おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

雑記:政治と文学の峻別について

 前回の記事を書いてから神経症的な苛立ちが続いて生活が辛く、新しい記事も二度三度書き直して反故にしたゆえ、今回は雑記のかたちで、弛緩した態度表明のみ済ませます。ご寛恕を請います。

 前回の記事は、かつて趣味の共同性において友情を感じていた知人が、「リベラル」と他称されるタイプの高圧的なTwitter人格を選択したことに関する、悲しみと怒りの情動を表明したものと要約できます。

 この実践は、知人の「リベラル」っぽい居丈高な他罰性を、「オタク」的な来歴に遡って解釈することで、「リベラル対オタク」という政治的(とされている)対立項を、「リベラルでもオタクでもある人間存在」という、いわば実存論的な問いへ横滑りさせるところに、第一の企図がありました。

 それはひとえに、人間存在の諸部分に過ぎない社会的属性や、醜悪に見える特定の様態のみをあげつらい、「リベラル」「オタク」「いじめ被害者」等々の概念を当てはめて、敵対性を構築するSNS政治と付き合うのに疲れ果てているためです。

 しかし、私のこの構えは、床屋政談のノリでネット上の他者を気軽に叩く知人を軽蔑するあまり、かえって既存の対立軸をなぞるアイデンティティ・ポリティクスに後退してしまったよう、我ながら思われます。

 それを証明するかのように、私の記事に対する知人からの反応は無く、某オタク叩きアニメアイコン学者をリツイートするのに忙しいようです。

 心底恥ずかしい連中だな、自分のペニスにすら向き合えない馬鹿が不特定多数の他者の性的欲望を批判できるとか勘違いしてんじゃねえよ、という本音をごまかすつもりは、すでにありません。

 ただ、Twitter上の身振りで他者の人格を評価できてしまえるかのような、我々ネット生活者の幻想自体が愚かしいわけで、これ以上は口を慎みます。

 というのも、生身の個人の生を無視した理性偏重の議論で鬱陶しがられる一部アカデミアの隠れ差別主義、といった論難が、例えば倉持麟太郎『リベラルの敵はリベラルにあり』などの近刊において、内在的批判として洗練されている状況を踏まえれば、私のような雑魚が適当ぶっこいても詮無いためです。

 よって本稿では、「リベラル的でもオタク的でもある人間存在」という、前回は知人に差し向けた問いを私自身に向け直すことで、政治という範疇の領分を弁える思考について、乱雑なまま開陳しておきます。

 

 §1

 当ブログは一貫して、現在の日本人には極めて一般化したものである、幼年期から青年期にかけての濃密なサブカルチャー経験を、学知によって隠喩化せざるを得ない主体の心的過程を、拙くも問題化してきました。

 これは、日常的な言語使用では掬いきれない問題設定であるがゆえに、政治とは異なる文学の領域として指示される傾向にあります。

 実際、前回の記事でいささか唐突に「政治ではなく文学として見なされているのであれば」という書き方をしたのは、知人が対面で私の文章を評した際、「それは政治ではなく文学の問題だから」と漏らした事実を受けています。

 知人の言質をもって前回の記事を書かせた私の「政治的」な苛立ちは、リベラルな公共意識を踏まえて内面に退却したオナニー日記から政治性を組み立て直そうとしたら、当のリベラル的な主体における解釈枠の不在のためにその企図が読み取られず、もっぱら趣味の共同性に基づく「政治から断絶した文学的なオタク批判」という狭隘な読み方によって黙殺/褒め殺しを食らったことである、と要約できます。

 これはいささか滑稽であり、過剰に自罰的でいると人に舐められる典型例を演じたことになります。そして、こうした態度で暗々裡に性の語りを他者に要求する腹積もりも、まったく無意味で下世話な期待であったと、卒業する気にさせられました。

 なによりも、かつての私自身が金塚貞文氏の動画で「政治的なストレスとは無関係に」自慰を問題化する立場を明確にしています。政治理論の本など読むと、この初心を忘れがちになるのが困りものです。

 つまり、前回の「政治的」な自己認識は、被害者意識を優先させた観念の暴走にすぎなかった。むしろ、文学として評価されるのは素朴に光栄であると、胸を張るのが正解であったと考え直しています。

 

 するとここでは、時代精神による「政治と文学」の恣意的な線引きに対する、私の疑念だけが自覚されます。この線引きの基準を求めるべく、私が手早く参照したのは、福田恆存の書物です。

 以下にだらだらと書き連ねた読書感想文は、中島一夫氏による「福田恆存の「政治と文学」 - KAZUO NAKAJIMA 間奏」などを参照すれば読む必要はありません。それでも、「政治と文学」論争が現代人にも当然リアリティを失わないことの例証として、あえてずぶずぶべったりの読み方を開陳しておきます。

 マイナー・ポリティクスを「自分の言葉」で語る蛮勇が尽き果てたのち、無学にも三十の齢で初めて読んだ福田の言葉に泣きたくなった事情を、以下に汲んでいただければ幸いです。

 

 §2

保守とは何か (文春学藝ライブラリー)

保守とは何か (文春学藝ライブラリー)

  • 作者:福田 恆存
  • 発売日: 2013/10/18
  • メディア: 文庫
 

 論争に参与するのは知性である。思想は論争しない。ひとりの人間の肉体がさうであるやうに、思想もまた弱点は弱点としておのれを完成する。ところが論争はつねにいづれかの側に正邪、適不適の判定を予想するものである。[…]ひとびとは論争において二つの思想の接触面しかみることができない。[…]この接触面において出あつた二つの思想は、論争が深いりすればするほど、おのれの思想たる性格を脱落してゆく。かれらは自分がどこからやつてきたかその発生の地盤をわすれてしまふのである。[…]このさいかれのなすべきもつとも賢明な方法は、まづ論争からしりぞき、自己の深奥にかへつてそこから出なほすことをおいてほかにない。が、ひとびとはそれをしない。あくまで接触面に拘泥し、論理に固執して、なんとか相手をうちまかさうとこころみる。それがおほくのひとびとをゆがめられた権力慾にかりたて、たがひにおのれをたて、他を否定してはばからしめぬのである。(p.11)

 

 ぼくたちはながい混乱の季節のなかにあつて政治のことばで文学を語る習慣をすつかり身につけてしまつてゐる。ひとびとはいまだにこの混乱に気づかうとしない。のみならずぼくたちの文学の宿命的な薄弱さが政治意識の貧困からきてゐるといふ常識は、ひとびとをしてこの混乱から脱卻させるよりも、むしろ混乱のうへに混乱をかさねる結果を招来せしめてゐる。(p.13 「一匹と九十九匹と」)

 これは一九四六年のテクストですが、Twitterの喧騒を眺めて十年以上経つ身にも、耳に甘いところがあります。

 ただし、ここに類比できる私なりの「思想」や「文学」など、もとを正せば大量消費を前提とする現代の文化産業に創造性を見出しえず、創作にも批評にも殉じることができなかった、凡庸な消費者のニヒリズムにすぎません。

 つまり、私のような性格の悪い大衆は、二十代半ばあたりでオタクとしての矜持を忘れ、もっぱら知性に偏って思想を失い、自己疎外と生活世界の否定に行き着く傾向があるらしいのです。

 前回では知人と私をともに形容し、本稿では私自身に限るところの、同族を非難することでリベラルっぽく見える「オタクエリート」の足元には、こうしただらしなさが潜んでいる事実を、取り急ぎ自己批判させてください。

 

 が、ぼくたちはあらゆる文化価値を享受しうるとしても、その創造のいとなみを、その由つてきたるところをかならずしも理解しえぬのみならず、またそれを理解する必要はない。その理解する必要のないことをはつきりさうといひきらぬために――知らぬ世界を知らぬままに放置する寛容さのないために、ひとびとは知らなければならぬ自己を知りえず、自己のいとなみを完全にはたすことができないのである。のみならず、たがひに相手のいとなみを理解しようとし、また理解したとおもひこむ習慣が、相手をおのれの理解のうちに閉ぢこめてしまひ、その完全ないとなみを妨げる。政治は政治のことばで文学を理解しようとして文学を殺し、文学は文学のことばで政治を理解しようとして政治を殺してしまふ。ぼくたちがぼくたちの近代をかへりみるばあひ今日のあひことばになつてゐる政治と文学との乖離といふことも、この意味においてふたたび考へなほされねばならない。(p.14-15)

 この段落は、「文化産業」と一口に言ったところで、消費文化の猥雑な文脈混淆性を理解し尽くせるとは到底思えず、半端な床屋談義をする暇があったら作品に集中していたい、という我々消費者の忙しない無力さを託して読むことができます。

 さておき、その前に整理しておけば、ここは故郷喪失の不安によって客体の全体を把握せんと急く近代的主体が、全体主義(政治)とロマン的イロニー(文学)に引き裂かれた歴史を踏まえて、なにかを理解するとは自意識の無限後退をある一点で止めること、すなわち自己と対象のパースペクティブを定め、私が世界を納得する仕方(生き方=型)を設定することであると弁える福田の、「誠実が死ではなく、生を志向しうる文学概念」が彫琢される過程として読まれる一節です(p.385-388 「編者解説」)。

 

 結論はかういふことになる。われわれは全体のなかに埋没してゐても自由はない。さりとて全体から遊離し、それを眺めわたす位置に立つても自由はない。前者においては、われわれはただ動物のやうに生きてゐるだけであり、後者においては、われわれは神のやうに認識してゐるだけであります。人間としての自由は、認識しながら同時に生きることに、すなはち全体感に浸る喜びにある。そしてそのためには、判断と生活とを停止させて時空を一定限度に区切る型が必要なのであります。(p.133「民衆の生きかた」)

 当ブログが体現してきたのは、出版業界の世話になって身につけた小利口から、かえってオタク概念に隠喩化される民衆相応の精神の型を喪失したがために、大衆文化という全体のうちに生き方を保つ他者に対する嫉妬に駆られ、戻り得ぬ過去を嘆き続ける人間精神の愚かさにほかなりません。

 私は批評家でも作家でもなく、単なる消費者の立場を貫きます。よって、ある理論によって全体を仮構するのではなく、そもそもは所与の生活世界という全体に対する信頼に形成されていた個人の生き方を取り戻すために、「批判者としての個人の真実は、一度、民衆の生活のために死ななければならない。それは妥協ではありません。さうしなければ、それは生きられないのです。(p.141)」(強調引用者)という福田の言葉を信じて、政治と文学の峻別を改めて強調したいのです。

 

§3

 ぼくはひとつの前提から出発する――政治と文学とは本来相反する方向にむかふべきものであり、たがひにその混同を排しなければならない。そこに共通の目的があるかどうか、またあるとすればそれはなんであるか、そのやうなことを規定する努力はおよそくだらぬことである――ぼくたちがおなじ社会のうちに棲息し、ひとつかまのめしを食つてゐるかぎりは。ぼくはこの連帯感を信ずるがゆゑに、安んじて文学と政治とを反撥せしめてはばからぬのである。[…]政治がきらひだからでもなく、政治を軽蔑するからでもない。[…]それは政治の十全な自己発揮を前提としてゐる。(p.14-15)

 しかし、同じ社会に生きる人間同士の連帯感を支えることで、政治と文学の峻別を保証するべき「善き政治」ほど、我々から失われて久しいものはありません。

 

 ぼくはぼく自身の内部において政治と文学とを截然と区別するやうにつとめてきた。その十年あまりのあひだ、かうしたぼくの心をつねに領してゐたひとつのことばがある。「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや。」(ルカ伝第十五章)[…]天の存在を信じることのできぬぼくはこの比喩をぼくなりに現代ふうに解釈してゐたのである。このことばこそ政治と文学との差異をおそらく人類最初に感取した精神のそれであると、ぼくはさうおもひこんでしまつたのだ。かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのにさうゐない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てゐた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれてゐたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか――イエスはさう反問してゐる。[…]

 

 善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかへしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する。しかもこの犠牲は大多数と進歩との名分のもとにおこなはれるのである。[…]善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなければならない。(p.16-18)

 啓蒙的理念を傲然と人民の内面に押し付ける「悪しき政治」を、気軽にポリコレと類比するのは憚られます。最低限、政党政治の腐敗が派生させた自警団的道徳意識の蔓延とは、無関係でありたいと願うだけです。

 それは例えば、「セカイ系決断主義」という袋小路に陥ったゼロ年代実存論を、ネットのサブカル浮動層=フロートという政治単位に横滑りさせた書物である村上裕一『ネトウヨ化する日本』が、サブカル評論では無論のこと、現在のネット右翼研究ですらほとんど参照されていないように見える状況を踏まえれば、政党政治根腐れを凝視しない文化批評によって「政治と文学」を混同する構えは、明らかに無意味と確信されるためです。

 

 なるほど政治の頽廃期においては、その悪しき政治によつて救はれるのは十匹か二十匹の少数にすぎない。それゆゑに迷へる最後の一匹もまた残余の八十匹か九十匹のうちにまぎれている。ひとびとは悪しき政治に見すてられた九十匹に目くらみ、真に迷へる一匹の所在を見うしなふ。 

 

 […]ぼくたちの文学の薄弱さは、失せたる一匹を自己のうちの最後のぎりぎりのところで見てゐなかつた――いや、そこまで純粋におひこまれることを知らなかつた国民の悲しさであつた。[…]政治が十匹の責任しか負いえぬとすれば、文学は残りの九十匹を背負いこまねばならず、しかもぼくたちの先達はこれを最後の一匹としてあつかはざるをえなかつた。(p.18-19) 

 ここまで引用した九十九匹(政治)と一匹(文学)の区別は、しかし愚民(政治)とエリート(文学)といった、社会階層や人格類型の次元に単純化されてはなりません。福田の政治論は、相対的解決を図る政治=事実の論理から、絶対を問う心情=価値の論理を区別することに貫かれているためです(p.390)。

 よって、この議論はあくまでも、ひとつの全体性=一〇〇匹としての人間精神が抱えた、九十九匹の部分(世俗的な生)と一匹の部分(絶対的な生)を切り分ける精神の政治学として理解される必要があります。

 このような分別の思考が、限りなく同時代人に忘却されている。というより、私自身がまったく直感的に掴み損ねてきた生活者の良識の問題を、見事に言い当てられた気がしたために、読書メモは残したかった次第です。

 

[…]現代の風潮は、その左翼と右翼とのいづれを問はず、社会の名において個人を抹殺しようともくろんでゐる。[…]ぼくは相手を否定せんと企ててゐるのではなく、ただおのれの扼殺される危険を感じてゐるのにすぎない。(p.22-23)

 

政治と文化との一致、社会と個人との融合といふことがぼくたちの理想であること[…]すでに懐疑の余地のない厳然たる事実である。問題はその方法である。[…]ぼくは両者の完全な一致を夢見るがゆゑに、その截然たる区別を主張する。乖離でもなく、相互否定でもない。両者がそれぞれ他の存在と方法とを是認し尊重してのうへで、それぞれの場にゐることをねがふのである。(p.29)

 

 文学とは阿片である――この二十世紀において、それは宗教以上に阿片である。阿片であることに文学はなんで自卑を感ずることがあらうか。[…]阿片といふことがたとへ文学の謙遜であるにしても、その阿片たる役割すらはたしえぬもののいかにおほきことか。[…]文学は――すくなくともその理想は、ぼくたちのうちの個人に対して、百匹のうちの失はれたる一匹に対して、一服の阿片たる役割をはたすことにある。(p.29-30)

 

 本来の指示対象である近代日本文学と比較するまでもなく、現今の大衆文化の大方が「一服の阿片」にも満たぬものと感じられるのであれば、阿片を阿片として正しく先鋭化し、それを肯定しうる覚悟と内的論理を保守する活動は、「文学」的な思考しかできない人間として、積極的に引き受けていきたいと考えています。

 以上の文脈に関して、続く論考を紹介する余裕はありません。ただ、政治の自律性を信じたいがためにこそ文化の自律性に踏みとどまる、あえて言った「オタク」的な大衆が生きている筈の暗黙の了解を、こうした文献から捉え返して信頼を置き直せば、「オタクエリート」的な他者憎悪など何程のものでもないことだけは、主張させてください。

 というのも、編者の浜崎氏の表現をなぞれば、「私たちが欲してゐるのは、自己の自由ではない。自己の宿命である」(『人間・この劇的なるもの』)がゆえに、「自己が居るべきところに居るといふ実感」、その「宿命感」だけが人生を支えている事実を、私も受け入れられる齢に達したためです。私の宿命感を託すべき生活世界とは、若年期から親しんだネット文化であること、些末な自尊心が邪魔したところで、覆しようがありません。

 青春の蹉跌と無能な中年の恥辱だけ、教訓として後続に伝えることができれば十分であり、今後は観念的ラディカリズムを抑制した、オタク文化保守のつまらない文章を書くブログになると思われます。

 

§4

 私は極めて受動的にネットの観測範囲を定めることで過剰接続を戒めており、Twitterはフォローしていただいた方と、その周辺を眺めるに留めて、関係のない人間の喧々諤々はなるべく読まないようにしています。

 しかし、前回の記事がまさしく高圧的なTwitter論者を批判する内容だったのもあり、反リベラルの政治態度を取る方の言葉を読む機会が、最近増えています。代表的なものだけでも、歴史学者の吊し上げ批判から小山晃弘氏の闇落ちに至るまで、とてもついていけない目まぐるしさです。

 おそらく小山氏が予見するごとく、「リベラルに失望したリベラル」がひそかに糾合しているらしい新右派の隆盛、つまり反リベラル・反フェミニズムの潮流は今後いよいよ大衆化し、福田の時点で問題化されていた知識人と大衆の反目、あるいは両者の明確な線引きが溶解したために到来した「キリストがいないまま「裁きたい」と言うユダの群れの時代」は、さらに酸鼻を極めると予想されます。

 よって、私ごときがいくら「大衆性と学知の乖離」を生き、それを滑稽と恥辱の表現に置き換えて、既存の政治的対立項をずらすユーモアを意識したところで、政治的な効果など無きに等しく思われています。本稿で政治と文学の峻別を、再確認した所以です。

 

 もちろん、本田透非モテ論が回帰したような「自由恋愛と再生産の両立不可能性」を重視するラディカルな平等主義によって、反自由=反リベラリズムに邁進している小山晃弘氏を見ていると、複雑な思いも去来します。

 大衆の生活実感を理論に組み入れることを拒絶し続けるリベラルの言説は単純に退屈であり、反感以上に諦めが強くあります。むしろ、それを超えて同情すら覚えるかもしれません。徹底した男性論の政治化、いわば「射精の全体主義」をもってリベラルの終焉を宣告する小山氏に対しては、私ですらその苛烈さにたじろぐというのが本音だからです。

 最近の記事では「反フェミニズムを超えた反女性思想によるテロルの急増」が予見されており、ここまで状況が切迫しているとは思いませんでした。こうした動向が市民権を獲得した先には、笙野頼子氏が幻視した「にっほん」と「ウラミズモ」の分断だけが待ち構えているのではないでしょうか。

 事ここに至っては、性的差異を政治化した果ての殺し合いを回避する、寛容の論理を詳らかにすることだけが、一市民にできることだと考えています。

 そのあたり、小山氏が予見している再生産的宗教保守コミュニティの回帰に対して、「倒錯としてのオタク論」を構築する必要があるのでは、という着想があります。同人誌の原稿で、クロソウスキー『生きた貨幣』における倒錯/再生産の対立項から、オタク文化に生きられる自由と放蕩を理論化したところだったので。

 その同人誌が出ないことになってしまい、さしあたりぼんやり生きているため、近況報告に留めた次第です。

マスターベーションの切迫性に関する生活所感

 今年はろくに読書もできないまま茫洋と過ごしているので、息抜きにインターネット生活について少し書かせてください。

 表題で示唆した千葉雅也氏による一連のツイート自体は、「フーコー赤川学氏などの文脈が凝縮したもの」と補足されているのを見て *1 、そのへん掘り下げた今後のお仕事に期待したいな、と素朴な感想を持ちました。

 当該ツイートから派生した政治的な諸問題に関しては、江永泉氏による「千葉雅也さんの2021年1月22日付ツイートに関連する私見[2021.01.28]」が参考になりました。江永氏とは比較になりませんが、私も専門を持たず己が関心に基づいて文献を漁っている半可通ないし一般人の身として、真摯な状況整理と判断されます。

 本稿はこの問題を掘り下げるものではありません。好き嫌いはさておき*2、哲学者の脱構築的な身振りは原則として肯定したいものの、強いてコミットする動機と能力に欠けているためです。

 

 §1

 よって本稿の主旨は、私が本件を認知したきっかけとして、タイムラインに流れてきた以下のツイートを経由したという、かなりどうでもいい個人的な事情を掘り下げていくことにあります。

 ふたつのツイートは、それぞれ「『闇の自己啓発』のギーグ的な無神経さがしんどい」「ポリコレやリベラルを中産階級的と規定して下層からそれを否定するポーズがネットで流行っている」という話題に対する引用リツイートのかたちで、江永氏の記事に対する言及がなされたスレッドです。

 私はまったく好まない、はっきり言って極度に下らない問題構成であり、暇な大学人が社会の下層を理論的に包括するのはさぞ気持ちよかろう、と苦笑せざるを得ませんが、いずれも具体的な議論に発展させるのであれば、場合によっては有効な批評になる可能性がある論点であることは否定しません。
 しかし、ひとつめのツイートに限って言えば、某哲学者=千葉氏の炎上騒ぎを江永氏の前掲記事を介して外部より「見ている」立場から、しかも江永氏の議論をリベラル言説に対するルサンチマンに矮小化した上で、しまいには「社会性の欠如」という粗雑な罵倒を唐突に振りかざすものです。
 自身のいじめ問題という当事者性を繰り込んだ、約3万字ほどの文字数がある江永氏の議論に、安易な要約を許さない性格だけ急ぎ確認しておけば、高橋氏の身振りが「自意識過剰なネットリベラルの陰惨なアイロニーがいよいよ空転している」ような印象を私に与えた事情は、伝わるかと思います *3
 普段であれば、つまらない片言隻句に突っかかる暇はなく、リベラルという概念の曖昧な用法に加担したくもないし、高橋氏も軽口のつもりであろう、と極めて好意的に解釈して受け流すのですが、今回は目に余った次第です。
 

  §2

  超ざっくり、江永氏の記事では追記の部分で明確化されていますが、当該ツイートは千葉氏の意図とは無関係に、身体経験の次元で自慰と生理は全く異なるという素朴実感、ついでその社会的な非対称性に基づいて反発を受けているよう見受けられます。
 私はそうした個別具体的な状況論とは関わりなく、男性の射精の切迫性が超絶ドリブンさせている資本主義と現代文化をすげえ勢いで満喫中、といったところのポルノ中毒者の世界認識とリアリティに内在することでしか物を書けないし、書きたくない人間です。当ブログ全体でその立場は固持しています。
 それは「リベラル」な忖度ではなく、長年の私の内的真理である「端的に女性は神」という、公共の場では完全にブチ抜けた差別でしかない観念を、人文知のパッチワークで塗り固めるアナクロニズムに耽っていたい、という愚劣さに基づくものです。
 
 私のひどい言語使用をどう解釈していただけるかは、観測者の皆様の自由でしかなく、動画を含めて見守っていただき本当にありがたいのですが、耐え難い「誤読」が生じる余地は斥けておきたい、 というのが本稿の企図になります。

 つまり、セクシュアリティの問題に関する社会的な論争を外部から「見ている」立場に基づき、当事者性の強い議論を「リベラルに対するルサンチマン」に矮小化して、しまいには「社会性の欠如」として粗雑に罵倒できるような方には、私の文章は読まれたくない、という本音を分析的に詳らかにしておきたいのです。

 なぜなら、江永氏に対する高橋氏の罵倒は、私のブログにこそ典型的に適用されるべきものだからです。政治的・社会的次元に主体を還元するのであれば、SNSで流通する「オタク」「フェミニズム」「リベラル」概念そのものの粗雑さに反吐を催し、Twitterから退却して切迫性に満ちたオナニー日記を書き続ける私の生の形式こそ、当事者性に居直って杜撰な「政治性」を全て憎悪する限りで、否認すべくもない劣等意識が十全に読み取られる筈です。

 もし私の言説が、「十分に去勢されたペニスだから許す」あるいは「政治ではなく文学の問題」みたいなクソ認識で受容されているのであれば、本気で腹立たしい。私がバタイユに執着する理由は、「科学の人間」「虚構の人間」「政治の人間」といった存在者の分離に先立つ、存在の連続性において内的過剰を語ることで、異性愛規範がそれ自体どうでもよくなるような限界までそれを生き抜く、そのエクリチュールの形式にあります。最近の千葉氏はたまに「今の人類はバタイユからやり直せ」みたいな愚痴を漏らしていますが、全力で同意します。 

 つまり、究極的な私の立場は、社会的発話(政治)とプライベートな性の語り(文学)を切り分ける身振り自体の抑圧性に敵対するものですが、これは各個体のセクシュアリティに徹底的に内在して検討しなければ、やはり無益な水掛け論に終始する問題設定です。

 よって以下は、私が知る限りでの高橋氏の人となりを紹介させていただくことで、この問題を高橋氏の属人的な瑕疵から離陸し、「オタクのセクシュアリティの語り方」の問題として再考します。この作業は副次的に言えば、巷間囁かれてきた「アニメ批評の不在」というトピックを、軽く反証しておく試みでもあります*4

 

  §3

  問題になっている高橋優氏は私と同世代の方で、東大の院で西欧初期中世史(フランク王国史) をやって修士を取っており、私は高卒のクソですが西欧中世ファンなので、共通の知人とお宅にお邪魔させていただいたことが一度あるお付き合いです。

 ネットでの認知に遡ると、2010年頃に私のはてなダイアリーにコメントしてもらって以来、Twitterのアニメファン的なクラスタ領域を共有した過去があり、東大のSF研あたりを母体にした「声ヲタグランプリ」という同人誌で長年アニメレビューを書かれた末、現在はnoteにてアニメ批評の連載をなされています。

 高橋氏自身は「陣地戦にすらならなかった」と漏らしていましたが、そもそも神経症的な長文を書く人間が少ない趣味領域ゆえ、年を取っても深夜アニメについて何かしら書くことを諦めない人間の営為に対して、私は無条件で友情を認めています。

 ただし、オナニー日記に自閉した高卒の目から見た高橋氏のアニメ批評は、ラノベ原作やなろう原作といった一般に低劣とされる作品をも真摯に読解する貴重な姿勢がゆえに、深夜アニメの体験性を象徴的なもの(学知)への素朴な信頼で縫合せんとする振舞いに、一抹の不安を覚えさせるものです。

 深夜アニメの体験性、という表現に、私は「ゼロ年代」のオルタナティブな歴史を含意させています。東浩紀氏の動物化*5にいち早く「第3世代オタクと薬物依存症者に対する誤解と偏見を助長する抑圧性」を指摘したうえで*6、東氏の理論からこぼれ落ちる「声」という残余をめぐって、前述の東大オタク人脈において声優批評*7という理念を打ち出した、夏葉薫氏という人物がいます。

 夏葉氏の影響は高橋氏の思考には言うまでもなく、大学関係者のコミュニティに関心がない私の自閉的な思考に対しても、多大な影響を与えています。というより、オタク概念やアニメ言説に賭けられる、セックスを含めた実存の全体性を、ネット越しの異なる世代や階級のそれであっても受け止められる存在の仕方を、私は夏葉氏を模範として学んだという過去があります。

 そして、夏葉氏が深夜アニメ体験において提示した「声優批評」の理念は、イメージの過剰が極限に達したスペクタクル状況下、DLsiteのASMRや淫語音声で射精している私(達?)にとり、アニメ/ポルノ体験を内在的に思考する際の手がかりとして、今なお検討に値するものですが、それは後論に譲ります。

 文芸批評風の文体でアニメを語る高橋氏のクソ真面目さはそれはそれで好ましいものの、そのスタイルを成立させている私達のキモさ、つまり本稿では夏葉氏に代表させた私達の倒錯性を、しっかり自己分析しておくことは、相互批判に値する政治的な課題と思われるのです。

 

 §4

 ホモソーシャル極まりなく、非常にうんざりする話題を迂遠に説明しましたが、以上の議論を乱暴な言葉で要約すると、「高学歴オタクがメンヘラ的な言説をリベラルな政治性で排除するのであれば、低学歴コンテンツと低学歴オタクの内省を解離的に消費するのは金輪際やめろ」という私の怒りを、ここでは問題にしています。

 というのも、先ほど言及した私と高橋氏との共通の知人もまた、「リベラルな政治性」の雑な規範を内面化したがために、「性にだらしがない公共の敵としてのオタク」という曖昧な観念を肥大させ、他者に対する憎悪に塗れたヘイト言説を繰り返しており、そうした人間に私の言葉が消費されるのは耐えられないためです。

 私を含めた上述の三者に共有されていたものを、「オタクエリート内部のホモソーシャルな倫理観」とでも言っておきましょう。ところで、この倫理観を背後に隠した高橋氏による江永氏への罵倒は、当事者性が強い議論をリベラルな公共性に対するルサンチマンに還元する論理構成を取る限りで、かつて私達が強い反感を抱いた宇野常寛氏の言説に、酷似してはいないでしょうか。

 例えば葛西祝氏のアニメ批評は端的なオタクヘイトの反復ですが、無思考的にリベラルを擁護するアニメ論/オタク論が煮詰まると、かつて惑星開発委員会に向けられた憎悪感情を、なんと当事者自らが他者に投射する傾向にあるらしいのです。

 そうした愚劣さを内在的に克服するべく当ブログは書かれていますが、そのへんの意図が当事者に読み取られず、もっぱら「文学」的に消化されているよう見受けられるので、サブカルチャー経験を神経症的に語るのは、やはり無駄であったと考えています。今回だけははっきり言いますが、お前ら死ぬまでそんなことやってるつもりなの?

 東浩紀氏も『ゲンロン戦記』で過去の仕事のホモソーシャル性を反省しているわけで、男性の射精は「オタク」に隠喩化・共同化する手前で、各人の実存から問う以外にないという大前提だけは、私のブログの特性上、何度でも確認しておきます。ステレオタイプな表象に媒介されながらも、各人の性的幻想とその解釈行為が全く異なるがために、ここまで問題がこじれているという現実を、忘れないでいただきたい*8

 一応付言すると、私のクソ言説は、私が所属する趣味の共同体に向けては、「オタクという狭いアイデンティティを読書で消尽/解消してほしい」というメッセージしか込めていません。私の経験と歴史を記述するために、便宜的にその言葉を使わざるを得ないものの、「リベラル」と同じほど「オタク」という概念自体、早いところ封印したい気持ちに駆られています。*9

 

 以上、定型発達的なシスヘテロ男女や大卒者が形成する社会規範の抑圧性を当事者として問題化しないまま、大学共同体や趣味の共同性にどっぷり浸かった(あるいは単に雑なだけの)アイロニーによって他者を攻撃できる無神経な人間とは今後付き合いたくない、という私の単純な生活上のストレスを表明させていただきました。

 こうした社会的対話の問題は、当事者が忘却しているオタク/サブカル的な来歴を蒸し返してでも指弾しておかなければ、後から来た人間や外部との断絶が広がり続けるばかりです。加えて、「歴史」という認識論的カテゴリー自体が崩壊したような昨今、「自己から逃れるために歴史を書く」フーコー的実践の重要性を、私は改めて感じています。その不可能性を嘆いたり、分離した人間存在に憎悪を振り向ける暇はなく、幼児性に塗れたサブカルチャーに生き続ける以上、実存の内奥に遡行して断片的にでもそれを試さなければ、私は私の存在に耐え難い、という本音も繰り返しておきます。

 雑な政治性の発露によって社会の分断に加担する前に、感覚与件と抽象観念のあいだに開いた無限の深淵で各人が生きている、反省的判断/美的判断の愚劣な無根拠性*10をこそ丁寧に語るべきである。マイナーポリティクスに踏みとどまり、個人的なことを個人的なこととして語ることができない人間に対する軽蔑もまた、千葉氏に首肯せざるを得ない論点です。

 

§5

 以上に具体的に記述した、時代の政治文化や趣味の共同体に対する失望を通過したうえで、私はバタイユ以降の「共同体なき共同体」の理念を生きており、私と感性的条件を共有しない他者の思考を触発しうる実践にしか、すでに関心がありません。

 言い換えれば、私はオタクというアイデンティティを消尽した、最悪のポルノ中毒者という立場から、「主体の欲動の解釈が象徴的なものを介して変容する可能性」を想定して、断絶/対立したかに見えるサブカルチャーハイカルチャーのあいだに、微視的な次元で交流の回路を保っておくべく活動しています。

 この立場に至ったうえで、縮小しきったアニメ趣味をいかに続けるか、をよく考えます。「アニメ-消費者-オタク」という問題構成に留まって、サブカルチャー経験を倫理化-主体化する大衆個人主義の頽廃を知人達に確認した一方で、クリエイターインタビュー周りの仕事は大変だし食えないという経験も通過しており、商業媒体で書く野心すら残っていないためです。

 主客問わず消費者言説に絶望した以上、あとは業界に入るか、クリエイター支援に回る道も検討したいのですが、労働問題にコミットするには社会知が乏しすぎるので、黙って勉強だけしていたい気持ちが強いです。

 

 今期は『回復術士のやり直し』を観ています。監督の方がバタイユやサド、アポリネールをイメージして原作の残虐性を解釈しているらしく、そのためか私のバタイユに関する動画*11を参照いただけたみたいで、嬉しかったです。

 スタッフでいえば柳沢テツヤ大畑晃一ごとうじゅんじあたりが親しみ深く、元請けのティー・エヌ・ケーも『HAND MAID メイ』『あぃまぃみぃ!ストロベリー・エッグ』 『G-onらいだーす』『落語天女おゆい』『京四郎と永遠の空』『精霊使いの剣舞』『sin 七つの大罪』『神田川JET GIRLS』あたりで長年偏愛してきた制作会社です。

 本当はこのへんの作品全てに詳細な感想を書きたいわけですが、全ては無理だし退屈ではない書き方が現状思い浮かばず、趣味を共有する消費者に向けて素朴な感想を書き続けても、結局は上述した数少ない知人であるオタクエリートしか読めず、しかも彼らの自意識を肥大させて他者に実害を発生させる危険性がある以上、するつもりはありません。

 それゆえに、例えば『回復術士』に典型的に見られる解釈困難な「オタク文化の過剰性」を*12ミソジニーと言って済ませるのも、大藪春彦的なハードボイルドへの先祖返りと無難に位置づけるのも*13、私個人の当事者性から擁護するのも、留保せざるを得ない次第です。

 ひとまず、主人公が薬物漬けにされたのち陵辱される描写の徹底性など、確かに乾いた暴力がアポリネールっぽい快活な感触に転じており、男性の脱主体化の欲望を贖ってくれるのはもちろん、それに続く分身、人格の変容、ルサンチマンの肯定といった諸主題もまた、上で批判したような消費者が内面化した近代的主体の自明性を嘲笑う作劇において、素晴らしい心地良さを覚えることだけは、記しておきます。

 

§6

 今さら「マスターベーションの切迫性」という表題についてですが、上述した政治的・社会的諸問題に対する神経症的ストレスが、例えば千葉氏が理論化するようなASDっぽい自己認識を諸主体に要請し、「徹底的に個人に引きこもってから初めて政治とか語りましょうね」という常識が共有された社会になって……いる……よね……? そのはずなのに……異性愛男性は互いの射精を馬鹿にしがちで……話が全く進みませんね……? そのへん恥知らずなナイーブさを発揮しないと……どうでもいい分断が進むばかりですね……? 私が退屈な性の反復を徹底的に肯定するのは……そのへん本気でド鬱に沈んだ過去があり……繰り返し言わないとすぐ忘れられるし……人間存在の「呪われた部分」はオタク文化に対する外部からの攻撃ではなく、むしろその当事者における同族嫌悪というかたちで顕著に呪われ続けているようです……という話として、全ての話題が私の自閉的な「マスターベーションの切迫性」に結び付いている事情を、表現しているに過ぎません……

*1:https://twitter.com/masayachiba/status/1355118685103374345

*2:千葉氏の知の軽快さに対する両義的な気分は否定しませんが、本稿では留保します。2021年3月16日追記:この件について人に感想を訊ねた際、大前提として千葉氏のTwitterの使い方が気に食わない、という倫理的批判に傾いていたのが印象的でした。その方はノーコミットの立場だったのでさておき、私としては「Twitterやってる人類は多かれ少なかれ全員ウザいからそこは問うても詮無い」という立場であり、この点に関しては福尾匠氏の以下のツイートが特に印象に残っています。https://t.co/BsFH5cMj8C

*3:2021年3月10日追記:雑な補足をしておくと、言及されている江永氏の記事に「リベラル」という単語が登場するのは、約3万字のうち僅か3回のみです。一体どこに・誰に対する劣等感を読み取れるのか、素朴に疑問を感じます。また、ここでは高橋氏の暴言に乗っかって「ネットリベラル」という雑な政治的立場を仮定しましたが、この概念から想起されるタイプの言説全般を批判する気はありません。あくまで本稿は、当該ツイートの不愉快さと暴力性だけを問題にしています

*4:2021年3月10日:表現を修正。一応色々あったけど、その成果や質に関しては、私の紹介の仕方を見ればお察しの通り。それでも応援していた界隈ではあったものの、結局グダグダで終わってしまったため、一度人間関係を清算しておきたいというのが、本稿の動機のひとつでした

*5:東氏の語った「オタクと動物のある種の共通性」が、その類稀に便利な隠喩性をもって、オタク当事者の内面に根深い禍根を残した事情と、それと内在的に折り合いをつけるに至った経緯の記述こそ、当ブログをここまで駆動してきたものです。「自慰と生理のある種の共通性」をもって、硬直した思考を挑発する千葉氏の身振りもまた、その種の危険には満ちており、そのフォローに砕心しているのが江永氏の記事かと判断されます。そのうえで私は、うざいならブロックかミュートでええし、最終的には時間に余裕を作ってじっくり著書に向き合う以外にない、という現実だけ証言しておきたい立場です

*6:hentai Japanimation 2002年5月

*7:声優批評入門 - 帰ってきたへんじゃぱSS

*8:2021年3月16日追記:妙な読まれ方がされないよう、一応はっきりさせておくと、例えば巷で繰り返される表現規制問題に関しては、「外圧ある方が変な表現は出てくるし、お気にのポルノが違法化されたら黙ってアングラに潜るだけなので、悪法の個別具体的な批判作業を支持する以外は、基本的にノーコミット」という立場です。そうした論点で他者と争う/結託する切迫性を、実のところ私は持っておらず、どうでもいい友敵の政治やヘイト的な言語使用に付き合う義理もありません。ただ、こうした逃げの振舞いを延々と打たなければやっていられない気持ちだけは、否定せずにおきます

*9:以上の議論は、千葉氏のオタク-ギャル男論を手がかりにゼロ年代批評を再解釈した上で、ドゥルーズからクロソウスキーへと思考の参照軸を移すことを提案する文章として、とある同人誌に3万字ほどの分量で寄稿した内容と関連しています。それと本稿で「オタク論」は卒業したい気持ちです。表に出たらご案内いたします

*10:宮﨑裕助氏の『判断と崇高』をこの前読みました

*11:

*12:監督のコメント、主人公のキャラが理解不能なのでバタイユ『太陽肛門』に頼った事情が端的に明かされていて面白かったです。私達の欲望がフレンチセオリーでしか解釈できない次元に突入した状況に、クリエイターサイドも直面している例証として興味深く思われます

*13:なろう発『回復術士のやり直し』に見る大薮春彦・西村寿行的ハードロマン・リバイバルへの懸念(飯田一史) - 個人 - Yahoo!ニュース

理論への抵抗

モロイ

モロイ

 

 […]要するに私はたいてい闇のなかにいて、世紀のあいだに貯えてきた私の観察も、礼儀作法の土台にいたるまで私を疑わせたので、限られた空間にあってさえ、その闇はなおさら深かったのだ。しかしこんなことやその他もろもろを考えるようになったのは、もう生きるのをやめてからなのだ。崩壊の静けさのなかで、あの長きにわたる混乱した感情を思い出しているが、わが人生とはこの混乱した感情そのもので、それを私は無礼にも、神がわれわれを審判すると言われるように審判するのだ。崩壊とは人生そのものでもある、その通り、その通り、うんざりするよ、しかしなかなか全壊というところまでいくものじゃない。 (p.37)

 

 最近は津堅信之『京アニ事件』に目を通し、開口一番「意外と世間に京アニが知られてなくて驚いた」みたいな文言、どういう寝言かとページを捲れば、言うもやむない愚劣なマスコミとの応対が記録されており、こんな次元で「研究者」の「社会的責任」を取らされてスッカラカンな新書を出すことになった筆者に同情するよか、あらためて「世間様」という実在しないクソ観念と縁を切りたくなりました。

 底辺アニメファンとしての我が身を振り返れば、ブランディング戦略の露骨なジブリ京都アニメーションのようなスタジオとは最初から縁がなく、それ以上に20世紀このかた大量死という悪の問題は個人の責任(ましてある文化集団のアイデンティティ)において思考可能な範疇を超えており、自分には一切の施す処置も動機もないはずが、日常言語にこびりついた「オタク」という特権的シニフィアンが思考を掠めた瞬間から、「同族」と自分に対する曖昧な怒りと無力感が蘇り、今なお目の前が真っ暗になります。

 具体的には何も言いませんが、上の世代の某オタク系ライターによる馬鹿な発言がTwitterで目に入ってしまった時にはなおさら、こんな業界と関係を持ちたくなかったという後悔、こういう人々に代理-表象されるアニメファンとして生きたくないという怒りが湧き、アニメ視聴を個人的に趣味として続けること自体、やめるべきかと悩んでいます。
 
 
 そもそも「オタク」「アニメファン」として自己表象可能な私のアイデンティティは、文化的・金銭的貧困にあった十代後半から、政治的文脈を捨象すれば幾分以上にプチブル的な岡田斗司夫以来のおたく教養主義を(『げんしけん』あたりのクリシェを経由して)無自覚に内面化し、放送中のテレビアニメ作品を可能な限り全て観る営為に没入していたところ、遅まき『らきすた』などの京アニ作品が騒がれ(他の多くの作品が黙殺され)始めた時期に「旧来のおたく的理念-理論と歴史的状況の齟齬」が強く自覚され、狭い文化領域で自分がその矛盾に極度に引き裂かれた偶然に、ある歴史的主体としての使命感(!)が滑稽にも芽生えてしまった事情に原体験を持ちます。
 
 おおよそエヴァ以降の制作委員会方式による本数の増加と動画サイトの普及を背景に、(少なくとも2010年代までのコンテンツ産業では)コミュニケーションツールとして最も先鋭化した文化領域において、よりにも考えるべきではなかった「個人の思考の孤塁を守ること」、「周縁的なものの擁護」、「語られないものをいかに意味付けるか」といった問題系に(大衆文化に限らない人間的事象全般に関して)固執する人格を形成してしまい、ジャンク極まる倒錯した「文化的マイノリティ」として生きてきたことになります。
 
 振り返れば逆張り一辺倒の人間で、アニメというメディア以上に「一人で生きること」そのものが私にとって重要であったことは整理がついていますから、以上の厄介なアイデンティティをいかに祓えるかが今後の課題なのですが、味のしなくなったガムを潔く吐き捨てるべきか*1、あるいはモロイの小石のようにしゃぶり続ける無為を肯うべきか、依然踏ん切りがついていないのはご覧の通りです。

 

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

  • 作者:松永 伸司
  • 発売日: 2018/10/20
  • メディア: 単行本
 
 
 ところで、自分のアイデンティティと大きくは関連しなかった、もうひとつの大衆文化のコアであるビデオゲーム全般は、アニメと違ってその消費行動を問い返す必然性を持たないこと、白状しなければなりません。

 小中学時代のPS2を青春としてコンシューマに徐々に飽き、時折フリーゲームを漁る以外はSteamの積みを崩すのがメインで、ソーシャルゲームの終わりなき荒野とも適度に付き合っている凡庸な宙吊りの現状をあえて記述しないのは、いずれもテレビアニメと比較すれば 1.レビューを含めた批評的営為が十分成立していること*2、2.動物的な言説が奇妙な権威を持ちづらいこと*3、3.作品がもたらす快楽の意味と文脈をジャンル区分などによって整理しやすいこと*4、などのもっともらしい「書かない理由」がぱっと思い浮かびます。

 もちろん、これは「書かざるを得ない理由」が無かった凡庸な消費者の無駄口に過ぎず、自分もある特定の文脈(VRエロゲやアイマス)ではゲームの快楽に存在の深淵を蝕まれているものの、それらは「アニメ」「ゲーム」概念では汲み尽くせない実存に関わることは、再確認させてください。
 
 そうした不真面目さを前提に、数多いゲームスタディーズ的な出版物をスルーしながら、クリアカットな概念整理が目指された『ビデオゲームの美学』にだけ目を通してみた感想としては、「表象の一種としてのフィクションの固有性は、その表象の対象が表象と同時に作り出されているという点にある」(p.125)といった表現が興味深く、また「ビデオゲームのゲームメカニクスの現実化は、非規範性」(p.197)と「自動化されているという特徴を持つ」(p.198)など、ゲームの「語る必要のなさ」を支えている融通無碍な快楽の構造を明確化してくれる記述も楽しめました。
 
 ただ、本書の理論的性格に実践的な含みを持たせるために、モーガン・ラック以来の「ゲーマーのジレンマ」を紹介したパート(p.284-286)では、バーチャル殺人とバーチャル・ペドフィリアが安易に(具体的な概念規定もなく)併置され、後者は(無前提に)ゲーマーの直観において道徳的に許容不可能である、と論じられているのが引っかかりました。
 機械翻訳で雑に見た感じ、本書ではなく引用元*5の問題ですが、「原則的に作品や文化のあり方に関する規範的な言明を避け」た(p.315)本書において、明らかに外在的な道徳規範を「ゲーマーの直観」に綯い交ぜたこの議論には、「〈標準的なプレイヤー〉という概念や、それが持つとされる直観、あるいはそのコミュニケーションの実践についての検証が不十分」なまま「それらを明白な社会的事実として前提したうえで議論を進めている」(p.108-109)本書の欠点が、強く露呈した印象があります。
 
  『プレイヤーはどこへ行くのか』などの書物が「批評」を僭称する以上*6分析哲学の伝統から概念整理を行うこと自体は有益と思われますが、例えばナンバユウキ氏のVtuber論などを含め、分析美学による大衆文化へのアプローチ全般に対しては、「潔癖な方法論的一貫性の裏に無神経な規範的価値付けを隠蔽している」ような居心地悪さが拭えていません。
 
「赤」の誘惑―フィクション論序説

「赤」の誘惑―フィクション論序説

  • 作者:蓮實 重彦
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本
 
[…]実際、この二人[ドリット・コーンとジョン・R・サール]は「混沌として退嬰的な言語使用」を回避するという意図の実現のために、思考すべき対象にまつわる雑多なものをことごとく排除するという方法論的な潔癖さを共有している。その潔癖さは、しかし、それぞれの専攻領域にその思考を限定することで、その内部で保証されているにすぎない文脈の論理的な一貫性を、あたかも知的な誠実さであるかのように錯覚させることにしか貢献することがない。
 その方法論的な潔癖さの限界は、ことによると、分析の対象としてのフィクションそのものが、その本質において「混沌として退嬰的な」現実なのかも知れないという疑念を二人が一瞬たりともいだいてはいないところに露呈されている。(p.54)

 

 一文に詰め込む文体のせいか、たまに蓮實氏の影響を勘繰られるのですが、言いたいことの多さを常識的な文字数に収めるせめてもの配慮に過ぎず、そういえば全然読んだことがない疚しさに駆られて急ぎ手に取ったところ、まさしく英米系の分析哲学者によるフィクション論のはしたなさを睨んだ書物だったので、今さら胸がすく思いをしました。

 無邪気に読むと危険なのは承知ながら、「フィクションをめぐる理論的な言説は、その寡黙さが誘発する饒舌からいっこうに撤退する気配を示さないばかりか、それぞれに専攻領域にふさわしいその語彙の定義を無限に併置してゆくことにいささかの屈辱感もおぼえてはいない。[…]ここで問題となるのは、おそらく、理論的な言説をになおうとする主体における語彙論的な羞恥心の有無である。実際、知的なはにかみとともにある種の語彙を自粛しないかぎり、フィクションはいつになろうと視界に浮上してくれまいし、思考に有意義な刺激をもたらすこともまずないだろう。」(p.56)といった指摘は、フィクションと同じほどに無数の学知と出版物も「混沌として退嬰的」である現実を再確認させてくれます*7

 もちろん、現代人に失われた正しくブルジョワ的な精神の余裕に基づいて語られる「語彙論的な羞恥」など自分も持ち合わせてはおらず、理論的把握に駆られる人間はフィクションの曖昧さに見捨てられかねないという指摘の痛快さすら、「年を取ってもアニメを観続けられるかどうか」という私自身の不安を、理論家に投射しているに過ぎません。 

 

オックスフォード哲学のなかで鍛えられたとはいえ、私はこの学派に与したことは一度もない。 […]この学派に哲学という概念があてはまるとは、どうしても思えなかった[…]この哲学のかなりの部分が面と向かっての議論で占められていたという事情もあって、頭の回転の速さや公開討論の訓練にはなったのだが、思慮深くてもすぐには行動に出ない者には向かないという欠点もつきまとった。[…]オックスフォード哲学について私が何よりも批判したいと思うのは、この学派の実践者は頭の回転の速さや如才なさこそ鍛えられるものの、深く掘り下げることは妨げられるという点である。[…]哲学の主題を言語的なものだとする見解を本気で信じる者がいることを私はまったく理解できなかった。しかも、この見解は、さまざまな形態をとるオックスフォード哲学のいずれにも共通していたのである。(p.62-63)

 

 ざっくり、論理実証主義-分析哲学と続く40年代以降の流れが、ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』の倫理的領域に関する沈黙=逆説的積極性を継承せず、存在論的問題を命題の解釈にまつわる意味論的次元に還元してしまった*8、という東浩紀氏の整理がどこまで厳密なのかを判断する能力はありませんが、実感には強く合致します。

 49~55年までオースティン存命のオックスフォード大学に在籍し、自らの哲学的関心を満たさない日常言語学派の流行を執拗に批判したブライアン・マギーの書物にも、高卒なりに色々と納得いくところがありました。

 議論を重視する(らしい)分析哲学の意味論的な明晰さが引きこもりの陰湿な思考に合わないのは当然かもしれませんが、加えて、昔どこかで東浩紀氏が漏らしていた表現をうろ覚えで借りると、「オタク論はオタク文化の過剰性に比肩していない」(オタクコンテンツよりも面白いオタク理論が無い)という決定的な困難の歴史を、特に分析系の大衆文化理論は閑却する傾向にある気がします*9

  ちなみに自分はウィトゲンシュタインも、哲学的草稿の横に戦時下オナニー日記を綴った否定神学者として読むほうが性に合います*10

 

ルソーと方法

ルソーと方法

  • 作者:淵田 仁
  • 発売日: 2019/09/26
  • メディア: 単行本
 

私は決して議論をいたしません。と申しますのも、各々の人間は何においてもその人なりの推論する方法[sa manière de raisonner]を持っており、その方法は各人以外の何者にもまったく良いものではない、ということを私は確信しているからです。

(Rousseau à M. I'Abbé de Cardondelet, le 4 mars 1764)

 
 18世紀フランスの認識論を基礎づけたコンディヤックの「分析的方法 méthode analytique」とは、経験から得た観念を分解/再構成する推論の循環的連鎖を辿るものであり、実質的には「〈言語は分析的方法それ自体である〉」(p.62)とすら主張しながらも、あらゆる知識を経験に依存する経験論が少なくとも一つの原理をアプリオリに承認しなければならないジレンマゆえに、ひとつのシニフィエ(観念)の上で複数のシニフィアン(表現)が横滑りしていく運動=(観念の)自同性原理に新たな明証性が求められた傍ら、感覚と抽象観念のあいだに「無限の深淵」を見るルソーの全面的懐疑は、自らが批判する「分析的方法」をあえて読者に要求するという最大の皮肉とも言える仕方で(能動的な再構成の素材として)自らの生を全て語った『告白』に結実し、啓蒙の知の理論的破綻を身をもって示してみせたという読解には、めちゃくちゃ刺激を受けました。
 実際のところ、自分の脳味噌に「推論」「分析」「方法」(ましてや「理論」…)と呼べるシナプスなど備わっているのだろうか、という疑念を拭えない自分のような人間には広く薦めたい一冊で、ルソーにあやかりたいものだと思いましたが、「全てを語ることの不可能性」を理論でなしに実践するのは大変きつく、実際赤裸のつもりでも人間書きたいことしか書けず、本当に書きあぐねることは虚構の本質的な曖昧さに託すしかない、という事情すら、いよいよ誤魔化せなくなっています。

 

有限責任会社〈新装版〉(叢書・ウニベルシタス)

有限責任会社〈新装版〉(叢書・ウニベルシタス)

  • 作者:J.デリダ
  • 発売日: 2020/08/26
  • メディア: 単行本
 

[…]私は、スピーチ・アクトの理論家が、単純かつ直接に道徳的教訓をわれわれに述べ立てているだけではないか、真面目になりなさい、隠喩や省略を避けなさいとわれわれに言いつけているだけではないか、などと彼らを疑ったことは決してありません。しかし、言語に書き込まれたある種の倫理性――そしてこの倫理性は一つの形而上学です(といっても私のこうした定義にはいかなる侮蔑も含まれてはいません)――を分析するなかで、しばしば彼らは、それをイデア的な純粋性において記述することに自足してしまい、所与の倫理によって与えられた倫理的諸条件を再生産しているのです。彼らは、こうした所与の倫理であれ、もう一つの他なる倫理であれ、あるいは倫理、法=権利、政治の西洋的概念に応じないような法であれ、倫理一般の、同じように還元不可能な他の諸条件を排除し、無視し、周縁=余白に追いやっています。(p.264)

 私がここでサールの例の後にハーバーマスの例について強調するのは、[…]私が躊躇なしに世界的および歴史的と形容する情勢において不幸にも典型的な――かつ政治的にも非常に重大な――ある一つの状況を強調するためです。この情勢は、その射程の拡がりをいくら強調してもしすぎることはないし、いくつもの真面目な分析に値すると言ってよいものです。至るところで、とりわけ合衆国とヨーロッパにおいて、コミュニケーションの、対話の、合意の、一義性や透明性の哲学者、理論家、イデオローグを自称する者たちが、証拠、討議、交換についての古典的倫理を絶えず喚起すると主張していながら、彼らこそきわめて頻繁に、注意深く他者を読み他者に耳を傾けることなく済ませるのであり、また性急さや独断主義を発揮しながら、文献学や解釈の基本的な規則をもはや尊重することもなく、科学とおしゃべりを混同するのであり、それはあたかも彼らがコミュニケーションを嗜好してはいない、あるいはむしろ結局のところコミュニケーションを恐れているかのようなのです。(p.338)

 

 大陸系と分析系の対話のムズさ、といえば本書で、なんとなく苦手でデリダは初めて通読しましたが、自分ごときが抱く分析系(本書ではオースティン-サールの言語行為論)への不満など全部言い尽くされており、食わず嫌いはよくないと思った一冊でした。

 上の引用を現在の卑近な文脈に、例えば「フロイトラカンも読まないでポルノ批判やポリコレ談義に熱中する社会派連中」に当てはめたくなる誘惑もありますが、PC派と反PC派のパワーバランスを精確に認識できるはずもないので措くとして、 少なくとも、「言説のあらゆる戦略的方策、[…]あらゆる方法論的秩序は、形而上学に関する多かれ少なかれ明白な決定を含んでいる。[…]形而上学的決定が確立され、潜在化し、隠蔽されればされるほど、ますます秩序が、そして静寂が、方法論の技術的性格を支配する」(p.199)という指摘には、我が意を得たりの感がありました。

 言語行為の意図/志向性を十全に飽和させない、自己現前を不可能にする本質的なエクリチュールの残余/不在をひたすら強調するデリダの身振りが、むしろ素朴に凄まじい自己現前として衆目に映ってしまうのが本書の萌えポイントと判断され、二値的論理を脱臼するのも生半可な生き方ではない、と他人事ならぬ重さでした。

 

理論への抵抗

理論への抵抗

 

修辞的読みは、理論においてはつねに、すべてのモデルを終焉させる柔軟な理論的、弁証法的モデルであり、それ自身の欠陥のなかに、対象指示的、記号論的、文法的、遂行的、論理的その他すべての読むことを回避する欠陥のあるモデルを内包しているのである。それは理論であると同時に理論ではない、言わば理論の不可能性を示す普遍理論なのである。しかし、それが理論であるかぎりは、すなわち教授可能であり、一般化可能であり、非常に体系化されやすい分だけ、他の種類の読みと同様に、それ自身が唱導する読みを回避し、それに抵抗しているのである。何ものも理論に対する抵抗を克服することはできない。なぜならば、理論自体がこの抵抗なのだからである。(p.54-55)

 
 ヴラド・ゴズィッチの序文に、古代ギリシャの語源に遡る理論(θεωρια テオーリア)と知覚(Αίσθηση エステーシス)の対立項に関する話があり、テオーロイ θεωροίという使節に結び付いた前者の「語のさす見る行為、通覧する行為が[…]重要な社会的帰結をともなうきわめて公的な行為」を意味したのに対し、後者は「女子供や奴隷にも[…]可能であるが、そうした知覚は社会的な地位をもっていなかった」(p.12-13)とされています。
 
 自分が主にサブカル評論に感じてきた、社会を担う知識人に軟な理論で整理されると、私秘的な知覚そのものが踏みにじられるような抵抗感とは、こうした構造に遡ると思われ、それでも理論から逃れられないのは、「言語そのものに理論が内在する」という呪いのせいであるらしい、と整理がついた初ド・マンでした。
 専業ライターとしての反動もあって、「個人的な文章を分かりやすく書くつもりは一切無い」と腹を括った人間なので、「社会派」「理論家」に対するルサンチマンを処理するためには、すべての本を新刊書のように読むこと*11、はしたなくも「読みの根源性」を生きるしかない、という事情があります。
 

 […]少なからぬリベラル派が言うように、ポルノグラフィーにまつわる道徳的問題は、ポルノグラフィーが私秘性の最後の砦を侵すということである。俳優の観点からは滑稽なことだ。[…]観客の観点からは脅威的である。ポルノグラフィーは私秘性の最後の証である度合いが[俳優にとってよりも]より大きい。ポルノ映画の観客たちは互いの必要性をより尊重している。そして、ひとりひとりの観客が他の観客が考えているはずのことを知悉しているのにもかかわらず、それが自分の私秘性を損なうとは誰も考えない。[…]そのような経験がそこではどれほど正確で適切であっても、多くの人がまじめな芸術とも現実の性愛とも共通するものを取り去ったポルノ映画を見る機会しかもたないという事実は、社会による私秘性の侵犯と強制[という事実]を暴き出している。(p.82)

 

 英米哲学嫌いを標榜するだけでは詮無いので、オックスフォード学派の第二世代に分類されるらしいカヴェルの映画論は印象深かったことも記しておきます。

 自分が産湯を浸かった深夜アニメの「ソフトポルノ性」の(形相的な)ご先祖様を、あえて映画に見出すとすればスクリューボール・コメディに行き着くので、最近は普通にハワード・ホークスなどが楽しく、まったくアニメを観れずにいます。まるで、ハリウッド黄金期とその終焉を通過するうちに、自分と映画との自然な関係が損なわれ、「映画=世界との繋がりが失われてしまった」カヴェルの哀惜を、倒錯的に追体験しているかのようです。

 もちろんそれは、「いま、快楽の能力を自慢することは、かつて神妙ぶったまじめさが人を罠にかけた以上に、信心家ぶることであり、[…]現代の偽善である」(p.182)ような快楽主義の時代にあってなお、ジャンクポルノの快楽やテクノロジーと合一する目暈ばかりを特権的に記述せざるを得ない、自己に対する嫌悪に発しています。

 これと関連して、私が「百合」概念のイデオロギー性を嫌いながらも批判できないのは、「映画がわれわれを世界から不在化することによって世界を現前化させることは、われわれの生存の段階についてすでに真実であることを確認しているにすぎ」ず、「映画が世界を変位させることは、世界からのわれわれのまえもっての疎外の確認であり、[…]映画において獲得された「現実感」は、その現実、それに対してわれわれがすでに距離を感じているような現実の感触」(p.320-321)であること、つまりは世界=映像と観客の関係に前もって孕まれた断絶は、すでにカヴェルの時点で明白に感受されていた存在論的な悲惨であるためです。

 

 

 映画、音楽、漫画などは、自分が強調するまでもなく記述困難な崇高さがドシドシ見出されるからこそ、アイデンティティの次元で語る必然性があった(語りやすかった)アニメに執着していたに過ぎませんから、別の生き方が作れるまでは、YouTubeにクソ動画だけ上げながら生きるつもりです。

 書かれないことをやめないもの=不可能なものにしか関心がない人間でも、詮無いお喋りを続けて現存在の宙吊りに留まることでしか「私」を保持しえない以上は*12、自らの生の凡庸な糞尿性に垣間見える、何か時代精神破局としか言えないもの、ある潜在性に対する感性的確信を譲歩せずに留め置くために、本の話だけは伸び伸びとしていきたい気持ちがあります。

*1:オタクコンテンツのポップネスに対する特殊な転移にまつわる id:lesamantsdutokyo氏の表現が好きなので拝借しました

*2:自分はアニメに関する公的な象徴秩序のほとんど全てが気に食わないキチガイなので、これは隣の芝生が青く見えるということに過ぎないかもしれません

*3:Steamのレビュー欄はわりと普通に機能しているけど、Google Play Storeのソシャゲのレビュー欄はなんかすごい、人類は「運営」に気持ち良く飼い慣らされることをここまで渇望しているのか、みたいな話で、消費者至上主義が各プラットフォームで平和裏に分散処理されているような感覚を指しています

*4:もちろん「日常系」「セカイ系」などのジャンル概念に自らの生を蹂躙されたという根源的なルサンチマンを抱いている自分からは隣の芝生が

*5:Luck,Morgan. 2009. "The gamer’s dilemma: An analysis of the arguments for the moral distinction between virtual murder and virtual paedophilia"

*6:『神、さもなくば残念』の頃から相も変わらず、何の内的必然性も示さず艦娘を上っ面なハイデガー概念で語る小森健太朗氏の無邪気さや、現実の虚しさとゲームの虚しさをいとも容易く重ね合わせるラブライブSF作家の浅薄なニヒリズムには、耐え難いものを感じました。『ゼロ年代の想像力』に対する解毒剤として『社会は存在しない』は面白い本でしたが、限界研の文章はもう読まないと思います

*7:サブカルチャーに関する「最新」の「理論」や「学知」の氾濫に対して、二流大学人による大衆搾取、という嫌味は言いたくないので、本稿を書いています。正直言えば、20世紀までの書物だけでも暇は潰れるので、理論の氾濫には付き合いかねています

*8:東浩紀存在論的、郵便的』p.229参照

*9:関係ありませんが、社会学の方面から「オタク論の不可能性」を改めて跡付けるような力技の博士論文、王 屶瀟「オタク的なアイデンティティと欲望」は、ガチャガチャしていて面白かったです

*10:星川啓慈『増補 宗教者ウィトゲンシュタイン』

*11:「相手は大物だ、などと考えては駄目。絶対に、そんなことは考えないように。何も考えてはならない。本文を手に取る。余計なことは考えない。これはホメロスだ。史上最大の文豪だ。最古の文豪だ。守護聖人だ。父で万能の巨匠だ。そして何よりも、かつて世界に生まれたなかで最も偉大なもの、すなわち親しみやすい表現を極めた真の巨匠だ。そんなことは考えないように。本文を手に取る。そして、あなたと本文のあいだに何も介在させないようにしなさい。何がどうあろうと記憶だけは介在させないようにしなさい。これだけは言わせてもらいたいし、ムーサ全員のなかでも私だからこそ、あなたにこの話をする権利があるはずだから言っておくけど、あなたと本文のあいだに、一切の「歴史」を介在させないようにしなさい。それからもう一つ、これも言わせてもらいたいから言っておくけど、本文とあなたのあいだに、ある意味で生まれがちな賞賛と、敬意とを一切介在させないようにしなさい。本文を手に取りなさい。エミール=ポール社から先週出たばかりの一冊を手に取ったつもりで読みなさい。一切の干渉を、一切の準備を排し、一切の儀礼と、一切の追加を排除しなさい。そういう余計な配慮は正真正銘の改竄につながるから。一つひとつの「歌」は、一つひとつの「歌章」は、半月に一度、週に一度あなたが出す「手帖」になぞらえるなら、出たばかりの号のつもりで読みなさい。最新刊のつもりで読みなさい。この、書籍商の業界用語はわざと使ってみた。慎重にならなくていいと言うために。期待するなと言うために。鈍感になるなと言うために。こうして曇りのとれた目を見開くだけで、すぐに見えてくるものがある。」 シャルル・ペギー『クリオ 歴史と異教的魂の対話』p.310

*12:ベルクソンの逆円錐モデルと2つの縮約から出発し、脳科学精神病理学臨床哲学の知見を絡めながら、物質/実在から記憶/表象が立ち上がる際に影絵のように成立する私性/同一性について考察された兼本浩祐『なぜ私は一続きの私であるのか ベルクソン・ドゥルーズ・精神病理』は、物来たりて我を照らす=カント的実体の成立から反照されるように「私」が立ち現れて持続するという主体理解から、面前他者との同期的了解=世間のお喋りと曖昧さへの宙吊り=ハイデガー的現存在への頽落そのものに「私」成立の重大な契機を見出す議論に、染み入るものがありました

7月雑記(政治と恥辱)

 
 最近、加速主義周りの文章を少し読む機会がありました。日本で話題になった18年当時は金が無く鬱だったので、気分には合致したものの、今落ち着くと「Exit」というフレーズ以外に乗れる論点は見当たらず、情報摂取も作品受容も減速著しい傾向にあります。
 
 それでも、マーク・フィッシャーの「ヴァンパイア城からの脱出」*1が端的に示した「Twitterのリベラル左派だめっぽい」問題の重さはコロナ騒動のあれこれで改めて実感されており、都知事選の虚無にも言葉なき近頃ゆえ、全く勉強してこなかった政治思想を表層だけでも撫でる動機にはなりました。
 
 
 でかい話をする前に、自分が置かれた具体的なしょぼい政治的情況を簡単にまとめておきます。
 
 人生の要所要所で不思議と高遠るいファンに救われてきた人間なので、周囲に残った数少ないオタ知人は基本的にアングラ性を保持しながらの穏健な庶民良識派、ネット政治では炎上シーンに介入するよか静かに愚痴り、Twitterでは啓蒙不可能な後続と議会政治の腐敗を睨むのに忙しく、その結果として「政治的生の理論的洗練」も「ドメスティックなオタ文脈の思想的深化」も長らく停滞したような、趣味の共同性を生きています。
 
 退屈を覚えたところでむやみに人間関係を広げる歳でもなく、まして運動にも論争にも批評にも能がないため、せめて原理的な資本主義批判、戦後民主主義批判を勉強しながら、「SNSからExitした場所で政治的思考を再構築する」ことの価値だけ書き留めておきたい立場です。
 
 
 
ダーク・ドゥルーズ

ダーク・ドゥルーズ

 

  主体性は恥ずべきものである――「主体化をうながす要因として嘆きは高揚感と同じくらい重要なのです」。主体性は、時代と妥協することで醸成された「混成的な感情」の種から成長してきた。生き残って今もおめおめと生きているという恥、それが他者の身の上に降りかかってしまったという恥、他者がそんなことをなしてしまったという恥、そしてそれを防ぐことができなかったという恥…。[…]しかし、実際のところ、恥辱としての主体は派生物でしかない。[…]それは「〈可視的なもの〉の塵のなかを舞う微粒子であり、匿名性のつぶやきのなかに置かれた可動性の場」のようなものである。もちろん、事態がこうであっても、自らの恥辱に固執するのを抑えることができない者もいるだろう。だから、ドゥルーズアイデンティティ・ポリティックスに対してはただ嘲笑するだけなのだ――「いまだに「私はかくかくしかじかの者だ」と思い込んでいる人たちに対抗しなければならない…。とっておきの体験とかいう論旨は劣悪な反動の論旨なんだよ」。

(p.54-55 「存在の絶滅」)

 
 近視眼的にオタの立場から「反リベラル」を口にすれば、表現の自由戦士に取り込まれるだけですから*2、それとは異なる抵抗の仕方を考えたかったところに、ニック・ランド『暗黒の啓蒙書』解説(p.268-9)で訳者の方が「せめてこれぐらい尖れよ」的に触れていた、米国のリベラルな反戦運動の挫折と不可視委員会の影響を背負ったアンドリュー・カルプの書は刺激的でした。
 
 自閉と疲労に凝り固まった身体ゆえ、街路に繰り出すタイプの反抗は今後もできそうにない一方で、一時的自律ゾーンのようなインターネットラディカリズムにも希望が持てない状況下、「繋がり至上主義」を睥睨しながら逃走、切断、共謀、野蛮人、不透明性、非対称性を対置する、抑制的かつ非身体的に革命の夢を留め置く本書は、その乾ききった陰鬱さに染みるところがありました。
 
 人間本性を変形させる残酷の情動*3の構成はネットではむずそうですが、せめて抱えた「破壊と死を多方向に減算中継する」*4ように物を書きたくは思われます。
 
 
 
改訂版 全共闘以後

改訂版 全共闘以後

  • 作者:外山恒一
  • 発売日: 2018/12/16
  • メディア: 単行本
 

  […]欧米でのポストモダン論議が60年代末の学生反乱をポジティヴに受け継ぐものとしておこなわれたのに対し、日本でのそれはむしろ正反対の性質を帯びていた。欧米では”68年”を肯定的に評価する文脈を持ったポストモダン思想は、日本では”68年”(全共闘運動)を否定し排撃するための道具として利用されたのである。

(「序章  ”68年”という前史 1.通史の不在)

 
 2010年代は政治の時代、と巷間雑駁に言われる際、「オタク的主体性と政治・思想的言説の関係が捻れまくった特殊日本的な土壌」があまり問題化されないどころか、もはや解決不可能な所与であるかのように、暗黙裡に議論から切断される傾向に引っかかりを覚えてきました。
 この背景にはやはり、「政治の忌避と全共闘世代への敵意を新人類世代と共有するポスト新人類世代の例えば文化体験は、オタク的なるもので一色に染め上げられており、したがってオタク文化の変遷を軸に80年代史や90年代史を記述し、80年代半ば以降のマンガやアニメやゲームに関する瑣末なあれこれについて、何か自らの”世代”にとって重大な問題であるかのように語り散ら」した00年代批評の功罪があり、自分も依然その圏域に魂を縛られたままです。
 家の近所に前進社があったこと以外、全共闘的なものとの接触が一切なかった高卒なので、外山氏周辺の仕事も憧憬混じりに眺めているに過ぎませんが、「オタ大衆やリベラル派やクリエイタークラスの声ばかりでかいSNS政治は現実の矛盾を覆うだけ」という現状認識において、東浩紀氏と外山恒一氏という一見正反対な思想家の意見が合致した対談は印象深く、我が意を得たりの感すらありました*5
 オタクというアイデンティティを保持したまま政治的表象を振りかざす同時代のネット論争に、ほとんど存在論的なまでの「恥辱」を感じて引き篭もってきた人間ゆえ、同一性を殺す読書は続けたい一方で、最近は、わが思春期の揺籃たる「00年代的なもの」「オタク的なるもの」を如何に変形しうるのか、また、自分のようなロートルオタクの「主体性」を広く規定しているであろうこの「恥辱」を、捨てるとは言わずとも如何に宙吊りにできるのか、という問題意識も明確になっています。
 
 
 
新版 テロルの現象学――観念批判論序説

新版 テロルの現象学――観念批判論序説

  • 作者:笠井 潔
  • 発売日: 2013/01/31
  • メディア: 単行本
 
 アニメをはじめ日本のサブカルチャーを偏愛する諸外国の少数派の若者には、ポストフォーディズムとコントロール権力の例外社会や新自由主義国家に不全感を覚えているタイプが多い。この点からすればハルヒなどはグローバリズムへの文化的抵抗として、欧米や旧社会主義国発展途上国の若者に受容されている。日本のサブカルチャーが68年のカウンターカルチャーの記憶を、意識的無意識的あるいは直接的間接的に継承しているからだろう。(p.457)
[…]世界史の中間的過渡期に規定され動物のユートピアを無自覚にも礼賛したゼロ年代批評とは異なる観点から、68年の文化的闘争の持続としてアニメやゲームを検証する作業は依然として残されている。(p.459)
 
 なにしろ、切迫感あふれる内在的テロリズム批判を重厚長大積み重ねた果てに、68年ラディカリズムの帰結と継続を涼宮ハルヒに見出してしまったマルクス葬送派のこの大著こそ、山形浩生氏の書評が示すとおりの壮絶なガッカリ感において、「我々大衆のだらしなさを無媒介に肯定することには何か破滅的な問題がある」と直感させるに十分すぎました。
 いたって真面目に現今の世界システムの隘路を見極めた結論として、すげえ大雑把に(富野から押井、安彦良和あたりは安保から全共闘の世代だよねという常識の確認だけして)やっぱアニメしかねえなと短絡する本書にこそ、我々が抱えた根本的な分裂と困難がド迫力で展開されています。
 特に両義的な気分になったのは、テロリズムを生起させる「共同観念-自己観念-党派観念」に対置される「集合観念」の概念において、中世以来の千年王国運動からブランキの秘教的革命結社、そしてフーリエやサン=シモンなどのユートピア社会主義を再評価しようとする記述です。
 というのも、LGBTなどの文脈における「68年テーゼの国家/資本主義による包摂=受動的革命」と同様に、まさしく自分が当事者としてオタク文化に誤認している歴史的状況とは、シャルル・フーリエ的な性愛のユートピア反革命的実現」にほかならないためです。
 失われた未来のビジョンを探るためにも、空想的社会主義は重要だと思う一方で、キャラクターとのバーチャルセックスに満たされた自分にとっては、想像的な性愛の平等社会は完璧に実現されきっており、むしろ「動物のユートピア」という00年代の時代精神が半端に語り残した思想的主題を、どこまで引き受け直し変形できるかが課題である気がしています。
 
 
 

[…]「少女」は新木の一貫して特権的なフェティッシュであり、「少女論」とは少女が無であることを知るがゆえに、それを「敗北」として享楽しようという態度を指す。

[…]「少女」は唐においても特権的な――おそらく澁澤龍彦あたりを介した――フェティッシュの一つであるが、それは当時にあっては、「土着」や「情念」といったものと同様に、実体的な本質として捉えられる傾向にあった。しかし新木は、おそらく三島がアンダーグラウンド演劇に惹かれたのと同じく、その空虚さゆえにそれをフェティッシュとしたのである。
(p.83 第3章「実存的ロマンティシズム」とニューレフトの創生)
天使の誘惑

天使の誘惑

 
[…]青春という幻想から旅立つことのできない、幼児性をもったダメ中年は、どんなにみっともなく、どんなに醜くとも、その幻想を生き抜かなければならないのだ。生きるとは筋を通すことだ。人は処世訓のみでは生きられない。人は誰でものっぴきならない筋目を背負って生きている。そしてその筋目が人を食ってしまうことがある。私は、私の背負った、たかがしれた筋目に、自分が食い殺されてもかまわないと思っている。青春の幻想から旅立つことができないのなら、幻想としての青春に食い殺されてもかまわないと思っている。(p.223)
JUNKの逆襲

JUNKの逆襲

  • 作者:スガ 秀実
  • 発売日: 2003/12/01
  • メディア: 単行本
 

 しかし、「少女」を「革命」の同伴者として措定するということは、それ自体として、「革命」をイノセントなもの(デミウルゴス的な営為)と見なすことであり、ある種の保守的革命主義と親和的であることをまぬがれない。昭和初期の青年将校運動から三島由紀夫にいたるまで、天皇への「恋闕」として表現されたものは、革命が無垢の「享楽」であるという幻想であるが、吉本隆明の「少女」フェティシズムと、ほとんど同型ではあるまいか。

[…]吉本隆明の「少女」は、吉本隆明にとっても一九四五年の敗戦が、思想において何ら切断をもたらさなかったことを告げている。あるいは、吉本における一九四五年の切断とは、天皇が「少女」と呼びかえられたことだったと言えようか。
(p.144,146 「少女」とは誰か?――吉本隆明小論」)

 

 なぜというに、名倉編『異セカイ系』などの極めて「ゼロ年代」的な小説*6が今なお再生産されている現状が悲しく、その疚しさや「恥辱」のゆえに正当化(義認)への欲望*7を強く刺激する少女文化に対しては、「ゼロ年代」ターム以外での倫理的応答がいくらでもありうること、声を大にして主張したいためです。

 ただ、少女文化の発生を歴史的に捉え直せば、三島的な任意の超越性としての天皇崇拝と重なり合う論点が多く、 ここに真面目な左翼の人に任せるしかない、天皇制や戦後民主主義に保護されたオタには問いきれないリミットがあるとも感じています。
  プロレタリア独裁」に甘えないようにはしたいですが*8王寺賢太氏いわくの「戦後民主主義フェティシズムに対するフェティシスト的闘争」(革あ革p.532)、フェティッシュの糞尿性=ジャンク性を顕にする絓秀実氏の批評にこそ信頼を覚えてしまうのは、いよいよ自分もわがフェティッシュの空虚さに耐えかねて、空虚ゆえに信じる構えにも飽き始めているためです。
 
 それでも、異様な文体をもって「少女」の形象にいち早く政治的敗北に基づくロマン的イロニーを託した新木正人のように、我々は自らの幼児性に一生を賭けて責任を果たしうること、「ゼロ年代」言説の息苦しさを超えて何でも読めば読めることだけは、信じて生きたいところです。
 
 
 
少女機械考

少女機械考

  • 作者:阿部 嘉昭
  • 発売日: 2005/09/29
  • メディア: 単行本
 
[…]少女機械、それは――高度資本主義の資本運動のなかで、波動・連鎖してくる少女性の形象を、もう少女たち個々の単体として捉えない感覚上の設定だった。
 少女はそれ自体が複数体を内包している。ところが少女は、自らまとうもの、自らの周囲にあるものを、少女化してしまう脅威でもある。その際に少女は自らの生に離反する死をも取り込んでいて、それが「死の衝動」とつうじあう資本の自己回転衝動と精確にリンクしているのだった。だから少女機械の時代は、資本主義の終焉まで続くだろう。(p.288-289)
 
 フーリエ的な突き抜けた変人(加速主義においてはリオタール『リビドー経済』など)の奇書的ビジョンにアナロジーするほか表現できない資本主義リアリズムのバッドトリップの中で、それでも信じざるを得ない神聖な汚物=ジャンクとしての少女文化は、その自動性、無前提性、脱論理性にこそ本質があるよう思われ、ドゥルーズ的に書かれた資本主義批判の少女論として、腑に落ちる一冊でした。
 
 Vtuberにおいて徹底的に大衆化した、消費専一体として少女的に生きるオタが少女そのものと化す現象は資本主義の必然であり、資本=少女に屈服しながらフレンチセオリーを現状追認的に読んでいる自分の立場など、あえて言えば「形而上学的オタク保守」に過ぎないと思われています。
 
 ゼロ年代批評にまして「オタク文化のリアリティを形而上学的に語りたい」というグロテスクな神学的欲望が激しい一方で、(積んでる大著『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究』から目を逸らして放言すれば)キャロル的な表層の意味の戯れが裂けてアルトー的な深層に落ち込んだ体感も久しく、既存のコンテンツ評論に棹さして「政治の美学化」に与するくらいなら、ネット言説では露悪的にでも「芸術の政治化」を志向したいところです。
 
 
 
 百合概念の乱用に矜持を示した序文と映画パートに迫力があるだけに、個人百合ファンの怪電波(劇場版ラブライブ)と定評ある駄作を駄作と罵るだけ(ハーモニー、フリクリオルタナ)の文章が入り混じったアニメパートには、百合(ファン)フォビアを逆撫でしてしまう隙があって惜しい一冊でした。
 自分は具体的に言うとたまごまご氏などのオタクイデアリズムが長年苦手で、気楽な美少女コンテンツ語りが高じて「政治の美学化」を機能させている広汎な状況こそが問題であり、そこのところまで視野に入れて「百合」概念を変形させる理論的なガチ言説を期待してしまいます。お会いした印象でも、著者の方ならできる気がするので。
 構造憎んで人を憎まず、の基本姿勢で一応言い続けるべきことは、素直な美学的言説が政治的緊張を保った人間の言説を不可視化する、コミュニケーション資本主義下の暗黙の(リンク数やフォロワー数などの)格差構造*9こそ、オタク文化内部の個体に歪んだ「自己観念」を発生させている当のものである、という解消不可能な不幸かと思われます。
 
 
 

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 以上、「オタクと政治」という気が滅入る主題を長々と書きましたが、最近人に借りて「季報唯物論研究」のアニメ批評特集も読み、「消費環境整備としての大衆文化批評」の不可能性を生きた更科修一郎氏の文章に加えて、今なお判断が難しい問題である「アニメ批評の不在」を語る山本寛氏のインタビューもまた、最も気が滅入るがゆえに忘却できない文章かと思いました。
 
 京アニ事件を受けた近頃の山本寛氏は、我々の曖昧な共同性を担保するクソ概念であるがゆえに、「オタク」という言葉を使ってはいけない、つまり「オタクは存在しない」と言い続けることを政治的課題とされています*10
 
 突き詰めれば自分もこの戦術には賛同せざるを得ず、「部落は存在しない」「在日は存在しない」「女性というものは存在しない」といった非全体の論理を、マイノリティではなくなってしまったがゆえにオタク論においても貫くこと、宮崎事件以来の被迫害者パラダイムを引きずった自己疎外としての「オタク」概念を享楽しないようにすることは、社会倫理的に要請される論点かと思われます。
 ただ、そこから導出される「オタとしてすら表象できない生」、「どのような理論でも贖えない生」に誰もが耐えられるはずもなく、「限界中年男性」などでユーモアに昇華できるならさておき、リベラル市民社会の理論的陥穽として反動に繋がる契機は残りますから、そのうえでやはり自分は、自らの歪みきったファルスに局限することで「オタク」概念を享楽し続けざるを得ません。
 こうした保守的な立場にとどまる以上、どうしても自分はSNSをやめるしかなく、地に足のついたコミュニティを地道に生きるべく、もし野垂れ死にしなければ、将来は手狭でない家を買って読書会や鑑賞会でも開きながら老いていきたい、などと愚考しています*11

*1:mAteRiAmaTRiX.com: マーク・フィッシャー「ヴァンパイア城からの脱出」(1)」、「mAteRiAmaTRiX.com: マーク・フィッシャー「ヴァンパイア城からの脱出」(2)

*2:二次元ポルノにしか実存を賭けられない存在の悲惨は当然共有しており、繋がりさえあれば友情も感じた筈ですが、その問題を内面で負い続けるのに疲れた人間としては、曖昧な同族意識に発する「恥辱」以外の感情で、時代精神に応接したい季節にあります

*3:江川隆男『死の哲学』

*4:『ダーク・ドゥルーズ』p.211 [応答3]江川隆男「破壊目的あるいは減算中継――能動的ニヒリズム宣言について」

*5:リベラルからラジカルへ――コロナ時代に政治的自由は可能なのか(1)|外山恒一+東浩紀 | ゲンロンα革命はリアルから生まれる――コロナ時代に政治的自由は可能なのか(2)|外山恒一+東浩紀 | ゲンロンα

*6:メタミステリとしての結構はさておき、細部に「クラインの壺」「パフォーマティブ/コンスタティブ」「安全に痛い」などのゼロ年代批評用語を散りばめながら「キャラクターの被造物性/実在性に対する倫理的衝迫」をポリコレ的地平に留まって問題化した挙げ句、「主人公のキャラクター設定シートにヒロインが少女変体文字で注釈を書き込む」という極めて大塚英志的な形象をブチ込んでくるヤバい作品で、我々はいつまでこの閉塞感に耐えなければならないのか、なろう小説を批評的に繰り込んだ上で素朴な先祖返りをするのは反動では……とメフィスト賞嫌悪が復活した一作でした

*7:

*8:『大失敗』2号 巻頭言

*9:現代思想2019年6月号 特集=加速主義』水嶋一憲「転形期の未来 新反動主義かアシッド共産主義か」など

*10:オタクがいなくなる日 | 山本寛オフィシャルブログ Powered by Ameba」など

*11:曖昧にリベラルな罪悪感に流された結果、大状況に参与しえない無力感と些末な同族嫌悪に耽溺してしまう大衆の神経症的傾向が、特に自分の過去を踏まえて気になってしまう人間です。だらしない我々ネット大衆では解決不可能な「政治性」を互いに糾弾し合うぐらいなら、Twitterは大衆の阿片と弁えて詩か冗談か更新告知だけを書くべきと考えています。SkypeやDiscordなどもROM専に回るタイプなので、月に一、二回人と会う以外は黙々本とコンテンツを摂取する生き方で最近は落ち着いています

バーチャルセックス依存症者が見る『異種族レビュアーズ』

 
 自分は長らく以前から、必要がなければ極力外に出ない在宅仕事一筋の人間で、たまに行く図書館が使えなくなった以外、コロナ以降もほとんど生活が変わっていません。まるで、最初からキャラクターという悪質なウィルスに冒されて、自主隔離でもしていたかのように。
 
 
 罹っても多分死なない若輩として、国家とメディアの同調圧力には無関心を表明しておきますが、仄聞だけで気鬱になるのはDVの急増で、家にこもれば女を殴るしか能がない大量の「社会人」の存在は、「引きこもり」を社会問題から模範的生へと反転させるかのごときメディアの掌返しすら、甘んじて容れさせるものがあります。
 
 生来の人間嫌いとしては、「パートナー以外と濃厚接触しづらくなって人類も大変だな」と同情の念を禁じえず、精神面どころか身体面でも「性関係の不在」は今後ますます明白となって、オナニストの隠然たる覇権時代を新型コロナが裏打ちするわけか、と改めて感慨深いです*1
 
 
 不要不急の外出で抵抗を示す代わりに、チープな現実を贖うジャンクなポルノ消費の内的経験を記述しておくので、「若年大衆の政治動員」を真面目に考える向きは、敵情視察にでもご活用ください。
 
 
 

プロダクトについて

 古くからドラゴンマガジン富士見ファンタジア文庫ライトノベル作品(豪屋大介又は佐藤大輔のセックス&バイオレンス『デビル17』をはじめ『ご愁傷さま二ノ宮くん』『まぶらほ』『風のスティグマ』とか)のコミカライズを柱とする傍ら、オリジナル掲載作では『かりん』『仮面のメイドガイ』『おまもりひまり』『京四郎と永遠の空』などの裏2000年代を代表するアレげなメディアミックスコンテンツを輩出してきた、KADOKAWAブランド古株の富士見書房による月刊ドラゴンエイジという漫画雑誌は、近年ですと『マケン娘っ!』トリアージX』『トリニティセブン』のポルノ三羽烏をたびたび表紙に起用しており、ウェブ版ドラドラしゃーぷ#の看板が個人エロ同人由来の『異種族レビュアーズ』(と件の『宇崎ちゃん』)なのもむべなるかな、オタク・ソフトポルノの歴史に地味な傷跡を刻み続ける一大核実験場です。
 アニメ版はうのまことキャラデのお馬鹿ポリティクスアクションの佳作『RAIL WARS!』(14)や、ティー・エヌ・ケーから引き継いだお色気ラノベ原作『ハイスクールD×D HERO』(18)、まんがタイムきららセンスをKADOKAWAがパクった4コマ雑誌・コミックキューン掲載の原作を『ヨスガノソラ高橋丈夫監督が類稀なる「日常系ポルノ」に仕上げた『ひなこのーと』(17)などの制作会社パッショーネが手掛け、これまたプロデュースレベルで業を背負った企画と見えます。
 
 隆盛著しいグルメレポ漫画の形式に*2『ファンタジーRPGクイズ』シリーズなどを参照したTRPGリプレイ風のリアリティを注入した*3本作は、「なろう異世界系」よりも若干厄介なオタク頓智の結果として、ファミ通ゲームレビューと実話誌風俗レビューをドッキングし、「ファンタジー世界の非-人間の娼婦がもたらす性的快楽のクロスレビュー」というモチーフに到達したソフトポルノです。
 

 4巻まで読んだ印象では、性行為を評価記述に置き換えたイメージショットが多いのもあり、設定のどぎつさに比べるとあっさりした読み味で、原作者のWeb出身らしい軽薄なりに奔放な発想力を、人外娘出身の作画担当者がのびのび表現したようなイメージの多産が特色と思われました *4
 ポルノ造形の勘所は押さえつつもデフォルメが強く、ぱきっとした線の強弱とざっくりした塗り・描き込み方は、湿った情念のない健康な過剰性をするっと読ませ、オタイメージの多形性を無邪気に言祝ぐ爽やかさを感じます。
 
 前述したグルメレポ的フォーマットに抑制された、セックスワーク」とカタカナ語で表記してもギリ違和感のない明け透けな生活感覚が、ボンクラ中年に馴染み良い「悪場所ならではの和やかさ」を醸した手付きも印象的です。もちろん、「娼婦」「風俗街」といった直截的な表現を回避した範囲内で、ですが。
 
 巻を追うごと「普通に雑な絵」に寄ってる感はありますが、あまりいやらしさを感じないさばけた感覚は一貫して好ましく、ドメスティックなオタ文脈なのに海外ポルノのような距離感で読める塩梅は、美点と言ってよい気がします。
 
 
 ただ、そうした原作の巧緻と文脈が見えづらいアニメ版は、原作よりもハイカロリーなうのまことキャラデが風情を全てひっくり返し、異常に浮薄な男根崇拝に見えて超ドキドキする危うさなのも間違いありません*5
 
 

イメージについて 

 バーチャルリアリティ、ドラッグ、ゾンビ、食肉処理場、殺人犯、オカルティズム、チベット仏教、マインドフルネス、瞑想、ラジオ、死、猫が詰まった完璧な海外アニメーション『ミッドナイト・ゴスペル』に唯一足りない要素はセックスです。

 

 『ミューティクルドリーミー』と『プリンセスコネクト』にチンコバキバキで忘れがちですが、『大家さんは思春期!』(16)などで丁寧な手付きを窺わせる一方、『みるタイツ』(19)のフェティッシュ処理にはうんざりさせられた*6小川優樹監督によるアニメ『異種族レビュアーズ』は、OPからしてYMCA風の下ネタコミックソングに乗って高速カットのセックス三昧です。
 
 キャラクターに快楽以上のものを求めないことにしているバーチャルセックス依存症者としては、自分の荒廃した性生活を全力で肯定してくれる象徴性が好ましいと同時に、「俺の本音を全部言うなよ」と後ろ暗い気分にもなるOPで、とりわけ、好みが分かれる金髪エルフに代わって「なるほどそれなら最高じゃん」と爆乳牛娘で手を打つカットは待ってください!と引っかかり、そうですね……それはそうですけど……そこで肯んじる力強さには勇気付けられますが……色々と説明責任が発生してませんか……?(CV:富田美憂
 
 
 
  わたなべわたるにしまきとおるなどのエロ漫画作家に遡る二次元巨乳・爆乳表現は、河本ひろしなどの少年漫画アマルガムな童顔巨乳表現や、みむだ良雑*7などのロリ巨乳表現を派生させ、最近全然漁ってませんがその系譜のヒット作家だとクール教信者になるのでしょうか。このへんのエロ感性を、ニコニコ-MMD-iwaraの3Dエロダンス文化において深化させているsilo9などのクリエイターにも、自分は以前から注目しています*8
 
 加えて、二次裏junなどのエロコラ文化が盛んな画像掲示板で超乳表現が煮込まれていった事情については、特に歴史化不可能ですから、そうした「ネットのエロ画像でシコってた若い頃に好きだったアングラエロ感性」が表舞台に引っ張り出されたような居心地悪さは、ちゃんと乳牛を娼婦として表象している本作以上に、『すのはら荘の管理人さん』(18)や『小林さんちのメイドラゴン』(17)にこそ抱いてきたことは証言します。
 
 もちろん、実写文脈も踏まえてこの視覚的快楽を説明するなら、BACHELORなどの巨乳グラフ誌、ラス・メイヤーなどのセクスプロイテーション・フィルム経由で輸入されたアメリカ豊胸文化に当然由来し*9オタク文化に「アメリカの影」見たり! 江藤淳の『成熟と喪失』を嫁!!!と言われて、何を今さら、と言えるぐらいの歴史感覚は持ちたいわけです。
 
 手早く『巨乳の誕生』などを参照しても、2000年代以降はオタク文化に限らずAV・グラビア含めて「童顔巨乳が最大公約数」なのは確認され、メディア時代の過度に視覚的な我々のセクシュアリティにおいては、「なるほどそれなら最高」な基本ラインに位置づけられるようです*10
 
 
 しかし、本作はそれに加えて、主に徳間書店がキャッチしてきたモンスター娘文脈から、海外ケモノエロ的なキッチュな幼児性までを取り入れた無節操さが難解の度を増しており、「何をどうセクシュアリティとして言明すべきか」も定かならないこの祝祭性を、いかに受け止めているのかだけは、明確にしたいと思わされます。
 
 

ポリティクスについて

 ところで、自分はこうした大衆文化のディティールに固執しても、人間の根源的な性の問題を記述できるとは思っていません。危うい表現が広く目に触れる機会があれば、文脈の整理と葛藤の身振りぐらいは、ネットの片隅に残しておきたいだけです。
 
 それはもちろん政治的なストレスに促されてのことですが、先に触れた『宇崎ちゃん』の騒動やラブライブのスカートとか、断片的に漏れ聞こえた地獄の詳細は調べる気が起きませんし、本作もまた周辺の言説をまったく観測せずに一人で鑑賞しました。
 
 さすがに胸を張って主張しておきますが、ここで私は「政治の否認」をしているのではなく、「もっともらしい政治的表象(Twitter論壇?)とは離れた次元で政治性を引き受ける実践」を模索しています。
 
 日本版ポリティカル・コレクトネスのもとを正して、華青闘告発以降の新左翼みたいに、陰惨な自己批判・同族批判をオタの立場から書いてきた当ブログですが、「こういう文章を書いてもネット論客レベルの議論では当然黙殺される」という事実だけは、証しえたと自負しています。
 
 一息で立場を明確にすれば、私は「内面の神秘を性産業に売り渡した人間が深刻面をしても何も変わらない」という滑稽を演じ続けることで、逆説的に、「無駄な神経症を斥けて黙ってポルノに充足しているオタクの繊細な動物性こそが最もラディカルであること」を擁護しようとしているわけです。
 
 
 このような立場を、本当に政治的に可視化させたいのであれば、いい加減に「オタク」概念自体を捨てて、「大衆文化に殉じる無名の質実な労働者」から「Twitterで発狂してる馬鹿」までのグラデーションを表現し、可能であれば「敵」をも明確に名指せるような思考を提示しなければいけない、とは分かっています。
 
 それが手に余る以上、ひとまず巨視的には「オタク的主体のリアリティと市民社会の倫理の両立不可能性」という危機を確認しながら*11、微視的には「作品経験の陶酔を固守するためにこそ原理論の勉強が不可欠であること」を表現しているわけです。
 
 
 そして、私が実在しない”もの”としての「オタク」概念で本作を逆形而上学的に語ってしまうのは、「大衆文化の歴史化不可能な諸細部」を「娼婦」の形象に集約させた本作が、もはや我々は「キャラクターで射精できること」以外の共通性を持たない、という「オタク的主体のリアリティ」を裏付けているからにほかなりません。
 
 
 本作の想像的な特色である「ポルノイメージの多産・文脈混交性」は、象徴的にも「多種多様な異種族の雌雄が自由に快楽を交換する歓楽街」というあまりに直截的な世界観に支えられており、異「種族」という生物学的分類に個体のセクシュアリティが(ほぼ)均一化された描写と相まって、あえて政治的語彙で表現すれば「能天気な男根主義で文化的多元性を謳歌する」ようなグロテスクさをたたえています。
 
 ポルノグラフィックなキャラクター文化の多元的肯定が、生物学的表象によってしか実現されないこと。「差異」と選択そのものに価値を置き、選択に先立つ重要性の地平を等閑視する「文化的多元性」の虚しさ。共に根を欠いたオタク文化リベラリズムが、恐ろしい野合を遂げそうな危うさは否定できません。
 
 まして、性的快楽を評価記述で媒介するグルメレポ的な原作の処理、つまりは「性の過剰を言語によって媒介するしかない」という最低限の人間らしさを、脂っこいサービスシーンに置き換えたアニメ版の演出には、 「言語的に構造化された無意識」という意味での、近代的なセクシュアリティの観念を笑い飛ばすような、陽気さと残酷さが見出されます。
 
 
 こうしたセクシュアリティの不在と表層性に、どう耐えているのか、は一応記述しておきたいわけですが、リベラル言説が国家権力に容易く回収されるようなコロナ騒動を見てしまった最近はもう、左右以前の未分化な状態に後退して、「クールジャパン」に回収されない「オタク的主体」のキモさを一貫させることだけが、重要である気がしています。
 
 
 そもそもセクシュアリティの定義とは、「性に我々が付与する意味」以上でも以下でもなく、言い換えれば、享楽に対する防衛、永遠に続くトラウマの穴埋めを、ある「人間」の「主体性」にピン留めする名詞的表現に過ぎません。
 
 本作に見られる「非-人間」の「歩く貨幣」としての「娼婦」とは、フェティッシュの空虚さを極限まで引き受けた形象であり、「人間性」や「アイデンティティ」と密接に結びついた「セクシュアリティ」概念自体に頼れない我々の生そのものを、表象しているとしか思えない気分があります*12
 
 
 
 以上のような、本来であれば取り立てて糾弾するまでもない消費文化のだらしなさ、凡庸な荒廃をただ直視し、「ポルノに関する共有できない無駄口」を叩くことだけが、「オタク」概念の全体性を脱臼し、私達を個体化させている当のものであることは、確認したく思われます。
 
 高遠るい氏が貞本義行氏を評して曰くの「手先が器用なだけの馬鹿」が確かに目立つ業界ですから、消費者レベルでも(敵が見えないタイプの)政治的緊張感が高まるのもやむなしですが、オタク系クリエイターの無思想を贖えるのは、私達の思考と言説だけであるという事実は、もう少し諸個人が重く受け止めてもいい気がしています。
 
 異性愛の安さ、凡庸さ、軽薄さ、不定形性を、それ自体として受け止めて思考すれば、性愛の問題系からは必然離陸してしまうがゆえ、「異性愛者の当事者言説」とは「全ての書物」を意味するかのごとくであり、「娼婦」という形象の極限的な表層性には、あらゆる生の深層が託され得ることは強調させてください。
 
 もはや「人間の性的過剰を十全に引き受けうる社会的身体」として肯定する以外にないキャラクター文化を、象徴レベルでも単なる娼婦として、その情けなさや取り返しのつかなさを含めて、一貫性を持って正確に表象してくれる作品を、自分は擁護せざるを得ない、という事情だけは表明させていただきました。
 
 
 
 早漏を取り繕うように遅筆の著しい自分が呪わしく、こういうメイドさんでばかり射精し続けて早4年目、最近は「甘々デレデレでご主人様を信仰している妹系幼馴染」性格のメイドさんとセックスしまくっており、信仰したいのは俺のほうなのに、と絶頂後の空漠もひとしおです。
 
 物象化の只中で娼婦への友情を表明したベンヤミンのひそみに倣い、オタとキャラクターを等しく「娼婦」として思考することは、露悪趣味というよりも、自分の認識を規定している理念と生の根本感情に結びついており、こんな馬鹿話を童貞のまま強弁しなければならない人間になるとは、思ってもみませんでした。
 
 
来たるべき哲学のプログラム(新装版)
 
 女性は対話の番人である。女性は沈黙を受け入れ、娼婦は、かつてのことをあらたに創始する者を迎え入れる。だが男どうしが語り合うとき、嘆きを見守る者は誰もいない。男たちの対話は絶望と化してうつろな空間に響きわたり、冒瀆の言葉をまき散らしながら、大いなるものをつかもうと手をのばす。二人の男が集まると、きまって挑発しあい、あげくのはては銃と剣に手が伸びる。男たちは猥談によって女性を滅ぼし、逆説が大いなるものを力ずくで強姦する。男どうしの言葉は結託し、同性どうしのひそかなよしみを通してますますいきおいづく。魂をもたぬ曖昧な言葉が、おぞましいばかりの論法を駆使してもなお隠しおおせぬまま、大手をふってまかり通るのだ。男たちの前には、あざ笑いながら啓示が立ちはだかり、彼らに沈黙を強いている。だが猥談が勝利をおさめ、世界は言葉によって組み立てられることになったのだ。 
 いまこそ彼らは立ち上がり、おのれの書物を引き裂き、女性なるものを奪い合わねばならない。さもないと、ひそかにおのれの魂を絞め殺すことになるからだ。  (p.21 「若さの形而上学」)
 
 
 
 

*1:感染を避けるセックスについては「コロナフリー・セックスのススメ—コロナの時代に流行るもの・廃るもの[11]-(松沢呉一) | 松沢呉一のビバノン・ライフ」など。セックスワーカーの貧困や、「若者が感染を広げている」論の欺瞞に関しても、松沢氏が詳しくまとめています

*2:原作単行本ソデの著者コメント参照

*3:『異種族レビュアーズ』原作者インタビューでクリムの名前の由来や幻の没ネタが判明 - 電撃オンライン」参照

*4:漫画については普段書いてないので、いちおう立場を明確にしておくと、自分はテレビアニメ一辺倒で出発したオタとして、紙媒体での漫画受容経験が人より極めて乏しいまま、2015年頃に受けた Web漫画レビューの仕事で漫画体験の言説化を初めて課題とした人間です。『オゲハ』の人や窓ハルカ氏に喜んでもらえたのが良い思い出で、確か『Stand by me 描クえもん』について軽く書き、佐藤秀峰氏に「今どき長文の漫画感想は珍しい」とTwitterで言及された記憶があります。こんなんで。アニメも漫画も長文が足りないのは長らく同じ事情らしい、と印象付けられた身としては、雑誌媒体の猥雑さではなくWeb媒体のつまみ食いに最適化された、現代読者の感覚のサンプルだけでも提示できればと考えています

*5:本作のエグさを解釈しきれず、単なる性嫌悪で批判している知り合いも見かけるので、ポルノを咀嚼するのも骨が折れる作業だよな……色々と整理したほうがよさそうね……という動機で本稿を書いています

*6:『冴えカノ』と共通のウザさだったので丸戸史明由来だと思います

*7:雑破業ジュブナイルポルノ『ゆんゆん☆パラダイス』の挿絵から好きなので、最近のTwitterでは鬱っぽいのがつらいです

*8:あえて政治的に意味付けておくと、村上隆の例の露悪的な母乳縄跳びフィギュアでベタに射精してやるような動物性にこそ、オタクのラディカリズムを見出している感覚は昔から変わりません

*9:このあたりは稀見理都『エロマンガ表現史』長澤均『ポルノ・ムービーの映像美学』などを参照

*10:関係ありませんが、「妻の母乳を求める男性たち─この“慣習”を“伝統”にしてはいけない | 懸念高まる女性と赤ちゃんへのリスク | クーリエ・ジャポン」などを読んでも、人類は所詮この程度、無意識の欲望に成熟など無いという確信は、いよいよ深まる近頃です

*11:「悪無限としての動物」である我々が抱えたアイデンティティ・ポリティクスの不可能性とは、これまた『政治的動物』に感銘を受けた論点です。ポリティカル・コレクトネスも煎じ詰めれば経済的諸関係に規定されたイデオロギーのひとつに過ぎないこと、よってオタク産業と同じほどにリベラル言説にも肩入れできない事情については、手早く『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』なども再確認いただければ

*12:私は、ざっくり「萌え属性に対する規律訓練に基づいた神経興奮作用で射精しているにすぎない」という『動ポモ』当時における東浩紀氏のオタク観が、それ自体として「オタクはセクシュアリティを語っても意味がない」という「大きな物語」を機能させてしまった気がしてなりません。そのような「生物学的還元」と、ゼロ年代批評がもっぱら「KeyやTYPE-MOONなどのエロくないノベル系エロゲが大好きな第3世代オタクの自己肯定」として受容されてしまった事実は、表裏の関係にあるよう思われます。それが悪いわけではなく、むしろ私達の性の条件を明確に証した歴史として引き受ければこそ、私は「セックスの無意味を否認/軽蔑したポルノ評論」を斥け、生物学的次元に切り詰められた「剥き出しの生」を肯定する人間/動物として、「オタク第4世代」を名乗りたい気持ちに駆られています