おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

2010年代のテレビアニメについて

まえおき

 Twitterにて@highland氏が「#10年代アニメ各年ベスト10」というハッシュタグ企画をされていました。リツイートをぼんやり眺めて、みんな楽しそうでいいなと思いました。自分も10本選んだので、どうぞよろしくお願いします。あけましておめでとうございます。
 ところで、自分はちょうど10年前からアニメ周りの売文家の端くれとして生きてきた人間なのですが、ここ10年の人生を端的にまとめると、アニメファンのコア層が京アニ崇拝にのぼせ上がり、我々のアニメに対する感性的条件がどれだけ歴史的に規定された狭っ苦しいものであるかを全く問い直さないまま、批評もブログもジャーナリズムも迎合主義が跋扈し続け、こんな場所で何を書いてもひたすらに馬鹿馬鹿しい、という長年抑圧していた行き場の無い怒りが、京アニ放火事件という最悪の形で回帰してきたように感じられた2019年でした。
 
 ここ10年のテレビアニメを振り返るのであれば、この程度の憂鬱には当然誰もが向き合わされることでしょうから、そうしたしんどさを忘れたい方は以下、読んでいただかなくて大丈夫です。
 すでに業界で仕事をする気もなく、愚痴を言い損ねて禍根を残してもよくないので、「アニメに喚起される情動」と「物書きとしての社会的自我」に折り合いが付かなくなった人間が、ここ10年考えていたことだけ書き殴らせてください。

 

 

 

2010年:ジュエルペット てぃんくる☆

 普通にTwitterをやれていた2011年頃は、ルイス・キャロルドニー・ダーコひだまりスケッチをサンプリングしたダーク魔法少女アニメに「悪」や「救済」や「成熟」といったエモ概念を仮託するムーブメントが印象的でした*1。自分は既に食傷していた新房昭之氏の手癖に舌打ちし、「ジュエルペット」シリーズ第2作目のイノセントな魔法少女アニメに耽溺し続けていました。
 多感な時期に『おとぎ銃士赤ずきん』(06)と『セイントオクトーバー』(07)という「深夜アニメと女児向けアニメのキメラ的モチーフ」を意図的に煮詰めたフリークスに魅了された人間なので、「プリキュア」シリーズのピュアネスと「アイカツ」シリーズの洗練を見届けるのは人に任せて、『しゅごキャラ!』(07)、『リルぷりっ』(10)、『プリティーリズム』(11)、『プリパラ』(14)と快調に走りつつ、『東京ミュウミュウ』(02)、『満月をさがして』(02)、『ぴちぴちピッチ』(03)などのシリーズに遡った青春でしたが、「少女文化に興奮してしまう肉体に何の根拠も無いこと」を確認して鬱が深まり、「歴史を踏まえるならば太刀掛秀子などの70~80年代りぼん乙女ちっく系少女漫画をこそズリネタにしなければならない」という強迫観念には、今なお苛まれています。
 島田満脚本の文脈すら踏まえず『てぃんくる』を「王道の魔法少女アニメ」とか商業誌でべっとり褒めた過去が今になってつらい一方、中年人気の高さに引きながらも『サンシャイン』(11)に移行して、そうした病気を哄笑の只中に忘れさせてくれた「ジュエルペット」のおおらかなシリーズ展開がなければ、この歳までアニメを観てはいなかったと思います。
 

2011年:R-15

 そういうわけで、自分がアニメを観続ける最大の理由は、その低劣さと幼児性にあります。
 当時は目の前に広がるゴミの山を語らずに済ますアニメファンと知識人の、あらゆる言説に激しい憎悪を抱いていました。
 今は他人に期待せず、雑に視聴本数を増やす態度自体から見直して、粛々と趣味の文章を書いて生きる方向に努力しており、 個別の作品については、別の機会に書くつもりです。
 なぜオタも知識人もクリエイターも信用せず、自意識だけでアニメを観れていたのかは分かりませんが、大塚英志風に言った「二階の住人」的なおたくコミュニティに拾われて*2、気が大きくなっていたと思います。
 実際、何らかの濃密なやり取りがあるコミュニティに参加しなければ、10年もアニメは観れませんでしたが、周囲の大人が40も超えてお互いに飽きてきたのが運の尽き、同世代の友人を増やしたり同人活動をメインにすべきだった、という後悔が残りました。

 

2012年:武装神姫

 Anifavというサイトで『武装神姫』の全話レビュー原稿を載せていただきましたが、そのサイトがとうに潰えている時点でアニメ関連ジャーナリズムの困難は言わずもがな、商業でアニメについて書くことの徒労感は、当時からうっすら感じていました。
 正直言えば、上の世代のオタク系ライターの方々の仕事にも、クリエイター関連の情報にも今は関心を失っており、文化伝統の継承よりも平成世代の絶望に基づいて物を書きたい気持ちが強いので、そもそも業界に向いていませんでした。
 消費文化がもたらす人間の劣化を無視してSNSでデカい面するぐらいなら、孤独死のほうが遥かにマシという認識に至って久しいです。
 本当は二度とネットをやらず黙って消えたかったのですが、せめて全てに関心を失った人間が連帯する可能性ぐらいは、場末に残しておきたい気持ちがあります。
 昔のように無邪気にアニメの文章を書けたなら、という哀惜だけがあり、読む人には読んでもらえていたので失礼ではありますが、今本当に考えるべきは作品についてではなく、もはや人間ではいられなくなった私たち自身についてだと思います。
 

2013年:ファンタジスタドール

 ネットコミュニティの熱狂に同一化できた最後の作品でした。
 ボンクラのまま生きたかったものですが、この頃から匿名掲示板からも足が遠のき、カオスラウンジ騒動に対する罪悪感も淀んでいました。ネットリンチに無感覚のままアニメファンを自認するのは非常にしんどく*3、富野監督の説教はもちろん、山本寛氏の怒りですら真に受ける価値があります。当時は鼻で笑っていました。今は歳を取る怖さを思い知っています。
 周囲の勧めからコメント付きでアニメを観るのにも飽き、『D.C.IIIダ・カーポIII〜』『AMNESIA』『断裁分離のクライムエッジ』『RDG レッドデータガール』『フォトカノ』『デート・ア・ライブ』『ジュエルペット ハッピネス』『探検ドリランド -1000年の真宝-』『絶対防衛レヴィアタン』『アラタカンガタリ革神語〜』『革命機ヴァルヴレイヴ』『変態王子と笑わない猫。』『犬とハサミは使いよう』『BROTHERS CONFLICT』『ステラ女学院高等科C3部』畠山守版『ローゼンメイデン』『帰宅部活動記録』『幻影ヲ駆ケル太陽』『神さまのいない日曜日』『DIABOLIK LOVERS』『ゴールデンタイム』『ストライク・ザ・ブラッド』『勇者になれなかった俺はしぶしぶ就職を決意しました。』『メガネブ!』『ワルキューレロマンツェ』『機巧少女は傷つかない』『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』『ガリレイドンナ』『サムライフラメンコ』あたりが好きでした。
 私たちは記述できる以上に多くのことを知りすぎている、という文化ジャンキーの閉塞感をあらためて強調しなければ、今のネットの荒野に関して申し開きが立ちませんが、もはや誰に対して言い訳をしたいのかも分かりません。

 

2014年:彼女がフラグをおられたら

 それ自体で完結した快楽の全体性*4を、概念で汚すほかない思考に対する苛立ちが、徐々に自覚されてきた時期でした。
 大衆文化の映像作品に対する自分の感動の核心は、「極めて多層的に構築された、極めて単純な快楽」の至高な無意味に見出されています。
 一作品の長尺と分業体制の複雑性が、大雑把に把握しやすい「作家性」を容易くクリシェと感じさせ、言表困難な剰余やプロダクトの細部に必然意識が向くものの、それらの総体が奉仕している最も肝要なルックやデザインの洗練自体は、どうしても直観的かつ換喩的にしか記述できない我々の無能さにこそ、深夜アニメ特有の異様な快楽の本質が隠れている筈であり、それは裸体の猥褻さのように意識の諸表象の領野の外部に留まる*5がゆえに、エロティックなまでの魅力を永続させているものと思われます。
 
 記述しえない猥雑さを「思考の限界」として愚直に強調する語り方自体、反時代的で信用を得ないと分かってなお、非-知の只中で対象以上に主体自身を笑うしかない、という姿勢だけが、自分がオタクという概念に託し得た唯一の美学であり、神聖な汚物を崇拝する人間が踏まえるべき最低限の条件だと考えています。
 
 どれだけ大量の生と技術が我々の幻想を支えていることか、どれだけ巨大な混沌を切り捨てて気儘な酩酊を得ていることか、その怖ろしさを閑却して狭い認識を開陳するしかないのであれば、せめて相応の忸怩ぐらいは表現できなければつらいわけです。
 

 『ロボットガールズZ』『最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。』『みんな集まれ!ファルコム学園』『バディ・コンプレックス』『ハマトラ』『魔法戦争』『マジンボーン』『ブレイドアンドソウル』『悪魔のリドル』『selector infected WIXOSS』『レディ ジュエルペット』『星刻の竜騎士』『神々の悪戯』『金色のコルダ Blue♪Sky』『それでも世界は美しい』『極黒のブリュンヒルデ』『ブラック・ブレット』『ソウルイーターノット!』『棺姫のチャイカ』『エスカ&ロジーのアトリエ 〜黄昏の空の錬金術士〜』『M3〜ソノ黒キ鋼〜』『RAIL WARS!』『普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。』『少年ハリウッド -HOLLY STAGE FOR 49-』『人生』『Re:␣ ハマトラ』『モモキュンソード』『LOVE STAGE!!』『精霊使いの剣舞』『デンキ街の本屋さん』『失われた未来を求めて』『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』『繰繰れ! コックリさん』『暁のヨナ』『大図書館の羊飼い』『ガールフレンド(仮)』あたりが好きでした。

 

2015年:ランス・アンド・マスクス

 提灯でこんなひどい褒め方ができれば、黙々と公式仕事に勤しんでいます。
 書き方も悪かったと反省され、真剣な思い入れは真剣に表明しないと伝わらないという確信が、文体の去勢にも繋がりました。
 「クソアニメの人」と認識され続ける自己同一性を呪う一方、そう形容せざるを得なかった深夜アニメ特有の低俗と猥雑の価値を、匿名掲示板とも秘宝ともシネフィルとも異なる思考と文体で強弁する以外、自分にできる仕事はないと判断されていました。
 ただ、感性的体験を共有可能にする冗長性を伴った面白主義的文体ではすでに文章を書けず、今さらネット言説で気儘な読者を動員する気も起きません。
  「批評の蛮勇」を奮う気概はなく、さりとて公式案件や取材仕事に大人しく邁進するような信仰も喪失し、ただただ「アニメを観ることの言説化」にまつわる神経症的な憂鬱と自閉症的な快楽に引き裂かれ、身動きの取れない期間が続きました。
 
 今は、「映像体験をいかに分節化するべきか」というライターとしての職能上の課題を、「言語と生の対立」という思考の根本問題に位置づけ直し、別の生き方を探っています。

 

2016年:12歳。〜ちっちゃなムネのトキメキ〜

 先日、長年の京アニフォビアをおして『聲の形』(16)を観たところ、完璧な画作りと丁寧なドラマに胸を締め付けられると同時に、早見沙織声の聾唖者に断然勃起する言えない欲望をこんなに美しく祝福しないでほしい、という憤りを覚えました。

 全ての罪悪が幼年期の愚昧さに端を発するというのなら、ガチの小6マインドをトレンディなスタイルで天真爛漫に謳歌する『12歳。』にこそ留まり、幼さは幼さそのものとして罰されたいと願われます。
 鍵ゲーは後追いで6割方プレイしており、鏡像的な白痴に魂を浄化されるエクスタシスの至高性と、そのどうしようもないみっともなさの両面を思い知らされるからこそ、Keyや京アニ作品の完全な快楽を笑い飛ばすところから、人はオタとしての個体化を果たすものであると、信じて自分は生きてきました。
 
 この甘すぎる快楽を、トップクリエイターとビッグバジェットに世話される恥に耐え難いがゆえ、底の知れた欲望は最底辺のコンテンツでこそ満たすに至っているわけです。
 

 『NORN9 ノルン+ノネット』『ファンタシースターオンライン2 ジ アニメーション』『紅殻のパンドラ』『霊剣山 星屑たちの宴』『最弱無敗の神装機竜』『蒼の彼方のフォーリズム』『リルリルフェアリル 〜妖精のドア〜』『迷家 -マヨイガ-』『聖戦ケルベロス 竜刻のファタリテ』『ハンドレッド』『鬼斬』『SUPER LOVERS』『ビッグオーダー』『タブー・タトゥー』『魔装学園H×H』『スカーレッドライダーゼクス』『タイムトラベル少女』『クオリディア・コード』『アンジュ・ヴィエルジュ』『ViVid Strike!』『マジきゅんっ!ルネッサンス』『Occultic;Nine -オカルティック・ナイン-』あたりが好きでした。

 

2017年:クロックワーク・プラネット

 YouTubeのプライベートな映像文化にスカムも砂金も一緒くたに混在する状況下、曲がりなりにもテレビ放映のコンテンツで人気の多寡やB級が云々と考えるのが、いよいよ馬鹿らしくなった時期でした。

 ブログ文化圏の崩壊と共に進行した短文SNS全盛の状況下、諸個人の感性的断絶が容易に政治的危機へと発展するインターネットに関心が失せ、結局はアニメジャンキーとしての自我に充足あるいは自閉して、既存の媒体や言説形態への適応自体、徐々に諦めていった10年間でもありました。

 私が作品に関する記述よりも自意識の記述を優先するのは、既存の分析的言語とオタ諸個人の思考の混乱を比較すれば、後者に潜在する狂気の可能性に賭けたい気持ちがこの期に及んでなお強いためですが、個であることが不可能な趣味領域であることを認めて、潔く立ち去ったほうが生きやすいのも分かっています。

 『政宗くんのリベンジ』『アイドル事変』『セイレン』『ハンドシェイカー』『つぐもも』『フレームアームズ・ガール』『アイドルタイムプリパラ』『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』『武装少女マキャヴェリズム』『ひなこのーと』『ツインエンジェルBREAK』『覆面系ノイズ』『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』『sin 七つの大罪』『アクションヒロイン チアフルーツ』『天使の3P!』『異世界はスマートフォンとともに。』『はじめてのギャル』『王様ゲーム The Animation』『魔法使いの嫁』あたりが好きでした。

 

2018年:となりの吸血鬼さん

 この時期に書けるぶんは以前書きましたが*6、とりわけ「なんにも感じなかった」ことにおいて印象的だったのが本作で、快楽の飽和が明確に自覚されてきました。
 
 一日で完走できる驚くべきカロリーの低さで推移する、ポーのサイン本やガレノスの四液体説が淡々と流される悠久のぼんやり感には、男根主義者に感知しえない快楽の生起する気配だけが感じられ、一抹の悲しさと共に「こういうアニメとも向き合い続けなければならない」と感じました。
 
 再生している間、「百合は俺を人間にしてくれなかった」*7という怨みが脳髄を支配したので、反人間・反思考・反哲学の気概に燃えて、フレンチセオリーに再入門しました。
 
 その結果、「屈託なき自己消去願望」に苛立って他罰的言説を弄する気も失せ、少なくとも理念としては、どこまで他者の欲望と自らの欲望を交流させ、世界を肯定し続けられるかに、思考の構えが切り替わった時期でした。
 

2019年:通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?

 ところで二次元バーチャルセックスの十全すぎる視覚的現前性に枯れ果てた後の自分は、エロ同人音声でも容易に射精してしまい、斯界の赤ちゃんプレイ作品の豊穣さにこそ、さらなる荒野が待ち受けているよう予感されています。ASMR文化はまだ拒絶しています。あるいは、10年代インターネットのアニメ文章で、女性声優の咀嚼音をコレクションしたあれ以上に、記憶に残ったものがあるでしょうか。最近は『僕たちは勉強ができない!!』9話の古橋さんが歯磨きした後の「ぐちゅぐちゅぺ」の音が好ましかったです。
 
 こうしたインターネット感性や肉体の荒廃と照らし合わせれば、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』の自己目的化したお話転がしに振り回される思春期男女の先鋭ぶった保健体育授業には感興を削がれるばかり、麻倉もも氏のキャラがレズセックスすればまだしも、『砂沙美☆魔法少女クラブ』以来の岡田麿里氏とも付き合う気は失せ、むしろ『フルーツバスケット』リメイクの平板な小綺麗さにこそ安息を覚える中、桜井弘明監督の完璧なリズム感覚できらら幻想を崇高の域に高めた『まちカドまぞく』の危うい快楽にも震撼させられましたから、『トリニティセブン』ばりのギクシャクしたお洒落劇伴エロに悶絶する『戦×恋』をはじめ、『ノブナガ先生の幼な妻』『なんでここに先生が!?』『魔王様、リトライ!』あたりのたまらない幼児性や、『超可動ガール1/6』『Re:ステージ! ドリームデイズ♪』『八月のシンデレラナイン』あたりの健気さに心地良さを求めてしまい、あとは『魔入りました!入間くん』がずっと続いて、『星合の空』の続きが観れればなお幸甚、と特に問題なく本数を回せる程度には、最近精神も回復しました。
 
 藤真拓哉デザインのグロ安い百合が感涙物の『Z/X Code reunion』と並べると、中年エロクリエイター揃い踏み『神田川JET GIRLS』はむしろ安心感たっぷりで、『旗揚! けものみち』『ダンベル何キロ持てる?』の異様なバランス感覚にも舌を巻いた年でした。
 
 そこに来たのが岩崎良明監督の保守タッチで能天気な母親ポルノとジャンクな毒親話を交互に繰り出す最悪のファックムービー『通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?』で、おれの男根が母親に射精しているのは十分に自覚しているからもうやめてくれと絶叫しかけましたが、下劣な直截性を強いて肯定することで享楽を変容させる以外、アニメのもたらす効果など見出せません。
 
俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』では、金元寿子声の童顔巨乳女子のグロさに射精し、茅野愛衣キャラの人気には唾を吐いていましたが、今となってはどちらが奇形的進化かも分からず、EDの「パタパタママ」の替え歌に頭を抱えるたび、「キモい快楽を否認してはならない」というオタ教訓へと、戒律のように立ち返ることになります。
 
「母性のディストピア」というキャッチコピー批評*8に要らぬ苛立ちを覚えず、我々の内なるラブワゴン(肉体的実践への回帰)を笑い飛ばすためにも、母親の代理とファックし続けていること自体は否認せず、どれだけ平板で卑しく直視に堪えない表現であっても、我々の貧しく腐り果て錯乱した非人間的な感性自体をこそ、醜悪な「私」の立場から言説化するしかありません。


 もちろん『アズールレーン』など放送中から忘却しており*9、クソな労働環境とクソなインターネットを放置して制作側の人間を絞め殺す生き方にもう耐えきれず、SNSでぴいぴい囀る生き方に適応するぐらいなら自殺したほうがまし、という絶望も治る見込みがありません。
 とにかくTwitterが嫌いなだけなので、noteなどに移行はするつもりですが、いろいろ今さら遅かったのか、目に入る「同好の士」の大半に関心を失っています。
  そのぐらい我々は、お互いがどのような信念体系に基づいて、個々の欲望の表象に思考を溶かすに至ったのかをなおざりに、自己を消却した匿名的かつ断片的な言葉で作品を語り続けた結果、完全な相互不信に陥っているということだけは、確実に言えるかと思われます。*10
 
 そもそも、「考えること」自体が人間の本質や尊厳をもはや構成しえない、という時代の条件を、ここまで隠然と言祝いでいる趣味領域も他になく、驚くべきことに、テレビアニメがソーシャルゲームと同様の基本無料文化であるがゆえに、その言説環境には貧困の問題が密接に絡んでいるということを、明確に踏まえて作品評を書いてくれる人は、これまで極めて僅かでした*11
 
 感性的条件を弁明せずに済むマジョリティとしてのオタク文化消費者は、その当事者性を自覚しないまま大雑把な繋がりを頼りに歳を取ることが容易である反面、飽きた時の悲惨もまた相当であるということ以外、この趣味について強調すべきことが残っているとは思えません。
 
 
 かつての人間が生きられたような「現実」や「生活」を喪失し、コンテンツを生そのものとして代えがたく経験しているがゆえに、作品=生そのものを言語で分節することに極度の緊張、あるいは諦念を抱いてしまうのが我々の不幸であるならば、どのようにすれば作品自体については語らずに済ますことができるのか(できているのか)、語らずにおくことで滞留する記憶や情念にどう責任を取っているのかだけは、明確にしたく思われます。
 また、こうした便宜的な語りの姿勢に「無為」と「軽薄」と「だらしなさ」が絶えず付きまとうのであれば、時代の軽薄さに打ちひしがれた人間同士が交流するための別の方法を作れないか、ということを考えながら、最近は生きています。
 

*1:当時は反発しましたが、例えば山川賢一氏『成熟という檻』などを再読すると、ああした謎本的思考を反面教師にして大衆文化と学知の結び付けを反省的に捉えられたのはむしろ幸福であった、と感謝だけが残っています

*2:来歴 - おしゃべり!おしゃべり!

*3:2021年2月4日追記:昔の自分が無邪気なネットのオタクとして、ゲラゲラ笑いながら東氏や黒瀬氏のクソコラ画像を収集していた事実は書き残しておきます。少なくともあの件に限っては、やり過ぎを追認したことの後悔は変わりません。それもあって、最近までは黒瀬氏の仕事も極力フラットに読む努力をしてきました。そんな勝手な疚しさも、パワハラ騒動で吹き飛んでしまいましたから、以降は黒瀬氏にもカオスラウンジにも一切言及しないつもりです。

*4:例えばアリストテレス『ニコマコス倫理学 (下)』(p.161)には、運動や生成の可分的な性格と関わらない、快楽の全体的・究極的な性格に関する記述があります。また、バタイユは『エロティシズムの歴史』(p.163)において、「色、音……といった抽象的諸要素しか扱わない分析には絶対に還元できないもの」である「総体«totalité»の感情を味わうには、明晰かつ判明なものはなにひとつ開示してくれない、このうえなく模糊とした感覚が、極度に高まることが必要である」と述べています。自分は、大衆文化の洪水を浴びる私達の生の根源的な表現を求めており、この目眩と絶望に満ちた「快楽のとてつもない単純さ」の次元を、原理的に分節する以外には救いを見出せなくなっています

*5:「実を言えば、横滑りこそ裸体の本質をなす。そして、欲望の対象の現実的な在りようは挑発的であるが、それにもかかわらずこれがたえず明確な表象を逃れるのは、この横滑りのせいである。というのも、ある人間の欲望をそそるものも別の人間の関心をまったく惹かないし、加えて、ある対象に今日胸を引き裂かれるような思いをする人間も、明日になれば平然としているからだ。裸体についてよくよく考えてみれば、猥褻な、とは言わぬにしても、少なくとも淫蕩な、したがって挑発的なその外観は、つねに人を欺く。実際、裸体は、あからさまな猥褻を包み隠しているのだが、この猥褻そのものの意味が横滑りする(捉えどころのない)ものであることは、すでに見た。」『エロティシズムの歴史』p.207-208

*6:平成30年度アニメ感想 - おしゃべり!おしゃべり!

*7:失礼なのでリンクは貼りませんが、某出版社の販売戦略には定期的に心底うんざりさせられます

*8:ヘルシー女子大生か善良な市民の言説に傷ついた過去も、今となっては凡庸な思い出の一つに過ぎず、むしろ次の世代から見た今の自分の言説が、かつての自分にとっての宇野氏のようなオタちんこ殴り言説としてトラウマを植え付けかねない、という現状認識に立ち尽くしています

*9:アズールレーンに参加したアニメーター「どこまで手を抜けるかを追及した」 - Togetter

*10:大衆に絡まれた批評家がよく言う、「不満があるなら外在的言説は無視して自分で文章を書けばよい」という提案は、本当に真っ当なのでそこだけは無条件に真に受けてほしいと思う一方、大衆文化に学的認識を適用すること自体の馬鹿らしさはここで等閑視されていますが、その馬鹿らしさを主張するにも相応の覚悟と手続きを必要としてしまう立場から、自分は文章を書いています

*11:2021年5月17日追記:以前はここに葛西祝氏のブログを評価する注を付けましたが、「オタク」概念に隠喩化した他者に対する憎悪感情が反復される執筆態度に疑念を覚え、現在は削除しました。私が本稿で「アニメオタク」的な他者に対する愚痴をあえて吐露したのは、そうした憎悪感情を乗り越えるために他なりません