おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

8月雑記

ネット右翼とサブカル民主主義

ネット右翼とサブカル民主主義

 

 もとよりクリエイターの人間性に幻想は持たない人間で、天野喜孝氏や湖川友謙氏はスルーできたものの、貞本義行氏の失言の件には結構なショックを受け、意外と無邪気に貞本エヴァを好きだった自分の足元に気付かされて辛かったので、「なんか2ちゃんのいやなやつ」と長年ぼんやりスルーしてきた、ネット右翼サブカルチャーの関連性にまつわる研究を嫌々読んでいました。

 先駆的な論考っぽい本書は、ネトウヨ中心層を若年世代と見誤るなどの雑駁さを差っ引けば示唆的で、「サブカル右翼なりそこね男による昭和平成サブカルの旅路」と題し、ヤマト世代のオタ当事者感覚が述べられた第2章では、大阪芸大ガイナックス人脈がやっていた『愛國戰隊大日本』の危うさ、かの世代のSFオタクノリが結晶化した初代『マクロス』の軽薄さ、樋口真嗣福井晴敏による『ローレライ』のトンデモぶりなどが整理されており、忘れるべきでない嫌な歴史だなと思います。

 自分が先行世代と距離を感じる一番の要点は「兵器フェティッシュの有無」で、『ガルパン』で回春しているおっさん連中が黙殺してきた『陸上防衛隊まおちゃん』のいたたまれなさに固執し続け、こやまきみこ声で「これじゃ防衛できないよ…」とぼやき続けるオタ自意識はずっとありましたから(?)、「オタクが好きなメカと美少女」の前者に対する違和感が、明確な政治的反感に変容してきた世代感覚は、簡単に割り切れる問題系ではありませんが、一応表明しておきます。

 

歴史修正主義とサブカルチャー (青弓社ライブラリー)

歴史修正主義とサブカルチャー (青弓社ライブラリー)

 

  「市場原理に流されるサブカルチャー化した論壇」を90年代の論壇誌で自己言及的に問題化した大塚英志氏の仕事に言及があり、読者参加企画というマンガ編集者時代に培ったアイデアをも中央公論誌に持ち込んで、「商業的淘汰の適応外になる「特権」の根拠を、商業的手法(読者の参加)によって求めようと」(p.143)した、氏の実践の両義性に関して、再考させられるところがありました。

 本書は右寄り論壇誌の分析なので対象から外れますが、同時期の文芸誌での仕事が笙野頼子氏から「売上げ文学論」と突っ込まれ、大塚氏がのらりくらりと振る舞った一件*1こそ、自分が「批評」の格好悪さと文学の誠実性を印象付けられた読書だったとも振り返られます。

 ITビジネス系の山師に対してはもちろん、オタク業界の構造自体に対しても有効な嫌味を当事者的に発言しうる、という政治的・実践的価値において大塚氏は観測せざるを得ませんが、こと消費文化に圧殺される内面や信仰の問題、作品論にアカデミックな概念を適用することの慎重さ、女性文学ばかり読んでしまう男性性の危機*2などは笙野氏に示唆を受けた人間なので、「日本はもう全部サブカル」という益体のない現実と、それを裏側から照射する原理的思考という、政治と文学の対立を大塚/笙野で捉えてしまう自分の思考の歪さを確認しました。

 

アニメ制作者たちの方法 21世紀のアニメ表現論入門 (Next Creator Book)

アニメ制作者たちの方法 21世紀のアニメ表現論入門 (Next Creator Book)

 

 京都アニメーションとその消費様態に関する苦手意識は、高瀬司氏のけいおん記事*3にも醸成された人間なのですが、今となっては水に流すとして、本書は作画・撮影観点込みの風通しが意識された構成で、最近のアニメ関連の言説配置がすっきり見通しなおせる好著であるがゆえに、こうした雑誌的構成や個別具体レベルの作業に割り込む余地を見出せず、「アニメーションという実在に対して非十全な観念しか所有しえない主体の無力」を凝視して、神秘主義か原理論か、両極端のつまみ食いに嗜癖せざるを得なかった自分の性格の悪さにあらためてへこみました。

 アニメルカに関しても多少は身近で色々聞いてきており、嫌味ったらしくはなりますが、今さら仲良くするのは不可能であるという当事者感覚だけは表明し、明瞭な良き分断を構築できれば十分という考えでして、ポップカルチャー研究がアカデミズムに収斂していく流れ*4に回収されない、非弁証法的な思考や主体の困難にこそ内在しておきたい現状です。

 

あたかも壊れた世界 ―批評的、リアリズム的―

あたかも壊れた世界 ―批評的、リアリズム的―

 

 警官のコード、少女愛のコード、サイボーグのコード、これらとは区別される人形愛のコードを、魔女でも悪魔憑きでもない仕方で体現する主体、これを描き出さない限り、アニメーションにおいても現実においても、人形使いと自由な人形たちのコントロール社会はそのイノセンスを誇り続けるであろう。

(p.74 「人形使いに対する態度――公安九課バトーと中山正巡査」

 人形愛と管理社会論を妖艶に接続する『イノセンス』論と、20世紀的なサイボーグ表象文化の外部を開く作品として『鋼の錬金術師』を位置づける論に続いて、「寄生生物と生殖細胞の関連」という既存理論に回収できない問題系において『寄生獣』を考察する論考を据えた構成が極めて刺激的で、結局は細胞レベルで侵蝕されたような人工身体に対する性的固着を、性と身体にまつわる理論的な非決定性で贖うことで、辛うじて本を読めている自分の足元を確認させられました。

 …以上のような空気の中で、多くの人は秘かに、こう思いたがっている。すなわち、いまや異性愛有性生殖も反-自然化しクィア化してきたからには、過去の批判はすべて免れているのだ、とである。いまや異性愛有性生殖は、政治的にも倫理的にも、恥じることのない、恥じてはならない、光と影に彩られる先端的な営みなのだ、とである。かつては、それが有性生殖に向かわず不毛であるということで同性愛は反自然的と評されてきたとするなら、いまや、同性愛をはじめ異例な性こそが自然なのであり、異性愛こそがバイオ化・テクノ化することでクィア化しているのであって、かつてクィアに向けられた肯定論は、そっくりそのまま、すべて異性愛に使い回せるのである、とである。いまや、異性愛者は臆するところがない。

(p.109 「No Sex, No Future ――異性愛のバイオ化・クィア化を夢みることについて」)

 

批評について: 芸術批評の哲学

批評について: 芸術批評の哲学

 

 分析哲学系の文章に色気を感じない(あるいは思考と欲望を整然と分割するような厳格さに馴染めない)、という単純極まる感性的傾向があり、大陸哲学に食傷してから読むべき領域なのでしょうが、本書は批判対象を藁人形的に単純化した論の粗さに引っ掛かりも多く、全体的には真っ当でも説得されるに十分ではない批評観でした。

 それでも、本書で主に説明される狭義の芸術批評からは終章で区別された、異なる芸術カテゴリーを横断し、(例えば新聞マンガ作品と文学作品とを)社会的・文化的重要性の次元で比較衡量するような「文化批評」的思考に要求される、文化全般に関する「市民」的な良識は(それこそ漫画文化の当事者として市場原理への適応に倫理を見る大塚氏と、文学至上主義を作品内外貫いて苛烈に擁護する笙野氏との対立とも関連して)、個人的に肝に銘じておきたい論点でした。

 

「差別はいけない」とみんないうけれど。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

 

  「オタク」的な来歴を元手にしたアイデンティティ・ポリティクスは、少なくとも今のSNSで行うのは危険極まりなく、その情念を作品や表現の次元で、批評ではなく文学的な実践として貫徹しなければ、日本語圏インターネットで何かを発信する気にはなれなかった、というのが本音です。

 ざっくり本書を貫いている、アイデンティティ(民主主義)とシティズンシップ(自由主義)という対立項が、シュミットに倣って克服不可能とするならば、「市民」概念の空虚さを受け容れた上で、恥に満ちた実存の表現を良き分断にのみ奉仕させ、顔の無い社会のゴミとして非決定性の煉獄を享楽していく以外に、取りうる立場が見出せない現状になります。

 

〈自閉症学〉のすすめ:オーティズム・スタディーズの時代

〈自閉症学〉のすすめ:オーティズム・スタディーズの時代

 

 神経症的な過剰接続にも、分裂症的な思考の混乱にも疲れた後は、あえて言えば自閉症的な主体として生きざるを得ませんが、厳密な当事者性は無く、発達障害概念に回収されるのも癪で、DSMや投薬精神医療自体に疑念が強い立場としては、そろそろ中井久夫とかをちゃんと読もうと思いました。

 

終りの日々

終りの日々

 

 現代日本に対する愚痴とフランスへの憧憬が、同語反復的に延々と繰り返される晩年の日記で、ファンとしては「おいたわしや」の一語ながら、せめて真面目な信仰のある国に生まれたかったのは事実ですから、苦笑すらできない嫌な切迫感を覚えました。

*1:徹底抗戦!文士の森

*2:文藝 2007年 11月号 [雑誌]

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*3:https://web.archive.org/web/20100804023555/d.hatena.ne.jp/ill_critiqueなど

すみません、久々に読んだら単に反アニさん時代の文章が嫌いなだけでした。今更何、感じ悪、という話ですが、氏が代表していたような、オタクの悪ふざけと下ネタを軽薄かつ権威主義的な人文ノリで垂れ流す「ゼロ年代批評」的なアニメブログに対する嘔吐感こそ、今の我々が率先して抑圧している記憶かと思います。界隈とは距離があったとはいえ、私も当事者の一人ですから、ここらの最悪なネット言説潮流をもぼんやり批判・相対化してくれただけでも「日本は多少マシになった」と、ポリティカル・コレクトネス概念の輸入も根本では感謝しています。当時の書き手が表舞台に移行して、こうした歴史が忘れ去られるような昨今、かの時代の気色悪さが青春のトラウマになっている自分としては、遅ればせながら自らの身を持って、当時アニメを見過ぎていた人間精神の錯乱を消化しておかなければ、批評という概念もアニメ研究という領域すらも、信ずるに値する世界とは思えないわけです。

*4:宮本大人+ヤマダトモコ対談 マンガ批評とマンガ研究の結節点(前編) ――伝説の「漫画史研究会」とは何だったのか | マンガ・アニメ3.0」参照

7月雑記

ライト・ノベル

ライト・ノベル

 

 久々にラノベでも読もうかと手に取りましたが、本田透氏で言う「ライトヘビーノベル」みたいな錯綜したオタ概念でした*1

 グノーシス主義とかを思い出す垂直的に階層化された宇宙論的世界観の下、危うく迸りかねないスピリチュアリティを淡白な文体で抑制したような情趣がアツく、息子にセックスを迫る母親がイデア世界の数学的概念でオナニーしていた過去を語り始めるあたりからやばいことになりそうと期待しましたが、後半で恐ろしく自己治療的なピュアネスに着地した印象があり、佐藤友哉氏の新作なども読むのが怖く、過ぎ去った季節を愛おしむことにすら飽きているのが自覚されました。

 

  「元長柾木氏のセカ 系論が載っている」と聞き、再び古傷が疼いて読んでしまいました。最近のお仕事は追っておらず、もとより「イチャラブが本業」的なことを仰っている方でもあり、特に変な思い入れはないのですが、こういう文章を2019年に読むのはつらいです。

 特集的に仕方ないのでしょうが、他の文章でもちょくちょく「セ イ系」「ゼ 年代」「 熟」あまつさえ「決 主義」などの概念が使用され、単純に風通しが悪すぎて息が詰まりそうになり、関係ないですが「テン年代」という言葉を使った人たちは来たる20年代のこともトゥエンティー年代と言い続けてほしいです。

 この中で見れば、元長氏は直截的な記述でまだしも脱構築的なアプローチを取っているがゆえに、なおさらこの文脈に接続された「Vtuber=バ美肉における、成熟=啓蒙を不要にしながら他者尊重を可能にする相互美少女性の原理」という論点は、なんとも安穏な現状追認と隔靴掻痒の感があり、それは前提としたうえで「手軽に美少女の皮を纏えるテクノロジー的な条件に対して常に距離を保ち、各人の個体化の契機となるような思考の場を確保すべき」という立場に至らざるを得ません。

 

アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-

アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-

 

 上記のような東-大塚-斎藤ラインの「 ロ年 」的 タク論を、包括的に受け止めた上でハードコアな理論的作業を突き進めているラマールも読み、何だかあまりに執拗で、この文脈はもう本書で終わりにしてよいのではと、暗澹たる気分と一緒に憑き物が落ちる快楽も覚える良い本でした。

 私が「オタク」という概念を実体的に使用する文章を嫌悪するのは、消費文化を享受する主体の成立には教育・貧困・文化資本・共同性・情報環境・セクシュアリティといった諸問題が密接に絡んでおり、その理論的・経験的な複雑性を曖昧な大衆概念の下に抑圧し、当事者の思考と言説すらも平板化させる傾向が著しいためです。

 SNSの狂騒に回収されない反時代的な思考以外には興味が無いので、小言だけ吐いてこうした言説圏とは再度距離を置き、キモくてウザい単なる中年男性として普通に野垂れ死ぬ予定です。

 

外の思考―ブランショ・バタイユ・クロソウスキー (1978年) (エピステーメー叢書)

外の思考―ブランショ・バタイユ・クロソウスキー (1978年) (エピステーメー叢書)

 

  いい加減にジャンル内部における歴史的構築物としてのオタク文芸コンテンツ幻想やノベルゲームの形式性ではなく、個人の身体と認識とにもとづいたエロゲ話を読みたいので、当ブログの書いていることをあらためて要約しますと、長年にわたって自らの欲望と超越性を無意識に支えてきた「本田透的な二次元美少女プラトニズム」が、バーチャルセックスによって内在的で唯物論的な性の問題へと変質してしまった体験を、ひとまずバタイユやサドを主軸にフレンチセオリーを読むことで*2言説化している次第です。

  たぶん、われわれの文化におけるセクシュアリテの重要性、サド以来それがあんなにもたびたびわれわれの言語の最も深い決断の数々に結びつけられてきたことは、まさしく、それを神の死に結びつけるあのつなぎ目にかかっているのである。この死とは、神の歴史的支配の終末としても、神の非存在のついに発された確認としても理解されるべきものではなくて、われわれの体験の今や恒常的なものとなった空間として理解されるべきものなのだ。(p.73 「侵犯行為への序文」)

 

服従

服従

 

  『素粒子』と『ある島の可能性』だけ読み、異性への信仰に欠ける卑俗で唯物論的なセクシュアリティに全然関心できなかった人なのですが、今振り返れば、「中年以降の絶望的なセックスの荒野」に対する否認が働いていたと思います。

 ユイスマンスの「デカダンから信仰への回帰」は好きなモチーフである一方、本作も西洋文明のイスラム回帰が一夫多妻万歳みたいな感じに収束し、ええんかそれで、というがっくり感にこそ意図を汲めはするものの、「身も蓋もない性的感性の突きつけ方」には、理解可能なゆえの距離感を確認しました。

 万一自分が人間と関係を持つ羽目に至った場合、自分が消費文化の中で生きてきたフーリエ-クロソウスキー的なリアリティを敷衍すべく、ポリアモリーを選択したい心境にあります。人間の重苦しさとキャラクターの軽薄さを釣り合わせることにのみ、倫理を見出したいところです。

 

最後の祝宴

最後の祝宴

 

 江藤淳との論争文が踊るようで頼もしいのと、個人的に好きな『霊魂』が作者の楽しく書けた一作とされており、高踏的なスタイルから遊戯的に分泌された観念のエロスに、異様にしっくりくる手触りを感じます。

…霊魂という言葉から作者が想像するところによれば、それは死後に身体を離れてどこかへ行ってしまう半ば物質でもあるような何かである。KのところにやってきたMの霊魂はまず猫のように膝にあがるが、「それは半透明の塊で、さだまった形はないようで、二、三歳の子どもほどの大きさ」で、「重さはあるともないともわからな」い。「撫でてみると、やわらかなままに玉のようになめらかで人肌のあたたかさ」である。霊魂があるとすればそういうものでなければならないというのが作者の勝手な仮説で、あとはこの霊魂の属性を分析して、その行動やKと結ぶ関係がいかなるものになるかを想像すると言うより推論することによってこの小説ができあがった。この論理的想像が作者には一番楽で楽しい方法である。想像力がそれだけ非力だということであろう。…(p.137 「作品ノート7 霊魂」)

 

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 キャラクター抱き枕と寝るのに疲れてきたので、最近はダイソーのくまのぬいぐるみを抱いています。

 

政治的省察 ―政治の根底にあるもの―

政治的省察 ―政治の根底にあるもの―

 

 ここまで「政治の季節に対する距離感」自体に反省的にならざるを得ない状況に立ち至るとは思わず、かたや「ベタな政治的表象ではなく、日常の隅々にこそ政治性は浸透している」という議論から果てなく広がる「政治の砂漠」に対しても、どこで見切りをつけたものかと手に取りました。

 後半、主にアレントフーコーに依拠した思索が刺激的で、『肉の告白』読みたいなと思いました。

アレントキリスト教神学者による「意志」の思考を、ポリス的「自由」とむしろ対立させて、そこに政治から引きこもる内面的自由を見たが、その内面的自由は、「主権」として拡大されて、もう一度政治的次元において大きな意味をもつようになったと考えた。そのような「主権」の政治こそは、ポリス的な政治と公共性と自由に対する危険な脅威となる、というふうにかなり飛躍的な発想を展開してもいる。

  「自己への配慮」としての意志の葛藤を、「政治的公共性」とどのように共存させ、強制させていくかが、アレントの思想の最後の難題であったかもしれない。(p.246)

「…自己に戻る、自己を解放する、自分自身であること、本物であること等々の表現のことですが、今日用いられるこういった表現のうちに見つかる意味や思考の欠如に目を向けるならば、いま自己の倫理学を再構成するためにわざわざ払う努力を誇りに思う余地などないと思います。…ところが自己の倫理学を構成するということは、おそらく緊急な、根本的な、政治的に不可欠な課題なのです。自己の自己に対する関係においてのみ、政治的権力に対する最初のそして最終的な抵抗の点があるということが結局真実であるならば」(Michel Foucault, Herméneutique du sujet, p.241)

「私たちは自分が時代の外にいると感じてはいない。反対に、私たちはこの時代と恥ずべき妥協をし続けているのだ。この恥辱の感情は哲学の最も強力な動機のひとつである」(ドゥルーズガタリ『哲学とは何か』)

 

執念深い貧乏性

執念深い貧乏性

 

 全部振り切ってアナーキズムに生きたい気分はたまに湧き、HAPAX誌とか外山恒一氏とかも興味深く思うのですが、まだしも政治の砂漠よりは性の荒野に生きていたい季節になります。

 

僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って (DOBOOKS)

僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って (DOBOOKS)

 

 VRエロゲもアイマスもドールも抱き枕も全部処分し、小屋暮らしか車上生活を送りたい衝動が不定期に湧くので、本で済ませています。

 他者の抱えた死の観念に触れると異様に元気が出る人間で、読後なぜか久々にアニメを再生することができました。

 自分にとって、「アニメを観ること」と「非人称的な死の観念」とは密接に結びついており、映像文化の絶対的な情報量が観る側・作る側を問わず人間を圧死させうる、という時代的な生の条件に、責任を取る主体や法が存在しない不条理に対する恐怖が身に染み付いています。

 

 不謹慎な連想を誘うようですが、かのスタジオの作品を一貫して拒絶し続けてきた立場としては、「悲しめないこと自体の悲しさ」すら自己欺瞞と判断され、単に意味付けの及ばぬ、呑み込めない異物としての現実が増えたことだけを受け止めました。

 一点、容疑者の動機と思しい「作品をパクられた」との言明に関して、通底するかもしれない当事者感覚を述べますと、2011年頃はラノベワナビだったのでKAエスマ文庫の『中二恋』原作を読んで『R-15』並に文章がすごいなと当時衝撃を受け、この業界で書く側に回るのはどうなのかなと、その時点でコンテンツビジネス周りやオタ活字作品の創造性にまつわるニヒリズムは、確実に醸成されていました。

 それでもサブカルチャーの洪水の中で生きざるを得なかった青春を顧みれば、その絶望は外部の知に自らをひらく以外に解決しようもなかったと判断されるがゆえ、オタから遠く離れてなお、オタという概念に最低限の政治性を賭け続けざるを得ない現状になります。

*1:

ファントム

ファントム

 

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*2:
エリック・マルティ『サドと二十世紀』

上山和樹『「ひきこもり」だった僕から』 オタクとひきこもりのバランスについて

Gガンダム」と「ターンA」が嫌いなんだ。自分は大好きですけどね。本人が、描いてる絵は80年代のアニメ調そのまんまですね。永野先生の影響が大きいことがよく分かります。……年齢も趣味も自分とかなり近くて、根っこの部分は、ほぼ同じだと思います。なので、もし、自分に何の才能も無かったら、こうなっていたんじゃないかという恐怖感と、こうならなくて良かったという優越感を同時に感じてます。

 事件の情報がまとまらないうちに何か書くのも軽薄なので、軽薄なりに徹底して下らない細部から言及しますと、こうした事件を観測した際、昔の自分なら引用先への同意に乗じて「『∀ガンダム』が観れないオタはなにをやってもだめ」という軽口を即座に叩いたと思うのですが、一方でそういう反応は、オタとして自らを社会化できた人間の特権的で高踏的な身振りであることも、今さらながらに自覚されています。*1

 高校時点で深夜アニメとネット言説にどっぷり浸かって友人が一人もできず、大学をやめてまでひたすらにアニメを観続けてきた過去は、今振り返るとその熱意がどう成立していたのか不可解で恐ろしく、そのあと運良くオタ文化に理解が深い編集者に拾われていなければ、実家にこもり続けた果てに不仲な義父との刃傷沙汰にまで発展していた可能性がある人間としては、環境も世代も違うとはいえ、「老いた孤独な欲望をいかに再社会化していくか」という人生の課題を再考させられました。

 

動的な当事者言説

「ひきこもり」だった僕から

「ひきこもり」だった僕から

 

 端的に言うと、オタクとひきこもりの違いは、「本人が安息感を得られるような快感の回路を、会得しているかどうか」だと思います。

 つまり、オタクというのは、「閉じこもっていても苦しくない人」だと思います。……逆に言うと、一見いろいろの趣味を持っていて、「オタク」であるように見えても、自分の状況を「苦しい」と感じているなら、それは「ひきこもり」ということではないでしょうか。

 ……オタクが「快感」を原点にしているとすれば、ひきこもりの原点は、「苦痛」、さらに言えば「怒り」だと思います。「怒り」が、ひきこもりの精神生活において根本的な中心軸になっている。

……〈現在〉において、「怒り」と「恐怖」が表裏一体となって身動きできないまま硬直している……それが、「ひきこもり」だと思います。オタクのように、快感の回路によってその怒りのエネルギーを首尾よく解消する、ということが、できずにいる。その回路がないから、ほかの人につながっていく回路もできない。(p138-139)

 

 最近読んだのですが、著者の上山和樹氏はご自身の「ひきこもり的」な経歴を赤裸に語った本書の執筆以降、ひきこもり当事者の社会復帰支援活動に長年携わられている方で、ざっくり「オタク趣味に代表される現代の消費文化の中で欲望を保ち続けることができなかった」という体験にもとづき、欲望を持てる「動物的なオタク」と、欲望を持てない「人間的なひきこもり」とを、明確に区別した思考の跡を残されているのが印象的でした*2

 この対立項は、斎藤環氏が提案した「ひきこもりはオタクになれ」という理論的な処方箋を、社会復帰事業の現場感覚から批判する*3際の足場ともなり、「理論と現場の齟齬」の内在的克服を目指す氏の粘り強い思索の一原点をなしたように推測されます。

  「動詞形の当事者性」*4という氏の技法論は安易な理解を許しませんが、最近欲望が停滞してきた「半オタク-半ひきこもり的」な主体としては、自分の生の様式を記述するためのヒントをもらえた気がします。

 具体的な実践上の指摘としては、例えば以下の部分など。

知識人の領域では、サブカル・オタク系とハイカルチャー系が対比されるが、これは偽の対立だ。 なぜなら、どちらもベタな居直りにすぎないから。……

ハイカルチャーであれオタク/サブカルであれ、それ自体としては居直りにすぎない。 そもそも人は、自覚的な分類とは別に、すでに一種の宗教的耽溺を生きている(参照)。 そこで必要なのは、自分の生きるポジション取りに「形式的服従」を維持し、風通しを作ること。 つまり、無意識的惑溺に批評的距離があるかどうかが真の対立であって、ハイカルチャーであれば(あるいはオタク的であれば)許される、という話ではない*14

本当に重要な境界線は、「ハイカルチャー/ローカルチャー」ではなく、《表/裏》にある*9。 これをシャッフルする取り組みがなければ、社会復帰事業は、抑圧的な関係作法の強化に等しい。(表舞台にあがることは、水面下を隠蔽することで成り立つし、それでよいとされている。)

 

 以上のモチーフを借用して、氏とは反対に引きこもりではなくオタクという概念に当事者性を賭けて自分が生きてきた、「オタクとしての内在性と引きこもり的な再帰性*5の均衡」を、簡単にまとめておきます。

 

動物化」論のトラウマ性

 実家にろくな本がなく、すげえぼんやりしたまま文学部に推薦で入り、勉強できずアニメに浸かっていた19歳当時、『動物化するポストモダン』で初めて東氏の文章に触れたのがオタク論の原体験で、上山氏とは逆に人間ではなく動物に割り振られた立場でしたから、自分の内在的な生のリアリティを土足で踏みにじられたような屈辱感と劣等感を、今でも記憶しています。

 どれだけ動物的に見えようと、人間性との葛藤が皆無なわけがない。この「動物化」論に近代的自我の執拗さを対置し*6、近年は地道な実証研究に移行された大塚英志氏にこそ、信頼を寄せざるをえない所以でもあります。

 後年、『美少女ゲームの臨界点』や関連言説を参照したことで、オタとしての氏の実存やセクシュアリティは腑に落ちましたが*7、そうした文脈とは無関係な「字面の扇情性と言説環境における影響力と主体の読みの時空」という極めて素朴な次元においてこそ、言葉は理屈で処理できずに長く尾を引くトラウマ的な概念になるという感覚は、今になってこそ明確に振り返られます。

 物心も定かでない当時の2010年頃、AZM48などの狂騒*8も目に入ったせいで、「内在的な語りをしないうえに冗談のセンスが最悪なオタク系知識人は人間として信用ならない」という深刻な苦手意識を植え付けられ、自らの欲望の過剰性(を指していると思われたオタクという概念)が弄ばれていることに対する怒りと恐怖と苦痛は、同時代の知的言説全般への信頼を失わせ、かえって文化的耽溺を学知と切り離した趣味として閉塞させるに十分でした。

 今なら笑い飛ばせますが、「オタク論という外傷のせいで当事者性に引きこもった主体になる」体験は、世代的・文化資本的な断絶の一事例として強調させてください。

 

 信仰感情の相対化

 なぜそこまで深刻に「オタク」という言葉自体への毀損に敏感だったかといえば、アニメを観すぎて逆に趣味の友人が出来ず、情報環境におけるオタという概念の操作によってしか自己と社会を架橋できなかったアイデンティティの危うさゆえで、斎藤環氏のひきこもり論風に言った、「臨床概念と主体を明確に取り結ぶ身体的外傷が無いことの外傷性」を持て余していた気がします。

 この曖昧なトラウマを解きほぐすべく他のオタク論を漁った中では、岸田秀由来の唯幻論をバックボーンに学知とセクシュアリティを直結させた本田透氏の極端に当事者的なキャラクター・イデアリズムに最も共感できたのですが、氏の観念論は女性嫌悪や震災・宮崎体験*9にトラウマ的動機を持ち、恋愛の蹉跌と直截な社会的迫害の体験がほぼ皆無、性的対象までシミュラークルの先行を地で行く自分とは、最終的に超越が異なると判断されました。

 オタク的主体と宗教性の結合*10といえば、ロリコンブームの当事者を経て仏門に入った蛭児神建*11ですが、氏もまた極めてシリアスな性的トラウマを抱えた方で、結局は自分の存在の核を重ねうる個人がオタク文化の内部に見出せず、こうした共感と分断の分水嶺には、性愛と信の構造という焦点があることに徐々に気付いて、近現代の西哲に対する反感もあってか、自らの文化的耽溺を信仰のアナロジーからベタに捉え直すべく、カトリシズムの勉強とラノベワナビによる反時代的思考を自己治療となしていました。

 転機になったのは、書いたラノベを人に見せたら「笙野頼子的な何か」と評されたのをきっかけに、笙野氏を手に取ってみたところ、引きこもり的体験*12、人形愛*13、自己内他者に対する信仰と交感*14、批評言語(理論)と文学言語(現場)の闘争*15、オタク的セクシュアリティと権力構造のグロテスクな結託*16など、矛盾と軋轢に彩られた複雑怪奇な現実が丸ごと描出された文学世界に、自分の表現したかった全てを見出したという体験です。

 自分がぼんやりと「オタク」という概念に託してきた実存の総合性が文学に解消されたことで、オタク文化へのフェティシズムも決定的に相対化され、自らの当事者性を再帰的に吟味する作業へと生活の比重が傾いていったのですが、オタク文化の内部で長年培われたセクシュアリティだけは、フェミニズム男性学などを軽く齧っても、変わる気配がありませんでした。

 

セクシュアリティの素材化

 ざっくり以上のような経緯から、オタクという概念や文化的カテゴリーへの静的・理念的な信仰を断念し、消費文化の猥雑な快楽に対する主に性的な固着を頼りに、錯乱的な欲望を多義的な解釈(引きこもり的な再帰性)の素材となすことで、観念生活の濃密さを確保しています。

 自分の「オタク的」な内在性の根源がセックスであったことを確認したうえで、上山氏の視点に立ち返りますと、斎藤環氏の基本図式である「セクシュアリティの特異性によるオタク/ひきこもり的主体の社会化」*17に「ナルシスティックな欲動の停滞」*18を透かし見、お互いの生成過程を分析的に語りうる他者と出会えない状況に表明された違和感*19は、自分がオタク的な共同性の内部に抱えた矛盾と同時に、オタク論的なセクシュアリティ言説の限界をも、あらためて明瞭にしてくれるところがありました。

 

表象〈07〉

表象〈07〉

 

ラマール:アニメには明らかに「少女文化」という問題圏がつねにあるし、それはいまでも存続しつづけています。……斎藤環の場合に問題なのは、無意識の作用のほとんどを、ある一定のキャラクターに割り当ててしまう傾向があることです。彼の議論では、少女ないし女性が常に欠如の位置を占め、否定性と結びつけられている。……実際、なぜ彼はあのようなかたちでアニメについて語るのか、私には分からない。彼がまったく間違っているというわけではないでしょうが、問題は、アニメは常に欠如を埋め合わすべく存在しているという印象を与えてしまうことです。何か問題を抱えていて、それに対する治療を待っているという……

(「対談 『アニメマシーン』から考える トマス・ラマール+石岡良治+門林岳史」p34-35)

 

 斎藤氏本人からして「『戦闘美少女の精神分析』当時とは時代が違うのでもう何も言えない」みたいな発言を漏らしていましたが*20、これは従来の「オタク論的な否定性」が曖昧な文化共同体に対する当事者性を欠いた社会学的分析を超え出ないことの明証と思われ、オタク論の範疇でセクシュアリティを云々されたことと、その影響を脱しきれない自分への苛立ちを感じています。

 であれば、知識人が放棄した「オタク」という大衆概念から便宜的用法を切断し、「学知とセクシュアリティを統合する内在的な言説」を実存から立ち上げることが、「ハイカルチャー(理論)とサブカルチャー(現場)の齟齬や対立感覚」を在野から解きほぐすために、 言論活動や社会運動にコミットする覚悟は無いなり、自分ができるせめてもの作業と考えています。

 

おわりに

 川崎の事件は安易に持ち出せませんが、オタク/ひきこもりを問わず難儀な「老いた孤独な欲望」と、それにまつわる問題意識を人と交換できない環境に追い詰められると、人目にまったく意味の分からない憎悪を世界に対して抱きかねない、という危機は他人事ではなく、ひとまず長年わだかまって抑圧しきれない、過去のオタク論に対する両義的な感情だけは、生きるために表明させていただきました。

 先日、視聴者の方から読書会にお誘いいただきました。情報環境の中で居心地悪く生きてきた過去を清算できるよう、今は対面で他者と関わる最低限の機会の確保に努めています。

 

*1:10代の終わりにはてなダイアリーで∀を褒めるオタ自意識文章を書いたらインターネットのおじさん連中に歓待を受けた、という経験があり、自分が世界から受け入れられた感覚を最初に抱けた体験だったと思います

*2:世代的なメディア体験があったうえで(「資質の経歴 - Freezing Point」など)、東浩紀氏による「人間的-動物的」という対立項に示唆を受け(「考え中 - Freezing Point」など)、ひきこもり的感性とオタク的感性を弁別されていったようです

*3:「目覚めと眠りのあいだの敷居」 - Freezing Point」など

*4:「で、その言説におけるあなたの当事者性は?」 - Freezing Point」など

*5:再帰性 reflexivity(英) (ギデンズ、社会学) - Freezing Point

*6:リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)」など

*7:うる星オタ・エロゲオタとしての東氏は好きですし、「決断主義トークラジオAlive2」でラブワゴンを論駁した様は痛快でしたし、『オタクの時代は終わった』でベタにオタクを続けられなかったことの忸怩と哀惜を漏らした様にはしんみりきましたし、『ゲンロン6』の宣伝動画(24:20あたり)でシャツがめくれてお腹が見えちゃった東氏にうっかり同性愛的欲情を覚えたのも事実なのですが、本出しすぎ・イベントやりすぎなうえに思考が状況的すぎて付き合いきれず、セクシュアリティと超越性における個体化を決別の焦点としたいわけです

*8:定期的に話題になるし、もう言及すらしたくないのですが、翻って自分もオタという共同体意識が希薄化・曖昧化する中で、よくないと思う同族を批判する立場を担えず引きこもり、結局は狭い人間関係を生き直すためにVtuberというトレンドへ極めて歪な再コミットをしたボンクラにすぎませんから、せめて萌え表現と政治的抑圧の関連性を否認しすぎず、オタと否定性を真摯に結びつける言説は観測したいと思っています

*9:脳内恋愛のすすめ」など

*10:スピリチュアルも一時期はまったので、岬ちゃんを召喚する瞑想音声から復帰した滝本竜彦氏の新作を読むのが怖いです。あと『NHKにようこそ!』ED楽曲インスト版を動画のBGMにしている青髪ピピピ氏を好きになってしまって困っています

*11:出家日記―ある「おたく」の生涯

*12:極楽 大祭 皇帝 笙野頼子初期作品集 (講談社文芸文庫)」所収『皇帝』

*13:硝子生命論

*14:萌神分魂譜

*15:徹底抗戦!文士の森」など

*16:だいにっほん、おんたこめいわく史」など

*17「症状化」とアリバイ競争 - Freezing Point

*18:動機づけの成功と制度 - Freezing Point

*19:自分の現実をやり直すために――立木康介の症候論 - Freezing Point」など

*20:オタクの時代は終わった

来歴

 始めて1年経ちますが、多分このブログとYouTube、現状誰が何をやっているのか全然分からないと思うので、胡乱なインターネット人間であり続けるほうが潔いのは重々、立場を明確にするべく、形而下の来歴も雑に歴史化しておきます。

 自分は深夜アニメの本数が増えすぎた06〜09年頃にオタ思春期を過ごし、紙媒体の言説にほぼ触れないまま2chワーストアニメスレ、二次元裏@ふたば、はてなブログ、自動アンケートあたりのいやなネット言説群を産湯と浸かったせいで、物知りなのにやたら放送している変なアニメをちゃんと語ってくれない上の世代に業を煮やし、友人も勉学もだめだった大学をやめて「クソアニメをひたすら愛するブログ」というひどい感想ブログを2010年頃から書き始めたところ、それを発見したライターの前田久氏の通報で、『カオスアニメ大全』というコンセプトが似た本の著者である久保内信行氏の世話になり、ぼんやりコンプライアンス的にブログとSNSはやめて、ライターとして食わせてもらうことになりました。

 氏はテキストサイトやモーオタあたりの文化圏を通過しつつ、昔の津田大介氏とかと行儀が悪いIT系ムックを書いていた世代のなんでも屋的な書き手兼商売人で、学問的なバックグラウンドはコツコツ実証系の大衆文化研究寄り、本を読まない若者にひとまず呉智英氏や山形浩生氏を勧めて東浩紀氏はメチャ嫌いという快活な面白主義的教養に基づき、鍵ゲーセンスや「ゼロ年代」的「セカイ系」評論*1を嘲弄してオタという自己規定とは距離を取りながら『ラブプラス』入れたNDS片手に凛子cv丹下桜と遊園地デート企画などしている背中を見てケッッッッッと思いながら育った記憶があります。

 当時、氏の編集プロダクションにはゼロアカ文学フリマでやってる方とか後年弾ける福嶋麻衣子氏とかエロ漫画誌で連載コラムを書いてた有村悠*2とか色んな出版周りの方が出入りしており、貴重な場でしたが特に何もせず、なんか人と喋れないので座敷童子的に黙って居座り、細かい仕事もらって勉強しながら、引き続きアニメ観てラノベ書いたりしていました。

 おもにオトナアニメで世話になっていたのですが、クリエイターや声優さんの存在は憧憬に留めたいので取材仕事を全回避し、文字起こしや書き仕事に集中し続けたせいか、経験論的にしょぼい主体のまま浮世の塵に心がささくれ、次第にアニメよりは読書のほうが楽しくなり、業界言説ともネット言説とも隔絶してキャラクターに対する信仰感情だけを煮詰めていった結果、流行らないタイプのボンクラになりすぎて現世との紐帯が失われ、自我にも飽きたし最低限の友達は確保するべく、ブログの再開に至りました。

 

 文筆業者の文化資本にアクセスして活字世界の超自我を大学の外で内面化できた幸運に乗っかったまま、ばりばりと仕事を頑張れたならよかったものの、時代の速度と主体の牛歩が噛み合わず、いつの間にか「出版よかネットで個人メディアやったほうが最低限食えるのでは」という大勢ですが、その出版がやばくなった時代を形成している感性的要因の一つには、明らかに自分もその真っ只中を生きている、質的量的な映像文化の発狂があります。

 ざっくり映像と言ったうちでも、最もダサくて救いようのない領域をたらふく享受してきた以上、食い扶持は他で確保し、無限の射精可能性たるキャラクター文化に支配された原罪意識と鬱を固守して、キモいコンテンツを作り続けたい気持ちに至ります。

 ネットの速度にもアカデミアの厳格にも身を律せず、かたやオタ現場へのコミットにも倦んだ、という不遜には我ながらうんざりし、行き場のない繰り言も当記事で清算したく思われ、一切の有用性を拒絶してゴミのまま生き続けることを誇るのであれば、ひとまずはバタイユ主義でも標榜すれば十分やもと、見切り発車で今現在の書き物を溜めています。

 

 大衆文化に対してクソだのポルノだのと下品な言葉を使うのはいやですが、現に自らを支えている性と汚穢を凝視せざるを得ないのであれば相応に認識を煮詰めたく思い、真面目な映像分析やアカデミックな言説は、読者として楽しみたい立場になります。

 ラカンいわく言語はモノを殺害する、というのは本当にそうで(雑!!!!!!!!)、本のせいにしても仕方ありませんが、アニメを観ても昔の過剰性が戻ってこないのが悲しく、常に既に概念的把握をやすやすと飛び越える猥雑なオタ知覚世界に魅了されながらも、快楽に追いつかない言葉をしか紡げなかった思春期に落とし前がつくまでは、たまに駄文も書いておきます。

 上の世代の文化資本にアクセスできていなかったら自分は間違いなく人間ではいられなかったし、実際今も「顔を持った固有の人間」「理性的で統合的な主体」という幻想を無理くり演じているだけで、感性よりは鈍重と怠惰がSNSを困難にしている次第ですから、文化的貧困からの刷り込みを信念に置き換え、オタという生の不可解さを、人間にもキャラクターにもなりきれない何か、はどう引き受けているのか。大体そういう関心で観測していただけますと幸いです。

*1:大塚英志氏-ササキバラ・ゴウ氏-更科修一郎氏による「オタク系知識人の内省的なセクシュアリティ批判」文脈が妖怪ラブワゴンに至って形骸化し、本田透氏はもっぱら非モテ文脈へと回収され、例の「政治的転回」に始まって「オタクの時代は終わった」と切断処理も完了しきった2010年代半ば頃、この手のオタク論的言説群を歴史資料としてざっくり洗った立場としては、各世代の時代的熱狂とアトム化した個人の感性的孤独と曖昧模糊なセクシュアリティの絡むポップカルチャー体感をオタク論という必然的に大衆分析へ堕するアプローチで整理すること自体に個体の実存を殺す構造があり、理論派と現場派の断絶に無念は感じながらも自分にできることはないと判断され、せめて個人的に呪いとして記憶し続けたいと、歴史と出来事の葛藤をめぐってシャルル・ペギーも切実に読んでいました。ただ「ゼロ年代」「セカイ系」「日常系」といった言葉自体はとてもいやなので、括弧に入れて表記しています。今さら誰に恨み言を述べる気もなく、かえって一人で無様に(わかりやすく類比的に言えば)「ゼロ年代」的な憂鬱を温存しつつ、いかな文脈にも自己認識を託しきらないクソな実存の総合性(バタイユ)を生き続ける勇気はもらえました 


シャルル・ペギー『クリオ: 歴史と異教的魂の対話』

*2:当初あまりの非社会性から久保内氏に「第二の有村悠」とビビられた立場なのですが、普通に有村氏に失礼で、当時は夏葉薫氏などとあわせてボンクラ実存的に輝かしく見え、初めて何かの飲み会についていって硬直していた折、有村氏に鍋料理を取り分けてもらった恩は今でも忘れていないのですが、この手のはてな村的クネクネ文脈にギリギリのタイミングで影響受けたのは良かったのか悪かったのか、ともあれ時代は過ぎ去って一人でキチガイをやるしかない季節です

平成30年度アニメ感想

 ぐずぐず観てたら年号が変わっていたので、なんぞ上手いこと言えなければアニメの文章書いても詮無い、という退屈な理性を殺すべく、乱暴にまとめておきます。

 

 時代の狂騒の申し子たる美少女ソシャゲ原作の上に衒いなさすぎるパロディを全面的に展開し、崩壊と倦怠とナンセンスの毒沼をもって平成オタ文化の思い出に唾を吐く本編が終わった直後、本編とは似ても似つかぬ白濁液ハイライト特盛りのpixivハイランカー的肉質が踊り狂うエンディングが流れ、その落差に眩暈と恍惚を覚えてしまう作品でした。

 崩壊と精液という時代精神の両極を、これ以上なく露悪的に表象しています。

 汚辱に塗れた娼婦との閨でのみ掴み取られる何かがある。別にないかもしれない。

 最悪のジャンクにしか魂を賭けられない根無し草が、一切の救いを拒絶しながら胸を張るためには、ジョルジュ・バタイユを信じるほかなかった。そういうオタ体感を裏付けてくれる、平成の鬱の墓標です。

 糀谷智司プロデューサー率いるproject No.9は、『ロウきゅーぶ!』『モモキュンソード』『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』『天使の3P!』『夢王国と眠れる100人の王子』などすごいアニメばかり作っている会社で、『最近、妹のようすがちょっとおかしいんだが。』もここだったかよと思い出しますと、あれは青山裕企監督の映画版まで友達と観に行ったほどの大ファンであるとともに、VRエロゲを買って毎日3,4回ぐらいメイドさんに搾り取られて完全に鬱になった後年、インターネットのCharming Do!なラジカルフェミニストさんおすすめの精子を殺す薬物や貞操帯の購入を真剣に検討した時期があり、おれも叶うならばTST(貞操帯)を装着して小倉唯声の美少女幽霊にBINKAN♡あてんしょんされたかった、というか実際そんな感じの脳髄セックス現実に燃え尽きてしまった平成でした。

 

 旧弊な暗黒中世観のファンタジー世界を近代主義でノリノリに啓蒙する『まおゆう』に嫌悪感を覚えて以来、ネット小説の感性とは一定の距離を保っており、『Re:ゼロから始める異世界生活』のハイブリッドぶりや『オーバーロード』の難解さには敬意を表しつつも、終わりの見えない『SAO』にはさすがに付き合う根気が持たず、『ゴブリンスレイヤー』は倉田英之氏の技巧ばかりが鼻につき、混淆著しいとはいえラノベ新人賞生え抜きの作品のが好ましい傾向にあります。

 ネトウヨとオタを等号で結ぶ政治的言説に自意識を晒す気はないので、『GATE』や『魔法科高校の劣等生』は苦笑でしか受け取れず、振り返れば早見沙織氏のアウラの凋落もお兄様から始まった気がしている、という立場も一応表明しておきます。

 死ぬほどステロタイプな憎まれ役の女性キャラが主人公に仕掛けたレイプ冤罪で炎上した本作に関しても、海外で売りたいなら真剣に批判されるべき、という認識ですので、そういうセンシティブな引っ張り方の作劇にげっそりしつつも観てしまっている理由だけ述べると、瀬戸麻沙美声のケモミミ奴隷や日高里菜声の怪鳥とピカレスク状況下でいちゃつくシチュに勃起してしまうがためです。

 クラスメイトにガン無視されながら高森奈津美声の眼帯美少女と二人きりで辛気臭くイチャイチャしているので『Another』は理想の学園生活を描いたアニメ、という立場なので、そういう回路で喜んでいます。

  『ナイツ&マジック』『デスマーチからはじまる異世界狂想曲』『転生したらスライムだった件』あたりで派手派手に先鋭化してきた、転生主人公の一人称視点によるMMO調GUI演出も、本作は程よい按配に見易く収めてきた印象はあり、捻じ曲がった被害者意識を脱臭しきれない作劇の中でも、弓の勇者と剣の勇者がちょくちょく日和って主人公の肩を持つ瞬間はめちゃくちゃ笑えるので、頑張ってほしいです。

 

 KADOKAWAメディアミックスシステムという巨大な病巣に関しては、大塚英志氏を読んで戦時下の動員技術との連続性を認識し、不機嫌さを確保しておきたい気持ちが強い一方で*1ラノベ原作アニメの化学調味料バリ盛ったキャラクター快楽と馬鹿作劇への偏愛は骨絡みになって久しく、約5年ぶりに「まじ引くわー」しか喋らない月宮みどり氏に逢えて感涙したことを白状します。

  『To Heart 〜Remember my Memories〜』『らぶドル 〜Lovely Idol〜』『あかね色に染まる坂』『タユタマ -Kiss on my Deity-』『お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!』『CONCEPTION』で信頼著しい元永慶太郎監督はもちろん、岩崎良明作品の脚本でお馴染みな白根秀樹氏も確実に天才で、三石琴乃氏にアホすぎる前口上を喋らせて「終末×美少女」「エヴァっぽさ」を哄笑の世界へと開いてゆくスタイルには、一生付いていきたいです。

 こういうアニメの面白さを表現する際、通常の概念操作では「未知」の「ジャンク」で「笑いうる」ということしか記述できず、それ以外の何かとして称揚するのも不誠実である。そういう不可能性に付き合い続けたせいで、やはり笑いの至高性について思考したバタイユに惹かれざるを得なかった次第です。

 

 CG・コンポジットにも強いと思しき鈴木信吾監督がラノベ作家を脚本に起用し、異様にギトギトゴテゴテして脂っこすぎる撮影効果に乗せて、やけに登場人物と設定の入り組んだ異能バトルを好き放題に繰り広げる、Gohands流オリジナルアニメにまさか新作が来るとは思わず、こういう奔放な映像はどんどん増えてほしいです。

 前作にあたる『ハンドシェイカー』に引き続き、美男以外は流行を外したクセの強いキャラクターデザイン、長回しと背動の入り乱れる忙しすぎるアクションシーンを含め、強烈な奔放さに魅せられるばかり、最終回でラスボスが執事にお姫様だっこされて何となく丸く収まった風に締めたのも最高で、崔ふみひで氏-鈴木信吾氏のラインには『しゅごキャラ!』で思春期の性を支配された義理もあるなと振り返られました。

 

 ウェディングドレス全着ヒロインズの多幸感全開ビジュアルといえば『この中に1人、妹がいる!』ですし、女性声優の合唱曲を聴くと全細胞が悦びに打ち震える生物なので、「喜びも」(あっ)「悲しみも」(ああっ)「あなたさえ」(……)「五等分なんです」(射精)という流れで毎回ため息が漏れ、伊藤美来氏演じる中野三玖氏が完璧な生物すぎる救済です。

 「全員同じ顔立ち」という設定と「全員雑に乳がでかい」ビジュアルは嫌味だと思うのですが、欲望の対象を平板にただ分割すること、ヒロインの単なる複数性、という単一のエロゲでメイドさんを量産し抜き続けている自分にとり嫌すぎる本質を、手塚プロダクション元請の古風なコメディタッチでベタベタに突き付けてくる、この苦渋と優しさが相混じる養生食にはグニャグニャした気分になり、大嫌いと大好きの間で変わり続ける心に折り合いをつけるべく文章を書いています。

 

 統計学超自我に主体の価値を全委託する「いいね!」地獄を光と音の洪水でパチスロばりに演出する新シリーズは、絶対にバズらないVtuberを始めた人間として大変しんどく、ただそれは時代の狂気の最底辺で人類に対して中指を立てるためにやっていることですから、狂人が女児アニメに教育的配慮を問うなどという愚は、プリパラロスの鬱と一緒に笑い飛ばしました。

 雑駁な絵作りにチューニングする時間はかかったものの、30話あたりで情が湧き、とりわけドロドロに溶けたドロシー声のおしゃまトリックスがめちゃくちゃかわいいのですが、ミリシタの横山奈緒氏(渡部優衣)で妄想オナニーするたびに「おれはプリパラの影ばかり追っている」とへこむことしきり、どころか『プリティーリズム』から再登場のあいらさんとは7年来の付き合いかと絶望し、「服の声」「コーデの声」という面白ワードが極めて切実な神秘主義フレーズとして回帰してきたオタ余生に震撼しまくる視聴体験でした。

 プリパラ劇場版の記事は佐藤監督が(確か)反応してくれたのが嬉しかったです。

 

  文化ジャンキーが現場の重みを超越へと直結してしまうのはよくないので、ちゃんと凝視できずにながら見してしまった作品に関しては、「このアニメに敗北した」ということを明言します。私は閃乱カグラに敗北しました。

 もうひとつ敗北した話をすると、童顔巨乳表象に性を支配された人間としては、原作シリーズはコンシューマで売るのはそろそろ邪悪と思っており、マイルドポルノをハードコアにポルノとして消費すること、要は二次創作ではなくコンテンツ自体でオナニーすることにより、身をもって悪を悪として生き抜きたい気持ちがあります。

 なので海外勢による体型変更Modで乳や尻を膨らませたりテクスチャを差し替えたりするわけですが、VRエロに慣らされた身は絶頂に至らず敗北し、せめてゲームの肉質がアニメで融解する様を見届ける責任だけはあると頑張って観たのですが、あとマルドロールちゃんのぱっつん前髪はもともと八重樫南氏デザインのコラボキャラクターが付けていた前髪パーツなので、この精液は我が骨髄に染みています。

 

 敗北しました。金子志津枝氏は『彼女がフラグをおられたら』『恋は雨上がりのように』EDなどのガーリィな水彩調に悶え死ぬので、ここまでポルノに全振りしたラノベ原作のキャラデザをやられると落差の罪悪感で死にます。現今オタ文化との連続性を否認することで少女漫画的感性を特権化する心性があまりよくないのは分かっています。

 単品での射精可能性が高いデザインなのだから、こちらもアニメ自体で射精できればしたいのですが、淫肉を揺らして喘ぐ芹澤優氏の頑張りがかえってつらく、おれは『プリパラ』の影ばかり追っているとへこみます。

 

 伊藤美来黒沢ともよ吉田有里豊田萌絵田所あずさという全ボンクラを殺すハローハッピーワールドから、エヴァとシュタゲのカバーでおなじみ本格実力派バンドRoseliaまでが続々と新参戦、バンドシーンの小手先と女子高生の掛け合いという欲望の切っ先にブシロード資本が賭けられたフルCGアニメーションには「なるほど」感ばかり先行し、大槻監督の1期のが刺激的ですが、伊藤美来氏のアニソンカバー楽曲で脳を射精させ続けている人間には、耳馴染みが良いだけの退屈なガールズロックにケチをつける資格すらありません。

 ソシャゲ版では何かにつけてチョココロネのことしか喋らないりみりん氏の発狂が、ラキスタの神話を殺害してくれたのは嬉しかったです。

 

 敗北しました。ブシロードはバンドリの裏でこんなアニメを西村純二監督に作らせています。Pastel paletteが歌うOPは楽曲もデザインも今風で異様に楽しそうですが、本編は『planetarian』のようなプラネタリウムの廃墟で瞳の形状が独特な人魚たちが昔の映画を観続けるみたいな話で、ベンヤミン的憂愁を湛えた『ARIA』メソッドなアンビエント風趣はさておき、突然「イマジナリーラインというのは……」とアニメで映像文法の解説を始めたのでやめて!!!!!!!!って思いました。最終回はなんか人魚たちがアイドルになっていました。ベンヤミン的憂鬱を資本に回収しないでください。

 

 その『planetarian』ですが、若い頃は鍵ゲー感性を切断処理しながらオタをやっていました。『Rewrite』のアニメ版は死ぬほど笑えるエロゲ感性大爆発の原作を『グリザイア』スタッフが保守的ねっとりファンムービーにしやがって大変遺憾、という最悪の原作厨体験をしました。

 絶滅間近な人類の救済を、死んだ人形の面影に託すのはもう無理かもしれません。インターネットに広がるポストヒューマンたちの悦楽の宇宙と、主体の内にこびりついた人間性という幻想の残滓を、みんなどう統合しているのかなと思います。錯乱した精神の星座的布置を天上へ投影するのにも疲れており、自らの狭隘なフェティッシュという地獄に留まっていたいです。

 

 TECHNOBOYS PULCRAFT GREEN-FUNDの軽快なテクノポップをバックに難解な固有名詞が頻発するバトルラブコメが煮詰まりに煮詰まって、何がどうしてそうなったのか一切分からないままお洒落な音楽に合わせて美少女が服を脱ぎ続けていくというクラブでキメセク的なドラッグムービーになっていました。

 前回の劇場版も上映後わりとすぐにdアニメストアに降りてきた記憶があり、知り合いを呼んで上映会をしましたが、あまりのジャンクさに絶句して気まずくなった憶えがあります。昔電撃文庫のイベントか何かで、映画館の巨大スクリーンで『乃木坂春香の秘密』のダンスEDを鑑賞し、あまりのド迫力にチビりそうになった記憶もあります。

 

 敗北しました。デザイン的に『IS』みたいなラノベ原作ラブコメなのかと、同時期の『ガーリィエアフォース』と一瞬区別がつきませんでしたが、実際はエロスーツで殴り合うキャットファイト寄りのDMM原作エロをふんわりSF的フラット感で誤魔化した一作でした。この題材ならもっと泥臭く、『VENUS PROJECT -CLIMAX-』や『絶対衝激 〜PLATONIC HEART〜』は無理でも『世界でいちばん強くなりたい!』ぐらいは期待したかったのですが、緑髪ゴーグル萌え袖白衣の水橋かおり氏を目で追い続け、わりと満足しました。

 

 設定の近いシチュエーションコメディでは『カガクチョップ』のキュートスプラッタが怖い深化を続けているのもあり、伊藤美来氏のお歌はさておき、セクシュアルなネタを頑張っておっ被る芹澤優氏の熱量と鈍感男子のサイコパス感の不均衡は座りが悪く、ヤングアニマル系列原作のエッジ立ったコメディが小奇麗に処理される傾向には、『あそびあそばせ』なども併せて乗り切れない気分があります。

 

 陵辱エロゲ感漂う電気式華憐音楽集団のOP、チープとアングラが馴染みよく同居した青年漫画デザイン、山岸凉子的なバレエダンサーの愛憎劇、びっくり箱とどんでん返しがしっかり盛られた能力バトルと、中国アニメのほうが新鮮なバランスで楽しいという問題が最近あります。言いながら『霊剣山』の2期は普通に出来が良くなりすぎたり、『軒轅剣・蒼き曜』は水樹奈々釘宮理恵の主演が謎ノスタルジーを刺激して好きすぎるので、途中で止めたりしています。

 

 古川博之監督は『おくさまが生徒会長!』『魔装学園H×H』『はじめてのギャル』と大変なアニメばかり背負っています。突然妹が月光蝶を放出するEDが好きです。書いてる最中に『メルヘン・メドヘン』の修正版が来たことに気付いたのですが、直すなよと思いました。目の前に厳然と散らばっている瓦礫を凝視してそのまま肯定する以外にアニメを観る意味などあるのかと思うのですが、むしろアニメに意味を求めるほうが狂気と接していることにも気付いています。

 

 キッチュな美と欲望と哄笑がここまで洗練されると何も言うことがなく、 何度のうコメベビプリを再生すれば気が済むのか、本当は稲垣監督の作品だけで自分はほぼ完全に満足しており、他の作品は「だらしなく観てしまった」という事実をとにかく白状しなければ気が済まない、という罪悪感から無駄口を叩いているだけです。ちおちゃんがトイレの窓からケツを突き出すところが本当に好きです。

 

 元永慶太郎、柿原優子、GONZOの三位一体が奇跡を生んでおり、静寂をもって受け止めました。本当に楽しいアニメにはいかなる説明も概念も適用したくない、オタ特有の秘教化の傾向は自らも避けがたく、嫌味なキチガイにはならないよう、内的体験の権威を償う方法だけは探している最中です。

 

 プライムビデオのリンクはうまく表示されないので『ドメスティックな彼女』ですが、アニメでベタに昼ドラをやってるだけなのがめちゃくちゃ楽しく、義姉の女教師が主人公を押し倒して挑発したのち不倫相手の名前を呟きながらオナニーする様を見せびらかしたところで「この日笠陽子に食われたい!!!!!!」と興奮したのに、後半で実は主人公のほうが好きだったことが判明、近親セックスバレからの懲戒処分で失踪して悲恋と慕情の浪花節にヌルくまとめやがったので激怒しました。

 

 人に教えてもらいました。原作に対する愛の無さと投げやりな下品さが振り切れすぎていて驚愕しました。DLE元請のショートアニメは『這いよる! ニャルアニ』だけでいいかなと舐めていました。『おとなの防具屋さん』とか東山奈央氏のエロさで小気味良くまとめた良質小品を観ている場合ではなかったです。

 

  『瓶詰妖精』ファンなので観ましたが、敗北しました。瓶詰め水瀬いのりは意外と出番がなかったです。追崎史敏監督のピュアネスというよりはソシャゲ原作の制約が大変なのだろうと思わされるのっぺりしたロードムービー風で、『グリムノーツ』は村人が全員本を持っている絵面が不思議すぎて面白かったり、『マナリアフレンズ』はあまりにOVA的に閉じたファンムービーをリッチな絵面で押し通すサイゲパワーにビビったり、『千銃士』や『ダメプリ』はジャンクな乙女快楽に『ミラクル☆トレイン』『ネオアンジェリーク Abyss』ファンの血が滾ったりもしましたが、追いきれません。

 

 宇宙で魚を獲っちゃうぞ、という話でしたが、尾道なのに大林宣彦的な魔術感がない尾道なので、敗北しました。美少女キャラだけチューニングしてるのに、メカと守護神のセンスが90年代ですごいです。おっさんジャンクなポリティカルフィクションが力技すぎてドキドキし、広井王子氏も大変なのでしょうが、高橋花林氏はとても良かったです。

 

 Steam海外勢は今なお純真なエロゲ享楽を生きているという事実を突きつけてくる『ネコぱら』さんです。エロゲ原作OVAとは人類の還るべき場所であり、アニメの作画やデザインに進化論的な価値基準を持ち込みがちな主体の愚を殺害してくれます。

  『ISUCA』の獣耳キャラが四つん這いになって地べたの餌皿から飯を犬食いしているシーンで爆笑した記憶があるのですが、本作の世界観もそういう方向でハラハラさせる部分があり、原作はどうなっているのか気になることしきり、『世話やきキツネの仙狐さん』ではなく『我が家のお稲荷さま。』の2期を未だに待ち続けています。

 

 「ありすorありす」というのは「はいかイエスで答えてください」みたいなことなのでしょうか*2

 

 最近はだいぶデレステも消尽してプレイ時間は減ったのですが、背後に前提された魂を十全に共有した上で純粋精製のダダ甘ファンムービーを鑑賞すると、あまりにもだらしない安楽なメディアミックス環境に乗せられている自己嫌悪で絶叫したくなり、濃密な責め苦として再生しています。

 

  あの時自分はデレステではなく(♪)を選ぶべきだったのではないか、という罪悪感は付き纏いますが、『ときめきアイドル』はコナミフェティッシュが足りず辞め、『青空アンダーガールズ』も一度爆笑してすぐ触れず、せめてゲームの肉質がアニメでぐずぐずに融解するメディアミックス的身体のひどい連続性を見届けることに倫理を見たいわけです。

 

 どうにもアイドルは殺せないし、殺した先に本当の現実があるわけではないけれど、過剰な救済に対する殺意だけは醸成したい。ここ最近のそういう絶望を、無様なまま直截に代弁してくれたのが『カリギュラ』でした。

  『SSSS.GRIDMAN』が勇者ロボや円谷プロほかジャンクなパロディ連発の躁的オタクはしゃぎ芸を幻想的な学園パートとリッチな作画で職人的に糊塗した直後、あまりに投げやりな実写ラストカットで「どないやエヴァやろ!!!!!!!」と予定調和な虚実混交オタ自意識ツンツンお祭りやってたのとは対照的に、アイドルに支配された仮想世界の住人が楽園の背徳者(!!)を名乗り、「理想(きみ)を壊して、現実(じごく)へ帰る――。」とひたすらダサく不貞腐れ、低体温気味の憂鬱な暗めのルック、ギクシャクして不器用なエピソードの繋げ方と相俟って、セクシュアリティまで管理社会に回収されるようなオタ実存の不安すら掬い上げてくれる、「射程の広い誠実な愚直さ」に感動した一作でした。

 最近『ビューティフルドリーマー』も観ましたが、虚構と現実の概念区分では何も問えない状況を確認しました。『この中に1人、妹がいる!』の同人誌に「ビューティフルシュークリーマー」という本があって、よかったです。

 

 敗北しました。『魔弾の王と戦姫』的な美少女戦記物を異世界転生でやり直し、衒いなき男の子ぶりがかえって愛らしい一作でしたが、プリミティブな絵面は『星刻の竜騎士』に近いかもしれません。「MOST以上の"MOSTEST"」を久々に再生したらやっぱりすごかったです。

 アニメについて何か書こうと思ってもゴミのようなことしか書けないのが本当につらく、そうこうするうちポップカルチャーに対する当事者性もセクシュアリティの切実さも加齢とともに薄らいで、もはや思春期の頃の過剰性は蘇らないと分かってなお、避けがたい雑駁中年オタ化には抵抗しているわけですが、個体のフェティッシュを頑迷に固守して理論や分析を拒絶すること*3の責任だけは、自分なりに取り続けたいと考えています。

 

 「一人称カメラ」だと思ったら「視点人物が写らないアングルを総動員して美少女の肉体を変な角度で接写し続ける融通無碍なカメラ」だったことにビビり狂う清涼ショートポルノです。

 アイキャッチ手前で突然カメラが通りすがりの女の子モブの視点に切り替わってイケメンが語りかけてくる『サンリオ男子』は、「おれって女の子だったの!!???」という「文脈を殺して唐突に視線と視聴者を同一化させる」芸の暴力がとても強いのですが、こちらは反対に「主人公=あなたとお品書きレベルで同一性が前提されたカメラをありえないポジションに分裂させまくって主体を殺す」芸の暴力が極まっています。

 なにがバーチャルアニメだよと思うのですが、VRエロゲでもストーリーモードを進めるとカメラが勝手に三人称視点に切り替わってメイドさんかまいたちの夜がセックスする様子を蚊帳の外から眺める幽霊にされてしまうので、ポルノと物語は両立しません。ポルノとして機能しないポルノを凝視して哄笑するバタイユ的実存で最近は生きています。

 

 こちらは純粋なPOV視点のポルノなので、『セラフィムコール』の「マーガリン危機一髪」とかを思い出すので本当にやめてほしいのですが、なぜYouTubeに上がっているのでしょうか。しかもシークバーがあるので再生せずともカーソルを動かすだけでやってることが一瞬でわかる地獄です。望月智充監督に昔インタビューしましたが、特に悪意とかの意図はなかったと仰っていました*4。オタへの嫌味は先人がやり尽くしているので、あとはどこまで内在的に狂気と快楽の荒野を走れるかだけが問題です。自分は嫌な顔ではなく聖女のような笑顔で凍結したメイドさんの大群にパンツを見せてもらうのが好きです。