おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

11年目のアイドルマスターXENOGLOSSIA

 自分は2005年頃からテレビアニメばかり見始め、2014年頃まではわりと快調に走れていたのですが、まさかアニメの総数が06~07年頃の絶頂期を上回るほどに増え続けるとは予期もせず、まして年を取って言語がイメージを縮減し視聴覚文化全般のプリミティブな快楽が相対化されていけば必然アニメ体力は激落ちし、近年はものごっつ狭いオタフェティッシュに適合する作品をしか完走できない体たらくです。

 放送中のアニメをリアルタイムで7,8割方観続けていた一時期は、何か時代の全体性にアクセスしているような謎の全能感が生じて脳味噌が沸騰し、昔書いたアニメブログは恥で読めず削除してしまったのですが、そんな馬鹿な勘違いで青春を過ごせる世代も自分あたりで最後かもしれないと思うと、あの頃ぼんやり偏愛していた作品に対する責任を自分はまだ果たせていないのではないかという強迫観念が回帰するので、最近は暇を見てたまに旧作を拾い直しています。

 80~90年代作品はガンダムと富野とエヴァの他はスパロボ知識レベルで浅くカバーした程度、歴史的文脈とは隔絶してテレビアニメの花形たるロボットアニメに触れたところ、まずは『ゼーガペイン』(06)の誠実さが原体験になる一方で、『グレンラガン』(07)のむさ苦しい批評意識全開の歴史主義には辟易し、であればロボットアニメというジャンル名のもとに仮構される歴史性自体を悪意的に笑い飛ばす*1宇宙をかける少女』(09)の歪なクレバーさや、メカデザイナーいっぱい揃えつも煮え切らない『機神大ギガンティックフォーミュラ』(07)のへっぽこソリッドな祝祭性、あるいはもはやどのような文脈でも回収されようのない『キスダム』(07)の猥雑さにこそ、魂の居場所を見出していた憶えがあります。

 そんな中で『アイドルマスターXENOGLOSSIA』(07)は、他の作品群に熱狂していた当時そこまで刺さらなかったのに加え、物心ついた頃にはネット上でも突出したエモいオタ言説に支えられていた*2作品なので、自分の出る幕なしと閑却するうちに内心、原案準拠の『THE IDOLM@STER』(11)や『ぷちます!』(13-14)のねっとりファンムービー感に対する無根拠な苛立ちを正当化したいがため、「とりあえず観た」という経験だけをオタ自意識の出汁として悪用していたことは否めません。

 翻って18年現在の私は、iPadにインストールしたデレステとミリシタを高難易度で爆音プレイし、アレンジギラギラあなたにたにたになキャラクターソングにノリながら安物エアロバイクを漕ぎまくってパンイチ汗だくで冬の運動不足の解消を試みており*3、つまりはサイケをキメながらアイマスを享楽して早逝したはるしにゃん氏*4と似た轍を踏んでしまったようで、「超越論的なものが生理学的ないしは経験論的なものに回収されるならもう筋トレするしかない」という認識に肯んじうるまでに、美少女文化の快楽に対する屈託が色々崩壊しています。

 美少女キャラクターにまつわるあらゆる知覚が極めて豪華なアイマスこそ、発狂したコンテンツ量を縮減するフェティッシュの消失点として最も便利である、というクソなオタ生活体感は諦念と共に甘受している現状で、作品に対しても過去の自分に対しても極めて無責任で度し難く、あとミリシタやってると上の世代のオタが魂を賭ける背中を見続けてきたせいで敬して遠ざけるほかはない三浦あずさ氏や秋月律子氏などコアな765勢のSSRばかり引くのがとても怖く、とにかく二重三重四重の呪いを清算したいので、今しかないなとゼノグラシアを観た次第です。

 

 実存読みで汚すのも気が引ける真っ当な作品ですが、細部は先行研究に託して電波だけを申し上げれば、ロボットをiDOL、(原作の)アイドルをマスターと呼称し、偶像の意味をキャラクターからロボットへとずらすことで、紋切りながら巨大ロボット=沈黙する男根をモノ-客体として真っ向見据え、認識主体に位置付けられた美少女がその内面を祈りの中で予感し続けるという図式、つまり絵面レベルでも象徴レベルでも美しい抑制を貫きながら、オタの男性性を静かに見つめて問い直す契機が豊かに秘められていることに、今なお貴重な構築性を見出さざるを得ないほど、飲酒しながら中谷育氏で妄想オナニーばかりしている2018年の今なわけです。

 全ての美少女身体が全てのキャラソンを歌い踊り得る、というデレステ・ミリシタのキャラクター体験を通過した今となっては、原案とアニメで声優が違う程度では違和感も何もありませんが、自分はフニャフニャした存在が好きなのでゲームでは高槻やよい氏が好ましく、『ドラゴンクライシス!』も忘れがたい仁後真耶子氏の徹底したトンチキぶりに浸ったあとでゼノグラシア小清水亜美氏の頼もしさに立ち帰りますと、固有名の中で極端から極端を往復するキャラクター体験に幸せを感じます。

 ゲームだと亜美真美の区別が未だに付かないのですが、アニメだと名塚佳織氏の天女感と斎藤桃子氏の幼児性はある種異様なコントラストゆえにがっつりハマるキャスティングなわけで、どうも原案とアニメで個体識別をさせる地平の在り方が真逆、まったく別な種類の先鋭オタ感性を要求されるような感覚も醍醐味と思いました。

 モニター越しの祈りというアナロジーすら切実さを半ば喪い、デジタルナルシスが高じてVRエロゲ-Vtuberの情報論的肉体に呑み込まれた自分としては、主客合一を求めた千早氏がインベルに拒絶されて消滅する場面には言い難い悲しさを抱き、マシュマロのように甘く溶け合ったあとには一体何が残るのかなと考えています。

 

 映像作品を意味づける営為において、結局どうとでも言えること、どうとでも納得できることに耐えきれなかったのが自分の弱さで、こうして駄文を連ねている反面、概念的把握や言語を拒絶してリテラルなイメージ自体に溺れる自閉症的享楽をこそ、逆説的に擁護したいと願ってしまうのが本音です。

 どこまでも白痴的に享楽を加速させたところで結局人は神を求めてしまう、という矛盾が病巣ではあり、更科修一郎氏や笙野頼子氏や佐藤亜紀氏などの真摯にオタを殴り殺す言説ばかり読みながら、「二階堂奥歯氏や矢川澄子氏を自死せしめたものは一体何だったのか」という単に鬱になるだけの問いをつい反芻してしまう生活が続き、さすがに不毛なので素直に工学知へ軸足を移すのが無難な生き方とは分かりましたが、いずれにせよ日本に留まること自体が貧乏くじである時代状況に変わりはなく、しばらくは自分なりに平成の病気を清算しながら馬鹿をやりたいと考えています。

 今期は『CONCEPTION』と『俺が好きなのは妹だけど妹じゃない』と『ソラとウミのアイダ』と『メルクストーリア -無気力少年と瓶の中の少女-』と『閃乱カグラ SHINOVI MASTER ‐東京妖魔篇‐』があるのでわりと幸せです。

*1:三才ブックス現代視覚文化研究 vol.4久保内信行氏「ソラカケはどうしてこうなったのか」など参照

*2:『エヴァ』から『ヱヴァ』までのアニメ十選。- 帰ってきたへんじゃぱSS」「過去になされたゼノグラシアに関するやりとり」など

*3:f:id:turnX:20181124094801j:plain

*4:グダちん氏のような接点はありませんでしたが、ネット越しの同世代のオタの死に責任を取れないという辛さの一事例として忘れがたく、他にも昔多少観測し合っていたAngel Beats!アイコンのブロガーの方が亡くなったことに後から気づき、お前消えるのか、という冗談に後ろめたさを感じました