来歴

 始めて1年経ちますが、多分このブログとYouTube、現状誰が何をやっているのか全然分からないと思うので、胡乱なインターネット人間であり続けるほうが潔いのは重々、立場を明確にするべく、形而下の来歴も雑に歴史化しておきます。

 自分は深夜アニメの本数が増えすぎた06〜09年頃にオタ思春期を過ごし、紙媒体の言説にほぼ触れないまま2chワーストアニメスレ、二次元裏@ふたば、はてなブログ、自動アンケートあたりのいやなネット言説群を産湯と浸かったせいで、物知りなのにやたら放送している変なアニメをちゃんと語ってくれない上の世代に業を煮やし、友人も勉学もだめだった大学をやめて「クソアニメをひたすら愛するブログ」というひどい感想ブログを2010年頃から書き始めたところ、それを発見したライターの前田久氏の通報で、『カオスアニメ大全』というコンセプトが似た本の著者である久保内信行氏の世話になり、ぼんやりコンプライアンス的にブログとSNSはやめて、ライターとして食わせてもらうことになりました。

 氏はテキストサイトやモーオタあたりの文化圏を通過しつつ、昔の津田大介氏とかと行儀が悪いIT系ムックを書いていた世代のなんでも屋的な書き手兼商売人で、学問的なバックグラウンドはコツコツ実証系の大衆文化研究寄り、本を読まない若者にひとまず呉智英氏や山形浩生氏を勧めて東浩紀氏はメチャ嫌いという快活な面白主義的教養に基づき、鍵ゲーセンスや「ゼロ年代」的「セカイ系」評論*1を嘲弄してオタという自己規定とは距離を取りながら『ラブプラス』入れたNDS片手に凛子cv丹下桜と遊園地デート企画などしている背中を見てケッッッッッと思いながら育った記憶があります。

 当時、氏の編集プロダクションにはゼロアカ文学フリマでやってる方とか後年弾ける福嶋麻衣子氏とかエロ漫画誌で連載コラムを書いてた有村悠*2とか色んな出版周りの方が出入りしており、貴重な場でしたが特に何もせず、なんか人と喋れないので座敷童子的に黙って居座り、細かい仕事もらって勉強しながら、引き続きアニメ観てラノベ書いたりしていました。

 おもにオトナアニメで世話になっていたのですが、クリエイターや声優さんの存在は憧憬に留めたいので取材仕事を全回避し、文字起こしや書き仕事に集中し続けたせいか、経験論的にしょぼい主体のまま浮世の塵に心がささくれ、次第にアニメよりは読書のほうが楽しくなり、業界言説ともネット言説とも隔絶してキャラクターに対する信仰感情だけを煮詰めていった結果、流行らないタイプのボンクラになりすぎて現世との紐帯が失われ、自我にも飽きたし最低限の友達は確保するべく、ブログの再開に至りました。

 

 文筆業者の文化資本にアクセスして活字世界の超自我を大学の外で内面化できた幸運に乗っかったまま、ばりばりと仕事を頑張れたならよかったものの、時代の速度と主体の牛歩が噛み合わず、いつの間にか「出版よかネットで個人メディアやったほうが最低限食えるのでは」という大勢ですが、その出版がやばくなった時代を形成している感性的要因の一つには、明らかに自分もその真っ只中を生きている、質的量的な映像文化の発狂があります。

 ざっくり映像と言ったうちでも、最もダサくて救いようのない領域をたらふく享受してきた以上、食い扶持は他で確保し、無限の射精可能性たるキャラクター文化に支配された原罪意識と鬱を固守して、キモいコンテンツを作り続けたい気持ちに至ります。

 ネットの速度にもアカデミアの厳格にも身を律せず、かたやオタ現場へのコミットにも倦んだ、という不遜には我ながらうんざりし、行き場のない繰り言も当記事で清算したく思われ、一切の有用性を拒絶してゴミのまま生き続けることを誇るのであれば、ひとまずはバタイユ主義でも標榜すれば十分やもと、見切り発車で今現在の書き物を溜めています。

 

 大衆文化に対してクソだのポルノだのと下品な言葉を使うのはいやですが、現に自らを支えている性と汚穢を凝視せざるを得ないのであれば相応に認識を煮詰めたく思い、真面目な映像分析やアカデミックな言説は、読者として楽しみたい立場になります。

 ラカンいわく言語はモノを殺害する、というのは本当にそうで(雑!!!!!!!!)、本のせいにしても仕方ありませんが、アニメを観ても昔の過剰性が戻ってこないのが悲しく、常に既に概念的把握をやすやすと飛び越える猥雑なオタ知覚世界に魅了されながらも、快楽に追いつかない言葉をしか紡げなかった思春期に落とし前がつくまでは、たまに駄文も書いておきます。

 上の世代の文化資本にアクセスできていなかったら自分は間違いなく人間ではいられなかったし、実際今も「顔を持った固有の人間」「理性的で統合的な主体」という幻想を無理くり演じているだけで、感性よりは鈍重と怠惰がSNSを困難にしている次第ですから、文化的貧困からの刷り込みを信念に置き換え、オタという生の不可解さを、人間にもキャラクターにもなりきれない何か、はどう引き受けているのか。大体そういう関心で観測していただけますと幸いです。

*1:大塚英志氏-ササキバラ・ゴウ氏-更科修一郎氏による「オタク系知識人の内省的なセクシュアリティ批判」文脈が妖怪ラブワゴンに至って形骸化し、本田透氏はもっぱら非モテ文脈へと回収され、例の「政治的転回」に始まって「オタクの時代は終わった」と切断処理も完了しきった2010年代半ば頃、この手のオタク論的言説群を歴史資料としてざっくり洗った立場としては、各世代の時代的熱狂とアトム化した個人の感性的孤独と曖昧模糊なセクシュアリティの絡むポップカルチャー体感をオタク論という必然的に大衆分析へ堕するアプローチで整理すること自体に個体の実存を殺す構造があり、理論派と現場派の断絶に無念は感じながらも自分にできることはないと判断され、せめて個人的に呪いとして記憶し続けたいと、歴史と出来事の葛藤をめぐってシャルル・ペギーも切実に読んでいました。ただ「ゼロ年代」「セカイ系」「日常系」といった言葉自体はとてもいやなので、括弧に入れて表記しています。今さら誰に恨み言を述べる気もなく、かえって一人で無様に(わかりやすく類比的に言えば)「ゼロ年代」的な憂鬱を温存しつつ、いかな文脈にも自己認識を託しきらないクソな実存の総合性(バタイユ)を生き続ける勇気はもらえました 


シャルル・ペギー『クリオ: 歴史と異教的魂の対話』

*2:当初あまりの非社会性から久保内氏に「第二の有村悠」とビビられた立場なのですが、普通に有村氏に失礼で、当時は夏葉薫氏などとあわせてボンクラ実存的に輝かしく見え、初めて何かの飲み会についていって硬直していた折、有村氏に鍋料理を取り分けてもらった恩は今でも忘れていないのですが、この手のはてな村的クネクネ文脈にギリギリのタイミングで影響受けたのは良かったのか悪かったのか、ともあれ時代は過ぎ去って一人でキチガイをやるしかない季節です