おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

上山和樹『「ひきこもり」だった僕から』 オタクとひきこもりのバランスについて

Gガンダム」と「ターンA」が嫌いなんだ。自分は大好きですけどね。本人が、描いてる絵は80年代のアニメ調そのまんまですね。永野先生の影響が大きいことがよく分かります。……年齢も趣味も自分とかなり近くて、根っこの部分は、ほぼ同じだと思います。なので、もし、自分に何の才能も無かったら、こうなっていたんじゃないかという恐怖感と、こうならなくて良かったという優越感を同時に感じてます。

 事件の情報がまとまらないうちに何か書くのも軽薄なので、軽薄なりに徹底して下らない細部から言及しますと、こうした事件を観測した際、昔の自分なら引用先への同意に乗じて「『∀ガンダム』が観れないオタはなにをやってもだめ」という軽口を即座に叩いたと思うのですが、一方でそういう反応は、オタとして自らを社会化できた人間の特権的で高踏的な身振りであることも、今さらながらに自覚されています。*1

 高校時点で深夜アニメとネット言説にどっぷり浸かって友人が一人もできず、大学をやめてまでひたすらにアニメを観続けてきた過去は、今振り返るとその熱意がどう成立していたのか不可解で恐ろしく、そのあと運良くオタ文化に理解が深い編集者に拾われていなければ、実家にこもり続けた果てに不仲な義父との刃傷沙汰にまで発展していた可能性がある人間としては、環境も世代も違うとはいえ、「老いた孤独な欲望をいかに再社会化していくか」という人生の課題を再考させられました。

 

動的な当事者言説

「ひきこもり」だった僕から

「ひきこもり」だった僕から

 

 端的に言うと、オタクとひきこもりの違いは、「本人が安息感を得られるような快感の回路を、会得しているかどうか」だと思います。

 つまり、オタクというのは、「閉じこもっていても苦しくない人」だと思います。……逆に言うと、一見いろいろの趣味を持っていて、「オタク」であるように見えても、自分の状況を「苦しい」と感じているなら、それは「ひきこもり」ということではないでしょうか。

 ……オタクが「快感」を原点にしているとすれば、ひきこもりの原点は、「苦痛」、さらに言えば「怒り」だと思います。「怒り」が、ひきこもりの精神生活において根本的な中心軸になっている。

……〈現在〉において、「怒り」と「恐怖」が表裏一体となって身動きできないまま硬直している……それが、「ひきこもり」だと思います。オタクのように、快感の回路によってその怒りのエネルギーを首尾よく解消する、ということが、できずにいる。その回路がないから、ほかの人につながっていく回路もできない。(p138-139)

 

 最近読んだのですが、著者の上山和樹氏はご自身の「ひきこもり的」な経歴を赤裸に語った本書の執筆以降、ひきこもり当事者の社会復帰支援活動に長年携わられている方で、ざっくり「オタク趣味に代表される現代の消費文化の中で欲望を保ち続けることができなかった」という体験にもとづき、欲望を持てる「動物的なオタク」と、欲望を持てない「人間的なひきこもり」とを、明確に区別した思考の跡を残されているのが印象的でした*2

 この対立項は、斎藤環氏が提案した「ひきこもりはオタクになれ」という理論的な処方箋を、社会復帰事業の現場感覚から批判する*3際の足場ともなり、「理論と現場の齟齬」の内在的克服を目指す氏の粘り強い思索の一原点をなしたように推測されます。

  「動詞形の当事者性」*4という氏の技法論は安易な理解を許しませんが、最近欲望が停滞してきた「半オタク-半ひきこもり的」な主体としては、自分の生の様式を記述するためのヒントをもらえた気がします。

 具体的な実践上の指摘としては、例えば以下の部分など。

知識人の領域では、サブカル・オタク系とハイカルチャー系が対比されるが、これは偽の対立だ。 なぜなら、どちらもベタな居直りにすぎないから。……

ハイカルチャーであれオタク/サブカルであれ、それ自体としては居直りにすぎない。 そもそも人は、自覚的な分類とは別に、すでに一種の宗教的耽溺を生きている(参照)。 そこで必要なのは、自分の生きるポジション取りに「形式的服従」を維持し、風通しを作ること。 つまり、無意識的惑溺に批評的距離があるかどうかが真の対立であって、ハイカルチャーであれば(あるいはオタク的であれば)許される、という話ではない*14

本当に重要な境界線は、「ハイカルチャー/ローカルチャー」ではなく、《表/裏》にある*9。 これをシャッフルする取り組みがなければ、社会復帰事業は、抑圧的な関係作法の強化に等しい。(表舞台にあがることは、水面下を隠蔽することで成り立つし、それでよいとされている。)

 

 以上のモチーフを借用して、氏とは反対に引きこもりではなくオタクという概念に当事者性を賭けて自分が生きてきた、「オタクとしての内在性と引きこもり的な再帰性*5の均衡」を、簡単にまとめておきます。

 

動物化」論のトラウマ性

 実家にろくな本がなく、すげえぼんやりしたまま文学部に推薦で入り、勉強できずアニメに浸かっていた19歳当時、『動物化するポストモダン』で初めて東氏の文章に触れたのがオタク論の原体験で、上山氏とは逆に人間ではなく動物に割り振られた立場でしたから、自分の内在的な生のリアリティを土足で踏みにじられたような屈辱感と劣等感を、今でも記憶しています。

 どれだけ動物的に見えようと、人間性との葛藤が皆無なわけがない。この「動物化」論に近代的自我の執拗さを対置し*6、近年は地道な実証研究に移行された大塚英志氏にこそ、信頼を寄せざるをえない所以でもあります。

 後年、『美少女ゲームの臨界点』や関連言説を参照したことで、オタとしての氏の実存やセクシュアリティは腑に落ちましたが*7、そうした文脈とは無関係な「字面の扇情性と言説環境における影響力と主体の読みの時空」という極めて素朴な次元においてこそ、言葉は理屈で処理できずに長く尾を引くトラウマ的な概念になるという感覚は、今になってこそ明確に振り返られます。

 物心も定かでない当時の2010年頃、AZM48などの狂騒*8も目に入ったせいで、「内在的な語りをしないうえに冗談のセンスが最悪なオタク系知識人は人間として信用ならない」という深刻な苦手意識を植え付けられ、自らの欲望の過剰性(を指していると思われたオタクという概念)が弄ばれていることに対する怒りと恐怖と苦痛は、同時代の知的言説全般への信頼を失わせ、かえって文化的耽溺を学知と切り離した趣味として閉塞させるに十分でした。

 今なら笑い飛ばせますが、「オタク論という外傷のせいで当事者性に引きこもった主体になる」体験は、世代的・文化資本的な断絶の一事例として強調させてください。

 

 信仰感情の相対化

 なぜそこまで深刻に「オタク」という言葉自体への毀損に敏感だったかといえば、アニメを観すぎて逆に趣味の友人が出来ず、情報環境におけるオタという概念の操作によってしか自己と社会を架橋できなかったアイデンティティの危うさゆえで、斎藤環氏のひきこもり論風に言った、「臨床概念と主体を明確に取り結ぶ身体的外傷が無いことの外傷性」を持て余していた気がします。

 この曖昧なトラウマを解きほぐすべく他のオタク論を漁った中では、岸田秀由来の唯幻論をバックボーンに学知とセクシュアリティを直結させた本田透氏の極端に当事者的なキャラクター・イデアリズムに最も共感できたのですが、氏の観念論は女性嫌悪や震災・宮崎体験*9にトラウマ的動機を持ち、恋愛の蹉跌と直截な社会的迫害の体験がほぼ皆無、性的対象までシミュラークルの先行を地で行く自分とは、最終的に超越が異なると判断されました。

 オタク的主体と宗教性の結合*10といえば、ロリコンブームの当事者を経て仏門に入った蛭児神建*11ですが、氏もまた極めてシリアスな性的トラウマを抱えた方で、結局は自分の存在の核を重ねうる個人がオタク文化の内部に見出せず、こうした共感と分断の分水嶺には、性愛と信の構造という焦点があることに徐々に気付いて、近現代の西哲に対する反感もあってか、自らの文化的耽溺を信仰のアナロジーからベタに捉え直すべく、カトリシズムの勉強とラノベワナビによる反時代的思考を自己治療となしていました。

 転機になったのは、書いたラノベを人に見せたら「笙野頼子的な何か」と評されたのをきっかけに、笙野氏を手に取ってみたところ、引きこもり的体験*12、人形愛*13、自己内他者に対する信仰と交感*14、批評言語(理論)と文学言語(現場)の闘争*15、オタク的セクシュアリティと権力構造のグロテスクな結託*16など、矛盾と軋轢に彩られた複雑怪奇な現実が丸ごと描出された文学世界に、自分の表現したかった全てを見出したという体験です。

 自分がぼんやりと「オタク」という概念に託してきた実存の総合性が文学に解消されたことで、オタク文化へのフェティシズムも決定的に相対化され、自らの当事者性を再帰的に吟味する作業へと生活の比重が傾いていったのですが、オタク文化の内部で長年培われたセクシュアリティだけは、フェミニズム男性学などを軽く齧っても、変わる気配がありませんでした。

 

セクシュアリティの素材化

 ざっくり以上のような経緯から、オタクという概念や文化的カテゴリーへの静的・理念的な信仰を断念し、消費文化の猥雑な快楽に対する主に性的な固着を頼りに、錯乱的な欲望を多義的な解釈(引きこもり的な再帰性)の素材となすことで、観念生活の濃密さを確保しています。

 自分の「オタク的」な内在性の根源がセックスであったことを確認したうえで、上山氏の視点に立ち返りますと、斎藤環氏の基本図式である「セクシュアリティの特異性によるオタク/ひきこもり的主体の社会化」*17に「ナルシスティックな欲動の停滞」*18を透かし見、お互いの生成過程を分析的に語りうる他者と出会えない状況に表明された違和感*19は、自分がオタク的な共同性の内部に抱えた矛盾と同時に、オタク論的なセクシュアリティ言説の限界をも、あらためて明瞭にしてくれるところがありました。

 

表象〈07〉

表象〈07〉

 

ラマール:アニメには明らかに「少女文化」という問題圏がつねにあるし、それはいまでも存続しつづけています。……斎藤環の場合に問題なのは、無意識の作用のほとんどを、ある一定のキャラクターに割り当ててしまう傾向があることです。彼の議論では、少女ないし女性が常に欠如の位置を占め、否定性と結びつけられている。……実際、なぜ彼はあのようなかたちでアニメについて語るのか、私には分からない。彼がまったく間違っているというわけではないでしょうが、問題は、アニメは常に欠如を埋め合わすべく存在しているという印象を与えてしまうことです。何か問題を抱えていて、それに対する治療を待っているという……

(「対談 『アニメマシーン』から考える トマス・ラマール+石岡良治+門林岳史」p34-35)

 

 斎藤氏本人からして「『戦闘美少女の精神分析』当時とは時代が違うのでもう何も言えない」みたいな発言を漏らしていましたが*20、これは従来の「オタク論的な否定性」が曖昧な文化共同体に対する当事者性を欠いた社会学的分析を超え出ないことの明証と思われ、オタク論の範疇でセクシュアリティを云々されたことと、その影響を脱しきれない自分への苛立ちを感じています。

 であれば、知識人が放棄した「オタク」という大衆概念から便宜的用法を切断し、「学知とセクシュアリティを統合する内在的な言説」を実存から立ち上げることが、「ハイカルチャー(理論)とサブカルチャー(現場)の齟齬や対立感覚」を在野から解きほぐすために、 言論活動や社会運動にコミットする覚悟は無いなり、自分ができるせめてもの作業と考えています。

 

おわりに

 川崎の事件は安易に持ち出せませんが、オタク/ひきこもりを問わず難儀な「老いた孤独な欲望」と、それにまつわる問題意識を人と交換できない環境に追い詰められると、人目にまったく意味の分からない憎悪を世界に対して抱きかねない、という危機は他人事ではなく、ひとまず長年わだかまって抑圧しきれない、過去のオタク論に対する両義的な感情だけは、生きるために表明させていただきました。

 先日、視聴者の方から読書会にお誘いいただきました。情報環境の中で居心地悪く生きてきた過去を清算できるよう、今は対面で他者と関わる最低限の機会の確保に努めています。

 

*1:10代の終わりにはてなダイアリーで∀を褒めるオタ自意識文章を書いたらインターネットのおじさん連中に歓待を受けた、という経験があり、自分が世界から受け入れられた感覚を最初に抱けた体験だったと思います

*2:世代的なメディア体験があったうえで(「資質の経歴 - Freezing Point」など)、東浩紀氏による「人間的-動物的」という対立項に示唆を受け(「考え中 - Freezing Point」など)、ひきこもり的感性とオタク的感性を弁別されていったようです

*3:「目覚めと眠りのあいだの敷居」 - Freezing Point」など

*4:「で、その言説におけるあなたの当事者性は?」 - Freezing Point」など

*5:再帰性 reflexivity(英) (ギデンズ、社会学) - Freezing Point

*6:リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)」など

*7:うる星オタ・エロゲオタとしての東氏は好きですし、「決断主義トークラジオAlive2」でラブワゴンを論駁した様は痛快でしたし、『オタクの時代は終わった』でベタにオタクを続けられなかったことの忸怩と哀惜を漏らした様にはしんみりきましたし、『ゲンロン6』の宣伝動画(24:20あたり)でシャツがめくれてお腹が見えちゃった東氏にうっかり同性愛的欲情を覚えたのも事実なのですが、本出しすぎ・イベントやりすぎなうえに思考が状況的すぎて付き合いきれず、セクシュアリティと超越性における個体化を決別の焦点としたいわけです

*8:定期的に話題になるし、もう言及すらしたくないのですが、翻って自分もオタという共同体意識が希薄化・曖昧化する中で、よくないと思う同族を批判する立場を担えず引きこもり、結局は狭い人間関係を生き直すためにVtuberというトレンドへ極めて歪な再コミットをしたボンクラにすぎませんから、せめて萌え表現と政治的抑圧の関連性を否認しすぎず、オタと否定性を真摯に結びつける言説は観測したいと思っています

*9:脳内恋愛のすすめ」など

*10:スピリチュアルも一時期はまったので、岬ちゃんを召喚する瞑想音声から復帰した滝本竜彦氏の新作を読むのが怖いです。あと『NHKにようこそ!』ED楽曲インスト版を動画のBGMにしている青髪ピピピ氏を好きになってしまって困っています

*11:出家日記―ある「おたく」の生涯

*12:極楽 大祭 皇帝 笙野頼子初期作品集 (講談社文芸文庫)」所収『皇帝』

*13:硝子生命論

*14:萌神分魂譜

*15:徹底抗戦!文士の森」など

*16:だいにっほん、おんたこめいわく史」など

*17「症状化」とアリバイ競争 - Freezing Point

*18:動機づけの成功と制度 - Freezing Point

*19:自分の現実をやり直すために――立木康介の症候論 - Freezing Point」など

*20:オタクの時代は終わった