おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

雑記:政治と文学の峻別について

 前回の記事を書いてから神経症的な苛立ちが続いて生活が辛く、新しい記事も二度三度書き直して反故にしたゆえ、今回は雑記のかたちで、弛緩した態度表明のみ済ませます。ご寛恕を請います。

 前回の記事は、かつて趣味の共同性において友情を感じていた知人が、「リベラル」と他称されるタイプの高圧的なTwitter人格を選択したことに関する、悲しみと怒りの情動を表明したものと要約できます。

 この実践は、知人の「リベラル」っぽい居丈高な他罰性を、「オタク」的な来歴に遡って解釈することで、「リベラル対オタク」という政治的(とされている)対立項を、「リベラルでもオタクでもある人間存在」という、いわば実存論的な問いへ横滑りさせるところに、第一の企図がありました。

 それはひとえに、人間存在の諸部分に過ぎない社会的属性や、醜悪に見える特定の様態のみをあげつらい、「リベラル」「オタク」「いじめ被害者」等々の概念を当てはめて、敵対性を構築するSNS政治と付き合うのに疲れ果てているためです。

 しかし、私のこの構えは、床屋政談のノリでネット上の他者を気軽に叩く知人を軽蔑するあまり、かえって既存の対立軸をなぞるアイデンティティ・ポリティクスに後退してしまったよう、我ながら思われます。

 それを証明するかのように、私の記事に対する知人からの反応は無く、某オタク叩きアニメアイコン学者をリツイートするのに忙しいようです。

 心底恥ずかしい連中だな、自分のペニスにすら向き合えない馬鹿が不特定多数の他者の性的欲望を批判できるとか勘違いしてんじゃねえよ、という本音をごまかすつもりは、すでにありません。

 ただ、Twitter上の身振りで他者の人格を評価できてしまえるかのような、我々ネット生活者の幻想自体が愚かしいわけで、これ以上は口を慎みます。

 というのも、生身の個人の生を無視した理性偏重の議論で鬱陶しがられる一部アカデミアの隠れ差別主義、といった論難が、例えば倉持麟太郎『リベラルの敵はリベラルにあり』などの近刊において、内在的批判として洗練されている状況を踏まえれば、私のような雑魚が適当ぶっこいても詮無いためです。

 よって本稿では、「リベラル的でもオタク的でもある人間存在」という、前回は知人に差し向けた問いを私自身に向け直すことで、政治という範疇の領分を弁える思考について、乱雑なまま開陳しておきます。

 

 §1

 当ブログは一貫して、現在の日本人には極めて一般化したものである、幼年期から青年期にかけての濃密なサブカルチャー経験を、学知によって隠喩化せざるを得ない主体の心的過程を、拙くも問題化してきました。

 これは、日常的な言語使用では掬いきれない問題設定であるがゆえに、政治とは異なる文学の領域として指示される傾向にあります。

 実際、前回の記事でいささか唐突に「政治ではなく文学として見なされているのであれば」という書き方をしたのは、知人が対面で私の文章を評した際、「それは政治ではなく文学の問題だから」と漏らした事実を受けています。

 知人の言質をもって前回の記事を書かせた私の「政治的」な苛立ちは、リベラルな公共意識を踏まえて内面に退却したオナニー日記から政治性を組み立て直そうとしたら、当のリベラル的な主体における解釈枠の不在のためにその企図が読み取られず、もっぱら趣味の共同性に基づく「政治から断絶した文学的なオタク批判」という狭隘な読み方によって黙殺/褒め殺しを食らったことである、と要約できます。

 これはいささか滑稽であり、過剰に自罰的でいると人に舐められる典型例を演じたことになります。そして、こうした態度で暗々裡に性の語りを他者に要求する腹積もりも、まったく無意味で下世話な期待であったと、卒業する気にさせられました。

 なによりも、かつての私自身が金塚貞文氏の動画で「政治的なストレスとは無関係に」自慰を問題化する立場を明確にしています。政治理論の本など読むと、この初心を忘れがちになるのが困りものです。

 つまり、前回の「政治的」な自己認識は、被害者意識を優先させた観念の暴走にすぎなかった。むしろ、文学として評価されるのは素朴に光栄であると、胸を張るのが正解であったと考え直しています。

 

 するとここでは、時代精神による「政治と文学」の恣意的な線引きに対する、私の疑念だけが自覚されます。この線引きの基準を求めるべく、私が手早く参照したのは、福田恆存の書物です。

 以下にだらだらと書き連ねた読書感想文は、中島一夫氏による「福田恆存の「政治と文学」 - KAZUO NAKAJIMA 間奏」などを参照すれば読む必要はありません。それでも、「政治と文学」論争が現代人にも当然リアリティを失わないことの例証として、あえてずぶずぶべったりの読み方を開陳しておきます。

 マイナー・ポリティクスを「自分の言葉」で語る蛮勇が尽き果てたのち、無学にも三十の齢で初めて読んだ福田の言葉に泣きたくなった事情を、以下に汲んでいただければ幸いです。

 

 §2

保守とは何か (文春学藝ライブラリー)

保守とは何か (文春学藝ライブラリー)

  • 作者:福田 恆存
  • 発売日: 2013/10/18
  • メディア: 文庫
 

 論争に参与するのは知性である。思想は論争しない。ひとりの人間の肉体がさうであるやうに、思想もまた弱点は弱点としておのれを完成する。ところが論争はつねにいづれかの側に正邪、適不適の判定を予想するものである。[…]ひとびとは論争において二つの思想の接触面しかみることができない。[…]この接触面において出あつた二つの思想は、論争が深いりすればするほど、おのれの思想たる性格を脱落してゆく。かれらは自分がどこからやつてきたかその発生の地盤をわすれてしまふのである。[…]このさいかれのなすべきもつとも賢明な方法は、まづ論争からしりぞき、自己の深奥にかへつてそこから出なほすことをおいてほかにない。が、ひとびとはそれをしない。あくまで接触面に拘泥し、論理に固執して、なんとか相手をうちまかさうとこころみる。それがおほくのひとびとをゆがめられた権力慾にかりたて、たがひにおのれをたて、他を否定してはばからしめぬのである。(p.11)

 

 ぼくたちはながい混乱の季節のなかにあつて政治のことばで文学を語る習慣をすつかり身につけてしまつてゐる。ひとびとはいまだにこの混乱に気づかうとしない。のみならずぼくたちの文学の宿命的な薄弱さが政治意識の貧困からきてゐるといふ常識は、ひとびとをしてこの混乱から脱卻させるよりも、むしろ混乱のうへに混乱をかさねる結果を招来せしめてゐる。(p.13 「一匹と九十九匹と」)

 これは一九四六年のテクストですが、Twitterの喧騒を眺めて十年以上経つ身にも、耳に甘いところがあります。

 ただし、ここに類比できる私なりの「思想」や「文学」など、もとを正せば大量消費を前提とする現代の文化産業に創造性を見出しえず、創作にも批評にも殉じることができなかった、凡庸な消費者のニヒリズムにすぎません。

 つまり、私のような性格の悪い大衆は、二十代半ばあたりでオタクとしての矜持を忘れ、もっぱら知性に偏って思想を失い、自己疎外と生活世界の否定に行き着く傾向があるらしいのです。

 前回では知人と私をともに形容し、本稿では私自身に限るところの、同族を非難することでリベラルっぽく見える「オタクエリート」の足元には、こうしただらしなさが潜んでいる事実を、取り急ぎ自己批判させてください。

 

 が、ぼくたちはあらゆる文化価値を享受しうるとしても、その創造のいとなみを、その由つてきたるところをかならずしも理解しえぬのみならず、またそれを理解する必要はない。その理解する必要のないことをはつきりさうといひきらぬために――知らぬ世界を知らぬままに放置する寛容さのないために、ひとびとは知らなければならぬ自己を知りえず、自己のいとなみを完全にはたすことができないのである。のみならず、たがひに相手のいとなみを理解しようとし、また理解したとおもひこむ習慣が、相手をおのれの理解のうちに閉ぢこめてしまひ、その完全ないとなみを妨げる。政治は政治のことばで文学を理解しようとして文学を殺し、文学は文学のことばで政治を理解しようとして政治を殺してしまふ。ぼくたちがぼくたちの近代をかへりみるばあひ今日のあひことばになつてゐる政治と文学との乖離といふことも、この意味においてふたたび考へなほされねばならない。(p.14-15)

 この段落は、「文化産業」と一口に言ったところで、消費文化の猥雑な文脈混淆性を理解し尽くせるとは到底思えず、半端な床屋談義をする暇があったら作品に集中していたい、という我々消費者の忙しない無力さを託して読むことができます。

 さておき、その前に整理しておけば、ここは故郷喪失の不安によって客体の全体を把握せんと急く近代的主体が、全体主義(政治)とロマン的イロニー(文学)に引き裂かれた歴史を踏まえて、なにかを理解するとは自意識の無限後退をある一点で止めること、すなわち自己と対象のパースペクティブを定め、私が世界を納得する仕方(生き方=型)を設定することであると弁える福田の、「誠実が死ではなく、生を志向しうる文学概念」が彫琢される過程として読まれる一節です(p.385-388 「編者解説」)。

 

 結論はかういふことになる。われわれは全体のなかに埋没してゐても自由はない。さりとて全体から遊離し、それを眺めわたす位置に立つても自由はない。前者においては、われわれはただ動物のやうに生きてゐるだけであり、後者においては、われわれは神のやうに認識してゐるだけであります。人間としての自由は、認識しながら同時に生きることに、すなはち全体感に浸る喜びにある。そしてそのためには、判断と生活とを停止させて時空を一定限度に区切る型が必要なのであります。(p.133「民衆の生きかた」)

 当ブログが体現してきたのは、出版業界の世話になって身につけた小利口から、かえってオタク概念に隠喩化される民衆相応の精神の型を喪失したがために、大衆文化という全体のうちに生き方を保つ他者に対する嫉妬に駆られ、戻り得ぬ過去を嘆き続ける人間精神の愚かさにほかなりません。

 私は批評家でも作家でもなく、単なる消費者の立場を貫きます。よって、ある理論によって全体を仮構するのではなく、そもそもは所与の生活世界という全体に対する信頼に形成されていた個人の生き方を取り戻すために、「批判者としての個人の真実は、一度、民衆の生活のために死ななければならない。それは妥協ではありません。さうしなければ、それは生きられないのです。(p.141)」(強調引用者)という福田の言葉を信じて、政治と文学の峻別を改めて強調したいのです。

 

§3

 ぼくはひとつの前提から出発する――政治と文学とは本来相反する方向にむかふべきものであり、たがひにその混同を排しなければならない。そこに共通の目的があるかどうか、またあるとすればそれはなんであるか、そのやうなことを規定する努力はおよそくだらぬことである――ぼくたちがおなじ社会のうちに棲息し、ひとつかまのめしを食つてゐるかぎりは。ぼくはこの連帯感を信ずるがゆゑに、安んじて文学と政治とを反撥せしめてはばからぬのである。[…]政治がきらひだからでもなく、政治を軽蔑するからでもない。[…]それは政治の十全な自己発揮を前提としてゐる。(p.14-15)

 しかし、同じ社会に生きる人間同士の連帯感を支えることで、政治と文学の峻別を保証するべき「善き政治」ほど、我々から失われて久しいものはありません。

 

 ぼくはぼく自身の内部において政治と文学とを截然と区別するやうにつとめてきた。その十年あまりのあひだ、かうしたぼくの心をつねに領してゐたひとつのことばがある。「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや。」(ルカ伝第十五章)[…]天の存在を信じることのできぬぼくはこの比喩をぼくなりに現代ふうに解釈してゐたのである。このことばこそ政治と文学との差異をおそらく人類最初に感取した精神のそれであると、ぼくはさうおもひこんでしまつたのだ。かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのにさうゐない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てゐた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれてゐたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか――イエスはさう反問してゐる。[…]

 

 善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかへしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する。しかもこの犠牲は大多数と進歩との名分のもとにおこなはれるのである。[…]善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなければならない。(p.16-18)

 啓蒙的理念を傲然と人民の内面に押し付ける「悪しき政治」を、気軽にポリコレと類比するのは憚られます。最低限、政党政治の腐敗が派生させた自警団的道徳意識の蔓延とは、無関係でありたいと願うだけです。

 それは例えば、「セカイ系決断主義」という袋小路に陥ったゼロ年代実存論を、ネットのサブカル浮動層=フロートという政治単位に横滑りさせた書物である村上裕一『ネトウヨ化する日本』が、サブカル評論では無論のこと、現在のネット右翼研究ですらほとんど参照されていないように見える状況を踏まえれば、政党政治根腐れを凝視しない文化批評によって「政治と文学」を混同する構えは、明らかに無意味と確信されるためです。

 

 なるほど政治の頽廃期においては、その悪しき政治によつて救はれるのは十匹か二十匹の少数にすぎない。それゆゑに迷へる最後の一匹もまた残余の八十匹か九十匹のうちにまぎれている。ひとびとは悪しき政治に見すてられた九十匹に目くらみ、真に迷へる一匹の所在を見うしなふ。 

 

 […]ぼくたちの文学の薄弱さは、失せたる一匹を自己のうちの最後のぎりぎりのところで見てゐなかつた――いや、そこまで純粋におひこまれることを知らなかつた国民の悲しさであつた。[…]政治が十匹の責任しか負いえぬとすれば、文学は残りの九十匹を背負いこまねばならず、しかもぼくたちの先達はこれを最後の一匹としてあつかはざるをえなかつた。(p.18-19) 

 ここまで引用した九十九匹(政治)と一匹(文学)の区別は、しかし愚民(政治)とエリート(文学)といった、社会階層や人格類型の次元に単純化されてはなりません。福田の政治論は、相対的解決を図る政治=事実の論理から、絶対を問う心情=価値の論理を区別することに貫かれているためです(p.390)。

 よって、この議論はあくまでも、ひとつの全体性=一〇〇匹としての人間精神が抱えた、九十九匹の部分(世俗的な生)と一匹の部分(絶対的な生)を切り分ける精神の政治学として理解される必要があります。

 このような分別の思考が、限りなく同時代人に忘却されている。というより、私自身がまったく直感的に掴み損ねてきた生活者の良識の問題を、見事に言い当てられた気がしたために、読書メモは残したかった次第です。

 

[…]現代の風潮は、その左翼と右翼とのいづれを問はず、社会の名において個人を抹殺しようともくろんでゐる。[…]ぼくは相手を否定せんと企ててゐるのではなく、ただおのれの扼殺される危険を感じてゐるのにすぎない。(p.22-23)

 

政治と文化との一致、社会と個人との融合といふことがぼくたちの理想であること[…]すでに懐疑の余地のない厳然たる事実である。問題はその方法である。[…]ぼくは両者の完全な一致を夢見るがゆゑに、その截然たる区別を主張する。乖離でもなく、相互否定でもない。両者がそれぞれ他の存在と方法とを是認し尊重してのうへで、それぞれの場にゐることをねがふのである。(p.29)

 

 文学とは阿片である――この二十世紀において、それは宗教以上に阿片である。阿片であることに文学はなんで自卑を感ずることがあらうか。[…]阿片といふことがたとへ文学の謙遜であるにしても、その阿片たる役割すらはたしえぬもののいかにおほきことか。[…]文学は――すくなくともその理想は、ぼくたちのうちの個人に対して、百匹のうちの失はれたる一匹に対して、一服の阿片たる役割をはたすことにある。(p.29-30)

 

 本来の指示対象である近代日本文学と比較するまでもなく、現今の大衆文化の大方が「一服の阿片」にも満たぬものと感じられるのであれば、阿片を阿片として正しく先鋭化し、それを肯定しうる覚悟と内的論理を保守する活動は、「文学」的な思考しかできない人間として、積極的に引き受けていきたいと考えています。

 以上の文脈に関して、続く論考を紹介する余裕はありません。ただ、政治の自律性を信じたいがためにこそ文化の自律性に踏みとどまる、あえて言った「オタク」的な大衆が生きている筈の暗黙の了解を、こうした文献から捉え返して信頼を置き直せば、「オタクエリート」的な他者憎悪など何程のものでもないことだけは、主張させてください。

 というのも、編者の浜崎氏の表現をなぞれば、「私たちが欲してゐるのは、自己の自由ではない。自己の宿命である」(『人間・この劇的なるもの』)がゆえに、「自己が居るべきところに居るといふ実感」、その「宿命感」だけが人生を支えている事実を、私も受け入れられる齢に達したためです。私の宿命感を託すべき生活世界とは、若年期から親しんだネット文化であること、些末な自尊心が邪魔したところで、覆しようがありません。

 青春の蹉跌と無能な中年の恥辱だけ、教訓として後続に伝えることができれば十分であり、今後は観念的ラディカリズムを抑制した、オタク文化保守のつまらない文章を書くブログになると思われます。

 

§4

 私は極めて受動的にネットの観測範囲を定めることで過剰接続を戒めており、Twitterはフォローしていただいた方と、その周辺を眺めるに留めて、関係のない人間の喧々諤々はなるべく読まないようにしています。

 しかし、前回の記事がまさしく高圧的なTwitter論者を批判する内容だったのもあり、反リベラルの政治態度を取る方の言葉を読む機会が、最近増えています。代表的なものだけでも、歴史学者の吊し上げ批判から小山晃弘氏の闇落ちに至るまで、とてもついていけない目まぐるしさです。

 おそらく小山氏が予見するごとく、「リベラルに失望したリベラル」がひそかに糾合しているらしい新右派の隆盛、つまり反リベラル・反フェミニズムの潮流は今後いよいよ大衆化し、福田の時点で問題化されていた知識人と大衆の反目、あるいは両者の明確な線引きが溶解したために到来した「キリストがいないまま「裁きたい」と言うユダの群れの時代」は、さらに酸鼻を極めると予想されます。

 よって、私ごときがいくら「大衆性と学知の乖離」を生き、それを滑稽と恥辱の表現に置き換えて、既存の政治的対立項をずらすユーモアを意識したところで、政治的な効果など無きに等しく思われています。本稿で政治と文学の峻別を、再確認した所以です。

 

 もちろん、本田透非モテ論が回帰したような「自由恋愛と再生産の両立不可能性」を重視するラディカルな平等主義によって、反自由=反リベラリズムに邁進している小山晃弘氏を見ていると、複雑な思いも去来します。

 大衆の生活実感を理論に組み入れることを拒絶し続けるリベラルの言説は単純に退屈であり、反感以上に諦めが強くあります。むしろ、それを超えて同情すら覚えるかもしれません。徹底した男性論の政治化、いわば「射精の全体主義」をもってリベラルの終焉を宣告する小山氏に対しては、私ですらその苛烈さにたじろぐというのが本音だからです。

 最近の記事では「反フェミニズムを超えた反女性思想によるテロルの急増」が予見されており、ここまで状況が切迫しているとは思いませんでした。こうした動向が市民権を獲得した先には、笙野頼子氏が幻視した「にっほん」と「ウラミズモ」の分断だけが待ち構えているのではないでしょうか。

 事ここに至っては、性的差異を政治化した果ての殺し合いを回避する、寛容の論理を詳らかにすることだけが、一市民にできることだと考えています。

 そのあたり、小山氏が予見している再生産的宗教保守コミュニティの回帰に対して、「倒錯としてのオタク論」を構築する必要があるのでは、という着想があります。同人誌の原稿で、クロソウスキー『生きた貨幣』における倒錯/再生産の対立項から、オタク文化に生きられる自由と放蕩を理論化したところだったので。

 その同人誌が出ないことになってしまい、さしあたりぼんやり生きているため、近況報告に留めた次第です。