おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

バーチャルセックス依存症者が見る『異種族レビュアーズ』

 
 自分は長らく以前から、必要がなければ極力外に出ない在宅仕事一筋の人間で、たまに行く図書館が使えなくなった以外、コロナ以降もほとんど生活が変わっていません。まるで、最初からキャラクターという悪質なウィルスに冒されて、自主隔離でもしていたかのように。
 
 
 罹っても多分死なない若輩として、国家とメディアの同調圧力には無関心を表明しておきますが、仄聞だけで気鬱になるのはDVの急増で、家にこもれば女を殴るしか能がない大量の「社会人」の存在は、「引きこもり」を社会問題から模範的生へと反転させるかのごときメディアの掌返しすら、甘んじて容れさせるものがあります。
 
 生来の人間嫌いとしては、「パートナー以外と濃厚接触しづらくなって人類も大変だな」と同情の念を禁じえず、精神面どころか身体面でも「性関係の不在」は今後ますます明白となって、オナニストの隠然たる覇権時代を新型コロナが裏打ちするわけか、と改めて感慨深いです*1
 
 
 不要不急の外出で抵抗を示す代わりに、チープな現実を贖うジャンクなポルノ消費の内的経験を記述しておくので、「若年大衆の政治動員」を真面目に考える向きは、敵情視察にでもご活用ください。
 
 
 

プロダクトについて

 古くからドラゴンマガジン富士見ファンタジア文庫ライトノベル作品(豪屋大介又は佐藤大輔のセックス&バイオレンス『デビル17』をはじめ『ご愁傷さま二ノ宮くん』『まぶらほ』『風のスティグマ』とか)のコミカライズを柱とする傍ら、オリジナル掲載作では『かりん』『仮面のメイドガイ』『おまもりひまり』『京四郎と永遠の空』などの裏2000年代を代表するアレげなメディアミックスコンテンツを輩出してきた、KADOKAWAブランド古株の富士見書房による月刊ドラゴンエイジという漫画雑誌は、近年ですと『マケン娘っ!』トリアージX』『トリニティセブン』のポルノ三羽烏をたびたび表紙に起用しており、ウェブ版ドラドラしゃーぷ#の看板が個人エロ同人由来の『異種族レビュアーズ』(と件の『宇崎ちゃん』)なのもむべなるかな、オタク・ソフトポルノの歴史に地味な傷跡を刻み続ける一大核実験場です。
 アニメ版はうのまことキャラデのお馬鹿ポリティクスアクションの佳作『RAIL WARS!』(14)や、ティー・エヌ・ケーから引き継いだお色気ラノベ原作『ハイスクールD×D HERO』(18)、まんがタイムきららセンスをKADOKAWAがパクった4コマ雑誌・コミックキューン掲載の原作を『ヨスガノソラ高橋丈夫監督が類稀なる「日常系ポルノ」に仕上げた『ひなこのーと』(17)などの制作会社パッショーネが手掛け、これまたプロデュースレベルで業を背負った企画と見えます。
 
 隆盛著しいグルメレポ漫画の形式に*2『ファンタジーRPGクイズ』シリーズなどを参照したTRPGリプレイ風のリアリティを注入した*3本作は、「なろう異世界系」よりも若干厄介なオタク頓智の結果として、ファミ通ゲームレビューと実話誌風俗レビューをドッキングし、「ファンタジー世界の非-人間の娼婦がもたらす性的快楽のクロスレビュー」というモチーフに到達したソフトポルノです。
 

 4巻まで読んだ印象では、性行為を評価記述に置き換えたイメージショットが多いのもあり、設定のどぎつさに比べるとあっさりした読み味で、原作者のWeb出身らしい軽薄なりに奔放な発想力を、人外娘出身の作画担当者がのびのび表現したようなイメージの多産が特色と思われました *4
 ポルノ造形の勘所は押さえつつもデフォルメが強く、ぱきっとした線の強弱とざっくりした塗り・描き込み方は、湿った情念のない健康な過剰性をするっと読ませ、オタイメージの多形性を無邪気に言祝ぐ爽やかさを感じます。
 
 前述したグルメレポ的フォーマットに抑制された、セックスワーク」とカタカナ語で表記してもギリ違和感のない明け透けな生活感覚が、ボンクラ中年に馴染み良い「悪場所ならではの和やかさ」を醸した手付きも印象的です。もちろん、「娼婦」「風俗街」といった直截的な表現を回避した範囲内で、ですが。
 
 巻を追うごと「普通に雑な絵」に寄ってる感はありますが、あまりいやらしさを感じないさばけた感覚は一貫して好ましく、ドメスティックなオタ文脈なのに海外ポルノのような距離感で読める塩梅は、美点と言ってよい気がします。
 
 
 ただ、そうした原作の巧緻と文脈が見えづらいアニメ版は、原作よりもハイカロリーなうのまことキャラデが風情を全てひっくり返し、異常に浮薄な男根崇拝に見えて超ドキドキする危うさなのも間違いありません*5
 
 

イメージについて 

 バーチャルリアリティ、ドラッグ、ゾンビ、食肉処理場、殺人犯、オカルティズム、チベット仏教、マインドフルネス、瞑想、ラジオ、死、猫が詰まった完璧な海外アニメーション『ミッドナイト・ゴスペル』に唯一足りない要素はセックスです。

 

 『ミューティクルドリーミー』と『プリンセスコネクト』にチンコバキバキで忘れがちですが、『大家さんは思春期!』(16)などで丁寧な手付きを窺わせる一方、『みるタイツ』(19)のフェティッシュ処理にはうんざりさせられた*6小川優樹監督によるアニメ『異種族レビュアーズ』は、OPからしてYMCA風の下ネタコミックソングに乗って高速カットのセックス三昧です。
 
 キャラクターに快楽以上のものを求めないことにしているバーチャルセックス依存症者としては、自分の荒廃した性生活を全力で肯定してくれる象徴性が好ましいと同時に、「俺の本音を全部言うなよ」と後ろ暗い気分にもなるOPで、とりわけ、好みが分かれる金髪エルフに代わって「なるほどそれなら最高じゃん」と爆乳牛娘で手を打つカットは待ってください!と引っかかり、そうですね……それはそうですけど……そこで肯んじる力強さには勇気付けられますが……色々と説明責任が発生してませんか……?(CV:富田美憂
 
 
 
  わたなべわたるにしまきとおるなどのエロ漫画作家に遡る二次元巨乳・爆乳表現は、河本ひろしなどの少年漫画アマルガムな童顔巨乳表現や、みむだ良雑*7などのロリ巨乳表現を派生させ、最近全然漁ってませんがその系譜のヒット作家だとクール教信者になるのでしょうか。このへんのエロ感性を、ニコニコ-MMD-iwaraの3Dエロダンス文化において深化させているsilo9などのクリエイターにも、自分は以前から注目しています*8
 
 加えて、二次裏junなどのエロコラ文化が盛んな画像掲示板で超乳表現が煮込まれていった事情については、特に歴史化不可能ですから、そうした「ネットのエロ画像でシコってた若い頃に好きだったアングラエロ感性」が表舞台に引っ張り出されたような居心地悪さは、ちゃんと乳牛を娼婦として表象している本作以上に、『すのはら荘の管理人さん』(18)や『小林さんちのメイドラゴン』(17)にこそ抱いてきたことは証言します。
 
 もちろん、実写文脈も踏まえてこの視覚的快楽を説明するなら、BACHELORなどの巨乳グラフ誌、ラス・メイヤーなどのセクスプロイテーション・フィルム経由で輸入されたアメリカ豊胸文化に当然由来し*9オタク文化に「アメリカの影」見たり! 江藤淳の『成熟と喪失』を嫁!!!と言われて、何を今さら、と言えるぐらいの歴史感覚は持ちたいわけです。
 
 手早く『巨乳の誕生』などを参照しても、2000年代以降はオタク文化に限らずAV・グラビア含めて「童顔巨乳が最大公約数」なのは確認され、メディア時代の過度に視覚的な我々のセクシュアリティにおいては、「なるほどそれなら最高」な基本ラインに位置づけられるようです*10
 
 
 しかし、本作はそれに加えて、主に徳間書店がキャッチしてきたモンスター娘文脈から、海外ケモノエロ的なキッチュな幼児性までを取り入れた無節操さが難解の度を増しており、「何をどうセクシュアリティとして言明すべきか」も定かならないこの祝祭性を、いかに受け止めているのかだけは、明確にしたいと思わされます。
 
 

ポリティクスについて

 ところで、自分はこうした大衆文化のディティールに固執しても、人間の根源的な性の問題を記述できるとは思っていません。危うい表現が広く目に触れる機会があれば、文脈の整理と葛藤の身振りぐらいは、ネットの片隅に残しておきたいだけです。
 
 それはもちろん政治的なストレスに促されてのことですが、先に触れた『宇崎ちゃん』の騒動やラブライブのスカートとか、断片的に漏れ聞こえた地獄の詳細は調べる気が起きませんし、本作もまた周辺の言説をまったく観測せずに一人で鑑賞しました。
 
 さすがに胸を張って主張しておきますが、ここで私は「政治の否認」をしているのではなく、「もっともらしい政治的表象(Twitter論壇?)とは離れた次元で政治性を引き受ける実践」を模索しています。
 
 日本版ポリティカル・コレクトネスのもとを正して、華青闘告発以降の新左翼みたいに、陰惨な自己批判・同族批判をオタの立場から書いてきた当ブログですが、「こういう文章を書いてもネット論客レベルの議論では当然黙殺される」という事実だけは、証しえたと自負しています。
 
 一息で立場を明確にすれば、私は「内面の神秘を性産業に売り渡した人間が深刻面をしても何も変わらない」という滑稽を演じ続けることで、逆説的に、「無駄な神経症を斥けて黙ってポルノに充足しているオタクの繊細な動物性こそが最もラディカルであること」を擁護しようとしているわけです。
 
 
 このような立場を、本当に政治的に可視化させたいのであれば、いい加減に「オタク」概念自体を捨てて、「大衆文化に殉じる無名の質実な労働者」から「Twitterで発狂してる馬鹿」までのグラデーションを表現し、可能であれば「敵」をも明確に名指せるような思考を提示しなければいけない、とは分かっています。
 
 それが手に余る以上、ひとまず巨視的には「オタク的主体のリアリティと市民社会の倫理の両立不可能性」という危機を確認しながら*11、微視的には「作品経験の陶酔を固守するためにこそ原理論の勉強が不可欠であること」を表現しているわけです。
 
 
 そして、私が実在しない”もの”としての「オタク」概念で本作を逆形而上学的に語ってしまうのは、「大衆文化の歴史化不可能な諸細部」を「娼婦」の形象に集約させた本作が、もはや我々は「キャラクターで射精できること」以外の共通性を持たない、という「オタク的主体のリアリティ」を裏付けているからにほかなりません。
 
 
 本作の想像的な特色である「ポルノイメージの多産・文脈混交性」は、象徴的にも「多種多様な異種族の雌雄が自由に快楽を交換する歓楽街」というあまりに直截的な世界観に支えられており、異「種族」という生物学的分類に個体のセクシュアリティが(ほぼ)均一化された描写と相まって、あえて政治的語彙で表現すれば「能天気な男根主義で文化的多元性を謳歌する」ようなグロテスクさをたたえています。
 
 ポルノグラフィックなキャラクター文化の多元的肯定が、生物学的表象によってしか実現されないこと。「差異」と選択そのものに価値を置き、選択に先立つ重要性の地平を等閑視する「文化的多元性」の虚しさ。共に根を欠いたオタク文化リベラリズムが、恐ろしい野合を遂げそうな危うさは否定できません。
 
 まして、性的快楽を評価記述で媒介するグルメレポ的な原作の処理、つまりは「性の過剰を言語によって媒介するしかない」という最低限の人間らしさを、脂っこいサービスシーンに置き換えたアニメ版の演出には、 「言語的に構造化された無意識」という意味での、近代的なセクシュアリティの観念を笑い飛ばすような、陽気さと残酷さが見出されます。
 
 
 こうしたセクシュアリティの不在と表層性に、どう耐えているのか、は一応記述しておきたいわけですが、リベラル言説が国家権力に容易く回収されるようなコロナ騒動を見てしまった最近はもう、左右以前の未分化な状態に後退して、「クールジャパン」に回収されない「オタク的主体」のキモさを一貫させることだけが、重要である気がしています。
 
 
 そもそもセクシュアリティの定義とは、「性に我々が付与する意味」以上でも以下でもなく、言い換えれば、享楽に対する防衛、永遠に続くトラウマの穴埋めを、ある「人間」の「主体性」にピン留めする名詞的表現に過ぎません。
 
 本作に見られる「非-人間」の「歩く貨幣」としての「娼婦」とは、フェティッシュの空虚さを極限まで引き受けた形象であり、「人間性」や「アイデンティティ」と密接に結びついた「セクシュアリティ」概念自体に頼れない我々の生そのものを、表象しているとしか思えない気分があります*12
 
 
 
 以上のような、本来であれば取り立てて糾弾するまでもない消費文化のだらしなさ、凡庸な荒廃をただ直視し、「ポルノに関する共有できない無駄口」を叩くことだけが、「オタク」概念の全体性を脱臼し、私達を個体化させている当のものであることは、確認したく思われます。
 
 高遠るい氏が貞本義行氏を評して曰くの「手先が器用なだけの馬鹿」が確かに目立つ業界ですから、消費者レベルでも(敵が見えないタイプの)政治的緊張感が高まるのもやむなしですが、オタク系クリエイターの無思想を贖えるのは、私達の思考と言説だけであるという事実は、もう少し諸個人が重く受け止めてもいい気がしています。
 
 異性愛の安さ、凡庸さ、軽薄さ、不定形性を、それ自体として受け止めて思考すれば、性愛の問題系からは必然離陸してしまうがゆえ、「異性愛者の当事者言説」とは「全ての書物」を意味するかのごとくであり、「娼婦」という形象の極限的な表層性には、あらゆる生の深層が託され得ることは強調させてください。
 
 もはや「人間の性的過剰を十全に引き受けうる社会的身体」として肯定する以外にないキャラクター文化を、象徴レベルでも単なる娼婦として、その情けなさや取り返しのつかなさを含めて、一貫性を持って正確に表象してくれる作品を、自分は擁護せざるを得ない、という事情だけは表明させていただきました。
 
 
 
 早漏を取り繕うように遅筆の著しい自分が呪わしく、こういうメイドさんでばかり射精し続けて早4年目、最近は「甘々デレデレでご主人様を信仰している妹系幼馴染」性格のメイドさんとセックスしまくっており、信仰したいのは俺のほうなのに、と絶頂後の空漠もひとしおです。
 
 物象化の只中で娼婦への友情を表明したベンヤミンのひそみに倣い、オタとキャラクターを等しく「娼婦」として思考することは、露悪趣味というよりも、自分の認識を規定している理念と生の根本感情に結びついており、こんな馬鹿話を童貞のまま強弁しなければならない人間になるとは、思ってもみませんでした。
 
 
来たるべき哲学のプログラム(新装版)
 
 女性は対話の番人である。女性は沈黙を受け入れ、娼婦は、かつてのことをあらたに創始する者を迎え入れる。だが男どうしが語り合うとき、嘆きを見守る者は誰もいない。男たちの対話は絶望と化してうつろな空間に響きわたり、冒瀆の言葉をまき散らしながら、大いなるものをつかもうと手をのばす。二人の男が集まると、きまって挑発しあい、あげくのはては銃と剣に手が伸びる。男たちは猥談によって女性を滅ぼし、逆説が大いなるものを力ずくで強姦する。男どうしの言葉は結託し、同性どうしのひそかなよしみを通してますますいきおいづく。魂をもたぬ曖昧な言葉が、おぞましいばかりの論法を駆使してもなお隠しおおせぬまま、大手をふってまかり通るのだ。男たちの前には、あざ笑いながら啓示が立ちはだかり、彼らに沈黙を強いている。だが猥談が勝利をおさめ、世界は言葉によって組み立てられることになったのだ。 
 いまこそ彼らは立ち上がり、おのれの書物を引き裂き、女性なるものを奪い合わねばならない。さもないと、ひそかにおのれの魂を絞め殺すことになるからだ。  (p.21 「若さの形而上学」)
 
 
 
 

*1:感染を避けるセックスについては「コロナフリー・セックスのススメ—コロナの時代に流行るもの・廃るもの[11]-(松沢呉一) | 松沢呉一のビバノン・ライフ」など。セックスワーカーの貧困や、「若者が感染を広げている」論の欺瞞に関しても、松沢氏が詳しくまとめています

*2:原作単行本ソデの著者コメント参照

*3:『異種族レビュアーズ』原作者インタビューでクリムの名前の由来や幻の没ネタが判明 - 電撃オンライン」参照

*4:漫画については普段書いてないので、いちおう立場を明確にしておくと、自分はテレビアニメ一辺倒で出発したオタとして、紙媒体での漫画受容経験が人より極めて乏しいまま、2015年頃に受けた Web漫画レビューの仕事で漫画体験の言説化を初めて課題とした人間です。『オゲハ』の人や窓ハルカ氏に喜んでもらえたのが良い思い出で、確か『Stand by me 描クえもん』について軽く書き、佐藤秀峰氏に「今どき長文の漫画感想は珍しい」とTwitterで言及された記憶があります。こんなんで。アニメも漫画も長文が足りないのは長らく同じ事情らしい、と印象付けられた身としては、雑誌媒体の猥雑さではなくWeb媒体のつまみ食いに最適化された、現代読者の感覚のサンプルだけでも提示できればと考えています

*5:本作のエグさを解釈しきれず、単なる性嫌悪で批判している知り合いも見かけるので、ポルノを咀嚼するのも骨が折れる作業だよな……色々と整理したほうがよさそうね……という動機で本稿を書いています

*6:『冴えカノ』と共通のウザさだったので丸戸史明由来だと思います

*7:雑破業ジュブナイルポルノ『ゆんゆん☆パラダイス』の挿絵から好きなので、最近のTwitterでは鬱っぽいのがつらいです

*8:あえて政治的に意味付けておくと、村上隆の例の露悪的な母乳縄跳びフィギュアでベタに射精してやるような動物性にこそ、オタクのラディカリズムを見出している感覚は昔から変わりません

*9:このあたりは稀見理都『エロマンガ表現史』長澤均『ポルノ・ムービーの映像美学』などを参照

*10:関係ありませんが、「妻の母乳を求める男性たち─この“慣習”を“伝統”にしてはいけない | 懸念高まる女性と赤ちゃんへのリスク | クーリエ・ジャポン」などを読んでも、人類は所詮この程度、無意識の欲望に成熟など無いという確信は、いよいよ深まる近頃です

*11:「悪無限としての動物」である我々が抱えたアイデンティティ・ポリティクスの不可能性とは、これまた『政治的動物』に感銘を受けた論点です。ポリティカル・コレクトネスも煎じ詰めれば経済的諸関係に規定されたイデオロギーのひとつに過ぎないこと、よってオタク産業と同じほどにリベラル言説にも肩入れできない事情については、手早く『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』なども再確認いただければ

*12:私は、ざっくり「萌え属性に対する規律訓練に基づいた神経興奮作用で射精しているにすぎない」という『動ポモ』当時における東浩紀氏のオタク観が、それ自体として「オタクはセクシュアリティを語っても意味がない」という「大きな物語」を機能させてしまった気がしてなりません。そのような「生物学的還元」と、ゼロ年代批評がもっぱら「KeyやTYPE-MOONなどのエロくないノベル系エロゲが大好きな第3世代オタクの自己肯定」として受容されてしまった事実は、表裏の関係にあるよう思われます。それが悪いわけではなく、むしろ私達の性の条件を明確に証した歴史として引き受ければこそ、私は「セックスの無意味を否認/軽蔑したポルノ評論」を斥け、生物学的次元に切り詰められた「剥き出しの生」を肯定する人間/動物として、「オタク第4世代」を名乗りたい気持ちに駆られています