おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

マスターベーションの切迫性に関する生活所感

 今年はろくに読書もできないまま茫洋と過ごしているので、息抜きにインターネット生活について少し書かせてください。

 表題で示唆した千葉雅也氏による一連のツイート自体は、「フーコー赤川学氏などの文脈が凝縮したもの」と補足されているのを見て *1 、そのへん掘り下げた今後のお仕事に期待したいな、と素朴な感想を持ちました。

 当該ツイートから派生した政治的な諸問題に関しては、江永泉氏による「千葉雅也さんの2021年1月22日付ツイートに関連する私見[2021.01.28]」が参考になりました。江永氏とは比較になりませんが、私も専門を持たず己が関心に基づいて文献を漁っている半可通ないし一般人の身として、真摯な状況整理と判断されます。

 本稿はこの問題を掘り下げるものではありません。好き嫌いはさておき*2、哲学者の脱構築的な身振りは原則として肯定したいものの、強いてコミットする動機と能力に欠けているためです。

 

 §1

 よって本稿の主旨は、私が本件を認知したきっかけとして、タイムラインに流れてきた以下のツイートを経由したという、かなりどうでもいい個人的な事情を掘り下げていくことにあります。

 ふたつのツイートは、それぞれ「『闇の自己啓発』のギーグ的な無神経さがしんどい」「ポリコレやリベラルを中産階級的と規定して下層からそれを否定するポーズがネットで流行っている」という話題に対する引用リツイートのかたちで、江永氏の記事に対する言及がなされたスレッドです。

 私はまったく好まない、はっきり言って極度に下らない問題構成であり、暇な大学人が社会の下層を理論的に包括するのはさぞ気持ちよかろう、と苦笑せざるを得ませんが、いずれも具体的な議論に発展させるのであれば、場合によっては有効な批評になる可能性がある論点であることは否定しません。
 しかし、ひとつめのツイートに限って言えば、某哲学者=千葉氏の炎上騒ぎを江永氏の前掲記事を介して外部より「見ている」立場から、しかも江永氏の議論をリベラル言説に対するルサンチマンに矮小化した上で、しまいには「社会性の欠如」という粗雑な罵倒を唐突に振りかざすものです。
 自身のいじめ問題という当事者性を繰り込んだ、約3万字ほどの文字数がある江永氏の議論に、安易な要約を許さない性格だけ急ぎ確認しておけば、高橋氏の身振りが「自意識過剰なネットリベラルの陰惨なアイロニーがいよいよ空転している」ような印象を私に与えた事情は、伝わるかと思います *3
 普段であれば、つまらない片言隻句に突っかかる暇はなく、リベラルという概念の曖昧な用法に加担したくもないし、高橋氏も軽口のつもりであろう、と極めて好意的に解釈して受け流すのですが、今回は目に余った次第です。
 

  §2

  超ざっくり、江永氏の記事では追記の部分で明確化されていますが、当該ツイートは千葉氏の意図とは無関係に、身体経験の次元で自慰と生理は全く異なるという素朴実感、ついでその社会的な非対称性に基づいて反発を受けているよう見受けられます。
 私はそうした個別具体的な状況論とは関わりなく、男性の射精の切迫性が超絶ドリブンさせている資本主義と現代文化をすげえ勢いで満喫中、といったところのポルノ中毒者の世界認識とリアリティに内在することでしか物を書けないし、書きたくない人間です。当ブログ全体でその立場は固持しています。
 それは「リベラル」な忖度ではなく、長年の私の内的真理である「端的に女性は神」という、公共の場では完全にブチ抜けた差別でしかない観念を、人文知のパッチワークで塗り固めるアナクロニズムに耽っていたい、という愚劣さに基づくものです。
 
 私のひどい言語使用をどう解釈していただけるかは、観測者の皆様の自由でしかなく、動画を含めて見守っていただき本当にありがたいのですが、耐え難い「誤読」が生じる余地は斥けておきたい、 というのが本稿の企図になります。

 つまり、セクシュアリティの問題に関する社会的な論争を外部から「見ている」立場に基づき、当事者性の強い議論を「リベラルに対するルサンチマン」に矮小化して、しまいには「社会性の欠如」として粗雑に罵倒できるような方には、私の文章は読まれたくない、という本音を分析的に詳らかにしておきたいのです。

 なぜなら、江永氏に対する高橋氏の罵倒は、私のブログにこそ典型的に適用されるべきものだからです。政治的・社会的次元に主体を還元するのであれば、SNSで流通する「オタク」「フェミニズム」「リベラル」概念そのものの粗雑さに反吐を催し、Twitterから退却して切迫性に満ちたオナニー日記を書き続ける私の生の形式こそ、当事者性に居直って杜撰な「政治性」を全て憎悪する限りで、否認すべくもない劣等意識が十全に読み取られる筈です。

 もし私の言説が、「十分に去勢されたペニスだから許す」あるいは「政治ではなく文学の問題」みたいなクソ認識で受容されているのであれば、本気で腹立たしい。私がバタイユに執着する理由は、「科学の人間」「虚構の人間」「政治の人間」といった存在者の分離に先立つ、存在の連続性において内的過剰を語ることで、異性愛規範がそれ自体どうでもよくなるような限界までそれを生き抜く、そのエクリチュールの形式にあります。最近の千葉氏はたまに「今の人類はバタイユからやり直せ」みたいな愚痴を漏らしていますが、全力で同意します。 

 つまり、究極的な私の立場は、社会的発話(政治)とプライベートな性の語り(文学)を切り分ける身振り自体の抑圧性に敵対するものですが、これは各個体のセクシュアリティに徹底的に内在して検討しなければ、やはり無益な水掛け論に終始する問題設定です。

 よって以下は、私が知る限りでの高橋氏の人となりを紹介させていただくことで、この問題を高橋氏の属人的な瑕疵から離陸し、「オタクのセクシュアリティの語り方」の問題として再考します。この作業は副次的に言えば、巷間囁かれてきた「アニメ批評の不在」というトピックを、軽く反証しておく試みでもあります*4

 

  §3

  問題になっている高橋優氏は私と同世代の方で、東大の院で西欧初期中世史(フランク王国史) をやって修士を取っており、私は高卒のクソですが西欧中世ファンなので、共通の知人とお宅にお邪魔させていただいたことが一度あるお付き合いです。

 ネットでの認知に遡ると、2010年頃に私のはてなダイアリーにコメントしてもらって以来、Twitterのアニメファン的なクラスタ領域を共有した過去があり、東大のSF研あたりを母体にした「声ヲタグランプリ」という同人誌で長年アニメレビューを書かれた末、現在はnoteにてアニメ批評の連載をなされています。

 高橋氏自身は「陣地戦にすらならなかった」と漏らしていましたが、そもそも神経症的な長文を書く人間が少ない趣味領域ゆえ、年を取っても深夜アニメについて何かしら書くことを諦めない人間の営為に対して、私は無条件で友情を認めています。

 ただし、オナニー日記に自閉した高卒の目から見た高橋氏のアニメ批評は、ラノベ原作やなろう原作といった一般に低劣とされる作品をも真摯に読解する貴重な姿勢がゆえに、深夜アニメの体験性を象徴的なもの(学知)への素朴な信頼で縫合せんとする振舞いに、一抹の不安を覚えさせるものです。

 深夜アニメの体験性、という表現に、私は「ゼロ年代」のオルタナティブな歴史を含意させています。東浩紀氏の動物化*5にいち早く「第3世代オタクと薬物依存症者に対する誤解と偏見を助長する抑圧性」を指摘したうえで*6、東氏の理論からこぼれ落ちる「声」という残余をめぐって、前述の東大オタク人脈において声優批評*7という理念を打ち出した、夏葉薫氏という人物がいます。

 夏葉氏の影響は高橋氏の思考には言うまでもなく、大学関係者のコミュニティに関心がない私の自閉的な思考に対しても、多大な影響を与えています。というより、オタク概念やアニメ言説に賭けられる、セックスを含めた実存の全体性を、ネット越しの異なる世代や階級のそれであっても受け止められる存在の仕方を、私は夏葉氏を模範として学んだという過去があります。

 そして、夏葉氏が深夜アニメ体験において提示した「声優批評」の理念は、イメージの過剰が極限に達したスペクタクル状況下、DLsiteのASMRや淫語音声で射精している私(達?)にとり、アニメ/ポルノ体験を内在的に思考する際の手がかりとして、今なお検討に値するものですが、それは後論に譲ります。

 文芸批評風の文体でアニメを語る高橋氏のクソ真面目さはそれはそれで好ましいものの、そのスタイルを成立させている私達のキモさ、つまり本稿では夏葉氏に代表させた私達の倒錯性を、しっかり自己分析しておくことは、相互批判に値する政治的な課題と思われるのです。

 

 §4

 ホモソーシャル極まりなく、非常にうんざりする話題を迂遠に説明しましたが、以上の議論を乱暴な言葉で要約すると、「高学歴オタクがメンヘラ的な言説をリベラルな政治性で排除するのであれば、低学歴コンテンツと低学歴オタクの内省を解離的に消費するのは金輪際やめろ」という私の怒りを、ここでは問題にしています。

 というのも、先ほど言及した私と高橋氏との共通の知人もまた、「リベラルな政治性」の雑な規範を内面化したがために、「性にだらしがない公共の敵としてのオタク」という曖昧な観念を肥大させ、他者に対する憎悪に塗れたヘイト言説を繰り返しており、そうした人間に私の言葉が消費されるのは耐えられないためです。

 私を含めた上述の三者に共有されていたものを、「オタクエリート内部のホモソーシャルな倫理観」とでも言っておきましょう。ところで、この倫理観を背後に隠した高橋氏による江永氏への罵倒は、当事者性が強い議論をリベラルな公共性に対するルサンチマンに還元する論理構成を取る限りで、かつて私達が強い反感を抱いた宇野常寛氏の言説に、酷似してはいないでしょうか。

 例えば葛西祝氏のアニメ批評は端的なオタクヘイトの反復ですが、無思考的にリベラルを擁護するアニメ論/オタク論が煮詰まると、かつて惑星開発委員会に向けられた憎悪感情を、なんと当事者自らが他者に投射する傾向にあるらしいのです。

 そうした愚劣さを内在的に克服するべく当ブログは書かれていますが、そのへんの意図が当事者に読み取られず、もっぱら「文学」的に消化されているよう見受けられるので、サブカルチャー経験を神経症的に語るのは、やはり無駄であったと考えています。今回だけははっきり言いますが、お前ら死ぬまでそんなことやってるつもりなの?

 東浩紀氏も『ゲンロン戦記』で過去の仕事のホモソーシャル性を反省しているわけで、男性の射精は「オタク」に隠喩化・共同化する手前で、各人の実存から問う以外にないという大前提だけは、私のブログの特性上、何度でも確認しておきます。ステレオタイプな表象に媒介されながらも、各人の性的幻想とその解釈行為が全く異なるがために、ここまで問題がこじれているという現実を、忘れないでいただきたい*8

 一応付言すると、私のクソ言説は、私が所属する趣味の共同体に向けては、「オタクという狭いアイデンティティを読書で消尽/解消してほしい」というメッセージしか込めていません。私の経験と歴史を記述するために、便宜的にその言葉を使わざるを得ないものの、「リベラル」と同じほど「オタク」という概念自体、早いところ封印したい気持ちに駆られています。*9

 

 以上、定型発達的なシスヘテロ男女や大卒者が形成する社会規範の抑圧性を当事者として問題化しないまま、大学共同体や趣味の共同性にどっぷり浸かった(あるいは単に雑なだけの)アイロニーによって他者を攻撃できる無神経な人間とは今後付き合いたくない、という私の単純な生活上のストレスを表明させていただきました。

 こうした社会的対話の問題は、当事者が忘却しているオタク/サブカル的な来歴を蒸し返してでも指弾しておかなければ、後から来た人間や外部との断絶が広がり続けるばかりです。加えて、「歴史」という認識論的カテゴリー自体が崩壊したような昨今、「自己から逃れるために歴史を書く」フーコー的実践の重要性を、私は改めて感じています。その不可能性を嘆いたり、分離した人間存在に憎悪を振り向ける暇はなく、幼児性に塗れたサブカルチャーに生き続ける以上、実存の内奥に遡行して断片的にでもそれを試さなければ、私は私の存在に耐え難い、という本音も繰り返しておきます。

 雑な政治性の発露によって社会の分断に加担する前に、感覚与件と抽象観念のあいだに開いた無限の深淵で各人が生きている、反省的判断/美的判断の愚劣な無根拠性*10をこそ丁寧に語るべきである。マイナーポリティクスに踏みとどまり、個人的なことを個人的なこととして語ることができない人間に対する軽蔑もまた、千葉氏に首肯せざるを得ない論点です。

 

§5

 以上に具体的に記述した、時代の政治文化や趣味の共同体に対する失望を通過したうえで、私はバタイユ以降の「共同体なき共同体」の理念を生きており、私と感性的条件を共有しない他者の思考を触発しうる実践にしか、すでに関心がありません。

 言い換えれば、私はオタクというアイデンティティを消尽した、最悪のポルノ中毒者という立場から、「主体の欲動の解釈が象徴的なものを介して変容する可能性」を想定して、断絶/対立したかに見えるサブカルチャーハイカルチャーのあいだに、微視的な次元で交流の回路を保っておくべく活動しています。

 この立場に至ったうえで、縮小しきったアニメ趣味をいかに続けるか、をよく考えます。「アニメ-消費者-オタク」という問題構成に留まって、サブカルチャー経験を倫理化-主体化する大衆個人主義の頽廃を知人達に確認した一方で、クリエイターインタビュー周りの仕事は大変だし食えないという経験も通過しており、商業媒体で書く野心すら残っていないためです。

 主客問わず消費者言説に絶望した以上、あとは業界に入るか、クリエイター支援に回る道も検討したいのですが、労働問題にコミットするには社会知が乏しすぎるので、黙って勉強だけしていたい気持ちが強いです。

 

 今期は『回復術士のやり直し』を観ています。監督の方がバタイユやサド、アポリネールをイメージして原作の残虐性を解釈しているらしく、そのためか私のバタイユに関する動画*11を参照いただけたみたいで、嬉しかったです。

 スタッフでいえば柳沢テツヤ大畑晃一ごとうじゅんじあたりが親しみ深く、元請けのティー・エヌ・ケーも『HAND MAID メイ』『あぃまぃみぃ!ストロベリー・エッグ』 『G-onらいだーす』『落語天女おゆい』『京四郎と永遠の空』『精霊使いの剣舞』『sin 七つの大罪』『神田川JET GIRLS』あたりで長年偏愛してきた制作会社です。

 本当はこのへんの作品全てに詳細な感想を書きたいわけですが、全ては無理だし退屈ではない書き方が現状思い浮かばず、趣味を共有する消費者に向けて素朴な感想を書き続けても、結局は上述した数少ない知人であるオタクエリートしか読めず、しかも彼らの自意識を肥大させて他者に実害を発生させる危険性がある以上、するつもりはありません。

 それゆえに、例えば『回復術士』に典型的に見られる解釈困難な「オタク文化の過剰性」を*12ミソジニーと言って済ませるのも、大藪春彦的なハードボイルドへの先祖返りと無難に位置づけるのも*13、私個人の当事者性から擁護するのも、留保せざるを得ない次第です。

 ひとまず、主人公が薬物漬けにされたのち陵辱される描写の徹底性など、確かに乾いた暴力がアポリネールっぽい快活な感触に転じており、男性の脱主体化の欲望を贖ってくれるのはもちろん、それに続く分身、人格の変容、ルサンチマンの肯定といった諸主題もまた、上で批判したような消費者が内面化した近代的主体の自明性を嘲笑う作劇において、素晴らしい心地良さを覚えることだけは、記しておきます。

 

§6

 今さら「マスターベーションの切迫性」という表題についてですが、上述した政治的・社会的諸問題に対する神経症的ストレスが、例えば千葉氏が理論化するようなASDっぽい自己認識を諸主体に要請し、「徹底的に個人に引きこもってから初めて政治とか語りましょうね」という常識が共有された社会になって……いる……よね……? そのはずなのに……異性愛男性は互いの射精を馬鹿にしがちで……話が全く進みませんね……? そのへん恥知らずなナイーブさを発揮しないと……どうでもいい分断が進むばかりですね……? 私が退屈な性の反復を徹底的に肯定するのは……そのへん本気でド鬱に沈んだ過去があり……繰り返し言わないとすぐ忘れられるし……人間存在の「呪われた部分」はオタク文化に対する外部からの攻撃ではなく、むしろその当事者における同族嫌悪というかたちで顕著に呪われ続けているようです……という話として、全ての話題が私の自閉的な「マスターベーションの切迫性」に結び付いている事情を、表現しているに過ぎません……

*1:https://twitter.com/masayachiba/status/1355118685103374345

*2:千葉氏の知の軽快さに対する両義的な気分は否定しませんが、本稿では留保します。2021年3月16日追記:この件について人に感想を訊ねた際、大前提として千葉氏のTwitterの使い方が気に食わない、という倫理的批判に傾いていたのが印象的でした。その方はノーコミットの立場だったのでさておき、私としては「Twitterやってる人類は多かれ少なかれ全員ウザいからそこは問うても詮無い」という立場であり、この点に関しては福尾匠氏の以下のツイートが特に印象に残っています。https://t.co/BsFH5cMj8C

*3:2021年3月10日追記:雑な補足をしておくと、言及されている江永氏の記事に「リベラル」という単語が登場するのは、約3万字のうち僅か3回のみです。一体どこに・誰に対する劣等感を読み取れるのか、素朴に疑問を感じます。また、ここでは高橋氏の暴言に乗っかって「ネットリベラル」という雑な政治的立場を仮定しましたが、この概念から想起されるタイプの言説全般を批判する気はありません。あくまで本稿は、当該ツイートの不愉快さと暴力性だけを問題にしています

*4:2021年3月10日:表現を修正。一応色々あったけど、その成果や質に関しては、私の紹介の仕方を見ればお察しの通り。それでも応援していた界隈ではあったものの、結局グダグダで終わってしまったため、一度人間関係を清算しておきたいというのが、本稿の動機のひとつでした

*5:東氏の語った「オタクと動物のある種の共通性」が、その類稀に便利な隠喩性をもって、オタク当事者の内面に根深い禍根を残した事情と、それと内在的に折り合いをつけるに至った経緯の記述こそ、当ブログをここまで駆動してきたものです。「自慰と生理のある種の共通性」をもって、硬直した思考を挑発する千葉氏の身振りもまた、その種の危険には満ちており、そのフォローに砕心しているのが江永氏の記事かと判断されます。そのうえで私は、うざいならブロックかミュートでええし、最終的には時間に余裕を作ってじっくり著書に向き合う以外にない、という現実だけ証言しておきたい立場です

*6:hentai Japanimation 2002年5月

*7:声優批評入門 - 帰ってきたへんじゃぱSS

*8:2021年3月16日追記:妙な読まれ方がされないよう、一応はっきりさせておくと、例えば巷で繰り返される表現規制問題に関しては、「外圧ある方が変な表現は出てくるし、お気にのポルノが違法化されたら黙ってアングラに潜るだけなので、悪法の個別具体的な批判作業を支持する以外は、基本的にノーコミット」という立場です。そうした論点で他者と争う/結託する切迫性を、実のところ私は持っておらず、どうでもいい友敵の政治やヘイト的な言語使用に付き合う義理もありません。ただ、こうした逃げの振舞いを延々と打たなければやっていられない気持ちだけは、否定せずにおきます

*9:以上の議論は、千葉氏のオタク-ギャル男論を手がかりにゼロ年代批評を再解釈した上で、ドゥルーズからクロソウスキーへと思考の参照軸を移すことを提案する文章として、とある同人誌に3万字ほどの分量で寄稿した内容と関連しています。それと本稿で「オタク論」は卒業したい気持ちです。表に出たらご案内いたします

*10:宮﨑裕助氏の『判断と崇高』をこの前読みました

*11:

*12:監督のコメント、主人公のキャラが理解不能なのでバタイユ『太陽肛門』に頼った事情が端的に明かされていて面白かったです。私達の欲望がフレンチセオリーでしか解釈できない次元に突入した状況に、クリエイターサイドも直面している例証として興味深く思われます

*13:なろう発『回復術士のやり直し』に見る大薮春彦・西村寿行的ハードロマン・リバイバルへの懸念(飯田一史) - 個人 - Yahoo!ニュース