パンツを脱ぎ続けるいまざき監督 『可愛ければ変態でも好きになってくれますか?』(2019)

  「いまざきいつき監督が手がける美少女アニメ」についてですが、そう聞いて真っ先に思い出されるのは『ショーヨノイド真琴ちゃん』(98)です。

 

 

 恋人とのセックス最中に挿入間際で召集されてノーパン陰部ダダ濡れのまま戦闘員相手に大立ち回りし、女性器丸出しのままあっさりと爆殺された戦隊風ヒロイン・コギャリオン真琴が、胴体から吹っ飛んだその生首を幼女の義体にすげ替えられ全裸の女子小学生として復活、銭湯で延々と公然濃密ロリセックスに耽る幻覚的な絵面の只中、「作中では2クール放送したことになっている」などのムズムズするOVAギャグを飛ばしまくるという、斎藤久監督の『きぐるみっく V3』(09)と並ぶ稀有なスカムオタクムービーなのですが、その天真爛漫なパロディにせよ、むくつけき幼児性にせよ、リップシンクのズレによる軋むような違和感にせよ、氏のエロ漫画作品までは拾えていない人間にも、90年代エロ文化の力強さと氏のファンタズムの特異性を十分に印象付けてくれる作品でした。

 そうしたエグみを脱臭しきらないままに才気煥発なのが氏の魅力で、とりわけ『あいまいみー』(13~17)シリーズでは、ケレンの強いエフェクト系作画に破壊的なギャグを乗せる手法を洗練させつつ、編集・作曲・ピクセルアニメその他、一人で大体全部作ってしまうスタイルを打ち出して、今度は真琴ちゃんではなく監督自身が「パンツを脱いだままの大立ち回り」感全開、いよいよもってマルチ・アシッド・エロ作家として信頼著しい氏の新作が、なんとMF文庫原作のハーレムラブコメで全話絵コンテの全力投球、適材適所が極まったファン感涙の『可愛ければ変態でも好きになってくれますか?』(19)だったわけです。

 

 

 まず大橋彩香氏の伸び良い高音に乗せて雑多なイメージをざくざく繋げるOPの白眉を述べれば、「サビのハンドクラップのリズムに同期するアホすぎるアクション」かと思われ、「メインヒロインが順番にマジで手拍子を打つ」能天気さに続いて、「メガネをつるからカチャカチャ上下させたりうさ耳風パーカーを振り振りしたりトングをカチカチ打ち合わせたりする意味不明かつ脂っこい美少女ドアップ」を真顔で軽快に繰り出してくる馬鹿刺激には、監督ならではの暴力性が瞬間に閃いており死ぬほど好きです。

 こういう「基本的に格好良くないタイミングベタ付け作画」の下品さが、へちょ美少女のへちょアクションという更なるダサさで貫徹されることの好ましさに関しては、「小手先の甘さは強烈な低劣さにこそ強度を得るべき」というような価値基準が自分にあるらしいのですが、一見似たような大沼心氏の手付きには嫌悪感が根深いので一概に言えそうもなく、おそらくこれもまた、監督が自らのファンタズムに基づき、美少女快楽を抜き差し含めて意外や繊細にコントロールしているがための感覚なのかもしれません。

 

 冒頭のあらすじ早回しやエロシーンのお気楽ねっとりスキャットは無論のこと、全体的にカメラを引いたカットや妙な広角で捻ったレイアウトに特有のパンチが感じられ、美少女の肉体と主人公のボケ面に恒常的な軽度の歪みをもたらす絵作りは、鑑賞主体の認識自体が歪んでいることをも常に意識させてくれるかのようで肌に合い、作画リソースを割けずとも画面の刺激を確保する一手法としても、かなり肯定したいアプローチでした。

 竹達彩奈氏演じるマゾ巨乳キャラがケツの付け根まで豪快に揉みしだかれる場面など、『Kiss×Sis』デビュー声優の面目躍如たる堂に入ったお色気演技で、主演の下野紘氏もエクスタシーを回避する「やれやれ」ノリと愛らしい童貞感を絶妙に配分し、監督のクセで幾分脱臼しながらも直球のエロコメ快楽たっぷり、主人公の友人にも女が割り振られるささやかな脱中心化を含めて、「百合」の一語に表現されるオタ形而上学以外には救いを求めづらい時代、むしろ「変態」の一語であらゆる欲望を一見粗雑に肯定するような表現の危うさにこそ、思考の場を見出しておきたい気持ちを新たにさせられます。

 

 一点だけつらい部分は、cv日高里菜氏で緑色のリボンを着けた金髪ロリキャラが登場するたびに、なんかこいつにゃ○らっぽいな……こいつもしかしてにゃ○らじゃね……? 前のにゃ○らのアイコンってこんなんじゃなかったけ……*1そもそもにゃ○らのアイコンのキャラって誰だっけ……SSSS.GRIDMANのヒロインが二次裏ユーザーなのでインターネットの人々がはしゃいでいるということをおれに教えてくれたがそのあと特に観測していないにゃる○さんみたいだな……V界隈の人たちはVブームの火付け役が薬物愛好者であることに関してはどう思ってるんだろう……別にどうとも思ってないか……みたいな、公共圏の構築に失敗した日本語圏インターネットのオタク的政治性から距離を取るという滑稽を演じている、骨の髄までクソオタなわりに故郷喪失者であるわが身の上を意識させられ、動画サイトのコメントはもちろん、殆どのネット言説を観測せずにMF原作アニメを讃え続ける倒錯においてこそ、私の悪しき享楽は成立しているらしいです。おそらく日高里菜の声に無条件で幸せになる自分の安さに否認も働きました。

 

 MF文庫を多少は好んで読んでいた身としては、『緋弾のアリア』の少年漫画的馬鹿インフレや『はがない』の翳りの背負い方、『変猫』の保守快楽から『魔法戦争』のわたしの中に潜む -PRISONER- まで、アニメ化されてないやつだと穂史賀雅也氏や清水マリコ氏の繊細さも大好きでしたから、「ラブコメ界のドン*2MF文庫J的ハーレムラブコメ」と一言で括っても微細な快楽は見逃しえず、『この中に一人、妹がいる!』の「どのヒロインが妹か」と同程度にゆるくお話を牽引する「どのヒロインがパンツを脱いだか」というすっとぼけフーダニットこそ、どう転がるか分からない謎緊張感を確保しつつ、別にどう転がっても全部許せるしわりとどうでもいい、という融通無碍で呼吸しやすい眩暈の体験の条件として私の生存を可能ならしめ、体中が大好きと叫ぶに至った次第です。真琴ちゃんの時点ですでにパンツは脱がれており、あまつさえ頭部までもが失われていたのです。

 

無頭人(アセファル) (エートル叢書)

無頭人(アセファル) (エートル叢書)

 

 一人の首長によって築かれるカエサル的統一性の対極にあるのは、悲劇の執拗なイメージによって結ばれた首長なき共同体である。頭なき共同体を求めることは悲劇を求めることなのだ。…人間的事象の様相を変える一つの真理がここに始まる。すなわち共同の実存に執拗な価値を与える情動的要素は死である、と。

(p.166  ジョルジュ・バタイユ「ヌマンティアよ! 自由よ!」)

諸党派が提案する解決法のなかにすでに空虚を見いだした者たち、それらの党派がかき立てる希望のなかに、死の匂いが充満する戦争の契機だけを今や見る者たち、彼らは、自分たちを襲う痙攣にみあった信仰を探している。つまり、どこかの国旗や、その国旗のあとに続く出口なしの殺戮行為ではなく、宇宙のなかで、笑いや陶酔や供儀の対象となることのできるすべてのものを、人間のために再発見する可能性を。

(p.54  ジョルジュ・バタイユ「われわれ祖国を持たぬ者たち……」)

要するに、エピキュロスの豚(=放蕩者)とみなされるのを、あるいは実際にそうであるのを、笑いながら受け入れること。

(p.92  ピエール・クロソウスキー「世界の創造」)

 

 全ては紋切り型のマイルドポルノにしか至高性を見出しえない人間の戯言に過ぎませんが、プログラムピクチャーにおける質的経験の記述以外には研ぎ澄ますべき趣味を見つけられず、年を取るほど泥濘に沈むばかりの現状、ファンタズムにまつわる機微と暴力と歪をもってポルノグラフィックな泥沼の愉悦を繊細に深化させ続ける、MF作品といまざき監督に「泥の中に咲く蓮」*3の美しさを見てしまう快作でした。

*1:今確認したらそこまで似てなかった、どちらかというと『対魔導学園35試験小隊』の大久保瑠美氏を想起して懐かしかったです

*2:公式が自称していました。首領を自認するほどのブレイクスルーが最近あったのでしょうか

*3:誤用