おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

2010年代のテレビアニメについて

まえおき

 Twitterにて@highland氏が「#10年代アニメ各年ベスト10」というハッシュタグ企画をされていました。リツイートをぼんやり眺めて、みんな楽しそうでいいなと思いました。自分も10本選んだので、どうぞよろしくお願いします。あけましておめでとうございます。
 ところで、自分はちょうど10年前からアニメ周りの売文家の端くれとして生きてきた人間なのですが、ここ10年の人生を端的にまとめると、アニメファンのコア層が京アニ崇拝にのぼせ上がり、我々のアニメに対する感性的条件がどれだけ歴史的に規定された狭っ苦しいものであるかを全く問い直さないまま、批評もブログもジャーナリズムも迎合主義が跋扈し続け、こんな場所で何を書いてもひたすらに馬鹿馬鹿しい、という長年抑圧していた行き場の無い怒りが、京アニ放火事件という最悪の形で回帰してきたように感じられた2019年でした。
 
 ここ10年のテレビアニメを振り返るのであれば、この程度の憂鬱には当然誰もが向き合わされることでしょうから、そうしたしんどさを忘れたい方は以下、読んでいただかなくて大丈夫です。
 すでに業界で仕事をする気もなく、愚痴を言い損ねて禍根を残してもよくないので、「アニメに喚起される情動」と「物書きとしての社会的自我」に折り合いが付かなくなった人間が、ここ10年考えていたことだけ書き殴らせてください。

 

 

 

2010年:ジュエルペット てぃんくる☆

 普通にTwitterをやれていた2011年頃は、ルイス・キャロルドニー・ダーコひだまりスケッチをサンプリングしたダーク魔法少女アニメに「悪」や「救済」や「成熟」といったエモ概念を仮託するムーブメントが印象的でした*1。自分は既に食傷していた新房昭之氏の手癖に舌打ちし、「ジュエルペット」シリーズ第2作目のイノセントな魔法少女アニメに耽溺し続けていました。
 多感な時期に『おとぎ銃士赤ずきん』(06)と『セイントオクトーバー』(07)という「深夜アニメと女児向けアニメのキメラ的モチーフ」を意図的に煮詰めたフリークスに魅了された人間なので、「プリキュア」シリーズのピュアネスと「アイカツ」シリーズの洗練を見届けるのは人に任せて、『しゅごキャラ!』(07)、『リルぷりっ』(10)、『プリティーリズム』(11)、『プリパラ』(14)と快調に走りつつ、『東京ミュウミュウ』(02)、『満月をさがして』(02)、『ぴちぴちピッチ』(03)などのシリーズに遡った青春でしたが、「少女文化に興奮してしまう肉体に何の根拠も無いこと」を確認して鬱が深まり、「歴史を踏まえるならば太刀掛秀子などの70~80年代りぼん乙女ちっく系少女漫画をこそズリネタにしなければならない」という強迫観念には、今なお苛まれています。
 島田満脚本の文脈すら踏まえず『てぃんくる』を「王道の魔法少女アニメ」とか商業誌でべっとり褒めた過去が今になってつらい一方、中年人気の高さに引きながらも『サンシャイン』(11)に移行して、そうした病気を哄笑の只中に忘れさせてくれた「ジュエルペット」のおおらかなシリーズ展開がなければ、この歳までアニメを観てはいなかったと思います。
 

2011年:R-15

 そういうわけで、自分がアニメを観続ける最大の理由は、その低劣さと幼児性にあります。
 当時は目の前に広がるゴミの山を語らずに済ますアニメファンと知識人の、あらゆる言説に激しい憎悪を抱いていました。
 今は他人に期待せず、雑に視聴本数を増やす態度自体から見直して、粛々と趣味の文章を書いて生きる方向に努力しており、 個別の作品については、別の機会に書くつもりです。
 なぜオタも知識人もクリエイターも信用せず、自意識だけでアニメを観れていたのかは分かりませんが、大塚英志風に言った「二階の住人」的なおたくコミュニティに拾われて*2、気が大きくなっていたと思います。
 実際、何らかの濃密なやり取りがあるコミュニティに参加しなければ、10年もアニメは観れませんでしたが、周囲の大人が40も超えてお互いに飽きてきたのが運の尽き、同世代の友人を増やしたり同人活動をメインにすべきだった、という後悔が残りました。

 

2012年:武装神姫

 Anifavというサイトで『武装神姫』の全話レビュー原稿を載せていただきましたが、そのサイトがとうに潰えている時点でアニメ関連ジャーナリズムの困難は言わずもがな、商業でアニメについて書くことの徒労感は、当時からうっすら感じていました。
 正直言えば、上の世代のオタク系ライターの方々の仕事にも、クリエイター関連の情報にも今は関心を失っており、文化伝統の継承よりも平成世代の絶望に基づいて物を書きたい気持ちが強いので、そもそも業界に向いていませんでした。
 消費文化がもたらす人間の劣化を無視してSNSでデカい面するぐらいなら、孤独死のほうが遥かにマシという認識に至って久しいです。
 本当は二度とネットをやらず黙って消えたかったのですが、せめて全てに関心を失った人間が連帯する可能性ぐらいは、場末に残しておきたい気持ちがあります。
 昔のように無邪気にアニメの文章を書けたなら、という哀惜だけがあり、読む人には読んでもらえていたので失礼ではありますが、今本当に考えるべきは作品についてではなく、もはや人間ではいられなくなった私たち自身についてだと思います。
 

2013年:ファンタジスタドール

 ネットコミュニティの熱狂に同一化できた最後の作品でした。
 ボンクラのまま生きたかったものですが、この頃から匿名掲示板からも足が遠のき、カオスラウンジ騒動に対する罪悪感も淀んでいました。ネットリンチに無感覚のままアニメファンを自認するのは非常にしんどく*3、富野監督の説教はもちろん、山本寛氏の怒りですら真に受ける価値があります。当時は鼻で笑っていました。今は歳を取る怖さを思い知っています。
 周囲の勧めからコメント付きでアニメを観るのにも飽き、『D.C.IIIダ・カーポIII〜』『AMNESIA』『断裁分離のクライムエッジ』『RDG レッドデータガール』『フォトカノ』『デート・ア・ライブ』『ジュエルペット ハッピネス』『探検ドリランド -1000年の真宝-』『絶対防衛レヴィアタン』『アラタカンガタリ革神語〜』『革命機ヴァルヴレイヴ』『変態王子と笑わない猫。』『犬とハサミは使いよう』『BROTHERS CONFLICT』『ステラ女学院高等科C3部』畠山守版『ローゼンメイデン』『帰宅部活動記録』『幻影ヲ駆ケル太陽』『神さまのいない日曜日』『DIABOLIK LOVERS』『ゴールデンタイム』『ストライク・ザ・ブラッド』『勇者になれなかった俺はしぶしぶ就職を決意しました。』『メガネブ!』『ワルキューレロマンツェ』『機巧少女は傷つかない』『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』『ガリレイドンナ』『サムライフラメンコ』あたりが好きでした。
 私たちは記述できる以上に多くのことを知りすぎている、という文化ジャンキーの閉塞感をあらためて強調しなければ、今のネットの荒野に関して申し開きが立ちませんが、もはや誰に対して言い訳をしたいのかも分かりません。

 

2014年:彼女がフラグをおられたら

 それ自体で完結した快楽の全体性*4を、概念で汚すほかない思考に対する苛立ちが、徐々に自覚されてきた時期でした。
 大衆文化の映像作品に対する自分の感動の核心は、「極めて多層的に構築された、極めて単純な快楽」の至高な無意味に見出されています。
 一作品の長尺と分業体制の複雑性が、大雑把に把握しやすい「作家性」を容易くクリシェと感じさせ、言表困難な剰余やプロダクトの細部に必然意識が向くものの、それらの総体が奉仕している最も肝要なルックやデザインの洗練自体は、どうしても直観的かつ換喩的にしか記述できない我々の無能さにこそ、深夜アニメ特有の異様な快楽の本質が隠れている筈であり、それは裸体の猥褻さのように意識の諸表象の領野の外部に留まる*5がゆえに、エロティックなまでの魅力を永続させているものと思われます。
 
 記述しえない猥雑さを「思考の限界」として愚直に強調する語り方自体、反時代的で信用を得ないと分かってなお、非-知の只中で対象以上に主体自身を笑うしかない、という姿勢だけが、自分がオタクという概念に託し得た唯一の美学であり、神聖な汚物を崇拝する人間が踏まえるべき最低限の条件だと考えています。
 
 どれだけ大量の生と技術が我々の幻想を支えていることか、どれだけ巨大な混沌を切り捨てて気儘な酩酊を得ていることか、その怖ろしさを閑却して狭い認識を開陳するしかないのであれば、せめて相応の忸怩ぐらいは表現できなければつらいわけです。
 

 『ロボットガールズZ』『最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。』『みんな集まれ!ファルコム学園』『バディ・コンプレックス』『ハマトラ』『魔法戦争』『マジンボーン』『ブレイドアンドソウル』『悪魔のリドル』『selector infected WIXOSS』『レディ ジュエルペット』『星刻の竜騎士』『神々の悪戯』『金色のコルダ Blue♪Sky』『それでも世界は美しい』『極黒のブリュンヒルデ』『ブラック・ブレット』『ソウルイーターノット!』『棺姫のチャイカ』『エスカ&ロジーのアトリエ 〜黄昏の空の錬金術士〜』『M3〜ソノ黒キ鋼〜』『RAIL WARS!』『普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。』『少年ハリウッド -HOLLY STAGE FOR 49-』『人生』『Re:␣ ハマトラ』『モモキュンソード』『LOVE STAGE!!』『精霊使いの剣舞』『デンキ街の本屋さん』『失われた未来を求めて』『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』『繰繰れ! コックリさん』『暁のヨナ』『大図書館の羊飼い』『ガールフレンド(仮)』あたりが好きでした。

 

2015年:ランス・アンド・マスクス

 提灯でこんなひどい褒め方ができれば、黙々と公式仕事に勤しんでいます。
 書き方も悪かったと反省され、真剣な思い入れは真剣に表明しないと伝わらないという確信が、文体の去勢にも繋がりました。
 「クソアニメの人」と認識され続ける自己同一性を呪う一方、そう形容せざるを得なかった深夜アニメ特有の低俗と猥雑の価値を、匿名掲示板とも秘宝ともシネフィルとも異なる思考と文体で強弁する以外、自分にできる仕事はないと判断されていました。
 ただ、感性的体験を共有可能にする冗長性を伴った面白主義的文体ではすでに文章を書けず、今さらネット言説で気儘な読者を動員する気も起きません。
  「批評の蛮勇」を奮う気概はなく、さりとて公式案件や取材仕事に大人しく邁進するような信仰も喪失し、ただただ「アニメを観ることの言説化」にまつわる神経症的な憂鬱と自閉症的な快楽に引き裂かれ、身動きの取れない期間が続きました。
 
 今は、「映像体験をいかに分節化するべきか」というライターとしての職能上の課題を、「言語と生の対立」という思考の根本問題に位置づけ直し、別の生き方を探っています。

 

2016年:12歳。〜ちっちゃなムネのトキメキ〜

 先日、長年の京アニフォビアをおして『聲の形』(16)を観たところ、完璧な画作りと丁寧なドラマに胸を締め付けられると同時に、早見沙織声の聾唖者に断然勃起する言えない欲望をこんなに美しく祝福しないでほしい、という憤りを覚えました。

 全ての罪悪が幼年期の愚昧さに端を発するというのなら、ガチの小6マインドをトレンディなスタイルで天真爛漫に謳歌する『12歳。』にこそ留まり、幼さは幼さそのものとして罰されたいと願われます。
 鍵ゲーは後追いで6割方プレイしており、鏡像的な白痴に魂を浄化されるエクスタシスの至高性と、そのどうしようもないみっともなさの両面を思い知らされるからこそ、Keyや京アニ作品の完全な快楽を笑い飛ばすところから、人はオタとしての個体化を果たすものであると、信じて自分は生きてきました。
 
 この甘すぎる快楽を、トップクリエイターとビッグバジェットに世話される恥に耐え難いがゆえ、底の知れた欲望は最底辺のコンテンツでこそ満たすに至っているわけです。
 

 『NORN9 ノルン+ノネット』『ファンタシースターオンライン2 ジ アニメーション』『紅殻のパンドラ』『霊剣山 星屑たちの宴』『最弱無敗の神装機竜』『蒼の彼方のフォーリズム』『リルリルフェアリル 〜妖精のドア〜』『迷家 -マヨイガ-』『聖戦ケルベロス 竜刻のファタリテ』『ハンドレッド』『鬼斬』『SUPER LOVERS』『ビッグオーダー』『タブー・タトゥー』『魔装学園H×H』『スカーレッドライダーゼクス』『タイムトラベル少女』『クオリディア・コード』『アンジュ・ヴィエルジュ』『ViVid Strike!』『マジきゅんっ!ルネッサンス』『Occultic;Nine -オカルティック・ナイン-』あたりが好きでした。

 

2017年:クロックワーク・プラネット

 YouTubeのプライベートな映像文化にスカムも砂金も一緒くたに混在する状況下、曲がりなりにもテレビ放映のコンテンツで人気の多寡やB級が云々と考えるのが、いよいよ馬鹿らしくなった時期でした。

 ブログ文化圏の崩壊と共に進行した短文SNS全盛の状況下、諸個人の感性的断絶が容易に政治的危機へと発展するインターネットに関心が失せ、結局はアニメジャンキーとしての自我に充足あるいは自閉して、既存の媒体や言説形態への適応自体、徐々に諦めていった10年間でもありました。

 私が作品に関する記述よりも自意識の記述を優先するのは、既存の分析的言語とオタ諸個人の思考の混乱を比較すれば、後者に潜在する狂気の可能性に賭けたい気持ちがこの期に及んでなお強いためですが、個であることが不可能な趣味領域であることを認めて、潔く立ち去ったほうが生きやすいのも分かっています。

 『政宗くんのリベンジ』『アイドル事変』『セイレン』『ハンドシェイカー』『つぐもも』『フレームアームズ・ガール』『アイドルタイムプリパラ』『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』『武装少女マキャヴェリズム』『ひなこのーと』『ツインエンジェルBREAK』『覆面系ノイズ』『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』『sin 七つの大罪』『アクションヒロイン チアフルーツ』『天使の3P!』『異世界はスマートフォンとともに。』『はじめてのギャル』『王様ゲーム The Animation』『魔法使いの嫁』あたりが好きでした。

 

2018年:となりの吸血鬼さん

 この時期に書けるぶんは以前書きましたが*6、とりわけ「なんにも感じなかった」ことにおいて印象的だったのが本作で、快楽の飽和が明確に自覚されてきました。
 
 一日で完走できる驚くべきカロリーの低さで推移する、ポーのサイン本やガレノスの四液体説が淡々と流される悠久のぼんやり感には、男根主義者に感知しえない快楽の生起する気配だけが感じられ、一抹の悲しさと共に「こういうアニメとも向き合い続けなければならない」と感じました。
 
 再生している間、「百合は俺を人間にしてくれなかった」*7という怨みが脳髄を支配したので、反人間・反思考・反哲学の気概に燃えて、フレンチセオリーに再入門しました。
 
 その結果、「屈託なき自己消去願望」に苛立って他罰的言説を弄する気も失せ、少なくとも理念としては、どこまで他者の欲望と自らの欲望を交流させ、世界を肯定し続けられるかに、思考の構えが切り替わった時期でした。
 

2019年:通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?

 ところで二次元バーチャルセックスの十全すぎる視覚的現前性に枯れ果てた後の自分は、エロ同人音声でも容易に射精してしまい、斯界の赤ちゃんプレイ作品の豊穣さにこそ、さらなる荒野が待ち受けているよう予感されています。ASMR文化はまだ拒絶しています。あるいは、10年代インターネットのアニメ文章で、女性声優の咀嚼音をコレクションしたあれ以上に、記憶に残ったものがあるでしょうか。最近は『僕たちは勉強ができない!!』9話の古橋さんが歯磨きした後の「ぐちゅぐちゅぺ」の音が好ましかったです。
 
 こうしたインターネット感性や肉体の荒廃と照らし合わせれば、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』の自己目的化したお話転がしに振り回される思春期男女の先鋭ぶった保健体育授業には感興を削がれるばかり、麻倉もも氏のキャラがレズセックスすればまだしも、『砂沙美☆魔法少女クラブ』以来の岡田麿里氏とも付き合う気は失せ、むしろ『フルーツバスケット』リメイクの平板な小綺麗さにこそ安息を覚える中、桜井弘明監督の完璧なリズム感覚できらら幻想を崇高の域に高めた『まちカドまぞく』の危うい快楽にも震撼させられましたから、『トリニティセブン』ばりのギクシャクしたお洒落劇伴エロに悶絶する『戦×恋』をはじめ、『ノブナガ先生の幼な妻』『なんでここに先生が!?』『魔王様、リトライ!』あたりのたまらない幼児性や、『超可動ガール1/6』『Re:ステージ! ドリームデイズ♪』『八月のシンデレラナイン』あたりの健気さに心地良さを求めてしまい、あとは『魔入りました!入間くん』がずっと続いて、『星合の空』の続きが観れればなお幸甚、と特に問題なく本数を回せる程度には、最近精神も回復しました。
 
 藤真拓哉デザインのグロ安い百合が感涙物の『Z/X Code reunion』と並べると、中年エロクリエイター揃い踏み『神田川JET GIRLS』はむしろ安心感たっぷりで、『旗揚! けものみち』『ダンベル何キロ持てる?』の異様なバランス感覚にも舌を巻いた年でした。
 
 そこに来たのが岩崎良明監督の保守タッチで能天気な母親ポルノとジャンクな毒親話を交互に繰り出す最悪のファックムービー『通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?』で、おれの男根が母親に射精しているのは十分に自覚しているからもうやめてくれと絶叫しかけましたが、下劣な直截性を強いて肯定することで享楽を変容させる以外、アニメのもたらす効果など見出せません。
 
俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』では、金元寿子声の童顔巨乳女子のグロさに射精し、茅野愛衣キャラの人気には唾を吐いていましたが、今となってはどちらが奇形的進化かも分からず、EDの「パタパタママ」の替え歌に頭を抱えるたび、「キモい快楽を否認してはならない」というオタ教訓へと、戒律のように立ち返ることになります。
 
「母性のディストピア」というキャッチコピー批評*8に要らぬ苛立ちを覚えず、我々の内なるラブワゴン(肉体的実践への回帰)を笑い飛ばすためにも、母親の代理とファックし続けていること自体は否認せず、どれだけ平板で卑しく直視に堪えない表現であっても、我々の貧しく腐り果て錯乱した非人間的な感性自体をこそ、醜悪な「私」の立場から言説化するしかありません。


 もちろん『アズールレーン』など放送中から忘却しており*9、クソな労働環境とクソなインターネットを放置して制作側の人間を絞め殺す生き方にもう耐えきれず、SNSでぴいぴい囀る生き方に適応するぐらいなら自殺したほうがまし、という絶望も治る見込みがありません。
 とにかくTwitterが嫌いなだけなので、noteなどに移行はするつもりですが、いろいろ今さら遅かったのか、目に入る「同好の士」の大半に関心を失っています。
  そのぐらい我々は、お互いがどのような信念体系に基づいて、個々の欲望の表象に思考を溶かすに至ったのかをなおざりに、自己を消却した匿名的かつ断片的な言葉で作品を語り続けた結果、完全な相互不信に陥っているということだけは、確実に言えるかと思われます。*10
 
 そもそも、「考えること」自体が人間の本質や尊厳をもはや構成しえない、という時代の条件を、ここまで隠然と言祝いでいる趣味領域も他になく、驚くべきことに、テレビアニメがソーシャルゲームと同様の基本無料文化であるがゆえに、その言説環境には貧困の問題が密接に絡んでいるということを、明確に踏まえて作品評を書いてくれる人は、これまで極めて僅かでした*11
 
 感性的条件を弁明せずに済むマジョリティとしてのオタク文化消費者は、その当事者性を自覚しないまま大雑把な繋がりを頼りに歳を取ることが容易である反面、飽きた時の悲惨もまた相当であるということ以外、この趣味について強調すべきことが残っているとは思えません。
 
 
 かつての人間が生きられたような「現実」や「生活」を喪失し、コンテンツを生そのものとして代えがたく経験しているがゆえに、作品=生そのものを言語で分節することに極度の緊張、あるいは諦念を抱いてしまうのが我々の不幸であるならば、どのようにすれば作品自体については語らずに済ますことができるのか(できているのか)、語らずにおくことで滞留する記憶や情念にどう責任を取っているのかだけは、明確にしたく思われます。
 また、こうした便宜的な語りの姿勢に「無為」と「軽薄」と「だらしなさ」が絶えず付きまとうのであれば、時代の軽薄さに打ちひしがれた人間同士が交流するための別の方法を作れないか、ということを考えながら、最近は生きています。
 

*1:当時は反発しましたが、例えば山川賢一氏『成熟という檻』などを再読すると、ああした謎本的思考を反面教師にして大衆文化と学知の結び付けを反省的に捉えられたのはむしろ幸福であった、と感謝だけが残っています

*2:来歴 - おしゃべり!おしゃべり!

*3:2021年2月4日追記:昔の自分が無邪気なネットのオタクとして、ゲラゲラ笑いながら東氏や黒瀬氏のクソコラ画像を収集していた事実は書き残しておきます。少なくともあの件に限っては、やり過ぎを追認したことの後悔は変わりません。それもあって、最近までは黒瀬氏の仕事も極力フラットに読む努力をしてきました。そんな勝手な疚しさも、パワハラ騒動で吹き飛んでしまいましたから、以降は黒瀬氏にもカオスラウンジにも一切言及しないつもりです。

*4:例えばアリストテレス『ニコマコス倫理学 (下)』(p.161)には、運動や生成の可分的な性格と関わらない、快楽の全体的・究極的な性格に関する記述があります。また、バタイユは『エロティシズムの歴史』(p.163)において、「色、音……といった抽象的諸要素しか扱わない分析には絶対に還元できないもの」である「総体«totalité»の感情を味わうには、明晰かつ判明なものはなにひとつ開示してくれない、このうえなく模糊とした感覚が、極度に高まることが必要である」と述べています。自分は、大衆文化の洪水を浴びる私達の生の根源的な表現を求めており、この目眩と絶望に満ちた「快楽のとてつもない単純さ」の次元を、原理的に分節する以外には救いを見出せなくなっています

*5:「実を言えば、横滑りこそ裸体の本質をなす。そして、欲望の対象の現実的な在りようは挑発的であるが、それにもかかわらずこれがたえず明確な表象を逃れるのは、この横滑りのせいである。というのも、ある人間の欲望をそそるものも別の人間の関心をまったく惹かないし、加えて、ある対象に今日胸を引き裂かれるような思いをする人間も、明日になれば平然としているからだ。裸体についてよくよく考えてみれば、猥褻な、とは言わぬにしても、少なくとも淫蕩な、したがって挑発的なその外観は、つねに人を欺く。実際、裸体は、あからさまな猥褻を包み隠しているのだが、この猥褻そのものの意味が横滑りする(捉えどころのない)ものであることは、すでに見た。」『エロティシズムの歴史』p.207-208

*6:平成30年度アニメ感想 - おしゃべり!おしゃべり!

*7:失礼なのでリンクは貼りませんが、某出版社の販売戦略には定期的に心底うんざりさせられます

*8:ヘルシー女子大生か善良な市民の言説に傷ついた過去も、今となっては凡庸な思い出の一つに過ぎず、むしろ次の世代から見た今の自分の言説が、かつての自分にとっての宇野氏のようなオタちんこ殴り言説としてトラウマを植え付けかねない、という現状認識に立ち尽くしています

*9:アズールレーンに参加したアニメーター「どこまで手を抜けるかを追及した」 - Togetter

*10:大衆に絡まれた批評家がよく言う、「不満があるなら外在的言説は無視して自分で文章を書けばよい」という提案は、本当に真っ当なのでそこだけは無条件に真に受けてほしいと思う一方、大衆文化に学的認識を適用すること自体の馬鹿らしさはここで等閑視されていますが、その馬鹿らしさを主張するにも相応の覚悟と手続きを必要としてしまう立場から、自分は文章を書いています

*11:2021年5月17日追記:以前はここに葛西祝氏のブログを評価する注を付けましたが、「オタク」概念に隠喩化した他者に対する憎悪感情が反復される執筆態度に疑念を覚え、現在は削除しました。私が本稿で「アニメオタク」的な他者に対する愚痴をあえて吐露したのは、そうした憎悪感情を乗り越えるために他なりません

10月雑記(寺山、ラカン、天使主義)

 若いころ寺山が好きで、東京から恐山まで青春18きっぷで鈍行したのが、初めての一人旅でした。

 きっかけは偶然ネットで見た横尾忠則のポスターで、土方巽の舞踏公演のやつだったかもしれませんが、何にせよ寺山・土方・澁澤らの言語感覚と「前衛」の響きに浮かれ、先に触れた『ウテナ』への愛着を忘れるほど、もはや不在な演劇のイメージに憧憬を抱いた20代初期でした。

 

ラカンで読む寺山修司の世界

ラカンで読む寺山修司の世界

 

 そうした曖昧な思い入れを整理するべく読んだところ、初期句集において真っ当な神経症者として人格を形成した上で、後年の演劇活動では倒錯的・精神病的モチーフを理念的に選択した寺山の創作活動全体を、『アンコール』解釈を絡めてざっくり「ファルス享楽の囲い込みを経た女性の享楽への移行」として総括した読解は、寺山ファンとしてもラカンファンとしても納得度が高いまとめ方でした。

 

 ところで、本書に触れたアブラブログの記事を久々に読んだところ、本書とは対照的に手付きが危うい「キャラクターに無意識の主体を見出すエロゲー精神分析批評」に対する批判がなされており、その「欲望する主体の次元や、身体的・エロス的なものを忌避した潔癖なラカンの使い方」が、端的に「天使」と形容されています。

 この表現から想起するのは、ジジェク『信じるということ』などのデジタル・グノーシス論で、中でも今年新版が出た山内志郎『天使の記号学』は、情報社会論と中世思想をアクロバティックに接続する文体に脳が痺れ、中世哲学に実存的主題を誤読してしまう契機の一つでしたが、『存在の一義性』は7000円ぐらいしたので*1、主に経済的理由から中世ファンをやる難易度が高いです。

 

信じるということ (Thinking in action)

信じるということ (Thinking in action)

 

……流布している認識では、「電脳空間はハードコア・ポルノだ」という。すなわち、ハードコア・ポルノが電脳空間の主たる用途だと認識されているのである。電脳空間(あるいはさらに仮想現実)を自由に漂うときに感じる文字どおりの「啓蒙〔=照明〕」、存在の「軽さ」、息抜き/軽減の感覚は、身体がないことの体験ではなく、別の――エーテル的、仮想の、無重量の――身体、惰性的な物質性と有限性にとどめない身体、天使のような亡霊的身体、人工的に再生し操作できる身体を、所有する体験である……グノシス信仰の簡潔な定義は、まさに一種の精神化された物質主義である。

(p.56-57  「反デジタル異端」)

 仔細に見ていくと、この非生物学的で亡霊を思わせる身体は、いわゆる肛門対象に近づいていく。……直接に見える外見は、無定形のうんこなのだ。自分のうんちを贈り物にする小さな子は、ある意味で、自分の〈内面の自己〉に直接に相当するものを与えている。……ここにはペニスと同じ思弁的両義性がある。泌尿器であると同時に生殖器でもある。われわれの奥底の自己が直接に外在化されると、気持ち悪くなる。

(p.59-63  「うんここそあげなきゃ」)

 

天使の記号学 (双書・現代の哲学)

天使の記号学 (双書・現代の哲学)

 

 肉体が欲望の源泉で、しかもそれゆえに罪の源泉であるというのではない。欲望はそれ自体では罪も穢れもないものであって、罪や穢れに転じてしまうのは、欲望が肉体から浮遊し、人間的尺度を逸脱すること、限度を受け付けないことによる。肉体の存在こそ、欲望に正しい路を歩ませる保障なのである。

(p.58  「欲望と快楽の文法」)

……「肉体」を普通の生身の肉体と考えようと、高度に抽象的な「肉」の意味で捉えようと、肉体とは、身近で、自明で、具体的で、直接的であるため、不思議さを喚起しないが、そういった気づかれないものこそ、気づかれないために、何ものかを守ることができるのだ。私がここで知りたいのは、「肉体」という不可解なものが、どのようにして身をやつし、姿をくらまし、人目を避け、おのれを語らずにいられるかということだ。

(p.110  「肉体の現象学」)

 

  「現実の肉体から遊離したバーチャルな身体感覚」に基づいた、「キャラクターに無意識の主体を見出してしまう性向」は、山内氏の議論にあやかって「天使主義」という名で、オタ特有の欲望の条件として自覚されていましたが、こと個人的な場面に限ると、近年は年を取った無意識の厚みのせいか実存を託しうる対象を見失い、バーチャルセックスの錯乱のうちに主体自身を壊乱させる体験が、キャラクターに超越を託す唯一の回路になって久しいです。

 こうして自分が「肉としてのオタク」を強調して物を書くのは、上記のようなエロゲ文章に特徴的だった、抜きの評価をレビューサイトなどに委託し、射精の反省に最適な精神分析の知を解離的に活用できる「天使性」への両義的な感情ゆえで、断片的な当時のオタ文章をふとサルベージするたび、せめてその信仰を体系的に遺してほしかった、という愛おしさと哀しさが湧きます。

 

表象11:ポスト精神分析的主体の表象

表象11:ポスト精神分析的主体の表象

 

  例えばですが、こう言ってよければ、性の抑圧の模範であるヴィクトリア女王の庇護の下で、フロイト精神分析を発明したとするなら、一方において、二一世紀はいわゆるポルノ、見世物となり、誰もがインターネット上においてマウスのワンクリックでアクセスできるショーとなってしまった露出された性行為にほかならないものの大規模な拡散の時代であるわけですが、この[二つの時代の]裂け目について私たちはどのように思考すればよいのでしょうか。ヴィクトリア女王の時代からポルノの時代への移行のなかで、私たちは禁止から許可へ移行しただけではなく、扇動、闖入、挑発と駆り立てへと移行したのです。身体の想像的な過剰が与えられ続け、使用され続けていることよりもうまく、現実界における性関係の不在を示してくれるものはありません。

(p.83  ジャック=アラン・ミレール「無意識と語る身体」訳=山崎雅広+松山航平)

 

 後期ラカンのサントーム理論に依拠して、無意識ではなく「語る身体の享楽」を重視する、アラン・ミレール流「享楽の独我論」に慰めを得る気持ちは多い一方、巻頭の共同討議では「精神分析の死」と「自閉症的主体の脚立的超越性」に関する相当参った状況分析が纏まっており、倒錯者が趣味でつまみ食いすることの申し訳なさを感じました。

 

リアルの倫理―カントとラカン

リアルの倫理―カントとラカン

 

……ここにおいて、無限はまた異なったかたちで――ヒロインを崇高な輝きで包む不在としてではなく、気味の悪い、「場違い」な存在として、すなわち享楽の無限性に耐えうるようには造られていない肉体の歪み、捻れとして――現れる。

……シーニュは――問いかけをもってこの倫理についての論文を結ぶことを許していただきたいのだが――劇最後、第三幕を通して、欲望の〈真実〉、ペニスの〈真実〉を具現しているとは言えないだろうか? 形象の次元に属するψではなく、(『クライング・ゲーム』から言葉を借りるなら)「ひとかけらの肉の塊」に――シニフィアンによる去勢の後に残る〈真実〉、欲望の〈原因〉の〈真実〉である「ピクピク震える」小さな肉体に――なっているとは言えないだろうか?

(p.291-292  「それゆえ」)

 

 最近読んだジュパンチッチはとても楽しかったですが、道徳律や超自我とは区別されるところの現代的倫理を成立させる、「行為」あるいは「出来事」を肉体の次元で目指せそうにはなく、「電脳空間における天使的なコミュニケーション」のグロテスクさと限界に、もう少しマシな使い途を見出していく方向で引きこもり続けたい現状です。

 

 

 

もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて  続・情報共有の未来
 
 

 

 この文脈で言えば、大塚英志氏の『感情化する社会』を始めとする一連の「工学的感性に対する嫌味」シリーズにも溜飲を下げてきた関係上、『感情天皇論』も一応読みましたが、そろそろこっちも卒業かなと思いました。

感情天皇論 (ちくま新書)

感情天皇論 (ちくま新書)

 

 

  『少女民俗学』『『りぼん』のふろくと乙女ちっくの時代』などで、「少女文化を語る男性性のキモさ」を身をもって思考した大塚氏への共感は、自分のオタとしての実存に深く染み込んでおり、本書における『少女たちの「かわいい」天皇』に対する自己批判にも、しんみりくるところがありました。

 更に言って、「セクシュアリティ自己批判的なオタク評論」を先駆的に手掛けた更科修一郎氏が排斥された後に業界入りし、氏が不在になったオトナアニメで燻っていた身としては、こうした大塚-更科文脈にアイデンティティを支えられてはきましたが、哀惜は十分に書き尽くせたので、今年を区切りに思考を入れ替えるつもりです。

 

 それは結局のところ、『「妹」の運命―萌える近代文学者たち』などで焦点化された「近代文学者による女性の内面の規定」という論点に本書でなおも拘泥しながら、この問題系を飛び越えた笙野頼子のような現代文学のハードコアは語ることができない大塚氏の枠組みに、決定的な物足りなさを覚えるためです。

 それこそ、本書のアプローチを借りて「天皇制を殺した次の社会設計を文学作品に見出す」ならば、笙野流の「にっほん/ウラミズモ」の分断こそ、「国家レベルで射精を監理された男性」の形象*2も手伝って、最もリアルな肌触りを常々感じるイメージです。

 

 

 この件、献血ポスターの騒ぎに乗じる戦略を邪推してうんざりした数秒後、昔好きだったシリーズの新作であることに気が付いて天使のしっぽが驚くほど屹立し、サンプルで五回ほど射精しながら人類に対する憎悪と羞恥と哄笑で全身が痙攣してしまい、ものの見事に「ピクピク震える」小さな肉体、ペニスの〈真実〉、「ひとかけらの肉の塊」になりました。

 結局、「揺籃より身体に刻まれし母親の痕跡を殺すことはできない」という凡庸なセックスへの諦念ゆえ、寺山演劇における「母殺し」の強迫観念に対しても、憧憬が消えないのかもしれません。

 

 上のは直球でグロい幼児性が極まった事例ゆえ、かえってカマトトの方々すら真っ青かもしれませんが、真っ青であってほしいですが、「表現の自由」という言葉を聞くたび、『レイプレイ』騒動に関する佐藤亜紀氏の一連の文章*3を思い出してしまうので、いつか地下文化に戻れる日までは、能天気なオタクポルノに呪われた生の表現にだけ、せめてもの自由を見出しておきます。

 

 凄絶なポルノ環境によって人類が根本的に変わってしまった、という恐ろしい実感の主な理論化をラカン派に、この飽食以上に求めるものは既に無い、という絶望を掬い上げる表現は笙野文学に見出すことで、なんとか生き延びている立場は表明できたかと思うので、政治的な話題への直截的な言及は以降控えるつもりです。

パンツを脱ぎ続けるいまざき監督 『可愛ければ変態でも好きになってくれますか?』(2019)

  「いまざきいつき監督が手がける美少女アニメ」についてですが、そう聞いて真っ先に思い出されるのは『ショーヨノイド真琴ちゃん』(98)です。

 

 

 恋人とのセックス最中に挿入間際で召集されてノーパン陰部ダダ濡れのまま戦闘員相手に大立ち回りし、女性器丸出しのままあっさりと爆殺された戦隊風ヒロイン・コギャリオン真琴が、胴体から吹っ飛んだその生首を幼女の義体にすげ替えられ全裸の女子小学生として復活、銭湯で延々と公然濃密ロリセックスに耽る幻覚的な絵面の只中、「作中では2クール放送したことになっている」などのムズムズするOVAギャグを飛ばしまくるという、斎藤久監督の『きぐるみっく V3』(09)と並ぶ稀有なスカムオタクムービーなのですが、その天真爛漫なパロディにせよ、むくつけき幼児性にせよ、リップシンクのズレによる軋むような違和感にせよ、氏のエロ漫画作品までは拾えていない人間にも、90年代エロ文化の力強さと氏のファンタズムの特異性を十分に印象付けてくれる作品でした。

 そうしたエグみを脱臭しきらないままに才気煥発なのが氏の魅力で、とりわけ『あいまいみー』(13~17)シリーズでは、ケレンの強いエフェクト系作画に破壊的なギャグを乗せる手法を洗練させつつ、編集・作曲・ピクセルアニメその他、一人で大体全部作ってしまうスタイルを打ち出して、今度は真琴ちゃんではなく監督自身が「パンツを脱いだままの大立ち回り」感全開、いよいよもってマルチ・アシッド・エロ作家として信頼著しい氏の新作が、なんとMF文庫原作のハーレムラブコメで全話絵コンテの全力投球、適材適所が極まったファン感涙の『可愛ければ変態でも好きになってくれますか?』(19)だったわけです。

 

 

 まず大橋彩香氏の伸び良い高音に乗せて雑多なイメージをざくざく繋げるOPの白眉を述べれば、「サビのハンドクラップのリズムに同期するアホすぎるアクション」かと思われ、「メインヒロインが順番にマジで手拍子を打つ」能天気さに続いて、「メガネをつるからカチャカチャ上下させたりうさ耳風パーカーを振り振りしたりトングをカチカチ打ち合わせたりする意味不明かつ脂っこい美少女ドアップ」を真顔で軽快に繰り出してくる馬鹿刺激には、監督ならではの暴力性が瞬間に閃いており死ぬほど好きです。

 こういう「基本的に格好良くないタイミングベタ付け作画」の下品さが、へちょ美少女のへちょアクションという更なるダサさで貫徹されることの好ましさに関しては、「小手先の甘さは強烈な低劣さにこそ強度を得るべき」というような価値基準が自分にあるらしいのですが、一見似たような大沼心氏の手付きには嫌悪感が根深いので一概に言えそうもなく、おそらくこれもまた、監督が自らのファンタズムに基づき、美少女快楽を抜き差し含めて意外や繊細にコントロールしているがための感覚なのかもしれません。

 

 冒頭のあらすじ早回しやエロシーンのお気楽ねっとりスキャットは無論のこと、全体的にカメラを引いたカットや妙な広角で捻ったレイアウトに特有のパンチが感じられ、美少女の肉体と主人公のボケ面に恒常的な軽度の歪みをもたらす絵作りは、鑑賞主体の認識自体が歪んでいることをも常に意識させてくれるかのようで肌に合い、作画リソースを割けずとも画面の刺激を確保する一手法としても、かなり肯定したいアプローチでした。

 竹達彩奈氏演じるマゾ巨乳キャラがケツの付け根まで豪快に揉みしだかれる場面など、『Kiss×Sis』デビュー声優の面目躍如たる堂に入ったお色気演技で、主演の下野紘氏もエクスタシーを回避する「やれやれ」ノリと愛らしい童貞感を絶妙に配分し、監督のクセで幾分脱臼しながらも直球のエロコメ快楽たっぷり、主人公の友人にも女が割り振られるささやかな脱中心化を含めて、「百合」の一語に表現されるオタ形而上学以外には救いを求めづらい時代、むしろ「変態」の一語であらゆる欲望を一見粗雑に肯定するような表現の危うさにこそ、思考の場を見出しておきたい気持ちを新たにさせられます。

 

 一点だけつらい部分は、cv日高里菜氏で緑色のリボンを着けた金髪ロリキャラが登場するたびに、なんかこいつにゃ○らっぽいな……こいつもしかしてにゃ○らじゃね……? 前のにゃ○らのアイコンってこんなんじゃなかったけ……*1そもそもにゃ○らのアイコンのキャラって誰だっけ……SSSS.GRIDMANのヒロインが二次裏ユーザーなのでインターネットの人々がはしゃいでいるということをおれに教えてくれたがそのあと特に観測していないにゃる○さんみたいだな……V界隈の人たちはVブームの火付け役が薬物愛好者であることに関してはどう思ってるんだろう……別にどうとも思ってないか……みたいな、公共圏の構築に失敗した日本語圏インターネットのオタク的政治性から距離を取るという滑稽を演じている、骨の髄までクソオタなわりに故郷喪失者であるわが身の上を意識させられ、動画サイトのコメントはもちろん、殆どのネット言説を観測せずにMF原作アニメを讃え続ける倒錯においてこそ、私の悪しき享楽は成立しているらしいです。おそらく日高里菜の声に無条件で幸せになる自分の安さに否認も働きました。

 

 MF文庫を多少は好んで読んでいた身としては、『緋弾のアリア』の少年漫画的馬鹿インフレや『はがない』の翳りの背負い方、『変猫』の保守快楽から『魔法戦争』のわたしの中に潜む -PRISONER- まで、アニメ化されてないやつだと穂史賀雅也氏や清水マリコ氏の繊細さも大好きでしたから、「ラブコメ界のドン*2MF文庫J的ハーレムラブコメ」と一言で括っても微細な快楽は見逃しえず、『この中に一人、妹がいる!』の「どのヒロインが妹か」と同程度にゆるくお話を牽引する「どのヒロインがパンツを脱いだか」というすっとぼけフーダニットこそ、どう転がるか分からない謎緊張感を確保しつつ、別にどう転がっても全部許せるしわりとどうでもいい、という融通無碍で呼吸しやすい眩暈の体験の条件として私の生存を可能ならしめ、体中が大好きと叫ぶに至った次第です。真琴ちゃんの時点ですでにパンツは脱がれており、あまつさえ頭部までもが失われていたのです。

 

無頭人(アセファル) (エートル叢書)

無頭人(アセファル) (エートル叢書)

 

 一人の首長によって築かれるカエサル的統一性の対極にあるのは、悲劇の執拗なイメージによって結ばれた首長なき共同体である。頭なき共同体を求めることは悲劇を求めることなのだ。…人間的事象の様相を変える一つの真理がここに始まる。すなわち共同の実存に執拗な価値を与える情動的要素は死である、と。

(p.166  ジョルジュ・バタイユ「ヌマンティアよ! 自由よ!」)

諸党派が提案する解決法のなかにすでに空虚を見いだした者たち、それらの党派がかき立てる希望のなかに、死の匂いが充満する戦争の契機だけを今や見る者たち、彼らは、自分たちを襲う痙攣にみあった信仰を探している。つまり、どこかの国旗や、その国旗のあとに続く出口なしの殺戮行為ではなく、宇宙のなかで、笑いや陶酔や供儀の対象となることのできるすべてのものを、人間のために再発見する可能性を。

(p.54  ジョルジュ・バタイユ「われわれ祖国を持たぬ者たち……」)

要するに、エピキュロスの豚(=放蕩者)とみなされるのを、あるいは実際にそうであるのを、笑いながら受け入れること。

(p.92  ピエール・クロソウスキー「世界の創造」)

 

 全ては紋切り型のマイルドポルノにしか至高性を見出しえない人間の戯言に過ぎませんが、プログラムピクチャーにおける質的経験の記述以外には研ぎ澄ますべき趣味を見つけられず、年を取るほど泥濘に沈むばかりの現状、ファンタズムにまつわる機微と暴力と歪をもってポルノグラフィックな泥沼の愉悦を繊細に深化させ続ける、MF作品といまざき監督に「泥の中に咲く蓮」*3の美しさを見てしまう快作でした。

*1:今確認したらそこまで似てなかった、どちらかというと『対魔導学園35試験小隊』の大久保瑠美氏を想起して懐かしかったです

*2:公式が自称していました。首領を自認するほどのブレイクスルーが最近あったのでしょうか

*3:誤用

8月雑記

ネット右翼とサブカル民主主義

ネット右翼とサブカル民主主義

 

 もとよりクリエイターの人間性に幻想は持たない人間で、天野喜孝氏や湖川友謙氏はスルーできたものの、貞本義行氏の失言の件には結構なショックを受け、意外と無邪気に貞本エヴァを好きだった自分の足元に気付かされて辛かったので、「なんか2ちゃんのいやなやつ」と長年ぼんやりスルーしてきた、ネット右翼サブカルチャーの関連性にまつわる研究を嫌々読んでいました。

 先駆的な論考っぽい本書は、ネトウヨ中心層を若年世代と見誤るなどの雑駁さを差っ引けば示唆的で、「サブカル右翼なりそこね男による昭和平成サブカルの旅路」と題し、ヤマト世代のオタ当事者感覚が述べられた第2章では、大阪芸大ガイナックス人脈がやっていた『愛國戰隊大日本』の危うさ、かの世代のSFオタクノリが結晶化した初代『マクロス』の軽薄さ、樋口真嗣福井晴敏による『ローレライ』のトンデモぶりなどが整理されており、忘れるべきでない嫌な歴史だなと思います。

 自分が先行世代と距離を感じる一番の要点は「兵器フェティッシュの有無」で、『ガルパン』で回春しているおっさん連中が黙殺してきた『陸上防衛隊まおちゃん』のいたたまれなさに固執し続け、こやまきみこ声で「これじゃ防衛できないよ…」とぼやき続けるオタ自意識はずっとありましたから(?)、「オタクが好きなメカと美少女」の前者に対する違和感が、明確な政治的反感に変容してきた世代感覚は、簡単に割り切れる問題系ではありませんが、一応表明しておきます。

 

歴史修正主義とサブカルチャー (青弓社ライブラリー)

歴史修正主義とサブカルチャー (青弓社ライブラリー)

 

  「市場原理に流されるサブカルチャー化した論壇」を90年代の論壇誌で自己言及的に問題化した大塚英志氏の仕事に言及があり、読者参加企画というマンガ編集者時代に培ったアイデアをも中央公論誌に持ち込んで、「商業的淘汰の適応外になる「特権」の根拠を、商業的手法(読者の参加)によって求めようと」(p.143)した、氏の実践の両義性に関して、再考させられるところがありました。

 本書は右寄り論壇誌の分析なので対象から外れますが、同時期の文芸誌での仕事が笙野頼子氏から「売上げ文学論」と突っ込まれ、大塚氏がのらりくらりと振る舞った一件*1こそ、自分が「批評」の格好悪さと文学の誠実性を印象付けられた読書だったとも振り返られます。

 ITビジネス系の山師に対してはもちろん、オタク業界の構造自体に対しても有効な嫌味を当事者的に発言しうる、という政治的・実践的価値において大塚氏は観測せざるを得ませんが、こと消費文化に圧殺される内面や信仰の問題、作品論にアカデミックな概念を適用することの慎重さ、女性文学ばかり読んでしまう男性性の危機*2などは笙野氏に示唆を受けた人間なので、「日本はもう全部サブカル」という益体のない現実と、それを裏側から照射する原理的思考という、政治と文学の対立を大塚/笙野で捉えてしまう自分の思考の歪さを確認しました。

 

アニメ制作者たちの方法 21世紀のアニメ表現論入門 (Next Creator Book)

アニメ制作者たちの方法 21世紀のアニメ表現論入門 (Next Creator Book)

 

 京都アニメーションとその消費様態に関する苦手意識は、高瀬司氏のけいおん記事*3にも醸成された人間なのですが、今となっては水に流すとして、本書は作画・撮影観点込みの風通しが意識された構成で、最近のアニメ関連の言説配置がすっきり見通しなおせる好著であるがゆえに、こうした雑誌的構成や個別具体レベルの作業に割り込む余地を見出せず、「アニメーションという実在に対して非十全な観念しか所有しえない主体の無力」を凝視して、神秘主義か原理論か、両極端のつまみ食いに嗜癖せざるを得なかった自分の性格の悪さにあらためてへこみました。

 アニメルカに関しても多少は身近で色々聞いてきており、嫌味ったらしくはなりますが、今さら仲良くするのは不可能であるという当事者感覚だけは表明し、明瞭な良き分断を構築できれば十分という考えでして、ポップカルチャー研究がアカデミズムに収斂していく流れ*4に回収されない、非弁証法的な思考や主体の困難にこそ内在しておきたい現状です。

 

あたかも壊れた世界 ―批評的、リアリズム的―

あたかも壊れた世界 ―批評的、リアリズム的―

 

 警官のコード、少女愛のコード、サイボーグのコード、これらとは区別される人形愛のコードを、魔女でも悪魔憑きでもない仕方で体現する主体、これを描き出さない限り、アニメーションにおいても現実においても、人形使いと自由な人形たちのコントロール社会はそのイノセンスを誇り続けるであろう。

(p.74 「人形使いに対する態度――公安九課バトーと中山正巡査」

 人形愛と管理社会論を妖艶に接続する『イノセンス』論と、20世紀的なサイボーグ表象文化の外部を開く作品として『鋼の錬金術師』を位置づける論に続いて、「寄生生物と生殖細胞の関連」という既存理論に回収できない問題系において『寄生獣』を考察する論考を据えた構成が極めて刺激的で、結局は細胞レベルで侵蝕されたような人工身体に対する性的固着を、性と身体にまつわる理論的な非決定性で贖うことで、辛うじて本を読めている自分の足元を確認させられました。

 …以上のような空気の中で、多くの人は秘かに、こう思いたがっている。すなわち、いまや異性愛有性生殖も反-自然化しクィア化してきたからには、過去の批判はすべて免れているのだ、とである。いまや異性愛有性生殖は、政治的にも倫理的にも、恥じることのない、恥じてはならない、光と影に彩られる先端的な営みなのだ、とである。かつては、それが有性生殖に向かわず不毛であるということで同性愛は反自然的と評されてきたとするなら、いまや、同性愛をはじめ異例な性こそが自然なのであり、異性愛こそがバイオ化・テクノ化することでクィア化しているのであって、かつてクィアに向けられた肯定論は、そっくりそのまま、すべて異性愛に使い回せるのである、とである。いまや、異性愛者は臆するところがない。

(p.109 「No Sex, No Future ――異性愛のバイオ化・クィア化を夢みることについて」)

 

批評について: 芸術批評の哲学

批評について: 芸術批評の哲学

 

 分析哲学系の文章に色気を感じない(あるいは思考と欲望を整然と分割するような厳格さに馴染めない)、という単純極まる感性的傾向があり、大陸哲学に食傷してから読むべき領域なのでしょうが、本書は批判対象を藁人形的に単純化した論の粗さに引っ掛かりも多く、全体的には真っ当でも説得されるに十分ではない批評観でした。

 それでも、本書で主に説明される狭義の芸術批評からは終章で区別された、異なる芸術カテゴリーを横断し、(例えば新聞マンガ作品と文学作品とを)社会的・文化的重要性の次元で比較衡量するような「文化批評」的思考に要求される、文化全般に関する「市民」的な良識は(それこそ漫画文化の当事者として市場原理への適応に倫理を見る大塚氏と、文学至上主義を作品内外貫いて苛烈に擁護する笙野氏との対立とも関連して)、個人的に肝に銘じておきたい論点でした。

 

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

 

  「オタク」的な来歴を元手にしたアイデンティティ・ポリティクスは、少なくとも今のSNSで行うのは危険極まりなく、その情念を作品や表現の次元で、批評ではなく文学的な実践として貫徹しなければ、日本語圏インターネットで何かを発信する気にはなれなかった、というのが本音です。

 ざっくり本書を貫いている、アイデンティティ(民主主義)とシティズンシップ(自由主義)という対立項が、シュミットに倣って克服不可能とするならば、「市民」概念の空虚さを受け容れた上で、恥に満ちた実存の表現を良き分断にのみ奉仕させ、顔の無い社会のゴミとして非決定性の煉獄を享楽していく以外に、取りうる立場が見出せない現状になります。

 

〈自閉症学〉のすすめ:オーティズム・スタディーズの時代

〈自閉症学〉のすすめ:オーティズム・スタディーズの時代

 

 神経症的な過剰接続にも、分裂症的な思考の混乱にも疲れた後は、あえて言えば自閉症的な主体として生きざるを得ませんが、厳密な当事者性は無く、発達障害概念に回収されるのも癪で、DSMや投薬精神医療自体に疑念が強い立場としては、そろそろ中井久夫とかをちゃんと読もうと思いました。

 

終りの日々

終りの日々

 

 現代日本に対する愚痴とフランスへの憧憬が、同語反復的に延々と繰り返される晩年の日記で、ファンとしては「おいたわしや」の一語ながら、せめて真面目な信仰のある国に生まれたかったのは事実ですから、苦笑すらできない嫌な切迫感を覚えました。

*1:徹底抗戦!文士の森

*2:文藝 2007年 11月号 [雑誌]

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*3:https://web.archive.org/web/20100804023555/d.hatena.ne.jp/ill_critiqueなど

すみません、久々に読んだら単に反アニさん時代の文章が嫌いなだけでした。今更何、感じ悪、という話ですが、氏が代表していたような、オタクの悪ふざけと下ネタを軽薄かつ権威主義的な人文ノリで垂れ流す「ゼロ年代批評」的なアニメブログに対する嘔吐感こそ、今の我々が率先して抑圧している記憶かと思います。界隈とは距離があったとはいえ、私も当事者の一人ですから、ここらの最悪なネット言説潮流をもぼんやり批判・相対化してくれただけでも「日本は多少マシになった」と、ポリティカル・コレクトネス概念の輸入も根本では感謝しています。当時の書き手が表舞台に移行して、こうした歴史が忘れ去られるような昨今、かの時代の気色悪さが青春のトラウマになっている自分としては、遅ればせながら自らの身を持って、当時アニメを見過ぎていた人間精神の錯乱を消化しておかなければ、批評という概念もアニメ研究という領域すらも、信ずるに値する世界とは思えないわけです。

*4:宮本大人+ヤマダトモコ対談 マンガ批評とマンガ研究の結節点(前編) ――伝説の「漫画史研究会」とは何だったのか | マンガ・アニメ3.0」参照

7月雑記

ライト・ノベル

ライト・ノベル

 

 久々にラノベでも読もうかと手に取りましたが、本田透氏で言う「ライトヘビーノベル」みたいな錯綜したオタ概念でした*1

 グノーシス主義とかを思い出す垂直的に階層化された宇宙論的世界観の下、危うく迸りかねないスピリチュアリティを淡白な文体で抑制したような情趣がアツく、息子にセックスを迫る母親がイデア世界の数学的概念でオナニーしていた過去を語り始めるあたりからやばいことになりそうと期待しましたが、後半で恐ろしく自己治療的なピュアネスに着地した印象があり、佐藤友哉氏の新作なども読むのが怖く、過ぎ去った季節を愛おしむことにすら飽きているのが自覚されました。

 

  「元長柾木氏のセカ 系論が載っている」と聞き、再び古傷が疼いて読んでしまいました。最近のお仕事は追っておらず、もとより「イチャラブが本業」的なことを仰っている方でもあり、特に変な思い入れはないのですが、こういう文章を2019年に読むのはつらいです。

 特集的に仕方ないのでしょうが、他の文章でもちょくちょく「セ イ系」「ゼ 年代」「 熟」あまつさえ「決 主義」などの概念が使用され、単純に風通しが悪すぎて息が詰まりそうになり、関係ないですが「テン年代」という言葉を使った人たちは来たる20年代のこともトゥエンティー年代と言い続けてほしいです。

 この中で見れば、元長氏は直截的な記述でまだしも脱構築的なアプローチを取っているがゆえに、なおさらこの文脈に接続された「Vtuber=バ美肉における、成熟=啓蒙を不要にしながら他者尊重を可能にする相互美少女性の原理」という論点は、なんとも安穏な現状追認と隔靴掻痒の感があり、それは前提としたうえで「手軽に美少女の皮を纏えるテクノロジー的な条件に対して常に距離を保ち、各人の個体化の契機となるような思考の場を確保すべき」という立場に至らざるを得ません。

 

アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-

アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-

 

 上記のような東-大塚-斎藤ラインの「 ロ年 」的 タク論を、包括的に受け止めた上でハードコアな理論的作業を突き進めているラマールも読み、何だかあまりに執拗で、この文脈はもう本書で終わりにしてよいのではと、暗澹たる気分と一緒に憑き物が落ちる快楽も覚える良い本でした。

 私が「オタク」という概念を実体的に使用する文章を嫌悪するのは、消費文化を享受する主体の成立には教育・貧困・文化資本・共同性・情報環境・セクシュアリティといった諸問題が密接に絡んでおり、その理論的・経験的な複雑性を曖昧な大衆概念の下に抑圧し、当事者の思考と言説すらも平板化させる傾向が著しいためです。

 SNSの狂騒に回収されない反時代的な思考以外には興味が無いので、小言だけ吐いてこうした言説圏とは再度距離を置き、キモくてウザい単なる中年男性として普通に野垂れ死ぬ予定です。

 

外の思考―ブランショ・バタイユ・クロソウスキー (1978年) (エピステーメー叢書)

外の思考―ブランショ・バタイユ・クロソウスキー (1978年) (エピステーメー叢書)

 

  いい加減にジャンル内部における歴史的構築物としてのオタク文芸コンテンツ幻想やノベルゲームの形式性ではなく、個人の身体と認識とにもとづいたエロゲ話を読みたいので、当ブログの書いていることをあらためて要約しますと、長年にわたって自らの欲望と超越性を無意識に支えてきた「本田透的な二次元美少女プラトニズム」が、バーチャルセックスによって内在的で唯物論的な性の問題へと変質してしまった体験を、ひとまずバタイユやサドを主軸にフレンチセオリーを読むことで*2言説化している次第です。

  たぶん、われわれの文化におけるセクシュアリテの重要性、サド以来それがあんなにもたびたびわれわれの言語の最も深い決断の数々に結びつけられてきたことは、まさしく、それを神の死に結びつけるあのつなぎ目にかかっているのである。この死とは、神の歴史的支配の終末としても、神の非存在のついに発された確認としても理解されるべきものではなくて、われわれの体験の今や恒常的なものとなった空間として理解されるべきものなのだ。(p.73 「侵犯行為への序文」)

 

服従

服従

 

  『素粒子』と『ある島の可能性』だけ読み、異性への信仰に欠ける卑俗で唯物論的なセクシュアリティに全然関心できなかった人なのですが、今振り返れば、「中年以降の絶望的なセックスの荒野」に対する否認が働いていたと思います。

 ユイスマンスの「デカダンから信仰への回帰」は好きなモチーフである一方、本作も西洋文明のイスラム回帰が一夫多妻万歳みたいな感じに収束し、ええんかそれで、というがっくり感にこそ意図を汲めはするものの、「身も蓋もない性的感性の突きつけ方」には、理解可能なゆえの距離感を確認しました。

 万一自分が人間と関係を持つ羽目に至った場合、自分が消費文化の中で生きてきたフーリエ-クロソウスキー的なリアリティを敷衍すべく、ポリアモリーを選択したい心境にあります。人間の重苦しさとキャラクターの軽薄さを釣り合わせることにのみ、倫理を見出したいところです。

 

最後の祝宴

最後の祝宴

 

 江藤淳との論争文が踊るようで頼もしいのと、個人的に好きな『霊魂』が作者の楽しく書けた一作とされており、高踏的なスタイルから遊戯的に分泌された観念のエロスに、異様にしっくりくる手触りを感じます。

…霊魂という言葉から作者が想像するところによれば、それは死後に身体を離れてどこかへ行ってしまう半ば物質でもあるような何かである。KのところにやってきたMの霊魂はまず猫のように膝にあがるが、「それは半透明の塊で、さだまった形はないようで、二、三歳の子どもほどの大きさ」で、「重さはあるともないともわからな」い。「撫でてみると、やわらかなままに玉のようになめらかで人肌のあたたかさ」である。霊魂があるとすればそういうものでなければならないというのが作者の勝手な仮説で、あとはこの霊魂の属性を分析して、その行動やKと結ぶ関係がいかなるものになるかを想像すると言うより推論することによってこの小説ができあがった。この論理的想像が作者には一番楽で楽しい方法である。想像力がそれだけ非力だということであろう。…(p.137 「作品ノート7 霊魂」)

 

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 キャラクター抱き枕と寝るのに疲れてきたので、最近はダイソーのくまのぬいぐるみを抱いています。

 

政治的省察 ―政治の根底にあるもの―

政治的省察 ―政治の根底にあるもの―

 

 ここまで「政治の季節に対する距離感」自体に反省的にならざるを得ない状況に立ち至るとは思わず、かたや「ベタな政治的表象ではなく、日常の隅々にこそ政治性は浸透している」という議論から果てなく広がる「政治の砂漠」に対しても、どこで見切りをつけたものかと手に取りました。

 後半、主にアレントフーコーに依拠した思索が刺激的で、『肉の告白』読みたいなと思いました。

アレントキリスト教神学者による「意志」の思考を、ポリス的「自由」とむしろ対立させて、そこに政治から引きこもる内面的自由を見たが、その内面的自由は、「主権」として拡大されて、もう一度政治的次元において大きな意味をもつようになったと考えた。そのような「主権」の政治こそは、ポリス的な政治と公共性と自由に対する危険な脅威となる、というふうにかなり飛躍的な発想を展開してもいる。

  「自己への配慮」としての意志の葛藤を、「政治的公共性」とどのように共存させ、強制させていくかが、アレントの思想の最後の難題であったかもしれない。(p.246)

「…自己に戻る、自己を解放する、自分自身であること、本物であること等々の表現のことですが、今日用いられるこういった表現のうちに見つかる意味や思考の欠如に目を向けるならば、いま自己の倫理学を再構成するためにわざわざ払う努力を誇りに思う余地などないと思います。…ところが自己の倫理学を構成するということは、おそらく緊急な、根本的な、政治的に不可欠な課題なのです。自己の自己に対する関係においてのみ、政治的権力に対する最初のそして最終的な抵抗の点があるということが結局真実であるならば」(Michel Foucault, Herméneutique du sujet, p.241)

「私たちは自分が時代の外にいると感じてはいない。反対に、私たちはこの時代と恥ずべき妥協をし続けているのだ。この恥辱の感情は哲学の最も強力な動機のひとつである」(ドゥルーズガタリ『哲学とは何か』)

 

執念深い貧乏性

執念深い貧乏性

 

 全部振り切ってアナーキズムに生きたい気分はたまに湧き、HAPAX誌とか外山恒一氏とかも興味深く思うのですが、まだしも政治の砂漠よりは性の荒野に生きていたい季節になります。

 

僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って (DOBOOKS)

僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って (DOBOOKS)

 

 VRエロゲもアイマスもドールも抱き枕も全部処分し、小屋暮らしか車上生活を送りたい衝動が不定期に湧くので、本で済ませています。

 他者の抱えた死の観念に触れると異様に元気が出る人間で、読後なぜか久々にアニメを再生することができました。

 自分にとって、「アニメを観ること」と「非人称的な死の観念」とは密接に結びついており、映像文化の絶対的な情報量が観る側・作る側を問わず人間を圧死させうる、という時代的な生の条件に、責任を取る主体や法が存在しない不条理に対する恐怖が身に染み付いています。

 

 不謹慎な連想を誘うようですが、かのスタジオの作品を一貫して拒絶し続けてきた立場としては、「悲しめないこと自体の悲しさ」すら自己欺瞞と判断され、単に意味付けの及ばぬ、呑み込めない異物としての現実が増えたことだけを受け止めました。

 一点、容疑者の動機と思しい「作品をパクられた」との言明に関して、通底するかもしれない当事者感覚を述べますと、2011年頃はラノベワナビだったのでKAエスマ文庫の『中二恋』原作を読んで『R-15』並に文章がすごいなと当時衝撃を受け、この業界で書く側に回るのはどうなのかなと、その時点でコンテンツビジネス周りやオタ活字作品の創造性にまつわるニヒリズムは、確実に醸成されていました。

 それでもサブカルチャーの洪水の中で生きざるを得なかった青春を顧みれば、その絶望は外部の知に自らをひらく以外に解決しようもなかったと判断されるがゆえ、オタから遠く離れてなお、オタという概念に最低限の政治性を賭け続けざるを得ない現状になります。

*1:

ファントム

ファントム

 

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*2:
エリック・マルティ『サドと二十世紀』