理論への抵抗

モロイ

モロイ

 

 […]要するに私はたいてい闇のなかにいて、世紀のあいだに貯えてきた私の観察も、礼儀作法の土台にいたるまで私を疑わせたので、限られた空間にあってさえ、その闇はなおさら深かったのだ。しかしこんなことやその他もろもろを考えるようになったのは、もう生きるのをやめてからなのだ。崩壊の静けさのなかで、あの長きにわたる混乱した感情を思い出しているが、わが人生とはこの混乱した感情そのもので、それを私は無礼にも、神がわれわれを審判すると言われるように審判するのだ。崩壊とは人生そのものでもある、その通り、その通り、うんざりするよ、しかしなかなか全壊というところまでいくものじゃない。 (p.37)

 

 最近は津堅信之『京アニ事件』に目を通し、開口一番「意外と世間に京アニが知られてなくて驚いた」みたいな文言、どういう寝言かとページを捲れば、言うもやむない愚劣なマスコミとの応対が記録されており、こんな次元で「研究者」の「社会的責任」を取らされてスッカラカンな新書を出すことになった筆者に同情するよか、あらためて「世間様」という実在しないクソ観念と縁を切りたくなりました。

 底辺アニメファンとしての我が身を振り返れば、ブランディング戦略の露骨なジブリ京都アニメーションのようなスタジオとは最初から縁がなく、それ以上に20世紀このかた大量死という悪の問題は個人の責任(ましてある文化集団のアイデンティティ)において思考可能な範疇を超えており、自分には一切の施す処置も動機もないはずが、日常言語にこびりついた「オタク」という特権的シニフィアンが思考を掠めた瞬間から、「同族」と自分に対する曖昧な怒りと無力感が蘇り、今なお目の前が真っ暗になります。

 具体的には何も言いませんが、上の世代の某オタク系ライターによる馬鹿な発言がTwitterで目に入ってしまった時にはなおさら、こんな業界と関係を持ちたくなかったという後悔、こういう人々に代理-表象されるアニメファンとして生きたくないという怒りが湧き、アニメ視聴を個人的に趣味として続けること自体、やめるべきかと悩んでいます。
 
 
 そもそも「オタク」「アニメファン」として自己表象可能な私のアイデンティティは、文化的・金銭的貧困にあった十代後半から、政治的文脈を捨象すれば幾分以上にプチブル的な岡田斗司夫以来のおたく教養主義を(『げんしけん』あたりのクリシェを経由して)無自覚に内面化し、放送中のテレビアニメ作品を可能な限り全て観る営為に没入していたところ、遅まき『らきすた』などの京アニ作品が騒がれ(他の多くの作品が黙殺され)始めた時期に「旧来のおたく的理念-理論と歴史的状況の齟齬」が強く自覚され、狭い文化領域で自分がその矛盾に極度に引き裂かれた偶然に、ある歴史的主体としての使命感(!)が滑稽にも芽生えてしまった事情に原体験を持ちます。
 
 おおよそエヴァ以降の制作委員会方式による本数の増加と動画サイトの普及を背景に、(少なくとも2010年代までのコンテンツ産業では)コミュニケーションツールとして最も先鋭化した文化領域において、よりにも考えるべきではなかった「個人の思考の孤塁を守ること」、「周縁的なものの擁護」、「語られないものをいかに意味付けるか」といった問題系に(大衆文化に限らない人間的事象全般に関して)固執する人格を形成してしまい、ジャンク極まる倒錯した「文化的マイノリティ」として生きてきたことになります。
 
 振り返れば逆張り一辺倒の人間で、アニメというメディア以上に「一人で生きること」そのものが私にとって重要であったことは整理がついていますから、以上の厄介なアイデンティティをいかに祓えるかが今後の課題なのですが、味のしなくなったガムを潔く吐き捨てるべきか*1、あるいはモロイの小石のようにしゃぶり続ける無為を肯うべきか、依然踏ん切りがついていないのはご覧の通りです。

 

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

  • 作者:松永 伸司
  • 発売日: 2018/10/20
  • メディア: 単行本
 
 
 ところで、自分のアイデンティティと大きくは関連しなかった、もうひとつの大衆文化のコアであるビデオゲーム全般は、アニメと違ってその消費行動を問い返す必然性を持たないこと、白状しなければなりません。

 小中学時代のPS2を青春としてコンシューマに徐々に飽き、時折フリーゲームを漁る以外はSteamの積みを崩すのがメインで、ソーシャルゲームの終わりなき荒野とも適度に付き合っている凡庸な宙吊りの現状をあえて記述しないのは、いずれもテレビアニメと比較すれば 1.レビューを含めた批評的営為が十分成立していること*2、2.動物的な言説が奇妙な権威を持ちづらいこと*3、3.作品がもたらす快楽の意味と文脈をジャンル区分などによって整理しやすいこと*4、などのもっともらしい「書かない理由」がぱっと思い浮かびます。

 もちろん、これは「書かざるを得ない理由」が無かった凡庸な消費者の無駄口に過ぎず、自分もある特定の文脈(VRエロゲやアイマス)ではゲームの快楽に存在の深淵を蝕まれているものの、それらは「アニメ」「ゲーム」概念では汲み尽くせない実存に関わることは、再確認させてください。
 
 そうした不真面目さを前提に、数多いゲームスタディーズ的な出版物をスルーしながら、クリアカットな概念整理が目指された『ビデオゲームの美学』にだけ目を通してみた感想としては、「表象の一種としてのフィクションの固有性は、その表象の対象が表象と同時に作り出されているという点にある」(p.125)といった表現が興味深く、また「ビデオゲームのゲームメカニクスの現実化は、非規範性」(p.197)と「自動化されているという特徴を持つ」(p.198)など、ゲームの「語る必要のなさ」を支えている融通無碍な快楽の構造を明確化してくれる記述も楽しめました。
 
 ただ、本書の理論的性格に実践的な含みを持たせるために、モーガン・ラック以来の「ゲーマーのジレンマ」を紹介したパート(p.284-286)では、バーチャル殺人とバーチャル・ペドフィリアが安易に(具体的な概念規定もなく)併置され、後者は(無前提に)ゲーマーの直観において道徳的に許容不可能である、と論じられているのが引っかかりました。
 機械翻訳で雑に見た感じ、本書ではなく引用元*5の問題ですが、「原則的に作品や文化のあり方に関する規範的な言明を避け」た(p.315)本書において、明らかに外在的な道徳規範を「ゲーマーの直観」に綯い交ぜたこの議論には、「〈標準的なプレイヤー〉という概念や、それが持つとされる直観、あるいはそのコミュニケーションの実践についての検証が不十分」なまま「それらを明白な社会的事実として前提したうえで議論を進めている」(p.108-109)本書の欠点が、強く露呈した印象があります。
 
  『プレイヤーはどこへ行くのか』などの書物が「批評」を僭称する以上*6分析哲学の伝統から概念整理を行うこと自体は有益と思われますが、例えばナンバユウキ氏のVtuber論などを含め、分析美学による大衆文化へのアプローチ全般に対しては、「潔癖な方法論的一貫性の裏に無神経な規範的価値付けを隠蔽している」ような居心地悪さが拭えていません。
 
「赤」の誘惑―フィクション論序説

「赤」の誘惑―フィクション論序説

  • 作者:蓮實 重彦
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本
 
[…]実際、この二人[ドリット・コーンとジョン・R・サール]は「混沌として退嬰的な言語使用」を回避するという意図の実現のために、思考すべき対象にまつわる雑多なものをことごとく排除するという方法論的な潔癖さを共有している。その潔癖さは、しかし、それぞれの専攻領域にその思考を限定することで、その内部で保証されているにすぎない文脈の論理的な一貫性を、あたかも知的な誠実さであるかのように錯覚させることにしか貢献することがない。
 その方法論的な潔癖さの限界は、ことによると、分析の対象としてのフィクションそのものが、その本質において「混沌として退嬰的な」現実なのかも知れないという疑念を二人が一瞬たりともいだいてはいないところに露呈されている。(p.54)

 

 一文に詰め込む文体のせいか、たまに蓮實氏の影響を勘繰られるのですが、言いたいことの多さを常識的な文字数に収めるせめてもの配慮に過ぎず、そういえば全然読んだことがない疚しさに駆られて急ぎ手に取ったところ、まさしく英米系の分析哲学者によるフィクション論のはしたなさを睨んだ書物だったので、今さら胸がすく思いをしました。

 無邪気に読むと危険なのは承知ながら、「フィクションをめぐる理論的な言説は、その寡黙さが誘発する饒舌からいっこうに撤退する気配を示さないばかりか、それぞれに専攻領域にふさわしいその語彙の定義を無限に併置してゆくことにいささかの屈辱感もおぼえてはいない。[…]ここで問題となるのは、おそらく、理論的な言説をになおうとする主体における語彙論的な羞恥心の有無である。実際、知的なはにかみとともにある種の語彙を自粛しないかぎり、フィクションはいつになろうと視界に浮上してくれまいし、思考に有意義な刺激をもたらすこともまずないだろう。」(p.56)といった指摘は、フィクションと同じほどに無数の学知と出版物も「混沌として退嬰的」である現実を再確認させてくれます*7

 もちろん、現代人に失われた正しくブルジョワ的な精神の余裕に基づいて語られる「語彙論的な羞恥」など自分も持ち合わせてはおらず、理論的把握に駆られる人間はフィクションの曖昧さに見捨てられかねないという指摘の痛快さすら、「年を取ってもアニメを観続けられるかどうか」という私自身の不安を、理論家に投射しているに過ぎません。 

 

オックスフォード哲学のなかで鍛えられたとはいえ、私はこの学派に与したことは一度もない。 […]この学派に哲学という概念があてはまるとは、どうしても思えなかった[…]この哲学のかなりの部分が面と向かっての議論で占められていたという事情もあって、頭の回転の速さや公開討論の訓練にはなったのだが、思慮深くてもすぐには行動に出ない者には向かないという欠点もつきまとった。[…]オックスフォード哲学について私が何よりも批判したいと思うのは、この学派の実践者は頭の回転の速さや如才なさこそ鍛えられるものの、深く掘り下げることは妨げられるという点である。[…]哲学の主題を言語的なものだとする見解を本気で信じる者がいることを私はまったく理解できなかった。しかも、この見解は、さまざまな形態をとるオックスフォード哲学のいずれにも共通していたのである。(p.62-63)

 

 ざっくり、論理実証主義-分析哲学と続く40年代以降の流れが、ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』の倫理的領域に関する沈黙=逆説的積極性を継承せず、存在論的問題を命題の解釈にまつわる意味論的次元に還元してしまった*8、という東浩紀氏の整理がどこまで厳密なのかを判断する能力はありませんが、実感には強く合致します。

 49~55年までオースティン存命のオックスフォード大学に在籍し、自らの哲学的関心を満たさない日常言語学派の流行を執拗に批判したブライアン・マギーの書物にも、高卒なりに色々と納得いくところがありました。

 議論を重視する(らしい)分析哲学の意味論的な明晰さが引きこもりの陰湿な思考に合わないのは当然かもしれませんが、加えて、昔どこかで東浩紀氏が漏らしていた表現をうろ覚えで借りると、「オタク論はオタク文化の過剰性に比肩していない」(オタクコンテンツよりも面白いオタク理論が無い)という決定的な困難の歴史を、特に分析系の大衆文化理論は閑却する傾向にある気がします*9

  ちなみに自分はウィトゲンシュタインも、哲学的草稿の横に戦時下オナニー日記を綴った否定神学者として読むほうが性に合います*10

 

ルソーと方法

ルソーと方法

  • 作者:淵田 仁
  • 発売日: 2019/09/26
  • メディア: 単行本
 

私は決して議論をいたしません。と申しますのも、各々の人間は何においてもその人なりの推論する方法[sa manière de raisonner]を持っており、その方法は各人以外の何者にもまったく良いものではない、ということを私は確信しているからです。

(Rousseau à M. I'Abbé de Cardondelet, le 4 mars 1764)

 
 18世紀フランスの認識論を基礎づけたコンディヤックの「分析的方法 méthode analytique」とは、経験から得た観念を分解/再構成する推論の循環的連鎖を辿るものであり、実質的には「〈言語は分析的方法それ自体である〉」(p.62)とすら主張しながらも、あらゆる知識を経験に依存する経験論が少なくとも一つの原理をアプリオリに承認しなければならないジレンマゆえに、ひとつのシニフィエ(観念)の上で複数のシニフィアン(表現)が横滑りしていく運動=(観念の)自同性原理に新たな明証性が求められた傍ら、感覚と抽象観念のあいだに「無限の深淵」を見るルソーの全面的懐疑は、自らが批判する「分析的方法」をあえて読者に要求するという最大の皮肉とも言える仕方で(能動的な再構成の素材として)自らの生を全て語った『告白』に結実し、啓蒙の知の理論的破綻を身をもって示してみせたという読解には、めちゃくちゃ刺激を受けました。
 実際のところ、自分の脳味噌に「推論」「分析」「方法」(ましてや「理論」…)と呼べるシナプスなど備わっているのだろうか、という疑念を拭えない自分のような人間には広く薦めたい一冊で、ルソーにあやかりたいものだと思いましたが、「全てを語ることの不可能性」を理論でなしに実践するのは大変きつく、実際赤裸のつもりでも人間書きたいことしか書けず、本当に書きあぐねることは虚構の本質的な曖昧さに託すしかない、という事情すら、いよいよ誤魔化せなくなっています。

 

有限責任会社〈新装版〉(叢書・ウニベルシタス)

有限責任会社〈新装版〉(叢書・ウニベルシタス)

  • 作者:J.デリダ
  • 発売日: 2020/08/26
  • メディア: 単行本
 

[…]私は、スピーチ・アクトの理論家が、単純かつ直接に道徳的教訓をわれわれに述べ立てているだけではないか、真面目になりなさい、隠喩や省略を避けなさいとわれわれに言いつけているだけではないか、などと彼らを疑ったことは決してありません。しかし、言語に書き込まれたある種の倫理性――そしてこの倫理性は一つの形而上学です(といっても私のこうした定義にはいかなる侮蔑も含まれてはいません)――を分析するなかで、しばしば彼らは、それをイデア的な純粋性において記述することに自足してしまい、所与の倫理によって与えられた倫理的諸条件を再生産しているのです。彼らは、こうした所与の倫理であれ、もう一つの他なる倫理であれ、あるいは倫理、法=権利、政治の西洋的概念に応じないような法であれ、倫理一般の、同じように還元不可能な他の諸条件を排除し、無視し、周縁=余白に追いやっています。(p.264)

 私がここでサールの例の後にハーバーマスの例について強調するのは、[…]私が躊躇なしに世界的および歴史的と形容する情勢において不幸にも典型的な――かつ政治的にも非常に重大な――ある一つの状況を強調するためです。この情勢は、その射程の拡がりをいくら強調してもしすぎることはないし、いくつもの真面目な分析に値すると言ってよいものです。至るところで、とりわけ合衆国とヨーロッパにおいて、コミュニケーションの、対話の、合意の、一義性や透明性の哲学者、理論家、イデオローグを自称する者たちが、証拠、討議、交換についての古典的倫理を絶えず喚起すると主張していながら、彼らこそきわめて頻繁に、注意深く他者を読み他者に耳を傾けることなく済ませるのであり、また性急さや独断主義を発揮しながら、文献学や解釈の基本的な規則をもはや尊重することもなく、科学とおしゃべりを混同するのであり、それはあたかも彼らがコミュニケーションを嗜好してはいない、あるいはむしろ結局のところコミュニケーションを恐れているかのようなのです。(p.338)

 

 大陸系と分析系の対話のムズさ、といえば本書で、なんとなく苦手でデリダは初めて通読しましたが、自分ごときが抱く分析系(本書ではオースティン-サールの言語行為論)への不満など全部言い尽くされており、食わず嫌いはよくないと思った一冊でした。

 上の引用を現在の卑近な文脈に、例えば「フロイトラカンも読まないでポルノ批判やポリコレ談義に熱中する社会派連中」に当てはめたくなる誘惑もありますが、PC派と反PC派のパワーバランスを精確に認識できるはずもないので措くとして、 少なくとも、「言説のあらゆる戦略的方策、[…]あらゆる方法論的秩序は、形而上学に関する多かれ少なかれ明白な決定を含んでいる。[…]形而上学的決定が確立され、潜在化し、隠蔽されればされるほど、ますます秩序が、そして静寂が、方法論の技術的性格を支配する」(p.199)という指摘には、我が意を得たりの感がありました。

 言語行為の意図/志向性を十全に飽和させない、自己現前を不可能にする本質的なエクリチュールの残余/不在をひたすら強調するデリダの身振りが、むしろ素朴に凄まじい自己現前として衆目に映ってしまうのが本書の萌えポイントと判断され、二値的論理を脱臼するのも生半可な生き方ではない、と他人事ならぬ重さでした。

 

理論への抵抗

理論への抵抗

 

修辞的読みは、理論においてはつねに、すべてのモデルを終焉させる柔軟な理論的、弁証法的モデルであり、それ自身の欠陥のなかに、対象指示的、記号論的、文法的、遂行的、論理的その他すべての読むことを回避する欠陥のあるモデルを内包しているのである。それは理論であると同時に理論ではない、言わば理論の不可能性を示す普遍理論なのである。しかし、それが理論であるかぎりは、すなわち教授可能であり、一般化可能であり、非常に体系化されやすい分だけ、他の種類の読みと同様に、それ自身が唱導する読みを回避し、それに抵抗しているのである。何ものも理論に対する抵抗を克服することはできない。なぜならば、理論自体がこの抵抗なのだからである。(p.54-55)

 
 ヴラド・ゴズィッチの序文に、古代ギリシャの語源に遡る理論(θεωρια テオーリア)と知覚(Αίσθηση エステーシス)の対立項に関する話があり、テオーロイ θεωροίという使節に結び付いた前者の「語のさす見る行為、通覧する行為が[…]重要な社会的帰結をともなうきわめて公的な行為」を意味したのに対し、後者は「女子供や奴隷にも[…]可能であるが、そうした知覚は社会的な地位をもっていなかった」(p.12-13)とされています。
 
 自分が主にサブカル評論に感じてきた、社会を担う知識人に軟な理論で整理されると、私秘的な知覚そのものが踏みにじられるような抵抗感とは、こうした構造に遡ると思われ、それでも理論から逃れられないのは、「言語そのものに理論が内在する」という呪いのせいであるらしい、と整理がついた初ド・マンでした。
 専業ライターとしての反動もあって、「個人的な文章を分かりやすく書くつもりは一切無い」と腹を括った人間なので、「社会派」「理論家」に対するルサンチマンを処理するためには、すべての本を新刊書のように読むこと*11、はしたなくも「読みの根源性」を生きるしかない、という事情があります。
 

 […]少なからぬリベラル派が言うように、ポルノグラフィーにまつわる道徳的問題は、ポルノグラフィーが私秘性の最後の砦を侵すということである。俳優の観点からは滑稽なことだ。[…]観客の観点からは脅威的である。ポルノグラフィーは私秘性の最後の証である度合いが[俳優にとってよりも]より大きい。ポルノ映画の観客たちは互いの必要性をより尊重している。そして、ひとりひとりの観客が他の観客が考えているはずのことを知悉しているのにもかかわらず、それが自分の私秘性を損なうとは誰も考えない。[…]そのような経験がそこではどれほど正確で適切であっても、多くの人がまじめな芸術とも現実の性愛とも共通するものを取り去ったポルノ映画を見る機会しかもたないという事実は、社会による私秘性の侵犯と強制[という事実]を暴き出している。(p.82)

 

 英米哲学嫌いを標榜するだけでは詮無いので、オックスフォード学派の第二世代に分類されるらしいカヴェルの映画論は印象深かったことも記しておきます。

 自分が産湯を浸かった深夜アニメの「ソフトポルノ性」の(形相的な)ご先祖様を、あえて映画に見出すとすればスクリューボール・コメディに行き着くので、最近は普通にハワード・ホークスなどが楽しく、まったくアニメを観れずにいます。まるで、ハリウッド黄金期とその終焉を通過するうちに、自分と映画との自然な関係が損なわれ、「映画=世界との繋がりが失われてしまった」カヴェルの哀惜を、倒錯的に追体験しているかのようです。

 もちろんそれは、「いま、快楽の能力を自慢することは、かつて神妙ぶったまじめさが人を罠にかけた以上に、信心家ぶることであり、[…]現代の偽善である」(p.182)ような快楽主義の時代にあってなお、ジャンクポルノの快楽やテクノロジーと合一する目暈ばかりを特権的に記述せざるを得ない、自己に対する嫌悪に発しています。

 これと関連して、私が「百合」概念のイデオロギー性を嫌いながらも批判できないのは、「映画がわれわれを世界から不在化することによって世界を現前化させることは、われわれの生存の段階についてすでに真実であることを確認しているにすぎ」ず、「映画が世界を変位させることは、世界からのわれわれのまえもっての疎外の確認であり、[…]映画において獲得された「現実感」は、その現実、それに対してわれわれがすでに距離を感じているような現実の感触」(p.320-321)であること、つまりは世界=映像と観客の関係に前もって孕まれた断絶は、すでにカヴェルの時点で明白に感受されていた存在論的な悲惨であるためです。

 

 

 映画、音楽、漫画などは、自分が強調するまでもなく記述困難な崇高さがドシドシ見出されるからこそ、アイデンティティの次元で語る必然性があった(語りやすかった)アニメに執着していたに過ぎませんから、別の生き方が作れるまでは、YouTubeにクソ動画だけ上げながら生きるつもりです。

 書かれないことをやめないもの=不可能なものにしか関心がない人間でも、詮無いお喋りを続けて現存在の宙吊りに留まることでしか「私」を保持しえない以上は*12、自らの生の凡庸な糞尿性に垣間見える、何か時代精神破局としか言えないもの、ある潜在性に対する感性的確信を譲歩せずに留め置くために、本の話だけは伸び伸びとしていきたい気持ちがあります。

*1:オタクコンテンツのポップネスに対する特殊な転移にまつわる id:lesamantsdutokyo氏の表現が好きなので拝借しました

*2:自分はアニメに関する公的な象徴秩序のほとんど全てが気に食わないキチガイなので、これは隣の芝生が青く見えるということに過ぎないかもしれません

*3:Steamのレビュー欄はわりと普通に機能しているけど、Google Play Storeのソシャゲのレビュー欄はなんかすごい、人類は「運営」に気持ち良く飼い慣らされることをここまで渇望しているのか、みたいな話で、消費者至上主義が各プラットフォームで平和裏に分散処理されているような感覚を指しています

*4:もちろん「日常系」「セカイ系」などのジャンル概念に自らの生を蹂躙されたという根源的なルサンチマンを抱いている自分からは隣の芝生が

*5:Luck,Morgan. 2009. "The gamer’s dilemma: An analysis of the arguments for the moral distinction between virtual murder and virtual paedophilia"

*6:『神、さもなくば残念』の頃から相も変わらず、何の内的必然性も示さず艦娘を上っ面なハイデガー概念で語る小森健太朗氏の無邪気さや、現実の虚しさとゲームの虚しさをいとも容易く重ね合わせるラブライブSF作家の浅薄なニヒリズムには、耐え難いものを感じました。『ゼロ年代の想像力』に対する解毒剤として『社会は存在しない』は面白い本でしたが、限界研の文章はもう読まないと思います

*7:サブカルチャーに関する「最新」の「理論」や「学知」の氾濫に対して、二流大学人による大衆搾取、という嫌味は言いたくないので、本稿を書いています。正直言えば、20世紀までの書物だけでも暇は潰れるので、理論の氾濫には付き合いかねています

*8:東浩紀存在論的、郵便的』p.229参照

*9:関係ありませんが、社会学の方面から「オタク論の不可能性」を改めて跡付けるような力技の博士論文、王 屶瀟「オタク的なアイデンティティと欲望」は、ガチャガチャしていて面白かったです

*10:星川啓慈『増補 宗教者ウィトゲンシュタイン』

*11:「相手は大物だ、などと考えては駄目。絶対に、そんなことは考えないように。何も考えてはならない。本文を手に取る。余計なことは考えない。これはホメロスだ。史上最大の文豪だ。最古の文豪だ。守護聖人だ。父で万能の巨匠だ。そして何よりも、かつて世界に生まれたなかで最も偉大なもの、すなわち親しみやすい表現を極めた真の巨匠だ。そんなことは考えないように。本文を手に取る。そして、あなたと本文のあいだに何も介在させないようにしなさい。何がどうあろうと記憶だけは介在させないようにしなさい。これだけは言わせてもらいたいし、ムーサ全員のなかでも私だからこそ、あなたにこの話をする権利があるはずだから言っておくけど、あなたと本文のあいだに、一切の「歴史」を介在させないようにしなさい。それからもう一つ、これも言わせてもらいたいから言っておくけど、本文とあなたのあいだに、ある意味で生まれがちな賞賛と、敬意とを一切介在させないようにしなさい。本文を手に取りなさい。エミール=ポール社から先週出たばかりの一冊を手に取ったつもりで読みなさい。一切の干渉を、一切の準備を排し、一切の儀礼と、一切の追加を排除しなさい。そういう余計な配慮は正真正銘の改竄につながるから。一つひとつの「歌」は、一つひとつの「歌章」は、半月に一度、週に一度あなたが出す「手帖」になぞらえるなら、出たばかりの号のつもりで読みなさい。最新刊のつもりで読みなさい。この、書籍商の業界用語はわざと使ってみた。慎重にならなくていいと言うために。期待するなと言うために。鈍感になるなと言うために。こうして曇りのとれた目を見開くだけで、すぐに見えてくるものがある。」 シャルル・ペギー『クリオ 歴史と異教的魂の対話』p.310

*12:ベルクソンの逆円錐モデルと2つの縮約から出発し、脳科学精神病理学臨床哲学の知見を絡めながら、物質/実在から記憶/表象が立ち上がる際に影絵のように成立する私性/同一性について考察された兼本浩祐『なぜ私は一続きの私であるのか ベルクソン・ドゥルーズ・精神病理』は、物来たりて我を照らす=カント的実体の成立から反照されるように「私」が立ち現れて持続するという主体理解から、面前他者との同期的了解=世間のお喋りと曖昧さへの宙吊り=ハイデガー的現存在への頽落そのものに「私」成立の重大な契機を見出す議論に、染み入るものがありました