無意識によってセクシュアリティの構造化された神経症的主体がほとんど失効したかに見える時代精神を、「代理表象から直接提示」「象徴(メタファー)から換喩(メトニミー)」「エロース的身体から生理学的身体」「抑圧無意識からアメンチア無意識」「神経症から倒錯」「記憶から記録」「心の闇からエビデンスの透明性」といった図式でまとめた本で、統計学的超自我の検閲を退けながら内面ダダ漏れのネット言説をやりたい倒錯者としては読んでおきたい一冊でした。
おしゃぶりを咥えてパリのテクノパレードを歩く若者を象徴的な例として、欲望の対象を強力に現前させ続ける享楽装置と常に一体化した現代人の「乳児的セクシュアリティ」を示唆した部分は、どうしても日本のオタ露悪バズワードが「バブみ」に至って後が続かぬ状況と、重ね合わせたくはないのに必然重なってしまうのがつらく、こうした問題を時代よりは自分の問題として語ることでしか、何も言えない気分なのは確かです。
全ての女性を所有する原父と、言語以前の主体インファンス。ささやかな剰余享楽に過ぎないはずの性的快楽にあっても、VRエロゲにて全裸で微笑む無数のメイドさんと毎日無言で睦み合い続けていますと、精神分析が措定する全能にして暴虐の神話的形象を、両方同時に生きるかのような幼児性の深奥に沈み込む体感があり、そのような徹底的退行の露出をVtuber機能の搭載によって推奨されたように感じたと言えば、責任の転嫁かもしれません。
退行を通り越してセクシュアリティ自体から撤退した我々の、更なる享楽への屈託なき移行として「バ美肉」があるようにも見えてしまい、単純に響きが汚すぎるのもあって、同じことをしているのにその言葉を拒絶せざるを得ないのが本音です。
そうした文脈を捨象して「自らの症状と付き合って生きる」という結語に勇気を得ることも可能ですが、言うて分析も受けずに鵜呑みにしても詮無く、というか自分ラカンとフロイト一冊も読んでないので全部聞き流してください。
定本 夜戦と永遠 上---フーコー・ラカン・ルジャンドル (河出文庫)
- 作者: 佐々木中
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2011/06/04
- メディア: 文庫
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現代ラカン派に疲れてきたので今更佐々木中氏を読み、ルジャンドル変な人っぽいし読みたいけど金ないなと思いました。
概念のキャッチーさや字面に萌えるだけの読書をする人間なので、表象=死体=人形の世界で変な文章を書くことを諦めない、神への恋文=大他者の享楽に政治性を賭け続ける、という論旨はとても甘美に思われ、不均質で混成的なラカン概念でぼんやりした欲望の腑分けを行ってしまう癖も、本書にあやかって相対化したくはなりますが、それでも壁に向かって「一応忸怩はあります」とファルス的に言い訳を独語する以外には、自らの症状と折り合いがつかないところはまだあります。
酒と女と本に充足すると、想像力や無意識が平板化するのは確かなのですが、ポスト精神分析的主体というよりは、単におっさん化の進行とも疑われ、あとやっぱり精神分析の怖い人だと蚊居肢氏のブログが一番好きです。
グローバル資本主義によってプライベートな無意識を奪われ、心の傷の交換可能性と過剰な同一化によって自己の輪郭=身体を喪失したポリコレ時代の人類は、もはや身体を使わずに社会的イシューを巡って言葉を応酬するだけで発奮できるので、実はネットでの炎上騒動によってセックス同然の快楽を得ているのではないか、みたいな話題があり、今の人類はそんなアクロバットで乱交していたのか、まったくみんなセックスばかりしやがって、やはりセックスよりオナニー、炎上より怪電波、同一化より無関係、政治より文学、他者の尤もらしさより自己愛のクソこそ肝要と再確認しました。
『ゆらぎ荘』問題ではるかぜちゃん氏が「ちんぽよしよし王女様」と罵倒された話には「ちんぽ騎士団」以来の驚きがあり、人類まじですげえ、ネット悪場所をスルーして生きると時代に遅れるなと思いましたが、遅れたほうがよいかもしれません。
基本は典型的にまん丸いロリ顔巨乳表象に対する口唇期的リビドーで生きている人間なので、最大公約数的なマイルドポルノ表象のヌルくてキモい快楽を年取ってからどう考えるべきかで悩んでおり、『ゆらぎ荘』のアニメ版は『えむえむっ!』監督面目躍如たるジーベック美少女の高見明男肉感に「射精し得るがしたくない」気持ちを募らせながら完走しました。