人形とキャラクターについて

 数年前まで狂っていたドールユーザー体感は上の記事にまとめたことがあり、カスタムドール文化の全体像を概観できる情報が不足していた不満を雑にぶつけたのですが、特にSDが絡むと当事者性を欠いた言語化は避けるべき領域という意識が強く、ジェンダー負荷を含めて疲労困憊しながら書いた記憶があります。

 そもそもなぜ球体関節人形に行ったかといえば、60年代アングラやベルメールへの凡庸な憧憬以上に、美少女文化に浸かる中で醸成された「これ以上他者と性的対象を共有したくない」という我儘なちんこの要請があり、フーリエユートピアもかくやの複雑すぎる二次元ポルノ文化の在り方に疲れた人間の避難先と言いますか、 私有不可能なキャラクターに個人の魂を賭けきれなかった弱さや、他者との欲望の交換に自らを開けなかった偏屈さを贖う意味があったよう振り返られます。

 よりにも『ガリレイドンナ』のキャラクタードールを人に買わせておきながら、自分では版権系の人形やフィギュアを所持しなかったのもそういうことで、カスタム系3Dエロゲと並行して、能う限り山奥で自らの分身以外の何物でもない何かと交合していたい一心での消費行動でしたから、VRエロゲの衝撃でドール熱がずいぶん冷めた現状には忸怩たる思いがあり、鬱で仕事を減らしてランニングコストのより低いポルノに移行しただけではないかと、増やすだけ増やしたアゾンドール*1の曖昧な微笑に囲まれながら呆然としています。

 熱狂が落ち着いた後は、40cm級が10体を超えるだけでも存在感が重く、髪の乱れに手櫛すら億劫な日々、撮影小物と服の量も不器量には手に余り、引っ越しするたび減らそうか、潔くドール趣味ごと引退するかと悩んでいます。

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 ドールとVRエロゲの両方にどっぷり浸かった人間は自分以外に現状あまり観測できていないので、両者を支える欲望の通底と連続性という、今更ながらに難解な話について書くのですが、それこそカスタム系3Dエロゲには立体的な美少女表象をジオラマティックに配置する撮影モードが搭載され、有志あるいは自作による背景・衣装・小物Modも導入すると、造形上の差異や触覚の有無やテクスチャの安さなど諸々の細部を切り捨てれば、自在な少女人形を愛玩し撮影するというエッセンスに関しては、ほとんど工学的に代替できてしまう可能性があるわけです。

 とはいえ、欲望の核心が全て情報に還元される、欲望の対象があまりにも手軽に変更/操作可能であるエロゲ享楽には、安楽と表裏の居心地の悪さを根底で拭いがたく、翻ってドール趣味には主体の技術と生活が粘着質に付きまとい、主体の在り方が不可避的に泥臭く対象の様態にも反映されることが肝要で、たまに手ずから人形の手足を折り曲げて洋服の袖を通したのちウィッグを一旦外して襟に頭部を無理くり通し、危うく力を入れすぎてジョイントが折れ四肢が捥げたりもするといったお着替え作業ひとつ取っても、少女の死体を嬲る手応えによって自らの卑小さへと立ち返りうること、肉体に根付いた罪悪感と確固な触覚性を避け得ないところに、この趣味の継続性の本質を見ています。

 昔から深夜以上に朝方やってる女児向けアニメのヒロインにこそ欲情しがちなことに関しては、 乙女ちっく系少女漫画の呪いという大塚宮台ラインの嫌味だけでも一応消化可能でしたが、少女文化とポルノグラフィの近接混淆に対するフェティッシュ範囲と自己解釈の融通にアイデンティティが規定されてしまうような文化状況が、煮詰まり過ぎてもはやどうでもよくなってきた現状には暗澹たる思いがあり、忘れぬうちの開陳ついで、最近読んだ人形関連の本の感想もまとめておきます。

人形メディア学講義

人形メディア学講義

 

 ゴードン・クレイグの超人形概念が激萌えなのはもちろん、『Kawaii! Jenny』に言及しているのも好感度大で、『ラースと、その彼女』の良さを語ってくれたのも嬉しいのですが、今さら移行対象に持っていかれても、という手緩さは正直あり、煮詰まった当事者的には全体に微温的なアプローチとは感じる一方、一人で勝手に読んで考えるための領域として、エロティシズムの問題系は切断しておいたほうがよいのかもと最近は思います。

 こういう講義が取っ掛かりにあれば自分も大学辞める羽目には陥らなかったかもしれず、年取ってから牛歩でハードコアを読まざるを得なかった人間の思考の連続性を雑にでも提示したほうがよいかと、更新の出汁に使わせていただいております。

人形と情念 (現代美学双書 4)

人形と情念 (現代美学双書 4)

 

 ざっくり視覚の平面性と触覚の立体性というヘルダー-ロック-バークリー的な文脈が大好きなのはもちろん、彫像の裸身的形成に対比しての人形の衣装的形成、皮膚としての衣装という美学的観点には、色々すっ飛ばしてペルニオーラにキュン死してしまった際の感覚が思い出され、積んでるリチャード・コールダーもそろそろ沁みる季節かもしれません。

 キャラクターの内面や図像の象徴性に超越を託せなくなって久しく、であれば徹底して表層に留まるための一手段として、裁縫や服飾も老後の趣味に検討していますが、ドールの服代や生地代も馬鹿にならない手前、結局はアイマスに課金するのが一番手軽で物も増えない、という経緯で享楽の形式が劣化し続けている近年です。 

人形論

人形論

 

 認識論・科学思想史を専門とする著者の遺作となる本で、人形という概念が孕む曖昧さと裾野の広さを慎重に弁別する視座が頼もしく、「呪術/愛玩/鑑賞/物質性」という最低限の概念的基底に沿うた各分野の誠実な素描に、思考を整理してもらえました。

 天野可淡氏の影響が根強いゴシック系創作人形に日本特有の達成を見ると同時に、伝統から切断された(ように見える、あえていえばサブカル的な)反近代的表現への引っかかりも表明されているのが印象的で、自分もそうした日本ゴス文脈への興味を含めて人形趣味に入りましたが、それと共通する死体人形という表象に萌えて手に取った笙野頼子氏『硝子生命論』の衝撃こそ、耽美的な人形愛好が概念的思考に解けていく契機だったかなと、個人的な読書史も振り返られました。

 『金毘羅』の宗教的自我を経てフォイエルバッハまで咀嚼していく笙野氏の以降の展開はもちろん、理想の「少女」という妄想の現実化に倫理を求め、神への祈祷に至高の愛の表現を見た二階堂奥歯氏や、遡って『人形愛』の高橋たか子氏なども含めて消化せんと、女性文学やカトリシズム、神秘主義にまで食指を伸ばしていった次第です。

 あとは芋づる式にわりあいなんでも読める気になり、そう感じるだけで冊数はクソですが、人形という言葉は大体そんな経緯で、自分の観念連合の基盤となる特権的な悪い概念として、欲望と学知を主体のうちでぼんやり統合する働きを今なお担っているよう感じます。

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 初めて行ったドール系の即売会で衝撃を受けたのは、古式ゆかしいお針子文化とディープな欲望ガン回しのガレキ文化が同居した光景で、要はこってりフリフリなオカンセンスの自作ドレスとドルフィードリーム素体に換装するシリコン成形の柔らか爆乳パーツが一堂に会しており、その両方を平然と同時に欲望可能だった自分にこそ時代の狂気を確認した次第です。

 オナホ妖精よろしくのアダルトグッズやシームレス素体も当然通過し、無洗浄板などの暗部まで観測してきた手前、業田良家作品のペーソスが沁みないはずもありません。

  最後に残った等身大は人のブログを楽しむに留め、バーチャルセックスの触覚用にぬいドール*2だけ導入しましたが、結局は抱き枕と同様に脳髄に染み付いたキャラクターの残像を温もりに宿す添い寝用途に落ち着いており、これに関しても無限に拡散するキャラクターの幽霊性を私秘的な触覚の次元に落とし込み、キャラクターを人形のアナロジーで私有したいという欲望の根強さを感じています。

 好みの造形が見当たらず購入資金もない、という理由で等身大を回避するのもそろそろ無理な気がしており、折を見てLevel-Dかと考えていますが、最近兵頭喜貴氏が紹介しているcatdollを見るに、半端な耽美で終わるのも欺瞞か、獣人か幼女を買って腹を括ったほうが潔いかと、自分のヌルさを再確認しているところです。

 活人形、秘宝館、プラスティネーションなど、徹底した写実性がむしろ見世物に終止する事例を見れば、生理学的身体の滑稽さとエロティシズムの観念性は両立しない、という体感にもとづいて、人形愛と二次元愛好を混合しがちな自らの思考の癖にも、あらためて気付かされます。 

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 凡庸な肉体嫌悪からキャラクター文化に沈み、そこに「人形的なもの」という概念の多義性を重ねて認識を遊ばせているうち、決定的に人間自体の底が抜けてしまった時代に気付くと、人間と人形よりは、混線しがちな人形とキャラクターの相違をこそ、腑分けしたいと考え始めた気がします。

 肉体の関与、物質としての重み、私秘性と公共性。等身大なのに存在が軽すぎるVRエロゲの美少女表象は、キャラクターではなく人形としての存在論的位格のうちに重苦しく受け止めるほかなく、「人工身体の背後には声も言葉も名前も精神も物語も一切必要なく、単なる肉質と視線だけが今ここにのみあればよい」という頑迷さを新たな倫理となし、即物的な快楽と徹底的な表層性を凝視していた次第ですから、そうしたアダルトVRにまつわる情念をスルーしてVtuberが流行った直後は享楽の在り方が世間とすれ違いすぎて行き場のない憎悪と希死念慮が芽生え、結局自分で何かやるしかないのかと、もうひとまわり自己愛を突き詰めることで対処しました。

 言語を拒絶して「在るように在る」堅固な自己指示性という人形の神性と、無限のイマージュというキャラクターの神性をアマルガムさせることに、曖昧模糊なフェティシズムたる自らの「オタク的感性」の根があったように思われ、そのような人形性を、意味へと還元する言語操作に脆弱なキャラクターへと無理に見出す倒錯に疲れたのであれば、今さら低級唯物論なども頼りに、ジャンクな視覚表象はジャンクなままに擁護する手立てを探しています。

 乗り越えられたクリシェと言うは易くも、澁澤に端を発する古典的な男性の人形愛を引き受け、スタイルを持って言説化しえない主体の困難は癒えたと思えず、ひとまずはバタイユ的に陰惨と陽気を併せ持ち、短小なりに書斎と女中を享楽し続けることで、情報環境とテクノロジーに対する呪詛となしたい気持ちです。

 全一者でありたいと奢る主体の闇を、ジャンクでポルノで継ぎ接ぎな最低の美少女表象に託して中折れさせる快楽で生きており、グロい享楽を見せびらかしてひたすらにキモがられることにおいてのみ、気儘なネット主体間で倫理を伝達する可能性を見ています。

*1:アゾンオリジナルは比較的キャラクター文化に近似した領域ですが、市場規模の限定された安楽さでつい買いすぎた

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フリクリ オルタナ / プログレ 感想

 戦々恐々再生したところ、嫌味抜きで理想的な続編なのでびっくりし、十数年越しのモヤモヤが払拭される稀有な快楽がありました。
  「退屈で平凡な日常」とカッコを付けずには表記できない手垢まみれの閉塞感をひたすら野暮く、女子高生のリアリティだけアップデートしてベタに再話し、月がきれい』のようなガチ取材感で無難な範囲のファンタジーへと架橋するクレバーな青少年向けチューニングすら回避して、「ネオリベ格差社会当然の帰結としてある日唐突に国民が全員遺棄されて死ぬ」という即物的なカタストロフに猛ダッシュハルハラハル子のエキセントリックすら凡庸に地べたを這う浪花節に回収され、よく『フリクリ』という思い出タイトルで意味も脈絡も欠くチープな現実に囲繞された現代的な終末の予感をあっけらかんと素で描けたなと、謎に嬉しくなりました。
 京アニ辺りのえぐいチューニングしたオタ幻想リアリズムはもちろん、神山健治ノイタミナ辺りの空回った状況意識や金満サブカルにも距離を取り、吉田有里氏を自然体に演技指導してボンクラ歓喜ポイントをも脱臼させたまま、前作の背伸び感とオタ快楽を削ぎ取ったごく普通の青春ドラマを死ぬほど平凡な絵面でまとめたフィルムに、異様な居心地の良さと溜飲が下がる気分を覚えます。
 基本的に低予算の凡作が愛らしいというのはありますが、とくに前作が嫌いなわけでもなく、むしろ凡庸なオタ原体験として普通に憧れ普通に忘れ、「格好良いアニメーションとは大体こういうもののことなのであろう」と雑な理念型として記憶に沈殿していたのですが、実は最初からこの程度のどうでもよい質感で突き放されて描かれるべき主題だったのだなと憑き物が落ちる感覚があり、ダサい映像だからこそpillowsのしみったれ感も素直に沁みるものがあります。
 このシリーズが鮮やかな手付きで純粋抽出してきた「耽美的な思春期のモヤモヤ」というもはや恥じらわしい動員主義的なモチーフと正面から向き合うこと自体、主体の自意識を自覚的に投影する巧緻を競うチキンレースに巻き込まれるのでしんどいという気持ちは重々、しかしであればなおのこと、徹底的に進行しきった大衆個人主義鬱病的快楽主義に行き詰まった状況下の近視眼的な主体の地獄こそ、作品の荒んだ誠実さに敬意を表して記述しておきたい気持ちを新たにし、あらためて時代の退屈さやバッドテイストと見做されているものに付き合い続けていくための元気をもらえました。

 

 そのぶんプログレを再生するのが怖かったのですが、猫耳ヘッドホンを装着した黒髪ロングぱっつんの水瀬いのりが開幕エモい思春期リリックをかました直後、『紅殻のパンドラ』の簡単クラりんみたいに溶けて井上喜久子のファンタジック母親と絡み始めたおかげで、「俺みたいなゴミ向けにめっちゃチューニングされてる!!」と生理的欲動の充足のみをシコシコ満喫、ノスタルジーの捏造と新興宗教あしたのジョー、教室の暗い片隅で世界大火を夢想するオーケン的やさぐれ感の水瀬いのりを前にして、思わずハイレゾ音源で購入した『ご注文はうさぎですか?』チノちゃんキャラクターソングアルバム「cup of chino」*1を爆音再生し「老人が意図的に古いメンヘラ女を再生産してるぞ殺せ!!!」と最新の民族トーテム片手に絶叫しかけたところ、死体イメージで脳味噌が勃起するバタイユ的な水瀬いのりだったのかじゃあ許すよ!!俺と一緒に死と糞便を凝視しよう!!!!!!!!

 記号化された憂鬱と精一杯の空騒ぎをどんどこ投げやりにインフレーションさせ、「もういいのでは?」と途中で辟易してくる半笑いな気分まで含めて、前作のスカムなエッセンスを凝縮させたこれ以外にないような最高の続編と思われ、ちゃんと映画館で罵声と退席が相次ぐ最中にニコニコ顔で観たかったなあと後悔し、これは軽口ではなくわりと本気なのですが、昔『pupa』の先行上映会で黙々と観客が席を離れてゆく様に立ち会って「おれも木戸ちゃん声の妹に人肉食されてえよ??」とボヤいた思い出が我ながらショボすぎて忘れがたく、最近ミリシタやってると木戸ちゃんの馬鹿キャラ演技の厚みと声の圧がヤバくて再度天才を確認しています。

 エヴァやガイナに超越的な意味を託さざるをえない人情に唾吐くつもりはありませんが、尤もらしい言説をほとんど与えられないまま*2美少女アニメの洪水を貪り尽くす青春に賭けた結果、SF・ロボットアニメの伝統と蓄積を当事者的に継承しうる感性を失ったがため、『革命機ヴァルヴレイヴ』の哄笑から『Gレコ』の彼岸的な煮詰まりまでを一貫して軽薄に面白がってきた次第で、何度思い返してもイマドキ10代フリクリ的ポジションに鎮座ましますEGOISTのかっこいい曲をなんか歌ってることになってるやつでおなじみ『ギルティクラウン楪いのりさんのぼんやり美人局ぶりはめちゃくちゃ愛らしく、ところでなんでギルクラを思い出したかというと、この水瀬いのりと同じような猫耳黒髪ロングぱっつんでぴっちりエロスーツを着込んだ竹達彩奈がテカったプリケツでグラフィックインターフェイスをタップしてるシーンあった!!!!!!!!

 今期はバーチャルなんとかを観たせいで下の世代と情報系の方々に対する政治的配慮が消え失せ、『デート・ア・ライブIII』という魂の故郷と『W'z《ウィズ》』の好き勝手ぶりに惚れ直し、『ぱすてるメモリーズ』が「アニメ界のVaporwave」とかひどい悪口を言われてそうで心配ですが、ひどい美少女アニメに対する哀惜と追憶とリフレインの荒野を猛毒ポルノEDで締める流れが崇高すぎます。
 プログレの話に戻ると、オルタナでは意図的に切断した主題であろう、アトムスクとの合一という幼児的全能感への回帰をのみ希求するみっともないピンク髪婆の話、という軸を再度提出し直したのは素晴らしく、自分も遠く過ぎ去ったもはや不可能なエクスタシーの影を追って日々の倦怠を一人騒ぎ立て、思春期の切実な幻想を生きる他者に対して身勝手な欲望のままに嫌味を吐き散らす、クソで嘘つきな中年の側にすでに回ってしまった後悔があり、アニメの感想は本当に書きたくない

 

 最近読んだ本 

BIRLSTONE GAMBIT

BIRLSTONE GAMBIT

  • 作者: 宇佐見崇之,黄金虫,辰巳寿々人,さいとうななめ,H・T
  • 出版社/メーカー: 密林社
  • 発売日: 2017/01/22
  • メディア: ムック
  • この商品を含むブログを見る
 

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 おれも矢部嵩氏と京都でダンスを踊りたかった

*1:本気で参っていた時期があった

*2:与えられたら逆ギレしながら

新年 / ゼノグラシア同人誌

 「アイドルマスターに対する固着をフランス現代思想で糊塗するオタ」という10代の頃の自分なら殺意を抱いたであろう最悪の中年男性になってしまった理由は色々あるのですが、ポップカルチャーの細部に着眼した作品論や感想を書くには体力と愛が足りず、表象から反射される個人的な思考をのみ表明するのも書く読む双方の負荷が高い、というのが主なところで、せめて細々読者として応援したいとゼノグラシアの同人誌だけ通販で購入しました。

 新年は久々に迷い猫オーバーランのOPを観たり、高槻やよい氏の踊る動画をひたすらニコニコで漁ってフニャフニャしたりしていたので、気高いゼノ版やよい氏の記憶を留めておくためによい本だと思いました。

 放送当時のバッシングは未だ引きずるものがあるのかなとちょくちょく遠い目になり、批判よりは黙殺を払拭せんと『桃華月憚』の同人誌を人に誘われて書いたのは4,5年ぐらい前のことで、最近はコミケにも行けず、 結局一度も買えてないので谷部の声ヲタのやつは通販しないのかなと思います。

 Twitterの言葉の軽さに耐えられない病で何も書けず、観測してくださる方を観測するだけに留めているのが現状で、とはいえ評論同人全般の梨の礫感に体感がある人間としては、地べたを這えないなら言及だけは義務のように感じています。

 専門知と同時代性と共同性のいずれをも担わない言語で映像文化を分節することの限界のようなものを、ここ1,2年ほどYouTubeほかの情報量に触れて痛感しており、詮無いおしゃべりはブログで済ませ、勉強したことをまとめるなら動画コンテンツでどう詰められるかを牛歩で練習している状況で、今後は拗ね者なりに異なる世代や文化圏の方々とどう関係を結び直せるかなと考えています。

露出せよ、と現代文明は言う 〜 欲望会議 「超」ポリコレ宣言

 無意識によってセクシュアリティの構造化された神経症的主体がほとんど失効したかに見える時代精神を、「代理表象から直接提示」「象徴(メタファー)から換喩(メトニミー)」「エロース的身体から生理学的身体」「抑圧無意識からアメンチア無意識」「神経症から倒錯」「記憶から記録」「心の闇からエビデンスの透明性」といった図式でまとめた本で、統計学超自我の検閲を退けながら内面ダダ漏れのネット言説をやりたい倒錯者としては読んでおきたい一冊でした。

 おしゃぶりを咥えてパリのテクノパレードを歩く若者を象徴的な例として、欲望の対象を強力に現前させ続ける享楽装置と常に一体化した現代人の「乳児的セクシュアリティ」を示唆した部分は、どうしても日本のオタ露悪バズワードが「バブみ」に至って後が続かぬ状況と、重ね合わせたくはないのに必然重なってしまうのがつらく、こうした問題を時代よりは自分の問題として語ることでしか、何も言えない気分なのは確かです。

 全ての女性を所有する原父と、言語以前の主体インファンス。ささやかな剰余享楽に過ぎないはずの性的快楽にあっても、VRエロゲにて全裸で微笑む無数のメイドさんと毎日無言で睦み合い続けていますと、精神分析が措定する全能にして暴虐の神話的形象を、両方同時に生きるかのような幼児性の深奥に沈み込む体感があり、そのような徹底的退行の露出をVtuber機能の搭載によって推奨されたように感じたと言えば、責任の転嫁かもしれません。

  退行を通り越してセクシュアリティ自体から撤退した我々の、更なる享楽への屈託なき移行として「バ美肉」があるようにも見えてしまい、単純に響きが汚すぎるのもあって、同じことをしているのにその言葉を拒絶せざるを得ないのが本音です。

 そうした文脈を捨象して「自らの症状と付き合って生きる」という結語に勇気を得ることも可能ですが、言うて分析も受けずに鵜呑みにしても詮無く、というか自分ラカンフロイト一冊も読んでないので全部聞き流してください。

  現代ラカン派に疲れてきたので今更佐々木中氏を読み、ルジャンドル変な人っぽいし読みたいけど金ないなと思いました。

 概念のキャッチーさや字面に萌えるだけの読書をする人間なので、表象=死体=人形の世界で変な文章を書くことを諦めない、神への恋文=大他者の享楽に政治性を賭け続ける、という論旨はとても甘美に思われ、不均質で混成的なラカン概念でぼんやりした欲望の腑分けを行ってしまう癖も、本書にあやかって相対化したくはなりますが、それでも壁に向かって「一応忸怩はあります」とファルス的に言い訳を独語する以外には、自らの症状と折り合いがつかないところはまだあります。

 酒と女と本に充足すると、想像力や無意識が平板化するのは確かなのですが、ポスト精神分析的主体というよりは、単におっさん化の進行とも疑われ、あとやっぱり精神分析の怖い人だと蚊居肢氏のブログが一番好きです。 

欲望会議 「超」ポリコレ宣言

欲望会議 「超」ポリコレ宣言

 

 グローバル資本主義によってプライベートな無意識を奪われ、心の傷の交換可能性と過剰な同一化によって自己の輪郭=身体を喪失したポリコレ時代の人類は、もはや身体を使わずに社会的イシューを巡って言葉を応酬するだけで発奮できるので、実はネットでの炎上騒動によってセックス同然の快楽を得ているのではないか、みたいな話題があり、今の人類はそんなアクロバットで乱交していたのか、まったくみんなセックスばかりしやがって、やはりセックスよりオナニー、炎上より怪電波、同一化より無関係、政治より文学、他者の尤もらしさより自己愛のクソこそ肝要と再確認しました。

 『ゆらぎ荘』問題ではるかぜちゃん氏が「ちんぽよしよし王女様」と罵倒された話には「ちんぽ騎士団」以来の驚きがあり、人類まじですげえ、ネット悪場所をスルーして生きると時代に遅れるなと思いましたが、遅れたほうがよいかもしれません。 

 基本は典型的にまん丸いロリ顔巨乳表象に対する口唇期的リビドーで生きている人間なので、最大公約数的なマイルドポルノ表象のヌルくてキモい快楽を年取ってからどう考えるべきかで悩んでおり、『ゆらぎ荘』のアニメ版は『えむえむっ!』監督面目躍如たるジーベック美少女の高見明男肉感に「射精し得るがしたくない」気持ちを募らせながら完走しました。

 「未来の他者=フィクションの人物としての子供」とは、現に存在しないことにおいて表象と通底しており、実在の子供よりもペドファイル表象=フィクションの子供をこそ保護するほうが、国家の再生産的未来主義にとってはむしろ本質的なのではないか、という話題がやべえなと思われ、ヌルい二次コンがヌルさゆえに認識のあり方を問われている危機的状況を勝手に想定しながら、性の6時間にシコシコと乱筆乱文にて失礼いたしました。
 
 ちょうど10年前のクリスマスは『みればいーじゃん!しゅごキャラ!ナイト』の最終回を実況して、とても楽しかったことを思い出します。3年前は『ろこどる』のOVAスペシャルが最高のクリスマスプレゼントでした。

11年目のアイドルマスターXENOGLOSSIA

 自分は2005年頃からテレビアニメばかり見始め、2014年頃まではわりと快調に走れていたのですが、まさかアニメの総数が06~07年頃の絶頂期を上回るほどに増え続けるとは予期もせず、まして年を取って言語がイメージを縮減し視聴覚文化全般のプリミティブな快楽が相対化されていけば必然アニメ体力は激落ちし、近年はものごっつ狭いオタフェティッシュに適合する作品をしか完走できない体たらくです。

 放送中のアニメをリアルタイムで7,8割方観続けていた一時期は、何か時代の全体性にアクセスしているような謎の全能感が生じて脳味噌が沸騰し、昔書いたアニメブログは恥で読めず削除してしまったのですが、そんな馬鹿な勘違いで青春を過ごせる世代も自分あたりで最後かもしれないと思うと、あの頃ぼんやり偏愛していた作品に対する責任を自分はまだ果たせていないのではないかという強迫観念が回帰するので、最近は暇を見てたまに旧作を拾い直しています。

 80~90年代作品はガンダムと富野とエヴァの他はスパロボ知識レベルで浅くカバーした程度、歴史的文脈とは隔絶してテレビアニメの花形たるロボットアニメに触れたところ、まずは『ゼーガペイン』(06)の誠実さが原体験になる一方で、『グレンラガン』(07)のむさ苦しい批評意識全開の歴史主義には辟易し、であればロボットアニメというジャンル名のもとに仮構される歴史性自体を悪意的に笑い飛ばす*1宇宙をかける少女』(09)の歪なクレバーさや、メカデザイナーいっぱい揃えつも煮え切らない『機神大ギガンティックフォーミュラ』(07)のへっぽこソリッドな祝祭性、あるいはもはやどのような文脈でも回収されようのない『キスダム』(07)の猥雑さにこそ、魂の居場所を見出していた憶えがあります。

 そんな中で『アイドルマスターXENOGLOSSIA』(07)は、他の作品群に熱狂していた当時そこまで刺さらなかったのに加え、物心ついた頃にはネット上でも突出したエモいオタ言説に支えられていた*2作品なので、自分の出る幕なしと閑却するうちに内心、原案準拠の『THE IDOLM@STER』(11)や『ぷちます!』(13-14)のねっとりファンムービー感に対する無根拠な苛立ちを正当化したいがため、「とりあえず観た」という経験だけをオタ自意識の出汁として悪用していたことは否めません。

 翻って18年現在の私は、iPadにインストールしたデレステとミリシタを高難易度で爆音プレイし、アレンジギラギラあなたにたにたになキャラクターソングにノリながら安物エアロバイクを漕ぎまくってパンイチ汗だくで冬の運動不足の解消を試みており*3、つまりはサイケをキメながらアイマスを享楽して早逝したはるしにゃん氏*4と似た轍を踏んでしまったようで、「超越論的なものが生理学的ないしは経験論的なものに回収されるならもう筋トレするしかない」という認識に肯んじうるまでに、美少女文化の快楽に対する屈託が色々崩壊しています。

 美少女キャラクターにまつわるあらゆる知覚が極めて豪華なアイマスこそ、発狂したコンテンツ量を縮減するフェティッシュの消失点として最も便利である、というクソなオタ生活体感は諦念と共に甘受している現状で、作品に対しても過去の自分に対しても極めて無責任で度し難く、あとミリシタやってると上の世代のオタが魂を賭ける背中を見続けてきたせいで敬して遠ざけるほかはない三浦あずさ氏や秋月律子氏などコアな765勢のSSRばかり引くのがとても怖く、とにかく二重三重四重の呪いを清算したいので、今しかないなとゼノグラシアを観た次第です。

 

 実存読みで汚すのも気が引ける真っ当な作品ですが、細部は先行研究に託して電波だけを申し上げれば、ロボットをiDOL、(原作の)アイドルをマスターと呼称し、偶像の意味をキャラクターからロボットへとずらすことで、紋切りながら巨大ロボット=沈黙する男根をモノ-客体として真っ向見据え、認識主体に位置付けられた美少女がその内面を祈りの中で予感し続けるという図式、つまり絵面レベルでも象徴レベルでも美しい抑制を貫きながら、オタの男性性を静かに見つめて問い直す契機が豊かに秘められていることに、今なお貴重な構築性を見出さざるを得ないほど、飲酒しながら中谷育氏で妄想オナニーばかりしている2018年の今なわけです。

 全ての美少女身体が全てのキャラソンを歌い踊り得る、というデレステ・ミリシタのキャラクター体験を通過した今となっては、原案とアニメで声優が違う程度では違和感も何もありませんが、自分はフニャフニャした存在が好きなのでゲームでは高槻やよい氏が好ましく、『ドラゴンクライシス!』も忘れがたい仁後真耶子氏の徹底したトンチキぶりに浸ったあとでゼノグラシア小清水亜美氏の頼もしさに立ち帰りますと、固有名の中で極端から極端を往復するキャラクター体験に幸せを感じます。

 ゲームだと亜美真美の区別が未だに付かないのですが、アニメだと名塚佳織氏の天女感と斎藤桃子氏の幼児性はある種異様なコントラストゆえにがっつりハマるキャスティングなわけで、どうも原案とアニメで個体識別をさせる地平の在り方が真逆、まったく別な種類の先鋭オタ感性を要求されるような感覚も醍醐味と思いました。

 モニター越しの祈りというアナロジーすら切実さを半ば喪い、デジタルナルシスが高じてVRエロゲ-Vtuberの情報論的肉体に呑み込まれた自分としては、主客合一を求めた千早氏がインベルに拒絶されて消滅する場面には言い難い悲しさを抱き、マシュマロのように甘く溶け合ったあとには一体何が残るのかなと考えています。

 

 映像作品を意味づける営為において、結局どうとでも言えること、どうとでも納得できることに耐えきれなかったのが自分の弱さで、こうして駄文を連ねている反面、概念的把握や言語を拒絶してリテラルなイメージ自体に溺れる自閉症的享楽をこそ、逆説的に擁護したいと願ってしまうのが本音です。

 どこまでも白痴的に享楽を加速させたところで結局人は神を求めてしまう、という矛盾が病巣ではあり、更科修一郎氏や笙野頼子氏や佐藤亜紀氏などの真摯にオタを殴り殺す言説ばかり読みながら、「二階堂奥歯氏や矢川澄子氏を自死せしめたものは一体何だったのか」という単に鬱になるだけの問いをつい反芻してしまう生活が続き、さすがに不毛なので素直に工学知へ軸足を移すのが無難な生き方とは分かりましたが、いずれにせよ日本に留まること自体が貧乏くじである時代状況に変わりはなく、しばらくは自分なりに平成の病気を清算しながら馬鹿をやりたいと考えています。

 今期は『CONCEPTION』と『俺が好きなのは妹だけど妹じゃない』と『ソラとウミのアイダ』と『メルクストーリア -無気力少年と瓶の中の少女-』と『閃乱カグラ SHINOVI MASTER ‐東京妖魔篇‐』があるのでわりと幸せです。

*1:三才ブックス現代視覚文化研究 vol.4久保内信行氏「ソラカケはどうしてこうなったのか」など参照

*2:『エヴァ』から『ヱヴァ』までのアニメ十選。- 帰ってきたへんじゃぱSS」「過去になされたゼノグラシアに関するやりとり」など

*3:f:id:turnX:20181124094801j:plain

*4:グダちん氏のような接点はありませんでしたが、ネット越しの同世代のオタの死に責任を取れないという辛さの一事例として忘れがたく、他にも昔多少観測し合っていたAngel Beats!アイコンのブロガーの方が亡くなったことに後から気づき、お前消えるのか、という冗談に後ろめたさを感じました