おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

人形とキャラクターについて

 数年前まで狂っていたドールユーザー体感は上の記事にまとめたことがあり、カスタムドール文化の全体像を概観できる情報が不足していた不満を雑にぶつけたのですが、特にSDが絡むと当事者性を欠いた言語化は避けるべき領域という意識が強く、ジェンダー負荷を含めて疲労困憊しながら書いた記憶があります。

 そもそもなぜ球体関節人形に行ったかといえば、60年代アングラやベルメールへの凡庸な憧憬以上に、美少女文化に浸かる中で醸成された「これ以上他者と性的対象を共有したくない」という我儘なちんこの要請があり、フーリエユートピアもかくやの複雑すぎる二次元ポルノ文化の在り方に疲れた人間の避難先と言いますか、 私有不可能なキャラクターに個人の魂を賭けきれなかった弱さや、他者との欲望の交換に自らを開けなかった偏屈さを贖う意味があったよう振り返られます。

 よりにも『ガリレイドンナ』のキャラクタードールを人に買わせておきながら、自分では版権系の人形やフィギュアを所持しなかったのもそういうことで、カスタム系3Dエロゲと並行して、能う限り山奥で自らの分身以外の何物でもない何かと交合していたい一心での消費行動でしたから、VRエロゲの衝撃でドール熱がずいぶん冷めた現状には忸怩たる思いがあり、鬱で仕事を減らしてランニングコストのより低いポルノに移行しただけではないかと、増やすだけ増やしたアゾンドール*1の曖昧な微笑に囲まれながら呆然としています。

 熱狂が落ち着いた後は、40cm級が10体を超えるだけでも存在感が重く、髪の乱れに手櫛すら億劫な日々、撮影小物と服の量も不器量には手に余り、引っ越しするたび減らそうか、潔くドール趣味ごと引退するかと悩んでいます。

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 ドールとVRエロゲの両方にどっぷり浸かった人間は自分以外に現状あまり観測できていないので、両者を支える欲望の通底と連続性という、今更ながらに難解な話について書くのですが、それこそカスタム系3Dエロゲには立体的な美少女表象をジオラマティックに配置する撮影モードが搭載され、有志あるいは自作による背景・衣装・小物Modも導入すると、造形上の差異や触覚の有無やテクスチャの安さなど諸々の細部を切り捨てれば、自在な少女人形を愛玩し撮影するというエッセンスに関しては、ほとんど工学的に代替できてしまう可能性があるわけです。

 とはいえ、欲望の核心が全て情報に還元される、欲望の対象があまりにも手軽に変更/操作可能であるエロゲ享楽には、安楽と表裏の居心地の悪さを根底で拭いがたく、翻ってドール趣味には主体の技術と生活が粘着質に付きまとい、主体の在り方が不可避的に泥臭く対象の様態にも反映されることが肝要で、たまに手ずから人形の手足を折り曲げて洋服の袖を通したのちウィッグを一旦外して襟に頭部を無理くり通し、危うく力を入れすぎてジョイントが折れ四肢が捥げたりもするといったお着替え作業ひとつ取っても、少女の死体を嬲る手応えによって自らの卑小さへと立ち返りうること、肉体に根付いた罪悪感と確固な触覚性を避け得ないところに、この趣味の継続性の本質を見ています。

 昔から深夜以上に朝方やってる女児向けアニメのヒロインにこそ欲情しがちなことに関しては、 乙女ちっく系少女漫画の呪いという大塚宮台ラインの嫌味だけでも一応消化可能でしたが、少女文化とポルノグラフィの近接混淆に対するフェティッシュ範囲と自己解釈の融通にアイデンティティが規定されてしまうような文化状況が、煮詰まり過ぎてもはやどうでもよくなってきた現状には暗澹たる思いがあり、忘れぬうちの開陳ついで、最近読んだ人形関連の本の感想もまとめておきます。

人形メディア学講義

人形メディア学講義

 

 ゴードン・クレイグの超人形概念が激萌えなのはもちろん、『Kawaii! Jenny』に言及しているのも好感度大で、『ラースと、その彼女』の良さを語ってくれたのも嬉しいのですが、今さら移行対象に持っていかれても、という手緩さは正直あり、煮詰まった当事者的には全体に微温的なアプローチとは感じる一方、一人で勝手に読んで考えるための領域として、エロティシズムの問題系は切断しておいたほうがよいのかもと最近は思います。

 こういう講義が取っ掛かりにあれば自分も大学辞める羽目には陥らなかったかもしれず、年取ってから牛歩でハードコアを読まざるを得なかった人間の思考の連続性を雑にでも提示したほうがよいかと、更新の出汁に使わせていただいております。

人形と情念 (現代美学双書 4)

人形と情念 (現代美学双書 4)

 

 ざっくり視覚の平面性と触覚の立体性というヘルダー-ロック-バークリー的な文脈が大好きなのはもちろん、彫像の裸身的形成に対比しての人形の衣装的形成、皮膚としての衣装という美学的観点には、色々すっ飛ばしてペルニオーラにキュン死してしまった際の感覚が思い出され、積んでるリチャード・コールダーもそろそろ沁みる季節かもしれません。

 キャラクターの内面や図像の象徴性に超越を託せなくなって久しく、であれば徹底して表層に留まるための一手段として、裁縫や服飾も老後の趣味に検討していますが、ドールの服代や生地代も馬鹿にならない手前、結局はアイマスに課金するのが一番手軽で物も増えない、という経緯で享楽の形式が劣化し続けている近年です。 

人形論

人形論

 

 認識論・科学思想史を専門とする著者の遺作となる本で、人形という概念が孕む曖昧さと裾野の広さを慎重に弁別する視座が頼もしく、「呪術/愛玩/鑑賞/物質性」という最低限の概念的基底に沿うた各分野の誠実な素描に、思考を整理してもらえました。

 天野可淡氏の影響が根強いゴシック系創作人形に日本特有の達成を見ると同時に、伝統から切断された(ように見える、あえていえばサブカル的な)反近代的表現への引っかかりも表明されているのが印象的で、自分もそうした日本ゴス文脈への興味を含めて人形趣味に入りましたが、それと共通する死体人形という表象に萌えて手に取った笙野頼子氏『硝子生命論』の衝撃こそ、耽美的な人形愛好が概念的思考に解けていく契機だったかなと、個人的な読書史も振り返られました。

 『金毘羅』の宗教的自我を経てフォイエルバッハまで咀嚼していく笙野氏の以降の展開はもちろん、理想の「少女」という妄想の現実化に倫理を求め、神への祈祷に至高の愛の表現を見た二階堂奥歯氏や、遡って『人形愛』の高橋たか子氏なども含めて消化せんと、女性文学やカトリシズム、神秘主義にまで食指を伸ばしていった次第です。

 あとは芋づる式にわりあいなんでも読める気になり、そう感じるだけで冊数はクソですが、人形という言葉は大体そんな経緯で、自分の観念連合の基盤となる特権的な悪い概念として、欲望と学知を主体のうちでぼんやり統合する働きを今なお担っているよう感じます。

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 初めて行ったドール系の即売会で衝撃を受けたのは、古式ゆかしいお針子文化とディープな欲望ガン回しのガレキ文化が同居した光景で、要はこってりフリフリなオカンセンスの自作ドレスとドルフィードリーム素体に換装するシリコン成形の柔らか爆乳パーツが一堂に会しており、その両方を平然と同時に欲望可能だった自分にこそ時代の狂気を確認した次第です。

 オナホ妖精よろしくのアダルトグッズやシームレス素体も当然通過し、無洗浄板などの暗部まで観測してきた手前、業田良家作品のペーソスが沁みないはずもありません。

  最後に残った等身大は人のブログを楽しむに留め、バーチャルセックスの触覚用にぬいドール*2だけ導入しましたが、結局は抱き枕と同様に脳髄に染み付いたキャラクターの残像を温もりに宿す添い寝用途に落ち着いており、これに関しても無限に拡散するキャラクターの幽霊性を私秘的な触覚の次元に落とし込み、キャラクターを人形のアナロジーで私有したいという欲望の根強さを感じています。

 好みの造形が見当たらず購入資金もない、という理由で等身大を回避するのもそろそろ無理な気がしており、折を見てLevel-Dかと考えていますが、最近兵頭喜貴氏が紹介しているcatdollを見るに、半端な耽美で終わるのも欺瞞か、獣人か幼女を買って腹を括ったほうが潔いかと、自分のヌルさを再確認しているところです。

 活人形、秘宝館、プラスティネーションなど、徹底した写実性がむしろ見世物に終止する事例を見れば、生理学的身体の滑稽さとエロティシズムの観念性は両立しない、という体感にもとづいて、人形愛と二次元愛好を混合しがちな自らの思考の癖にも、あらためて気付かされます。 

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 凡庸な肉体嫌悪からキャラクター文化に沈み、そこに「人形的なもの」という概念の多義性を重ねて認識を遊ばせているうち、決定的に人間自体の底が抜けてしまった時代に気付くと、人間と人形よりは、混線しがちな人形とキャラクターの相違をこそ、腑分けしたいと考え始めた気がします。

 肉体の関与、物質としての重み、私秘性と公共性。等身大なのに存在が軽すぎるVRエロゲの美少女表象は、キャラクターではなく人形としての存在論的位格のうちに重苦しく受け止めるほかなく、「人工身体の背後には声も言葉も名前も精神も物語も一切必要なく、単なる肉質と視線だけが今ここにのみあればよい」という頑迷さを新たな倫理となし、即物的な快楽と徹底的な表層性を凝視していた次第ですから、そうしたアダルトVRにまつわる情念をスルーしてVtuberが流行った直後は享楽の在り方が世間とすれ違いすぎて行き場のない憎悪と希死念慮が芽生え、結局自分で何かやるしかないのかと、もうひとまわり自己愛を突き詰めることで対処しました。

 言語を拒絶して「在るように在る」堅固な自己指示性という人形の神性と、無限のイマージュというキャラクターの神性をアマルガムさせることに、曖昧模糊なフェティシズムたる自らの「オタク的感性」の根があったように思われ、そのような人形性を、意味へと還元する言語操作に脆弱なキャラクターへと無理に見出す倒錯に疲れたのであれば、今さら低級唯物論なども頼りに、ジャンクな視覚表象はジャンクなままに擁護する手立てを探しています。

 乗り越えられたクリシェと言うは易くも、澁澤に端を発する古典的な男性の人形愛を引き受け、スタイルを持って言説化しえない主体の困難は癒えたと思えず、ひとまずはバタイユ的に陰惨と陽気を併せ持ち、短小なりに書斎と女中を享楽し続けることで、情報環境とテクノロジーに対する呪詛となしたい気持ちです。

 全一者でありたいと奢る主体の闇を、ジャンクでポルノで継ぎ接ぎな最低の美少女表象に託して中折れさせる快楽で生きており、グロい享楽を見せびらかしてひたすらにキモがられることにおいてのみ、気儘なネット主体間で倫理を伝達する可能性を見ています。

*1:アゾンオリジナルは比較的キャラクター文化に近似した領域ですが、市場規模の限定された安楽さでつい買いすぎた

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