「オタク」と呼ばれる社会集団を正確に把握したい気持ちで手に取りましたが、かなりクセの強い一冊でした。
普通のオタの人が読んだ場合、
ディシプリンで完全
武装したおっさんが性急にちんこを蹴ってきて怖い、という読書体験になります。「自らをオタと規定して読んだ場合に反感を覚える」度では、近年稀に見るヤバさでした。
自分は計量データを全く読めない人間なので、そのあたりの問題は措くとして
*2、そうしたオタ反感レベルでのプチ炎上は兵頭新児氏の書評
*3などがあります。個人的には、本書に関連した何かのTogetterで「社会調査にも金がかかるのよ」という北田氏の発言を見かけ、世知辛さで色々どうでもよくなりました。
北田氏の議論の是非はさておき、死ぬほど雑に
ブルデュー用語を使って証言すると、「参入障壁は高いが
教養主義的卓越化のゲームが機能しにくく、ある意味で「
動物化」した場といえる」アニメという界を自分が生きてきた体感、確かにテレビアニメ言説は卓越化の利得が薄い
*5世界であり、極めた諸個人がそれぞれ勝手に煮詰めまくって嫌な緊張感を醸した場だとは思います。そこで目立った発言をする機会すら持てないまま、時代の速度と物量に黙殺されて、孤立したタイプの人とばかり付き合ってきた気もします。
そもそも自分は、映画やSFといった上の世代の文化教養が重すぎ、無料で手軽に
ハビトゥス化できたアニメ視聴だけ愚直に続けていたら、同世代の中では謎の過剰差異化を遂げてしまったらしく、音楽もまたライブやクラブなどの現場を持たずに、映像記憶と密接に結び付いたアレンジド派手な女性声優楽曲で脳みそじゃぶじゃぶも未だに飽きず、順調に引きこもり続けています。
そうした思春期を反省的に振り返るべく本を読み始めたと思ったら、下品であるほどうまくいくトランプ時代に入ってしまったので、実を言えば、象徴闘争という概念ほど虚しく聞こえる言葉もありません。
たまにバズって目に入る
Vtuber文化論とかは本当にしんどく、「時間を余したやんちゃな
中産階級男子の手慰み」という論者自体のポジションが問われない
サブカルチャー研究が、明らかに
相対的貧困に置かれている当事者達の卓越化ゲームに利用されているような光景を見て、世の無情を感じるしかない歳になってしまいました。
北田本と近い領域の研究かな、と思って手に取りましたが、北田本よりも古いデータで「文化的オムニボア(雑食性)」仮説を綿密に検討した本でした。
「なにより男性(および働く女性)は大衆文化化しなければ、会社で、社会生活で、生き残れないという状況に置かれている可能性が高い。[…]その結果、
文化資本を家庭から受け継ぎ
ハイカルチャー志向の高学歴男性も、学校や会社生活ではそれを隠し、あるいは自ら大衆化の路線を選び、文化的オムニボアとなっている。[…]
それによって、文化による差異化や卓越化は、男性中心の労働世界や公的場面では姿を隠し、
文化資本は隠蔽されていった。エリートは文化的オムニボアになるという仮説どおりに、日本の
男性学歴エリートは大衆化したといえるだろう。その結果、みんなが文化的に平等で大衆的であるという言説を誰もが信じるようになる。[…]
その結果、文化による差異化・卓越化戦略は私的領域に閉じ込められていった。あるいは家庭を通じて、
文化資本は主に女性によって温存され、女性を通して(母から娘へと)再生産されてきたのである。(p.368-369)
オムニボア概念はオタ的にも本当に怖く、ざっくり言えば、エリート男性ですら「ハイカルチャーを脇に置いてソシャゲ一発当ててお金じゃぶじゃぶ」が
ロールモデルとなった、 「踊る動物」と「踊らせる動物」しかいない、本邦の文化系男子社会の絶望を暗に裏付けているようなアレです。野心的すぎる北田本よりも、堅実にオタ体感を言い当ててきます。
自分の超貧しい社会経験でも、シュタイナー研究者が親御さんの漫画読み編集者の方とか見てきています。そういう人の脳味噌が大衆文化をどう思考しているのかは、ネットの当事者言説には当然あまり降りてこないわけです。出版業界に入って最初に怖いと思ったのはそこでした。低俗文化に権力闘争を見出すとかができなくなります。
自分は運良く余暇が多い在宅仕事にありつけて、のろのろとでも色々本を読めて救われたのですが、今度はオタの人と話が合わなくなってしまったので、低学歴がどう本を受容できるのか、という表現を頑張っています。逆文化的オムニボアとでも言うのか、変な生き方に落ち着きました。
ネットで論文でも「分かりやすい解説コンテンツ」でも楽に読める状況下、むしろ紙媒体で集中して本を読む物理的行為の濃密な経験性、記憶と思考への学知の浸潤を強調したい気持ちが強いので、『
プルーストとイカ』とかその続編『
デジタルで読む脳 X 紙の本で読む脳』などの読書論も気になっています。
確か東氏においては「第3世代オタクに先駆的に伺えるポストモダン人類の生存条件」みたいなニュアンスを含む「動物化」論を、「男性オタクのジェンダー/セクシュアリティとしての動物化」としてマジに受け止めて検証してしまった北田氏の手付きは、上記の2冊を続けて読むと、「否定できないぶん異常に暴力的」という感覚があります。暴力的、というより、「オタク」概念の外延がぶっ壊れているというか。
『社会学はどこから来てどこへ行くのか』では、「当事者に対する暴力性は十分わかった上で社会学やってます」という話題が印象的でした。自分は正直、オタとしての当事者性が薄れてきた立場から言って、こういう暴力を他者に振るいたくありません。オタという言葉を選んだ時点で、「高学歴男性も大衆趣味に迎合して生きている」状況が見えづらくなるためです。
先に言及した兵頭氏などに見られる「リベラルのフェミ靴舐め」というオタの人たちの反発は
(北田氏がリベラルなのかどうかは存じませんが)、「どの範囲まで
リベラリズムの原理を適用するかを決める
規範意識が
リベラリズムの原理よりも先にある」
*6ような、一部文系アカデミシャンの
「フェアネスに欠ける鈍い正義感」が限界に達している一事例だと見ています。
例えば、「
ミソジニー」という概念を成人男性が軽々と口にする際、この方自身は普段どのような穢れなき聖女様で清廉潔白なお射精をなさっているのだろう、と下衆の勘繰りが働いてしまうのは、自分も同様です。
以上のような文脈で「オタク」概念に賭けられるものは、「消費文化に接して育った平凡な男の子の
セクシュアリティをどう政治化すべきか」という課題に絞られるでしょう。
何の因果か、知的・政治的・経済的に最悪な土壌に生まれ、異常な数の高齢者を養うべく育成される、男の子たちの内面の限りなく憂鬱で繊細な性を、です。
ある程度迫害されたほうがオタは強く育つ、という当事者感覚はありますが、「超高齢化と財源不足の中でどうパイを配分すべきか」という足元の絶望までコンパクトにまとめた新書を読むと、やはりもう「オタク」概念では何を考えても無駄で、平凡な
ヘテロセクシュアルが実存的・当事者的に思考する困難の原因は、土壌の腐敗以外に探しても仕方ないように思えています。
そうした諦念でどんどんインターネットを見なくなっている近頃なので、情報弱者として生きるための技法論を期待して手に取ったところ、こっちも「最低限度の生存が脅かされた経済状況でどう生きるか」の問題に力点が置かれており、ビッグデータ時代の日本政府が「生かすことに関心を失った生権力」という自家撞着で的確に表現されているのがめちゃくちゃ笑えました。笑っている場合ではないですが、ともあれ過剰接続は減らす方向で生きています。
世界の多様性を認めることは、世界の錯乱と対立を肯定することであり、他者を認めることとは即ち「衰弱」である、という言い方をされたほうが、よほどリベラルな原理が身に沁みます。シオランはTwitterのbotが完成度高いのでまだちゃんと読んでません。
パスカル曰く「人間の不幸はただ一つのこと、すなわち、部屋に静かにとどまっていられないことに由来する」というのは、本当にそんな状況ですごいなと思います。
東氏自身の今の立場を確認する意味で手に取りました。周囲のオタやネットの人々が東氏を叩きすぎた感は強く、せめて読んだ上で批判したいけれども、最近の著作は流し読み程度になっています。
北田氏がなんと2017年の著作で「動物化」論の経験的側面を裏付けようとしていることからも分かるように、私たちの生の複雑さをそれ自体ではまったく表現できないがゆえに、データベース消費や動物化といった概念(を東氏特有の文脈から離れて安易に活用する言説)を、私は軽蔑してきました。
ご本人は「若かったあの頃にしか書けない本だった」と遠い目になっているので(「『動物化するポストモダン』のころ」)、自分も気にするのはやめて、自分なりの「動物化」概念の受け止め方を考えるに至っています。
オタではなくIT系の山師に引っかかるタイプの一般層に向けて本を書くようになってからの東氏の、「父」や「観光客」といったキーワードに対しては、何も引っかかりがありません。ゲンロンの動画配信も有料なので、それなら普通に別の本読むかな、でスルーしています。このぐらいのどうでもよさで付き合えるのが一番良かったのかな、と思います。
ページ数は忘れましたが、「自分は語りの明晰さに文章が追いついてない感覚がある」みたいな発言が印象的でした。確かに本書に限っても、エッセイなどの短文類は整いすぎて刺激が無く、むしろ対談で滔々と喋っている原稿のほうが雑多で面白い。ゲンロンの宣伝動画で初めて動く姿を見た時に、
Twitterと
ゼロ年代批評がなければ、かわいいおじさんとして好きになれただろうな、と思いました。
知人や近い趣味の人なら多少の錯乱や動物性も対等に観測しあえるのでまだしも、学者や研究者のように非対称的な象徴的権威までもが
SNSでは一皮剥かれて愚物丸出し、という光景があってこそ、私は「人間」と「社会的なもの」の急速な崩壊を実感しています。
『疾風怒濤精神分析入門』の印象深い形容を借りれば、我々は基本的に「父の権威が馬鹿としか思えない」倒錯者の立場に置かれている。その意味で、東氏が
Twitterを辞めた件には一縷の良心を感じました
*7。
「批評とはなにか
ゼロ年代の批評・再考」という文章で、氏はあの時代の空気を以下のように総括しています。
もしいまかりに、結局のところ
ゼロ年代の批評とはなんだったのかと問われたら、ある時期、ある世代のネットや
サブカルチャーに詳しい読者(それも圧倒的に男性の読者)が、宮台や大塚、東、さらには宇野や濱野といった特定の名前の連なりをまえにしてなにかそこに共通のものがあるかのように感じてしまった、その「かのように」こそが本質だったと答えるのが、もっとも正確な回答ということになるだろう。(p.261)
この「否定的で辛辣な総括」に続けて、
震災以降に批判された批評のゲーム化、読者=観光客の「錯覚」でしかないこと、その
無根拠で現実から遊離した
「なんでもあり」という批評の本質を
ゼロ年代批評が暴露したからこそ、『批評空間』的な文芸批評路線とも、アカデミズムとも、アクティビズムとも異なる、批評を生き残らせる
第四の道が見出される、とされてはいるのですが、「なのでゲンロンを応援してね!」という中小企業の社長さんらしい結論に落ち着いてしまうのが、今の東氏のかわいさと退屈さかなと思います。
性の根源的な暴力性から目を逸らすことしかできないリベラル派を当てこすった『増補 エロマンガ・スタディーズ』解説文も入っているのでなおさらですが、一点だけ気になるのは、『
美少女ゲームの臨界点』を
電子書籍化しないなど、「人間と動物の狭間で思考した過去」を隠すような東氏の振る舞いにだけ、若干の不実を感じます。
素直にゲンロンへ行って同人誌ライブラリーを参照すればいいのですが、なぜ自分のようなアンチ
ゼロ年代人間が「一番面白いエロゲ鼎談は
講談社BOXの『
批評の精神分析』に入ってるからプレ値で買わなくていいよ
*8、あと『はじめてのあずまんω』『エロ年代の想像力』というヒリヒリする同人誌があってね」みたいな話を後続にしなきゃいけないのかな、とたまに思います。
恥ずかしい過去と言えば、黒瀬氏いわく「10年代の貧しさを代表する」(『ゲンロン8』)コンテンツである『ラブプラス』をやっていた自分の当時の怪文書をはてなダイアリーから発掘しようと思ったのですが、Internet archivesでも見れなかったので諦めました。かさぶたを掻きむしる歳でもなくなりました。ラブプラスEVELYは起動して数分で鬱になってやめました。
[…]つまるところ文士と娼婦のあの連帯関係の根底にあるのは、赤裸々な精神という徴のもとにある生と、赤裸々なセックスという徴のもとにある生というその生存形式の、完全な照応関係なのである。この連帯のもっとも破られることのない例証こそが、またしても
ボードレールなのである。(『
カール・クラウス』)
ベンヤミンの道化じみた滑稽な女性遍歴を描く楽しい本なのですが、ロマンティックな
ベンヤミンの対蹠人として急に
バタイユを持ち出し、そのエロティシズム論は「他者としての異性に出会わない」「恋愛ではなく性行動の理論に過ぎない」みたいなことを抜かし始めたので、このクソジジイ、と頭に来ました。
(
ラカンと
穴兄弟だとか色々あるのは置いといて)頭を冷やして考え直すと、むしろ近代の神話である「恋愛」から遠く離れて「性行動」に生を切り詰めた脳髄
オナニストだからこそ、身体的次元で切実に
バタイユを読めるのかなと思いました。
自分は政治的行動や低劣さへの執着といった生全体の次元で
バタイユに惹かれており、口頭でその魅力を分かりやすく人に伝えられない未消化の感覚があります。女性研究者の方の
バタイユ本が2冊(『
脱ぎ去りの思考』『
ジョルジュ・バタイユにおける芸術と「幼年期」』)も出るので、早速前者に目を通したところ、明確に哲学的文脈で読んだ新鮮な視角で、ここから整理し直すとクリアになるなと思いました。
[…]アントニオーニがいうように、もしわれわれがエロスを病んでいるというのなら、それはエロスそれ自身が病んでいるからである。それが病んでいるのは単にそれがその内容において老化し、消耗してしまったからでなく、すでに終わった過去と出口のない未来の間で引き裂かれる、一つの時間の純粋な形態の中にとらわれているからである。(p.32)
エロスそれ自体が時間的様態において病んでいる。生きる限り動物性に苛まれることは不可避である。そういう
ドゥルーズの「ある種の叫び」(p.402)が聞こえてくる、好きな一節です。
バタイユにおける「動物性」概念もそういうニュアンスで読むことで
*9、自分はトラウマ的に嫌だった「
動物化」論をやっと受け止めることができた気がしています。
自我というものは、その個人的な本質(自我が、せんじつめれば自らの秘密、あるいは自らの魂と受け止めているもの。あれらのイメージ、自らの情動、思い出の数々、楽しかったこと、欲望したもの、等などの束)に関しては、実在時間から主観的時間への一種の移行でしかないあの実在の第二次的消失を介して構成されてゆく。[…]というのは、ものすごく人間化してしまったために自然界は怪物的になったということなのだ。[…]自然界は、諸欲望のある絶対値を表現する総体のようなものになってしまっている。
[…]時間性によってねじ曲げられ、刻みこまれ、変えられてしまった実在全体には、欲望の過剰、欲望に宿るある権力的
帝国主義、欲望には罪が併存することの必要性、呪いによく似た贖いなどによって、すっかり狂いが生じている。[…]原罪、つまり、自然界に増補されたきわめて複雑な時間性、等など(自然的本性の終焉そのもの…)。
(p.26-27 「類似のマチエール=似ていることの根拠」)
原文がやばすぎるのか、全然分からないのですが、とにかく眩暈のする文章なので、フランス語をやるならシェフェールが読みたいです。
わたしは「犬」である。そのように規定することにいかなる自己卑下も自虐もない。犬はどこかわからない場所にいる。犬は孤独で、怒っており、狂っている。わたしはここまで毎秒二十四コマの写真をスクリーンに投影する映写機と、フィルムに「何かの手違いで」紛れ込んでしまった犬のような存在について語ってきた。このコマの連鎖のようなものを本書では悪無限と呼び、太陽=映写機を真無限と呼んだのである。(p415-416)
[…]今日、わたしたちはたしかに「動物園」と化したこの世界で「狐や、かぶとむしや、石」のような者として生活し、労働している。わたしたちは動物として語り、歌い、要求するが、労働によって己と世界を変形できるとはもはや信じていない。世界と自分自身を変えるために、わたしたちは生と労働の概念そのものを変形しなくてはならないはずだ。(p.417)
[…]『政治的動物』はシステムが「諸個人の純粋な加算へと解体」したのちの、システムから見放された者による、システムに代わる視野をもちえない者の言説である。(p.418)
日本の賃貸住宅の歴史を紐解き、明治期以来の民営借家では「店子の立身出世へのかすかな暗黙の期待」による家主の「
補助金」が慣習化していたことを指摘して、二葉亭『
浮雲』や
漱石『こころ』といった日本
近代文学とは疑似封建的コミュニティに暗々裏に支えられた「
補助金」的フィクションであると喝破し、そこから切断・排除された世代としての孤児性を、「賃貸住宅市場が木造共同建ての民営借家から中間層と
高所得者のためのマンションへと移行する状況そのもの」(p.75)のうちに描いた作品として、
笙野頼子『居場所もなかった』の革新性を明確にした記述に死ぬほど痺れました。
自分は一昨年まで知り合いが一人もいない相模原に引っ込み、1K2万の狭小賃貸で隣の黒人の騒音や近くで起きた障害者殺人に鬱になりながら暮らしていました。今は都内の事故物件で隣の老人のくしゃみを許しながら多少マシに暮らしています。笙野作品に特有の生活感覚がめちゃくちゃ好きだった理由がはっきりして感動しました。異常な思考の自由度で、我々がお互いに「政治的」な「動物」に過ぎない辛さを肯定してくれる一冊です。
といった最近の読書のおかげで(?)、「動物」=「オタク」概念は係争の場として機能し続ける以外になく、その没社会的で曖昧な性格ゆえに、ネットコミュニケーションにおける利便な接続可能性と同時に、主体に何らかの政治的緊張をもたらす概念でしかありえない、という結論を腑に落とせました。
「社会的なもの」の崩壊が、情報化された身体の幻想に帰責されること。その快楽と罪業を、政治的動物として語り続けていくつもりです。
丹沢恵という女性作家による
まんがライフ掲載のゆるかわ4コマ漫画
*10にハマっている謎のアニメMAD職人が某
ブロッコリーに拾われ、無料配布情報誌に好きな女性漫画家の4コマ作品をどさくさ紛れで載せたところ思わぬヒット、制作スタッフまで彼の要望どおりにアニメ化されて
*11、某木谷社長が手柄だけ横取り、といった流れのようです。
データベース云々以前に、やはり我々は少女漫画で射精していたんだ!!!!!というオタ確信が揺るぎないものに変わった記事でした。観念的オタク論が無限に再生産されないよう、こういう現場知をこそ裏付けて整理すべきかと思います。
一応アニメ方面の物書きの最末端として生きてきた人間なので、思うところはありましたが、藤津さんやねとらぼに何か言っても詮無いので、思ったことだけ書きます。
この記事で良くも悪くも印象的なのは、
ゼロ年代批評を黙殺していることです。自分のタイムラインでは、「アニメライターの人たちが先行言説を引用しない全肯定の作品論ばっかり書くから議論が蓄積されないじゃん」問題
*12が再指摘されていました。自分もこれは引っかかるので、一応知っている歴史は証言しておこうと、この駄文を書いています。
こうした書き手の態度が、脱政治的で没歴史的なアニメファンの存在様態を肯定してしまう危険性は指摘しないといけないでしょう。ただ自分は正直、細部には良い議論もあったとはいえ、後続にあのグロテスクな
ゼロ年代批評を勉強しろ、なんてとても言えません。
私たちはおそらく、
ゼロ年代批評のしんどさ
*13を歴史的にどう捉えるべきか、を全く共有できていない。先に見たように、東氏自身ですら半ば苦々しくその過去を語っていることからも、それは明らかでしょう。
自分のテレビアニメに形成された愚劣な幼児性、動物性、
セクシュアリティを、暴力的にでも「政治的なもの」へと水路付けてくれたのは、結局は東氏や更科氏の言説でしたから、一応さらっておく価値があるとは思います。
少なくとも、上の世代の言説の暴力性に分断されたところから、それぞれの身体と存在を綿密に思考し直し
*14、最終的には「オタク」「私たち」といった曖昧な共同性を斥けて生きるしかない歴史的条件に、私は置かれています。
宇野常寛氏がオタクライター保守層の没政治性に喧嘩を売った背中を見てなお、私たちは「オタク趣味において問うべき実存や政治性とは何か」を、まったく共有できないまま苦しんでいる、というのが正確でしょうか。すでに「オタク」という概念で私たちの共同性を思考すること自体が不可能になっている。
私たちはお互いに嫌いあって別々に生きるしかない、という
市民社会の基本条件を露呈させたのが
ゼロ年代批評だった、と自分は思います。
全員が全員の言説を基本的に毛嫌いしている。私が生きてきたアニメ言説環境を一言で表現すれば、そういう世界でした。
記事にも原稿料の少なさが話題に出ているように、自分も実家暮らし
*15でなければ生活できない最小限のパイしか配分されなかった人間です。というより、2010年頃に業界に入った時点で基本的にクリエイターインタビューしか仕事がなく、キャ
ラクターで射精するしか能のない動物は困惑して断り、文字起こしと構成だけやっていました。
少数の
フリーランスがバラバラに書いているだけで、若い書き手を育てるための制度も予算も理念も無く
*16、「批評」概念を原理的に問い直す試みすらない土壌に、「評論活動がシーンとして成立する」ことは今後も無いでしょうし、無くてもいいのでは、と思います
*17。
ちなみに『ぼくらがアニメを見る理由ーー2010年代アニメ時評』は、石岡良治氏の著作と同様、それ単体では無難としか言えない書物でした。『21世紀のアニメーションがわかる本』も「私から私たちへ」という図式自体は正直、『君の名は』*18みたいなアニメを観続けてゾンビみたいに内面が無い馬鹿になった我々の現状を追認して何が楽しいんだろ、とは思いました。
そもそも、量的過剰に(メディアや研究者を含めた)ユーザーの思考と記述が追いつかない状況は00年代中期から何も変わっておらず、自分が好きな作品に関する自分が読みたい文章を自分一人で書き続ける、という生き方以外には何も残されていないので、商業で食えるか、人に読まれるか、うまいこと言えるか、ではなく、自分にとってアニメとは一体何なのか、を思考する契機を、
アニメ雑誌やアニメ評論「以外」の場所に探すことを、自分は後続に勧めています。自分は10年オタをやった結果、アニメとは直接的には関係がない勉強にしか、興味を覚えなくなりました。
あの事件が起きた以上、
京アニを嫌いながら生きてきた個人の思考は、社会的な責を負って明確にしたいと考えています。なので、作品論はやりたいけれども、やっても仕方ない、というより、自分は
美少女アニメの至高なる非意味と不毛を主張する以外に興味がないので、もう少し違うことがやれないかを試しています。
近い歳の人と話すと、「00年代が何だったのか分からないまま10年代が終わってしまった」との言をよく聞きます。「平成は昭和の消化試合だった」と遠い目で語る上の世代のほうがまだ恵まれているようです。自分以外のオタの人は、結局は信じるべき意味や物語を求めているのかもしれません。私は自分が生まれた国と時代に何の愛着も抱いておらず、20世紀思想という直近の訓詁にこそ強くリアリティを感じながら生きています。
私はアニメの感想文で極めて運良く紙媒体の出版に拾われた(下手をすると最後の世代に属する)人間です。もしその機会がなければ、おそらく今でも大量のアニメを観続けながら沈黙し、日本に何百万人と存在する引きこもり男性の末席を汚していたことでしょう。
主体の幼年期に曖昧なまま取り憑いて、成年後もなお切り離せない消費文化の快楽は、「アニメ」という対象概念ではなく、欲望や身体の次元で様々に問い直すべきです。自らの内の動物の鳴き声と呻き声に言葉を与える方法を、私は探し続けています。
オタという概念やアニメという趣味で曖昧に他者と繋がった時点で、私たちは色々なことを間違えてしまうようです。誰とも関わらずに一人でアニメを観続け、一人でアニメ誌とアニメ評論「以外」の本を読み、一人で文章やコンテンツを作る生き方を、理論ではなく実践で指し示し続けることが、自分の役割だと考えています。