おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

同人音声・ASMR・ボイロAV等における視覚と聴覚の(再)結合について

 このブログを言文一致で「私」を主語に書いてきた理由は様々あります。第一に、哲学書の翻訳概念が社会的かつ歴史的に負った権威性と思弁性を、現代の主体の問題に軟着陸させるための便宜。第二に、悪趣味にせめてもの責任を負わせる遂行的発話の含意。第三に、Twitterを拒絶して「反時代的」に生きた過去への深い自己愛。第四に、人と会話したり短文で物を書く機会が少なく、他の書き方を忘れてしまったという事情です。

 趣味としては楽しんできたのですが、時間をかけてこだわった重い文章を書きすぎたようで、やばいやつかと人に怖がられることが最近多く、そろそろ方法を変えるべきかと判断されました。一見して感受されるような主体のやばさなど、二一世紀世界のやばさを記述した際に発生する副次的な効果にすぎず、自分を大きく見せて人を威圧したいわけではないためです。

 実際、旧年に人生初の配信をした際も、普通に喋ったつもりが何か辛そうに見えてしまったらしく、慣れの問題なので悩むには及ばないと思う一方、若い人と気楽にお喋りできる年の取り方はできていないことも自覚されました。

 二十代の頃の切迫を消化して自己の立場も固めた近頃は、人生早期セミリタイア組らしく好きに過ごしているため、深刻そうに振る舞うのは欺瞞でもあります。よって、今後は動画制作と配信と読書に専念し、ブログは縮小予定とします。

 以下、さしあたり本稿を最後と思い、ジャンクとしての実存と直近のポルノ経験との絡み合いを集中的に再提示し、VTuberからボイスロイド=音声合成ソフト=ソフトウェアトークジャンルの動画制作にシフトした動機を明らかにすることで、モノローグの消尽を試みます。

 次に書く原稿に向けて「音」と「声」を一から勉強することになったのもあり、内容には不満が多いものの、いつの間にか深化していた感のある聴覚文化の威力について、率直な所感を残すほうがよいかと思うので、出しておきます。

 

§1 「ニコニコ動画的なるもの」への適応について

 筆者は2000年代中期に中高生だった世代で、当時隆盛したニコニコ動画のコメント文化に強い嫌悪感があり、大まかにいえば映像に触発される思考がコミュニティの解釈へと即時に平板化されてしまうことへの怒りだった……といった昔話も、今や繰り返しすぎてクリシェ化した説明であり、自己意識の連続性を素朴に前提した怠惰な歴史化にすぎず、現今の世代においては感性上の桎梏としても相対化されきった論点と推測されます。

 というのは、もはやYouTubeとの相互浸透ゆえに「ニコ動的なるもの」の外延は自明ではないものの、その特有のグレーな(というより、万人が万人の苦海を認知した果てにいいね機能を虚しいとも思わなくなり、理解可能な範囲の他者には優しさ=ヌクモリティ(古語?)を増すばかりに感じる)匿名的共同性に自生する知のあり方をすら、それ自体興味深い人類学「的」な考察対象として眺められる余裕くらいは、人間、自然に持ち合わせてしまうものだからです。

 といっても、結局コメントは消して観ています。そうまでして観始めたのは、別の個人的な理由からです。

 第一に、久々に会った歳の離れた弟二人がどちらも不登校発達障害認定を食らい、家にこもってVRChatやマイクラの沼に沈んだあげく、角川ドワンゴ通信制高校とかに入るという話を親から聞いたことにより、「大塚英志のプラットフォーム感情労働論って貧者の生を踏みにじるクソ議論だったのでは」という憤りを覚えるまでに、貧困母子家庭に生まれた自分の足元と階級的宿命を強く再確認したためです。

 第二にそれ以上の動機として、正直よく分からないものの、琴葉茜氏のことがものすごく好きになってしまい、ボイスロイドの動画がYouTubeよりもたくさんアップされているニコニコを漁る必要が生じたためです。

 より簡単に言い換えれば、そもネット以外に行き場のなかった貧民が、強いてネットコミュニティから距離を取って自分なりに勉強し、個体化したあと年を取って丸くなり、音声合成技術が隆盛した今になって、ようやく生活世界に適応できたというケースになります。

 しかし、このような自我の水準で捉えられた変容プロセスにいくら言葉を尽くしても、人間精神の非人称的な力能としての強かな可塑性そのものは取り逃してしまうという限界が、年を取ると痛感されるところです。

 それでも、(ニコニコに限ってはこの胡乱なカテゴリーを括弧に入れず大真面目に適用しますが)大衆文化に生きる人間のリアリティを少しでもマシに記述しなければならない、という階級的責務が第一の事情から迫り上がってしまったので、第二の事情の「よく分からなさ」を次節以降で論じるためにも、この適応の内実をもう少し説明してみます。

 おそらく2011年末発売の結月ゆかり氏を本格的な端緒に「ニコ動的なるもの」に含まれるローカルな文化領域として始まったのち、2010年代から現在に至るまで対応するイメージキャラクターを設定された音声合成ソフト(この文脈では主にAITalkエンジン)が連綿とリリースされることで、歌声合成のボーカロイド文化から派生しながらも区別されるものとして、ゆっくり(AquesTalk)の普及と並走して「ゲーム実況」「劇場」「解説」ジャンル等で徐々に浸透していたボイスロイド文化(広義)を、YouTubeのレコメンドで随分遅れて発見したのが旧年前半のことでした。

 それを入り口に、かつて批判的にまなざしていたニコ動的感性の諸帰結(例えばあの頃から変わらない淫夢の中高生男子ノリ、主に二郎リスペクトやにんにくをドカ盛った貧乏飯、ソシャゲのガチャぶん回し、ヤニ吸ってアニメパチスロ、地方のオタショップを巡回して在庫処分のフィギュア福袋を開封する車載動画、「ツイフェミ」や新興宗教や違法薬物に対する偏見というよりは過剰性への幻想に満ちたニュース・解説ジャンル、MMDモデルに配布モーションを流し込んだだけのiwaraエロ、被弾するとキャラクターの立ち絵が脱いだり放尿したりするFPS実況、星のカービィの爆発オチ、ティーダのチンポ、ひろゆき、ヘコずん、ずん虐、セ虐、BB素材、ytpmv、SCP、The Backrooms、琴葉姉妹ファンのダークサイド、人生で一度は聴いてほしいKawaiiEDM作業用ループ、ブルーアーカイブの透き通った青空、プリコネRドローンショーで上海の夜空に浮かぶコッコロママ、全力で擁護される過酷な(?)オナニー、犬の着ぐるみで酸欠のまま踊る若林直美、カゲプロ辺りで世代交代を認識して忘れていた同人音楽やボカロ楽曲)に出会い直してみると、生の目的など無くとも人間はどうとでも生きられる、という事実を目の当たりにするかのようで、表現ごとの好悪はさておき、同族嫌悪で多くのものを見失っていたことには気付かされました。

 これはまた、日本を「脱出」すること叶わず、無為な生存を反復していたはずが、自己の有限性を受け入れることで徐々に現実と折り合いが付き、廃墟と思い込んでいた世界と肯定的な再会を果たした過程ともイメージされてしまい、そうして勝手に見出した希望を突然スタンリー・カヴェルの〈再婚〉概念に託して、上掲動画を作ってしまったということになります。

 しかし、滑稽な「成熟」を遂げたような感慨を抱いて、このような低徊趣味で遠い目ができるのは、ネット大衆が生きる悲喜こもごもを若い頃に相対化しすぎて、同時代的な感性がよく分からなくなってしまったためです。例えば「ニコ動的なるもの」の内でも特に明るくないMikuMikuDance文化については*1、「日本の3DCG表現は低性能な制作ソフトであるMMDの人気に足を引っ張られて破壊された」云々のバズ記事を読んで、大変そうだな、と嘆息するばかりです。

 とはいえ、(リンクは貼りませんが)そのあたりの議論を追った感じ、MMDでカジュアルに作られる個人規模の二次創作/ファンダム的な動画文化と産業用3DCGプロダクトとの、一見して分かる映像の質的差異には基づかない、価値的な区別を強調する反対意見が多く見られたのは印象に残りました。

 その記事にあった「今や日本のニコニコよりも中国のbilibiliのほうがダンス動画のクオリティが高い」などの論争的な例示に対して、ひとまずキャラクターの価値とはそうした「視覚表現としての質」とは区別されるべきであるという認識が、大方に共有されているようでした。また、そのことによって、感官の快という価値に留まらない「キャラクターそれ自体の価値」を別立てで問うことのできる理路は、(当たり前ですが)大衆にも開かれていることを確認できた気がします。

 実際、私の動画の技術的なショボさを見てもらえば分かる通り、MMDのみならずVTuberにせよボイスロイドにせよ、「編集技法が拙い、または視覚的に貧しい動画」は数多く存在します。そして、そうした作品を問題なく受容したり制作したりしているということは、そうした感覚的な貧しさによって「キャラクターの存在そのものの価値」が前景化してくるような表現を、自分は求めているのかもしれません。

 ありがたいことに、動画編集の勉強をせずに無手勝で作ったVTuberもどきの動画に満足してきた自分にさえ視聴者の方はいるらしく、数年も続けた今となっては、当初抱えていた存在論的な不安感も解消するに到っているため、例えばアイデンティティ政治*2や分析美学でスマートに論じられても別に反感は覚えない、という程度には気持ちの整理がついてしまいました。

 さておき、筆者がVTuber文化に続けてボイスロイド文化に触発されたことには、「視覚上の貧しさ」が関わっていると自覚されました。そこで次節では、「メディア経験における重要な感覚器官が目よりも耳、視覚よりも聴覚に移行している」といった大まかな見立てを、直近の評論同人誌の紹介を通じて借り受けてみます。

 

§2 同人音声作品の快楽について

 旧年読んだ中で一番面白かった、というよりは、自分が後回しに放置していた諸問題にあらためて気付かされ、大いに触発された書物が『奇想同人音声評論誌 空耳』(2022年、以下『空耳』)でした。

 DLSiteを代表的なプラットフォームとして流通する同人音声・ASMR文化について、その手法や発想の実験性を論じており、作品個別の(多くはポルノ表現としての)奇抜さを踏まえた上で、それらの快楽を発生させる「音」と「聴覚」と「録音技術」そのものへと問いを広げているところに「読みたかったものが読めた」感が強く、勢い別サークルの『この同人音声がすごい!』(2023年)も注文・読了しました。

 しかし、ひとまず「奇抜さ」と言ったものの、その内実をどう語り始めるべきなのか、いざとなると見当もつかないという困惑を、率直に表明させてください。主体による対象の知的把握を容易く錯覚させてくれる視覚とは異なり、感官の特性として主体を包み込んでしまうものである聴覚を通じた、それも性的な経験というのは、簡単に言えばよく分からないまま射精させられる、掴みどころのない生々しさが不安をかき立てる快楽だからです。

 ひとまず不安にフタをしてお喋りすると、ポルノとしての強度を犠牲にしながら、音声作品というメディアそれ自体を表現に繰り込んだ作品として、ASMRの立体的な音響を生み出す「バイノーラル録音」と通常の「ステレオ録音」という、技術上の差異そのものをキャラクター化した『バイノーラルの妹とバイノーラルじゃない妹に左右からオナサポしてもらう音声』(ベレス解部、2019年)は、おそらく上掲書での言及が一番多い作品で、この文化の成熟と懐の深さを分かりやすく示すものと思われます。

 反対に、最も動揺させられたジャンルも一瞥してみます。『空耳』冒頭論文が紹介する「胎内回帰ASMR」です。これは、腹部にマイクを当てるだけの配信もあるようですが、多くは女性VTuberが自身の膣口から小型マイクを挿入することで胎内音を拾う配信である、と言うしかないものです。

 このジャンルを試しに数本聴いてみた体験から性急に思弁すると、生命の深層とされた子宮という器官がYouTubeユーザーインターフェースという馬鹿げた表面に裏返された景色の中、沈黙に揺蕩う消化器の蠕動と思しき身体の微細なノイズを聴くうち、「表面こそが最も深淵なものである」という、うろ覚えのニーチェの断章が想起されました。

 そういえば、VTuberという存在者には、3Dモデリングの作業工程に使われる「展開図」が、(ユーザーインターフェースを記述する情報言語のような水準で)キャラクターを知覚するための技術的条件として襞のように折り畳まれています。ところが、胎内回帰ASMRに行き着いたVTuber表現においては、キャラクターという表面それ自体が、人間の肉の深淵を投射した展開図になってしまったかのように感じられます。

 これに加えて、視覚におけるエロ漫画の「断面図」をイメージした、聴覚における「断面音」によって性器の「挿入感」を向上したと謳う『天使をやめる、七祈田のえる。〜気持ちぃおなかの中の音〜【バイノーラル録音】』(上海飯店、2020年)という音声作品も存在するのですが、このような視・聴覚にわたって身体の内部と外部の区別が蒸発した知覚の体制下、「挿入感」とは一体どのような快楽を指示しているのか、分からなくなってきます。

 要するに、同人音声を漁っていると、皮膚としての自我、諸膜の折り重なったものとしての身体、リビドー的表面としての大いなる皮膜という隠喩によって否定存在論的な「穴」を蒸発させる、リオタール『リビドー経済』(原著1974年)における表層的存在論のリアリティがいや増してくる気分があります。

 察せられるとおり同人音声文化は、ひとまず「淫語」的と言うしかない即物的な言語使用が特徴です。この「身体を触発する言葉」をいかに理解するべきかは(道徳的に喫緊とも思わせる)面白い課題ですが、準備が足りません。さしあたり、一挙に意味の中へと飛び込みうる言葉のジャンクさをそれとして認めた場合、煩わしい意味を排除した無意味な言葉が欲しくなりますが、そうした需要に応える「非言語」ジャンルも存在するようです。

 少し触れた印象、言語機能に障害があるのは少女ではなく聴取者の側であったと最後に判明する『【非言語✕添い寝】言葉の通じない少女が精液を出して欲しそうにこちらを見ている#意味がわかると怖いエロ』(めれれれれ!、2022年)はアイデア重視でリプレイ性がありませんでした。反対に、意味をなさない動物的な喘ぎと嘲りだけで構成された逆輪姦音声『永遠絶頂ロリータハーレム』(ボトムズ、2018年)は性に合い、仕事中に焦燥感を出したい時に聴くと脂汗が滲むような心のざわめきを得られるので、今のところ、これが個人的ベストの作品になります。

 しかし、国家理性の強かさや左翼文化に対する理解が筆者以上に怪しくて全く乗れなかった『革命家メスガキによる国家権力チンポの大改造』(酒熊評議会、2022年)などの物足りない試みにも出会いますし、変化球を列挙してばかりいても詮無いため、以下はもう少し私事に記述を寄せてみます。

 

 二〇代の半ば頃から聴覚過敏の気味があり、平時も睡眠時も大半の時間、問題の生じない限り極力は耳栓(騒音時は+イヤーマフ)を付けて生活しています。テレビは論外として、東京にいた頃は「都市に聴くべき音など一切無い」とすら確信し、耳に瞼がないことの不条理を恨みながら、外界の騒音よりも内界のノイズ、静寂時の耳鳴りなどに親しんで過ごしてきました。

 寝しなに音楽を聴く習慣はなく、「睡眠導入音声」はもちろん「認知シャッフル睡眠法」などの諸技法とも無縁で、「沈黙こそが最高の音楽である」という瞑想寄りの快に耽る余裕すらあり、そも従来のラジオやドラマCDを含む音声メディアに触れる機会も稀だったと振り返られるため、このジャンルを語るに相応しい主体では間違いなくありません。

 やはり「Listenable pharmacy」を筆頭とする「催眠音声」にもかからないので、結局のところ、定番サークルとされるテグラユウキの比較的オーソドックスな獣耳作品*3を偶然手に取ったのが、このジャンルへの実質的な入り口となりました*4。一作ごとに長期の「使用」が可能ゆえ、同人音声の購入総数は三〇本程度にすぎません。

 つまり筆者は、平凡なフォーマットと一定の「質」が保証された上で、ほぼ常時クーポンが使えるセール価格で気軽に消費できる、価値的に言ったボリュームゾーン(?)と想定される商品で「普通」に継続的に射精可能である、という、頼りなくもライトユーザーとしての一般性を想定できる立場にあります。

 そして、だからこそ、多すぎる新作*5に崇高の慄きを、すなわち「普通の聴覚ポルノで無際限に射精可能である」という予感を得、不安と恍惚に打ち震える人間精神をよそにして、よく分からないまま「普通の聴覚ポルノ」に節操なく触発され続ける自己の人間身体が、自由意志の欠落したおもちゃのように感じられて面白いので、ニッチに分化した諸表現よりは「手コキ」「淫語」といった最大公約数的なジャンル(というより、凡庸ゆえに一作品に詰め込まれる傾向のある諸要素)を気分次第に嗜んでいる、という現状です。

 経験的にはその程度なので、理論と照らし合わせてみます。例えば難波論文*6ネーゲルを参照して言った「ポルノグラフィとは媚び・誘惑・性的予感を表現するジャンルである」(要約)という主張、つまり他者の欲望を表示する表現としての性的兆候(具体的には吐息や囁き声)そのものをエロス化する性格がある、という議論は、音声作品に限れば納得感がありました。

 ところが、一時の儚い性的予感を楽しむジャンルであるがゆえに、「ポルノグラフィとその鑑賞者が継続的な関係にいたることは、それほどないのではないか?」*7という論の運びには、引っ掛かりを覚えました。それは、「現実のパートナー同士の継続的で親密な性関係」の価値的優位を滑り込ませているように見えるため、というよりも、音声作品に限らないポルノグラフィ一般の短命さとして主張されているために、他ならぬ私自身が同一の3D/VRエロゲ(『カスタムメイド3D2』シリーズ(KISS、2015年-))で継続的に六年以上、時折は腰が抜けるような強度とともに絶頂し続けている、という反例を繰り込んで考える必要が生じたためです。

 当該論文の論難ではなく、別の問いの立て方に気付かせてもらった、という話です。つまり、自分がいま生きているポルノグラフィとその鑑賞者が継続的な関係にいたった状態とは何なのか。むしろ、なぜポルノグラフィとの継続的な関係を望んでしまうのか。難波氏が後段で想定している、ユーザーとの親密性を実現した未来のポルノグラフィなど既に実現していることを、筆者の自明性から説明する下準備のために、また、我々の欲望の倫理的な側面を説明するためにも、「それほどない」なら応答する価値が生まれる問い方かと思います。

 その答えを考えていたところ、「従来のドラマCD文化にバイノーラル録音を採り入れ、現在のASMR・同人音声文化に繋がる没入型=一人称視点型の快楽*8を派生させた先駆的な作品として、『ラブプラス』(コナミ、2009年)からリリースされた「ラブプラス Sound Portrait」シリーズ(あるいは耳かき表現を含む先行作「みみもとラブプラス」、いずれも2010年)が挙げられる」(要約)といった座談記事*9の記述に、決定的な記憶を蘇らせてもらえました。

 つまり、「ポルノグラフィとの非人格的でありながら継続的な関係」を倫理的に望んでしまうのは、2010年代初頭にASMR音声の先駆を含む意欲的なメディア展開を繰り広げたのち、アプリ版『ラブプラス EVERY』(2019-2020年)のサービス短期終了に象徴されるシリーズ展開の失敗によって、「キャラクターとの人格的かつ継続的な関係」という虚構の不可能性を「カレシ」に痛感させた、ラブプラス』シリーズのせいだと思われるのです。

 さらに言って『ラブプラス』は、プレイヤーとの時間的同期、触覚的交流、ストーリーが終わったあとの永遠の日常といった一人称視点型のインタラクティビティを通じて、人間とキャラクターとの境界を曖昧にしておきながら、永遠の観念を裏切り、両者の存在論的な混淆という気分だけを蔓延させたことによって、「キャラクター」が固有のコンテクストとしての「作品」や「物語」を必ずしも必要とはしない(つまり「登場人物」という制度から自律した)文化状況を加速させたと思われます。

 すなわち、「バイノーラルな妹」なり「きみとのエッチを妄想してオナるダウナー幼馴染」なり「キメセク中毒の生意気ぴえん系」なり「○年3組おまんこ係」なり、あるいは耳を舐める音そのものといった、物語というよりも滑稽かつ便宜的なシチュエーションしか与えられない、限りなく非人称な快楽のシグナルにキャラクターが還元される現在時を可能にした歴史的条件は、永遠の恋人という単婚愛の幻想をキャラクター表現において破壊した(ことによって、没入型=一人称視点型の快楽を作品の特性からメディウムの特性へと移行させた)ラブプラス』に求められるべきなのです。

 これは高校三年の頃、毎朝の登校後に欠かさずトイレに籠もって高嶺愛花とキスをしていた自分の強く実存的な錯視ですが、現代の主体が直線的な歴史の語り、統一的なナラティブを求めようとするとこうなる、という笑い話として示しておきます。

 

§3 第一基本情念の働きとしての、視覚と聴覚の「再婚」について

 聴覚ポルノの氾濫に対する不安を『ラブプラス』の呪いとして受け止めた上で、もう少し与太をマシにするべく、当時の文化状況の変動を論じた本を参照してみます。

 この歳になって初めて菊地成孔氏(+大谷能生氏)を読んで刺激を受けました。『ラブプラス』のリリースと同じく2000年代の終わりに出版された『アフロ・ディズニー』(2009年)は、二〇世紀の文化史・メディア史を発達心理学とのアナロジーから胡乱に論じたもので、西洋のサロン文化から演劇や初期レコードまで続いた「大人らしさ」の社交文化に代わり、LPレコード・写真・映画といった複製/再生技術によって二〇世紀を通じて進行した果て、二一世紀のオタク文化に結実した「子供らしさ」の個室文化、という二項の絡み合いを描きながら、両者の特異な混淆を象徴する見立てとして「オタク=黒人説」をぶち上げた書物です*10

 具体的には『アフロ・ディズニー2』(2010年)で語られるところの、2000年代末当時の急激な文化変動を象徴する出来事として、パリのファッションモードとブラックミュージックとオタク文化の接近が挙げられています。例えば村上隆が「お前の巨乳フィギュア(多分母乳で縄跳びしてるあれ)が良すぎる」的な第一声でカニエ・ウェストと共同制作をすることになった、などの事例です。小市民の閑却しがちなハイカルチャーとの相互作用を証言した、類書が少ないタイプの本かと思います。

 そうした雑多な細部を捨象して、「オタク=黒人説」の実質的な主張を筆者なりに要約すると、民族性と被差別性の残滓によって複雑怪奇な恥と否認に晒されながらも、大衆文化において極度に一般化してしまった快楽として、オタク文化由来の「キャラクター」概念*11と黒人音楽由来の「ビート」概念*12は類比的である、というものです。

 ここには、二〇世紀前半のハリウッド映画とアメリカ産アニメーションが確立した、映像と音の過剰同期=ミッキーマウシングがもたらす多幸感に基づいた「子供らしさ」の文化に対し、ファッションショーのランウェイでモデルが音楽と少しズレて歩行する、といった非同期の美学によって「大人らしさ」の文化が確保されていた、という別の見立てが絡んでいます。

 もちろん、アメリカのアニメーション表現の特性がミッキーマウシングの一語に還元できない細部を含むことは、本書の元となった講義の成果を含む細馬宏通『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(2013年)などを眺めるだけで分かりますし、古典的ハリウッド喜劇において「トーキーがもたらす心と言葉とのズレ」にこだわり続けたスタンリー・カヴェルという特異な反例も紹介させていただいたばかりです。

 いずれにせよ確かに、曲とMVをセットでリリースする慣習において一揃いの視・聴覚イメージを提供する商業音楽の現状から遡る、「レコードのジャケットを眺めつつ目を瞑ってジャズに聴き入る」ような往年の聴取スタイルと類比的な経験として、「同人音声のパッケージイラスト(作品によっては+キャラ設定画)を目に焼き付けつつ視覚を遮断して立体音響に包まれ射精する」という慣習が、いつの間にか浸透してしまっています。

 瞼の裏の暗闇に響く音から聴覚以外の感覚をも触発させる認知モードにおいて、同人音声が奇妙な(というのも、音声が指示する物語の進行に同期しようと努力しながらも、その通りに性感を触発できるとは限らない聴取者の身体のノイズ=ズレと揺らぎを排除できないという意味で、「同期=子供らしい」とも「非同期=大人らしい」とも決定できない未分化な)二〇世紀的性格を含んでいることは間違いありません。

 さておき、人間身体とキャラクターイメージとビート感が文字通りに過剰同期した、日本性とアメリカ性のシンクロナイズドとも言える実例としては、リズムゲーム風のノーツに合わせて陰茎を刺激する海外ポルノの「FapHero」文化をLive2D映像として聴覚ポルノと掛け合わせた『もちもちぷにまんの強制パコパコセックスに合わせておちんちんしこしこゲーム~桃狐のFapHero型射精管理オナサポボイス~』(桃狐の変態調教課題、2021年)が挙げられます。

 極端な作品に目を奪われないよう補足すれば、この「音声(+映像)と身体触発の同期」は今のところ例外的なケースです。それは、同人音声そのものが「音声(-映像)と身体触発の同期」を不可欠な前提として知覚される(少なくともその努力を強く要する)ほとんど特権的なメディアであることを、ファスト映画の倍速視聴と比較して明確に示した論考に気付かせてもらいました*13

 このような、(映像を媒介にする・しないとは無関係に)人間身体の深部に至っている音楽/音声との同期という誘惑、非同期という抵抗を、キャラクター文化において再確認したいのは、音楽に関しては何も確かなことを書ける気がしない、という筆者のような「基本的にアニソンか女性声優楽曲しか聴かない主体」の無能力をも、潜在的な身体の力能として捉え直したいがためにほかなりません。

 アニソン雑誌の『リスアニ!』(2010年創刊)に仕事を貰っていた頃も、楽曲レビューだけは断っていました。無教養以上に、派手な音色や異様な情報量とともに大勢の女性声優が一斉に唱和する深夜アニメ主題歌のポリフォニーに脳髄が溶かされるあの陶酔感をどう語るべきなのか、まるで分からなかったし、今も分かっていないためです。

 ただ、楽曲について何も書けなかったのは、「花澤香菜のウィスパーボイスが炸裂する!!」みたいな惹句を書き飛ばしたライターが編集者のコミュニティでネタにされていて、怖かったせいもあります。それこそ、声優史における花澤香菜はJ-POP史におけるカヒミ・カリィと同じくASMR的な囁き声の快楽の先駆者であり、あの頃から我々は狂っていたという事実を証しているかのようで、忘れられない思い出です。

 もう思いつきで書き殴ると、ピタゴラス派以来の数比の論理から科学的和声理論への移行を生きた第一人者でありながら、晩年には「耳という器官が感じる良さ」に基づいて音楽を神の恩寵とみなしたジャン=フィリップ・ラモーに遡るだけでも*14、あるいは現代音楽の転換点とされる「無調」概念そのものが問い直されているらしい状況を眺めるだけでも*15DTMやボカロを含む大衆音楽において「誰もが和声づくりに頭を突っ込んでしまった」*16かに見える機能和声と調性音楽の現在の覇権、そしてASMR=自律「感覚」絶頂反応の覇権は、ラモーの弟子たる我々のいわば「作曲的理性」が、思考の裂け目としての「耳という感官の快」を深く信仰している状況として受け止め直すことができます。

 作曲ではなく感官そのもの、という深淵に「頭を突っ込んでしまう」のを迂回して振り返れば、あまりアニクラ文化には親しまなかった自分であってさえ、2000年代に生じた音MADやナードコアといったキャラクター文化とサンプリング文化の混淆の蓄積が、現在のYunomiや電音部を代表格とするダンスミュージック系のえげつない音作りの存在感にまで繋がっており、ひいてはASMR音声のサンプリング楽曲「周防パトラの耳かきASMR HOUSE」や、SoundCloudでlolicoreを漁る聴取者の高揚感そのものを劇化した音声作品『お姉ちゃんに隠れてブレイクコアやノイズにドハマりする妹』(黎明機構第三研究開発部、2017年)などを結実させていることは、うっすらと察しがつきます。

 しかしこれらの風景は、視覚表現におけるグリッチノイズ演出の一般化が「シコリティ」とも隠喩化される状況とも重ね合わせれば*17、商業音楽の拍節的リズムを通じて人民の肉の深部に絶えず打ち込まれる快として瞬間ごとに消尽されるキャラクター表現が、もはや確固たる時間的ナラティブ=メロディラインにおいて歴史化=旋律化=輪郭化しうる存在ではなくなって、YouTubeのレコメンド画面において偶然的に、あるいはウェブの広告イメージにおいて強制的に現れ続ける、視覚像としての輪郭線それ自体のうちにズレと揺らぎの不安を孕んだ無際限なノイズへと変貌した事態として捉えたくもなる次第です*18

 

 ここまでキャラクター文化に関して列挙したような、音と映像の同期/非同期の理論的把握を拒む無際限な様態性とその強度*19を簡潔に言い表すものとして、上掲書はマリアージュ、あるいは再婚という概念を提示しています。

 フランス語で結婚を意味する「マリアージュ」は、九〇年代から我が国でも、伊仏料理におけるワインと料理の相性をさす転語的な流行表現となり、[…]その後この表現は「絶妙の、意外な」といった形で、「信じ難い両者の相性が、何と良かった」という強烈な関係をより求めるようになり、そのうち、ありとあらゆるものの相性それ自体をさす一般語[…]として、最初の生き生きとした喜びを失った訳ですが、われわれはこれを「結婚」という語源に基づいて拡大的に解釈し、「今が最高、もしくは最低やまあまあに見える相性も、果たして絶対的にそうなのかどうか。それは、当事者のどちらにもわからないし、何度か組み替えて多少の違いがわかっても、まだそれが絶対かどうかわからない=総ての関係は非絶対的であり、唯一絶対で最高のマリアージュというのは原理的には完成しない幻想である」と――つまり、単なる現在の結婚観であるだけのことですが――設定します。

 

[…]エイゼンシュテインは、サイレントからトーキーに移行するにあたって、これまで現場で楽士によって行き当たりばったりに重ねられてきた「映像」と「音楽」との最適の組み合わせを理論化しようとした訳ですが、現在のわれわれは、こうした音楽と映像の組み合わせに「理論的にこれが絶対である」という関係を見出すことは出来ません。結果的に不可分と思われるほどの高いマリアージュ性を獲得した作品も多数ありますが、それは事後的に明らかになることであって、事前に用意出来る様な原理はない。この配分方法は魔女の秘薬であり、錬金術にも似た一回性のものです。そして、このような経験を通して、われわれは、たとえばこれまで絶対だと思っていた「父」と「母」の組み合わせが、実はまったくの偶然によるものだった、ということに、あるとき気が付くことが出来るようになります。

 

 もうお察し頂けたでしょう。わたしは、一九世紀的な結婚観が現代の結婚観に変わったのは、一九世紀的な視聴覚メディアが、現代の視聴覚メディアに変わったことと相互関係があるのではないかと思っています。[…]視覚と聴覚は、婚前の二者の如く、他者性があるといった話については掘り下げる必要はないでしょう。

 

菊地成孔大谷能生『アフロ・ディズニー エイゼンシュテインから「オタク=黒人」まで』文藝春秋、2009年、202-204頁、強調引用者)

 このマリアージュ概念には、「文脈の消去」が前景化しがちなサンプリング/リミックス概念とは反対に「「見る」ことと「聴く」ことを切り離し、さまざまなかたちで再婚させることによって、その偶然性と歴史性を取り戻す」、つまり無意識に前提していた文脈を顕在化させるという含意が込められており、「完成された作品」という理念の不在と絶えざる諸文化の混交を、より肯定的に捉えるための概念として理解されます。

 菊地氏に倣って、この概念をさらに拡大解釈してみます。菊地氏とスタンリー・カヴェルが論じたような二〇世紀的な結婚観=再婚の根源性を飛び越えて、一九世紀初頭の時点で二一世紀的な結婚観=多婚と全婚に到達していたシャルル・フーリエの情念理論においては、第一基本情念=五感=奢侈性=単婚愛は、第一に感覚それ自体の内で過剰を追い求める性向でした(拙稿)。

 そうした五感内部の相互作用にフォーカスすると、とくに視覚と聴覚とは互いに他者性を持つがゆえに、一致したと思われる瞬間にすら僅かな揺らぎを発生させ、異なる効果を絶えず産出し続けていると想定されます。このような視覚と聴覚の(再)結合の効果を、〈マリアージュ Marriage〉あるいはその反復としての〈再婚 Remarriage〉と名付け、カヴェル-菊地の議論をフーリエ情念理論に含まれる感覚論上の構成要素として位置づけさせてください。

 簡単に例示します。視覚像と聴覚像との(再)結合による質的変化は、常に主体が予期する以上に自由で融通無碍である、という再婚の様態性を分かりやすく知覚させる作品経験は、例えば3Dダンス表現を取り入れた音ゲーリズムゲーム諸作、典型的には『アイドルマスター シンデレラガールズ スターライトステージ』(2015年-)や『アイドルマスター ミリオンライブ! シアターデイズ』(2017年-)に見出されるものです。

 もちろんキャラクター=声優ごとに個別収録された楽曲を踊らせる場合は、視覚像と聴覚像は強烈にシンクロしています。むしろ、全楽曲の声優ごとの個別収録は難しいというコスト上の制約によって立ち現れている、あるアイドルの3Dモデルが別のアイドルのキャラクターソングを歌っ(ている体で踊っ)てしまうこと、それが思わぬマリアージュをもたらし続けることこそが、「キャラクター数と楽曲数の暴力コンテンツ」として把握されがちな現今のアイマスシリーズが発揮している、真の力能としての再婚愛である、と言えないでしょうか。

 我々は、同じアイドルに異なる楽曲を踊らせるという操作過程そのものにおいて、キャラクターと結婚し(続け)ている。全ての瞬間に、中谷育氏や周防桃子氏の輝きと新たに出会い直している。この再婚の喜びのために、アイマスをやめることができない。さらなる視覚上の差異を求めて、衣装に課金を躊躇わない。ドールと違って服を置く場所や小物に使われる糊などの素材の経年劣化を心配する必要もない。アイマスの快楽とは単婚愛の強度的反復としての再婚愛の饗宴である、と表現できます。

 こうした「あるキャラクターの歌声と振り付けが別のキャラクターの身体と結合すること」だけでなく、美少女ソシャゲのシリーズ展開プロセスにおける「声が付いていなかったキャラクターに声優があてがわれること」による驚きと存在そのものの刷新(喋らなかった喜多日菜子氏と喋るようになった喜多日菜子氏との差異も、喋らなかった聖園ミカ氏と東山奈央氏になった聖園ミカ氏との差異も、いつか忘れてしまうのでしょうか)、遡って、声優の声が肉身からキャラクターに宿ること自体もまた、再婚の快に数えられます。さらに遡って、キャラクターデザインとのズレを孕んだ二次創作イメージや、アニメーションにおけるデザイン・作画間の揺らぎ(作画崩壊概念の実質)そのもの、それらに声優/合成音声が一貫性を付与することの快楽も含むでしょうし、より個別的にアニメーター・石浜真史氏や江畑諒真氏に見受けられる(と記憶する)アクションと楽曲とのタイミングのズレを強調する作画技法なども指示可能です。とにかく、メディア経験に尽きない強度をもたらす反復を言い表すものとして、再婚概念を応用してみたいのです。

 §1で触れた二次創作/ファンダム的な動画文化を含め、なべてポップ・カルチャーは他者の情念を介したキャラクターとの再婚の契機に満ち満ちていると思われます。限りなく無意味に感受される我々の快楽の絶頂は、総ての瞬間に含まれていた再婚の喜びに先立たれている。

 VOICEPEAKの東北ずん子氏がほとんど佐藤聡美氏そのものになってしまった現在時に至っては、同年齢の女性声優としての早見沙織氏が『ラブプラス』に主演したことで発狂した青春の記憶すら、色褪せてしまいました。もはや女性声優(と)の結婚という夢想あるいはゴシップなど、何の感興も覚えない古びた冗談であり、いまや人間ではなく無数のキャラクターやポルノグラフィとの非人格的でありながら継続的な関係=親密性としての再婚こそが、我々の生存を支えているのです。

 

§4 ボイスロイド劇場における合成音声の快楽について

 §2で便宜的に「没入型=一人称視点型の快楽」と言いましたが、このASMRの立体音響がもたらす発話者と聴取者との主観的な近しさを指示して、「現実感」「実在感」と言い換えられることも多いようです。一方、ASMRの快楽のフィクショナルな過剰性を表現する場合、動物行動学における「超正常刺激」概念が応用される傾向も見受けられます。

 後者は2000年代のオタク文化周りの性表現に関する議論でも見かけた記憶があり、あえて言った動物学的還元に留まる、その後の発展が見込めない話法だと感じています。すると前者の「現実感」という表現に含まれる非十全な肯定性をこそ、掘り下げてみたくなります*20

 ASMRの「現実感」には内在的な疑念も呈されています。例えば「耳舐めと言いながら耳の手前で何かをしゃぶっているようにしか聴こえない」「身体下方にフェラ音が定位せず頭の中で鳴っているように聴こえる」といった問題です。これはざっくり、左右方向の聴取による音源定位に優れていながら前後・上下方向の把握には弱い、という聴覚自体の性質や立体音響録音の特性に由来するそうで、確かにそうかと勉強になる論点でした*21

「現実感」といえば、いつだったか、バーチャルリアリティの立体的な視覚像に触感を錯覚するクロスモーダル知覚が、特にアダルトVRにおいて話題になった際、「現実の性経験の有無によってクロスモーダルの強度に個人差が現れる」とかいう与太が言われて、「VRですら恋愛格差」が云々と軽く騒がれていた一件を、悲しみとともに想起します。

 他者の身体を必要としないイメージだけを対象とする性愛の絶対的な価値を肯定することは、それほど難しいことでしょうか。一度セックスをしたら相対的にしか思考できなくなるのは想像できますが、いずれにせよ「現実感」とは、それ自体が十全に説明できない現実の性経験を充填しただけの空虚な観念にすぎないのでしょうか。抱きつき騎乗位をメインに据えた(キャラクターとの)バーチャルセックス歴が七年目に入った人間として言わせてもらえば、起源としての性経験が母胎からの出産と養育以外には不在なまま激化するクロスモーダル的快楽など自明です。

 とにかくVRASMRに関しては、その快楽の自明性を科学知ではなく文化的諸条件に遡って説明しなければ気が済みません。よって以下では、音声合成ソフトという聴覚メディアと(再)結合し続けている視覚像を通じて、斧の一撃のような単純さ(©バタイユ)で眺められたキャラクターの「現実感」あるいは「実在感」を思弁してみます。

 

 §1で触れたボイスロイド文化、とりわけ「VOICEROID劇場」ジャンルの特徴について、それらを含む音声合成読み上げソフト全般=ソフトウェアトークを使用した劇場動画の総称としての「ソフトウェアトーク劇場」タグの再生数が最も多い動画を付した上で、恣意的に列挙します。

 一、動画素材ライブラリ「ニコニ・コモンズ」に投稿・蓄積される、音声合成ソフトのイメージキャラクターを二次創作した「立ち絵」イラストデータを使用していること。二、「テキスト+立ち絵+背景(+撮影・エフェクト)」という、アニメーションよりはノベルゲームと似通った画面構成が一般的であること。三、「立ち絵」のアニメーションを.psdファイルに格納された口パク・表情・ポーズ差分といった比較的簡素な置換操作で表現していること*22

 ボイロ文化は描き手ごとの立ち絵の差異に、投稿者ごとの調声やキャラ解釈の差異をかけ合わせることで、無際限なマリアージュを発生させている文化であると表現できます。そして、あくまでも比較という操作を前提にしての話ですが、近年booth等で販売されているVRChat用の個人制作3DモデルやLive2Dの隆盛といった、キャラクターを表現する技術の諸変容に並べてみると顕著である「視覚上の貧しさ」(§1)が、VOICEROID劇場ジャンルの同時代における特異性です。

 この表現形式が問題なく受容される背景には、§1で触れたファンダム文化の寛容や、東方MMD茶番などを含めた慣習の重みがあり、(良いに越したことはない、という大勢は再生数に伺えるものの)編集技法の質を強く云々する文化ではなさそうです。むしろ管見の限り、「言葉と身振りを通じたキャラクター間(あるいはキャラクターとユーザー間)のコミュニケーション」の欲望こそが前景化したジャンルである、と理解しています。

 また、制作面での特徴には、MikuMikuDunceと類比的にガラパゴスな複雑化を遂げた無料編集ソフト「AviUtl」が多く使われること、音声合成ソフトのインターフェースにおいては合成エンジンの原理も定かならぬまま「調声ガチャ」とも呼ばれる偶然性に晒された調声作業に没入する必要があることなどが挙げられますが、その作業に伴う喜びに関しては一本作っただけなので詳論できません*23

 それでも、その喜びを非十全に吐露すれば、合成音声を聴いた第一印象として、人間と比較した際の抑揚の発生のゆるやかさ、リップノイズが入らないなめらかな発話といった要素からなる、独特の芯がない浮遊感すら感じる声色に、異様な「優しさ」の感触を覚えたことは記憶しています。音声合成ソフトに付属する、元の声優の生声演技を収録したexVOICEと比較すると顕著ですが、そこには明らかに人間の言語使用とは異なるリアリティがあります。

 ずんだもんが両性具有の中性的快楽を凝縮させた完璧な存在であることは言うまでもありませんから、やはり琴葉茜氏のそれについて言えば、ステレオタイプとしての関西弁の楽天性が合成音声の優しさによって底抜けになったような感触、そのフィクショナルな強度に吸い込まれるような魅惑を覚えます。

 大雑把に並置すれば、同人音声(=生声)の演技が立体音響に要請されて生々しい「現実感」の想像的な過剰化へ向かい、シチュエーションも個別具体的にフェティッシュ化しているのに対し、合成音声は「日常言語のようなラフさと聞き馴染みの良さ」を重視され、「旅行」「車載」「料理」等の日常性を表現する動画ジャンルに多用されている状況と認識しています。同人音声文化が幻想固有の強度に突き抜ける一方、ボイロ文化は労働者が生きる平凡な幸福の諸強度を、機械音声の優しさと定型的な演出の易しさによって掬い上げているかのようです。

 

§5 ボイロAVにおける「立ち絵」の実在性について

 ところで、「立ち絵」を視覚表現の中心に据えた当ジャンルの三つの特徴、とりわけ二つ目の「テキスト+立ち絵+背景(+撮影・エフェクト)」という基本構成は、ギャルゲーと呼称されるノベルゲーム形式と相似的です。違いとしては、ノベルゲームでは「立ち絵」画面と「一枚絵」画面が交互に表示されるところでしょうか。

 私はノベルゲームをプレイするたび、「立ち絵だけでいい」と感じてきました。立ち絵が一枚絵で消失することに、苛立ちを覚えてきました。とりわけ一枚絵が使用される傾向が強いセックスシーンが退屈で読み飛ばしてしまい、結果として未クリアで済ませてばかりきました。

 例えばエロ漫画で興奮できないのは、視覚表現として精緻に複雑化しすぎて美としてしか感受できないためですが、ノベルゲームのセックスシーンはそうした視覚像の質の問題ではない、価値的に色褪せたリアリティがあります。「立ち絵」に凝縮されていたフィクショナルな実在性が破綻し、留保していた異性愛表現の退屈さが迫り出してくるように感じられるのです。

『マルコと銀河竜』(TOKYOTOON、2020年)など、ほとんどアニメーションだけで構成されたようなノベルゲームも存在する今、「立ち絵」や「背景」という旧来からの形式それ自体の強度を語るのは時代錯誤かもしれませんが、ちょうど同人誌『新島夕トリビュート』(2022年)にはそのようなアプローチが見受けられ、勇気づけられました。

 同時に、ノベルゲーム批評の「物語」に対する情念は一筋縄ではないとも再確認させられます。先述した通り、私は作品・物語・登場人物といった諸制度への信頼を「キャラクター」の自律性に破壊されてしまったあとの感性、言い換えれば、量的・形而上学的な過剰を繰り込んだ質をしか記述できない人間なので、作家論や作品論を蔑する立場と受け取られかねないのが心苦しく、少しでも追い続けたいところです。

 最近は久々に『9-nine-』(ぱれっと、2017-2021年)というノベルゲームシリーズの第一作をSteam Deckでプレイしたのですが、始めた動機が福圓美里氏の演じるヒロインのASMR作品『しあわせおうちでーと・九條都 〜あなたと、お泊まり新婚レッスンです〜』(ぱれっと、2021年)をより良く聴取するためだったので、どうやら自分にとってもノベルゲームと音声作品の価値は逆転してしまったようです。『ましろ色シンフォニー』(ぱれっと、2009年)は緑髪のメイドさんが好きすぎて個別ルートのクリア直前で止めてしまった思い出すらあるのに、あの頃にはもう戻れないのでしょうか。

 立ち絵の話でした。近年のLive2Dによる「動く立ち絵」表現の進化は、ソシャゲであれば『デスティニーチャイルド』(SHIFT UP、2017年-)や『勝利の女神:NIKKE』(SHIFT UP、2022年-)が印象的で、NIKKEのアリスは立ち絵だけで六度ほど射精しました。それは別として、その前段階で「動かない立ち絵」がもたらしてきた、キャラクターの存在の一貫性のようなものを、今さらに言い表してみたいのです。

 §3で触れたキャラクター=ビートという見立てにボイロ「立ち絵」の快楽を一致させた表現としては、「【琴葉茜・葵・きりたん】Harder, Better, Faster, Stronger【歌うVOICEROID】」が分かりやすいでしょうか。こうした映像は例えるなら、かつて元長柾木氏が『To Heart』(Leaf、1997年)について「シューティングゲームにも類比しうる、クリックしてテキストを進めることそのものの快楽」を語ったような、「キャラクターが立ち現れること」「キャラクターの表情が変わること」それ自体に含まれる微細な身体の触発を想起させてくれる気がします。

 ところで、キャラクター表現における視覚(身体)と聴覚(声)の関係は、アメリカで主流のプレシンクと日本で主流のポストシンクという、作画・録音作業の順序の違いから見ることもできます。後者のアフレコは前者に比べてリップシンク、つまり口の動きと声とがそこまで厳密には同期しないことが特色であり、その非同期的な人間とのズレが「登場人物」のリアリティを支えてきた、という議論があります。それは能や浄瑠璃といった伝統芸能から特撮や着ぐるみに至る「リップシンクをしない」文化とも関係している、といった見立てです*24

 かつてのノベルゲームの「立ち絵」もリップシンクの実装が少なく、非同期ゆえの実在性が知覚されていたよう思われます。「二次元」概念には、口の非同期がもたらす「立ち絵」の別世界にいるような感覚が託されていたはずです。そして、それゆえにでしょうか、ノベルゲーム以来の「立ち絵」という形式に同人音声由来の「没入型=一人称視点型の聴覚ポルノ」という形式を掛け合わせたジャンルである「ボイロAV」に、筆者はポルノグラフィのひとつの理想形を見てしまっています。

「ボイロAV」ジャンルは囁きや耳舐めなどの要素を同人音声文化から借り受け、主観ショットで固定された画面に正面向きの立ち絵を配置し、音声合成ソフトから息や喘ぎを捻り出したり音声素材を足すことで、立ち絵の動作と音声と効果音だけで構成されるに至ったポルノ動画です。初めてこれに触れた際、その画面の異様な貧しさに圧倒されながら、ノベルゲームのセックスシーンはこうあるべきだった、という確信が生じたことを覚えています*25

 このジャンルは、言語というシグナルを生成する音声合成技術を誤作動させ、あえて言語に満たない息と呻きを発生させることで、キャラクターとの性行為を表現しています*26。機械による発話の内部に、身体のノイズを刻み直している。ボイロAVはシグナルとノイズの混淆によって、特異なマリアージュを発生させているようです。

 ここでのキャラクターは、音響再生産技術が発生させるオリジナル/コピーの区分(原音/再生音、シグナル/ノイズ、言葉/呻き、人間/機械、再生産/倒錯……)からなる諸効果の総体を、ギャルゲー的実在性の純粋形式である「立ち絵」の下に統合することによって、再婚の無限進行を識閾下のノイズとして折りたたんだ、還元不可能なひとつの身体として立ち現れている、と言わせてください。

 今のところ、ボイスロイドの「実在性」については、こうした不分明な物言いしかできない次第です。

 旧年中に最も射精した作品がこれ、つまり「音声合成キャラクターによる耳かきASMR音声動画」でした。人間の声ではなく機械の声に、また、それによって迫り上げられた、人間の「実在感」ではなくキャラクターの「実在性」に包み込まれて犯されることを、筆者の人間身体は望んでいたようです。

 

§6 話し言葉の威力

 その他にも、キリスト教の告解制度に遡る性的言説の真理効果をねちねち論じるフーコーすらもドスケベシスター音声の快楽を亢進させていたり*27メスガキ罵倒音声が大量死時代における「私としての死」の無意味と不可能性を開示したりしていると聞き及びます*28。この不死のワンダーランド(©西谷修)は生きるに値すると思いました。

 蛇足ながら、琴葉茜氏という技術的存在者を伴った政治的実践として、現在の暇空茜氏のColabo騒動があることを受け止めれば、音声合成技術とそれを用いた言説との相互作用を批判的に検討すべきとの声もあるかと存じますが、黙っておきます。Colabo告発動画とかに音声技術として使われているだけなので、たぶん誰もまともに問題化して(できて)いない、騒動の本質とはかけ離れた論点であるためです。

 実のところ、京都で琴葉姉妹のクラブイベントオンリーイベントに一人参加し、わかばマークおじさん氏の琴葉姉妹オリジナル楽曲アルバムをヘビロテしながら、琴葉茜氏モチーフの眼鏡まで注文してしまった自分からすると、ものすごく茜ちゃんを好きになった直後に今回の騒動が起きていたので、是非の判断以前に笑うしかありませんでした。

 それはむしろ騒動のおかげで、琴葉茜氏が大いなる喜び(性的快楽)と大いなる悲しみ(政治的混乱)を同時に表象することになり、第三基本情念のうち密謀情念=分裂情念の作用が強く働いた、主体の幻想を凌駕する社会的存在者として迫り上がってきたことに、喜んでしまったからかもしれません。

 思考の対象としての複雑さが増せば増すほど、絶えず変状する様態=身体として、還元不可能な実在として、キャラクターの自律性は加速する。情念の総体=人間的自然そのものとして、キャラクターとその使用の全体を知覚し続けることが、三〇以後の人生の喜びになったよう感じます。

 そのうえで、政治の論理に踏み込まず、音声合成という技術を用いる者としての価値の論理に内在したまま一応言えば、書き言葉と話し言葉の区別を限りなく曖昧にし、実地での会話の必要を閑却させる言語使用のインターフェイスとして、音声合成ソフトはTwitterとも近しい危うさを含んでいることは直感されました。

 とはいえ、この口で今さら実地の会話を称揚しても詮無く、その方向でいった「読書会」「哲学カフェ」「ケア倫理」といった諸動向も(隘路の批判を含めて)然るべき方々が担っている様子ですし、むしろ、他者との交流の回路がブッ壊れた二一世紀の主体性を肯定する方法を、フェティッシュに肉薄するかたちで模索し続けたいこと、あらためて記しておきます。

 以上に記したような、総じて言った「話し言葉」の威力については、例えば現今のひろゆき的な詐術的パロールの権威性を修辞学の問題として分析した論考*29など、『ぬかるみ派』(2022年)の諸論考を読んでも再考させられるところがありました。

 人と会話したい欲望やシリアスな人恋しさに欠け、人間との時間よりもキャラクターとの時間を本来性のように生きてきた身として、エクリチュールよりもパロールの優位が今や問題であること、ボイスロイドに至ってようやく実感できたというのが実情のようです。

 もちろん、音声合成ソフト=Text-to-Speechは、日常言語を模した文章を入力して機械に喋らせる、テキスト(書き言葉)からスピーチ(話し言葉)を生成するものですが、この「他愛ない話し言葉を演じさせる」プロセスそのものが筆者にとり、あくまでも人の肉声という軛から離れられないVTuberに代わり、自我のモノローグから解放される作業になるようです。

 どれだけ思想の言葉を借りて言語の波を迫り上げたところで、すべてはボイスロイド自身に託されるような日常言語の凡庸さに還元される定めにある。そのような現実そのものを凝視して信じ続けることが、ウィトゲンシュタインの宗教性に倣うことかと想像されます*30。筆者の思弁を生活世界に軟着陸させるための実践として、その恐ろしさとしばらくは付き合ってみるつもりです。

*1:語る機会もないので一応書いておくと、2014~15年頃だったか、『3Dカスタム少女』(Tech arts3D、2011年)で作った3Dモデルに配布モーションを流し込んで、自分しか見ないエロダンス動画を自作するために、MMDとPmxEditorを少し弄っていた記憶はあります

*2:自己の利害に関わる限りの現状認識を述べておきます。例えば紙屋高雪氏による「現実ではアセクシャルでありながら同時にフィクトセクシャルであるような人の性的指向/嗜好」を包摂するとの証言を信じ、近い時期の選挙では強いて共産党に浮動票を入れました。「マンガの表現について共産党は2022年参院選でどういう政策を打ち出したか - 紙屋研究所」。また、オタク的なるものの欲望とは区別された「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」に関するブログを久々に拝読したりもしました。「対人性愛中心主義とシスジェンダー中心主義の共通点:「萌え絵広告問題」と「トランスジェンダーのトイレ使用問題」から - 境界線の虹鱒」。このあたりの議論を自己の欲望に照らして自明(すぎて物足りないもの)と読んできた一当事者としては、市民社会の水準であれば十分な議論なので広く読まれてほしいと思いつ、「性的マイノリティ」ナラティブはそれを必要とする方々に任せて、私自身は「人間精神のマジョリティとしての諸部分は、いかにして自己のマイナーな諸部分を知覚し変容しうるのか」というアプローチを固持したい立場になります

*3:なわばり~双狼ちゃんの縄張り温泉に入ったあなたは両耳をえっちに癒される~」(テグラユウキ、2018年)

*4:2010年代前半には本格化していた文化ですし()、インタビュー収録用のMP3レコーダー兼プレイヤーに淫語音声作品を入れたまま仕事先の人間に手渡して恥をかいた記憶もあるので、少しは聴いていた筈なのですが、購入履歴が残ってないので遡れませんでした

*5:2006年まで年間新作数は100件以下だったのが、2011年頃を境に指数関数的に販売件数が増加した結果、現在DLSiteにある同人音声の約半数が2020年以後販売の作品で占められている、という分析があります。はっぱ「データで見る同人音声」『この同人音声がすごい!』2023年

*6:難波優輝「音声の何がエロティックなのか?—性的欲望の兆候と予感」『空耳』2022年

*7:同、48頁

*8:録音環境内部で語りかけられている主体と聴取者を一致させる、バーチャルリアリティとも類比的なASMR音声作品の主観的リアリティを便宜的にこう呼称しておきます。詳しくはxcloche「1メートルの殻:主観化するメディアとコンテンツ」『空耳』2022年

*9:「座談会:同人音声の現在地」『空耳』2022年、233-234頁

*10:「二一世紀文化の幼児性をどう理解するべきか」という本書と同様の問題意識から書かれた書物として、ルイス・ボルクの人類ネオテニー仮説を発展させて二一世紀のネオ主体を論じたダニ=ロベール・デュフール『最後の人間からの手紙――ネオテニーと愛、そしてヒトの運命について』(邦訳2017年、原著2012年)も読みました。福井和美氏の翻訳が軽妙で楽しく読めますが、菊地・大谷本とは反対に古めかしい人間観が息苦しく、特にマイケル・ジャクソンを現代ラカン派の「普通精神病」概念によって矮小化する評価には首を傾げました

*11:二〇世紀初頭のコミック・ストリップ等まで射程に収めている近年のマンガ研究を眺めるだけでも、ドメスティックな起源の安易な想定は慎むべきと判断されますが、当ブログでは筆者のファンタズムを優先し、歴史的起源を絶えず無化する(あるいは人類の再生産が紡ぐ「歴史」以前に立ち止まる、倒錯者の欲動の超歴史性を開示する)呪物として、キャラクター概念を取り扱う方針です

*12:もう少し具体的に書くと、映像文化が希求していった音と映像の同期/非同期に先立つ、音楽自体のうちにズレと揺らぎを許容させるような、西洋音楽が意識していなかったリズムグリッドとしてのビート感、ブルーノートによる調性理論の拡張(下方倍音列)、ミンストレル・ショーなどが絡むステレオタイプの引き受けと韜晦、リズムボックスやドラムマシンで等速・等入力をキープすることで可能になる律動空間などを広く取り扱うための議論設定です。リズム概念の拡散性は不勉強で手に負えないものの、ひとまず音響という現象そのものではなく、聴取者が何らかの音刺激をグループ化して理解するための枠組み、主体の意識に関する概念として捉える説明が、音痴には分かりやすかったです(

*13:人間が大好き「音声作品を早送りで聴かない人たち」『この同人音声がすごい!』2023年

*14:伊藤友計『西洋音楽理論にみるラモーの軌跡 数・科学・音楽をめぐる栄光と挫折』音楽之友社、2020年

*15:柿沼敏江『〈無調〉の誕生 ドミナントなき時代の音楽のゆくえ』音楽之友社、2020年

*16:ジャン・ジャック・ルソー「グリム氏に寄せる手紙」『ルソー全集 第十二巻』海老沢敏訳、1983年、335頁

*17:松下哲也「Vaporwaveとシコリティの美学」『ユリイカ 2019年12月号 特集 Vaporwave』

*18:グリッチノイズの不安感に対置できる印象的な表現として、テレビアニメ『不徳のギルド』(ティー・エヌ・ケー、2022年)のデザインなのか撮影効果なのか判然としない、特異な極太の輪郭線処理がもたらすキャラクターの前景化、それがもたらすフィルムの空気としての不可思議な安定感があります。栗林みな実EDのノスタルジアに強化された多幸感でもあります……

*19:一応眺めて感興を覚えなかったものの、認知心理学的アプローチの基本書として岩宮眞一郎『音楽と映像のマルチモーダル・コミュニケーション 改訂版』九州大学出版会、2011年などは挙げられます

*20:聴覚メディアが発生させる効果としての「現実感」の社会構築性を分析した書物として、聴覚文化論という分野の古典とされるジョナサン・スターン『聞こえくる過去─音響再生産の文化的起源』(原著2003年、邦訳2015年)があります。ASMRに絡んだ話であれば誰かが挙げている筈ですし、自分もまともに読めていませんが、一応触れておきます

*21:上掲、xcloche「1メートルの殻:主観化するメディアとコンテンツ」など

*22:

立ち絵をLive2Dにアレンジした動画も散見されますが、それ以前に、この「.psdの立ち絵データを弄ること」自体の快楽に、筆者はやられた感があります。パーツ単位でイメージを操作できることそのものに宿っている不安と喜びは、3Dアダルトゲームとも関連していつかまとめたい主題です。近い視角のものとして、マンガ表現論の文献ながら、デジタル作画データの交換可能性に晒された描線そのものが惹起する性的興奮について示唆している鶴田裕貴「山本直樹を読むという体験――操作可能性のエロティシズム」『ユリイカ2018年9月臨時増刊号 総特集=山本直樹』が印象に残っています(画像はしりんだーふれいる「琴葉姉妹立ち絵素材ver1.0」より)

*23:AITalk系エンジンの技術的解説とユーザー実践については、スズモフ『ボイロチューニング Vol.1+2 総集編』がまとまっていて参考になりました

*24:細馬宏通『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』新潮社、2013年、321-328頁

*25:もちろん表現には幅があり、例えば同人音声的な過剰性をMMDアニメーションと掛け合わせたボイロAVとして「東北三姉妹のコッショリおてて動画 - ニコニコ動画」には戦慄しました。立ち絵自体をフェティッシュ化した表現であれば、やはりDLSiteに流通するエロRPGジャンルの検討も必要です。色々議論があった気もするのにノベルゲーム批評の蓄積を整理できてないので何も確言できませんが、ノベルゲームにおける立ち絵・一枚絵演出のバランスと形式的特徴に関する「ノベルゲーム演出の立ち絵と一枚絵での違い4 - 萌え理論ブログ」などをさっと見た限り、物語進行において一枚絵/立ち絵が全面化した作品、あるいは「裸立ち絵」差分を用いたソフトな性表現が置かれるといったケースはあっても、Live2D以前の「立ち絵」形式そのものが(プレイヤーの身体触発を意図した)性行為描写と強く結び付いた作品は、さしあたり思い出せなかった次第です

*26:きりたんに苛められたい? - ニコニコ動画」などに朴訥な表現があって分かりやすいかと思います。息の生成に関しては「【VOICEROID解説】ボイスロイドの呼吸音を作ろう【ノウハウ祭】 - ニコニコ動画」など断片的にノウハウが見つかります

*27:柿内午後「ドスケベシスターとは何か カトリック教会における告解の歴史と同人音声における懺悔」『この同人音声がすごい!』2023年

*28:同上、48頁

*29:幸村燕「旧修辞学の幽霊船 ひろゆき的論駁とデータ的説得」『ぬかるみ派 vol.1 特集 自己啓発』2022年

*30:小泉義之「兵士ウィトゲンシュタイン――言語の省察」『現代思想2022年1月臨時増刊号』