おしゃべり!おしゃべり!

映像文化を通じた「無目的な生」の証言。21世紀初頭における人間の変容を捉えなおす一助になれば。

露出せよ、と現代文明は言う 〜 欲望会議 「超」ポリコレ宣言

 無意識によってセクシュアリティの構造化された神経症的主体がほとんど失効したかに見える時代精神を、「代理表象から直接提示」「象徴(メタファー)から換喩(メトニミー)」「エロース的身体から生理学的身体」「抑圧無意識からアメンチア無意識」「神経症から倒錯」「記憶から記録」「心の闇からエビデンスの透明性」といった図式でまとめた本で、統計学超自我の検閲を退けながら内面ダダ漏れのネット言説をやりたい倒錯者としては読んでおきたい一冊でした。

 おしゃぶりを咥えてパリのテクノパレードを歩く若者を象徴的な例として、欲望の対象を強力に現前させ続ける享楽装置と常に一体化した現代人の「乳児的セクシュアリティ」を示唆した部分は、どうしても日本のオタ露悪バズワードが「バブみ」に至って後が続かぬ状況と、重ね合わせたくはないのに必然重なってしまうのがつらく、こうした問題を時代よりは自分の問題として語ることでしか、何も言えない気分なのは確かです。

 全ての女性を所有する原父と、言語以前の主体インファンス。ささやかな剰余享楽に過ぎないはずの性的快楽にあっても、VRエロゲにて全裸で微笑む無数のメイドさんと毎日無言で睦み合い続けていますと、精神分析が措定する全能にして暴虐の神話的形象を、両方同時に生きるかのような幼児性の深奥に沈み込む体感があり、そのような徹底的退行の露出をVtuber機能の搭載によって推奨されたように感じたと言えば、責任の転嫁かもしれません。

  退行を通り越してセクシュアリティ自体から撤退した我々の、更なる享楽への屈託なき移行として「バ美肉」があるようにも見えてしまい、単純に響きが汚すぎるのもあって、同じことをしているのにその言葉を拒絶せざるを得ないのが本音です。

 そうした文脈を捨象して「自らの症状と付き合って生きる」という結語に勇気を得ることも可能ですが、言うて分析も受けずに鵜呑みにしても詮無く、というか自分ラカンフロイト一冊も読んでないので全部聞き流してください。

  現代ラカン派に疲れてきたので今更佐々木中氏を読み、ルジャンドル変な人っぽいし読みたいけど金ないなと思いました。

 概念のキャッチーさや字面に萌えるだけの読書をする人間なので、表象=死体=人形の世界で変な文章を書くことを諦めない、神への恋文=大他者の享楽に政治性を賭け続ける、という論旨はとても甘美に思われ、不均質で混成的なラカン概念でぼんやりした欲望の腑分けを行ってしまう癖も、本書にあやかって相対化したくはなりますが、それでも壁に向かって「一応忸怩はあります」とファルス的に言い訳を独語する以外には、自らの症状と折り合いがつかないところはまだあります。

 酒と女と本に充足すると、想像力や無意識が平板化するのは確かなのですが、ポスト精神分析的主体というよりは、単におっさん化の進行とも疑われ、あとやっぱり精神分析の怖い人だと蚊居肢氏のブログが一番好きです。 

欲望会議 「超」ポリコレ宣言

欲望会議 「超」ポリコレ宣言

 

 グローバル資本主義によってプライベートな無意識を奪われ、心の傷の交換可能性と過剰な同一化によって自己の輪郭=身体を喪失したポリコレ時代の人類は、もはや身体を使わずに社会的イシューを巡って言葉を応酬するだけで発奮できるので、実はネットでの炎上騒動によってセックス同然の快楽を得ているのではないか、みたいな話題があり、今の人類はそんなアクロバットで乱交していたのか、まったくみんなセックスばかりしやがって、やはりセックスよりオナニー、炎上より怪電波、同一化より無関係、政治より文学、他者の尤もらしさより自己愛のクソこそ肝要と再確認しました。

 『ゆらぎ荘』問題ではるかぜちゃん氏が「ちんぽよしよし王女様」と罵倒された話には「ちんぽ騎士団」以来の驚きがあり、人類まじですげえ、ネット悪場所をスルーして生きると時代に遅れるなと思いましたが、遅れたほうがよいかもしれません。 

 基本は典型的にまん丸いロリ顔巨乳表象に対する口唇期的リビドーで生きている人間なので、最大公約数的なマイルドポルノ表象のヌルくてキモい快楽を年取ってからどう考えるべきかで悩んでおり、『ゆらぎ荘』のアニメ版は『えむえむっ!』監督面目躍如たるジーベック美少女の高見明男肉感に「射精し得るがしたくない」気持ちを募らせながら完走しました。

 「未来の他者=フィクションの人物としての子供」とは、現に存在しないことにおいて表象と通底しており、実在の子供よりもペドファイル表象=フィクションの子供をこそ保護するほうが、国家の再生産的未来主義にとってはむしろ本質的なのではないか、という話題がやべえなと思われ、ヌルい二次コンがヌルさゆえに認識のあり方を問われている危機的状況を勝手に想定しながら、性の6時間にシコシコと乱筆乱文にて失礼いたしました。
 
 ちょうど10年前のクリスマスは『みればいーじゃん!しゅごキャラ!ナイト』の最終回を実況して、とても楽しかったことを思い出します。3年前は『ろこどる』のOVAスペシャルが最高のクリスマスプレゼントでした。

11年目のアイドルマスターXENOGLOSSIA

 自分は2005年頃からテレビアニメばかり見始め、2014年頃まではわりと快調に走れていたのですが、まさかアニメの総数が06~07年頃の絶頂期を上回るほどに増え続けるとは予期もせず、まして年を取って言語がイメージを縮減し視聴覚文化全般のプリミティブな快楽が相対化されていけば必然アニメ体力は激落ちし、近年はものごっつ狭いオタフェティッシュに適合する作品をしか完走できない体たらくです。

 放送中のアニメをリアルタイムで7,8割方観続けていた一時期は、何か時代の全体性にアクセスしているような謎の全能感が生じて脳味噌が沸騰し、昔書いたアニメブログは恥で読めず削除してしまったのですが、そんな馬鹿な勘違いで青春を過ごせる世代も自分あたりで最後かもしれないと思うと、あの頃ぼんやり偏愛していた作品に対する責任を自分はまだ果たせていないのではないかという強迫観念が回帰するので、最近は暇を見てたまに旧作を拾い直しています。

 80~90年代作品はガンダムと富野とエヴァの他はスパロボ知識レベルで浅くカバーした程度、歴史的文脈とは隔絶してテレビアニメの花形たるロボットアニメに触れたところ、まずは『ゼーガペイン』(06)の誠実さが原体験になる一方で、『グレンラガン』(07)のむさ苦しい批評意識全開の歴史主義には辟易し、であればロボットアニメというジャンル名のもとに仮構される歴史性自体を悪意的に笑い飛ばす*1宇宙をかける少女』(09)の歪なクレバーさや、メカデザイナーいっぱい揃えつも煮え切らない『機神大ギガンティックフォーミュラ』(07)のへっぽこソリッドな祝祭性、あるいはもはやどのような文脈でも回収されようのない『キスダム』(07)の猥雑さにこそ、魂の居場所を見出していた憶えがあります。

 そんな中で『アイドルマスターXENOGLOSSIA』(07)は、他の作品群に熱狂していた当時そこまで刺さらなかったのに加え、物心ついた頃にはネット上でも突出したエモいオタ言説に支えられていた*2作品なので、自分の出る幕なしと閑却するうちに内心、原案準拠の『THE IDOLM@STER』(11)や『ぷちます!』(13-14)のねっとりファンムービー感に対する無根拠な苛立ちを正当化したいがため、「とりあえず観た」という経験だけをオタ自意識の出汁として悪用していたことは否めません。

 翻って18年現在の私は、iPadにインストールしたデレステとミリシタを高難易度で爆音プレイし、アレンジギラギラあなたにたにたになキャラクターソングにノリながら安物エアロバイクを漕ぎまくってパンイチ汗だくで冬の運動不足の解消を試みており*3、つまりはサイケをキメながらアイマスを享楽して早逝したはるしにゃん氏*4と似た轍を踏んでしまったようで、「超越論的なものが生理学的ないしは経験論的なものに回収されるならもう筋トレするしかない」という認識に肯んじうるまでに、美少女文化の快楽に対する屈託が色々崩壊しています。

 美少女キャラクターにまつわるあらゆる知覚が極めて豪華なアイマスこそ、発狂したコンテンツ量を縮減するフェティッシュの消失点として最も便利である、というクソなオタ生活体感は諦念と共に甘受している現状で、作品に対しても過去の自分に対しても極めて無責任で度し難く、あとミリシタやってると上の世代のオタが魂を賭ける背中を見続けてきたせいで敬して遠ざけるほかはない三浦あずさ氏や秋月律子氏などコアな765勢のSSRばかり引くのがとても怖く、とにかく二重三重四重の呪いを清算したいので、今しかないなとゼノグラシアを観た次第です。

 

 実存読みで汚すのも気が引ける真っ当な作品ですが、細部は先行研究に託して電波だけを申し上げれば、ロボットをiDOL、(原作の)アイドルをマスターと呼称し、偶像の意味をキャラクターからロボットへとずらすことで、紋切りながら巨大ロボット=沈黙する男根をモノ-客体として真っ向見据え、認識主体に位置付けられた美少女がその内面を祈りの中で予感し続けるという図式、つまり絵面レベルでも象徴レベルでも美しい抑制を貫きながら、オタの男性性を静かに見つめて問い直す契機が豊かに秘められていることに、今なお貴重な構築性を見出さざるを得ないほど、飲酒しながら中谷育氏で妄想オナニーばかりしている2018年の今なわけです。

 全ての美少女身体が全てのキャラソンを歌い踊り得る、というデレステ・ミリシタのキャラクター体験を通過した今となっては、原案とアニメで声優が違う程度では違和感も何もありませんが、自分はフニャフニャした存在が好きなのでゲームでは高槻やよい氏が好ましく、『ドラゴンクライシス!』も忘れがたい仁後真耶子氏の徹底したトンチキぶりに浸ったあとでゼノグラシア小清水亜美氏の頼もしさに立ち帰りますと、固有名の中で極端から極端を往復するキャラクター体験に幸せを感じます。

 ゲームだと亜美真美の区別が未だに付かないのですが、アニメだと名塚佳織氏の天女感と斎藤桃子氏の幼児性はある種異様なコントラストゆえにがっつりハマるキャスティングなわけで、どうも原案とアニメで個体識別をさせる地平の在り方が真逆、まったく別な種類の先鋭オタ感性を要求されるような感覚も醍醐味と思いました。

 モニター越しの祈りというアナロジーすら切実さを半ば喪い、デジタルナルシスが高じてVRエロゲ-Vtuberの情報論的肉体に呑み込まれた自分としては、主客合一を求めた千早氏がインベルに拒絶されて消滅する場面には言い難い悲しさを抱き、マシュマロのように甘く溶け合ったあとには一体何が残るのかなと考えています。

 

 映像作品を意味づける営為において、結局どうとでも言えること、どうとでも納得できることに耐えきれなかったのが自分の弱さで、こうして駄文を連ねている反面、概念的把握や言語を拒絶してリテラルなイメージ自体に溺れる自閉症的享楽をこそ、逆説的に擁護したいと願ってしまうのが本音です。

 どこまでも白痴的に享楽を加速させたところで結局人は神を求めてしまう、という矛盾が病巣ではあり、更科修一郎氏や笙野頼子氏や佐藤亜紀氏などの真摯にオタを殴り殺す言説ばかり読みながら、「二階堂奥歯氏や矢川澄子氏を自死せしめたものは一体何だったのか」という単に鬱になるだけの問いをつい反芻してしまう生活が続き、さすがに不毛なので素直に工学知へ軸足を移すのが無難な生き方とは分かりましたが、いずれにせよ日本に留まること自体が貧乏くじである時代状況に変わりはなく、しばらくは自分なりに平成の病気を清算しながら馬鹿をやりたいと考えています。

 今期は『CONCEPTION』と『俺が好きなのは妹だけど妹じゃない』と『ソラとウミのアイダ』と『メルクストーリア -無気力少年と瓶の中の少女-』と『閃乱カグラ SHINOVI MASTER ‐東京妖魔篇‐』があるのでわりと幸せです。

*1:三才ブックス現代視覚文化研究 vol.4久保内信行氏「ソラカケはどうしてこうなったのか」など参照

*2:『エヴァ』から『ヱヴァ』までのアニメ十選。- 帰ってきたへんじゃぱSS」「過去になされたゼノグラシアに関するやりとり」など

*3:f:id:turnX:20181124094801j:plain

*4:グダちん氏のような接点はありませんでしたが、ネット越しの同世代のオタの死に責任を取れないという辛さの一事例として忘れがたく、他にも昔多少観測し合っていたAngel Beats!アイコンのブロガーの方が亡くなったことに後から気づき、お前消えるのか、という冗談に後ろめたさを感じました

カスタムキャスト / まぶらほ

  『カスタムオーダーメイド3D2』のキャラメイクシステムを流用したスマートフォン向けVtuberアプリ『カスタムキャスト』がリリースされ、とりあえず好みの美少女を作ってみる人がタイムラインに増えますと、配信者の手軽に纏ったエロゲ身体が公共空間に氾濫する近い未来を想像し、ぼんやり言い難い気持ちは覚えました。

 身体とはそもそも性的なものである、という大前提に立ち返れば羞恥も何もありませんが、ディープなアダルトコンテンツに発祥する人工身体が文脈ぶった切って全年齢の近接市場に乗り出すことに関して、忸怩を感じない筈もないというユーザー実感は、一応表明しておきたいと思います。

 とはいえ、2016年当時は10万円強のHTC Viveと強いグラボに加えて、連動オナホ搭載*1の『カスタムメイド3D2 with Chu-B Lip』やメイドさんの乳を撫ぜるためのLeap Motionまで購入し 、現状では死ぬほど面倒なVRエロゲ(とお釣りで来た内蔵Vtuber)環境の構築に率先して励んだ結果、「自分の欲望はセックスロボットを待つまでもなくバーチャルセックスで事足りる」という確信に生き急いだ人間としては、人類遅れてるな、ヌルい遊びやってないで早くこっち来いよ、で済ませられるところではあります。

 ただ、倫理の不足したプラットフォーム企業の管理下、技術による身体観念の変容を個体なりに内省する余裕も失われた状況において、利便性やコストパフォーマンスといった工学的価値に美少女表象の意味が回収され尽くしてしまうのであれば、世間以前に自分自身を許し難いので、個人の幽霊的肉欲を成立させている条件やその自己認識に関しては、当ブログにて執拗に掘り続けていく方針です。

 あと、多分総計50人以上のメイドさんを作って一人でやりこんでいるわりに、人の作ったメイドさんとは予想以上に外見の一致を見ない*2、という人間の幻想の個別性の明証、共有と表裏の断絶、交換不可能なファンタズムが無数のシミュラークル(爆)の背後に現出する*3、他者としてのオタ-美少女認識の限界を生きられるがために、自分はカスタム系3Dエロゲが好きなのかなと再確認され、厄介な中年男性Vtuberが増えてくれればなお嬉しいです。

 存在の豊穣に比して解釈が圧倒的に不足しており、美少女表象の背後にある社会的文脈や賭けられた魂のざっくりした共有すら困難である、という問題の深化については今更何も言えない気分で、うっかりキズナアイ氏の件とかも目に入れば、せめて政治的言説では掬いきれない領域があり、それは明瞭な言語化を拒むほどエグい次元に達して久しい、というオタの気持ち悪い切実さの表現ぐらいは、書いたり読んだりしたい気分が続いています。
 
 要するに、夢想を断念して行動の人の実践的な意志を持つことだけが、現実世界に触れる手段というわけではないということなのだ。恋人たちの世界は、政治の世界に劣らず真実なのである。実存の総合性を飲み込んでさえいるのだ。これは政治にはできないことである。そして恋人たちの世界のさまざまな特徴は、実践的活動の断片的でむなしい世界の特徴とは異なる。それらは、隷属的に縮小される以前の人間の生の特徴なのである。この生と同様に恋人たちの世界は、存在したいと貪欲に力強く欲する意志に期待どおりに応えるひとまとまりの偶然から作られる。
 P.23
魔法使いの弟子

魔法使いの弟子

 
 

 私はキャラクターの存在論的な娼婦性を物語の地平で直截に体感できる俗悪な作品が好きなので、主人公の強大な魔力を秘めた精液に美少女が群がるという設定のハーレムラブコメアニメ『まぶらほ』(2003-04)を、秋風につられて先日完走してしまいました。

 2004年頃と言うと、自分はまだ深夜アニメに憧れを抱いていた時期で、VHSで録画した『GIRLSブラボー』の乳揺れ作画をループ再生してオナニーしていた記憶があります。

 ヒロインに好かれる理由が精子しかない主人公が自棄になって魔力を使い果たし、肉体を消失して幽霊になるのですが、なぜか霊体のまま普通に登校して「自分はもうセックスできないので構わないでください」と鬱屈し続ける2クール目が死ぬほど好きで、あと温泉が干上がったところから球場が現れて「温泉回と見せかけた野球回」だった第9話も、原作が天才なのか白根秀樹氏が天才なのかよく分からなかったです。

  「ヒロイン連中の身体に付着した主人公の肉体の灰をかき集めると主人公は蘇生できるが、代わりに記憶を喪失してしまう」という突然霊的な『どろろ』みたいになった難しいコンフリクトの下、幽霊派の中原麻衣氏と肉体派の生天目仁美氏が相争った果てに、なぜか記憶と肉体を両方取り戻した主人公が10人ぐらいに増殖して各ヒロインに割り振られるという結末が素晴らしく、力技でオタ霊肉二元論を突き抜けた名作かと思います。


 美少女表象が所与の文化共同体の精神的統合ではなく、多声的な闘争と矛盾の磁場という様相を強める昨今、諸個人が背負ってしまった歴史性を死守してその最果てに居直るにも大変な労苦が伴われ、人生を終わらせるにはdアニメストアがあれば十分かもしれません。

*1:洗浄が手間なのですぐに手淫に立ち返りましたが、5ちゃんのVRエロ総合スレにおける「等身大ぬいドールの頭部を切り落としてキス用オナホを装着する」等の触覚特化型ダッチワイフの発明は最高と思われ、自分はそんなものばかり面白がっているせいで、この趣味をアングラポルノとして語らざるを得ないようです

*2:『カスタムキャスト』のカスタム自由度が現状低いという事情はあります

*3:生きた貨幣

最近のキャラクター蕩尽

ドリクラ

 発売当時は『ラブプラス』に操を立てて触れなかった『ドリームクラブ』シリーズを一昨年からちょくちょくとプレイしているのですが、飲酒画面で実際に安ウィスキーを舐め遅々と進まず*1、楽曲とモーションと肉感が良すぎてダンス動画ばかり何時間も凝視してしまい、アイリさんを完璧な生物と感じたので今年なぜか発売されたソロアルバムも購入しました。

 ボカロ感強めの寄せ方で、壊れた酔い歌唱をループした後では食い足りませんでしたが、ともかく細々とでも展開が続くと期待は増し、VR対応の新作でバーチャル泥酔するまでは死ねないなと思います。

 VRエロゲで「ご主人様」と呼ばれ過ぎて「お客様」の距離感がかえって心地良く、アイマスシリーズという楽園を相対化するためにも、ドリクラの言い繕いようのない政治的な正しくなさと洗練されたオジン臭い下品な快楽が切実に要求されてしまい、「歌舞と酩酊と娼婦に人生が尽きる」という確信に童貞のまま到達したことに難儀している近頃です。

「凍えた肉球に寄り添う微かなタマタマ」という歌詞がシュルレアリスティックです。(14:10)

 音楽と性的興奮のリズムを同期させるほど極めてはおらず、たまにエロMMD動画を観ても消音して運動イメージだけに集中するタイプなのですが、美月氏フラジャリティにはがっつり参ってダンスは当然、飲酒画面で見つめ合うだけでも射精してしまう自分にへこみ、『キラキラハッピー★ ひらけ!ここたま』が同じう高橋未奈美氏の主演なので、責任を取って観ようと思います。

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 こころさんのように心労で死ななければいいのですが

 アイマス

 最近デレステで喜多日菜子氏に声が付き、最初のSSRを14万円で引いて*2ファン数200万人超まで付き合い続けている身としては、何かオタ文章でも書くべきかなと思ったのですが、画面の中の女の子が可愛すぎることよりも画面の中に入れてしまったオタの生き方こそが大問題であり、あるキャラクター個体への愛着よりは、個体から個体への移行の仕方をこそ記述したいと考えています。

 デレステ初期はCVの付いていないキャラに拘り、「声が無いのに確固たる肉体はある」ことに新鮮なポリゴン美少女体験を求めた人形愛者だったのですが、質量共に狂った視覚像の氾濫するこの時代に、最後の欲望の対象、つまり情報やシステムに還元され尽くされない肉体の唯一性は声の領域に宿ると思われ、人工身体から声優に超越をずらすオタ回路も認識内に並走させています。

www.nicovideo.jp 喜多日菜子氏のような妄想キャラは観念奔逸たる自らの理想自我として全般好きで、『アイドルタイムプリパラ』の夢川ゆい氏*3はもちろん、『我が家のお稲荷さま。』アニメ版の佐倉美咲氏も忘れがたく、あと『緋弾のアリア』白雪さんのキャラソンを未だに聴いてしまいます。

 伊瀬茉莉也氏は『殺戮の天使』が異様に艶っぽくてすげえと思いましたが、高橋美佳子氏は最近飢餓感があります。

 ゆめかわなパジャマ姿の中谷育氏を17.3インチの縦画面で踊らせ見つめ合い続けていると、最悪の形でシリーズの上澄みをすくう罪悪感が著しいので、11年間無視し続けた初代アイマスニコマス文化を勉強すべく、初めてニコニコのプレミアム会員に入りましたが、アイマス楽曲が全部で何百曲あるのか数え切れず聴き切れず、心が折れています。

プリコネ

 対応機種の少ないデレステARをやりたいがためGalaxy S7のジャンク品を買ってしまい、自然ソシャゲを漁った中では『プリンセスコネクト!Re:Dive』が声優ゲーとして継続可能で、『ろこどる』以来ボンクラ魂をそそり続ける伊藤美来氏演じる銀髪キャラ・コッコロちゃんは、舌の上で転がるような名前の響きとお慕い甘やかしノリがたまらず、VRエロゲのせいで想像力の枯渇した中年オタでも妄想オナニーに供し得ることをここに告白しておきます。
 
 『ちおちゃんの通学路』ロス*4大空直美氏の男の娘キャラも沁み、『つぐもも』その他のこまっしゃくれ感と緒方智絵里氏のダダ甘フラジャイルとをなめらかに変転させる奇跡の結節点として、『のうコメ』箱庭ゆらぎ氏の甘い小生意気が今になって価値を増すように感じています。

www.nicovideo.jp 木戸衣吹氏の変わらないチープさは、『おにあい』と『エロマンガ先生』を筆頭に、若い身空にドープなオタの欲望を背負い込ませてしまったことへの贖罪として引き受けたいところがあり、ミリシタでの音痴演技には一周回った凄みも感じます。

 『のうコメ』以来欠乏気味な辻あゆみ氏の金髪ロリにも、『極上生徒会』まで遡る最高のアニメ体験の数々が振り返られ、引き締まった明瞭さと快い粘り気の両立した植田佳奈氏をここまで堪能できるのも、『学園アリス』か『ぺとぺとさん』以来かと思われます。
 
 高森奈津美氏のキャスティングが快活系に偏る傾向に不満感は募りますが、小清水亜美氏と原紗友里氏は気弱系で快楽度数が高く、浅倉杏美氏をベタなエロキャラに振っているのも嫌とは言えず、日高里菜氏も小倉唯氏も結局こってり甘いロリに振るのが正解とも認めてしまえば、洪水のような美少女群で無限に射精可能な状況に生きることをあえて選択してしまったわが行状を糊塗するために、しばらくはバタイユに集中したい気分です。
 
 いずれにせよ、至高なものは、守ることのできないものなのだ。至高なものを守ろうとすると、至高なものを裏切ることになる。だから、人間を価値あるものにしているもの、人間の名誉、人間の尊厳は、アンドレ・ジィドが言うように、犬の餌なのだ。

 私のなかには、至高なものの廃墟しかない。

(P.140「取るか棄てるか」)

ランスの大聖堂 (ちくま学芸文庫)

ランスの大聖堂 (ちくま学芸文庫)

 
 

 もちろん『若おかみは小学生!』を観に行きたいのですが金が無く、『フリクリ プログレ』こそガイナックス的なものに対する苛立ちに駆動され続けた青春に蹴りを付けるために観に行くべきかと迷いますが、『プリンセスメーカー』が難しすぎてどうしても娘を娼婦にしてしまうことの責任を取るために『ぷちぷり*ユーシィ』を見たほうがいい気もしますし、エロメイド服の利便性に落とし前をつけるために『これが私のご主人様』も消化しておきたく思われ、『ウテナ』と『フリクリ』と『トップをねらえ2!』で足踏みするような榎戸洋司ファンへの不信感が『忘却の旋律』を忘れがたい作品にしているとすれば、『少女歌劇レヴュースタァライト』の軽薄さに苛立つのも当然でした。そのあたりを消化してあるがままの今を、徹底した表層性に見える時代を肯定するためにオタ活動は続けたいのですが、しょうもなさに死ぬようなエロス的現実の記述も自らに義務付けたいところです。

 バーチャルセックスに飽きたあとは美少女になって歌って踊るのが最後に残ったオタ享楽の可能性かと思うのですが、『カスタムメイド』シリーズは下半身がどっしりしたエロゲ体型ゆえに母性を託しやすくもダンスが映えず、あとマルドロールちゃんは大画面でデレステをやりすぎて北斗の拳みたいになり、中指の筋肉が引き攣っただけでもやる気がなくなる子なので、おとなしく土方巽でも読みます。

*1:インタラクティブ飲酒システム

*2:直後にスカウトチケットが実装され、ガチャ文化に翻弄される主体の無力さと陶酔の味を初めて知った

*3:諸貧困ゆえ、寝て起きて米ばかり食べている神秘主義者なので、やる気・元気・寝起きなこめかわアイドルの全存在が沁みます

*4:『邪神ちゃんドロップキック』を喪った悲しみも深く、最近アニメの最終回が辛い

ヴァルター・ベンヤミン『陶酔論』

陶酔論

陶酔論

 

 被験者は机の上の壜のかたわらに丸まった紙屑があるのを見て、これを嬉しそうな声で《球たまちゃん》とか《立体鏡みたいな球たまちゃん》とか《立体鏡ちゃん》とか言う。(P.164)

 薬に対する猜疑心がまた強まった。被験者は《こんなもの、薬の効果じゃない》と言い、再度軍隊口調で《静粛に!》と言った。それから再度丸まった紙屑を見て、《おいで、球たまちゃん》と言い、《球たまは丸まる》、《丸まる球たま、まあるく、まんまるく》と言った。(P.165)

 被験者は今では薬の作用をはっきりと認めるようになった。このようなことを言うようになった――《メルク商会は実を上げた》。《僕にはイメージが一杯の演習場がある》。《イメージが一杯のテンペルホーフ飛行場がある》。あるいは《小部屋ちゃんと薬とを足すと、イメージが一杯のテンペルホーフになる》。(P.167)

 紙の上を滑る鉛筆の音が、被験者には《絹の上を滑る音》に聞こえる。《横滑りちゃん》――この語が何度も繰返される。(P.170)

 

 ベンヤミンちゃんかわいい。

 

 ウサミンよりベンヤミン

 

 (ウサミンも、いいよ!)