雑記:ジェンダー化された「動物化」概念について

社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103)

社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103)

 
 「オタク」と呼ばれる社会集団を正確に把握したい気持ちで手に取りましたが、かなりクセの強い一冊でした。
 
 宮台真司サブカルチャー神話解体』の批判的継承と聞いて*1期待した感じとは異なり、「ブルデュー適当に使った量産論文やばいので理論から再整理しようね」という地味作業がメインで、それを経ての最終章「動物たちの楽園と妄想の共同体」では、「練馬区男女2000名の調査データをサンプルにオタク文化受容様式をジェンダーセクシュアリティで分けて見たら、女性オタクはやおい的な相関図消費、男性オタクは東浩紀のデータベース消費/動物化論を経験的に裏付けられたよ」というアクロバットを急に仕掛けてきます。
 
 普通のオタの人が読んだ場合、ディシプリンで完全武装したおっさんが性急にちんこを蹴ってきて怖い、という読書体験になります。「自らをオタと規定して読んだ場合に反感を覚える」度では、近年稀に見るヤバさでした。
 
 自分は計量データを全く読めない人間なので、そのあたりの問題は措くとして*2、そうしたオタ反感レベルでのプチ炎上は兵頭新児氏の書評*3などがあります。個人的には、本書に関連した何かのTogetterで「社会調査にも金がかかるのよ」という北田氏の発言を見かけ、世知辛さで色々どうでもよくなりました。
 
 社会学の本は苦手なほうで、『断片的なものの社会学』は良かったけれども、『社会学はどこから来てどこへ行くのか』は目を通すだけで精一杯でした。本当は、オナニー言説史を通して近代日本社会の全体像に肉薄することを試みた赤川学氏の名著『セクシュアリティの歴史社会学*4みたいな本をもっと読みたいのですが、おとなしくこのあたりを読んだ感想だけ書いておきます。
 
 北田氏の議論の是非はさておき、死ぬほど雑にブルデュー用語を使って証言すると、「参入障壁は高いが教養主義的卓越化のゲームが機能しにくく、ある意味で「動物化」した場といえる」アニメという界を自分が生きてきた体感、確かにテレビアニメ言説は卓越化の利得が薄い*5世界であり、極めた諸個人がそれぞれ勝手に煮詰めまくって嫌な緊張感を醸した場だとは思います。そこで目立った発言をする機会すら持てないまま、時代の速度と物量に黙殺されて、孤立したタイプの人とばかり付き合ってきた気もします。
 
 そもそも自分は、映画やSFといった上の世代の文化教養が重すぎ、無料で手軽にハビトゥス化できたアニメ視聴だけ愚直に続けていたら、同世代の中では謎の過剰差異化を遂げてしまったらしく、音楽もまたライブやクラブなどの現場を持たずに、映像記憶と密接に結び付いたアレンジド派手な女性声優楽曲で脳みそじゃぶじゃぶも未だに飽きず、順調に引きこもり続けています。
 
 そうした思春期を反省的に振り返るべく本を読み始めたと思ったら、下品であるほどうまくいくトランプ時代に入ってしまったので、実を言えば、象徴闘争という概念ほど虚しく聞こえる言葉もありません。
 
 たまにバズって目に入るVtuber文化論とかは本当にしんどく、「時間を余したやんちゃな中産階級男子の手慰み」という論者自体のポジションが問われないサブカルチャー研究が、明らかに相対的貧困に置かれている当事者達の卓越化ゲームに利用されているような光景を見て、世の無情を感じるしかない歳になってしまいました。
 
趣味の社会学 文化・階層・ジェンダー

趣味の社会学 文化・階層・ジェンダー

 
 北田本と近い領域の研究かな、と思って手に取りましたが、北田本よりも古いデータで「文化的オムニボア(雑食性)」仮説を綿密に検討した本でした。
「なにより男性(および働く女性)は大衆文化化しなければ、会社で、社会生活で、生き残れないという状況に置かれている可能性が高い。[…]その結果、文化資本を家庭から受け継ぎハイカルチャー志向の高学歴男性も、学校や会社生活ではそれを隠し、あるいは自ら大衆化の路線を選び、文化的オムニボアとなっている。[…]
 それによって、文化による差異化や卓越化は、男性中心の労働世界や公的場面では姿を隠し、文化資本は隠蔽されていった。エリートは文化的オムニボアになるという仮説どおりに、日本の男性学歴エリートは大衆化したといえるだろう。その結果、みんなが文化的に平等で大衆的であるという言説を誰もが信じるようになる。[…]
 その結果、文化による差異化・卓越化戦略は私的領域に閉じ込められていった。あるいは家庭を通じて、文化資本は主に女性によって温存され、女性を通して(母から娘へと)再生産されてきたのである。(p.368-369)
 オムニボア概念はオタ的にも本当に怖く、ざっくり言えば、エリート男性ですら「ハイカルチャーを脇に置いてソシャゲ一発当ててお金じゃぶじゃぶ」がロールモデルとなった、 「踊る動物」と「踊らせる動物」しかいない、本邦の文化系男子社会の絶望を暗に裏付けているようなアレです。野心的すぎる北田本よりも、堅実にオタ体感を言い当ててきます。
 自分の超貧しい社会経験でも、シュタイナー研究者が親御さんの漫画読み編集者の方とか見てきています。そういう人の脳味噌が大衆文化をどう思考しているのかは、ネットの当事者言説には当然あまり降りてこないわけです。出版業界に入って最初に怖いと思ったのはそこでした。低俗文化に権力闘争を見出すとかができなくなります。
 自分は運良く余暇が多い在宅仕事にありつけて、のろのろとでも色々本を読めて救われたのですが、今度はオタの人と話が合わなくなってしまったので、低学歴がどう本を受容できるのか、という表現を頑張っています。逆文化的オムニボアとでも言うのか、変な生き方に落ち着きました。
 
 ネットで論文でも「分かりやすい解説コンテンツ」でも楽に読める状況下、むしろ紙媒体で集中して本を読む物理的行為の濃密な経験性、記憶と思考への学知の浸潤を強調したい気持ちが強いので、『プルーストとイカ』とかその続編『デジタルで読む脳 X 紙の本で読む脳』などの読書論も気になっています。
 
リベラリズムの終わり その限界と未来 (幻冬舎新書)
 
 確か東氏においては「第3世代オタクに先駆的に伺えるポストモダン人類の生存条件」みたいなニュアンスを含む「動物化」論を、「男性オタクのジェンダーセクシュアリティとしての動物化」としてマジに受け止めて検証してしまった北田氏の手付きは、上記の2冊を続けて読むと、「否定できないぶん異常に暴力的」という感覚があります。暴力的、というより、「オタク」概念の外延がぶっ壊れているというか。
  『社会学はどこから来てどこへ行くのか』では、「当事者に対する暴力性は十分わかった上で社会学やってます」という話題が印象的でした。自分は正直、オタとしての当事者性が薄れてきた立場から言って、こういう暴力を他者に振るいたくありません。オタという言葉を選んだ時点で、「高学歴男性も大衆趣味に迎合して生きている」状況が見えづらくなるためです。
 先に言及した兵頭氏などに見られる「リベラルのフェミ靴舐め」というオタの人たちの反発は(北田氏がリベラルなのかどうかは存じませんが)、「どの範囲までリベラリズムの原理を適用するかを決める規範意識リベラリズムの原理よりも先にある」*6ような、一部文系アカデミシャンの「フェアネスに欠ける鈍い正義感」が限界に達している一事例だと見ています。
 例えば、「ミソジニー」という概念を成人男性が軽々と口にする際、この方自身は普段どのような穢れなき聖女様で清廉潔白なお射精をなさっているのだろう、と下衆の勘繰りが働いてしまうのは、自分も同様です。
 
 
 以上のような文脈で「オタク」概念に賭けられるものは、「消費文化に接して育った平凡な男の子のセクシュアリティをどう政治化すべきか」という課題に絞られるでしょう。
 何の因果か、知的・政治的・経済的に最悪な土壌に生まれ、異常な数の高齢者を養うべく育成される、男の子たちの内面の限りなく憂鬱で繊細な性を、です。
 ある程度迫害されたほうがオタは強く育つ、という当事者感覚はありますが、「超高齢化と財源不足の中でどうパイを配分すべきか」という足元の絶望までコンパクトにまとめた新書を読むと、やはりもう「オタク」概念では何を考えても無駄で、平凡なヘテロセクシュアルが実存的・当事者的に思考する困難の原因は、土壌の腐敗以外に探しても仕方ないように思えています。
 
〈情弱〉の社会学

〈情弱〉の社会学

 
 そうした諦念でどんどんインターネットを見なくなっている近頃なので、情報弱者として生きるための技法論を期待して手に取ったところ、こっちも「最低限度の生存が脅かされた経済状況でどう生きるか」の問題に力点が置かれており、ビッグデータ時代の日本政府が「生かすことに関心を失った生権力」という自家撞着で的確に表現されているのがめちゃくちゃ笑えました。笑っている場合ではないですが、ともあれ過剰接続は減らす方向で生きています。
 
 世界の多様性を認めることは、世界の錯乱と対立を肯定することであり、他者を認めることとは即ち「衰弱」である、という言い方をされたほうが、よほどリベラルな原理が身に沁みます。シオランTwitterbotが完成度高いのでまだちゃんと読んでません。
 パスカル曰く「人間の不幸はただ一つのこと、すなわち、部屋に静かにとどまっていられないことに由来する」というのは、本当にそんな状況ですごいなと思います。
 
テーマパーク化する地球 (ゲンロン叢書)

テーマパーク化する地球 (ゲンロン叢書)

  • 作者:東浩紀
  • 出版社/メーカー: 株式会社ゲンロン
  • 発売日: 2019/06/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 東氏自身の今の立場を確認する意味で手に取りました。周囲のオタやネットの人々が東氏を叩きすぎた感は強く、せめて読んだ上で批判したいけれども、最近の著作は流し読み程度になっています。
 北田氏がなんと2017年の著作で「動物化」論の経験的側面を裏付けようとしていることからも分かるように、私たちの生の複雑さをそれ自体ではまったく表現できないがゆえに、データベース消費や動物化といった概念(を東氏特有の文脈から離れて安易に活用する言説)を、私は軽蔑してきました。
 ご本人は「若かったあの頃にしか書けない本だった」と遠い目になっているので(「『動物化するポストモダン』のころ」)、自分も気にするのはやめて、自分なりの「動物化」概念の受け止め方を考えるに至っています。
 オタではなくIT系の山師に引っかかるタイプの一般層に向けて本を書くようになってからの東氏の、「父」や「観光客」といったキーワードに対しては、何も引っかかりがありません。ゲンロンの動画配信も有料なので、それなら普通に別の本読むかな、でスルーしています。このぐらいのどうでもよさで付き合えるのが一番良かったのかな、と思います。
 ページ数は忘れましたが、「自分は語りの明晰さに文章が追いついてない感覚がある」みたいな発言が印象的でした。確かに本書に限っても、エッセイなどの短文類は整いすぎて刺激が無く、むしろ対談で滔々と喋っている原稿のほうが雑多で面白い。ゲンロンの宣伝動画で初めて動く姿を見た時に、Twitterゼロ年代批評がなければ、かわいいおじさんとして好きになれただろうな、と思いました。
 知人や近い趣味の人なら多少の錯乱や動物性も対等に観測しあえるのでまだしも、学者や研究者のように非対称的な象徴的権威までもがSNSでは一皮剥かれて愚物丸出し、という光景があってこそ、私は「人間」と「社会的なもの」の急速な崩壊を実感しています。疾風怒濤精神分析入門』の印象深い形容を借りれば、我々は基本的に「父の権威が馬鹿としか思えない」倒錯者の立場に置かれている。その意味で、東氏がTwitterを辞めた件には一縷の良心を感じました*7
 
  「批評とはなにか ゼロ年代の批評・再考」という文章で、氏はあの時代の空気を以下のように総括しています。
 もしいまかりに、結局のところゼロ年代の批評とはなんだったのかと問われたら、ある時期、ある世代のネットやサブカルチャーに詳しい読者(それも圧倒的に男性の読者)が、宮台や大塚、東、さらには宇野や濱野といった特定の名前の連なりをまえにしてなにかそこに共通のものがあるかのように感じてしまった、その「かのように」こそが本質だったと答えるのが、もっとも正確な回答ということになるだろう。(p.261)
 この「否定的で辛辣な総括」に続けて、震災以降に批判された批評のゲーム化、読者=観光客の「錯覚」でしかないこと、その無根拠で現実から遊離した「なんでもあり」という批評の本質ゼロ年代批評が暴露したからこそ、『批評空間』的な文芸批評路線とも、アカデミズムとも、アクティビズムとも異なる、批評を生き残らせる第四の道が見出される、とされてはいるのですが、「なのでゲンロンを応援してね!」という中小企業の社長さんらしい結論に落ち着いてしまうのが、今の東氏のかわいさと退屈さかなと思います。
 性の根源的な暴力性から目を逸らすことしかできないリベラル派を当てこすった『増補 エロマンガ・スタディーズ』解説文も入っているのでなおさらですが、一点だけ気になるのは、美少女ゲームの臨界点』を電子書籍化しないなど、「人間と動物の狭間で思考した過去」を隠すような東氏の振る舞いにだけ、若干の不実を感じます。
 素直にゲンロンへ行って同人誌ライブラリーを参照すればいいのですが、なぜ自分のようなアンチゼロ年代人間が「一番面白いエロゲ鼎談は講談社BOXの『批評の精神分析』に入ってるからプレ値で買わなくていいよ*8、あと『はじめてのあずまんω』『エロ年代の想像力』というヒリヒリする同人誌があってね」みたいな話を後続にしなきゃいけないのかな、とたまに思います。
 恥ずかしい過去と言えば、黒瀬氏いわく「10年代の貧しさを代表する」(『ゲンロン8』)コンテンツである『ラブプラス』をやっていた自分の当時の怪文書はてなダイアリーから発掘しようと思ったのですが、Internet archivesでも見れなかったので諦めました。かさぶたを掻きむしる歳でもなくなりました。ラブプラスEVELYは起動して数分で鬱になってやめました。

 

ベンヤミンと女たち

ベンヤミンと女たち

 
[…]つまるところ文士と娼婦のあの連帯関係の根底にあるのは、赤裸々な精神という徴のもとにある生と、赤裸々なセックスという徴のもとにある生というその生存形式の、完全な照応関係なのである。この連帯のもっとも破られることのない例証こそが、またしてもボードレールなのである。(『カール・クラウス』)
 ベンヤミンの道化じみた滑稽な女性遍歴を描く楽しい本なのですが、ロマンティックなベンヤミンの対蹠人として急にバタイユを持ち出し、そのエロティシズム論は「他者としての異性に出会わない」「恋愛ではなく性行動の理論に過ぎない」みたいなことを抜かし始めたので、このクソジジイ、と頭に来ました。
 (ラカン穴兄弟だとか色々あるのは置いといて)頭を冷やして考え直すと、むしろ近代の神話である「恋愛」から遠く離れて「性行動」に生を切り詰めた脳髄オナニストだからこそ、身体的次元で切実にバタイユを読めるのかなと思いました。
 自分は政治的行動や低劣さへの執着といった生全体の次元でバタイユに惹かれており、口頭でその魅力を分かりやすく人に伝えられない未消化の感覚があります。女性研究者の方のバタイユ本が2冊(『脱ぎ去りの思考』『ジョルジュ・バタイユにおける芸術と「幼年期」』)も出るので、早速前者に目を通したところ、明確に哲学的文脈で読んだ新鮮な視角で、ここから整理し直すとクリアになるなと思いました。
 
シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

 
[…]アントニオーニがいうように、もしわれわれがエロスを病んでいるというのなら、それはエロスそれ自身が病んでいるからである。それが病んでいるのは単にそれがその内容において老化し、消耗してしまったからでなく、すでに終わった過去と出口のない未来の間で引き裂かれる、一つの時間の純粋な形態の中にとらわれているからである。(p.32)
 エロスそれ自体が時間的様態において病んでいる。生きる限り動物性に苛まれることは不可避である。そういうドゥルーズの「ある種の叫び」(p.402)が聞こえてくる、好きな一節です。バタイユにおける「動物性」概念もそういうニュアンスで読むことで*9、自分はトラウマ的に嫌だった「動物化」論をやっと受け止めることができた気がしています。
 

  自我というものは、その個人的な本質(自我が、せんじつめれば自らの秘密、あるいは自らの魂と受け止めているもの。あれらのイメージ、自らの情動、思い出の数々、楽しかったこと、欲望したもの、等などの束)に関しては、実在時間から主観的時間への一種の移行でしかないあの実在の第二次的消失を介して構成されてゆく。[…]というのは、ものすごく人間化してしまったために自然界は怪物的になったということなのだ。[…]自然界は、諸欲望のある絶対値を表現する総体のようなものになってしまっている。

 […]時間性によってねじ曲げられ、刻みこまれ、変えられてしまった実在全体には、欲望の過剰、欲望に宿るある権力的帝国主義、欲望には罪が併存することの必要性、呪いによく似た贖いなどによって、すっかり狂いが生じている。[…]原罪、つまり、自然界に増補されたきわめて複雑な時間性、等など(自然的本性の終焉そのもの…)。
(p.26-27 「類似のマチエール=似ていることの根拠」)

  原文がやばすぎるのか、全然分からないのですが、とにかく眩暈のする文章なので、フランス語をやるならシェフェールが読みたいです。

 

政治的動物

政治的動物

  • 作者:石川義正
  • 発売日: 2020/01/23
  • メディア: 単行本
 

  わたしは「犬」である。そのように規定することにいかなる自己卑下も自虐もない。犬はどこかわからない場所にいる。犬は孤独で、怒っており、狂っている。わたしはここまで毎秒二十四コマの写真をスクリーンに投影する映写機と、フィルムに「何かの手違いで」紛れ込んでしまった犬のような存在について語ってきた。このコマの連鎖のようなものを本書では悪無限と呼び、太陽=映写機を真無限と呼んだのである。(p415-416)

[…]今日、わたしたちはたしかに「動物園」と化したこの世界で「狐や、かぶとむしや、石」のような者として生活し、労働している。わたしたちは動物として語り、歌い、要求するが、労働によって己と世界を変形できるとはもはや信じていない。世界と自分自身を変えるために、わたしたちは生と労働の概念そのものを変形しなくてはならないはずだ。(p.417)

[…]『政治的動物』はシステムが「諸個人の純粋な加算へと解体」したのちの、システムから見放された者による、システムに代わる視野をもちえない者の言説である。(p.418)
 日本の賃貸住宅の歴史を紐解き、明治期以来の民営借家では「店子の立身出世へのかすかな暗黙の期待」による家主の「補助金」が慣習化していたことを指摘して、二葉亭『浮雲』や漱石『こころ』といった日本近代文学とは疑似封建的コミュニティに暗々裏に支えられた「補助金」的フィクションであると喝破し、そこから切断・排除された世代としての孤児性を、「賃貸住宅市場が木造共同建ての民営借家から中間層と高所得者のためのマンションへと移行する状況そのもの」(p.75)のうちに描いた作品として、笙野頼子『居場所もなかった』の革新性を明確にした記述に死ぬほど痺れました。
 
 自分は一昨年まで知り合いが一人もいない相模原に引っ込み、1K2万の狭小賃貸で隣の黒人の騒音や近くで起きた障害者殺人に鬱になりながら暮らしていました。今は都内の事故物件で隣の老人のくしゃみを許しながら多少マシに暮らしています。笙野作品に特有の生活感覚がめちゃくちゃ好きだった理由がはっきりして感動しました。異常な思考の自由度で、我々がお互いに「政治的」な「動物」に過ぎない辛さを肯定してくれる一冊です。
 
 といった最近の読書のおかげで(?)、「動物」=「オタク」概念は係争の場として機能し続ける以外になく、その没社会的で曖昧な性格ゆえに、ネットコミュニケーションにおける利便な接続可能性と同時に、主体に何らかの政治的緊張をもたらす概念でしかありえない、という結論を腑に落とせました。
 
「社会的なもの」の崩壊が、情報化された身体の幻想に帰責されること。その快楽と罪業を、政治的動物として語り続けていくつもりです。
 
 

 ところで、「データベース消費」の経験的サンプルとして挙げられていることで名高いデ・ジ・キャラットの生誕秘話を更科修一郎氏が明かしています。
 
 丹沢恵という女性作家によるまんがライフ掲載のゆるかわ4コマ漫画*10にハマっている謎のアニメMAD職人が某ブロッコリーに拾われ、無料配布情報誌に好きな女性漫画家の4コマ作品をどさくさ紛れで載せたところ思わぬヒット、制作スタッフまで彼の要望どおりにアニメ化されて*11、某木谷社長が手柄だけ横取り、といった流れのようです。
 
 データベース云々以前に、やはり我々は少女漫画で射精していたんだ!!!!!というオタ確信が揺るぎないものに変わった記事でした。観念的オタク論が無限に再生産されないよう、こういう現場知をこそ裏付けて整理すべきかと思います。
 
 

 一応アニメ方面の物書きの最末端として生きてきた人間なので、思うところはありましたが、藤津さんやねとらぼに何か言っても詮無いので、思ったことだけ書きます。
 
 この記事で良くも悪くも印象的なのは、ゼロ年代批評を黙殺していることです。自分のタイムラインでは、「アニメライターの人たちが先行言説を引用しない全肯定の作品論ばっかり書くから議論が蓄積されないじゃん」問題*12が再指摘されていました。自分もこれは引っかかるので、一応知っている歴史は証言しておこうと、この駄文を書いています。
 
 こうした書き手の態度が、脱政治的で没歴史的なアニメファンの存在様態を肯定してしまう危険性は指摘しないといけないでしょう。ただ自分は正直、細部には良い議論もあったとはいえ、後続にあのグロテスクなゼロ年代批評を勉強しろ、なんてとても言えません。
 
 私たちはおそらく、ゼロ年代批評のしんどさ*13を歴史的にどう捉えるべきか、を全く共有できていない。先に見たように、東氏自身ですら半ば苦々しくその過去を語っていることからも、それは明らかでしょう。
 
 自分のテレビアニメに形成された愚劣な幼児性、動物性、セクシュアリティを、暴力的にでも「政治的なもの」へと水路付けてくれたのは、結局は東氏や更科氏の言説でしたから、一応さらっておく価値があるとは思います。
 
 少なくとも、上の世代の言説の暴力性に分断されたところから、それぞれの身体と存在を綿密に思考し直し*14、最終的には「オタク」「私たち」といった曖昧な共同性を斥けて生きるしかない歴史的条件に、私は置かれています。
 
 宇野常寛氏がオタクライター保守層の没政治性に喧嘩を売った背中を見てなお、私たちは「オタク趣味において問うべき実存や政治性とは何か」を、まったく共有できないまま苦しんでいる、というのが正確でしょうか。すでに「オタク」という概念で私たちの共同性を思考すること自体が不可能になっている。
 
 私たちはお互いに嫌いあって別々に生きるしかない、という市民社会の基本条件を露呈させたのがゼロ年代批評だった、と自分は思います。全員が全員の言説を基本的に毛嫌いしている。私が生きてきたアニメ言説環境を一言で表現すれば、そういう世界でした。
 
 
 
 記事にも原稿料の少なさが話題に出ているように、自分も実家暮らし*15でなければ生活できない最小限のパイしか配分されなかった人間です。というより、2010年頃に業界に入った時点で基本的にクリエイターインタビューしか仕事がなく、キャラクターで射精するしか能のない動物は困惑して断り、文字起こしと構成だけやっていました。
 
 少数のフリーランスがバラバラに書いているだけで、若い書き手を育てるための制度も予算も理念も無く*16、「批評」概念を原理的に問い直す試み*17すらない土壌に、「評論活動がシーンとして成立する」ことは今後も無いでしょうし、無くてもいいのでは、と思います*18

 ちなみに『ぼくらがアニメを見る理由ーー2010年代アニメ時評』は、石岡良治氏の著作と同様、それ単体では無難としか言えない書物でした。『21世紀のアニメーションがわかる本』も「私から私たちへ」という図式自体は正直、『君の名は』*19みたいなアニメを観続けてゾンビみたいに内面が無い馬鹿になった我々の現状を追認して何が楽しいんだろ、とは思いました。

 そもそも、量的過剰に(メディアや研究者を含めた)ユーザーの思考と記述が追いつかない状況は00年代中期から何も変わっておらず、自分が好きな作品に関する自分が読みたい文章を自分一人で書き続ける、という生き方以外には何も残されていないので、商業で食えるか、人に読まれるか、うまいこと言えるか、ではなく、自分にとってアニメとは一体何なのか、を思考する契機を、アニメ雑誌やアニメ評論「以外」の場所に探すことを、自分は後続に勧めています。自分は10年オタをやった結果、アニメとは直接的には関係がない勉強にしか、興味を覚えなくなりました。
 あの事件が起きた以上、京アニを嫌いながら生きてきた個人の思考は、社会的な責を負って明確にしたいと考えています。なので、作品論はやりたいけれども、やっても仕方ない、というより、自分は美少女アニメの至高なる非意味と不毛を主張する以外に興味がないので、もう少し違うことがやれないかを試しています。
 
 近い歳の人と話すと、「00年代が何だったのか分からないまま10年代が終わってしまった」との言をよく聞きます。「平成は昭和の消化試合だった」と遠い目で語る上の世代のほうがまだ恵まれているようです。自分以外のオタの人は、結局は信じるべき意味や物語を求めているのかもしれません。私は自分が生まれた国と時代に何の愛着も抱いておらず、20世紀思想という直近の訓詁にこそ強くリアリティを感じながら生きています。
 
 
 私はアニメの感想文で極めて運良く紙媒体の出版に拾われた(下手をすると最後の世代に属する)人間です。もしその機会がなければ、おそらく今でも大量のアニメを観続けながら沈黙し、日本に何百万人と存在する引きこもり男性の末席を汚していたことでしょう。
 
 主体の幼年期に曖昧なまま取り憑いて、成年後もなお切り離せない消費文化の快楽は、「アニメ」という対象概念ではなく、欲望や身体の次元で様々に問い直すべきです。自らの内の動物の鳴き声と呻き声に言葉を与える方法を、私は探し続けています。
 
 オタという概念やアニメという趣味で曖昧に他者と繋がった時点で、私たちは色々なことを間違えてしまうようです。誰とも関わらずに一人でアニメを観続け、一人でアニメ誌とアニメ評論「以外」の本を読み、一人で文章やコンテンツを作る生き方を、理論ではなく実践で指し示し続けることが、自分の役割だと考えています。

*1:なぜ「趣味」が社会学の問題となるのか――『社会にとって趣味とは何か』編著者・北田暁大氏インタビュー【前篇】-Web河出

*2:『社会にとって趣味とは何か』の北田暁大氏の計量分析の問題点(第2章)-ニュースの社会科学的な裏側」、「『社会にとって趣味とは何か』の北田暁大氏の計量分析の問題点(第8章)-ニュースの社会科学的な裏側

*3:リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』-兵頭新児の女災対策的読書」など。クセの強い書き手の方ですが(自分が言うのもなんですが)、オタに残された最後の理念である本田透に拘泥する政治的立場に愛しさを感じます。美少女コンテンツ消費における理念の不在によって、静かに引退していくインターネットのオタ中年を数多く観測してきた身としては、どうしても嫌いになれません。この件は「山岡重行聖徳大学講師の拙稿への「批判」と統計学理解の問題及び研究教育倫理の重篤な問題について①|北田暁大|note」を含め、色々とあったようです

*4:この本は本当に好きで、自分が「セクシュアリティ」という言葉を雑に使う際も、ひとまずは本書で整理された「無定義概念としてのセクシュアリティ」(p.13)にぼんやり甘えており、我々が性に付与する様々な意味と徹底的に添い寝しながら生きたいと考えています。ちなみに、以前紹介させていただいた金塚貞文「オナニズム三部作」は、「『オナニスムの秩序』(一九八二)で展開された金塚貞文のオナニスム論は、八〇年代のオナニー言説の中でもっとも優れた哲学的省察の一つ」(p.417)とされています。

*5:なぜか運良く出版に拾われて食えた人間が言うのもなんですが……

*6:この本hontoの電子書籍で買ったのですが、引用ページ数どう表記すればいいんでしょうか……

*7:と思ったら、コロナウイルス騒動を受けて一時復活してました。「観光客」だめじゃん頑張れ!!!ってなりました

*8:おれは『美少女ゲームの臨界点』を1万で買った(怒

*9:

*10:自分は『先生のお時間』のアニメ版が好きです

*11:桜井弘明アニメの麻薬性にはこういう歴史があるので、『まちカドまぞく』は用法用量を守って鑑賞しましょう

*12:黒瀬陽平「キャラクターが、見ている。――アニメ表現論序説」『思想地図 vol.1』p.429参照

*13:反面教師にはなりましたが、未だにあの界隈を観測した時のエグさをどう表現したものか分かっていません。人から見たら自分もそのキモさに頭から突っ込んでいる筈です。あとゲンロンで海猫沢めろん氏のいかにもゼロ年代的なジャンク文体のオタク小説『ディスクロニアの鳩時計』が未だに連載しているのが謎です。ああいうノリは志倉千代丸が全部持っていっちゃった感ありますよね……

*14:

私はシェフェールの内在的な繊細さを本当に尊敬しますが、批評家や研究者の自意識すらサディスティックに分析するクリスチャン・メッツの政治的観客論にも、薄暗い楽しみを覚える人間です。というより、私は『嫌オタク流』などの極めて陰惨なオタク論を自罰的に読むことで、他罰的な言説を内心に留保しながら、自分自身の腐り果てたオタク感性を相対化して笑い飛ばすことができた体感があります。繊細さと俗悪さと、清濁併せ呑むこと自体に、サブカル人間の生存様態がある筈です

*15:今は一人暮らしです。ちなみに某有名アニメライターの方は東京で実家暮らしと聞きました

*16:今になって振り返ると、自分はこのいい加減な土壌に対して、本気で怒らなきゃいけない立場にいたのかもしれません。とはいえ、自分から動くチャンスはいくらでもあったのに、結局は何もしなかった人間なので、誰を責める権利もありませんし、今はアニメ関連の仕事を全て断って関係の無い世界で生きています

*17:「アニメ評論」の外部では、それこそゲンロンの批評再生塾や「現代日本の批評」特集、それに対する外山恒一氏の批判などがあります。そのあたりで十分な気もします

*18:今でも整理できていない問題なので言わないようにしているのですが、自分は批評でも評論でも感想でもとにかくアニメに関する何かしらの文章を読む際、自らの鑑賞体験と照らし合わせて、本当に心の底から「なるほど」と納得できたためしがありません。ただそこに、自らとは全く異なる映像に対する思考と、自らとは全く異なる歴史的主体を発見し続けてきただけです。この分からなさ、に立ち止まって考える契機が、ネット言説にもライター言説にも見つからなかったのが、自分の不幸だったかもしれません

*19:手のひらに「好きだ」って書いてあったシーンで爆笑したので好きです。大衆文化のお馬鹿さは正面から指摘し、愛する必要があると考えます。私たちの愛はお互いに全く異なります

2010年代のテレビアニメについて

まえおき

 Twitterにて@highland氏が「#10年代アニメ各年ベスト10」というハッシュタグ企画をされていました。リツイートをぼんやり眺めて、みんな楽しそうでいいなと思いました。自分も10本選んだので、どうぞよろしくお願いします。あけましておめでとうございます。
 ところで、自分はちょうど10年前からアニメ周りの売文家の端くれとして生きてきた人間なのですが、ここ10年の人生を端的にまとめると、アニメファンのコア層が京アニ崇拝にのぼせ上がり、我々のアニメに対する感性的条件がどれだけ歴史的に規定された狭っ苦しいものであるかを全く問い直さないまま、批評もブログもジャーナリズムも迎合主義が跋扈し続け、こんな場所で何を書いてもひたすらに馬鹿馬鹿しい、という長年抑圧していた行き場の無い怒りが、京アニ放火事件という最悪の形で回帰してきたように感じられた2019年でした。
 
 ここ10年のテレビアニメを振り返るのであれば、この程度の憂鬱には当然誰もが向き合わされることでしょうから、そうしたしんどさを忘れたい方は以下、読んでいただかなくて大丈夫です。
 すでに業界で仕事をする気もなく、愚痴を言い損ねて禍根を残してもよくないので、「アニメに喚起される情動」と「物書きとしての社会的自我」に折り合いが付かなくなった人間が、ここ10年考えていたことだけ書き殴らせてください。

 

 

 

2010年:ジュエルペット てぃんくる☆

 普通にTwitterをやれていた2011年頃は、ルイス・キャロルドニー・ダーコひだまりスケッチをサンプリングしたダーク魔法少女アニメに「悪」や「救済」や「成熟」といったエモ概念を仮託するムーブメントが印象的でした*1。自分は既に食傷していた新房昭之氏の手癖に舌打ちし、「ジュエルペット」シリーズ第2作目のイノセントな魔法少女アニメに耽溺し続けていました。
 多感な時期に『おとぎ銃士赤ずきん』(06)と『セイントオクトーバー』(07)という「深夜アニメと女児向けアニメのキメラ的モチーフ」を意図的に煮詰めたフリークスに魅了された人間なので、「プリキュア」シリーズのピュアネスと「アイカツ」シリーズの洗練を見届けるのは人に任せて、『しゅごキャラ!』(07)、『リルぷりっ』(10)、『プリティーリズム』(11)、『プリパラ』(14)と快調に走りつつ、『東京ミュウミュウ』(02)、『満月をさがして』(02)、『ぴちぴちピッチ』(03)などのシリーズに遡った青春でしたが、「少女文化に興奮してしまう肉体に何の根拠も無いこと」を確認して鬱が深まり、「歴史を踏まえるならば太刀掛秀子などの70~80年代りぼん乙女ちっく系少女漫画をこそズリネタにしなければならない」という強迫観念には、今なお苛まれています。
 島田満脚本の文脈すら踏まえず『てぃんくる』を「王道の魔法少女アニメ」とか商業誌でべっとり褒めた過去が今になってつらい一方、中年人気の高さに引きながらも『サンシャイン』(11)に移行して、そうした病気を哄笑の只中に忘れさせてくれた「ジュエルペット」のおおらかなシリーズ展開がなければ、この歳までアニメを観てはいなかったと思います。
 

2011年:R-15

 そういうわけで、自分がアニメを観続ける最大の理由は、その低劣さと幼児性にあります。
 当時は目の前に広がるゴミの山を語らずに済ますアニメファンと知識人の、あらゆる言説に激しい憎悪を抱いていました。
 今は他人に期待せず、雑に視聴本数を増やす態度自体から見直して、粛々と趣味の文章を書いて生きる方向に努力しており、 個別の作品については、別の機会に書くつもりです。
 なぜオタも知識人もクリエイターも信用せず、自意識だけでアニメを観れていたのかは分かりませんが、大塚英志風に言った「二階の住人」的なおたくコミュニティに拾われて*2、気が大きくなっていたと思います。
 実際、何らかの濃密なやり取りがあるコミュニティに参加しなければ、10年もアニメは観れませんでしたが、周囲の大人が40も超えてお互いに飽きてきたのが運の尽き、同世代の友人を増やしたり同人活動をメインにすべきだった、という後悔が残りました。

 

2012年:武装神姫

 Anifavというサイトで『武装神姫』の全話レビュー原稿を載せていただきましたが、そのサイトがとうに潰えている時点でアニメ関連ジャーナリズムの困難は言わずもがな、商業でアニメについて書くことの徒労感は、当時からうっすら感じていました。
 正直言えば、上の世代のオタク系ライターの方々の仕事にも、クリエイター関連の情報にも今は関心を失っており、文化伝統の継承よりも平成世代の絶望に基づいて物を書きたい気持ちが強いので、そもそも業界に向いていませんでした。
 消費文化がもたらす人間の劣化を無視してSNSでデカい面するぐらいなら、孤独死のほうが遥かにマシという認識に至って久しいです。
 本当は二度とネットをやらず黙って消えたかったのですが、せめて全てに関心を失った人間が連帯する可能性ぐらいは、場末に残しておきたい気持ちがあります。
 昔のように無邪気にアニメの文章を書けたなら、という哀惜だけがあり、読む人には読んでもらえていたので失礼ではありますが、今本当に考えるべきは作品についてではなく、もはや人間ではいられなくなった私たち自身についてだと思います。
 

2013年:ファンタジスタドール

 ネットコミュニティの熱狂に同一化できた最後の作品でした。
 ボンクラのまま生きたかったものですが、この頃から匿名掲示板からも足が遠のき、カオスラウンジ騒動に対する罪悪感も淀んでいました。ネットリンチに無感覚のままアニメファンを自認するのは非常にしんどく、富野監督の説教はもちろん、山本寛氏の怒りですら真に受ける価値があります。当時は鼻で笑っていました。今は歳を取る怖さを思い知っています。
 周囲の勧めからコメント付きでアニメを観るのにも飽き、『D.C.IIIダ・カーポIII〜』『AMNESIA』『断裁分離のクライムエッジ』『RDG レッドデータガール』『フォトカノ』『デート・ア・ライブ』『ジュエルペット ハッピネス』『探検ドリランド -1000年の真宝-』『絶対防衛レヴィアタン』『アラタカンガタリ革神語〜』『革命機ヴァルヴレイヴ』『変態王子と笑わない猫。』『犬とハサミは使いよう』『BROTHERS CONFLICT』『ステラ女学院高等科C3部』畠山守版『ローゼンメイデン』『帰宅部活動記録』『幻影ヲ駆ケル太陽』『神さまのいない日曜日』『DIABOLIK LOVERS』『ゴールデンタイム』『ストライク・ザ・ブラッド』『勇者になれなかった俺はしぶしぶ就職を決意しました。』『メガネブ!』『ワルキューレロマンツェ』『機巧少女は傷つかない』『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』『ガリレイドンナ』『サムライフラメンコ』あたりが好きでした。
 私たちは記述できる以上に多くのことを知りすぎている、という文化ジャンキーの閉塞感をあらためて強調しなければ、今のネットの荒野に関して申し開きが立ちませんが、もはや誰に対して言い訳をしたいのかも分かりません。

 

2014年:彼女がフラグをおられたら

 それ自体で完結した快楽の全体性*3を、概念で汚すほかない思考に対する苛立ちが、徐々に自覚されてきた時期でした。
 大衆文化の映像作品に対する自分の感動の核心は、「極めて多層的に構築された、極めて単純な快楽」の至高な無意味に見出されています。
 一作品の長尺と分業体制の複雑性が、大雑把に把握しやすい「作家性」を容易くクリシェと感じさせ、言表困難な剰余やプロダクトの細部に必然意識が向くものの、それらの総体が奉仕している最も肝要なルックやデザインの洗練自体は、どうしても直観的かつ換喩的にしか記述できない我々の無能さにこそ、深夜アニメ特有の異様な快楽の本質が隠れている筈であり、それは裸体の猥褻さのように意識の諸表象の領野の外部に留まる*4がゆえに、エロティックなまでの魅力を永続させているものと思われます。
 
 記述しえない猥雑さを「思考の限界」として愚直に強調する語り方自体、反時代的で信用を得ないと分かってなお、非-知の只中で対象以上に主体自身を笑うしかない、という姿勢だけが、自分がオタクという概念に託し得た唯一の美学であり、神聖な汚物を崇拝する人間が踏まえるべき最低限の条件だと考えています。
 
 どれだけ大量の生と技術が我々の幻想を支えていることか、どれだけ巨大な混沌を切り捨てて気儘な酩酊を得ていることか、その怖ろしさを閑却して狭い認識を開陳するしかないのであれば、せめて相応の忸怩ぐらいは表現できなければつらいわけです。
 

 『ロボットガールズZ』『最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。』『みんな集まれ!ファルコム学園』『バディ・コンプレックス』『ハマトラ』『魔法戦争』『マジンボーン』『ブレイドアンドソウル』『悪魔のリドル』『selector infected WIXOSS』『レディ ジュエルペット』『星刻の竜騎士』『神々の悪戯』『金色のコルダ Blue♪Sky』『それでも世界は美しい』『極黒のブリュンヒルデ』『ブラック・ブレット』『ソウルイーターノット!』『棺姫のチャイカ』『エスカ&ロジーのアトリエ 〜黄昏の空の錬金術士〜』『M3〜ソノ黒キ鋼〜』『RAIL WARS!』『普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。』『少年ハリウッド -HOLLY STAGE FOR 49-』『人生』『Re:␣ ハマトラ』『モモキュンソード』『LOVE STAGE!!』『精霊使いの剣舞』『デンキ街の本屋さん』『失われた未来を求めて』『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』『繰繰れ! コックリさん』『暁のヨナ』『大図書館の羊飼い』『ガールフレンド(仮)』あたりが好きでした。

 

2015年:ランス・アンド・マスクス

 提灯でこんなひどい褒め方ができれば、黙々と公式仕事に勤しんでいます。
 書き方も悪かったと反省され、真剣な思い入れは真剣に表明しないと伝わらないという確信が、文体の去勢にも繋がりました。
 「クソアニメの人」と認識され続ける自己同一性を呪う一方、そう形容せざるを得なかった深夜アニメ特有の低俗と猥雑の価値を、匿名掲示板とも秘宝ともシネフィルとも異なる思考と文体で強弁する以外、自分にできる仕事はないと判断されていました。
 ただ、感性的体験を共有可能にする冗長性を伴った面白主義的文体ではすでに文章を書けず、今さらネット言説で気儘な読者を動員する気も起きません。
  「批評の蛮勇」を奮う気概はなく、さりとて公式案件や取材仕事に大人しく邁進するような信仰も喪失し、ただただ「アニメを観ることの言説化」にまつわる神経症的な憂鬱と自閉症的な快楽に引き裂かれ、身動きの取れない期間が続きました。
 
 今は、「映像体験をいかに分節化するべきか」というライターとしての職能上の課題を、「言語と生の対立」という思考の根本問題に位置づけ直し、別の生き方を探っています。

 

2016年:12歳。〜ちっちゃなムネのトキメキ〜

 先日、長年の京アニフォビアをおして『聲の形』(16)を観たところ、完璧な画作りと丁寧なドラマに胸を締め付けられると同時に、早見沙織声の聾唖者に断然勃起する言えない欲望をこんなに美しく祝福しないでほしい、という憤りを覚えました。

 全ての罪悪が幼年期の愚昧さに端を発するというのなら、ガチの小6マインドをトレンディなスタイルで天真爛漫に謳歌する『12歳。』にこそ留まり、幼さは幼さそのものとして罰されたいと願われます。
 鍵ゲーは後追いで6割方プレイしており、鏡像的な白痴に魂を浄化されるエクスタシスの至高性と、そのどうしようもないみっともなさの両面を思い知らされるからこそ、Keyや京アニ作品の完全な快楽を笑い飛ばすところから、人はオタとしての個体化を果たすものであると、信じて自分は生きてきました。
 
 この甘すぎる快楽を、トップクリエイターとビッグバジェットに世話される恥に耐え難いがゆえ、底の知れた欲望は最底辺のコンテンツでこそ満たすに至っているわけです。
 

 『NORN9 ノルン+ノネット』『ファンタシースターオンライン2 ジ アニメーション』『紅殻のパンドラ』『霊剣山 星屑たちの宴』『最弱無敗の神装機竜』『蒼の彼方のフォーリズム』『リルリルフェアリル 〜妖精のドア〜』『迷家 -マヨイガ-』『聖戦ケルベロス 竜刻のファタリテ』『ハンドレッド』『鬼斬』『SUPER LOVERS』『ビッグオーダー』『タブー・タトゥー』『魔装学園H×H』『スカーレッドライダーゼクス』『タイムトラベル少女』『クオリディア・コード』『アンジュ・ヴィエルジュ』『ViVid Strike!』『マジきゅんっ!ルネッサンス』『Occultic;Nine -オカルティック・ナイン-』あたりが好きでした。

 

2017年:クロックワーク・プラネット

 YouTubeのプライベートな映像文化にスカムも砂金も一緒くたに混在する状況下、曲がりなりにもテレビ放映のコンテンツで人気の多寡やB級が云々と考えるのが、いよいよ馬鹿らしくなった時期でした。

 ブログ文化圏の崩壊と共に進行した短文SNS全盛の状況下、諸個人の感性的断絶が容易に政治的危機へと発展するインターネットに関心が失せ、結局はアニメジャンキーとしての自我に充足あるいは自閉して、既存の媒体や言説形態への適応自体、徐々に諦めていった10年間でもありました。

 私が作品に関する記述よりも自意識の記述を優先するのは、既存の分析的言語とオタ諸個人の思考の混乱を比較すれば、後者に潜在する狂気の可能性に賭けたい気持ちがこの期に及んでなお強いためですが、個であることが不可能な趣味領域であることを認めて、潔く立ち去ったほうが生きやすいのも分かっています。

 『政宗くんのリベンジ』『アイドル事変』『セイレン』『ハンドシェイカー』『つぐもも』『フレームアームズ・ガール』『アイドルタイムプリパラ』『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』『武装少女マキャヴェリズム』『ひなこのーと』『ツインエンジェルBREAK』『覆面系ノイズ』『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』『sin 七つの大罪』『アクションヒロイン チアフルーツ』『天使の3P!』『異世界はスマートフォンとともに。』『はじめてのギャル』『王様ゲーム The Animation』『魔法使いの嫁』あたりが好きでした。

 

2018年:となりの吸血鬼さん

 この時期に書けるぶんは以前書きましたが*5、とりわけ「なんにも感じなかった」ことにおいて印象的だったのが本作で、快楽の飽和が明確に自覚されてきました。
 
 一日で完走できる驚くべきカロリーの低さで推移する、ポーのサイン本やガレノスの四液体説が淡々と流される悠久のぼんやり感には、男根主義者に感知しえない快楽の生起する気配だけが感じられ、一抹の悲しさと共に「こういうアニメとも向き合い続けなければならない」と感じました。
 
 再生している間、「百合は俺を人間にしてくれなかった」*6という怨みが脳髄を支配したので、反人間・反思考・反哲学の気概に燃えて、フレンチセオリーに再入門しました。
 
 その結果、「屈託なき自己消去願望」に苛立って他罰的言説を弄する気も失せ、少なくとも理念としては、どこまで他者の欲望と自らの欲望を交流させ、世界を肯定し続けられるかに、思考の構えが切り替わった時期でした。
 

2019年:通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?

 ところで二次元バーチャルセックスの十全すぎる視覚的現前性に枯れ果てた後の自分は、エロ同人音声でも容易に射精してしまい、斯界の赤ちゃんプレイ作品の豊穣さにこそ、さらなる荒野が待ち受けているよう予感されています。ASMR文化はまだ拒絶しています。あるいは、10年代インターネットのアニメ文章で、女性声優の咀嚼音をコレクションしたあれ以上に、記憶に残ったものがあるでしょうか。最近は『僕たちは勉強ができない!!』9話の古橋さんが歯磨きした後の「ぐちゅぐちゅぺ」の音が好ましかったです。
 
 こうしたインターネット感性や肉体の荒廃と照らし合わせれば、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』の自己目的化したお話転がしに振り回される思春期男女の先鋭ぶった保健体育授業には感興を削がれるばかり、麻倉もも氏のキャラがレズセックスすればまだしも、『砂沙美☆魔法少女クラブ』以来の岡田麿里氏とも付き合う気は失せ、むしろ『フルーツバスケット』リメイクの平板な小綺麗さにこそ安息を覚える中、桜井弘明監督の完璧なリズム感覚できらら幻想を崇高の域に高めた『まちカドまぞく』の危うい快楽にも震撼させられましたから、『トリニティセブン』ばりのギクシャクしたお洒落劇伴エロに悶絶する『戦×恋』をはじめ、『ノブナガ先生の幼な妻』『なんでここに先生が!?』『魔王様、リトライ!』あたりのたまらない幼児性や、『超可動ガール1/6』『Re:ステージ! ドリームデイズ♪』『八月のシンデレラナイン』あたりの健気さに心地良さを求めてしまい、あとは『魔入りました!入間くん』がずっと続いて、『星合の空』の続きが観れればなお幸甚、と特に問題なく本数を回せる程度には、最近精神も回復しました。
 
 藤真拓哉デザインのグロ安い百合が感涙物の『Z/X Code reunion』と並べると、中年エロクリエイター揃い踏み『神田川JET GIRLS』はむしろ安心感たっぷりで、『旗揚! けものみち』『ダンベル何キロ持てる?』の異様なバランス感覚にも舌を巻いた年でした。
 
 そこに来たのが岩崎良明監督の保守タッチで能天気な母親ポルノとジャンクな毒親話を交互に繰り出す最悪のファックムービー『通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?』で、おれの男根が母親に射精しているのは十分に自覚しているからもうやめてくれと絶叫しかけましたが、下劣な直截性を強いて肯定することで享楽を変容させる以外、アニメのもたらす効果など見出せません。
 
俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』では、金元寿子声の童顔巨乳女子のグロさに射精し、茅野愛衣キャラの人気には唾を吐いていましたが、今となってはどちらが奇形的進化かも分からず、EDの「パタパタママ」の替え歌に頭を抱えるたび、「キモい快楽を否認してはならない」というオタ教訓へと、戒律のように立ち返ることになります。
 
「母性のディストピア」というキャッチコピー批評*7に要らぬ苛立ちを覚えず、我々の内なるラブワゴン(肉体的実践への回帰)を笑い飛ばすためにも、母親の代理とファックし続けていること自体は否認せず、どれだけ平板で卑しく直視に堪えない表現であっても、我々の貧しく腐り果て錯乱した非人間的な感性自体をこそ、醜悪な「私」の立場から言説化するしかありません。


 もちろん『アズールレーン』など放送中から忘却しており*8、クソな労働環境とクソなインターネットを放置して制作側の人間を絞め殺す生き方にもう耐えきれず、SNSでぴいぴい囀る生き方に適応するぐらいなら自殺したほうがまし、という絶望も治る見込みがありません。
 とにかくTwitterが嫌いなだけなので、noteなどに移行はするつもりですが、いろいろ今さら遅かったのか、目に入る「同好の士」の大半に関心を失っています。
  そのぐらい我々は、お互いがどのような信念体系に基づいて、個々の欲望の表象に思考を溶かすに至ったのかをなおざりに、自己を消却した匿名的かつ断片的な言葉で作品を語り続けた結果、完全な相互不信に陥っているということだけは、確実に言えるかと思われます。*9
 
 そもそも、「考えること」自体が人間の本質や尊厳をもはや構成しえない、という時代の条件を、ここまで隠然と言祝いでいる趣味領域も他になく、驚くべきことに、テレビアニメがソーシャルゲームと同様の基本無料文化であるがゆえに、その言説環境には貧困の問題が密接に絡んでいるということを、明確に踏まえて作品評を書いてくれる人は、これまで極めて僅かでした。*10
 
 感性的条件を弁明せずに済むマジョリティとしてのオタク文化消費者は、その当事者性を自覚しないまま大雑把な繋がりを頼りに歳を取ることが容易である反面、飽きた時の悲惨もまた相当であるということ以外、この趣味について強調すべきことが残っているとは思えません。
 
 
 かつての人間が生きられたような「現実」や「生活」を喪失し、コンテンツを生そのものとして代えがたく経験しているがゆえに、作品=生そのものを言語で分節することに極度の緊張、あるいは諦念を抱いてしまうのが我々の不幸であるならば、どのようにすれば作品自体については語らずに済ますことができるのか(できているのか)、語らずにおくことで滞留する記憶や情念にどう責任を取っているのかだけは、明確にしたく思われます。
 また、こうした便宜的な語りの姿勢に「無為」と「軽薄」と「だらしなさ」が絶えず付きまとうのであれば、時代の軽薄さに打ちひしがれた人間同士が交流するための別の方法を作れないか、ということを考えながら、最近は生きています。
 

*1:当時は反発しましたが、例えば山川賢一氏『成熟という檻』などを再読すると、ああした謎本的思考を反面教師にして大衆文化と学知の結び付けを反省的に捉えられたのはむしろ幸福であった、と感謝だけが残っています

*2:来歴 - おしゃべり!おしゃべり!

*3:例えばアリストテレス『ニコマコス倫理学 (下)』(p.161)には、運動や生成の可分的な性格と関わらない、快楽の全体的・究極的な性格に関する記述があります。また、バタイユは『エロティシズムの歴史』(p.163)において、「色、音……といった抽象的諸要素しか扱わない分析には絶対に還元できないもの」である「総体«totalité»の感情を味わうには、明晰かつ判明なものはなにひとつ開示してくれない、このうえなく模糊とした感覚が、極度に高まることが必要である」と述べています。自分は、大衆文化の洪水を浴びる私達の生の根源的な表現を求めており、この目眩と絶望に満ちた「快楽のとてつもない単純さ」の次元を、原理的に分節する以外には救いを見出せなくなっています

*4:「実を言えば、横滑りこそ裸体の本質をなす。そして、欲望の対象の現実的な在りようは挑発的であるが、それにもかかわらずこれがたえず明確な表象を逃れるのは、この横滑りのせいである。というのも、ある人間の欲望をそそるものも別の人間の関心をまったく惹かないし、加えて、ある対象に今日胸を引き裂かれるような思いをする人間も、明日になれば平然としているからだ。裸体についてよくよく考えてみれば、猥褻な、とは言わぬにしても、少なくとも淫蕩な、したがって挑発的なその外観は、つねに人を欺く。実際、裸体は、あからさまな猥褻を包み隠しているのだが、この猥褻そのものの意味が横滑りする(捉えどころのない)ものであることは、すでに見た。」『エロティシズムの歴史』p.207-208

*5:平成30年度アニメ感想 - おしゃべり!おしゃべり!

*6:失礼なのでリンクは貼りませんが、某出版社の販売戦略には定期的に心底うんざりさせられます

*7:ヘルシー女子大生か善良な市民の言説に傷ついた過去も、今となっては凡庸な思い出の一つに過ぎず、むしろ次の世代から見た今の自分の言説が、かつての自分にとっての宇野氏のようなオタちんこ殴り言説としてトラウマを植え付けかねない、という現状認識に立ち尽くしています

*8:アズールレーンに参加したアニメーター「どこまで手を抜けるかを追及した」 - Togetter

*9:大衆に絡まれた批評家がよく言う、「不満があるなら外在的言説は無視して自分で文章を書けばよい」という提案は、本当に真っ当なのでそこだけは無条件に真に受けてほしいと思う一方、大衆文化に学的認識を適用すること自体の馬鹿らしさはここで等閑視されていますが、その馬鹿らしさを主張するにも相応の覚悟と手続きを必要としてしまう立場から、自分は文章を書いています

*10:インターネットのアニメ文章は「17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード」で大体満足しています。あとはそこで糾弾されている、「深夜アニメ特有の濃密な幼児的セクシュアリティ」に呪われた当事者が分析的に思考を表明する語り方さえ作れれば、という針に糸を通すような動機以外では何も書けない現状です

10月雑記(寺山、ラカン、天使主義)

 若いころ寺山が好きで、東京から恐山まで青春18きっぷで鈍行したのが、初めての一人旅でした。

 きっかけは偶然ネットで見た横尾忠則のポスターで、土方巽の舞踏公演のやつだったかもしれませんが、何にせよ寺山・土方・澁澤らの言語感覚と「前衛」の響きに浮かれ、先に触れた『ウテナ』への愛着を忘れるほど、もはや不在な演劇のイメージに憧憬を抱いた20代初期でした。

 

ラカンで読む寺山修司の世界

ラカンで読む寺山修司の世界

 

 そうした曖昧な思い入れを整理するべく読んだところ、初期句集において真っ当な神経症者として人格を形成した上で、後年の演劇活動では倒錯的・精神病的モチーフを理念的に選択した寺山の創作活動全体を、『アンコール』解釈を絡めてざっくり「ファルス享楽の囲い込みを経た女性の享楽への移行」として総括した読解は、寺山ファンとしてもラカンファンとしても納得度が高いまとめ方でした。

 

 ところで、本書に触れたアブラブログの記事を久々に読んだところ、本書とは対照的に手付きが危うい「キャラクターに無意識の主体を見出すエロゲー精神分析批評」に対する批判がなされており、その「欲望する主体の次元や、身体的・エロス的なものを忌避した潔癖なラカンの使い方」が、端的に「天使」と形容されています。

 この表現から想起するのは、ジジェク『信じるということ』などのデジタル・グノーシス論で、中でも今年新版が出た山内志郎『天使の記号学』は、情報社会論と中世思想をアクロバティックに接続する文体に脳が痺れ、中世哲学に実存的主題を誤読してしまう契機の一つでしたが、『存在の一義性』は7000円ぐらいしたので*1、主に経済的理由から中世ファンをやる難易度が高いです。

 

信じるということ (Thinking in action)

信じるということ (Thinking in action)

 

……流布している認識では、「電脳空間はハードコア・ポルノだ」という。すなわち、ハードコア・ポルノが電脳空間の主たる用途だと認識されているのである。電脳空間(あるいはさらに仮想現実)を自由に漂うときに感じる文字どおりの「啓蒙〔=照明〕」、存在の「軽さ」、息抜き/軽減の感覚は、身体がないことの体験ではなく、別の――エーテル的、仮想の、無重量の――身体、惰性的な物質性と有限性にとどめない身体、天使のような亡霊的身体、人工的に再生し操作できる身体を、所有する体験である……グノシス信仰の簡潔な定義は、まさに一種の精神化された物質主義である。

(p.56-57  「反デジタル異端」)

 仔細に見ていくと、この非生物学的で亡霊を思わせる身体は、いわゆる肛門対象に近づいていく。……直接に見える外見は、無定形のうんこなのだ。自分のうんちを贈り物にする小さな子は、ある意味で、自分の〈内面の自己〉に直接に相当するものを与えている。……ここにはペニスと同じ思弁的両義性がある。泌尿器であると同時に生殖器でもある。われわれの奥底の自己が直接に外在化されると、気持ち悪くなる。

(p.59-63  「うんここそあげなきゃ」)

 

天使の記号学 (双書・現代の哲学)

天使の記号学 (双書・現代の哲学)

 

 肉体が欲望の源泉で、しかもそれゆえに罪の源泉であるというのではない。欲望はそれ自体では罪も穢れもないものであって、罪や穢れに転じてしまうのは、欲望が肉体から浮遊し、人間的尺度を逸脱すること、限度を受け付けないことによる。肉体の存在こそ、欲望に正しい路を歩ませる保障なのである。

(p.58  「欲望と快楽の文法」)

……「肉体」を普通の生身の肉体と考えようと、高度に抽象的な「肉」の意味で捉えようと、肉体とは、身近で、自明で、具体的で、直接的であるため、不思議さを喚起しないが、そういった気づかれないものこそ、気づかれないために、何ものかを守ることができるのだ。私がここで知りたいのは、「肉体」という不可解なものが、どのようにして身をやつし、姿をくらまし、人目を避け、おのれを語らずにいられるかということだ。

(p.110  「肉体の現象学」)

 

  「現実の肉体から遊離したバーチャルな身体感覚」に基づいた、「キャラクターに無意識の主体を見出してしまう性向」は、山内氏の議論にあやかって「天使主義」という名で、オタ特有の欲望の条件として自覚されていましたが、こと個人的な場面に限ると、近年は年を取った無意識の厚みのせいか実存を託しうる対象を見失い、バーチャルセックスの錯乱のうちに主体自身を壊乱させる体験が、キャラクターに超越を託す唯一の回路になって久しいです。

 こうして自分が「肉としてのオタク」を強調して物を書くのは、上記のようなエロゲ文章に特徴的だった、抜きの評価をレビューサイトなどに委託し、射精の反省に最適な精神分析の知を解離的に活用できる「天使性」への両義的な感情ゆえで、断片的な当時のオタ文章をふとサルベージするたび、せめてその信仰を体系的に遺してほしかった、という愛おしさと哀しさが湧きます。

 

表象11:ポスト精神分析的主体の表象

表象11:ポスト精神分析的主体の表象

 

  例えばですが、こう言ってよければ、性の抑圧の模範であるヴィクトリア女王の庇護の下で、フロイト精神分析を発明したとするなら、一方において、二一世紀はいわゆるポルノ、見世物となり、誰もがインターネット上においてマウスのワンクリックでアクセスできるショーとなってしまった露出された性行為にほかならないものの大規模な拡散の時代であるわけですが、この[二つの時代の]裂け目について私たちはどのように思考すればよいのでしょうか。ヴィクトリア女王の時代からポルノの時代への移行のなかで、私たちは禁止から許可へ移行しただけではなく、扇動、闖入、挑発と駆り立てへと移行したのです。身体の想像的な過剰が与えられ続け、使用され続けていることよりもうまく、現実界における性関係の不在を示してくれるものはありません。

(p.83  ジャック=アラン・ミレール「無意識と語る身体」訳=山崎雅広+松山航平)

 

 後期ラカンのサントーム理論に依拠して、無意識ではなく「語る身体の享楽」を重視する、アラン・ミレール流「享楽の独我論」に慰めを得る気持ちは多い一方、巻頭の共同討議では「精神分析の死」と「自閉症的主体の脚立的超越性」に関する相当参った状況分析が纏まっており、倒錯者が趣味でつまみ食いすることの申し訳なさを感じました。

 

リアルの倫理―カントとラカン

リアルの倫理―カントとラカン

 

……ここにおいて、無限はまた異なったかたちで――ヒロインを崇高な輝きで包む不在としてではなく、気味の悪い、「場違い」な存在として、すなわち享楽の無限性に耐えうるようには造られていない肉体の歪み、捻れとして――現れる。

……シーニュは――問いかけをもってこの倫理についての論文を結ぶことを許していただきたいのだが――劇最後、第三幕を通して、欲望の〈真実〉、ペニスの〈真実〉を具現しているとは言えないだろうか? 形象の次元に属するψではなく、(『クライング・ゲーム』から言葉を借りるなら)「ひとかけらの肉の塊」に――シニフィアンによる去勢の後に残る〈真実〉、欲望の〈原因〉の〈真実〉である「ピクピク震える」小さな肉体に――なっているとは言えないだろうか?

(p.291-292  「それゆえ」)

 

 最近読んだジュパンチッチはとても楽しかったですが、道徳律や超自我とは区別されるところの現代的倫理を成立させる、「行為」あるいは「出来事」を肉体の次元で目指せそうにはなく、「電脳空間における天使的なコミュニケーション」のグロテスクさと限界に、もう少しマシな使い途を見出していく方向で引きこもり続けたい現状です。

 

 

 

もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて  続・情報共有の未来
 
 

 

 この文脈で言えば、大塚英志氏の『感情化する社会』を始めとする一連の「工学的感性に対する嫌味」シリーズにも溜飲を下げてきた関係上、『感情天皇論』も一応読みましたが、そろそろこっちも卒業かなと思いました。

感情天皇論 (ちくま新書)

感情天皇論 (ちくま新書)

 

 

  『少女民俗学』『『りぼん』のふろくと乙女ちっくの時代』などで、「少女文化を語る男性性のキモさ」を身をもって思考した大塚氏への共感は、自分のオタとしての実存に深く染み込んでおり、本書における『少女たちの「かわいい」天皇』に対する自己批判にも、しんみりくるところがありました。

 更に言って、「セクシュアリティ自己批判的なオタク評論」を先駆的に手掛けた更科修一郎氏が排斥された後に業界入りし、氏が不在になったオトナアニメで燻っていた身としては、こうした大塚-更科文脈にアイデンティティを支えられてはきましたが、哀惜は十分に書き尽くせたので、今年を区切りに思考を入れ替えるつもりです。

 

 それは結局のところ、『「妹」の運命―萌える近代文学者たち』などで焦点化された「近代文学者による女性の内面の規定」という論点に本書でなおも拘泥しながら、この問題系を飛び越えた笙野頼子のような現代文学のハードコアは語ることができない大塚氏の枠組みに、決定的な物足りなさを覚えるためです。

 それこそ、本書のアプローチを借りて「天皇制を殺した次の社会設計を文学作品に見出す」ならば、笙野流の「にっほん/ウラミズモ」の分断こそ、「国家レベルで射精を監理された男性」の形象*2も手伝って、最もリアルな肌触りを常々感じるイメージです。

 

 

 この件、献血ポスターの騒ぎに乗じる戦略を邪推してうんざりした数秒後、昔好きだったシリーズの新作であることに気が付いて天使のしっぽが驚くほど屹立し、サンプルで五回ほど射精しながら人類に対する憎悪と羞恥と哄笑で全身が痙攣してしまい、ものの見事に「ピクピク震える」小さな肉体、ペニスの〈真実〉、「ひとかけらの肉の塊」になりました。

 結局、「揺籃より身体に刻まれし母親の痕跡を殺すことはできない」という凡庸なセックスへの諦念ゆえ、寺山演劇における「母殺し」の強迫観念に対しても、憧憬が消えないのかもしれません。

 

 上のは直球でグロい幼児性が極まった事例ゆえ、かえってカマトトの方々すら真っ青かもしれませんが、真っ青であってほしいですが、「表現の自由」という言葉を聞くたび、『レイプレイ』騒動に関する佐藤亜紀氏の一連の文章*3を思い出してしまうので、いつか地下文化に戻れる日までは、能天気なオタクポルノに呪われた生の表現にだけ、せめてもの自由を見出しておきます。

 

 凄絶なポルノ環境によって人類が根本的に変わってしまった、という恐ろしい実感の主な理論化をラカン派に、この飽食以上に求めるものは既に無い、という絶望を掬い上げる表現は笙野文学に見出すことで、なんとか生き延びている立場は表明できたかと思うので、政治的な話題への直截的な言及は以降控えるつもりです。

パンツを脱ぎ続けるいまざき監督 『可愛ければ変態でも好きになってくれますか?』(2019)

  「いまざきいつき監督が手がける美少女アニメ」についてですが、そう聞いて真っ先に思い出されるのは『ショーヨノイド真琴ちゃん』(98)です。

 

 

 恋人とのセックス最中に挿入間際で召集されてノーパン陰部ダダ濡れのまま戦闘員相手に大立ち回りし、女性器丸出しのままあっさりと爆殺された戦隊風ヒロイン・コギャリオン真琴が、胴体から吹っ飛んだその生首を幼女の義体にすげ替えられ全裸の女子小学生として復活、銭湯で延々と公然濃密ロリセックスに耽る幻覚的な絵面の只中、「作中では2クール放送したことになっている」などのムズムズするOVAギャグを飛ばしまくるという、斎藤久監督の『きぐるみっく V3』(09)と並ぶ稀有なスカムオタクムービーなのですが、その天真爛漫なパロディにせよ、むくつけき幼児性にせよ、リップシンクのズレによる軋むような違和感にせよ、氏のエロ漫画作品までは拾えていない人間にも、90年代エロ文化の力強さと氏のファンタズムの特異性を十分に印象付けてくれる作品でした。

 そうしたエグみを脱臭しきらないままに才気煥発なのが氏の魅力で、とりわけ『あいまいみー』(13~17)シリーズでは、ケレンの強いエフェクト系作画に破壊的なギャグを乗せる手法を洗練させつつ、編集・作曲・ピクセルアニメその他、一人で大体全部作ってしまうスタイルを打ち出して、今度は真琴ちゃんではなく監督自身が「パンツを脱いだままの大立ち回り」感全開、いよいよもってマルチ・アシッド・エロ作家として信頼著しい氏の新作が、なんとMF文庫原作のハーレムラブコメで全話絵コンテの全力投球、適材適所が極まったファン感涙の『可愛ければ変態でも好きになってくれますか?』(19)だったわけです。

 

 

 まず大橋彩香氏の伸び良い高音に乗せて雑多なイメージをざくざく繋げるOPの白眉を述べれば、「サビのハンドクラップのリズムに同期するアホすぎるアクション」かと思われ、「メインヒロインが順番にマジで手拍子を打つ」能天気さに続いて、「メガネをつるからカチャカチャ上下させたりうさ耳風パーカーを振り振りしたりトングをカチカチ打ち合わせたりする意味不明かつ脂っこい美少女ドアップ」を真顔で軽快に繰り出してくる馬鹿刺激には、監督ならではの暴力性が瞬間に閃いており死ぬほど好きです。

 こういう「基本的に格好良くないタイミングベタ付け作画」の下品さが、へちょ美少女のへちょアクションという更なるダサさで貫徹されることの好ましさに関しては、「小手先の甘さは強烈な低劣さにこそ強度を得るべき」というような価値基準が自分にあるらしいのですが、一見似たような大沼心氏の手付きには嫌悪感が根深いので一概に言えそうもなく、おそらくこれもまた、監督が自らのファンタズムに基づき、美少女快楽を抜き差し含めて意外や繊細にコントロールしているがための感覚なのかもしれません。

 

 冒頭のあらすじ早回しやエロシーンのお気楽ねっとりスキャットは無論のこと、全体的にカメラを引いたカットや妙な広角で捻ったレイアウトに特有のパンチが感じられ、美少女の肉体と主人公のボケ面に恒常的な軽度の歪みをもたらす絵作りは、鑑賞主体の認識自体が歪んでいることをも常に意識させてくれるかのようで肌に合い、作画リソースを割けずとも画面の刺激を確保する一手法としても、かなり肯定したいアプローチでした。

 竹達彩奈氏演じるマゾ巨乳キャラがケツの付け根まで豪快に揉みしだかれる場面など、『Kiss×Sis』デビュー声優の面目躍如たる堂に入ったお色気演技で、主演の下野紘氏もエクスタシーを回避する「やれやれ」ノリと愛らしい童貞感を絶妙に配分し、監督のクセで幾分脱臼しながらも直球のエロコメ快楽たっぷり、主人公の友人にも女が割り振られるささやかな脱中心化を含めて、「百合」の一語に表現されるオタ形而上学以外には救いを求めづらい時代、むしろ「変態」の一語であらゆる欲望を一見粗雑に肯定するような表現の危うさにこそ、思考の場を見出しておきたい気持ちを新たにさせられます。

 

 一点だけつらい部分は、cv日高里菜氏で緑色のリボンを着けた金髪ロリキャラが登場するたびに、なんかこいつにゃ○らっぽいな……こいつもしかしてにゃ○らじゃね……? 前のにゃ○らのアイコンってこんなんじゃなかったけ……*1そもそもにゃ○らのアイコンのキャラって誰だっけ……SSSS.GRIDMANのヒロインが二次裏ユーザーなのでインターネットの人々がはしゃいでいるということをおれに教えてくれたがそのあと特に観測していないにゃる○さんみたいだな……V界隈の人たちはVブームの火付け役が薬物愛好者であることに関してはどう思ってるんだろう……別にどうとも思ってないか……みたいな、公共圏の構築に失敗した日本語圏インターネットのオタク的政治性から距離を取るという滑稽を演じている、骨の髄までクソオタなわりに故郷喪失者であるわが身の上を意識させられ、動画サイトのコメントはもちろん、殆どのネット言説を観測せずにMF原作アニメを讃え続ける倒錯においてこそ、私の悪しき享楽は成立しているらしいです。おそらく日高里菜の声に無条件で幸せになる自分の安さに否認も働きました。

 

 MF文庫を多少は好んで読んでいた身としては、『緋弾のアリア』の少年漫画的馬鹿インフレや『はがない』の翳りの背負い方、『変猫』の保守快楽から『魔法戦争』のわたしの中に潜む -PRISONER- まで、アニメ化されてないやつだと穂史賀雅也氏や清水マリコ氏の繊細さも大好きでしたから、「ラブコメ界のドン*2MF文庫J的ハーレムラブコメ」と一言で括っても微細な快楽は見逃しえず、『この中に一人、妹がいる!』の「どのヒロインが妹か」と同程度にゆるくお話を牽引する「どのヒロインがパンツを脱いだか」というすっとぼけフーダニットこそ、どう転がるか分からない謎緊張感を確保しつつ、別にどう転がっても全部許せるしわりとどうでもいい、という融通無碍で呼吸しやすい眩暈の体験の条件として私の生存を可能ならしめ、体中が大好きと叫ぶに至った次第です。真琴ちゃんの時点ですでにパンツは脱がれており、あまつさえ頭部までもが失われていたのです。

 

無頭人(アセファル) (エートル叢書)

無頭人(アセファル) (エートル叢書)

 

 一人の首長によって築かれるカエサル的統一性の対極にあるのは、悲劇の執拗なイメージによって結ばれた首長なき共同体である。頭なき共同体を求めることは悲劇を求めることなのだ。…人間的事象の様相を変える一つの真理がここに始まる。すなわち共同の実存に執拗な価値を与える情動的要素は死である、と。

(p.166  ジョルジュ・バタイユ「ヌマンティアよ! 自由よ!」)

諸党派が提案する解決法のなかにすでに空虚を見いだした者たち、それらの党派がかき立てる希望のなかに、死の匂いが充満する戦争の契機だけを今や見る者たち、彼らは、自分たちを襲う痙攣にみあった信仰を探している。つまり、どこかの国旗や、その国旗のあとに続く出口なしの殺戮行為ではなく、宇宙のなかで、笑いや陶酔や供儀の対象となることのできるすべてのものを、人間のために再発見する可能性を。

(p.54  ジョルジュ・バタイユ「われわれ祖国を持たぬ者たち……」)

要するに、エピキュロスの豚(=放蕩者)とみなされるのを、あるいは実際にそうであるのを、笑いながら受け入れること。

(p.92  ピエール・クロソウスキー「世界の創造」)

 

 全ては紋切り型のマイルドポルノにしか至高性を見出しえない人間の戯言に過ぎませんが、プログラムピクチャーにおける質的経験の記述以外には研ぎ澄ますべき趣味を見つけられず、年を取るほど泥濘に沈むばかりの現状、ファンタズムにまつわる機微と暴力と歪をもってポルノグラフィックな泥沼の愉悦を繊細に深化させ続ける、MF作品といまざき監督に「泥の中に咲く蓮」*3の美しさを見てしまう快作でした。

*1:今確認したらそこまで似てなかった、どちらかというと『対魔導学園35試験小隊』の大久保瑠美氏を想起して懐かしかったです

*2:公式が自称していました。首領を自認するほどのブレイクスルーが最近あったのでしょうか

*3:誤用

8月雑記

ネット右翼とサブカル民主主義

ネット右翼とサブカル民主主義

 

 もとよりクリエイターの人間性に幻想は持たない人間で、天野喜孝氏や湖川友謙氏はスルーできたものの、貞本義行氏の失言の件には結構なショックを受け、意外と無邪気に貞本エヴァを好きだった自分の足元に気付かされて辛かったので、「なんか2ちゃんのいやなやつ」と長年ぼんやりスルーしてきた、ネット右翼サブカルチャーの関連性にまつわる研究を嫌々読んでいました。

 先駆的な論考っぽい本書は、ネトウヨ中心層を若年世代と見誤るなどの雑駁さを差っ引けば示唆的で、「サブカル右翼なりそこね男による昭和平成サブカルの旅路」と題し、ヤマト世代のオタ当事者感覚が述べられた第2章では、大阪芸大ガイナックス人脈がやっていた『愛國戰隊大日本』の危うさ、かの世代のSFオタクノリが結晶化した初代『マクロス』の軽薄さ、樋口真嗣福井晴敏による『ローレライ』のトンデモぶりなどが整理されており、忘れるべきでない嫌な歴史だなと思います。

 自分が先行世代と距離を感じる一番の要点は「兵器フェティッシュの有無」で、『ガルパン』で回春しているおっさん連中が黙殺してきた『陸上防衛隊まおちゃん』のいたたまれなさに固執し続け、こやまきみこ声で「これじゃ防衛できないよ…」とぼやき続けるオタ自意識はずっとありましたから(?)、「オタクが好きなメカと美少女」の前者に対する違和感が、明確な政治的反感に変容してきた世代感覚は、簡単に割り切れる問題系ではありませんが、一応表明しておきます。

 

歴史修正主義とサブカルチャー (青弓社ライブラリー)

歴史修正主義とサブカルチャー (青弓社ライブラリー)

 

  「市場原理に流されるサブカルチャー化した論壇」を90年代の論壇誌で自己言及的に問題化した大塚英志氏の仕事に言及があり、読者参加企画というマンガ編集者時代に培ったアイデアをも中央公論誌に持ち込んで、「商業的淘汰の適応外になる「特権」の根拠を、商業的手法(読者の参加)によって求めようと」(p.143)した、氏の実践の両義性に関して、再考させられるところがありました。

 本書は右寄り論壇誌の分析なので対象から外れますが、同時期の文芸誌での仕事が笙野頼子氏から「売上げ文学論」と突っ込まれ、大塚氏がのらりくらりと振る舞った一件*1こそ、自分が「批評」の格好悪さと文学の誠実性を印象付けられた読書だったとも振り返られます。

 ITビジネス系の山師に対してはもちろん、オタク業界の構造自体に対しても有効な嫌味を当事者的に発言しうる、という政治的・実践的価値において大塚氏は観測せざるを得ませんが、こと消費文化に圧殺される内面や信仰の問題、作品論にアカデミックな概念を適用することの慎重さ、女性文学ばかり読んでしまう男性性の危機*2などは笙野氏に示唆を受けた人間なので、「日本はもう全部サブカル」という益体のない現実と、それを裏側から照射する原理的思考という、政治と文学の対立を大塚/笙野で捉えてしまう自分の思考の歪さを確認しました。

 

アニメ制作者たちの方法 21世紀のアニメ表現論入門 (Next Creator Book)

アニメ制作者たちの方法 21世紀のアニメ表現論入門 (Next Creator Book)

 

 京都アニメーションとその消費様態に関する苦手意識は、高瀬司氏のけいおん記事*3にも醸成された人間なのですが、今となっては水に流すとして、本書は作画・撮影観点込みの風通しが意識された構成で、最近のアニメ関連の言説配置がすっきり見通しなおせる好著であるがゆえに、こうした雑誌的構成や個別具体レベルの作業に割り込む余地を見出せず、「アニメーションという実在に対して非十全な観念しか所有しえない主体の無力」を凝視して、神秘主義か原理論か、両極端のつまみ食いに嗜癖せざるを得なかった自分の性格の悪さにあらためてへこみました。

 アニメルカに関しても多少は身近で色々聞いてきており、嫌味ったらしくはなりますが、今さら仲良くするのは不可能であるという当事者感覚だけは表明し、明瞭な良き分断を構築できれば十分という考えでして、ポップカルチャー研究がアカデミズムに収斂していく流れ*4に回収されない、非弁証法的な思考や主体の困難にこそ内在しておきたい現状です。

 

あたかも壊れた世界 ―批評的、リアリズム的―

あたかも壊れた世界 ―批評的、リアリズム的―

 

 警官のコード、少女愛のコード、サイボーグのコード、これらとは区別される人形愛のコードを、魔女でも悪魔憑きでもない仕方で体現する主体、これを描き出さない限り、アニメーションにおいても現実においても、人形使いと自由な人形たちのコントロール社会はそのイノセンスを誇り続けるであろう。

(p.74 「人形使いに対する態度――公安九課バトーと中山正巡査」

 人形愛と管理社会論を妖艶に接続する『イノセンス』論と、20世紀的なサイボーグ表象文化の外部を開く作品として『鋼の錬金術師』を位置づける論に続いて、「寄生生物と生殖細胞の関連」という既存理論に回収できない問題系において『寄生獣』を考察する論考を据えた構成が極めて刺激的で、結局は細胞レベルで侵蝕されたような人工身体に対する性的固着を、性と身体にまつわる理論的な非決定性で贖うことで、辛うじて本を読めている自分の足元を確認させられました。

 …以上のような空気の中で、多くの人は秘かに、こう思いたがっている。すなわち、いまや異性愛有性生殖も反-自然化しクィア化してきたからには、過去の批判はすべて免れているのだ、とである。いまや異性愛有性生殖は、政治的にも倫理的にも、恥じることのない、恥じてはならない、光と影に彩られる先端的な営みなのだ、とである。かつては、それが有性生殖に向かわず不毛であるということで同性愛は反自然的と評されてきたとするなら、いまや、同性愛をはじめ異例な性こそが自然なのであり、異性愛こそがバイオ化・テクノ化することでクィア化しているのであって、かつてクィアに向けられた肯定論は、そっくりそのまま、すべて異性愛に使い回せるのである、とである。いまや、異性愛者は臆するところがない。

(p.109 「No Sex, No Future ――異性愛のバイオ化・クィア化を夢みることについて」)

 

批評について: 芸術批評の哲学

批評について: 芸術批評の哲学

 

 分析哲学系の文章に色気を感じない(あるいは思考と欲望を整然と分割するような厳格さに馴染めない)、という単純極まる感性的傾向があり、大陸哲学に食傷してから読むべき領域なのでしょうが、本書は批判対象を藁人形的に単純化した論の粗さに引っ掛かりも多く、全体的には真っ当でも説得されるに十分ではない批評観でした。

 それでも、本書で主に説明される狭義の芸術批評からは終章で区別された、異なる芸術カテゴリーを横断し、(例えば新聞マンガ作品と文学作品とを)社会的・文化的重要性の次元で比較衡量するような「文化批評」的思考に要求される、文化全般に関する「市民」的な良識は(それこそ漫画文化の当事者として市場原理への適応に倫理を見る大塚氏と、文学至上主義を作品内外貫いて苛烈に擁護する笙野氏との対立とも関連して)、個人的に肝に銘じておきたい論点でした。

 

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

 

  「オタク」的な来歴を元手にしたアイデンティティ・ポリティクスは、少なくとも今のSNSで行うのは危険極まりなく、その情念を作品や表現の次元で、批評ではなく文学的な実践として貫徹しなければ、日本語圏インターネットで何かを発信する気にはなれなかった、というのが本音です。

 ざっくり本書を貫いている、アイデンティティ(民主主義)とシティズンシップ(自由主義)という対立項が、シュミットに倣って克服不可能とするならば、「市民」概念の空虚さを受け容れた上で、恥に満ちた実存の表現を良き分断にのみ奉仕させ、顔の無い社会のゴミとして非決定性の煉獄を享楽していく以外に、取りうる立場が見出せない現状になります。

 

〈自閉症学〉のすすめ:オーティズム・スタディーズの時代

〈自閉症学〉のすすめ:オーティズム・スタディーズの時代

 

 神経症的な過剰接続にも、分裂症的な思考の混乱にも疲れた後は、あえて言えば自閉症的な主体として生きざるを得ませんが、厳密な当事者性は無く、発達障害概念に回収されるのも癪で、DSMや投薬精神医療自体に疑念が強い立場としては、そろそろ中井久夫とかをちゃんと読もうと思いました。

 

終りの日々

終りの日々

 

 現代日本に対する愚痴とフランスへの憧憬が、同語反復的に延々と繰り返される晩年の日記で、ファンとしては「おいたわしや」の一語ながら、せめて真面目な信仰のある国に生まれたかったのは事実ですから、苦笑すらできない嫌な切迫感を覚えました。

*1:徹底抗戦!文士の森

*2:文藝 2007年 11月号 [雑誌]

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*3:https://web.archive.org/web/20100804023555/d.hatena.ne.jp/ill_critiqueなど

すみません、久々に読んだら単に反アニさん時代の文章が嫌いなだけでした。今更何、感じ悪、という話ですが、氏が代表していたような、オタクの悪ふざけと下ネタを軽薄かつ権威主義的な人文ノリで垂れ流す「ゼロ年代批評」的なアニメブログに対する嘔吐感こそ、今の我々が率先して抑圧している記憶かと思います。界隈とは距離があったとはいえ、私も当事者の一人ですから、ここらの最悪なネット言説潮流をもぼんやり批判・相対化してくれただけでも「日本は多少マシになった」と、ポリティカル・コレクトネス概念の輸入も根本では感謝しています。当時の書き手が表舞台に移行して、こうした歴史が忘れ去られるような昨今、かの時代の気色悪さが青春のトラウマになっている自分としては、遅ればせながら自らの身を持って、当時アニメを見過ぎていた人間精神の錯乱を消化しておかなければ、批評という概念もアニメ研究という領域すらも、信ずるに値する世界とは思えないわけです。

*4:宮本大人+ヤマダトモコ対談 マンガ批評とマンガ研究の結節点(前編) ――伝説の「漫画史研究会」とは何だったのか | マンガ・アニメ3.0」参照