自分は長らく以前から、必要がなければ極力外に出ない在宅仕事一筋の人間で、たまに行く図書館が使えなくなった以外、コロナ以降もほとんど生活が変わっていません。まるで、最初からキャ
ラクターという悪質なウィルスに冒されて、自主隔離でもしていたかのように。
罹っても多分死なない若輩として、国家とメディアの
同調圧力には無関心を表明しておきますが、仄聞だけで
気鬱になるのはDVの急増で、家にこもれば女を殴るしか能がない大量の「社会人」の存在は、「引きこもり」を社会問題から模範的生へと反転させるかのごときメディアの掌返しすら、甘んじて容れさせるものがあります。
生来の人間嫌いとしては、「パートナー以外と濃厚
接触しづらくなって人類も大変だな」と同情の念を禁じえず、精神面どころか身体面でも「性関係の不在」は今後ますます明白となって、
オナニストの隠然たる覇権時代を新型コロナが裏打ちするわけか、と改めて感慨深いです
*1。
不要不急の外出で抵抗を示す代わりに、チープな現実を贖うジャンクなポルノ消費の内的経験を記述しておくので、「若年大衆の政治動員」を真面目に考える向きは、敵情視察にでもご活用ください。
プロダクトについて
隆盛著しいグルメレポ漫画の形式に*2『ファンタジーRPGクイズ』シリーズなどを参照したTRPGリプレイ風のリアリティを注入した*3本作は、「なろう異世界系」よりも若干厄介なオタク頓智の結果として、ファミ通ゲームレビューと実話誌風俗レビューをドッキングし、「ファンタジー世界の非-人間の娼婦がもたらす性的快楽のクロスレビュー」というモチーフに到達したソフトポルノです。
4巻まで読んだ印象では、性行為を評価記述に置き換えたイメージショットが多いのもあり、設定のどぎつさに比べるとあっさりした読み味で、原作者のWeb出身らしい軽薄なりに奔放な発想力を、人外娘出身の作画担当者がのびのび表現したようなイメージの多産が特色と思われました *4。
ポルノ造形の勘所は押さえつつもデフォルメが強く、ぱきっとした線の強弱とざっくりした塗り・描き込み方は、湿った情念のない健康な過剰性をするっと読ませ、オタイメージの多形性を無邪気に言祝ぐ爽やかさを感じます。
前述したグルメレポ的フォーマットに抑制された、「
セックスワーク」と
カタカナ語で表記してもギリ違和感のない明け透けな生活感覚が、ボンクラ中年に馴染み良い「悪場所ならではの和やかさ」を醸した手付きも印象的です。もちろん、
「娼婦」「風俗街」といった直截的な表現を回避した範囲内で、ですが。
巻を追うごと「普通に雑な絵」に寄ってる感はありますが、あまりいやらしさを感じないさばけた感覚は一貫して好ましく、ドメスティックなオタ文脈なのに海外ポルノのような距離感で読める塩梅は、美点と言ってよい気がします。
ただ、そうした原作の巧緻と文脈が見えづらいアニメ版は、原作よりもハ
イカロリーな
うのまことキャラデが風情を全てひっくり返し、異常に浮薄な男根崇拝に見えて超ドキドキする危うさなのも間違いありません
*5。
イメージについて
バーチャルリアリティ、ドラッグ、ゾンビ、食肉処理場、殺人犯、オカルティズム、チベット仏教、マインドフルネス、瞑想、ラジオ、死、猫が詰まった完璧な海外アニメーション『ミッドナイト・ゴスペル』に唯一足りない要素はセックスです。
『ミューティ
クルドリーミー』と『プリンセスコネクト』にチンコバキバキで忘れがちですが、『
大家さんは思春期!』(16)などで丁寧な手付きを窺わせる一方、『みるタイツ』(19)のフェ
ティッシュ処理にはうんざりさせられた
*6小川優樹監督によるアニメ『異種族レビュアーズ』は、OP
からしてYMCA風の下ネタ
コミックソングに乗って高速カットのセックス三昧です。
キャ
ラクターに快楽以上のものを求めないことにしているバーチャル
セックス依存症者としては、自分の荒廃した性生活を全力で肯定してくれる象徴性が好ましいと同時に、「俺の本音を全部言うなよ」と後ろ暗い気分にもなるOPで、とりわけ、好みが分かれる金髪エルフに代わって「なるほどそれなら最高じゃん」と爆乳牛娘で手を打つカットは待ってください!と引っかかり、そうですね……それはそうですけど……そこで肯んじる力強さには勇気付けられますが……色々と説明責任が発生してませんか……?(CV:
富田美憂)
加えて、
二次裏junなどのエロコラ文化が盛んな画像
掲示板で超乳表現が煮込まれていった事情については、特に歴史化不可能ですから、そうした「ネットのエロ画像でシコってた若い頃に好きだったアングラエロ感性」が表舞台に引っ張り出されたような居心地悪さは、ちゃんと乳牛を娼婦として表象している本作以上に、『すのはら荘の管理人さん』(18)や『
小林さんちのメイドラゴン』(17)にこそ抱いてきたことは証言します。
もちろん、実写文脈も踏まえてこの視覚的快楽を説明するなら、BACHELORなどの巨乳グラフ誌、
ラス・メイヤーなどのセクスプロイテーション・フィルム経由で輸入された
アメリカ豊胸文化に当然由来し
*9、
オタク文化に「
アメリカの影」見たり!
江藤淳の『成熟と喪失』を嫁!!!と言われて、何を今さら、と言えるぐらいの歴史感覚は持ちたいわけです。
手早く
『巨乳の誕生』などを参照しても、2000年代以降は
オタク文化に限らずAV・グラビア含めて「童顔巨乳が最大公約数」なのは確認され、メディア時代の過度に視覚的な我々の
セクシュアリティにおいては、「なるほどそれなら最高」な基本ラインに位置づけられるようです
*10。
しかし、本作はそれに加えて、主に
徳間書店がキャッチしてきたモンスター娘文脈から、海外ケモノエロ的な
キッチュな幼児性までを取り入れた無節操さが難解の度を増しており、「何をどう
セクシュアリティとして言明すべきか」も定かならないこの祝祭性を、いかに受け止めているのかだけは、明確にしたいと思わされます。
ポリティクスについて
ところで、自分はこうした大衆文化のディ
ティールに
固執しても、人間の根源的な性の問題を記述できるとは思っていません。危うい表現が広く目に触れる機会があれば、文脈の整理と葛藤の身振りぐらいは、ネットの片隅に残しておきたいだけです。
それはもちろん政治的なストレスに促されてのことですが、先に触れた『宇崎ちゃん』の騒動や
ラブライブのスカートとか、断片的に漏れ聞こえた地獄の詳細は調べる気が起きませんし、本作もまた周辺の言説をまったく観測せずに一人で鑑賞しました。
さすがに胸を張って主張しておきますが、ここで私は「政治の否認」をしているのではなく、「もっともらしい政治的表象(
Twitter論壇?)とは離れた次元で政治性を引き受ける実践」を模索しています。
日本版
ポリティカル・コレクトネスのもとを正して、華青闘告発以降の
新左翼みたいに、陰惨な
自己批判・同族批判をオタの立場から書いてきた当ブログですが、「こういう文章を書いてもネット論客レベルの議論では当然黙殺される」という事実だけは、証しえたと自負しています。
一息で立場を明確にすれば、私は「内面の神秘を性産業に売り渡した人間が深刻面をしても何も変わらない」という滑稽を演じ続けることで、逆説的に、「無駄な
神経症を斥けて黙ってポルノに充足しているオタクの繊細な動物性こそが最もラディカルであること」を擁護しようとしているわけです。
このような立場を、本当に政治的に可視化させたいのであれば、いい加減に「オタク」概念自体を捨てて、「大衆文化に殉じる無名の質実な労働者」から「
Twitterで発狂してる馬鹿」までのグラデーションを表現し、可能であれば「敵」をも明確に名指せるような思考を提示しなければいけない、とは分かっています。
それが手に余る以上、ひとまず巨視的には「オタク的主体のリアリティと
市民社会の倫理の両立不可能性」という危機を確認しながら
*11、微視的には「作品経験の陶酔を固守するためにこそ原理論の勉強が不可欠であること」を表現しているわけです。
そして、私が実在しない”もの”としての「オタク」概念で本作を逆
形而上学的に語ってしまうのは、「大衆文化の歴史化不可能な諸細部」を「娼婦」の形象に集約させた本作が、もはや我々は「キャ
ラクターで射精できること」以外の共通性を持たない、という「オタク的主体のリアリティ」を裏付けているからにほかなりません。
本作の想像的な特色である「ポルノイメージの多産・文脈混交性」は、象徴的にも「多種多様な異種族の雌雄が自由に快楽を交換する歓楽街」というあまりに直截的な世界観に支えられており、異「種族」という生物学的分類に個体の
セクシュアリティが(ほぼ)均一化された描写と相まって、あえて政治的語彙で表現すれば「能天気な
男根主義で文化的多元性を
謳歌する」ようなグロテスクさをたたえています。
ポルノグラフィックなキャ
ラクター文化の多元的肯定が、生物学的表象によってしか実現されないこと。「差異」と選択そのものに価値を置き、選択に先立つ重要性の地平を等閑視する「文化的多元性」の虚しさ。共に根を欠いた
オタク文化と
リベラリズムが、恐ろしい野合を遂げそうな危うさは否定できません。
まして、性的快楽を評価記述で媒介するグルメレポ的な原作の処理、つまりは「性の過剰を言語によって媒介するしかない」という最低限の人間らしさを、脂っこいサービスシーンに置き換えたアニメ版の演出には、 「言語的に構造化された無意識」という意味での、近代的な
セクシュアリティの観念を笑い飛ばすような、陽気さと残酷さが見出されます。
こうした
セクシュアリティの不在と表層性に、どう耐えているのか、は一応記述しておきたいわけですが、リベラル言説が国家権力に容易く回収されるようなコロナ騒動を見てしまった最近はもう、左右以前の未分化な状態に後退して、「クールジャパン」に回収されない「オタク的主体」のキモさを一貫させることだけが、重要である気がしています。
そもそも
セクシュアリティの定義とは、「性に我々が付与する意味」以上でも以下でもなく、言い換えれば、享楽に対する防衛、永遠に続くトラウマの穴埋めを、ある「人間」の「主体性」にピン留めする名詞的表現に過ぎません。
本作に見られる「非-人間」の「歩く貨幣」としての「娼婦」とは、フェ
ティッシュの空虚さを極限まで引き受けた形象であり、「
人間性」や「
アイデンティティ」と密接に結びついた「
セクシュアリティ」概念自体に頼れない我々の生そのものを、表象しているとしか思えない気分があります
*12。
以上のような、本来であれば取り立てて糾弾するまでもない消費文化のだらしなさ、凡庸な荒廃をただ直視し、「ポルノに関する共有できない無駄口」を叩くことだけが、「オタク」概念の全体性を脱臼し、私達を個体化させている当のものであることは、確認したく思われます。
高遠るい氏が
貞本義行氏を評して曰くの「手先が器用なだけの馬鹿」が確かに目立つ業界ですから、消費者レベルでも(敵が見えないタイプの)政治的緊張感が高まるのもやむなしですが、オタク系クリエイターの無思想を贖えるのは、私達の思考と言説だけであるという事実は、もう少し諸個人が重く受け止めてもいい気がしています。
異性愛の安さ、凡庸さ、軽薄さ、
不定形性を、それ自体として受け止めて思考すれば、性愛の問題系からは必然離陸してしまうがゆえ、「
異性愛者の当事者言説」とは「全ての書物」を意味するかのごとくであり、「娼婦」という形象の極限的な表層性には、あらゆる生の深層が託され得ることは強調させてください。
もはや「人間の性的過剰を十全に引き受けうる社会的身体」として肯定する以外にないキャ
ラクター文化を、象徴レベルでも単なる娼婦として、その情けなさや取り返しのつかなさを含めて、一貫性を持って正確に表象してくれる作品を、自分は擁護せざるを得ない、という事情だけは表明させていただきました。
物象化の只中で娼婦への友情を表明した
ベンヤミンのひそみに倣い、オタとキャ
ラクターを等しく「娼婦」として思考することは、露悪趣味というよりも、自分の認識を規定している理念と生の根本感情に結びついており、こんな馬鹿話を童貞のまま強弁しなければならない人間になるとは、思ってもみませんでした。
女性は対話の番人である。女性は沈黙を受け入れ、娼婦は、かつてのことをあらたに創始する者を迎え入れる。だが男どうしが語り合うとき、嘆きを見守る者は誰もいない。男たちの対話は絶望と化してうつろな空間に響きわたり、冒瀆の言葉をまき散らしながら、大いなるものをつかもうと手をのばす。二人の男が集まると、きまって挑発しあい、あげくのはては銃と剣に手が伸びる。男たちは猥談によって女性を滅ぼし、逆説が大いなるものを力ずくで強姦する。男ど
うしの言葉は結託し、同性ど
うしのひそかなよしみを通してますますいきおいづく。魂をもたぬ曖昧な言葉が、おぞましいばかりの論法を駆使してもなお隠しおおせぬまま、大手をふってまかり通るのだ。男たちの前には、あざ笑いながら啓示が立ちはだかり、彼らに沈黙を強いている。だが猥談が勝利をおさめ、世界は言葉によって組み立てられることになったのだ。
いまこそ彼らは立ち上がり、おのれの書物を引き裂き、女性なるものを奪い合わねばならない。さもないと、ひそかにおのれの魂を絞め殺すことになるからだ。 (p.21 「若さの
形而上学」)