなりました。
 
 
 でかい話をする前に、自分が置かれた具体的なしょぼい政治的情況を簡単にまとめておきます。
 
 人生の要所要所で不思議と高遠るいファンに救われてきた人間なので、周囲に残った数少ないオタ知人は基本的にアングラ性を保持しながらの穏健な庶民良識派、ネット政治では炎上シーンに介入するよか静かに愚痴り、Twitterでは啓蒙不可能な後続と議会政治の腐敗を睨むのに忙しく、その結果として「政治的生の理論的洗練」も「ドメスティックなオタ文脈の思想的深化」も長らく停滞したような、趣味の共同性を生きています。
 
 退屈を覚えたところでむやみに人間関係を広げる歳でもなく、まして運動にも論争にも批評にも能がないため、せめて原理的な資本主義批判、戦後民主主義批判を勉強しながら、「SNSからExitした場所で政治的思考を再構築する」ことの価値だけ書き留めておきたい立場です。
 
 
 
ダーク・ドゥルーズ

ダーク・ドゥルーズ

 

  主体性は恥ずべきものである――「主体化をうながす要因として嘆きは高揚感と同じくらい重要なのです」。主体性は、時代と妥協することで醸成された「混成的な感情」の種から成長してきた。生き残って今もおめおめと生きているという恥、それが他者の身の上に降りかかってしまったという恥、他者がそんなことをなしてしまったという恥、そしてそれを防ぐことができなかったという恥…。[…]しかし、実際のところ、恥辱としての主体は派生物でしかない。[…]それは「〈可視的なもの〉の塵のなかを舞う微粒子であり、匿名性のつぶやきのなかに置かれた可動性の場」のようなものである。もちろん、事態がこうであっても、自らの恥辱に固執するのを抑えることができない者もいるだろう。だから、ドゥルーズアイデンティティ・ポリティックスに対してはただ嘲笑するだけなのだ――「いまだに「私はかくかくしかじかの者だ」と思い込んでいる人たちに対抗しなければならない…。とっておきの体験とかいう論旨は劣悪な反動の論旨なんだよ」。

(p.54-55 「存在の絶滅」)

 
 近視眼的にオタの立場から「反リベラル」を口にすれば、表現の自由戦士に取り込まれるだけですから*2、それとは異なる抵抗の仕方を考えたかったところに、ニック・ランド『暗黒の啓蒙書』解説(p.268-9)で訳者の方が「せめてこれぐらい尖れよ」的に触れていた、米国のリベラルな反戦運動の挫折と不可視委員会の影響を背負ったアンドリュー・カルプの書は刺激的でした。
 
 自閉と疲労に凝り固まった身体ゆえ、街路に繰り出すタイプの反抗は今後もできそうにない一方で、一時的自律ゾーンのようなインターネットラディカリズムにも希望が持てない状況下、「繋がり至上主義」を睥睨しながら逃走、切断、共謀、野蛮人、不透明性、非対称性を対置する、抑制的かつ非身体的に革命の夢を留め置く本書は、その乾ききった陰鬱さに染みるところがありました。
 
 人間本性を変形させる残酷の情動*3の構成はネットではむずそうですが、せめて抱えた「破壊と死を多方向に減算中継する」*4ように物を書きたくは思われます。
 
 
 
改訂版 全共闘以後

改訂版 全共闘以後

  • 作者:外山恒一
  • 発売日: 2018/12/16
  • メディア: 単行本
 

  […]欧米でのポストモダン論議が60年代末の学生反乱をポジティヴに受け継ぐものとしておこなわれたのに対し、日本でのそれはむしろ正反対の性質を帯びていた。欧米では”68年”を肯定的に評価する文脈を持ったポストモダン思想は、日本では”68年”(全共闘運動)を否定し排撃するための道具として利用されたのである。

(「序章  ”68年”という前史 1.通史の不在)

 
 2010年代は政治の時代、と巷間雑駁に言われる際、「オタク的主体性と政治・思想的言説の関係が捻れまくった特殊日本的な土壌」があまり問題化されないどころか、もはや解決不可能な所与であるかのように、暗黙裡に議論から切断される傾向に引っかかりを覚えてきました。
 この背景にはやはり、「政治の忌避と全共闘世代への敵意を新人類世代と共有するポスト新人類世代の例えば文化体験は、オタク的なるもので一色に染め上げられており、したがってオタク文化の変遷を軸に80年代史や90年代史を記述し、80年代半ば以降のマンガやアニメやゲームに関する瑣末なあれこれについて、何か自らの”世代”にとって重大な問題であるかのように語り散ら」した00年代批評の功罪があり、自分も依然その圏域に魂を縛られたままです。
 家の近所に前進社があったこと以外、全共闘的なものとの接触が一切なかった高卒なので、外山氏周辺の仕事も憧憬混じりに眺めているに過ぎませんが、「オタ大衆やリベラル派やクリエイタークラスの声ばかりでかいSNS政治は現実の矛盾を覆うだけ」という現状認識において、東浩紀氏と外山恒一氏という一見正反対な思想家の意見が合致した対談は印象深く、我が意を得たりの感すらありました*5
 オタクというアイデンティティを保持したまま政治的表象を振りかざす同時代のネット論争に、ほとんど存在論的なまでの「恥辱」を感じて引き篭もってきた人間ゆえ、同一性を殺す読書は続けたい一方で、最近は、わが思春期の揺籃たる「00年代的なもの」「オタク的なるもの」を如何に変形しうるのか、また、自分のようなロートルオタクの「主体性」を広く規定しているであろうこの「恥辱」を、捨てるとは言わずとも如何に宙吊りにできるのか、という問題意識も明確になっています。
 
 
 
新版 テロルの現象学――観念批判論序説

新版 テロルの現象学――観念批判論序説

  • 作者:笠井 潔
  • 発売日: 2013/01/31
  • メディア: 単行本
 
 アニメをはじめ日本のサブカルチャーを偏愛する諸外国の少数派の若者には、ポストフォーディズムとコントロール権力の例外社会や新自由主義国家に不全感を覚えているタイプが多い。この点からすればハルヒなどはグローバリズムへの文化的抵抗として、欧米や旧社会主義国発展途上国の若者に受容されている。日本のサブカルチャーが68年のカウンターカルチャーの記憶を、意識的無意識的あるいは直接的間接的に継承しているからだろう。(p.457)
[…]世界史の中間的過渡期に規定され動物のユートピアを無自覚にも礼賛したゼロ年代批評とは異なる観点から、68年の文化的闘争の持続としてアニメやゲームを検証する作業は依然として残されている。(p.459)
 
 なにしろ、切迫感あふれる内在的テロリズム批判を重厚長大積み重ねた果てに、68年ラディカリズムの帰結と継続を涼宮ハルヒに見出してしまったマルクス葬送派のこの大著こそ、山形浩生氏の書評が示すとおりの壮絶なガッカリ感において、「我々大衆のだらしなさを無媒介に肯定することには何か破滅的な問題がある」と直感させるに十分すぎました。
 いたって真面目に現今の世界システムの隘路を見極めた結論として、すげえ大雑把に(富野から押井、安彦良和あたりは安保から全共闘の世代だよねという常識の確認だけして)やっぱアニメしかねえなと短絡する本書にこそ、我々が抱えた根本的な分裂と困難がド迫力で展開されています。
 特に両義的な気分になったのは、テロリズムを生起させる「共同観念-自己観念-党派観念」に対置される「集合観念」の概念において、中世以来の千年王国運動からブランキの秘教的革命結社、そしてフーリエやサン=シモンなどのユートピア社会主義を再評価しようとする記述です。
 というのも、LGBTなどの文脈における「68年テーゼの国家/資本主義による包括=受動的革命」と同様に、まさしく自分が当事者としてオタク文化に誤認している歴史的状況とは、シャルル・フーリエ的な性愛のユートピア反革命的実現」にほかならないためです。
 失われた未来のビジョンを探るためにも、空想的社会主義は重要だと思う一方で、キャラクターとのバーチャルセックスに満たされた自分にとっては、想像的な性愛の平等社会は完璧に実現されきっており、むしろ「動物のユートピア」という00年代の時代精神が半端に語り残した思想的主題を、どこまで引き受け直し変形できるかが課題である気がしています。
 
 
 

[…]「少女」は新木の一貫して特権的なフェティッシュであり、「少女論」とは少女が無であることを知るがゆえに、それを「敗北」として享楽しようという態度を指す。

[…]「少女」は唐においても特権的な――おそらく澁澤龍彦あたりを介した――フェティッシュの一つであるが、それは当時にあっては、「土着」や「情念」といったものと同様に、実体的な本質として捉えられる傾向にあった。しかし新木は、おそらく三島がアンダーグラウンド演劇に惹かれたのと同じく、その空虚さゆえにそれをフェティッシュとしたのである。
(p.83 第3章「実存的ロマンティシズム」とニューレフトの創生)
天使の誘惑

天使の誘惑

 
[…]青春という幻想から旅立つことのできない、幼児性をもったダメ中年は、どんなにみっともなく、どんなに醜くとも、その幻想を生き抜かなければならないのだ。生きるとは筋を通すことだ。人は処世訓のみでは生きられない。人は誰でものっぴきならない筋目を背負って生きている。そしてその筋目が人を食ってしまうことがある。私は、私の背負った、たかがしれた筋目に、自分が食い殺されてもかまわないと思っている。青春の幻想から旅立つことができないのなら、幻想としての青春に食い殺されてもかまわないと思っている。(p.223)
JUNKの逆襲

JUNKの逆襲

  • 作者:スガ 秀実
  • 発売日: 2003/12/01
  • メディア: 単行本
 

 しかし、「少女」を「革命」の同伴者として措定するということは、それ自体として、「革命」をイノセントなもの(デミウルゴス的な営為)と見なすことであり、ある種の保守的革命主義と親和的であることをまぬがれない。昭和初期の青年将校運動から三島由紀夫にいたるまで、天皇への「恋闕」として表現されたものは、革命が無垢の「享楽」であるという幻想であるが、吉本隆明の「少女」フェティシズムと、ほとんど同型ではあるまいか。

[…]吉本隆明の「少女」は、吉本隆明にとっても一九四五年の敗戦が、思想において何ら切断をもたらさなかったことを告げている。あるいは、吉本における一九四五年の切断とは、天皇が「少女」と呼びかえられたことだったと言えようか。
(p.144,146 「少女」とは誰か?――吉本隆明小論」)

 

 なぜというに、名倉編『異セカイ系』などの極めて「ゼロ年代」的な小説*6が今なお再生産されている現状が悲しく、その疚しさや「恥辱」のゆえに正当化(義認)への欲望*7を強く刺激する少女文化に対しては、「ゼロ年代」ターム以外での倫理的応答がいくらでもありうること、声を大にして主張したいためです。

 ただ、少女文化の発生を歴史的に捉え直せば、三島的な任意の超越性としての天皇崇拝と重なり合う論点が多く、 ここに真面目な左翼の人に任せるしかない、天皇制や戦後民主主義に保護されたオタには問いきれないリミットがあるとも感じています。
  プロレタリア独裁」に甘えないようにはしたいですが*8王寺賢太氏いわくの「戦後民主主義フェティシズムに対するフェティシスト的闘争」(革あ革p.532)、フェティッシュの糞尿性=ジャンク性を顕にする絓秀実氏の批評にこそ信頼を覚えてしまうのは、いよいよ自分もわがフェティッシュの空虚さに耐えかねて、空虚ゆえに信じる構えにも飽き始めているためです。
 
 それでも、異様な文体をもって「少女」の形象にいち早く政治的敗北に基づくロマン的イロニーを託した新木正人のように、我々は自らの幼児性に一生を賭けて責任を果たしうること、「ゼロ年代」言説の息苦しさを超えて何でも読めば読めることだけは、信じて生きたいところです。
 
 
 
少女機械考

少女機械考

  • 作者:阿部 嘉昭
  • 発売日: 2005/09/29
  • メディア: 単行本
 
[…]少女機械、それは――高度資本主義の資本運動のなかで、波動・連鎖してくる少女性の形象を、もう少女たち個々の単体として捉えない感覚上の設定だった。
 少女はそれ自体が複数体を内包している。ところが少女は、自らまとうもの、自らの周囲にあるものを、少女化してしまう脅威でもある。その際に少女は自らの生に離反する死をも取り込んでいて、それが「死の衝動」とつうじあう資本の自己回転衝動と精確にリンクしているのだった。だから少女機械の時代は、資本主義の終焉まで続くだろう。(p.288-289)
 
 フーリエ的な突き抜けた変人(加速主義においてはリオタール『リビドー経済』など)の奇書的ビジョンにアナロジーするほか表現できない資本主義リアリズムのバッドトリップの中で、それでも信じざるを得ない神聖な汚物=ジャンクとしての少女文化は、その自動性、無前提性、脱論理性にこそ本質があるよう思われ、ドゥルーズ的に書かれた資本主義批判の少女論として、腑に落ちる一冊でした。
 
 Vtuberにおいて徹底的に大衆化した、消費専一体として少女的に生きるオタが少女そのものと化す現象は資本主義の必然であり、資本=少女に屈服しながらフレンチセオリーを現状追認的に読んでいる自分の立場など、あえて言えば「形而上学的オタク保守」に過ぎないと思われています。
 
 ゼロ年代批評にまして「オタク文化のリアリティを形而上学的に語りたい」というグロテスクな神学的欲望が激しい一方で、(積んでる大著『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究』から目を逸らして放言すれば)キャロル的な表層の意味の戯れが裂けてアルトー的な深層に落ち込んだ体感も久しく、既存のコンテンツ評論に棹さして「政治の美学化」に与するくらいなら、ネット言説では露悪的にでも「芸術の政治化」を志向したいところです。
 
 
 
 百合概念の乱用に矜持を示した序文と映画パートに迫力があるだけに、個人百合ファンの怪電波(劇場版ラブライブ)と定評ある駄作を駄作と罵るだけ(ハーモニー、フリクリオルタナ)の文章が入り混じったアニメパートには、百合(ファン)フォビアを逆撫でしてしまう隙があって惜しい一冊でした。
 自分は具体的に言うとたまごまご氏などのオタクイデアリズムが長年苦手で、気楽な美少女コンテンツ語りが高じて「政治の美学化」を機能させている広汎な状況こそが問題であり、そこのところまで視野に入れて「百合」概念を変形させる理論的なガチ言説を期待してしまいます。お会いした印象でも、著者の方ならできる気がするので。
 構造憎んで人を憎まず、の基本姿勢で一応言い続けるべきことは、素直な美学的言説が政治的緊張を保った人間の言説を不可視化する、コミュニケーション資本主義下の暗黙の(リンク数やフォロワー数などの)格差構造*9こそ、オタク文化内部の個体に歪んだ「自己観念」を発生させている当のものである、という解消不可能な不幸かと思われます。
 
 
 

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 以上、「オタクと政治」という気が滅入る主題を長々と書きましたが、最近人に借りて「季報唯物論研究」のアニメ批評特集も読み、「消費環境整備としての大衆文化批評」の不可能性を生きた更科修一郎氏の文章に加えて、今なお判断が難しい問題である「アニメ批評の不在」を語る山本寛氏のインタビューもまた、最も気が滅入るがゆえに忘却できない文章かと思いました。
 
 京アニ事件を受けた近頃の山本寛氏は、我々の曖昧な共同性を担保するクソ概念であるがゆえに、「オタク」という言葉を使ってはいけない、つまり「オタクは存在しない」と言い続けることを政治的課題とされています*10
 
 突き詰めれば自分もこの戦術には賛同せざるを得ず、「部落は存在しない」「在日は存在しない」「女性というものは存在しない」といった非全体の論理を、マイノリティではなくなってしまったがゆえにオタク論においても貫くこと、宮崎事件以来の被迫害者パラダイムを引きずった自己疎外としての「オタク」概念を享楽しないようにすることは、社会倫理的に要請される論点かと思われます。
 ただ、そこから導出される「オタとしてすら表象できない生」、「どのような理論でも贖えない生」に誰もが耐えられるはずもなく、「限界中年男性」などでユーモアに昇華できるならさておき、リベラル市民社会の理論的陥穽として反動に繋がる契機は残りますから、そのうえでやはり自分は、自らの歪みきったファルスに局限することで「オタク」概念を享楽し続けざるを得ません。
 こうした保守的な立場にとどまる以上、どうしても自分はSNSをやめるしかなく、地に足のついたコミュニティを地道に生きるべく、もし野垂れ死にしなければ、将来は手狭でない家を買って読書会や鑑賞会でも開きながら老いていきたい、などと愚考しています*11

*1:mAteRiAmaTRiX.com: マーク・フィッシャー「ヴァンパイア城からの脱出」(1)」、「mAteRiAmaTRiX.com: マーク・フィッシャー「ヴァンパイア城からの脱出」(2)

*2:二次元ポルノにしか実存を賭けられない存在の悲惨は当然共有しており、繋がりさえあれば友情も感じた筈ですが、その問題を内面で負い続けるのに疲れた人間としては、曖昧な同族意識に発する「恥辱」以外の感情で、時代精神に応接したい季節にあります

*3:江川隆男『死の哲学』

*4:『ダーク・ドゥルーズ』p.211 [応答3]江川隆男「破壊目的あるいは減算中継――能動的ニヒリズム宣言について」

*5:リベラルからラジカルへ――コロナ時代に政治的自由は可能なのか(1)|外山恒一+東浩紀 | ゲンロンα革命はリアルから生まれる――コロナ時代に政治的自由は可能なのか(2)|外山恒一+東浩紀 | ゲンロンα

*6:メタミステリとしての結構はさておき、細部に「クラインの壺」「パフォーマティブ/コンスタティブ」「安全に痛い」などのゼロ年代批評用語を散りばめながら「キャラクターの被造物性/実在性に対する倫理的衝迫」をポリコレ的地平に留まって問題化した挙げ句、「主人公のキャラクター設定シートにヒロインが少女変体文字で注釈を書き込む」という極めて大塚英志的な形象をブチ込んでくるヤバい作品で、我々はいつまでこの閉塞感に耐えなければならないのか、なろう小説を批評的に繰り込んだ上で素朴な先祖返りをするのは反動では……とメフィスト賞嫌悪が復活した一作でした

*7:

*8:『大失敗』2号 巻頭言

*9:現代思想2019年6月号 特集=加速主義』水嶋一憲「転形期の未来 新反動主義かアシッド共産主義か」など

*10:オタクがいなくなる日 | 山本寛オフィシャルブログ Powered by Ameba」など

*11:曖昧にリベラルな罪悪感に流された結果、大状況に参与しえない無力感と些末な同族嫌悪に耽溺してしまう大衆の神経症的傾向が、特に自分の過去を踏まえて気になってしまう人間です。だらしない我々ネット大衆では解決不可能な「政治性」を互いに糾弾し合うぐらいなら、Twitterは大衆の阿片と弁えて詩か冗談か更新告知だけを書くべきと考えています。SkypeやDiscordなどもROM専に回るタイプなので、月に一、二回人と会う以外は黙々本とコンテンツを摂取する生き方で最近は落ち着いています

バーチャルセックス依存症者が見る『異種族レビュアーズ』

 
 自分は長らく以前から、必要がなければ極力外に出ない在宅仕事一筋の人間で、たまに行く図書館が使えなくなった以外、コロナ以降もほとんど生活が変わっていません。まるで、最初からキャラクターという悪質なウィルスに冒されて、自主隔離でもしていたかのように。
 
 
 罹っても多分死なない若輩として、国家とメディアの同調圧力には無関心を表明しておきますが、仄聞だけで気鬱になるのはDVの急増で、家にこもれば女を殴るしか能がない大量の「社会人」の存在は、「引きこもり」を社会問題から模範的生へと反転させるかのごときメディアの掌返しすら、甘んじて容れさせるものがあります。
 
 生来の人間嫌いとしては、「パートナー以外と濃厚接触しづらくなって人類も大変だな」と同情の念を禁じえず、精神面どころか身体面でも「性関係の不在」は今後ますます明白となって、オナニストの隠然たる覇権時代を新型コロナが裏打ちするわけか、と改めて感慨深いです*1
 
 
 不要不急の外出で抵抗を示す代わりに、チープな現実を贖うジャンクなポルノ消費の内的経験を記述しておくので、「若年大衆の政治動員」を真面目に考える向きは、敵情視察にでもご活用ください。
 
 
 

プロダクトについて

 古くからドラゴンマガジン富士見ファンタジア文庫ライトノベル作品(豪屋大介又は佐藤大輔のセックス&バイオレンス『デビル17』をはじめ『ご愁傷さま二ノ宮くん』『まぶらほ』『風のスティグマ』とか)のコミカライズを柱とする傍ら、オリジナル掲載作では『かりん』『仮面のメイドガイ』『おまもりひまり』『京四郎と永遠の空』などの裏2000年代を代表するアレげなメディアミックスコンテンツを輩出してきた、KADOKAWAブランド古株の富士見書房による月刊ドラゴンエイジという漫画雑誌は、近年ですと『マケン娘っ!』トリアージX』『トリニティセブン』のポルノ三羽烏をたびたび表紙に起用しており、ウェブ版ドラドラしゃーぷ#の看板が個人エロ同人由来の『異種族レビュアーズ』(と件の『宇崎ちゃん』)なのもむべなるかな、オタク・ソフトポルノの歴史に地味な傷跡を刻み続ける一大核実験場です。
 アニメ版はうのまことキャラデのお馬鹿ポリティクスアクションの佳作『RAIL WARS!』(14)や、ティー・エヌ・ケーから引き継いだお色気ラノベ原作『ハイスクールD×D HERO』(18)、まんがタイムきららセンスをKADOKAWAがパクった4コマ雑誌・コミックキューン掲載の原作を『ヨスガノソラ高橋丈夫監督が類稀なる「日常系ポルノ」に仕上げた『ひなこのーと』(17)などの制作会社パッショーネが手掛け、これまたプロデュースレベルで業を背負った企画と見えます。
 
 隆盛著しいグルメレポ漫画の形式に*2『ファンタジーRPGクイズ』シリーズなどを参照したTRPGリプレイ風のリアリティを注入した*3本作は、「なろう異世界系」よりも若干厄介なオタク頓智の結果として、ファミ通ゲームレビューと実話誌風俗レビューをドッキングし、「ファンタジー世界の非-人間の娼婦がもたらす性的快楽のクロスレビュー」というモチーフに到達したソフトポルノです。
 

 4巻まで読んだ印象では、性行為を評価記述に置き換えたイメージショットが多いのもあり、設定のどぎつさに比べるとあっさりした読み味で、原作者のWeb出身らしい軽薄なりに奔放な発想力を、人外娘出身の作画担当者がのびのび表現したようなイメージの多産が特色と思われました *4
 ポルノ造形の勘所は押さえつつもデフォルメが強く、ぱきっとした線の強弱とざっくりした塗り・描き込み方は、湿った情念のない健康な過剰性をするっと読ませ、オタイメージの多形性を無邪気に言祝ぐ爽やかさを感じます。
 
 前述したグルメレポ的フォーマットに抑制された、セックスワーク」とカタカナ語で表記してもギリ違和感のない明け透けな生活感覚が、ボンクラ中年に馴染み良い「悪場所ならではの和やかさ」を醸した手付きも印象的です。もちろん、「娼婦」「風俗街」といった直截的な表現を回避した範囲内で、ですが。
 
 巻を追うごと「普通に雑な絵」に寄ってる感はありますが、あまりいやらしさを感じないさばけた感覚は一貫して好ましく、ドメスティックなオタ文脈なのに海外ポルノのような距離感で読める塩梅は、美点と言ってよい気がします。
 
 
 ただ、そうした原作の巧緻と文脈が見えづらいアニメ版は、原作よりもハイカロリーなうのまことキャラデが風情を全てひっくり返し、異常に浮薄な男根崇拝に見えて超ドキドキする危うさなのも間違いありません*5
 
 

イメージについて 

 バーチャルリアリティ、ドラッグ、ゾンビ、食肉処理場、殺人犯、オカルティズム、チベット仏教、マインドフルネス、瞑想、ラジオ、死、猫が詰まった完璧な海外アニメーション『ミッドナイト・ゴスペル』に唯一足りない要素はセックスです。

 

 『ミューティクルドリーミー』と『プリンセスコネクト』にチンコバキバキで忘れがちですが、『大家さんは思春期!』(16)などで丁寧な手付きを窺わせる一方、『みるタイツ』(19)のフェティッシュ処理にはうんざりさせられた*6小川優樹監督によるアニメ『異種族レビュアーズ』は、OPからしてYMCA風の下ネタコミックソングに乗って高速カットのセックス三昧です。
 
 キャラクターに快楽以上のものを求めないことにしているバーチャルセックス依存症者としては、自分の荒廃した性生活を全力で肯定してくれる象徴性が好ましいと同時に、「俺の本音を全部言うなよ」と後ろ暗い気分にもなるOPで、とりわけ、好みが分かれる金髪エルフに代わって「なるほどそれなら最高じゃん」と爆乳牛娘で手を打つカットは待ってください!と引っかかり、そうですね……それはそうですけど……そこで肯んじる力強さには勇気付けられますが……色々と説明責任が発生してませんか……?(CV:富田美憂
 
 
 
  わたなべわたるにしまきとおるなどのエロ漫画作家に遡る二次元巨乳・爆乳表現は、河本ひろしなどの少年漫画アマルガムな童顔巨乳表現や、みむだ良雑*7などのロリ巨乳表現を派生させ、最近全然漁ってませんがその系譜のヒット作家だとクール教信者になるのでしょうか。このへんのエロ感性を、ニコニコ-MMD-iwaraの3Dエロダンス文化において深化させているsilo9などのクリエイターにも、自分は以前から注目しています*8
 
 加えて、二次裏junなどのエロコラ文化が盛んな画像掲示板で超乳表現が煮込まれていった事情については、特に歴史化不可能ですから、そうした「ネットのエロ画像でシコってた若い頃に好きだったアングラエロ感性」が表舞台に引っ張り出されたような居心地悪さは、ちゃんと乳牛を娼婦として表象している本作以上に、『すのはら荘の管理人さん』(18)や『小林さんちのメイドラゴン』(17)にこそ抱いてきたことは証言します。
 
 もちろん、実写文脈も踏まえてこの視覚的快楽を説明するなら、BACHELORなどの巨乳グラフ誌、ラス・メイヤーなどのセクスプロイテーション・フィルム経由で輸入されたアメリカ豊胸文化に当然由来し*9オタク文化に「アメリカの影」見たり! 江藤淳の『成熟と喪失』を嫁!!!と言われて、何を今さら、と言えるぐらいの歴史感覚は持ちたいわけです。
 
 手早く『巨乳の誕生』などを参照しても、2000年代以降はオタク文化に限らずAV・グラビア含めて「童顔巨乳が最大公約数」なのは確認され、メディア時代の過度に視覚的な我々のセクシュアリティにおいては、「なるほどそれなら最高」な基本ラインに位置づけられるようです*10
 
 
 しかし、本作はそれに加えて、主に徳間書店がキャッチしてきたモンスター娘文脈から、海外ケモノエロ的なキッチュな幼児性までを取り入れた無節操さが難解の度を増しており、「何をどうセクシュアリティとして言明すべきか」も定かならないこの祝祭性を、いかに受け止めているのかだけは、明確にしたいと思わされます。
 
 

ポリティクスについて

 ところで、自分はこうした大衆文化のディティールに固執しても、人間の根源的な性の問題を記述できるとは思っていません。危うい表現が広く目に触れる機会があれば、文脈の整理と葛藤の身振りぐらいは、ネットの片隅に残しておきたいだけです。
 
 それはもちろん政治的なストレスに促されてのことですが、先に触れた『宇崎ちゃん』の騒動やラブライブのスカートとか、断片的に漏れ聞こえた地獄の詳細は調べる気が起きませんし、本作もまた周辺の言説をまったく観測せずに一人で鑑賞しました。
 
 さすがに胸を張って主張しておきますが、ここで私は「政治の否認」をしているのではなく、「もっともらしい政治的表象(Twitter論壇?)とは離れた次元で政治性を引き受ける実践」を模索しています。
 
 日本版ポリティカル・コレクトネスのもとを正して、華青闘告発以降の新左翼みたいに、陰惨な自己批判・同族批判をオタの立場から書いてきた当ブログですが、「こういう文章を書いてもネット論客レベルの議論では当然黙殺される」という事実だけは、証しえたと自負しています。
 
 一息で立場を明確にすれば、私は「内面の神秘を性産業に売り渡した人間が深刻面をしても何も変わらない」という滑稽を演じ続けることで、逆説的に、「無駄な神経症を斥けて黙ってポルノに充足しているオタクの繊細な動物性こそが最もラディカルであること」を擁護しようとしているわけです。
 
 
 このような立場を、本当に政治的に可視化させたいのであれば、いい加減に「オタク」概念自体を捨てて、「大衆文化に殉じる無名の質実な労働者」から「Twitterで発狂してる馬鹿」までのグラデーションを表現し、可能であれば「敵」をも明確に名指せるような思考を提示しなければいけない、とは分かっています。
 
 それが手に余る以上、ひとまず巨視的には「オタク的主体のリアリティと市民社会の倫理の両立不可能性」という危機を確認しながら*11、微視的には「作品経験の陶酔を固守するためにこそ原理論の勉強が不可欠であること」を表現しているわけです。
 
 
 そして、私が実在しない”もの”としての「オタク」概念で本作を逆形而上学的に語ってしまうのは、「大衆文化の歴史化不可能な諸細部」を「娼婦」の形象に集約させた本作が、もはや我々は「キャラクターで射精できること」以外の共通性を持たない、という「オタク的主体のリアリティ」を裏付けているからにほかなりません。
 
 
 本作の想像的な特色である「ポルノイメージの多産・文脈混交性」は、象徴的にも「多種多様な異種族の雌雄が自由に快楽を交換する歓楽街」というあまりに直截的な世界観に支えられており、異「種族」という生物学的分類に個体のセクシュアリティが(ほぼ)均一化された描写と相まって、あえて政治的語彙で表現すれば「能天気な男根主義で文化的多元性を謳歌する」ようなグロテスクさをたたえています。
 
 ポルノグラフィックなキャラクター文化の多元的肯定が、生物学的表象によってしか実現されないこと。「差異」と選択そのものに価値を置き、選択に先立つ重要性の地平を等閑視する「文化的多元性」の虚しさ。共に根を欠いたオタク文化リベラリズムが、恐ろしい野合を遂げそうな危うさは否定できません。
 
 まして、性的快楽を評価記述で媒介するグルメレポ的な原作の処理、つまりは「性の過剰を言語によって媒介するしかない」という最低限の人間らしさを、脂っこいサービスシーンに置き換えたアニメ版の演出には、 「言語的に構造化された無意識」という意味での、近代的なセクシュアリティの観念を笑い飛ばすような、陽気さと残酷さが見出されます。
 
 
 こうしたセクシュアリティの不在と表層性に、どう耐えているのか、は一応記述しておきたいわけですが、リベラル言説が国家権力に容易く回収されるようなコロナ騒動を見てしまった最近はもう、左右以前の未分化な状態に後退して、「クールジャパン」に回収されない「オタク的主体」のキモさを一貫させることだけが、重要である気がしています。
 
 
 そもそもセクシュアリティの定義とは、「性に我々が付与する意味」以上でも以下でもなく、言い換えれば、享楽に対する防衛、永遠に続くトラウマの穴埋めを、ある「人間」の「主体性」にピン留めする名詞的表現に過ぎません。
 
 本作に見られる「非-人間」の「歩く貨幣」としての「娼婦」とは、フェティッシュの空虚さを極限まで引き受けた形象であり、「人間性」や「アイデンティティ」と密接に結びついた「セクシュアリティ」概念自体に頼れない我々の生そのものを、表象しているとしか思えない気分があります*12
 
 
 
 以上のような、本来であれば取り立てて糾弾するまでもない消費文化のだらしなさ、凡庸な荒廃をただ直視し、「ポルノに関する共有できない無駄口」を叩くことだけが、「オタク」概念の全体性を脱臼し、私達を個体化させている当のものであることは、確認したく思われます。
 
 高遠るい氏が貞本義行氏を評して曰くの「手先が器用なだけの馬鹿」が確かに目立つ業界ですから、消費者レベルでも(敵が見えないタイプの)政治的緊張感が高まるのもやむなしですが、オタク系クリエイターの無思想を贖えるのは、私達の思考と言説だけであるという事実は、もう少し諸個人が重く受け止めてもいい気がしています。
 
 異性愛の安さ、凡庸さ、軽薄さ、不定形性を、それ自体として受け止めて思考すれば、性愛の問題系からは必然離陸してしまうがゆえ、「異性愛者の当事者言説」とは「全ての書物」を意味するかのごとくであり、「娼婦」という形象の極限的な表層性には、あらゆる生の深層が託され得ることは強調させてください。
 
 もはや「人間の性的過剰を十全に引き受けうる社会的身体」として肯定する以外にないキャラクター文化を、象徴レベルでも単なる娼婦として、その情けなさや取り返しのつかなさを含めて、一貫性を持って正確に表象してくれる作品を、自分は擁護せざるを得ない、という事情だけは表明させていただきました。
 
 
 
 早漏を取り繕うように遅筆の著しい自分が呪わしく、こういうメイドさんでばかり射精し続けて早4年目、最近は「甘々デレデレでご主人様を信仰している妹系幼馴染」性格のメイドさんとセックスしまくっており、信仰したいのは俺のほうなのに、と絶頂後の空漠もひとしおです。
 
 物象化の只中で娼婦への友情を表明したベンヤミンのひそみに倣い、オタとキャラクターを等しく「娼婦」として思考することは、露悪趣味というよりも、自分の認識を規定している理念と生の根本感情に結びついており、こんな馬鹿話を童貞のまま強弁しなければならない人間になるとは、思ってもみませんでした。
 
 
来たるべき哲学のプログラム(新装版)
 
 女性は対話の番人である。女性は沈黙を受け入れ、娼婦は、かつてのことをあらたに創始する者を迎え入れる。だが男どうしが語り合うとき、嘆きを見守る者は誰もいない。男たちの対話は絶望と化してうつろな空間に響きわたり、冒瀆の言葉をまき散らしながら、大いなるものをつかもうと手をのばす。二人の男が集まると、きまって挑発しあい、あげくのはては銃と剣に手が伸びる。男たちは猥談によって女性を滅ぼし、逆説が大いなるものを力ずくで強姦する。男どうしの言葉は結託し、同性どうしのひそかなよしみを通してますますいきおいづく。魂をもたぬ曖昧な言葉が、おぞましいばかりの論法を駆使してもなお隠しおおせぬまま、大手をふってまかり通るのだ。男たちの前には、あざ笑いながら啓示が立ちはだかり、彼らに沈黙を強いている。だが猥談が勝利をおさめ、世界は言葉によって組み立てられることになったのだ。 
 いまこそ彼らは立ち上がり、おのれの書物を引き裂き、女性なるものを奪い合わねばならない。さもないと、ひそかにおのれの魂を絞め殺すことになるからだ。  (p.21 「若さの形而上学」)
 
 
 
 

*1:感染を避けるセックスについては「コロナフリー・セックスのススメ—コロナの時代に流行るもの・廃るもの[11]-(松沢呉一) | 松沢呉一のビバノン・ライフ」など。セックスワーカーの貧困や、「若者が感染を広げている」論の欺瞞に関しても、松沢氏が詳しくまとめています

*2:原作単行本ソデの著者コメント参照

*3:『異種族レビュアーズ』原作者インタビューでクリムの名前の由来や幻の没ネタが判明 - 電撃オンライン」参照

*4:漫画については普段書いてないので、いちおう立場を明確にしておくと、自分はテレビアニメ一辺倒で出発したオタとして、紙媒体での漫画受容経験が人より極めて乏しいまま、2015年頃に受けた Web漫画レビューの仕事で漫画体験の言説化を初めて課題とした人間です。『オゲハ』の人や窓ハルカ氏に喜んでもらえたのが良い思い出で、確か『Stand by me 描クえもん』について軽く書き、佐藤秀峰氏に「今どき長文の漫画感想は珍しい」とTwitterで言及された記憶があります。こんなんで。アニメも漫画も長文が足りないのは長らく同じ事情らしい、と印象付けられた身としては、雑誌媒体の猥雑さではなくWeb媒体のつまみ食いに最適化された、現代読者の感覚のサンプルだけでも提示できればと考えています

*5:本作のエグさを解釈しきれず、単なる性嫌悪で批判している知り合いも見かけるので、ポルノを咀嚼するのも骨が折れる作業だよな……色々と整理したほうがよさそうね……という動機で本稿を書いています

*6:『冴えカノ』と共通のウザさだったので丸戸史明由来だと思います

*7:雑破業ジュブナイルポルノ『ゆんゆん☆パラダイス』の挿絵から好きなので、最近のTwitterでは鬱っぽいのがつらいです

*8:あえて政治的に意味付けておくと、村上隆の例の露悪的な母乳縄跳びフィギュアでベタに射精してやるような動物性にこそ、オタクのラディカリズムを見出している感覚は昔から変わりません

*9:このあたりは稀見理都『エロマンガ表現史』長澤均『ポルノ・ムービーの映像美学』などを参照

*10:関係ありませんが、「妻の母乳を求める男性たち─この“慣習”を“伝統”にしてはいけない | 懸念高まる女性と赤ちゃんへのリスク | クーリエ・ジャポン」などを読んでも、人類は所詮この程度、無意識の欲望に成熟など無いという確信は、いよいよ深まる近頃です

*11:「悪無限としての動物」である我々が抱えたアイデンティティ・ポリティクスの不可能性とは、これまた『政治的動物』に感銘を受けた論点です。ポリティカル・コレクトネスも煎じ詰めれば経済的諸関係に規定されたイデオロギーのひとつに過ぎないこと、よってオタク産業と同じほどにリベラル言説にも肩入れできない事情については、手早く『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』なども再確認いただければ

*12:私は、ざっくり「萌え属性に対する規律訓練に基づいた神経興奮作用で射精しているにすぎない」という『動ポモ』当時における東浩紀氏のオタク観が、それ自体として「オタクはセクシュアリティを語っても意味がない」という「大きな物語」を機能させてしまった気がしてなりません。そのような「生物学的還元」と、ゼロ年代批評がもっぱら「KeyやTYPE-MOONなどのエロくないノベル系エロゲが大好きな第3世代オタクの自己肯定」として受容されてしまった事実は、表裏の関係にあるよう思われます。それが悪いわけではなく、むしろ私達の性の条件を明確に証した歴史として引き受ければこそ、私は「セックスの無意味を否認/軽蔑したポルノ評論」を斥け、生物学的次元に切り詰められた「剥き出しの生」を肯定する人間/動物として、「オタク第4世代」を名乗りたい気持ちに駆られています

雑記:ジェンダー化された「動物化」概念について

社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103)

社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103)

 
 「オタク」と呼ばれる社会集団を正確に把握したい気持ちで手に取りましたが、かなりクセの強い一冊でした。
 
 宮台真司サブカルチャー神話解体』の批判的継承と聞いて*1期待した感じとは異なり、「ブルデュー適当に使った量産論文やばいので理論から再整理しようね」という地味作業がメインで、それを経ての最終章「動物たちの楽園と妄想の共同体」では、「練馬区男女2000名の調査データをサンプルにオタク文化受容様式をジェンダーセクシュアリティで分けて見たら、女性オタクはやおい的な相関図消費、男性オタクは東浩紀のデータベース消費/動物化論を経験的に裏付けられたよ」というアクロバットを急に仕掛けてきます。
 
 普通のオタの人が読んだ場合、ディシプリンで完全武装したおっさんが性急にちんこを蹴ってきて怖い、という読書体験になります。「自らをオタと規定して読んだ場合に反感を覚える」度では、近年稀に見るヤバさでした。
 
 自分は計量データを全く読めない人間なので、そのあたりの問題は措くとして*2、そうしたオタ反感レベルでのプチ炎上は兵頭新児氏の書評*3などがあります。個人的には、本書に関連した何かのTogetterで「社会調査にも金がかかるのよ」という北田氏の発言を見かけ、世知辛さで色々どうでもよくなりました。
 
 社会学の本は苦手なほうで、『断片的なものの社会学』は良かったけれども、『社会学はどこから来てどこへ行くのか』は目を通すだけで精一杯でした。本当は、オナニー言説史を通して近代日本社会の全体像に肉薄することを試みた赤川学氏の名著『セクシュアリティの歴史社会学*4みたいな本をもっと読みたいのですが、おとなしくこのあたりを読んだ感想だけ書いておきます。
 
 北田氏の議論の是非はさておき、死ぬほど雑にブルデュー用語を使って証言すると、「参入障壁は高いが教養主義的卓越化のゲームが機能しにくく、ある意味で「動物化」した場といえる」アニメという界を自分が生きてきた体感、確かにテレビアニメ言説は卓越化の利得が薄い*5世界であり、極めた諸個人がそれぞれ勝手に煮詰めまくって嫌な緊張感を醸した場だとは思います。そこで目立った発言をする機会すら持てないまま、時代の速度と物量に黙殺されて、孤立したタイプの人とばかり付き合ってきた気もします。
 
 そもそも自分は、映画やSFといった上の世代の文化教養が重すぎ、無料で手軽にハビトゥス化できたアニメ視聴だけ愚直に続けていたら、同世代の中では謎の過剰差異化を遂げてしまったらしく、音楽もまたライブやクラブなどの現場を持たずに、映像記憶と密接に結び付いたアレンジド派手な女性声優楽曲で脳みそじゃぶじゃぶも未だに飽きず、順調に引きこもり続けています。
 
 そうした思春期を反省的に振り返るべく本を読み始めたと思ったら、下品であるほどうまくいくトランプ時代に入ってしまったので、実を言えば、象徴闘争という概念ほど虚しく聞こえる言葉もありません。
 
 たまにバズって目に入るVtuber文化論とかは本当にしんどく、「時間を余したやんちゃな中産階級男子の手慰み」という論者自体のポジションが問われないサブカルチャー研究が、明らかに相対的貧困に置かれている当事者達の卓越化ゲームに利用されているような光景を見て、世の無情を感じるしかない歳になってしまいました。
 
趣味の社会学 文化・階層・ジェンダー

趣味の社会学 文化・階層・ジェンダー

 
 北田本と近い領域の研究かな、と思って手に取りましたが、北田本よりも古いデータで「文化的オムニボア(雑食性)」仮説を綿密に検討した本でした。
「なにより男性(および働く女性)は大衆文化化しなければ、会社で、社会生活で、生き残れないという状況に置かれている可能性が高い。[…]その結果、文化資本を家庭から受け継ぎハイカルチャー志向の高学歴男性も、学校や会社生活ではそれを隠し、あるいは自ら大衆化の路線を選び、文化的オムニボアとなっている。[…]
 それによって、文化による差異化や卓越化は、男性中心の労働世界や公的場面では姿を隠し、文化資本は隠蔽されていった。エリートは文化的オムニボアになるという仮説どおりに、日本の男性学歴エリートは大衆化したといえるだろう。その結果、みんなが文化的に平等で大衆的であるという言説を誰もが信じるようになる。[…]
 その結果、文化による差異化・卓越化戦略は私的領域に閉じ込められていった。あるいは家庭を通じて、文化資本は主に女性によって温存され、女性を通して(母から娘へと)再生産されてきたのである。(p.368-369)
 オムニボア概念はオタ的にも本当に怖く、ざっくり言えば、エリート男性ですら「ハイカルチャーを脇に置いてソシャゲ一発当ててお金じゃぶじゃぶ」がロールモデルとなった、 「踊る動物」と「踊らせる動物」しかいない、本邦の文化系男子社会の絶望を暗に裏付けているようなアレです。野心的すぎる北田本よりも、堅実にオタ体感を言い当ててきます。
 自分の超貧しい社会経験でも、シュタイナー研究者が親御さんの漫画読み編集者の方とか見てきています。そういう人の脳味噌が大衆文化をどう思考しているのかは、ネットの当事者言説には当然あまり降りてこないわけです。出版業界に入って最初に怖いと思ったのはそこでした。低俗文化に権力闘争を見出すとかができなくなります。
 自分は運良く余暇が多い在宅仕事にありつけて、のろのろとでも色々本を読めて救われたのですが、今度はオタの人と話が合わなくなってしまったので、低学歴がどう本を受容できるのか、という表現を頑張っています。逆文化的オムニボアとでも言うのか、変な生き方に落ち着きました。
 
 ネットで論文でも「分かりやすい解説コンテンツ」でも楽に読める状況下、むしろ紙媒体で集中して本を読む物理的行為の濃密な経験性、記憶と思考への学知の浸潤を強調したい気持ちが強いので、『プルーストとイカ』とかその続編『デジタルで読む脳 X 紙の本で読む脳』などの読書論も気になっています。
 
リベラリズムの終わり その限界と未来 (幻冬舎新書)
 
 確か東氏においては「第3世代オタクに先駆的に伺えるポストモダン人類の生存条件」みたいなニュアンスを含む「動物化」論を、「男性オタクのジェンダーセクシュアリティとしての動物化」としてマジに受け止めて検証してしまった北田氏の手付きは、上記の2冊を続けて読むと、「否定できないぶん異常に暴力的」という感覚があります。暴力的、というより、「オタク」概念の外延がぶっ壊れているというか。
  『社会学はどこから来てどこへ行くのか』では、「当事者に対する暴力性は十分わかった上で社会学やってます」という話題が印象的でした。自分は正直、オタとしての当事者性が薄れてきた立場から言って、こういう暴力を他者に振るいたくありません。オタという言葉を選んだ時点で、「高学歴男性も大衆趣味に迎合して生きている」状況が見えづらくなるためです。
 先に言及した兵頭氏などに見られる「リベラルのフェミ靴舐め」というオタの人たちの反発は(北田氏がリベラルなのかどうかは存じませんが)、「どの範囲までリベラリズムの原理を適用するかを決める規範意識リベラリズムの原理よりも先にある」*6ような、一部文系アカデミシャンの「フェアネスに欠ける鈍い正義感」が限界に達している一事例だと見ています。
 例えば、「ミソジニー」という概念を成人男性が軽々と口にする際、この方自身は普段どのような穢れなき聖女様で清廉潔白なお射精をなさっているのだろう、と下衆の勘繰りが働いてしまうのは、自分も同様です。
 
 
 以上のような文脈で「オタク」概念に賭けられるものは、「消費文化に接して育った平凡な男の子のセクシュアリティをどう政治化すべきか」という課題に絞られるでしょう。
 何の因果か、知的・政治的・経済的に最悪な土壌に生まれ、異常な数の高齢者を養うべく育成される、男の子たちの内面の限りなく憂鬱で繊細な性を、です。
 ある程度迫害されたほうがオタは強く育つ、という当事者感覚はありますが、「超高齢化と財源不足の中でどうパイを配分すべきか」という足元の絶望までコンパクトにまとめた新書を読むと、やはりもう「オタク」概念では何を考えても無駄で、平凡なヘテロセクシュアルが実存的・当事者的に思考する困難の原因は、土壌の腐敗以外に探しても仕方ないように思えています。
 
〈情弱〉の社会学

〈情弱〉の社会学

 
 そうした諦念でどんどんインターネットを見なくなっている近頃なので、情報弱者として生きるための技法論を期待して手に取ったところ、こっちも「最低限度の生存が脅かされた経済状況でどう生きるか」の問題に力点が置かれており、ビッグデータ時代の日本政府が「生かすことに関心を失った生権力」という自家撞着で的確に表現されているのがめちゃくちゃ笑えました。笑っている場合ではないですが、ともあれ過剰接続は減らす方向で生きています。
 
 世界の多様性を認めることは、世界の錯乱と対立を肯定することであり、他者を認めることとは即ち「衰弱」である、という言い方をされたほうが、よほどリベラルな原理が身に沁みます。シオランTwitterbotが完成度高いのでまだちゃんと読んでません。
 パスカル曰く「人間の不幸はただ一つのこと、すなわち、部屋に静かにとどまっていられないことに由来する」というのは、本当にそんな状況ですごいなと思います。
 
テーマパーク化する地球 (ゲンロン叢書)

テーマパーク化する地球 (ゲンロン叢書)

  • 作者:東浩紀
  • 出版社/メーカー: 株式会社ゲンロン
  • 発売日: 2019/06/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 東氏自身の今の立場を確認する意味で手に取りました。周囲のオタやネットの人々が東氏を叩きすぎた感は強く、せめて読んだ上で批判したいけれども、最近の著作は流し読み程度になっています。
 北田氏がなんと2017年の著作で「動物化」論の経験的側面を裏付けようとしていることからも分かるように、私たちの生の複雑さをそれ自体ではまったく表現できないがゆえに、データベース消費や動物化といった概念(を東氏特有の文脈から離れて安易に活用する言説)を、私は軽蔑してきました。
 ご本人は「若かったあの頃にしか書けない本だった」と遠い目になっているので(「『動物化するポストモダン』のころ」)、自分も気にするのはやめて、自分なりの「動物化」概念の受け止め方を考えるに至っています。
 オタではなくIT系の山師に引っかかるタイプの一般層に向けて本を書くようになってからの東氏の、「父」や「観光客」といったキーワードに対しては、何も引っかかりがありません。ゲンロンの動画配信も有料なので、それなら普通に別の本読むかな、でスルーしています。このぐらいのどうでもよさで付き合えるのが一番良かったのかな、と思います。
 ページ数は忘れましたが、「自分は語りの明晰さに文章が追いついてない感覚がある」みたいな発言が印象的でした。確かに本書に限っても、エッセイなどの短文類は整いすぎて刺激が無く、むしろ対談で滔々と喋っている原稿のほうが雑多で面白い。ゲンロンの宣伝動画で初めて動く姿を見た時に、Twitterゼロ年代批評がなければ、かわいいおじさんとして好きになれただろうな、と思いました。
 知人や近い趣味の人なら多少の錯乱や動物性も対等に観測しあえるのでまだしも、学者や研究者のように非対称的な象徴的権威までもがSNSでは一皮剥かれて愚物丸出し、という光景があってこそ、私は「人間」と「社会的なもの」の急速な崩壊を実感しています。疾風怒濤精神分析入門』の印象深い形容を借りれば、我々は基本的に「父の権威が馬鹿としか思えない」倒錯者の立場に置かれている。その意味で、東氏がTwitterを辞めた件には一縷の良心を感じました*7
 
  「批評とはなにか ゼロ年代の批評・再考」という文章で、氏はあの時代の空気を以下のように総括しています。
 もしいまかりに、結局のところゼロ年代の批評とはなんだったのかと問われたら、ある時期、ある世代のネットやサブカルチャーに詳しい読者(それも圧倒的に男性の読者)が、宮台や大塚、東、さらには宇野や濱野といった特定の名前の連なりをまえにしてなにかそこに共通のものがあるかのように感じてしまった、その「かのように」こそが本質だったと答えるのが、もっとも正確な回答ということになるだろう。(p.261)
 この「否定的で辛辣な総括」に続けて、震災以降に批判された批評のゲーム化、読者=観光客の「錯覚」でしかないこと、その無根拠で現実から遊離した「なんでもあり」という批評の本質ゼロ年代批評が暴露したからこそ、『批評空間』的な文芸批評路線とも、アカデミズムとも、アクティビズムとも異なる、批評を生き残らせる第四の道が見出される、とされてはいるのですが、「なのでゲンロンを応援してね!」という中小企業の社長さんらしい結論に落ち着いてしまうのが、今の東氏のかわいさと退屈さかなと思います。
 性の根源的な暴力性から目を逸らすことしかできないリベラル派を当てこすった『増補 エロマンガ・スタディーズ』解説文も入っているのでなおさらですが、一点だけ気になるのは、美少女ゲームの臨界点』を電子書籍化しないなど、「人間と動物の狭間で思考した過去」を隠すような東氏の振る舞いにだけ、若干の不実を感じます。
 素直にゲンロンへ行って同人誌ライブラリーを参照すればいいのですが、なぜ自分のようなアンチゼロ年代人間が「一番面白いエロゲ鼎談は講談社BOXの『批評の精神分析』に入ってるからプレ値で買わなくていいよ*8、あと『はじめてのあずまんω』『エロ年代の想像力』というヒリヒリする同人誌があってね」みたいな話を後続にしなきゃいけないのかな、とたまに思います。
 恥ずかしい過去と言えば、黒瀬氏いわく「10年代の貧しさを代表する」(『ゲンロン8』)コンテンツである『ラブプラス』をやっていた自分の当時の怪文書はてなダイアリーから発掘しようと思ったのですが、Internet archivesでも見れなかったので諦めました。かさぶたを掻きむしる歳でもなくなりました。ラブプラスEVELYは起動して数分で鬱になってやめました。

 

ベンヤミンと女たち

ベンヤミンと女たち

 
[…]つまるところ文士と娼婦のあの連帯関係の根底にあるのは、赤裸々な精神という徴のもとにある生と、赤裸々なセックスという徴のもとにある生というその生存形式の、完全な照応関係なのである。この連帯のもっとも破られることのない例証こそが、またしてもボードレールなのである。(『カール・クラウス』)
 ベンヤミンの道化じみた滑稽な女性遍歴を描く楽しい本なのですが、ロマンティックなベンヤミンの対蹠人として急にバタイユを持ち出し、そのエロティシズム論は「他者としての異性に出会わない」「恋愛ではなく性行動の理論に過ぎない」みたいなことを抜かし始めたので、このクソジジイ、と頭に来ました。
 (ラカン穴兄弟だとか色々あるのは置いといて)頭を冷やして考え直すと、むしろ近代の神話である「恋愛」から遠く離れて「性行動」に生を切り詰めた脳髄オナニストだからこそ、身体的次元で切実にバタイユを読めるのかなと思いました。
 自分は政治的行動や低劣さへの執着といった生全体の次元でバタイユに惹かれており、口頭でその魅力を分かりやすく人に伝えられない未消化の感覚があります。女性研究者の方のバタイユ本が2冊(『脱ぎ去りの思考』『ジョルジュ・バタイユにおける芸術と「幼年期」』)も出るので、早速前者に目を通したところ、明確に哲学的文脈で読んだ新鮮な視角で、ここから整理し直すとクリアになるなと思いました。
 
シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

 
[…]アントニオーニがいうように、もしわれわれがエロスを病んでいるというのなら、それはエロスそれ自身が病んでいるからである。それが病んでいるのは単にそれがその内容において老化し、消耗してしまったからでなく、すでに終わった過去と出口のない未来の間で引き裂かれる、一つの時間の純粋な形態の中にとらわれているからである。(p.32)
 エロスそれ自体が時間的様態において病んでいる。生きる限り動物性に苛まれることは不可避である。そういうドゥルーズの「ある種の叫び」(p.402)が聞こえてくる、好きな一節です。バタイユにおける「動物性」概念もそういうニュアンスで読むことで*9、自分はトラウマ的に嫌だった「動物化」論をやっと受け止めることができた気がしています。
 

  自我というものは、その個人的な本質(自我が、せんじつめれば自らの秘密、あるいは自らの魂と受け止めているもの。あれらのイメージ、自らの情動、思い出の数々、楽しかったこと、欲望したもの、等などの束)に関しては、実在時間から主観的時間への一種の移行でしかないあの実在の第二次的消失を介して構成されてゆく。[…]というのは、ものすごく人間化してしまったために自然界は怪物的になったということなのだ。[…]自然界は、諸欲望のある絶対値を表現する総体のようなものになってしまっている。

 […]時間性によってねじ曲げられ、刻みこまれ、変えられてしまった実在全体には、欲望の過剰、欲望に宿るある権力的帝国主義、欲望には罪が併存することの必要性、呪いによく似た贖いなどによって、すっかり狂いが生じている。[…]原罪、つまり、自然界に増補されたきわめて複雑な時間性、等など(自然的本性の終焉そのもの…)。
(p.26-27 「類似のマチエール=似ていることの根拠」)

  原文がやばすぎるのか、全然分からないのですが、とにかく眩暈のする文章なので、フランス語をやるならシェフェールが読みたいです。

 

政治的動物

政治的動物

  • 作者:石川義正
  • 発売日: 2020/01/23
  • メディア: 単行本
 

  わたしは「犬」である。そのように規定することにいかなる自己卑下も自虐もない。犬はどこかわからない場所にいる。犬は孤独で、怒っており、狂っている。わたしはここまで毎秒二十四コマの写真をスクリーンに投影する映写機と、フィルムに「何かの手違いで」紛れ込んでしまった犬のような存在について語ってきた。このコマの連鎖のようなものを本書では悪無限と呼び、太陽=映写機を真無限と呼んだのである。(p415-416)

[…]今日、わたしたちはたしかに「動物園」と化したこの世界で「狐や、かぶとむしや、石」のような者として生活し、労働している。わたしたちは動物として語り、歌い、要求するが、労働によって己と世界を変形できるとはもはや信じていない。世界と自分自身を変えるために、わたしたちは生と労働の概念そのものを変形しなくてはならないはずだ。(p.417)

[…]『政治的動物』はシステムが「諸個人の純粋な加算へと解体」したのちの、システムから見放された者による、システムに代わる視野をもちえない者の言説である。(p.418)
 日本の賃貸住宅の歴史を紐解き、明治期以来の民営借家では「店子の立身出世へのかすかな暗黙の期待」による家主の「補助金」が慣習化していたことを指摘して、二葉亭『浮雲』や漱石『こころ』といった日本近代文学とは疑似封建的コミュニティに暗々裏に支えられた「補助金」的フィクションであると喝破し、そこから切断・排除された世代としての孤児性を、「賃貸住宅市場が木造共同建ての民営借家から中間層と高所得者のためのマンションへと移行する状況そのもの」(p.75)のうちに描いた作品として、笙野頼子『居場所もなかった』の革新性を明確にした記述に死ぬほど痺れました。
 
 自分は一昨年まで知り合いが一人もいない相模原に引っ込み、1K2万の狭小賃貸で隣の黒人の騒音や近くで起きた障害者殺人に鬱になりながら暮らしていました。今は都内の事故物件で隣の老人のくしゃみを許しながら多少マシに暮らしています。笙野作品に特有の生活感覚がめちゃくちゃ好きだった理由がはっきりして感動しました。異常な思考の自由度で、我々がお互いに「政治的」な「動物」に過ぎない辛さを肯定してくれる一冊です。
 
 といった最近の読書のおかげで(?)、「動物」=「オタク」概念は係争の場として機能し続ける以外になく、その没社会的で曖昧な性格ゆえに、ネットコミュニケーションにおける利便な接続可能性と同時に、主体に何らかの政治的緊張をもたらす概念でしかありえない、という結論を腑に落とせました。
 
「社会的なもの」の崩壊が、情報化された身体の幻想に帰責されること。その快楽と罪業を、政治的動物として語り続けていくつもりです。
 
 

 ところで、「データベース消費」の経験的サンプルとして挙げられていることで名高いデ・ジ・キャラットの生誕秘話を更科修一郎氏が明かしています。
 
 丹沢恵という女性作家によるまんがライフ掲載のゆるかわ4コマ漫画*10にハマっている謎のアニメMAD職人が某ブロッコリーに拾われ、無料配布情報誌に好きな女性漫画家の4コマ作品をどさくさ紛れで載せたところ思わぬヒット、制作スタッフまで彼の要望どおりにアニメ化されて*11、某木谷社長が手柄だけ横取り、といった流れのようです。
 
 データベース云々以前に、やはり我々は少女漫画で射精していたんだ!!!!!というオタ確信が揺るぎないものに変わった記事でした。観念的オタク論が無限に再生産されないよう、こういう現場知をこそ裏付けて整理すべきかと思います。
 
 

 一応アニメ方面の物書きの最末端として生きてきた人間なので、思うところはありましたが、藤津さんやねとらぼに何か言っても詮無いので、思ったことだけ書きます。
 
 この記事で良くも悪くも印象的なのは、ゼロ年代批評を黙殺していることです。自分のタイムラインでは、「アニメライターの人たちが先行言説を引用しない全肯定の作品論ばっかり書くから議論が蓄積されないじゃん」問題*12が再指摘されていました。自分もこれは引っかかるので、一応知っている歴史は証言しておこうと、この駄文を書いています。
 
 こうした書き手の態度が、脱政治的で没歴史的なアニメファンの存在様態を肯定してしまう危険性は指摘しないといけないでしょう。ただ自分は正直、細部には良い議論もあったとはいえ、後続にあのグロテスクなゼロ年代批評を勉強しろ、なんてとても言えません。
 
 私たちはおそらく、ゼロ年代批評のしんどさ*13を歴史的にどう捉えるべきか、を全く共有できていない。先に見たように、東氏自身ですら半ば苦々しくその過去を語っていることからも、それは明らかでしょう。
 
 自分のテレビアニメに形成された愚劣な幼児性、動物性、セクシュアリティを、暴力的にでも「政治的なもの」へと水路付けてくれたのは、結局は東氏や更科氏の言説でしたから、一応さらっておく価値があるとは思います。
 
 少なくとも、上の世代の言説の暴力性に分断されたところから、それぞれの身体と存在を綿密に思考し直し*14、最終的には「オタク」「私たち」といった曖昧な共同性を斥けて生きるしかない歴史的条件に、私は置かれています。
 
 宇野常寛氏がオタクライター保守層の没政治性に喧嘩を売った背中を見てなお、私たちは「オタク趣味において問うべき実存や政治性とは何か」を、まったく共有できないまま苦しんでいる、というのが正確でしょうか。すでに「オタク」という概念で私たちの共同性を思考すること自体が不可能になっている。
 
 私たちはお互いに嫌いあって別々に生きるしかない、という市民社会の基本条件を露呈させたのがゼロ年代批評だった、と自分は思います。全員が全員の言説を基本的に毛嫌いしている。私が生きてきたアニメ言説環境を一言で表現すれば、そういう世界でした。
 
 
 
 記事にも原稿料の少なさが話題に出ているように、自分も実家暮らし*15でなければ生活できない最小限のパイしか配分されなかった人間です。というより、2010年頃に業界に入った時点で基本的にクリエイターインタビューしか仕事がなく、キャラクターで射精するしか能のない動物は困惑して断り、文字起こしと構成だけやっていました。
 
 少数のフリーランスがバラバラに書いているだけで、若い書き手を育てるための制度も予算も理念も無く*16、「批評」概念を原理的に問い直す試みすらない土壌に、「評論活動がシーンとして成立する」ことは今後も無いでしょうし、無くてもいいのでは、と思います*17

 ちなみに『ぼくらがアニメを見る理由ーー2010年代アニメ時評』は、石岡良治氏の著作と同様、それ単体では無難としか言えない書物でした。『21世紀のアニメーションがわかる本』も「私から私たちへ」という図式自体は正直、『君の名は』*18みたいなアニメを観続けてゾンビみたいに内面が無い馬鹿になった我々の現状を追認して何が楽しいんだろ、とは思いました。

 そもそも、量的過剰に(メディアや研究者を含めた)ユーザーの思考と記述が追いつかない状況は00年代中期から何も変わっておらず、自分が好きな作品に関する自分が読みたい文章を自分一人で書き続ける、という生き方以外には何も残されていないので、商業で食えるか、人に読まれるか、うまいこと言えるか、ではなく、自分にとってアニメとは一体何なのか、を思考する契機を、アニメ雑誌やアニメ評論「以外」の場所に探すことを、自分は後続に勧めています。自分は10年オタをやった結果、アニメとは直接的には関係がない勉強にしか、興味を覚えなくなりました。
 あの事件が起きた以上、京アニを嫌いながら生きてきた個人の思考は、社会的な責を負って明確にしたいと考えています。なので、作品論はやりたいけれども、やっても仕方ない、というより、自分は美少女アニメの至高なる非意味と不毛を主張する以外に興味がないので、もう少し違うことがやれないかを試しています。
 
 近い歳の人と話すと、「00年代が何だったのか分からないまま10年代が終わってしまった」との言をよく聞きます。「平成は昭和の消化試合だった」と遠い目で語る上の世代のほうがまだ恵まれているようです。自分以外のオタの人は、結局は信じるべき意味や物語を求めているのかもしれません。私は自分が生まれた国と時代に何の愛着も抱いておらず、20世紀思想という直近の訓詁にこそ強くリアリティを感じながら生きています。
 
 
 私はアニメの感想文で極めて運良く紙媒体の出版に拾われた(下手をすると最後の世代に属する)人間です。もしその機会がなければ、おそらく今でも大量のアニメを観続けながら沈黙し、日本に何百万人と存在する引きこもり男性の末席を汚していたことでしょう。
 
 主体の幼年期に曖昧なまま取り憑いて、成年後もなお切り離せない消費文化の快楽は、「アニメ」という対象概念ではなく、欲望や身体の次元で様々に問い直すべきです。自らの内の動物の鳴き声と呻き声に言葉を与える方法を、私は探し続けています。
 
 オタという概念やアニメという趣味で曖昧に他者と繋がった時点で、私たちは色々なことを間違えてしまうようです。誰とも関わらずに一人でアニメを観続け、一人でアニメ誌とアニメ評論「以外」の本を読み、一人で文章やコンテンツを作る生き方を、理論ではなく実践で指し示し続けることが、自分の役割だと考えています。

*1:なぜ「趣味」が社会学の問題となるのか――『社会にとって趣味とは何か』編著者・北田暁大氏インタビュー【前篇】-Web河出

*2:『社会にとって趣味とは何か』の北田暁大氏の計量分析の問題点(第2章)-ニュースの社会科学的な裏側」、「『社会にとって趣味とは何か』の北田暁大氏の計量分析の問題点(第8章)-ニュースの社会科学的な裏側

*3:リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』-兵頭新児の女災対策的読書」など。クセの強い書き手の方ですが(自分が言うのもなんですが)、オタに残された最後の理念である本田透に拘泥する政治的立場に愛しさを感じます。美少女コンテンツ消費における理念の不在によって、静かに引退していくインターネットのオタ中年を数多く観測してきた身としては、どうしても嫌いになれません。この件は「山岡重行聖徳大学講師の拙稿への「批判」と統計学理解の問題及び研究教育倫理の重篤な問題について①|北田暁大|note」を含め、色々とあったようです

*4:この本は本当に好きで、自分が「セクシュアリティ」という言葉を雑に使う際も、ひとまずは本書で整理された「無定義概念としてのセクシュアリティ」(p.13)にぼんやり甘えており、我々が性に付与する様々な意味と徹底的に添い寝しながら生きたいと考えています。ちなみに、以前紹介させていただいた金塚貞文「オナニズム三部作」は、「『オナニスムの秩序』(一九八二)で展開された金塚貞文のオナニスム論は、八〇年代のオナニー言説の中でもっとも優れた哲学的省察の一つ」(p.417)とされています。

*5:なぜか運良く出版に拾われて食えた人間が言うのもなんですが……

*6:この本hontoの電子書籍で買ったのですが、引用ページ数どう表記すればいいんでしょうか……

*7:と思ったら、コロナウイルス騒動を受けて一時復活してました。「観光客」だめじゃん頑張れ!!!ってなりました

*8:おれは『美少女ゲームの臨界点』を1万で買った(怒

*9:www.youtube.com

*10:自分は『先生のお時間』のアニメ版が好きです

*11:桜井弘明アニメの麻薬性にはこういう歴史があるので、『まちカドまぞく』は用法用量を守って鑑賞しましょう

*12:黒瀬陽平「キャラクターが、見ている。――アニメ表現論序説」『思想地図 vol.1』p.429参照

*13:反面教師にはなりましたが、未だにあの界隈を観測した時のエグさをどう表現したものか分かっていません。人から見たら自分もそのキモさに頭から突っ込んでいる筈です。あとゲンロンで海猫沢めろん氏のいかにもゼロ年代的なジャンク文体のオタク小説『ディスクロニアの鳩時計』が未だに連載しているのが謎です。ああいうノリは志倉千代丸が全部持っていっちゃった感ありますよね……

*14:私はシェフェールの内在的な繊細さを本当に尊敬しますが、批評家や研究者の自意識すらサディスティックに分析するクリスチャン・メッツの政治的観客論にも、薄暗い楽しみを覚える人間です。というより、私は『嫌オタク流』などの極めて陰惨なオタク論を自罰的に読むことで、他罰的な言説を内心に留保しながら、自分自身の腐り果てたオタク感性を相対化して笑い飛ばすことができた体感があります。繊細さと俗悪さと、清濁併せ呑むこと自体に、サブカル人間の生存様態がある筈です

www.youtube.com

*15:今は一人暮らしです

*16:今になって振り返ると、自分はこのいい加減な土壌に対して、本気で怒らなきゃいけない立場にいたのかもしれません。とはいえ、自分から動くチャンスはいくらでもあったのに、結局は何もしなかった人間なので、誰を責める権利もありませんし、今はアニメ関連の仕事を全て断って関係の無い世界で生きています

*17:今でも整理できていない問題なので言わないようにしているのですが、自分は批評でも評論でも感想でもとにかくアニメに関する何かしらの文章を読む際、自らの鑑賞体験と照らし合わせて、本当に心の底から「なるほど」と納得できたためしがありません。ただそこに、自らとは全く異なる映像に対する思考と、自らとは全く異なる歴史的主体を発見し続けてきただけです。この分からなさ、に立ち止まって考える契機が、ネット言説にもライター言説にも見つからなかったのが、自分の不幸だったかもしれません

*18:手のひらに「好きだ」って書いてあったシーンで爆笑したので好きです

2010年代のテレビアニメについて

まえおき

 Twitterにて@highland氏が「#10年代アニメ各年ベスト10」というハッシュタグ企画をされていました。リツイートをぼんやり眺めて、みんな楽しそうでいいなと思いました。自分も10本選んだので、どうぞよろしくお願いします。あけましておめでとうございます。
 ところで、自分はちょうど10年前からアニメ周りの売文家の端くれとして生きてきた人間なのですが、ここ10年の人生を端的にまとめると、アニメファンのコア層が京アニ崇拝にのぼせ上がり、我々のアニメに対する感性的条件がどれだけ歴史的に規定された狭っ苦しいものであるかを全く問い直さないまま、批評もブログもジャーナリズムも迎合主義が跋扈し続け、こんな場所で何を書いてもひたすらに馬鹿馬鹿しい、という長年抑圧していた行き場の無い怒りが、京アニ放火事件という最悪の形で回帰してきたように感じられた2019年でした。
 
 ここ10年のテレビアニメを振り返るのであれば、この程度の憂鬱には当然誰もが向き合わされることでしょうから、そうしたしんどさを忘れたい方は以下、読んでいただかなくて大丈夫です。
 すでに業界で仕事をする気もなく、愚痴を言い損ねて禍根を残してもよくないので、「アニメに喚起される情動」と「物書きとしての社会的自我」に折り合いが付かなくなった人間が、ここ10年考えていたことだけ書き殴らせてください。

 

 

 

2010年:ジュエルペット てぃんくる☆

 普通にTwitterをやれていた2011年頃は、ルイス・キャロルドニー・ダーコひだまりスケッチをサンプリングしたダーク魔法少女アニメに「悪」や「救済」や「成熟」といったエモ概念を仮託するムーブメントが印象的でした*1。自分は既に食傷していた新房昭之氏の手癖に舌打ちし、「ジュエルペット」シリーズ第2作目のイノセントな魔法少女アニメに耽溺し続けていました。
 多感な時期に『おとぎ銃士赤ずきん』(06)と『セイントオクトーバー』(07)という「深夜アニメと女児向けアニメのキメラ的モチーフ」を意図的に煮詰めたフリークスに魅了された人間なので、「プリキュア」シリーズのピュアネスと「アイカツ」シリーズの洗練を見届けるのは人に任せて、『しゅごキャラ!』(07)、『リルぷりっ』(10)、『プリティーリズム』(11)、『プリパラ』(14)と快調に走りつつ、『東京ミュウミュウ』(02)、『満月をさがして』(02)、『ぴちぴちピッチ』(03)などのシリーズに遡った青春でしたが、「少女文化に興奮してしまう肉体に何の根拠も無いこと」を確認して鬱が深まり、「歴史を踏まえるならば太刀掛秀子などの70~80年代りぼん乙女ちっく系少女漫画をこそズリネタにしなければならない」という強迫観念には、今なお苛まれています。
 島田満脚本の文脈すら踏まえず『てぃんくる』を「王道の魔法少女アニメ」とか商業誌でべっとり褒めた過去が今になってつらい一方、中年人気の高さに引きながらも『サンシャイン』(11)に移行して、そうした病気を哄笑の只中に忘れさせてくれた「ジュエルペット」のおおらかなシリーズ展開がなければ、この歳までアニメを観てはいなかったと思います。
 

2011年:R-15

 そういうわけで、自分がアニメを観続ける最大の理由は、その低劣さと幼児性にあります。
 当時は目の前に広がるゴミの山を語らずに済ますアニメファンと知識人の、あらゆる言説に激しい憎悪を抱いていました。
 今は他人に期待せず、雑に視聴本数を増やす態度自体から見直して、粛々と趣味の文章を書いて生きる方向に努力しており、 個別の作品については、別の機会に書くつもりです。
 なぜオタも知識人もクリエイターも信用せず、自意識だけでアニメを観れていたのかは分かりませんが、大塚英志風に言った「二階の住人」的なおたくコミュニティに拾われて*2、気が大きくなっていたと思います。
 実際、何らかの濃密なやり取りがあるコミュニティに参加しなければ、10年もアニメは観れませんでしたが、周囲の大人が40も超えてお互いに飽きてきたのが運の尽き、同世代の友人を増やしたり同人活動をメインにすべきだった、という後悔が残りました。

 

2012年:武装神姫

 Anifavというサイトで『武装神姫』の全話レビュー原稿を載せていただきましたが、そのサイトがとうに潰えている時点でアニメ関連ジャーナリズムの困難は言わずもがな、商業でアニメについて書くことの徒労感は、当時からうっすら感じていました。
 正直言えば、上の世代のオタク系ライターの方々の仕事にも、クリエイター関連の情報にも今は関心を失っており、文化伝統の継承よりも平成世代の絶望に基づいて物を書きたい気持ちが強いので、そもそも業界に向いていませんでした。
 消費文化がもたらす人間の劣化を無視してSNSでデカい面するぐらいなら、孤独死のほうが遥かにマシという認識に至って久しいです。
 本当は二度とネットをやらず黙って消えたかったのですが、せめて全てに関心を失った人間が連帯する可能性ぐらいは、場末に残しておきたい気持ちがあります。
 昔のように無邪気にアニメの文章を書けたなら、という哀惜だけがあり、読む人には読んでもらえていたので失礼ではありますが、今本当に考えるべきは作品についてではなく、もはや人間ではいられなくなった私たち自身についてだと思います。
 

2013年:ファンタジスタドール

 ネットコミュニティの熱狂に同一化できた最後の作品でした。
 ボンクラのまま生きたかったものですが、この頃から匿名掲示板からも足が遠のき、カオスラウンジ騒動に対する罪悪感も淀んでいました。ネットリンチに無感覚のままアニメファンを自認するのは非常にしんどく、富野監督の説教はもちろん、山本寛氏の怒りですら真に受ける価値があります。当時は鼻で笑っていました。今は歳を取る怖さを思い知っています。
 周囲の勧めからコメント付きでアニメを観るのにも飽き、『D.C.IIIダ・カーポIII〜』『AMNESIA』『断裁分離のクライムエッジ』『RDG レッドデータガール』『フォトカノ』『デート・ア・ライブ』『ジュエルペット ハッピネス』『探検ドリランド -1000年の真宝-』『絶対防衛レヴィアタン』『アラタカンガタリ革神語〜』『革命機ヴァルヴレイヴ』『変態王子と笑わない猫。』『犬とハサミは使いよう』『BROTHERS CONFLICT』『ステラ女学院高等科C3部』畠山守版『ローゼンメイデン』『帰宅部活動記録』『幻影ヲ駆ケル太陽』『神さまのいない日曜日』『DIABOLIK LOVERS』『ゴールデンタイム』『ストライク・ザ・ブラッド』『勇者になれなかった俺はしぶしぶ就職を決意しました。』『メガネブ!』『ワルキューレロマンツェ』『機巧少女は傷つかない』『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』『ガリレイドンナ』『サムライフラメンコ』あたりが好きでした。
 私たちは記述できる以上に多くのことを知りすぎている、という文化ジャンキーの閉塞感をあらためて強調しなければ、今のネットの荒野に関して申し開きが立ちませんが、もはや誰に対して言い訳をしたいのかも分かりません。

 

2014年:彼女がフラグをおられたら

 それ自体で完結した快楽の全体性*3を、概念で汚すほかない思考に対する苛立ちが、徐々に自覚されてきた時期でした。
 大衆文化の映像作品に対する自分の感動の核心は、「極めて多層的に構築された、極めて単純な快楽」の至高な無意味に見出されています。
 一作品の長尺と分業体制の複雑性が、大雑把に把握しやすい「作家性」を容易くクリシェと感じさせ、言表困難な剰余やプロダクトの細部に必然意識が向くものの、それらの総体が奉仕している最も肝要なルックやデザインの洗練自体は、どうしても直観的かつ換喩的にしか記述できない我々の無能さにこそ、深夜アニメ特有の異様な快楽の本質が隠れている筈であり、それは裸体の猥褻さのように意識の諸表象の領野の外部に留まる*4がゆえに、エロティックなまでの魅力を永続させているものと思われます。
 
 記述しえない猥雑さを「思考の限界」として愚直に強調する語り方自体、反時代的で信用を得ないと分かってなお、非-知の只中で対象以上に主体自身を笑うしかない、という姿勢だけが、自分がオタクという概念に託し得た唯一の美学であり、神聖な汚物を崇拝する人間が踏まえるべき最低限の条件だと考えています。
 
 どれだけ大量の生と技術が我々の幻想を支えていることか、どれだけ巨大な混沌を切り捨てて気儘な酩酊を得ていることか、その怖ろしさを閑却して狭い認識を開陳するしかないのであれば、せめて相応の忸怩ぐらいは表現できなければつらいわけです。
 

 『ロボットガールズZ』『最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。』『みんな集まれ!ファルコム学園』『バディ・コンプレックス』『ハマトラ』『魔法戦争』『マジンボーン』『ブレイドアンドソウル』『悪魔のリドル』『selector infected WIXOSS』『レディ ジュエルペット』『星刻の竜騎士』『神々の悪戯』『金色のコルダ Blue♪Sky』『それでも世界は美しい』『極黒のブリュンヒルデ』『ブラック・ブレット』『ソウルイーターノット!』『棺姫のチャイカ』『エスカ&ロジーのアトリエ 〜黄昏の空の錬金術士〜』『M3〜ソノ黒キ鋼〜』『RAIL WARS!』『普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。』『少年ハリウッド -HOLLY STAGE FOR 49-』『人生』『Re:␣ ハマトラ』『モモキュンソード』『LOVE STAGE!!』『精霊使いの剣舞』『デンキ街の本屋さん』『失われた未来を求めて』『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』『繰繰れ! コックリさん』『暁のヨナ』『大図書館の羊飼い』『ガールフレンド(仮)』あたりが好きでした。

 

2015年:ランス・アンド・マスクス

 提灯でこんなひどい褒め方ができれば、黙々と公式仕事に勤しんでいます。
 書き方も悪かったと反省され、真剣な思い入れは真剣に表明しないと伝わらないという確信が、文体の去勢にも繋がりました。
 「クソアニメの人」と認識され続ける自己同一性を呪う一方、そう形容せざるを得なかった深夜アニメ特有の低俗と猥雑の価値を、匿名掲示板とも秘宝ともシネフィルとも異なる思考と文体で強弁する以外、自分にできる仕事はないと判断されていました。
 ただ、感性的体験を共有可能にする冗長性を伴った面白主義的文体ではすでに文章を書けず、今さらネット言説で気儘な読者を動員する気も起きません。
  「批評の蛮勇」を奮う気概はなく、さりとて公式案件や取材仕事に大人しく邁進するような信仰も喪失し、ただただ「アニメを観ることの言説化」にまつわる神経症的な憂鬱と自閉症的な快楽に引き裂かれ、身動きの取れない期間が続きました。
 
 今は、「映像体験をいかに分節化するべきか」というライターとしての職能上の課題を、「言語と生の対立」という思考の根本問題に位置づけ直し、別の生き方を探っています。

 

2016年:12歳。〜ちっちゃなムネのトキメキ〜

 先日、長年の京アニフォビアをおして『聲の形』(16)を観たところ、完璧な画作りと丁寧なドラマに胸を締め付けられると同時に、早見沙織声の聾唖者に断然勃起する言えない欲望をこんなに美しく祝福しないでほしい、という憤りを覚えました。

 全ての罪悪が幼年期の愚昧さに端を発するというのなら、ガチの小6マインドをトレンディなスタイルで天真爛漫に謳歌する『12歳。』にこそ留まり、幼さは幼さそのものとして罰されたいと願われます。
 鍵ゲーは後追いで6割方プレイしており、鏡像的な白痴に魂を浄化されるエクスタシスの至高性と、そのどうしようもないみっともなさの両面を思い知らされるからこそ、Keyや京アニ作品の完全な快楽を笑い飛ばすところから、人はオタとしての個体化を果たすものであると、信じて自分は生きてきました。
 
 この甘すぎる快楽を、トップクリエイターとビッグバジェットに世話される恥に耐え難いがゆえ、底の知れた欲望は最底辺のコンテンツでこそ満たすに至っているわけです。
 

 『NORN9 ノルン+ノネット』『ファンタシースターオンライン2 ジ アニメーション』『紅殻のパンドラ』『霊剣山 星屑たちの宴』『最弱無敗の神装機竜』『蒼の彼方のフォーリズム』『リルリルフェアリル 〜妖精のドア〜』『迷家 -マヨイガ-』『聖戦ケルベロス 竜刻のファタリテ』『ハンドレッド』『鬼斬』『SUPER LOVERS』『ビッグオーダー』『タブー・タトゥー』『魔装学園H×H』『スカーレッドライダーゼクス』『タイムトラベル少女』『クオリディア・コード』『アンジュ・ヴィエルジュ』『ViVid Strike!』『マジきゅんっ!ルネッサンス』『Occultic;Nine -オカルティック・ナイン-』あたりが好きでした。

 

2017年:クロックワーク・プラネット

 YouTubeのプライベートな映像文化にスカムも砂金も一緒くたに混在する状況下、曲がりなりにもテレビ放映のコンテンツで人気の多寡やB級が云々と考えるのが、いよいよ馬鹿らしくなった時期でした。

 ブログ文化圏の崩壊と共に進行した短文SNS全盛の状況下、諸個人の感性的断絶が容易に政治的危機へと発展するインターネットに関心が失せ、結局はアニメジャンキーとしての自我に充足あるいは自閉して、既存の媒体や言説形態への適応自体、徐々に諦めていった10年間でもありました。

 私が作品に関する記述よりも自意識の記述を優先するのは、既存の分析的言語とオタ諸個人の思考の混乱を比較すれば、後者に潜在する狂気の可能性に賭けたい気持ちがこの期に及んでなお強いためですが、個であることが不可能な趣味領域であることを認めて、潔く立ち去ったほうが生きやすいのも分かっています。

 『政宗くんのリベンジ』『アイドル事変』『セイレン』『ハンドシェイカー』『つぐもも』『フレームアームズ・ガール』『アイドルタイムプリパラ』『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』『武装少女マキャヴェリズム』『ひなこのーと』『ツインエンジェルBREAK』『覆面系ノイズ』『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』『sin 七つの大罪』『アクションヒロイン チアフルーツ』『天使の3P!』『異世界はスマートフォンとともに。』『はじめてのギャル』『王様ゲーム The Animation』『魔法使いの嫁』あたりが好きでした。

 

2018年:となりの吸血鬼さん

 この時期に書けるぶんは以前書きましたが*5、とりわけ「なんにも感じなかった」ことにおいて印象的だったのが本作で、快楽の飽和が明確に自覚されてきました。
 
 一日で完走できる驚くべきカロリーの低さで推移する、ポーのサイン本やガレノスの四液体説が淡々と流される悠久のぼんやり感には、男根主義者に感知しえない快楽の生起する気配だけが感じられ、一抹の悲しさと共に「こういうアニメとも向き合い続けなければならない」と感じました。
 
 再生している間、「百合は俺を人間にしてくれなかった」*6という怨みが脳髄を支配したので、反人間・反思考・反哲学の気概に燃えて、フレンチセオリーに再入門しました。
 
 その結果、「屈託なき自己消去願望」に苛立って他罰的言説を弄する気も失せ、少なくとも理念としては、どこまで他者の欲望と自らの欲望を交流させ、世界を肯定し続けられるかに、思考の構えが切り替わった時期でした。
 

2019年:通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?

 ところで二次元バーチャルセックスの十全すぎる視覚的現前性に枯れ果てた後の自分は、エロ同人音声でも容易に射精してしまい、斯界の赤ちゃんプレイ作品の豊穣さにこそ、さらなる荒野が待ち受けているよう予感されています。ASMR文化はまだ拒絶しています。あるいは、10年代インターネットのアニメ文章で、女性声優の咀嚼音をコレクションしたあれ以上に、記憶に残ったものがあるでしょうか。最近は『僕たちは勉強ができない!!』9話の古橋さんが歯磨きした後の「ぐちゅぐちゅぺ」の音が好ましかったです。
 
 こうしたインターネット感性や肉体の荒廃と照らし合わせれば、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』の自己目的化したお話転がしに振り回される思春期男女の先鋭ぶった保健体育授業には感興を削がれるばかり、麻倉もも氏のキャラがレズセックスすればまだしも、『砂沙美☆魔法少女クラブ』以来の岡田麿里氏とも付き合う気は失せ、むしろ『フルーツバスケット』リメイクの平板な小綺麗さにこそ安息を覚える中、桜井弘明監督の完璧なリズム感覚できらら幻想を崇高の域に高めた『まちカドまぞく』の危うい快楽にも震撼させられましたから、『トリニティセブン』ばりのギクシャクしたお洒落劇伴エロに悶絶する『戦×恋』をはじめ、『ノブナガ先生の幼な妻』『なんでここに先生が!?』『魔王様、リトライ!』あたりのたまらない幼児性や、『超可動ガール1/6』『Re:ステージ! ドリームデイズ♪』『八月のシンデレラナイン』あたりの健気さに心地良さを求めてしまい、あとは『魔入りました!入間くん』がずっと続いて、『星合の空』の続きが観れればなお幸甚、と特に問題なく本数を回せる程度には、最近精神も回復しました。
 
 藤真拓哉デザインのグロ安い百合が感涙物の『Z/X Code reunion』と並べると、中年エロクリエイター揃い踏み『神田川JET GIRLS』はむしろ安心感たっぷりで、『旗揚! けものみち』『ダンベル何キロ持てる?』の異様なバランス感覚にも舌を巻いた年でした。
 
 そこに来たのが岩崎良明監督の保守タッチで能天気な母親ポルノとジャンクな毒親話を交互に繰り出す最悪のファックムービー『通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?』で、おれの男根が母親に射精しているのは十分に自覚しているからもうやめてくれと絶叫しかけましたが、下劣な直截性を強いて肯定することで享楽を変容させる以外、アニメのもたらす効果など見出せません。
 
俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』では、金元寿子声の童顔巨乳女子のグロさに射精し、茅野愛衣キャラの人気には唾を吐いていましたが、今となってはどちらが奇形的進化かも分からず、EDの「パタパタママ」の替え歌に頭を抱えるたび、「キモい快楽を否認してはならない」というオタ教訓へと、戒律のように立ち返ることになります。
 
「母性のディストピア」というキャッチコピー批評*7に要らぬ苛立ちを覚えず、我々の内なるラブワゴン(肉体的実践への回帰)を笑い飛ばすためにも、母親の代理とファックし続けていること自体は否認せず、どれだけ平板で卑しく直視に堪えない表現であっても、我々の貧しく腐り果て錯乱した非人間的な感性自体をこそ、醜悪な「私」の立場から言説化するしかありません。


 もちろん『アズールレーン』など放送中から忘却しており*8、クソな労働環境とクソなインターネットを放置して制作側の人間を絞め殺す生き方にもう耐えきれず、SNSでぴいぴい囀る生き方に適応するぐらいなら自殺したほうがまし、という絶望も治る見込みがありません。
 とにかくTwitterが嫌いなだけなので、noteなどに移行はするつもりですが、いろいろ今さら遅かったのか、目に入る「同好の士」の大半に関心を失っています。
  そのぐらい我々は、お互いがどのような信念体系に基づいて、個々の欲望の表象に思考を溶かすに至ったのかをなおざりに、自己を消却した匿名的かつ断片的な言葉で作品を語り続けた結果、完全な相互不信に陥っているということだけは、確実に言えるかと思われます。*9
 
 そもそも、「考えること」自体が人間の本質や尊厳をもはや構成しえない、という時代の条件を、ここまで隠然と言祝いでいる趣味領域も他になく、驚くべきことに、テレビアニメがソーシャルゲームと同様の基本無料文化であるがゆえに、その言説環境には貧困の問題が密接に絡んでいるということを、明確に踏まえて作品評を書いてくれる人は、これまで極めて僅かでした。*10
 
 感性的条件を弁明せずに済むマジョリティとしてのオタク文化消費者は、その当事者性を自覚しないまま大雑把な繋がりを頼りに歳を取ることが容易である反面、飽きた時の悲惨もまた相当であるということ以外、この趣味について強調すべきことが残っているとは思えません。
 
 
 かつての人間が生きられたような「現実」や「生活」を喪失し、コンテンツを生そのものとして代えがたく経験しているがゆえに、作品=生そのものを言語で分節することに極度の緊張、あるいは諦念を抱いてしまうのが我々の不幸であるならば、どのようにすれば作品自体については語らずに済ますことができるのか(できているのか)、語らずにおくことで滞留する記憶や情念にどう責任を取っているのかだけは、明確にしたく思われます。
 また、こうした便宜的な語りの姿勢に「無為」と「軽薄」と「だらしなさ」が絶えず付きまとうのであれば、時代の軽薄さに打ちひしがれた人間同士が交流するための別の方法を作れないか、ということを考えながら、最近は生きています。
 

*1:当時は反発しましたが、例えば山川賢一氏『成熟という檻』などを再読すると、ああした謎本的思考を反面教師にして大衆文化と学知の結び付けを反省的に捉えられたのはむしろ幸福であった、と感謝だけが残っています

*2:来歴 - おしゃべり!おしゃべり!

*3:例えばアリストテレス『ニコマコス倫理学 (下)』(p.161)には、運動や生成の可分的な性格と関わらない、快楽の全体的・究極的な性格に関する記述があります。また、バタイユは『エロティシズムの歴史』(p.163)において、「色、音……といった抽象的諸要素しか扱わない分析には絶対に還元できないもの」である「総体«totalité»の感情を味わうには、明晰かつ判明なものはなにひとつ開示してくれない、このうえなく模糊とした感覚が、極度に高まることが必要である」と述べています。自分は、大衆文化の洪水を浴びる私達の生の根源的な表現を求めており、この目眩と絶望に満ちた「快楽のとてつもない単純さ」の次元を、原理的に分節する以外には救いを見出せなくなっています

*4:「実を言えば、横滑りこそ裸体の本質をなす。そして、欲望の対象の現実的な在りようは挑発的であるが、それにもかかわらずこれがたえず明確な表象を逃れるのは、この横滑りのせいである。というのも、ある人間の欲望をそそるものも別の人間の関心をまったく惹かないし、加えて、ある対象に今日胸を引き裂かれるような思いをする人間も、明日になれば平然としているからだ。裸体についてよくよく考えてみれば、猥褻な、とは言わぬにしても、少なくとも淫蕩な、したがって挑発的なその外観は、つねに人を欺く。実際、裸体は、あからさまな猥褻を包み隠しているのだが、この猥褻そのものの意味が横滑りする(捉えどころのない)ものであることは、すでに見た。」『エロティシズムの歴史』p.207-208

*5:平成30年度アニメ感想 - おしゃべり!おしゃべり!

*6:失礼なのでリンクは貼りませんが、某出版社の販売戦略には定期的に心底うんざりさせられます

*7:ヘルシー女子大生か善良な市民の言説に傷ついた過去も、今となっては凡庸な思い出の一つに過ぎず、むしろ次の世代から見た今の自分の言説が、かつての自分にとっての宇野氏のようなオタちんこ殴り言説としてトラウマを植え付けかねない、という現状認識に立ち尽くしています

*8:アズールレーンに参加したアニメーター「どこまで手を抜けるかを追及した」 - Togetter

*9:大衆に絡まれた批評家がよく言う、「不満があるなら外在的言説は無視して自分で文章を書けばよい」という提案は、本当に真っ当なのでそこだけは無条件に真に受けてほしいと思う一方、大衆文化に学的認識を適用すること自体の馬鹿らしさはここで等閑視されていますが、その馬鹿らしさを主張するにも相応の覚悟と手続きを必要としてしまう立場から、自分は文章を書いています

*10:インターネットのアニメ文章は「17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード」で大体満足しています。あとはそこで糾弾されている、「深夜アニメ特有の濃密な幼児的セクシュアリティ」に呪われた当事者が分析的に思考を表明する語り方さえ作れれば、という針に糸を通すような動機以外では何も書けない現状です